消したい記憶

 蝉の声が空気を揺らす七月下旬、僕たちはいつも通り二人で帰路に就いていた。あれから数か月。結局記憶が戻ることは一度もなかったが、水根と、そしてなにより愛里さんと過ごす時間は、今もなおなぜだか親しみ深かった。だから、お医者さんの勧めで、僕たちは同じ時間をたくさん共有していた。

 だが、僕にとってそれは口実でしかなかった。むしろ、今を壊してしまうかもしれない過去の記憶を、僕は思い出したいと思わなくなっていた。記憶がないという理由を伴って、親友と、そして愛里さんと一緒に過ごすことで、僕はただ、今を楽しみたかったのである。


 「玉三郎君、今日はどこへ行く?」


 僕らは一緒に帰ると、必ずどこか思い出の場所へ出向くことになっていた。その思い出はもちろん全て愛里さんのものだったが、僕にはないそれを、他の誰でもない愛里さんから聞くのが、好きだった。彼女の思い出に触れることで、失われた僕の思い出もまた、きらきらと輝きだすような気がして。


 僕が、愛里さんの家のどこかがいい、ということを伝えると、愛理さんは右手でOKサインをとって、ニコっと微笑んだ。


 「いつか必ず、玉三郎君の思い出も聞かせてね。」


 僕は思わずドキッとした。記憶を取り戻さなくていいなどと思っていた自分が恥ずかしくなる。


 次第に見慣れた光景が見えてきた。愛里さんの家だ。さて、今日はなにを聞かせてくれるのだろう。


 「でも、だいたい家は紹介しちゃったんだよね。近くでなにかないかな。」


 首を傾げる彼女に先行して、僕はベランダへ向かった。その居心地のいい雰囲気は、あの時から何一つ変わっていない。


 思わず深呼吸をしていると、僕の目は自然と、この前の小さな穴へ向けられた。あの時は自分一人くらい通れる穴かと思ったが、こうして見ると、とても人が通れるほどの大きさには見えなかった。


 「そういえばあの穴、なんで空いているの?」


 僕が何の気なしに呟いた一言に、なぜだか答えは返ってこなかった。不思議に思って後ろを振り返ると、愛里さんは顔を下に向けていた。表情が見えない。


 僕が焦って名前を呼ぶと、愛里さんは我に返ったようにビクッと体を震わせたが、顔は俯いたまま声を発した。


 「ごめんなさい。ちょっと昔のことを思い出しちゃって。」


 普段は手に取るようにわかる愛里さんの考えが、今は何一つわからない。


 「ごめん、もうこの話はやめよう。」


 今の愛里さんを見て、僕の口からは自ずとそんな言葉がこぼれる。やはり、思い出したくない記憶など、そのままにしておいた方がいいに決まってる。

 しかし、僕の思いとは裏腹に、彼女は後ろめたそうに口を開いた。


 「記憶を失っているあなたに、贅沢に記憶を消したいなんて言えないよ。それに、いつまでも引きずってちゃダメだとはずっと思っていたから。」


 愛里さんのこんな顔は初めて見た。それでも、話をすることが愛里さんの望みなら、僕はそれを聞いてあげたい。


 「無理は、しないでね…。」


 その言葉がまるで届いていないかのように、愛里さんは話し始めた。その目は僕の方を向いていない。僕がどんな様子で話を聞いているか、きっとそれは愛里さんにはわからないだろう。


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