玉三郎君

 …昔、私の家には一匹の猫がいたの。名前は玉三郎。皆は彼をタマって呼んでいたけど、私はずっと玉三郎君って呼んでた。


 両親は共働きで、兄弟もいない私にとって、彼は紛れもない家族だった。言葉なんて通じないってわかっていても、毎日学校であったことを話したり、相談したりしてた。そして、休日には玉三郎君も含めた家族四人で遊んだり、どこかへおでかけしたりして、それだけで、私は幸せだった。


 けど、そんな日々は一瞬にして奪われた。ある日、私が家に帰ると、玉三郎君がいなくなっていたの。私はすぐに家中を探し回ったけど、彼はどこにもいない。だけどそんな中、その穴を見つけたの。ベランダを囲っている柵に空いた、ちょうど猫が一匹通れるくらいの穴。その時私は、ここから玉三郎君が逃げ出したのだと理解した。

 でも、帰ってきた両親と三人がかりで探しても、彼は見つからなかった。


 日も落ちてきて、もう彼は見つからないんじゃないか、会うことはできないんじゃないかと、私は涙が止まらなくなっていた。でも、そこで奇跡が起こったの。


 「愛里!母さんがタマを見つけたみたいだよ!」


 お父さんの声を聞いて、私はきっと、心が通じ合ったんだって、そう思った。私とお父さんはすぐに、別行動していた母の方へ向かった、浮足立つ気持ちを抑えて。


 でも、そこで待っていたのは、元気な二人の姿ではなかった。


 お母さんが事故に遭った。多分、突然道路に出た玉三郎君を庇うために。


 倒れるお母さんにすり寄る玉三郎君。しかし、お父さんはそれを跳ねのけた。すぐに救急車が呼ばれたが、お母さんは助からなかった。


 それから、お父さんはお父さんじゃなくなった。


 怒りの矛先は、真っ先に玉三郎君に向けられた。お前さえいなければ、お前が代わりに死んでいたら、お前が…。そう涙を流しながら怒る父も、玉三郎君も、とても見るに堪えなかった。それから数日後、父はついに彼に暴行を始めた。

 私は、このままじゃ彼は殺されると思った。誰かに頼っても父に見つかると思った私は、その穴から出られる路地裏に、彼を置き去りにすることにした。今思えば本当にバカだよね。ちゃんと大人に頼ればもっといい方法があったはずだし、なにより猫は、それくらいの距離だったらすぐに家に戻ってきてしまうのだから。

 けれど、玉三郎君は戻ってこなかった。何かを察したかのように。


 それからすぐに、父の心の傷の深さを察知した親戚と公機関によって、私は父と別居することになった。それ以来、高校生になってこの街に戻ってきた今でも、私は父と会っていない。


 そんな時、そう、あの子と同じ名前のあなたに出会ったの。それはきっと、って玉三郎君どうしたの!ねえ、大丈夫!?



 私が出した手は、胸を押さえ苦しそうにしていた彼によって振り払われた。ちょうど、あの時玉三郎君を跳ねのけた父のように。


 こんなことは初めてだった。私はただ呆然と、彼の後姿を見つめることしかできなかった。

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