幼馴染 Side:フェリシア
「遅かったか……」
公爵様と2人で城を歩いていると、そんな男の人の声が聞こえてきた。
パーティーでの一件から外に出ることが恐ろしくなってしまっていたが、公爵様と一緒なら外出できるようになっていた。
彼はいつも私を、私だけを見て、思いやってくれる。
それが私の心を少しずつ、癒してくれていた。
この日も発明品を王様に献上しにいくという彼に誘われて、城に赴いていた。
声が聞こえたものの、私に声を掛けるような人間は王城にはいないはず。
そう考えて、気にせず歩き続ける。
「フェリシア!」
だが、声とともに、腕を掴まれた。
驚いて振り向くと、背の高い男の人が私のことを見下ろしている。
がっしりとした身体に、目が覚めるような赤色の髪。精悍な顔つきの男性は、確かに私の名前を呼んだ。
だが……私は、まったくその人のことを知らなかった。
戸惑っていると、私の腕を掴む男性の手を、公爵様が振り払った。
そして私とその男性との間に体を滑り込ませると、立ち塞がるように男性に対峙する。
その背中から、私のことを守ってくれたのだというのが伝わってきて――ほっと、強張っていた身体から力が抜けた。
「私の妻が、何か?」
「ああ、急にすまない。驚いたよな」
にこりと微笑む公爵様。
その背中越しに様子を窺っていた私を見て、男性が申し訳なさそうに眉を下げた。
先ほどは急に腕を掴まれたことに驚いて、少し怖いと感じたが……苦笑している姿を見て、その印象が薄らいでいく。
身体は大きいが、優しそうな目をした人だ。
「怖がらせるつもりはなくて……幼馴染に久しぶりに会えて、嬉しかったんだ」
「幼馴染?」
「あれ? 覚えてないか?」
思わず聞き返した私に、男性がずいと身を屈めてこちらを覗き込んでくる。
瞳も鮮やかな赤色で、きらきらと輝くそれに吸い込まれそうになった。
男性は私を見つめながら、不思議そうに首を傾げた。
「小さい頃、よく一緒に遊んだだろ」
「ええと、……すみません」
そう言われても、まったく思い出せなかった。
小さい頃からあまり、友人は多くない。
よく一緒に遊んだ友人など数えるほどで……その中には、彼はいなかったと思う、のだが。
しかし小さい頃の記憶である。
私が忘れているだけだったら申し訳ないと、縮こまることしかできなかった。
人懐っこそうな瞳でこちらを見つめている彼に、また「すみません」と小さく呟いた。
「あー、いや。俺、結構背伸びたからかもな」
彼が自分の顎を指で摩りながら、うーんと唸る。
身長は関係なく、こんなに目立つ容姿の知り合いがいたらきっと忘れないと思うのだが……子どもの頃のことを全部覚えているかと言うと、自信はなかった。
「失礼、我々はそろそろ……」
「まぁ、そのうち思い出すか」
暇乞いをしようとする公爵様の言葉を遮って、男性がさっぱりと言い切った。
そして公爵様を通り越して、私に向かって右手を差し出した。
「俺はエクス。エクス・デ・ルータニア」
その名前に、目を見開いた。
知り合いだからではない。
この国の貴族なら誰でも知っているべき名だったからだ。
エクス・デ・ルータニア。
このルータニア王国の第三王子の名前だ。
他国に留学に行っていると聞いていたが、お帰りになっていたのか。
慌てて淑女の礼を執り、頭を下げる。
「し、失礼しました!」
「気にしないでくれ。俺から声をかけたんだ」
にこやかに、白い歯を見せて笑う王子殿下。
日に焼けた肌に、白い歯が眩しい。
留学も軍を統括する勉強のためだという話だったのを思い出した。
「失礼、王子殿下。もう妻を解放していただいてよろしいですか?」
「ああ、引き止めて悪かったな」
公爵様が言葉をさし挟む。
表情こそいつもの優しくにこやかなものだが……彼と一緒に過ごす時間が増えたからこそ、私には彼がこの場を立ち去りたいと思っているのが分かった。
今度は王子殿下も言葉を遮ることなく、片手を上げて公爵様に応じる。
去り際、王子殿下は私に向かって手を振りながら、微笑んだ。
「またな、フェリシア」
その言葉がまるで、親しい友人にかける言葉のようで……私はつい気になって、何度も王子殿下を振り向いてしまった。
「フェリシア」
後ろ髪を引かれる私の名前を、公爵様が呼ぶ。
彼の長い指が、私の手首に触れた。
そのまま流れるように、彼の胸に引き寄せられる。
突然距離が近づいて、どきりとしてしまう。
公爵様がするすると私の手の甲をなぞり、指を絡める。
どこか妖艶なその手つきに、心臓の鼓動がどんどんと早くなっていった。
さらりと、透き通るような金色の髪が私の目の前に垂れる。
「王子殿下と、知り合いなんですか?」
その彼の口から出てきた声音がどこか拗ねた子どものようで、ミステリアスな外見とのギャップに面食らう。
眼鏡の奥から金色の瞳で心配そうにこちらを窺う眼差しが何だか可愛らしく思えて、ついふっと笑ってしまった。
「すみません。心の狭い男と呆れましたか?」
私の様子を見て、彼がばつの悪そうに唇を尖らせる。
黙っているとミステリアスで、話すとエキセントリックで変わり者。
そんな彼が時折見せる、子どものような一面。
私はその表情にめっぽう弱かった。
彼がそんな顔をするのは、私にだけなのかも――と。
いつしかそう感じて、より一層、彼を愛おしく感じるようになった。
年上の男性に、「可愛い」なんて言ったら、失礼かしら。
「たとえ呆れられても――あの男が貴女の手に触れたことを妬んでしまう」
公爵様が、私の手をさらに引き寄せた。
そしてそっと、私の手の甲に口づける。
すっと通った鼻筋に、長い睫毛。
彫刻のような美しい姿に、見とれてしまう。
「忘れないでください。貴女は今、僕の婚約者です」
公爵様の眼差しが、まっすぐに私を射抜く。
一度収まった胸の鼓動が、またどきどきとうるさく騒ぎ立てた。
「貴女に触れるのを許すのは、僕だけにしてください」
「もちろんです」
にこりと笑った公爵様が、私の手を自分の腕に捕まらせた。
そのまま、ゆっくりと歩き出す。
彼を見上げながら、私も寄り添って隣を歩いた。
「あの。先ほどの王子殿下のことですが」
「……気になりますか?」
「はい。私、まったく覚えていなくて」
「なるほど」
私の言葉に、彼が顎に手を当てて頷いた。
ふと気が付いた。転生者であるらしい彼は、時折未来のことを言い当てる。ということは、過去のことも?
そう思って、彼に問いかけた。
「あの、公爵様は何か、ご存じですか?」
「僕ですか?」
公爵様がぱちぱちと目を瞬いた。
少し私から視線を外して、何かを思い出すような仕草をする。
だが、彼はやがて首を横に振った。
「いいえ。僕の知る限り、貴女が王子殿下と親しいなどということはありませんでした」
「そう、ですか」
「……どなたかと勘違いされているのかもしれませんね?」
「そうかもしれません」
今度は私が考え込む番だった。
確かに公爵様の言う通り、私以外の誰かと勘違いしているのかもしれない。
王子殿下本人も、子どもの頃は今と雰囲気が違っていたと言っていた。
私も成長するごとに少しずつ変化があったはず。
今の私を見て想像する子どもの姿が、私本人であるという保証はないだろう。
だが、それでは名前を言い当てたことの説明がつかない。
「そんなことより、フェリシア」
悩んでいる私に、公爵様が声を掛ける。
気づいたら馬車が目の前だった。いつの間にか城のエントランスを出ていたようだ。
つい考え事に夢中になっていた。道中で知り合いに会っていないと良いのだが。
公爵様のエスコートで、馬車に乗り込む。
「来週のデート、本当にピクニックでいいんですか?」
「はい」
彼の問いかけに、頷く。
本当は観劇や音楽鑑賞をお願いするのが、貴族の女性としては正しいのだと思う。
だが私はあの一件から、人が――特に貴族がたくさんいる場に出向くことが、怖くなってしまっていた。
城には皆自分の用事があって来ているし、出入りや往来も激しい。
公爵様と一緒なら登城は出来るようになったものの……夜会にはまだ、一度も行けていない。
いつかはと思うけれど、「焦らなくていい」という公爵様の言葉に甘えている。
演劇場はどちらかというと、パーティー会場に近い印象がある。
観劇に来ている貴族同士が互いに挨拶をしたり、目を光らせたり、噂話をしたり。
もとからさして得意ではなかったが、貴族の妻になるのだからと自分を殺して、貴族らしく振舞おうと努めていた。
その努力がすべて水泡に帰してしまった今、ぷつんと意志の糸が切れてしまって――ますます、足が動かなくなってしまっていたのだ。
「人がたくさんいるところより……景色が綺麗なところの方が、気持ちが安らぐので」
「そうですか」
公爵様がやさしい微笑を浮かべて頷いた。
私の希望を聞いてもらってしまったけれど、公爵様はそれでよかったのかしら。
ふと不安がよぎって、彼に問いかける。
「公爵様は、他に行きたいところが?」
「いえ。貴女と一緒なら、僕はどこでも楽しむ自信がありますから」
公爵様は隣に座る私に愛おしげな眼差しを注ぎながら、目を細める。
公爵様がくれる愛の言葉はいつも、やや大げさなくらいストレートだ。
ついつい恥ずかしくなって、頬が熱くなってしまう。
だが、今の私にはそれが、たまらなく嬉しいことでもあった。
「お恥ずかしい話、インドア派なもので。一人だと研究に没頭して家から一歩も出ない……なんてこともよくありますし。貴女に連れ出してもらえて助かっています」
悪戯めかして笑う公爵様。
こうして、私が気後れしないように気遣ってくれる。「我儘を言っていい」のだとそう思ってくれているのが伝わってきて、胸があたたかくなった。
「愛しいフェリシア。僕の太陽。青空の下で見る貴女は、いっそう美しいことでしょう」
公爵様がにこやかに言うものだから、結局あたたかいでは済まなくなってしまった。
〇 〇 〇
公爵様と二人で、王都から離れた丘にやってきた。
馬車を降りて、膝の上に置いていた帽子をかぶる。
視界いっぱいに広がる緑の草原と、遠くに見える林の木々。青い空に穏やかな日差し。
真ん中をここまで通ってきた道が白い帯のように横たわっていて、まるで絵画のようだった。
胸に空気を吸い込むと、太陽と草の香りがした。
子どもの頃の屋外での遊びというと、お父様たちの狩りに付き添うことが多かった。
子どもたちは狩りには参加せずに、子どもたちだけで遊んだり、簡単な食事をしたり。
屋外で食事をするのが子ども心にはとても楽しくて、今回公爵様にどこに行きたいかと聞かれたとき、お願いしてみたのだ。
公爵様も狩猟には興味がないそうなので、ただ景色の良いところでお茶を飲んだり、話をしたり。
のんびりと過ごす予定になっていた。
公爵様の手を借りながら、使用人たちが準備してくれたラグの上に腰を下ろす。
「馬車だとやはり時間がかかりますね」
着くや否や草を喰み始めた馬を眺めて、公爵様がため息をつく。
私の隣に腰を下ろすと、次の瞬間には生き生きとした表情で語りだした。
「今、新しい馬車を考えているんです」
「新しい、馬車?」
どういうものか想像を巡らせてみても、まったく思いつかなかった。
「新しい」というからには今の馬車より、早かったり便利だったりするのかしら。
「ええと。馬以外の動物に引かせるんですか?」
「いえ。蒸気を動力にしようかと」
公爵様が新たな発明について話してくれた。
石炭を燃やして、その蒸気でピストン? を動かすのだという。
彼の発明はいつも私の想像をはるかに超えているので、聞いていることの半分も理解できない。
それでも彼が楽しげに次から次へとアイデアを生み出すのを見ているのは、好きだった。
生み出すと言うより……前世の記憶にあるものを、再現する方法を探しているのかもしれないが。
馬車の中でもいろいろな話をしたのに、彼はまだ話し足りないといった様子で……聞いている私まで、うきうきとした気分になる。
前に屋敷の一部を爆発させてしまったと言っていたので、そういった危険なことはできればやめてほしいけれども。
話の合間に、使用人が淹れてくれたお茶を飲む。
さやさやとやわらかな風が訪れて、髪を揺らした。
咄嗟に帽子が飛ばされないように押さえると、切れ目なく話をしていた公爵様も、眩しそうに目を細めて空を見上げて口を噤んだ。
本人もインドア派だと言っていたが、こうして爽やかな日差しと自然の中にいる公爵様というのは少し不思議な気がして、つい彼を見つめてしまう。
私の視線に気づいた公爵様が、ごろんとその場に寝転んだ。
そして私の膝の上に、そっと頭を乗せる。
「すみません、研究が煮詰まって少し寝不足で」
「え?」
「なんて。今日が楽しみで昨晩眠れなかっただけですけど」
照れくさそうに言って、彼が目を伏せる。
きらきらと輝く金色の瞳が、長いまつ毛に隠れてしまった。
「たまには外に出るのも、いいですね」
彼がぽつりと呟く。
私もそれに頷いて、膝の上にある彼の頭をそっと撫でた。
髪が細くて、柔らかくて。肌がすべすべで綺麗で。
まるで大きな猫のようだ。
草の香りを胸いっぱいに吸い込んで、今度は私が、独り言のように言う。
「子どもの頃……こうして、ゆっくり空を眺めるのが好きだったんです」
「嬉しいです。貴女の好きなものを教えてくださって」
公爵様が目を開けて、私の顔をまっすぐ見上げる。
彼の腕が伸びてきて、私の頬に触れた。
「愛しいフェリシア。もっと貴女のことを、教えてください。これからずっと、長い時間をかけて」
彼の言葉に、きゅうと胸が締め付けられるような心地がした。
私は彼を愛し始めている。
それは確かだが……彼が私に向けてくれるのと同じそれを、返せているのか。
彼から愛を囁かれるたびに、少し後ろめたくもあった。
私を信じてくれた彼を信じたい。
それでもまだ、心の片隅に……あのときのことを忘れられない自分がいて。
そんなものすべて忘れて、彼の胸に飛び込めたらとそう思うのに、現実は言葉で言うほど、簡単ではない。
そんな私に、彼は急がなくてもいいのだと言ってくれる。
長い時間をかけてもいいと言ってくれる。
そんな彼の隣に居られることは、幸せだ。
私は今幸せだと、心からそう思う。
彼の髪を指で梳きながら、そのまま二人で黙って、空を流れる雲をいくつも見送った。
〇 〇 〇
馬車で送っていただいて、エントランスで公爵様を見送った。
部屋に戻ろうかと思ったところで、抱えていた帽子から何かがからんと転がり落ちた。
音の元を辿ると、床に万年筆が落ちている。
拾い上げてまじまじと眺める。
紺色のキラキラと艶のある素材で、「M」の刻印が入っている。
これは……公爵様の?
思い返せば、彼のジャケットの胸ポケットに似たようなものが入っていた気がする。何かの拍子に、私が馬車の椅子に置いていた帽子の中に落ちてしまったのだろう。
今ならまだ、間に合うかしら。
部屋に向かいかけていた足を止めて、踵を返す。
エントランスから外に出て、門に向かって早足で駆けた。
閉じかけた門の隙間から、外に身を乗り出した。ああ、でももう、行ってしまわれたみたい。
次回にお会いするときにお返ししましょうと、門の中に戻ろうとして……
「フェリシア!」
名前を呼ばれて、振り返る。と同時に、肩を掴まれた。
門のすぐ脇に身を潜めるようにしていた男が私に近づいてきていたのだ。
その声も、目の前に現れた顔も。
忘れたくても忘れられないものだった。
あの日、あのパーティーで。
私を捨てた、婚約者。
いや……元婚約者が、そこにいた。
どうして、ここに。
「ああ、よかった。やっと君とふたりで話ができる」
目の前の男が、嬉しそうに、安心したように目を細めた。
何故、よかったなんて言うのだろう。
まるで何もなかったみたいに笑って、声をかけるのだろう。
やっと、って、もしかして、ずっと。
そこで待っていたの?
ぞっと、背筋が寒くなる。
「いつもあの男と一緒だったから、困っていたんだ。でもこうして会えるなんて、やっぱり俺たち運命なんだね」
嫌、来ないで。
そう思うのに、声が出ない。
怖い。
肩を掴んでいる手の力が強くて、痛くて。
それも恐ろしくて、体が動かない。
「フェリシア、あの時は本当にごめん。俺はどうかしていたんだ、まともじゃなかった。全部あの女が悪いんだ、あの女に騙されて、俺は」
どうしてそんなことが言えるんだろう。
簡単に、ごめんだなんて。
それで許されると、本当に思っているのだろうか。
目の前の男が、へらへらと笑っている。
それと反比例するように、肩に触れる指の力がぎりぎりと強くなっていく。
鼓動が早い、呼吸が浅い。
声を上げなければ、助けを呼ばなければ。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
「馬鹿だよな。俺には君しかいないのに。でももう大丈夫、あの女はいなくなった。もう俺は間違えたりしない。だから、俺とやり直そう」
目の前にいる男の声が、まるで知らない言語のように聞こえた。ただただ音声が、耳を滑っていく。
こんな時、毅然とした態度でいられたらどんなにいいか、と思う。
どの口が言うのだと、私にはもう新しい婚約者がいるのだと。
はっきりと言って、その手を振り払って。
使用人を呼んでこの男を閉め出せたなら……きっと少しは気が晴れる。
でも実際には、そんなに上手くは行かない。
笑いながらそんなことを言う男が、あまりに得体が知れなくて。
同じ人間だなんて、話が通じるだなんて思えなくて。
もし私が、この男の意に沿わないことをしたら……何をされるか。
想像がつかない。
息すら上手く吸えない中で、それでも、何とか掠れた声を絞り出す。
「わ、たしには、公爵様が、」
「あんな男なんて、」
「おい、手を離せ」
突如、元婚約者の後ろに現れた人影が、その首根っこを掴んで私から引き剥がした。
人影は私よりも元婚約者よりもずっと背が高くて、がっちりとしていて……そして、夕焼けに燃えるような、赤い色の髪に、目が止まる。
エクス王子殿下が、私と元婚約者の間に立ち塞がった。
背中が広すぎて、目の前から婚約者の姿が消える。
そのことに、まずはほっとした。
視界にいるだけで体が強張って、呼吸すらできなくなって。
そんな自分が情けなくて、仕方がない。
「何だ、お前」
「俺のことを知らないなんてモグリだな」
「っ!? エクス、殿下……?」
「おお、よかった。不敬罪にならずに済んだな」
王子殿下が、口を大きく開けて快活に笑う。
人のよさそうな笑顔は、しかし――一瞬で鋭い刃のようなものに変わった。
「だが、嫌がる女性に無理矢理言い寄るのもまた罪だ」
「む、無理矢理だなんて。俺はフェリシアの婚約者で」
「ふむ?」
王子殿下が自分の顎に手を当てる。
そして、背後の私を振り返った。
真っ赤な瞳と、ばちりと視線が合う。
「フェリシア。こう言っているが」
「ち、違います、その人は、元、婚約者で、」
「ああ」
私が答えると、王子殿下がぽんと手を打った。
「これが件の間抜け男か」
「なっ」
「留学から戻ったばかりの俺でも知っている。婚約者を蔑ろにして不義理を働いた挙句、公衆の面前でおつむの軽さを詳らかにされた、ある意味で哀れな男だと」
王子殿下が大きな口を開けて、からからと笑う。
あまりに豪快に笑い飛ばすものだから、元婚約者も咄嗟に何も言い返せなかったようだ。
「その上、夕闇に紛れて元婚約者を襲おうとするとはな。同じ男として恥ずかしいぞ。別れて正解だ、フェリシア」
私を振り返った彼にそう言われて、少しだけ胸のすくような思いがした。
あの時はショックが大きくて、とてもそんな気分にはなれなかったが――こんなにもあっさり「正解だ」なんて言われると、不思議ともしかしたらそうだったのかしら、と思えてくる。
「違う、俺は騙されて、」
「顔も家名も実績もパッとしないものだから、悪い話ばかり有名になるのだ。きちんと励んでいればこうはならなかったものを……努力と実力不足を他人のせいにしているようでは成長しない」
王子殿下が元婚約者に歩み寄って、その背中を勢いよく叩く。
同じ男であるはずなのに、王子殿下の身体は元婚約者よりも二回りほど大きくて――先ほどまであんなに怖かった元婚約者が、すっかり縮こまっていて、とても弱々しい存在に見えてくる。
威圧感と言うのだろうか、明るく朗らかなのに、凄みのようなものがある。
「フェリシアは俺の友人だ」
肩を組むようにして、王子殿下が元婚約者に顔を近づける。
俯く元婚約者の顔を至近距離でしっかりと覗き込みながら、笑顔で言った。
「これ以上彼女につきまとうなら……俺が相手になるぞ」
「っ……失礼、します、!」
王子殿下が肩を解放した途端に、元婚約者は夕闇の中に走り去っていった。
その背中を見て、王子殿下がため息をつく。
「やれやれ。噂通りの男だな」
「お、王子殿下!」
こちらを振り向いた王子殿下に、慌てて頭を下げる。
相手側に非があることとはいえ、家同士の問題にまさか王子殿下を巻き込んでしまうとは。
本来であれば、お耳に入れるのも恥ずかしいことだというのに。
大したことはしていないからと帰ろうとする彼に何とか頼み込んで、サロンにお通ししてお茶をお出しした。
向かいに座る王子殿下に、改めて頭を下げる。
「助けていただき、本当にありがとうございました!」
「いや。紳士として、騎士として当然のことをしたまでだ」
王子殿下は、そう言ってまた白い歯を見せて笑った。
ほっと安心したところで、新たな疑問が脳裏に浮かぶ。
少し考えてみても答えが分からず、私はそのまま王子殿下に問いかけた。
「ですが、王子殿下は何故ここに……?」
「ああ。君にこれを見せたくてな」
王子殿下が、ジャケットの内ポケットから何かを取り出して、テーブルに載せた。本、のように見えた。
手に取って、表紙を確認する。
そこで小さく息を呑んだ。
私はこの絵本を、知っている。
小さな頃に何度も何度も、繰り返し読んだ絵本だ。
本の世界に迷い込んでしまった女の子が、本の中で王子様と幸せになる。そんなストーリー。
今も私の部屋の本棚には、同じものが大切にしまわれている。
「昔よく、一緒に読んだから。これを見て、思い出してくれたらと」
王子殿下が照れくさそうに頬を掻く。
彼が取り出したこの絵本は、表紙も擦り切れていて、ページにも癖がついてしまっている。
子どもの彼も私と同じように、この絵本を何度も繰り返し、読んだのだろうことがうかがえた。
「あと、ぬいぐるみも一緒だったな。フェリシアはいつも白いうさぎのぬいぐるみを持っていた」
懐かしそうに語る彼の言葉に、目を見開く。
確かに子どもの頃、私にはお気に入りのぬいぐるみがあった。白くてふわふわの、うさぎのぬいぐるみだ。
どこに行くにも持って歩いていたと、お母様から言われたことがある。
私がこの絵本を好きだったことも、うさぎのぬいぐるみを大切にしていたことも、私の幼い頃を知る人間しか知らない。
王城で私の名前を呼んだことと言い、彼が話す「幼馴染」というのは、私のことで間違いないのだろう。
だが、それでもやはり、私は――彼のことを、思い出せなかった。
申し訳なく思いながらも、力なく首を横に振った。
「申し訳ございません。絵本やぬいぐるみのことは覚えているのですが――王子殿下と遊んだというのが、どうしても思い出せなくて」
「……そうか」
彼は寂しそうに眉を下げた。
座っていても分かるくらいに体が大きいのに、それが小さく見えるくらいに落ち込んでいる、ように見えた。
しかし、すぐに顔を上げると、ぱっとその表情から寂しさを振り払う。
「まぁ、本当に小さな頃だから、仕方ないな。君が覚えていなくても――俺にとって大事な思い出だというのは変わらない」
王子殿下が本を大切そうにしまい込みながら、爽やかに笑って言い切った。
直接彼のことを知らない私でも、社交界の噂で聞いたことがある。
温厚篤実な人柄で、騎士の指揮官としての能力も、腕も立つお方だと。
接するたびに、噂は本当なのだと実感するような人だった。
「そういえば、門で何をしていたんだ?」
「あの、公爵様の忘れ物を届けようと……」
「忘れ物?」
今度は私が、手に持っていた万年筆をテーブルに置いた。
王子殿下はテーブルの上と私の顔を見比べて、そして――万年筆を手に取り、にこりと笑った。
「今度城で会う予定がある。俺から返しておこう」
〇 〇 〇
ベッドに向かう途中、本棚から一冊の絵本を取り出した。
王子殿下が見せてくれたのと、同じ絵本だ。
子どもの頃を思い出す。
人見知りで、あまり友達が多くなくて、特に男の子は苦手だった。
お花で冠を作ったり、絵本を読んだり。
連れ出された草原でのんびり、空を見上げたり。
兄弟がいないのもあって、そういう、一人でできる遊びが好きな子どもだった。
だが絵本が好きだと言うのも、ぬいぐるみや可愛いものが好きなのも……最初の婚約をしてから、隠すようになった。
子どもっぽいと思われたくなかったからだ。
少しでも結婚相手としてふさわしいと思われたくて、貴族の娘としての務めをしっかりと果たしたくて。
結婚したら立派に妻としての勤めを果たせるようにと、社交の術も学んだ。人見知りだなんて言っていられなかった。
きちんとした貴族の女性としての振る舞いを覚えて、この世界を生きられるように。
本当は苦手なことも頑張って、本当は好きなことにも蓋をして。
……そうして積み重ねてきた全てがあの日、否定されてしまったわけだが。
あの日から、よく子どもの頃のことを思い出す。
公爵様が私に「何が好きか」「何がしたいか」を聞いてくれるからだ。
その度に、封じ込めていた子どもの頃の自分と向き合うような――押し込めてきた日々を取り戻すような。そんな気持ちがしていた。
だからそんなに仲の良い友達がいたなら、きっと思い出している、はずなのだが。
やはりどれだけ思い出そうとしてみても、朧げな記憶の断片すらも掴めない。
前に王城で会った日、帰ってから両親にも確認した。だが両親も、あまり覚えていない様子だった。
父について何度か王城に出入りしていたことがあるので、その時に知り合っていたのかもしれない、とのことだ。
確かに子どもの頃、王城に行った記憶はあるが――何だか怖いところに感じて、お父様の後ろに隠れていたことしか覚えていなかった。
けれど……エクス王子殿下の様子は、嘘を言っているようには見えない。
あの絵本が好きで仲良くなったなら、きっと大切な友達だっただろうに。
私はどうして、忘れてしまっているのだろう。
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