第2話 なぜ人を殺してはいけないのか
「華さん、ちょっと見ていただけますか? 修理のグラブ、とりあえず指先の紐だけ通してみたんですけど」
「ちょい待て」
ガチャ、ガチャとミシンの大きな音が響きわたる。華さんは野球のスパイクにカバーのようなものを縫い付け始めていた。機械を使うので長い髪を後ろに束ねているが、顔の輪郭がはっきり出ていてもやはり見惚れてしまうような美しさだ。意外と、こっちのほうが幼い印象を受けるかも。
もっと近くで見たくなったので、ぼくは何歩か近付いてみた。
「ミシンは危ねえぞ。離れとけ、もう終わる」
「わかりました」
言うが早いか、本当にもう終わったようだ。右足用のスパイクの爪先部分に今、革のカバーが付いた。
「それって何ですか?」
「P革ってやつだよ。野球の動きは爪先が削れるからな、スパイクを長持ちさせるために付けてる」
「片足だけ重くなったりしないんですか」
「これくらい誤差の範囲。買ってすぐ穴が開くよりは一億倍マシだ」
「なるほど」
「そのグラブ見せてみろ。ふーん、まあ紐の通し方は合ってるな。全体的に締め過ぎだけど」
「使ってると緩んでくるみたいなんで、硬めにしといたほうが良いかな、と」
「締めるべき部分と緩めるべき部分があるんだよ。人生と同じだ」
「深いですね」
「めちゃくちゃテキトーに言ってるけどな」
まあノリだけで喋ってる気はしてたけど、それも平常運転だ。華さんが微調整した上で突き返してきたグラブを動かしてみると、明らかに開閉が軽かった。
「うわ凄い。紐の締め方ひとつでこんなに変わるんだ」
「まあな」
ちょっと得意そうな表情がたまらなく可愛い。華さんのこういう子供っぽさは、とにかくずるい。
「しかし相変わらず、お客さん来そうにないですね」
「今の時間帯、平日はマジ暇だな。おまえ大学って楽しいか?」
「ぼく自身は楽しんでますけど。客観的にみて楽しそうかと言われると、微妙ですね」
「クソマジメに勉強してそうだもんな」
「今のとこは、それが楽しいんですよ」
華さんはスパイクに靴紐を通しながら話しているのに、その手はめちゃくちゃ素早く動いていた。この程度の作業なら眼をつぶっていてもこなしてしまいそうだ。そしてやはり、ぼくが話し終わるより早く作業を完了していた。
「勉強ってどんなことしてんだ?」
「個人的に今熱いのは、倫理ですね。生き方に直接関わってくる気がするので」
「リンリねえ。つまんなそう」
「いやそんなことないですよ。例えば……えーと、『なぜ人を殺してはいけないのか』。どうです? けっこう惹かれる議論かな、と」
「クソつまんな過ぎてビビり散らかすわ。なんだそれ、いいとこの大学生が本気でそんなこと議論してんのか?」
「えぇ……? 予想外の反応だな」
毎度お馴染みの毒舌とは言え、いささか面食らった。そんな問題のある話だったろうか。しかし、それだけに興味深くもある。
「じゃあ華さん的に『なぜ人を殺してはいけないのか』の答えってあるんですか」
「あるわけねえだろ。前提が間違ってんだから」
「前提?」
「そもそも矛盾してるんだよ。本当に『殺してはいけない』なら、殺さなきゃいけなくなる」
「え、どういうことですか」
「めちゃくちゃ単純な議論。例えば生まれながらの殺人鬼みたいな奴が存在してて、そいつは生きてる限り誰かを殺し続ける。また他の例を挙げるなら、命令ひとつで数百万人が消し飛ぶような核兵器を所持した将軍様がいて、まさに今それを実現しようと口を開きかけてる。もしエミがそいつ一人を殺せば、大量殺人は止まり、人々の命は助かる」
あまりにも単純明快だった。
「つまり、どうしたって人は殺されるというわけですか」
「現実にそうなってるからな。そもそも死刑制度のある国で何言ってんだって話」
「うーん。まあ、それでも倫理は必要な気がするんですけど」
「倫理が要らないなんて誰も言ってないぞ。出してきた議題がクソ過ぎたってだけだ」
「そう言われると……」
「まさに子供騙しだな。超低品質の」
「じゃあ、倫理とは?」
「この場合で言えば『殺すか・殺さないか』をあらゆる局面に
「いかに人を殺すか、殺さないか、ですか」
「そう。『人を殺しちゃダメ』なんて、お遊戯室の中でだけ褒めてもらえるようなお花畑の夢物語は哲学に要らねえんだよ。そういう奴は絵本作家にでもなっとけ」
ひどい暴言を吐きつつ、華さんは手に取った次のスパイクの汚れをブラシで丁寧に落としていた。
つくづく口と行動が釣り合わない人だ。殺すどころか、店頭の観葉植物を毎日世話してるのも、ここに座ってる灰色の髪の美女なんだけど。
「あの、華さん」
「何だ」
「ポニーテールだと、いつもより幼く見えますね」
「あ? おまえ殺されたいのか?」
「もう少し生きていたいです。このままで」
「今江君にセクハラされました、ショックで体が動きません、って言い
「それはまずいですね。ぼくが社会的に死にます」
「法に
「ちょっ、どこ行くんですか」
「髪ほどいてくる。ガチで不快だから」
「本当にすみませんでした土下座でも何でもしますお許しください。貴女様こそが倫理でございますゆえ」
「一生そこで土下座してろバカが」
オチがひどい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます