灰色のフィロソファー
みのな
第1話 一石華
「
ぼくの声は届いているはずなのに、名を呼ばれた彼女は視線を自身の手元に向けたまま。しかしそれも仕方ないだろう。この雑然としたスポーツ用品店にはとても似合わない、艶やかな灰色のロングヘアを肩まで下ろした美女は、一心に野球のグラブを修理していた。
「あー、そんなもんJAN見ろJAN。同じだったら同じとこでいい。違ってたら保留しとけ」
「了解です」
JANコードか、なるほど。新人のぼくには学ぶことだらけだ。そもそもスポーツといえば陸上競技と硬式テニスしかやったことがないし、未だ野球とソフトボールの道具すら見分けがついていない。
「品出し一応終わりました」
「あいよ。おつかれ」
「しかし、平日の昼間って本当にお客さん来ないですね。一石さんは店番してて暇な時どうしてるんですか?」
「テキトーに仕事みつけて何かしらやってるよ。あとおまえ私を名字で呼ぶな、気持ち悪いから」
「じゃあぼくのことも『おまえ』って呼ぶのやめてもらっていいですかね」
「あ?」
「はい生意気言ってすみませんでした。今日もお綺麗でございますね」
「私が綺麗なのは当たり前だ。で、おまえ名前何だったっけ」
「
「どう呼んでほしい?」
「え、うーん……」
「そこは悩むなよ。じゃあエミって呼ぶ」
「なんでそんな変なとこ切り出してくるんですか。名字と下の名前のド真ん中じゃないっすか」
「うるさいなエミ。黙れエミ」
正直ぼくの呼び方なんて何でもよかった。一石……いや
「じゃあ、あの、は、は、華さん」
「いや恥ずかしがり過ぎ。そんなん私まで背中のほう痒くなるわ、スマートに呼べ」
「華さん」
「なんだ」
「次は何したらいいですか」
「んー、掃除かな」
「朝のうちに結構やってましたけど」
「そっか。まあ、それならこれ修理してるとこ見て覚えろ」
「見るだけで覚えられるもんですかね?」
「おまえ良い大学入ってんだろ。中卒の私でも出来るんだからおまえ、エミもすぐ出来るようになるよ」
華さんは自称・高校中退の20歳らしい。詳しいことは何も知らないが、ぼくと一学年しか違わないとは思えないほど色々と達観している。
「そこの
「わかりました」
ぼくは真面目な表情をつくり、使い込まれたグラブを拾い上げて眺める振りをしつつ、華さんの横顔を見る。普段ぼくたちに向ける雑な態度とは打って変わって真剣な眼差し。このありふれた世界に、こんな美しいものが存在していいのか。そんなことを考えるほどには美しく、尊い。メイクなんかしていないように見えるけど、流石に素っぴんでこの完成度はおかしい。多分、いろいろ努力してるんだろう。
「なあ。エミは大学で何やってんの? 私、大学なんてオープンキャンパスに忍び込んだことしかないわ」
取り出していたグラブの芯みたいなものを詰め直しつつ、華さんが会話を振ってくれた。店内には最新のポップスが小さく流れているものの、やはり美人とお喋りできるのは楽しい。
「何って、一応あれです。哲学です」
「あー哲学科ね」
「哲学ってご存知ですか?」
「おい。低学歴だってバカにしてんのかそれ」
「いや全くバカにはしてないです。むしろ哲学って何なのか、知らない人のほうがずっと多いんで」
「ふーん。じゃあ面白いこと教えてやろう。哲学者の名前、5人言ってみろ」
「えー、カント、ニーチェ、デカルト、ヘーゲル、ショーペンハウアーとかですかね」
「女は?」
「女性ですか? 今言った中にはいない……ですね」
「女の哲学者は何人言える?」
「えー……」
どこかで聞いたことはあるはずだけど、迷わず口に出てくるような名前が、ぼくの記憶には無かった。
「エミ、なんで誰も出て来ないんだと思う? 女は哲学に向いてないからか?」
「うーん。いや確かに、論理的思考が苦手ってのは有り得るのかも知れませんけど……」
「おい。おまえ実はめちゃくちゃ差別主義者なんじゃねえのか」
「じゃあなんで女性の哲学者がほとんどいないのか、華さんは言えるんですか?」
「端的に言うと、女は男みたいにバカじゃないからだよ」
「えぇ……それこそ差別では?」
「世の中は腐ってるからな。こんなふうに、いくら女が男を殴ってても許されるんだ。男がそれやったら社会的に死ぬけど」
「理不尽もいいとこですが」
「まあそれも男が悪いよ、全部男のせい。男がアホなだけ」
悪口で好き放題殴られているにも関わらず、華さんの顔と声で言われたら何だって許してしまいそうで、そうなるとぼくもやはりバカな差別主義者なのかも知れない、と思う。
「じゃあ『男はバカだから哲学者』っていうのはどういうことなんですか?」
「哲学の諸問題、何でもいいから言ってみ」
「うーん……善とは何か。正義とは何か」
「エミ、その答えは言えるか?」
「いや無理ですね」
「今の時代、誰かそれを言える奴はいるのか?」
「いないと思います。答えが出せるようなものじゃないんで」
「そんなもんをなんで数千年間も、あーでもないこーでもないってやってんだ?」
「それは、哲学ってのは基本的に『過程』であって。『答え』じゃなくて『思考』なんです」
華さんはグラブを丸っこい木槌で軽く叩き始めた。これは油を馴染ませる作業らしい。実に慣れた手つきで、若き職人といった印象だ。
「でもな。エミが言うその『思考』なんてのは、どんな時代のどんなバカな奴でも当然やってるだろ」
「まあ、それは程度によるかも知れませんけど」
「そうしてどんどん思考を掘り下げていくと、凄まじいレベルのアホでもない限り必ず突き当たる『底』があるんだよ。『やっぱりここまでだ、想定してた答えには辿り着けない』っていう」
「底、ですか」
「うん」
「そうなると?」
「そこからは何億年ツルハシで叩き続けようが一緒。底の深さは変わりようがない」
「つまり、男は……」
「死ぬまで楽しくガンガン叩いていられるバカだってこと。その点、女は皆すぐ切り替えるんだ。『この深さを知った上で、どう生きようか』ってな」
「だから哲学の歴史に、女性はほとんど残ってない。そういうことですね」
「うん。反論あったら聞くぞ」
反論と言われても、現に女性一人の名前すら言えなかったぼくは議論の主導権を完全に掴まれてしまっている……あ、そうか。
「今思ったんですけど、華さんみたいな人がこれから世に出てきたら、歴史に残っていくんじゃないですか?」
「おまえなー。まあこれは例え話だけど、おっさん共が集まって楽しそうに『ここ掘ってたら何か出るかも!』って腰とか痛めながらコツコツ穴掘り頑張ってるとこに、わざわざ私が出て行って『やめとけ何も変わらねえよ』なんて野暮なこと言っちゃうと思うのか?」
「言ってても違和感は無いですけど」
「バーカ」
「ここまでの流れ的には確かにバカですね、ぼくも」
「認めるのかよ。じゃあ、私はこの店で何を売ってる?」
「スポーツ用品」
「そのスポーツってのは、毎週同じ場所でボール投げたり蹴ったりして、どこへ辿り着けるわけでもなく、一生あーでもないこーでもないってやってんだよ。老若男女を問わずな」
「あっ。そうだとしたら……」
「それを私が否定すると思うか?」
華さんが、道具に向けていた真剣な目を今度は僕に向けた。眉を上げて、呆れたような表情で。
「華さんは、絶対そんなことしません」
「それはそれで買い被りっぽいけど」
「だってわかりますもん。なんだかんだ言ってても、いつも頑張ってる人を気に掛けてるし、本当にスポーツと、それに関わる人が好きなんだ。って」
「はあ? 黙れ。そんな良いもんじゃねえし」
そっぽを向いた華さんの顔、透き通るような白い肌がみるみる紅潮していく。
「結構ガチで照れますよね」
「うるさい!」
「そういうとこが愛されてるんだと思いますよ。とりあえず口は悪いけど」
グラブがぼくの顔に飛んできた。しかし予測していたため両手で無事にキャッチ成功。
「あ、凄い。この修理したところ馴染んでる。やっぱり華さん、仕事に関しては真面目だなー」
「……だろ。私は凄いからな」
「華さん」
「何」
「まだ全然、ぼくのほうはさっきの話であった哲学の『底』に達してないと思いますし、達したところでどうなるかは現状わかんないですけど」
「だから何」
「また暇な時、こういう議論に付き合ってくれますか?」
「死ぬほど暇だったらな。あークソ、なんでこんな奴採用しやがったんだクソオヤジ。あのハゲ」
「ふふ」
「笑うな。掃除でもやってろ」
「了解しました。ぼくなりに頑張りますんで」
ちょうどその時、入口ドアの開く音がした。
「いらっしゃいませ!」
よく通る澄んだ声が店に響く。作業机をさっと片付け、華さんが接客へ向かう。ぼくもグラブを置いて、彼女に続く。そろそろお客さんが増えてくる時間のようだ。
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