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ドリシラが気合を入れる。全員が
「ドリシラ、死ぬぞ!」ソクラは真剣な口調で、「相手はスープパスタだ! しかも……、クリームなんだぞ……っ!」
「いいんです! 放っておいて!」ドリシラは憂に満ちた顔で、「あなたのためなら、窒息も怖くない」
「だめだ、ドリシラ、早まるな!」
「我が
「ああドリシラ……、ドリシラ……!」
「さようなら我が主人……、ソクラさま……!」
そしてドリシラは死地に飛びこんだ。唇を鍋に当てて、口角を思いきり開いて、舌をぎゅっと下げる。最初の口当たりが触れて、それから
音が鳴った。
ぱっ、こん。
「いや……!」アイリーシャは顔を覆った。「見てられない……、色んな意味で……」
「ドリシラさん!」セリカは有事に備えて水を手に持った。万一のときは、背中を思いきり叩いて、口の中に水を流しこむしかない。「ドリシラ……、さん?」
心配をよそに。
ドリシラはぷはぁ……、と開放的な声を漏らした。
ああ、おいしかった、と。
空になった両手鍋をみなに見せた。
「まさか」タイガは信じられないという顔。「ぱっ、こん。で全部飲んじゃったのか? たったのひと口じゃないか!」
「三人分のスープパスタをひと口で!? うそ……、ドリシラさんの喉に、ブラックホールが……、ブラックホールが……」
ついにアイリーシャが倒れてしまう。
「なんとか飲めましたわぁん。いやぁ、長いベーコンが喉にひっかかって一瞬死ぬかと思いましたけど。なんとかなりましたわね。むこうでお鍋を洗ってきます。お水は貴重、お水は貴重……」
ルンルン、と言った感じで。ドリシラは野芝を歩いてゆく。この
「なんなのこの茶番」
午後三時になる頃には、空は薄暗くなりはじめた。下山の方が体力を使う、とは聞いたことがあっても、いままで実感することはなかった。登りとはまた、別の筋肉を使っているのだな、とタイガは考えた。
「明日歩けるかな、ってレベルだね」
今度は先頭を歩いているタイガが言った。登りとは列が逆である。登山経験者であるソクラが最後を歩き、全体の疲れ具合や、足取りを
ある程度の勢いで進むことができる登りの道とは違う。みなは、ただでさえ疲れている。それに下りの道は危険が多い。たとえば、ぬかるんだ土などは、よほど危ない。
「なーんだか……」だるそうな様子のアイリーシャだ。「本当に下りって、しんどいね」
「登りは、目標がありますもんね」セリカは元気である。「山頂に行くのがモチベーションになりますけど。下は帰るだけですものね」
「それだ……」ふぅ、ふぅ、と息を鳴らしながらサクラが言った。「なんか気が乗らないと思った。それだよ。目標がないからだよ」
「だからこそ、気を引き締めて行くのだよ!」山に慣れているソクラも元気だ。「よし、みんなで掛け声をしよう!」
なんなのその感じめんどくさいこと増やさないでよジジィ、とサクラが早口で畳み掛けるも。意味を成さず。
「イヴァンツデール、ファイ、オー!」
ソクラが大声で言う。
「すっごい恥ずかしい。やめて」
サクラの表情が死んだ。
「えー、それはキツイです。中学校の部活感がすごい」
アイリーシャも苦い口調だ。
「父上。もうすこしなんか、いい感じのなかったんですか」
タイガも不服の様子。
「ささいな羞恥心など、この際気にするな! 山はすべてを受け入れてくれる! さぁ、みなで声を合わせて。イヴァンツデール、ファイ、オー!」
すると、前方からひと組が来た。かなりの軽装の男ふたりだ。どうやら登山をスポーツとして楽しんている様子で、かなり軽快に、小走りで山を駆け登ってゆく。
「こんにちはぁ……」先頭のタイガが挨拶をした。
「どうもぉ」男のひとりが応える。
「お疲れでーす」もうひとりも。
しかし男ふたりは、笑いを
(ファイ、オーはないわぁ……)
「ご主人さま」セリカは至って真剣な顔で振り返り、「ファイ、オーはやめましょう」
男ふたりが笑いを堪えていたのは、やはりそれか。
聞かれてしまったのだな。
ソクラの胸に、ふつふつと羞恥心が湧きはじめる。
「うむ。なかったことにしてくれ」
それから一時間半は歩いた。ついに小雨が降りはじめた。さわさわ、と木々が湿った音を鳴らしている。これくらいなら雨具はいらないが、よほど大量の雨が降れば、カッパを着なくてはならない。
「うわ、最悪。本当に雨きた」サクラは空を見て、「タイガが
「してないよぉ。僕は晴れを願ったのに……」
「うむ」ソクラは腕時計に目をやった。「あと三〇分で下山は完了する。しばしの辛抱だ」
雨は勢いをゆるめず、だんだんと足を早めていった。帽子が湿っぽくなり、髪が濡れはじめる。土の感触も変わってゆく。
「雨やばいよ」サクラは不機嫌な口調で、「下着まで濡れそう。あとどれくらい?」
「二キロかそこらだろう」ソクラは心配そうに、「雨具を出すか?」
「それくらいなら、さっさと歩いちゃう。止まってる時間がもったいないもん」
「そうさな……。みな、このまま下山してしまおう。ぬかるみに足を取られないよう、くれぐれも気をつけてくれ」
ソクラが声を投げる。全員は返事をして歩く速度を早めた。それからすぐに、わっ、と誰かが言った。タイガが転んでしまったのだ。土に
「いてて……。やっちゃった」
「さっそくか……」ソクラは残念そうに、「ケガはないか?」
「タイガさま、お手を」セリカが手を伸ばす。
「ありがとう」
タイガは差し出された手を取った。セリカの腕力に頼って、起こしてもらった。すると、それがなにかの引き金になったかのように。雨音はさらに激しさを増した。ざー、ざー、とあたりが騒がしくなる。
「これも良い思い出になるの?」
雨に顔をしかめながらサクラが言った。
「もちろんだ」と、ソクラ。「帰ったら温かいお風呂に入ろう」
「いますぐに帰りたい。マーカスがヘリで迎えにきてくれればいいのに」
しかし。なぜか彼の操縦するヘリコプターが墜落するシーンがよぎる。雨がすごいです! 乱気流に巻きこまれました! 操縦不能ですぞぉ我があるじぃー! などと言いながら。ヒュルヒュルと回転して、ドッカーン……。
「やっぱ自分の足で帰る」サクラは言い直した。
「ああ、着いた」先頭を歩くタイガが言った。「終わった! 山登りなんて二度とごめんだー!」
ようやく山道を下りきった。これで快晴なら思いきり全身を伸ばしたいところだ。が、雨はさらにひどくなっている。いますぐにでも、屋内に避難したいところだ。
「もう無理ー!」
サクラは駆けだした。向かったさきは、こじんまりと
「ああ、もう下着全部びしょびしょ」サクラは不快感をあらわに、「すぐに着替えたい」
「お着替えありますよ、サクラさま」隣に立つセリカが言った。「もし、このお店のトイレを借りられたら、そこで着替えますか?」
そうしよ、そうしよ、とサクラは吸いこまれるように販売店のドアを開けた。からん、からん、とカフェのような音が鳴った。すいませーん、お手洗いで着替えたいのですが……、と言いながらセリカも入店する。
「駐車場からここまで、すこし歩くな……」ソクラは思案を巡らせて、「うむ。私が車をここへ持ってくる。おまえたちはここで待っていてくれるか?」
「いいのですか? わたくしが車を運びますよ?」
ドリシラは自信ありげに言った。
しかし彼女は
運転する習慣もなければ、運転席に座る姿を見たこともない。
「ありがとうドリシラ。気持ちだけもらっておくよ」
そう言ってソクラはリュックを下ろし、雨具を取りだした。無色透明のレインコートに身を包む。
「では行ってくる。荷物を見ておいてくれ」と、雨の中を走りだした。
「お気をつけて!」と、アイリーシャが言った瞬間だった。
つるっとすべり、ソクラは転んだ。
かなり痛そうな光景だった。
ドリシラが絶叫する。
「ご主人!」駆け寄って、「大丈夫ですか? いやぁん! おしりの骨が折れてたらどうするのです!」
「す、すまない……」ソクラはおしりに激痛を覚えながら、ドリシラの手をとり、起き上がる。「足裏に付いていた泥のおかげで、すべってしまったようだ。マンホールがあったのに。用心が足りなかったな」
さきほど山道で転んだ自分自身と重なったのか、やはりこの人の息子なのだな、とタイガはしみじみ感じた。
「タイガさま、いまちょっと安心したでしょ」アイリーシャが隣から話しかける。
「う、うん」タイガは、バレちゃったという顔をした。「やっぱり、わかる?」
「気持ちはわかります。人間なんて、そんなもんです。自分とおなじ目にあった人を見ると安心するんです。でもあまり
「そうだね……。わかった……! 僕は、人の不幸を喜ぶ人間になど、なるつもりはない!」
なにかを思いついたのかタイガは走りだした。そしてソクラが転んだのとおなじマンホールにぎゅっと靴裏を噛ませる。もちろんブレーキの力はなく。
つるり——。
父とおなじ
「さすがにそれは、サクラにばかと言われても仕方ないぞ、タイガ」
ひどく冷静な口調でソクラが言った。
「急に思いついて、すぐに実行するところ……。お父上にそっくり」
アイリーシャが苦笑いしたところで、今回の山登りは終了した。
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