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 ドリシラが気合を入れる。全員が固唾かたずを飲んだ。鍋の中にはまだ、三人分ほどのスープパスタが残っている。下手をうてば、団子状に絡まったパスタが気道を塞いでしまうかもしれない。そうなれば窒息ちっそくだ。


「ドリシラ、死ぬぞ!」ソクラは真剣な口調で、「相手はスープパスタだ! しかも……、クリームなんだぞ……っ!」

「いいんです! 放っておいて!」ドリシラは憂に満ちた顔で、「あなたのためなら、窒息も怖くない」

「だめだ、ドリシラ、早まるな!」

「我が主人あるじ、どうか止めないで」

「ああドリシラ……、ドリシラ……!」

「さようなら我が主人……、ソクラさま……!」


 そしてドリシラは死地に飛びこんだ。唇を鍋に当てて、口角を思いきり開いて、舌をぎゅっと下げる。最初の口当たりが触れて、それから雪崩なだれのように白濁の液体が。麺たちが。型崩れのないじゃがいもが、にんじんが、つながったベーコンが……、一気にドリシラの喉を襲う。


 音が鳴った。

 ぱっ、こん。


「いや……!」アイリーシャは顔を覆った。「見てられない……、色んな意味で……」

「ドリシラさん!」セリカは有事に備えて水を手に持った。万一のときは、背中を思いきり叩いて、口の中に水を流しこむしかない。「ドリシラ……、さん?」


 心配をよそに。

 ドリシラはぷはぁ……、と開放的な声を漏らした。

 ああ、おいしかった、と。

 空になった両手鍋をみなに見せた。


「まさか」タイガは信じられないという顔。「ぱっ、こん。で全部飲んじゃったのか? たったのひと口じゃないか!」

「三人分のスープパスタをひと口で!? うそ……、ドリシラさんの喉に、ブラックホールが……、ブラックホールが……」


 ついにアイリーシャが倒れてしまう。


「なんとか飲めましたわぁん。いやぁ、長いベーコンが喉にひっかかって一瞬死ぬかと思いましたけど。なんとかなりましたわね。むこうでお鍋を洗ってきます。お水は貴重、お水は貴重……」


 ルンルン、と言った感じで。ドリシラは野芝を歩いてゆく。このかん、ずっと表情を変えなかったのはサクラだけである。


「なんなのこの茶番」



 午後三時になる頃には、空は薄暗くなりはじめた。下山の方が体力を使う、とは聞いたことがあっても、いままで実感することはなかった。登りとはまた、別の筋肉を使っているのだな、とタイガは考えた。


「明日歩けるかな、ってレベルだね」


 今度は先頭を歩いているタイガが言った。登りとは列が逆である。登山経験者であるソクラが最後を歩き、全体の疲れ具合や、足取りを把握はあくしながら、進む速度をコントロールした方が良い、との判断である。


 ある程度の勢いで進むことができる登りの道とは違う。みなは、ただでさえ疲れている。それに下りの道は危険が多い。たとえば、ぬかるんだ土などは、よほど危ない。


「なーんだか……」だるそうな様子のアイリーシャだ。「本当に下りって、しんどいね」

「登りは、目標がありますもんね」セリカは元気である。「山頂に行くのがモチベーションになりますけど。下はですものね」

「それだ……」ふぅ、ふぅ、と息を鳴らしながらサクラが言った。「なんか気が乗らないと思った。それだよ。目標がないからだよ」

「だからこそ、気を引き締めて行くのだよ!」山に慣れているソクラも元気だ。「よし、みんなで掛け声をしよう!」


 なんなのその感じめんどくさいこと増やさないでよジジィ、とサクラが早口で畳み掛けるも。意味を成さず。


「イヴァンツデール、ファイ、オー!」


 ソクラが大声で言う。


「すっごい恥ずかしい。やめて」


 サクラの表情が死んだ。


「えー、それはキツイです。中学校の部活感がすごい」


 アイリーシャも苦い口調だ。


「父上。もうすこしなんか、いい感じのなかったんですか」


 タイガも不服の様子。


「ささいな羞恥心など、この際気にするな! 山はすべてを受け入れてくれる! さぁ、みなで声を合わせて。イヴァンツデール、ファイ、オー!」


 すると、前方からひと組が来た。かなりの軽装の男ふたりだ。どうやら登山をスポーツとして楽しんている様子で、かなり軽快に、小走りで山を駆け登ってゆく。


「こんにちはぁ……」先頭のタイガが挨拶をした。

「どうもぉ」男のひとりが応える。

「お疲れでーす」もうひとりも。


 しかし男ふたりは、笑いをこらえているような顔をして、さっさとイヴァンツデール家の横を通り過ぎた。その際、セリカは聞いてしまった。


(ファイ、オーはないわぁ……)


「ご主人さま」セリカは至って真剣な顔で振り返り、「ファイ、オーはやめましょう」


 男ふたりが笑いを堪えていたのは、やはりそれか。

 聞かれてしまったのだな。

 ソクラの胸に、ふつふつと羞恥心が湧きはじめる。


「うむ。なかったことにしてくれ」



 それから一時間半は歩いた。ついに小雨が降りはじめた。さわさわ、と木々が湿った音を鳴らしている。これくらいなら雨具はいらないが、よほど大量の雨が降れば、カッパを着なくてはならない。


「うわ、最悪。本当に雨きた」サクラは空を見て、「タイガが雨乞あまごいしたせいだ」

「してないよぉ。僕は晴れを願ったのに……」

「うむ」ソクラは腕時計に目をやった。「あと三〇分で下山は完了する。しばしの辛抱だ」


 雨は勢いをゆるめず、だんだんと足を早めていった。帽子が湿っぽくなり、髪が濡れはじめる。土の感触も変わってゆく。


「雨やばいよ」サクラは不機嫌な口調で、「下着まで濡れそう。あとどれくらい?」

「二キロかそこらだろう」ソクラは心配そうに、「雨具を出すか?」

「それくらいなら、さっさと歩いちゃう。止まってる時間がもったいないもん」

「そうさな……。みな、このまま下山してしまおう。ぬかるみに足を取られないよう、くれぐれも気をつけてくれ」


 ソクラが声を投げる。全員は返事をして歩く速度を早めた。それからすぐに、わっ、と誰かが言った。タイガが転んでしまったのだ。土にかかとすくわれた。おしりが泥だらけになった。


「いてて……。やっちゃった」

「さっそくか……」ソクラは残念そうに、「ケガはないか?」

「タイガさま、お手を」セリカが手を伸ばす。

「ありがとう」


 タイガは差し出された手を取った。セリカの腕力に頼って、起こしてもらった。すると、それがなにかの引き金になったかのように。雨音はさらに激しさを増した。ざー、ざー、とあたりが騒がしくなる。


「これも良い思い出になるの?」


 雨に顔をしかめながらサクラが言った。


「もちろんだ」と、ソクラ。「帰ったら温かいお風呂に入ろう」

「いますぐに帰りたい。マーカスがヘリで迎えにきてくれればいいのに」


 しかし。なぜか彼の操縦するヘリコプターが墜落するシーンがよぎる。雨がすごいです! 乱気流に巻きこまれました! 操縦不能ですぞぉ我があるじぃー! などと言いながら。ヒュルヒュルと回転して、ドッカーン……。


「やっぱ自分の足で帰る」サクラは言い直した。



「ああ、着いた」先頭を歩くタイガが言った。「終わった! 山登りなんて二度とごめんだー!」


 ようやく山道を下りきった。これで快晴なら思いきり全身を伸ばしたいところだ。が、雨はさらにひどくなっている。いますぐにでも、屋内に避難したいところだ。


「もう無理ー!」


 サクラは駆けだした。向かったさきは、こじんまりとたたずむ販売店の軒下だ。彼女につづいて、みなもそこへ逃げた。


「ああ、もう下着全部びしょびしょ」サクラは不快感をあらわに、「すぐに着替えたい」

「お着替えありますよ、サクラさま」隣に立つセリカが言った。「もし、このお店のトイレを借りられたら、そこで着替えますか?」


 そうしよ、そうしよ、とサクラは吸いこまれるように販売店のドアを開けた。からん、からん、とカフェのような音が鳴った。すいませーん、お手洗いで着替えたいのですが……、と言いながらセリカも入店する。


「駐車場からここまで、すこし歩くな……」ソクラは思案を巡らせて、「うむ。私が車をここへ持ってくる。おまえたちはここで待っていてくれるか?」

「いいのですか? わたくしが車を運びますよ?」


 ドリシラは自信ありげに言った。

 しかし彼女は生粋きっすいのペーパードライバーなのだ。

 運転する習慣もなければ、運転席に座る姿を見たこともない。


「ありがとうドリシラ。気持ちだけもらっておくよ」


 そう言ってソクラはリュックを下ろし、雨具を取りだした。無色透明のレインコートに身を包む。


「では行ってくる。荷物を見ておいてくれ」と、雨の中を走りだした。

「お気をつけて!」と、アイリーシャが言った瞬間だった。


 つるっとすべり、ソクラは転んだ。

 かなり痛そうな光景だった。

 ドリシラが絶叫する。


「ご主人!」駆け寄って、「大丈夫ですか? いやぁん! おしりの骨が折れてたらどうするのです!」

「す、すまない……」ソクラはおしりに激痛を覚えながら、ドリシラの手をとり、起き上がる。「足裏に付いていた泥のおかげで、すべってしまったようだ。マンホールがあったのに。用心が足りなかったな」


 さきほど山道で転んだ自分自身と重なったのか、やはりこの人の息子なのだな、とタイガはしみじみ感じた。


「タイガさま、いまちょっと安心したでしょ」アイリーシャが隣から話しかける。

「う、うん」タイガは、バレちゃったという顔をした。「やっぱり、わかる?」

「気持ちはわかります。人間なんて、そんなもんです。自分とおなじ目にあった人を見ると安心するんです。でもあまりい感情ではないでしょうね。おすすめはしません」

「そうだね……。わかった……! 僕は、人の不幸を喜ぶ人間になど、なるつもりはない!」


 なにかを思いついたのかタイガは走りだした。そしてソクラが転んだのとおなじマンホールにぎゅっと靴裏を噛ませる。もちろんブレーキの力はなく。


 つるり——。

 父とおなじてつを踏み。


「さすがにそれは、サクラにばかと言われても仕方ないぞ、タイガ」


 ひどく冷静な口調でソクラが言った。


「急に思いついて、すぐに実行するところ……。お父上にそっくり」


 アイリーシャが苦笑いしたところで、今回の山登りは終了した。



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