-7-


「なに?」


サクラはちらりと写真の裏を見た。が、すぐに視線を景色に投げた。気には、なっている様子。


「私には関係ないものでしょう」

「いや。おまえが写っている。おまえの母さんも写っている。唯一ゆいいつのツーショットだ」


ソクラが手に持っている写真。

それは、サクラがこの世に生誕した直後のものだった。

産まれたばかりの我が娘を抱いて。

やったよ。

やったよ。

産まれてきてくれて、ありがとう。

そう言いながら、満面の笑みを浮かべるカレン。

その顔は、決して血色の良いものではない。

頭髪はすべて抜けている。

頬も痩せている。

くまもひどい。

それでもカレンは人生で最高の笑顔を浮かべていた。

その腕に抱かれるサクラは、ぐっ、と片手を握りしめて。

産まれたよ、産まれてきたよ、お母さん。

そう言ってガッツポーズをしているように。

思いきり、泣き叫んでいた。

この数時間後に、カレンは遠い空に旅立った。

生きるはずだったすべての時間を、サクラにたくして。


「見てくれるか? サクラ」


すぐに返事は返ってこない。


「なに、おまえの心の準備ができたら。それでいいんだ。いまから何年経っても構わない。お母さんとおまえの——」


言葉を遮るようにサクラは写真を奪った。勢いそのままに写真をにらみつける。いきなりのことでソクラは固まってしまった。ただサクラの表情にばかり心配が向いてしまう。風が吹いた。山頂の冷たい空気が、ほんのりと暖かい風に拐われるようだった。


それから一分ほど。サクラは写真を見つづけた。泣きもせず。怒りもせず。かといって無表情でもない。ノーメイクの母を見るのは、サクラにとってはじめてのことだ。そして、新生児である自分を見るのもはじめてだ。


どう思う? とか。

どうだ綺麗だろ? とか。


どんな言葉もこの際無粋さいぶすいだった。ここはサクラの言葉を待つとき。その反応をうかがうとき。サクラとカレンの、心の会話が終わるまで。ソクラはじっと待つしかない。


——サクラは、くすりと笑った。


「ねぇ。せっかくのお母さんとのツーショットなのに。全裸って最悪なんだけど。しかも誰かさんにそっくりのガッツポーズまでしてる。なんかおしゃれな服、着せておいてよ。気がきかないね。お父さん」

「そうだな。本当に、気がきかない親父だ」

「この写真撮ったの、お父さんでしょ」

「ああ。やっぱりわかるか」

「わかる。なんか聞こえてくるもん。やったな! すごいぞ! そう言ってさ、号泣してさ、ぼろぼろ涙こぼしてるのさ……。わかるもん……」


ぐず、ぐず、と鼻をすする音。


「私、会えてたんだね。お母さんに。ちゃんと、抱っこされていたんだね」



「できましたよー?」セリカは展望スペース近づいて、声を投げた。「冷めないうちに、食べちゃいましょ……」


なにがどうして、そうなったのか。号泣しているソクラの背中を、サクラの小さな手が、すりすりとさすっているではないか。


「だぁっはぁ……!」


堪えていたものが溢れたのだろう。ソクラの顔面、その穴という穴からしょっぱい水が流れでている。もはやソクラに話せる余裕はなさそうだ。


「えと……」ふたりの背中にそっと近づいて、セリカは困った顔をした。「これは……、どうしたの?」

「ん?」サクラは振り向いて、「お父さん、だめになった」


そう言った彼女の目も、どうやら涙を流したあとであると。セリカは気づいた。きっと親子でなければできない会話を、終えたあとなのだろう。亡き奥方のことを真剣に話し合ったのだろう。なぜわかるか、といえば。ソクラの背中をさするサクラの表情が、とても、とても、柔らかいものであったから。母のように。妻のように。


「さ、むこうでスープパスタを食べましょ」セリカも胸に熱を感じた。「冷めないうちに」



「なんなのこのベーコン。全部くっついて。びろびろじゃん」


白濁としたスープの中から、サクラがフォークで拾ったのは一枚のベーコンだった。切れ目こそ均等に入ってはいる。が、全部つながっている。


「切ったの、タイガでしょ」

「あ、サクラさん。わかります?」タイガは申し訳なさそうに、「いやぁ、切れていると思ったんだけどね。なかなか包丁の重量に慣れなくてね。あははぁ……」

「包丁の重量ってなによ」サクラは鋭い口調で、「身長一〇センチのティンカーベルでも、もっと器用にやるわよ。こんなだったら私が手伝えばよかった」

「これはこれで、良い思い出になるさ」ソクラはパスタを啜った。「困難があるからこその人生だ。楽しもうじゃないか」

「切れてないベーコンってどんな困難よ。困難に失礼よ」

「しかし、さすがの味付けだなぁ……」ソクラはスープを喉に流して、「塩を振ったのはドリシラか?」

「はい、わたくしですぅん!」


ふがふがと鼻を鳴らしながら、ドリシラはスープパスタのおかわりを汲んだ。鍋ごと食べてしまいそうな勢いだ。それにしても野外で食べるご飯は、ひと味も、ふた味も違うものであると、全員が感じていた。


「本当に、いいものだね」おにぎりを片手に、アイリーシャは深呼吸をした。「外で食べるご飯。こんなにおいしかったんだ」

「そうですね」セリカは卵焼きをつついて、「大自然の開放感と、山を登りきった達成感。山頂の美味しい空気がなによりの調味料……。そんな感じがします」


すると、遠くの空が再びごろごろ……。雷を鳴らした。


「おや、これは本当にひと雨くるか?」ソクラは空を心配した。「うむ、茶をにごしたくないが……。みな、すこし早めに食事を終えよう。ドリシラ。食後のコーヒーを淹れておいてくれるか? 飲んだらすぐに出発しよう」

「それってつまり、お鍋をひとつ空けて、お湯を沸かす。ですね!?」


ドリシラはやけに嬉しそうに言った。ふたつ設置されたコンロにはそれぞれ、スープパスタが入った鍋が置いてある。まず片方の鍋を空にしないと、お湯を沸かすことはできない。


「じゃあ、お鍋をひとつ空にして洗います!」

「おや?」ソクラはふとした顔で、「ケトルを持ってくるように言った気がしたが……」

「それはたしか、タイガさまのリュックにあるはずです」


視線を流しながらセリカが言った。

するとタイガは気まずい顔をした。


「ごめん……。忘れちゃった」

「またなの?」 こういうときのサクラは速い。「キッチンのテーブルにお鍋とケトル。ぞれぞれ持っていってね、って。朝言われてたじゃん。セリカに」

「ごめん……」


しゅん、とタイガは沈んだ。


「ま、まぁまぁ」セリカが間に入る。「お鍋がひとつ空けばいいだけの話ですから、ね?」


それならおまかせください! と意気ごんだのはドリシラであった。彼女はミトンを手にはめた。さながら、職人がひと仕事を始める直前のように。そして両手鍋をひとつ手に取った。口をすぼめて、ぶふー、ぶふー、と息を吹きかける。鼻をスープに近づけて、飲める温度かどうかをたしかめた。


「イケる。イケますわ……!」


この温度なら、鍋に口をつけても大丈夫。舌も喉も焼けないだろう。むしろミトンがいらなかったくらいだ。ドリシラは両手を素手に戻した。彼女の手から外れ、野芝の上にひらりと舞い落ちたミトン。さながら、巌流島がんりゅうじまの佐々木小次郎がさやを投げ捨てた、それのよう。


いまこそ決闘のとき。ここでスープパスタを飲み干すのだ。

我が主人のために。愛する人のために。


「いきます!」



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