-6-
「セリカ、セリカ!」
慌てたタイガさまが、わたくしを呼び止めている。
知らない。
知らない。
わたくしには親はいない。
本当の親の顔なんか知らない。
育ての親も、全員死んだ。
わたくしの目の前で。
みんな、死んだ……。
「わたくしの心なんて、すでに死んでいるのです。放っておいてくださいっ……」
小声で言ったところで、タイガさまには聞こえない。
「セリカ、セリカ!」タイガさまの声が追ってくる。「セリカ……、ああぁっ!」
急に声色が変わった。数メートル離れていたが、わたくしはすぐに振り返った。タイガさまは尻もちをついて、わたくしとおなじ方向を見ている。彼の視線のさきには、茶黒い塊がふたつ。
「く、くま……、熊が!」
イヴァンツデール家の裏手は果樹園になっている。夏になると大量のブルーベリーを収穫できる。甘酸っぱいにおいに誘われて、どこから来たのか。熊は餌を求めて侵入してしまったのだ。これだから塀の外は危険なのに。
「タイガさまっ!」
わたくしは駆けた。自分でも、ここまで速く走れることには驚いた。熊が立ち上がり、前足を地面におろしたその瞬間、むこうもタイガさまに向けて一直線に駆けだした。
「わあぁっ」
熊がタイガさまに噛みつく、その一秒。
わたくしはそのあいだに飛びこんだ。
右腕に激痛が走った。
足を強く踏ん張ったため地面が抉れた。
土のにおいと、血のにおい。
熊の酸っぱい口臭が鼻を
タイガさまの首もとに噛みつくはずだった熊の牙は、わたくしの右腕を噛んでいる。熊は首を大きく振った。わたくしは左側に投げられた。もう一匹の熊が近づいてくる。とどめを刺すつもりなのか。野獣にしては連携がとれている。もしや、この熊たちは夫婦なのか?
「あああっ!」こんなにはしたない声は出したことがない。覆いかぶさる熊の腹を強く蹴りこんだ。三メートルほど宙を飛んだ巨体は、そのままの勢いで地面を五メートルは転がった。蹴った瞬間、足の裏に骨が折れたような感触が伝わった。熊の肋骨あたりが折れたのか?
「やめろ、来るなあっ!」
タイガさまの悲鳴。気を休める暇はない。さきほどわたくしの腕を噛んで放り投げた熊が、今度はタイガさまを襲おうとしている。二足で立ちあがり、口を大きく開けて、口角のひだを震わせて、強い
爪だ。爪で掻くつもりだ。
「だめぇっ!」
もう一度あいだに入り、振り下ろされた熊の手を、わたくしの左腕が遮った。すると熊はもう片方の手で、わたくしの脇腹に爪を立てた。激痛。苦しい。でも、でも、やらせはしない、やらせはしない、やらせはしない——。
「セリカぁ!」
「タイガさま離れて早く!」
「セリカぁっ!」
「躰でかいからって調子に乗ってんじゃないわよ!」
みぞおちをめがけて、前蹴りを一発食らわせた。獣らしい呻めきとともに、汚いよだれがわたくしの顔を汚した。どうにか熊を突き放した。全身が痛い。でも、頭は冴えている。
ある程度の距離はとれたが、二匹の熊はまだこちらを見ている。まだ来るのか。わたくしたちを殺して、ここを新たな巣にでもするつもりなのか。それとも、人間そのものに恨みでもあるのか。動物園で
腰を抜かしてしまったタイガさまは、動けずにいる。
わたくしは、ペンダントを握っていた。
無意識だった。無意識に握っていた。
そして、首のチェーンを引きちぎる。
その行動も無意識だった。
「来るなら来なさいよ」
ペンダントトップを握る感触が変わってゆく。
「そこらのブルーベリーならいくらでも食べなさい」
右手に重量を感じる。金属の冷たさも。
「タイガさまだけは、やらせない」
金棒。あのときとおなじ。
育ての親が全員死んだときとおなじ。
わたくしは、また金棒を握りしめている。
恥ずかしいくらいに息が切れていた。
なんとかして、肺から大声を絞りだす。
「なめん……、なぁっ!」
金棒を地面に叩きつけて、わたくしは吼えていた。
獣の声ともつかない。怒号よりもひどい。
天を仰いで、もう一度。
声というよりは、音。
自分でも聞いたことがない音が。
喉から噴出している。
火山のように。
鬼、のように。
とんでもない気迫だったのだろう。
二匹の熊は完全に怯えた。
この家のことは諦めて、どこかへ去ってゆく。
「いなくなった……! セリカ、もう大丈夫だよ! 早くケガの手当てをしないと!」
心臓が暴れている。
思考がまとまらない。
全身の血がぐるぐると乱れている。
なにかを叩きたい衝動。
潰してやりたい。
血、そうだ血だ。
血がそうさせるのだ。
自分自身の血が。
血のにおいが。
心をかき乱してくる。
「セリカ……?」
タイガさまが目の前に立った。
おかしい。どうして。殺したいって思うの?
「セリカ、おでこ……、おでこに……」
なに? おでこがなんだっていうの。
「角が……」
「——リカさん? ——カさん。おーい。セリカさん?」
「はっ……!」
テーブルにうつ伏せて、セリカは居眠りをしていた。洗濯カゴを手に持ったアイリーシャが、心配そうな顔でセリカを覗きこんでいる。
「大丈夫? ものすごいうなされていたけど」
「え……」セリカはぼやりとした顔で、「ああ、ごめんなさい……。寝てしまった」
「仕方ないよ。昨日はたったひとりで、タイガさまを助けに行ったんだもの。その疲れが出たんだよ」
リビングのソファ前の絨毯に、アイリーシャは腰を下ろした。得意そうな手つきで、洗濯ものを畳みはじめる。
「午後の家事は、ドリシラさんと一緒にほとんど片付けたから。心配しないで」
「ありがとう……」
セリカは目を強く閉じて、首を横に振るった。いくらかの眠気は飛ばせた。が、寝覚めの悪さは残っている。
「なにか、ひどい夢でも見た?」
「え? ああ……」よほどひどい寝言でも言っていたのだろうか。セリカは不安になった。「タイガさまが中学生のときのことを、少々……」
三秒ほど、アイリーシャの手が止まった。
熊事件のことを夢見たのだろうな、と察した。
そこにはあえて触れないようにする。
「そんなテーブルで寝たから、よく眠れなかったんだよ。お昼寝も、ちゃんとベッドでしないと」
「そう、ね……」セリカは申し訳なさそうな顔で、「変な寝方しちゃったから、腰が痛い」
「今度はちゃんと言ってね? 私だって、いつ倒れちゃうかわからないようなものだし。生身の人間だもん。疲れたときは無理しない。ね?」
アイリーシャの優しさによって。
昂っていたセリカの心臓は、すこしづつ落ち着きを取り戻してゆく。
「生身の人間……」セリカはすこし顔を伏せてから、すぐに持ち上げて、「うん、ありがとう。たまに甘えることにする。アイリーシャ。ほんとにありがとう」
学校のチャイムの音は、いつもおなじだ。決まった時間に、決まった音量で、決まった音色を鳴らす。
「じゃあね。また明日」
教室の中で、女子生徒が言った。
「あー、宿題まじでだりぃ」
この男子の声もいつも聞こえてくる。毎日言っているのだろうか。意識したことはないが、タイガの耳はこのセリフをよく耳にしている。試験か近づくと、試験まじでだりぃ、と言っていたはずだ。体育祭や文化祭のときも、例外ではない。主語か変わるだけで、だるいのはいつもおなじ。
この男子生徒自身がだるいのだろう。
そのため、なにに対してもそう感じてしまうのだ。
「イヴァンツデールに住んでみればいいんだよ……」タイガは誰にも聞こえない小声で、「だるいなんて言ってる暇なんか、ないよ……」
背後からいい香りが漂ってきた。新鮮なフルーツのような。甘さと酸味、そして女性らしい、やわらかさのある香り。この教室でライチがトップノートの高級香水をつけるのはひとりしかいない。
「ねぇタイガくん、昨日拐われたって……。本当?」
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