-5-
——あの人が大失態を犯した。イヴァンツデール家全員の忘年会が終わり。メイドと、執事を含めた使用人たちで、二次会をしていた最中であった。
常に従順に。規則正しく。なるべく
トイレに行ってくると言って、あの人が向かったのはソクラさまの寝室だった。奥方はすでに眠っていた。ソクラさまは寝室のデスクにて、日本にいるご友人に向け、「ネンガジョウ」という名のお手紙を書かれていたそうだ。
ソクラさま、大好きだ! と叫んで。あの人は我が主人に飛びついた。ソクラさまは合気道の技をとっさに駆使して、あの人を倒したのだとか。ご子息のタイガさまが、ご生誕されたばかりだというのに。本当に、なにをしているのだろう。ひどい話だ。
いちおう、これは恋愛沙汰ではない。
マーカスさんは、ただ単に酔っていただけなのだ。
彼に同性愛の気はまったくない。
この間も、屋根裏のベッドの下から、おっぱい特集の週刊誌が出てきたばかりだ。ソクラさまを常日頃、敬愛している彼の想い。それが、大量のワインによって溢れかえってしまったのだろう。
彼は罰として、一ヶ月分の庭掃除をひとりでこなすことになった。
さらにマーカスさんが、彼専用の私室をいただく、という話も立ち消えになったらしい。無理もない。ソクラさまの寝室に全裸で突入するような男には、屋根裏部屋がお似合いだ。わたしはそう思う。
わたしもソクラさまのことは好きだ。
むしろ、愛している。
ずっと一緒にいたい。
だからこそ、わたしはメイドをつづける。
メイドとして、この一生をソクラさまに捧げる。
そう決めたのだ。
女としてみられなくていい。
キスをしてもらえなくても。
その唇を眺めいているだけで、幸せだ。
わたしは、メイド。
ただのメイド。
この肉体が枯れるまで。
あなたのメイドです——
「買い出しから、帰りましたぞー。メイドのみなさま」
玄関からマーカスの声が飛んできた。なにも知らない彼は、両手に重たいビニール袋を抱えたまま、リビングに足を踏み入れる。
「おや、どうされました? メイドのお三方。とてつもなく冷たい視線を突き刺してきますが……」
「マーカスさん」半目のドリシラが口を開く。「あなたでしたね。どうりでメイドの顔が浮かばなかったわけです」
「はえ? なんのことですか?」マーカスはなにも気づかずに、「ああ、そういえば良いワインがありましたよ。今夜は月に一度、ソクラさまから飲酒を許される日ですから。よかったらドリシラさんも飲みますか? 若いワインですが、きっと良い味ですぞぉ」
嬉しそうに言ったマーカスに近づき、ドリシラはワインボトルを奪い取った。
そしてメイドの三人は声を合わせて、
「ワインは一生禁止!」
——タイガさま。
——タイガさま。
赤い夕陽は、凶兆なのだと聞いたことがある。胸騒ぎがする。タイガさまはどこだろう? さきほどおやつを召し上がられて、それからの姿が見えない。ソクラさまや、サクラさま。その他のみんなも出かけられている。
「タイガさま?」
わたくしはタイガさまの自室を訪ねた。
「いらっしゃいませんか?」
ドアノブに手をかけて、そっと開く。
隙間から中を確認したが、タイガさまのお姿はない。
「どこに行かれたのでしょう……」
しっかりとドアを開いて、部屋の中を見渡した。テレビやパソコンの電源は切ってあった。むんとする生ぬるい室温……、暑い夏の季節に冷房を切って部屋を出たということは、しばらくは戻らないつもりなのだろう。
困った。家にはわたくししかいないというのに。タイガさまにもしものことがあったら、どう責任を取ればいいのだろう。
「庭……。もしや……」
ひとつの心当たりが脳裏に触れた。タイガさまは時折、亡きお母さまのことを考えすぎるがゆえに、庭で武道の型を一心不乱に
最近、タイガさまは中学校で、お母さまがいない事実をからかわれたと言っていた。それが関係しているのではないか。どうも胸騒ぎがする。ペンダントが熱く感じる。わたくしはそれを胸の前で握って、騒ぐ心をどうにか落ち着かせた。
「タイガさま、タイガさま!」
リビングの出窓から庭に出て、タイガさまを呼んだ。お姿がない。武道の型は踊られていないのか?
「もしや裏の塀にある
庭をまわりこんで、屋敷裏の塀から外に出たところにある、物置小屋の方へ行ってみることにする。するとそこにタイガさまはいた。物置小屋から、なにかを手にして。出てきたところを見つけた。よかった。無事だった。
「タイガさま」わたくしは駆け寄って、「もう、どこかに行くのなら、ひと声かけてください……。ここは塀の外ですから、ご主人さまに知れたら怒られます」
「セリカ……」
タイガさまはこちらに振り向いて、寂しそうな声を出した。服装は武道着だ。汗をかいていたのか、髪が濡れている。やはり、一心不乱に型を
「ごめん……」
「なんでもすぐに謝るんですから。謝る前に、謝らなければならない行動を
思わず、強めの口調になってしまった。本当に心配だったのだ。この家でふたりきりになることなど、めったにないのだから。しかし他のみなが外出をしているのは三時間ほどで、あと一時間もすれば家庭教師が訪問される。
「それは、なにをお持ちなのですか?」
「ああ、これ?」タイガさまはその手に、一枚のレコード版をお持ちだ。「これ、母さんがよく聞いていたレコードなんだ」
なにか心境に変化があったのだろうか。タイガさまは、お母さまを思い出してしまうような物に、なるべく触れないようにしていた。そのレコードを物置小屋に隠したのもタイガさまだったはず。ジャケットを見るだけで、お母さまを思い出してしまうから、と……。
「……お聴きになられるのですか?」
「うん……」タイガさまは、すっきりとしない声で返事をした。「お母さんはもう戻らない。でも心の中で生きている。生きているはずなんだ……」
言葉の中に、タイガさまの心境が
それは、お母さまの存在をこのまま忘れてしまうこと。お母さまがいなくても大丈夫な自分になってしまうこと。
そんな自分になりかけていたことに、タイガさまはお気づきになったのだろうか。きっかけは、中学校で言われたひとことにあるのやも……。
「学校で、なにかあったのですか?」
わたくしが尋ねると、タイガさまは一〇秒ほどの
「みんなはお母さんがいていいね、って。僕は何気なく言ってしまったんだ。それを聞いた数人の友達が揃いもそろって、こう返した」
——お前は、母ちゃんがいなくても、金があるんだから。それでいいじゃないか。それ以上になにが必要なんだよ——
どうも悔しさが湧いて仕方がなかった。お金がなんだ。お母さまの命がお金に代えられるとでも言いたかったのか。
にしても、タイガさまはまだいい。本当の母親を知っているんだから。わたくしは育ての親の顔しか知らない。それどころか……、それどころか……。
気づくとわたくしは、タイガさまを放って家の中へ戻ろうとしていた。メイドらしからぬ行動であると重々わかっていた。それでも、そうしないと、タイガさまに自分の醜さをぶつけてしまう気がした。それだけは避けようと思った。唇を強く噛んだから、血の味がした。
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