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「いまは、みんな結婚やなんかで、イヴァンツデールを出て。それぞれの道に行ってしまったけどね」ドリシラは昔を懐かしんで、「どんな事情を抱えた娘が、この家に来たとしても。最後は笑顔なのよ。ソクラさんだったり、いまは亡き、そのお父さまだったり。もちろんタイガさまのお母上ははうえも。一家血統のみなさまが良い人ばかりなのよ。あなたたちも、よく知っているわよね」


 問われたセリカとアイリーシャは、もちろん、という顔でうなずいた。


「メイドや使用人をモノのようにあつかったりなんか……」ドリシラがつづける。「絶対にしないもの」


 我が娘のように……。


 三人の脳裏には、おなじ言葉が流れた。


 セリカとアイリーシャにとっては、ソクラの言葉である。ドリシラにとっては先代ソクラの父の言葉として、胸に強く残っている。


 メイドに対する心の姿勢。

 現在のソクラのみならず。

 その父も、祖父も、絶対に崩さなかったことだ。


「でもね、困ったものよ」ドリシラは呆れた口調に切り替えて、「ご主人が代々、みんなに優しすぎるのが災いしたのかしらね……。本気でご主人にれてしまうメイドも、何人かいたのよ」


 なるほど、わからないでもない。

 セリカとアイリーシャは思った。


 というか、ドリシラさん。現在のあなたこそ、ソクラさまにぞっこんラヴではないかと。言いたい。とても言いたい。が、先輩の顔を立てるつもりで、ふたりは口を硬く縛った。ツッコミを入れたい衝動が喉から湧いてきて、舌の上で転がっている。


「過去にはね。ソクラさまが好きで仕方なかったのか、全裸で寝室に侵入しちゃった人もいたわ……。誰だったかしら」

「それはさすがに……」セリカが反応し、

「だめなやつです……」アイリーシャが言葉をつないだ。


 空になったマグカップに次の紅茶を注ぎ。角砂糖を五個投入して、ティースプーンで混ぜる。ドリシラの慣れた手つきを、ふたりは目で追った。リビングのテレビは、正午のニュースを終えて。賑やかなバラエティを放送しはじめた。それらしい笑い声がスピーカーから聞こえてくる。


「そんなことをしたら、メイドをクビになります……」


 セリカはペンダントをメイド服の内側にしまった。


「わたくしたちの知っている先輩でしょうか?」手を戻して、そのままつづける。「ドリシラさん以外の先輩とは、一緒に仕事をしたことがないですけど……。よくOBとして、この家を訪ねて来られるご婦人が数名いますよね?」 


 その中のひとりだろうか。


「OBのひとり、のような、違うような……」ドリシラは悩んだ。「あらやだ思い出せない。やらかしたメイドの顔が出てこないわ……。そもそもメイドだったかしら。いや、メイドよね。ソクラさまモテモテだったもの」

「誰だろう、気になる」


 すこしの高揚感を覚えたアイリーシャは、カップに残る紅茶を一気に飲み干した。全裸でソクラの寝室に突入してしまったメイド——。会ったことのある先輩だとしたら、それが誰なのか。興味が湧くのは若いふたりにとって、無理もないことである。


「誰だったかしら……」ドリシラは、どうにか思い出そうとしている。「あなたたちも知っている人のように思えるのよ……。たしかね、あのときは忘年会の夜だったわ。ソクラさまの奥方が亡くなる以前のことよ」

「ええっ」アイリーシャは大きく開口した。「それ、本気でまずいですよ。奥方がいらしたのに、そんな、やばすぎます」


 想像を絶する恐怖と相対したように、セリカは顔を青くした。

 言葉が見つからず、首を小刻みに横に振った。

 考えただけでも末恐ろしい話である。


「ちょっと待ってて、あのころの日記を持ってくるから! きっと名前くらい書いてあるわ!」


 そう言ってドリシラは、どたどた騒々しい足取りでリビングをあとにした。


「誰だろうね。気になるぅ」アイリーシャは自分のティーカップに紅茶を注ぎ、「セリカさんも紅茶のおかわりする?」

「ううん、大丈夫。ありがとう」


 広い一室に残されたセリカとアイリーシャの間には、勝手知ったる空気が流れている。いつものふたりならではの雰囲気だ。


「メイドもさぁ。ひとりの女だし。ご主人もひとりの男だし。人間の本能には逆らえないよね」

「想いがあったとしても、さすがに全裸での寝室突入は……」セリカは困り笑顔で、「しかも奥方がご存命だったのなら、不貞ふていどころの騒ぎではないですよね……」

「下手したら命すら危ういかも」


 アイリーシャは冗談のように言った。が、もし自分がそんなことをしたら、と想像してしまったセリカは、やはり身震みぶるいを覚えた。


「ねえ」アイリーシャは誘惑するような顔をして、「もしタイガさまに恋をしたら。セリカはどうする?」

「ええ……」顔を近づけられたセリカは表情を凍らせた。「考えたこともないです」

「メイドは家内恋愛絶対禁止……」アイリーシャは姿勢を戻して、「恋をするならお見合いか、外で恋人を見つけるしかないもんね。たとえば、ちょうど良い坂道で、紙袋からオレンジを転がして。それをイケメンが拾ってくれる。とかの運命的な出会い」

「まず、ないでしょうね」

「使用人や執事との恋愛も、絶対にタブー。いくらストライクゾーンが広いセリカでも、マーカスさんに惚れることはないだろうけど。タイガさまなら、まだ若いし、ねぇ」


 どうなの、どうなのぉ? とアイリーシャはいやらしく迫る。


「ないです」

「ええー」

「ないです」

「ほんとにー?」

「はい」

「なんでぇ? わりとイケメンじゃん。中性的な顔だし。なよなよしてるけど優しいし」

「恋ごとにそもそも興味がないので……」

「じゃ、じゃあさ」アイリーシャはご機嫌な口調に変えて、「こんな人のお嫁になりたいとか、ないの?」


 うーん、とセリカは数秒悩んだ。


「力もち、かな?」

「それって筋肉の話?」

「そうですね。腕力のある男性が好きかも」

「セリカさんよりも?」

「はい。わたくしよりも腕力がある人の腕に抱かれてみたいなぁ、とは。思ったりします」


 突然、アイリーシャは絶望したような表情を見せた。ティーカップの中をぼんやりと眺めていると、夕日のような液体の上に自分の顔が映っているのがわかった。死んだような顔だ。


「セリカさん」

「はい」

「あのね、セリカさんの血筋ね。途絶えるかもしれない」

「それは……」ちょっと言い過ぎではないのか。そう思ったセリカはむっとした。「わたくしにだって、女としての幸せくらい、きっとあります!」

「うん、あるよ。ばかにしているわけじゃないの。誤解しないで」アイリーシャは無機質な口調で、「ただね……。ひとつ訊いてもいい?」


 ——五五〇キロ超の農業用トラクター。それを両手でやすやすと運んじゃうセリカさんより、腕力のある男性。そんな人がこの世にいると思う?——


 きっぱりと言われたセリカは口ごもった。恥ずかしさのような感情が、掘ったばかりの温泉水のように、じわじわと胸に湧きあがってくる。次第に頬が赤くなり、自身の発言と、人並みならぬ身体能力を穴に埋めたくなった。


「あーったわよ! あった! 日記があったのよぉん!」


 凍った空気を引き裂くように、ドリシラがリビングに戻ってきた。手にはノートブックを一冊持っている。


「あら、なんだかふたりして神妙な空気ね? お紅茶の飲み過ぎ? お腹でも壊したの?」

「いえ……」セリカは表情を直して、「なんでもありません」

「本当に? 喧嘩なんかしてないわよね?」

「だ、大丈夫です」アイリーシャも応える。「ね、セリカ……。セリカ……」


 つくろってはみたものの、セリカの恋愛事情を心配しすぎたアイリーシャは、友としての謎の消沈を隠せずにいる。


「ほんと、なんでもないんです」


 あはは……、と笑って。

 セリカは場をもたせようとした。


「そう?」ドリシラはさほど気にしていない。「なにかあったら言いなさいね? それよりもぉん!」

「日記、もうお読みになったのですか?」セリカが尋ねた。

「まだなのよぉ! だから、これから、その日あたりの日記を読むから! ソクラさまの寝室に突入してしまったのが、誰なのか。みんなでたしかめましょ! たぶん書いてあるからぁん!」


 わくわく、とする空気になった。アイリーシャも顔を上げて、ページをめくるドリシラの言葉を待つ。


「ええと、ああ、ここよ! ここ!」


 ドリシラは嬉々とした顔で、日記の一節を読みはじめた。


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