episode2:アイン

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 食パンを口にくわえて、通学路を走る男子高校生——。どれほど使い古されたシーンであろう。直線を進み、ブロック塀の死角を気にする余裕もなく、道の角を九〇度に曲がる。そして誰かにぶつかる。お決まりの流れだ。


 タイガはいま走っている。ふかふかの食パンを咥えながらの全力疾走は、思いのほかロマンがない。パンが口の中の水分をどんどん奪ってゆくし、すれ違った名も知らぬ奥様に、あーらまぁ昔のアニメみたい、と笑われてしまった。


 名も知らぬ奥様だけならまだいい。通学途中の小学生にまで、あいつウケる、のひと声で一脚いっきゃくされたのだ。これが現実である。タイガの羞恥心しゅうちしんはがぎりなく肥大してゆくばかり……。


「間に合え、間に合えぇっ!」


 食パンの耳と羞恥心を噛みちぎり、より速く、もっと速く。歩道を走るタイガの短い黒髪は後ろになびく。そして例のカーブに差しかかった。靴裏をアスファルトに噛ませ、ブロック塀の死角をものともせず九〇度のカーブを兎のように曲がった。


 ごん、と脳が重たい響きを鳴らした。

 次は尻に衝撃を覚えた。

 ショルダーバッグが肩から離れ、咥えていたパンも道に落ちた。

 口内には血の味と、パンの甘味が充満している。

 とっさに食いしばったため、舌の端を噛んだようだ。


「痛あぁ……」


 さらにはひどい頭痛に襲われた。片手でおでこを押さえていると、そこがみるみる腫れてゆくのがわかった。


「まじかよ、日本のアニメみたいなシチュエーション、ありかよ……」


 前方から声がする。聞き慣れた声だ。若い男の声。


 めまいに揺れる視界を深呼吸で整えながら、タイガは前方を確認した。そこにいたのは同級生のレオナルド。自分のおでこにぶつかったのは、幼馴染の親友のおでこであった。彼も同じように尻もちをついて、片手で頭を押さえている。


「レオ……?」

「タイガ……?」


 互いに目と目を合わせる。


「なんだよ、つまんねぇ」レオナルドは腰を上げて、「美少女とぶつかったんじゃなかったのか……。奇跡的なロマンスを期待して損したぜ」

「悪かったね……」タイガも同じく立ちあがり、「学校とは逆の方向に全力疾走していたけど、忘れもの?」

「そ、忘れもの」


 服についた砂利じゃりを、レオナルドは手で落とした。


「母ちゃんの弁当、忘れちゃってさ」

「やば……」タイガは銀色の腕時計に目をやり、「朝礼まで、あと五分しかないよ。間に合う?」


 いまふたりが立っている場所から学校までは、走って三分の距離だ。


「大丈夫、ここまで来られたら、たぶん……」


 レオナルドが言うと、遠くから女性の怒号が近づいてきた。


「こーるぁ! あたしの作った弁当を忘れるやつがあるか、このばか息子!」


 青いチェックのエプロンに、規則正しい穴がいくつも空いた特殊樹脂のサンダル。コンビニに行く格好でもない、慌てて家を飛びだしたと見える。


「ほら……」レオナルドは気まずい顔をして、「やっぱり持ってきた」

「レオの母ちゃん、相変わらずすごい勢いだね……」


 遠くからでも十二分に感じとれる、激しい剣幕。轟々と走る彼女が近づいてくると、まるで大熊おおぐまが迫ってくるような迫力すらあった。


 天敵が接近してくるのに備え、かばんで頭を守るレオナルド。その母——アディはスポーツカー顔負けの速度と挙動にて、若干のドリフトを交えつつ、レオナルドの頭に縦ビンタを見舞った。


 鞄から頭頂部、頭頂部から喉、喉から内臓へと縦ビンタの衝撃は駆け抜け、レオナルドは、がふっと声を漏らした。彼女の一撃を無傷でやりすごすには、チタン製の盾でもないと心許こころもとない。通学用の鞄では頼りないのだ。まして教科書やノートが詰まってない、スカスカの鞄であるなら、なおさら。


「このばか!」アディは、地面に突っしたレオナルドの頭の上に弁当を乗せた。「今日はあんたの好きなバジルフライドチキン弁当にしてやったってのに。なんで忘れるのかねぇ」


 そしてタイガの存在にようやく気づいたアディは、表情を一八〇度変えて、満面の笑みで振り向いた。


「あら、あらら、タイガくんじゃないのぉ」声のトーンもだいぶ高めだ。「ごめんねー、見苦しいところを見せてぇ」


 道に転がる死体のようになったレオナルドを横目に、タイガは苦笑いをするしかなく。


「あ、いえ、大丈夫です……、僕は……」

「あー!」アディはなにかを思い出したような顔で、「タイガくん聞いたわよ。昨日、お家に警察が来たそうじゃない」

「ああ、来ましたね……」


 昨夜の誘拐事件から十二時間弱しか経っていないというのに、もう噂話が伝わっている。タイガの住んでいる街は、ド田舎というほどの田舎ではない。が、近隣の変化に敏感な地域であることは、たしかである。


「どうしたのぉ? なにか盗まれたとか! イヴァンツさんはお金もちですからねぇ、うちと違ってぇ」


 アディが知っているのは、家に警察が押し寄せた、という事実だけのようだ。警察は事情聴取のために訪問しただけであり、事件現場はまったく別にある。悪党に拉致をされて、それからセリカに助けられ、鼻水を垂らしながら家に戻ったことは、どうやら知られていない。タイガはすこし、ほっとした。


「えと、あ、そうだ」タイガは顎に指を当てて、「最近うち、ラップ音がひどくて……」

「ラップ音? ようよう、ってダボダボの服を着た若い子が歌っている、あれのこと?」


 ヒップホップらしい手振りを交えつつ、アディは尋ねた。


「あ、いや。それとは違って……。幽霊がいる場所とか、通った場所で鳴る、家鳴りのことです」

「まあ!」アディは仰天の顔をした。「イヴァンツさんち、お化けがいるの!」


 羊の姿をしたジンギスカンという名前の幽霊が、おそらくイヴァンツデール家にいるのだと。タイガは嘘の説明した。悪党に拐われていたなどと、本当のことを言ってしまえば……。それこそ地域の笑い種になりかねない。


 それはともかく。

 登校時間のことを忘れてはならない。


「あ、そろそろ学校に行かないと」

「あーらごめんねぇ。ソクラさんに似たイケメン顔を見ていると、ついつい長話しになっちゃうわ。見惚れちゃって。やあねえ年甲斐もないわぁ」


 アディはうわさ好きの奥様らしい、手招きをするような仕草をした。


「バジルフライドチキン弁当といえば……。今日、レオの誕生日じゃないか!? ごめん、なにも準備していなかった……」


 やってしまった、という表情になったのはタイガだ。レオナルドが大好物のバジルフライドチキンを弁当に持ってくる日は、それイコール彼の誕生日なのだ。


「あら、ばか息子の誕生日、覚えていてくれたのぉ」


 アディは甘い声をだした。


「いえ、忘れていました。たったいま思い出したところです……」


 頭の上に弁当入りの巾着を乗せたまま、レオナルドは相変わらず地面に倒れたままである。そんな彼を、タイガは申し訳なさそうな顔で見つめた。


「明日にはプレゼントを準備するよ。ごめんねレオ。誕生日おめでとう」


 悲しくも気を失っているのか。

 レオナルドからの返事はなかった。



「なんだって!? 悪党に拉致された!?」


 大好物のバジルフライドチキンを頬張りながら、レオナルドは驚きの声をあげた。


 午前の授業を終えると、ふたりはよく学校の屋上でランチをとる。今日もいつもの流れだ。タイガの他には誰もいない。声量に遠慮はいらない。


「アディさんには言わないでくれよ?」

「言わねえよ」レオナルドは真剣な顔つきで、「言わねえけどさ……。拐われた日の翌日なのに、なに食わぬ顔で学校生活に復帰してんだから。びっくりするわ……」

「イヴァンツデールたるもの、戻れる日常には即戻るべし。なにがあろうとも……」

「ソクラさんも手厳しいな」


 レオナルドのひきつった笑顔だ。


「僕も信じられないよ。昨日も家庭教師の授業を、普段どおりにこなした。武道の稽古も、いつもどおりだった。ベッドに入ってからの記憶がまったくないよ」

「そりゃ疲れて寝ちまうよな」フライドチキンを一本食べ終えたレオナルドは、次の一本を手に取り、「じゃあ、あれか? 昨日の放課後。俺と別れた後に拐われたのか?」


 木製のスプーンを手に持ったまま、タイガは首を縦に振った。その表情はこの世に絶望しているかのようだ。


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