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「おはよう」

「ああ、サクラか。おはよう」


 リビングのソファに座り、英字に満ちた新聞を広げるソクラ。そこに現れる寝ぐせだらけのサクラ。目玉焼きのにおい。トーストの香り。メイドたちが朝食を準備する足音。いつもの朝だ。


「ジンギ」ソクラは言いかけて、「タイガはどうした?」

「さぁ。知らない」


 食卓の椅子に座りながら、サクラが答える。


「あと四〇分で登校時間だぞ。間に合うのか」

「わたくしが様子を見てきます」


 セリカはエプロンの裾で手を拭いた。

 フリル付きのかわいらしいエプロンだ。


「頼む、様子を見てきてくれ」ソクラは片手でコーヒーカップを持ちながら、「もし体調が悪いのであれば、今日くらいはゆっくりさせてやろうと思う」

「承知しました。そのようにお伝えします」


 うなずいたセリカは早足でリビングを後にし、タイガの自室へ。


「えーずるい」すぐに反応したのはサクラだ。「私だって昨日は色々あったのに。現在進行中なのに。休みたーい」


 昨夜に初潮を迎えたサクラの躰は、いまも完全ではない。腹部の違和感、あるいは下腹部痛。頭痛や倦怠感けんたいかんなどを新鮮に感じている最中である。


「うむ……」


 愛娘の初潮について、ソクラは知らないふりをしなければならない。


「頭いたーい。休むー」


 あたかも気だるい様子のサクラは、椅子の背もたれに体重を預け、首を大きく後に反った。両腕は床に向かって棒のようにだらり。


「そうさな……」


 むしろ今日は、サクラとタイガを休ませて、代わりに普段はできないようなことをやらせるべきなのか。無理を言ってでも学校には行かせるべきなのか。ソクラは思案に苦しんだ。新聞に目を通してはいるが、文字がまったく頭に入ってこない。


「今日は、いっそのこと……」


 言いかけたときだった。廊下をどたどたと駆ける音ともに、中年の女性の声が慌ただしく響いてきた。


「あーらいやですわ! わたくしったら、お掃除の最中さいちゅうに花瓶を割ってしまうなんて、しかもこれで四回目ぇん!」


 突如リビングに現れ、猪のような鼻息を撒き散らしながら、雑巾ぞうきんを探しはじめた中年の女性。メイド長のドリシラである。一五八センチの身長に対し、九五キロの体重の彼女が歩くたび、まるで家全体が揺れるようだ。


「また花瓶か!」ソクラは新聞を下ろして、「ケガはないか!?」

「あーらやだ、心配してくださるの? それだから大好きなのよもーう、ご主人ったら。イケメン」


 ドリシラは間違いなく女性である。が、どういうわけか一度を経由してから喋っているように思えてならない。特徴のある口調だ。


「どこの花瓶を割ったのです?」アイリーシャは目玉焼きを皿に乗せつつ、「高価な花瓶は、全部倉庫に保管しておいてよかったですね……」


 彼女が花瓶を割ったのは、一度や二度ではない。

 どうも、掃除をしているときの動きに問題があるようだ。


「ドリシラ……」ソクラは新聞を畳み、「いい加減、後ろに進みながらのモップがけは、やめたらどうだ。そこまで拘らなくても誰も怒りはしない」

「それはだめですわご主人。わたくしが許せませんのよ」


 冷蔵庫横にあるボックスティッシュから一枚手に取り、ドリシラは鼻をぶーっとかました。やはり猪のようである。


 肌色のタイヤを重ね合わせたような豊満な肉体に似合わず、彼女の動きは素早い。口調も早口で、全体的に動きがとしている。


「モップで床を拭くときは、バックをしながらじゃないと。せっかく綺麗にした床を、掃除をしている本人が踏んでしまったのでは意味がないですものぉん。あーらやだ忙し!」


 足元の戸棚から雑巾を何枚か手にしたドリシラは、あー忙し、忙し、と連呼しながら割れた花瓶のもとへ戻った。ケガをするなよ、とソクラは廊下の奥へと消えるドリシラの背に向かって声を投げる。


「うむ……」そしてコーヒーをひと口啜り、「もうすこし落ち着いてくれたら、ありがたいのだが」

「ドリシラさんって戦車みたい」目の前に並べられた朝食にサクラは手を合わせた。「なんでもいいけど、今日は休んでいい? 頭痛いし」

「そうさな……」


 返答に困ったソクラは、アイリーシャに目をやった。女性特有の体調不良をどうあつかったらよいのか、尋ねているような表情である。対するアイリーシャは軽く首をかしげた。本当に無理なときは寝こんでしまいます、その点サクラさまは、そこまでではないかも、と表情だけで伝えようとした。


「登校だけはしてみたらどうだ?」ソクラは神妙な顔つきで、「どうしても具合が悪くなったのなら、そのときは、帰ってくればいい。担任には、体調が優れない旨を私からも伝えておこう」


 むすっ、とした顔をしてから。

 サクラは何かを諦めたようなため息をついた。


「わかった、そうする。皆勤賞逃したくないし」

「決まりだな」ソクラはにこりと微笑み、「偉いぞ、サクラ」

「別に偉くないし」



 一方のセリカは困っていた。タイガの部屋を訪ねたまではよかったが、彼はベッドの中でうずくまったままであった。登校時間まであと二〇分もない。


「タイガさま……」サクラはベッドの脇に正座をして、「やはり体調が優れませんか? ご主人さまからは、無理をするなと仰せつかっておりますが……」

「うん」


 意外にも明るめな声が返ってきた。


「僕はね、セリカ。怒っているんだ」

「なにに、でしょうか?」


 いちばんに心当たりがあるところでは、だろうか。


「夢を見たんだよ」

「どんな夢ですか?」


 きっと悪夢に違いない。


「僕はある物語の主人公だった。いや、ふたりいる主人公のうちのひとりだった。僕はお金持ちのボンボン。それを守る剛腕ごうわんメイド。そんな、ダブル主人公の話だよ」


 どこかで聞いたことがあるシュチュエーションだな、とセリカは思った。


 ふと自分のことか、と気づくのに数秒もなかった。


「なんとなく、わたくしとタイガさまにそっくりですね」

「うん。似ているね」

「昨日の出来事がよほど脳裏に焼きついたのでしょう。夢に現れるのも、無理はありません」

「ところが……!」


 そう言ってタイガは、がばっと上体を起こした。急の動作に驚いたセリカは口角をひきつらせ、少々のけぞった。


「物語の序盤。主人公であるはずの僕の出番が、ほとんどないんだ」タイガは奥歯をグッと噛みしめ、「それどころじゃない。幽霊や亡霊、あるいはゾンビのようなあつかいを受けていたっ……。あれでは脇役以下だ!」


 足を布団に突っこんだまま、タイガは両手で顔を覆った。そんな彼をよそに、ちゅんちゅんと雀たちの鳴き声が窓越しから聞こえる。爽やかな朝をいろどる、可愛らしい合唱だ。


「僕は本当に主人公なのか? いったいどうなっている……! そう思っていた矢先、夢の中のシーンはスタッフクレジットに移行した……。壮大なエンディングテーマが流れていたよ」


 なるほど、タイガの見ていた夢は二五にじゅうご分ほどのアニメ一本のような構成になっていたと、セリカはそう把握した。こくりとうなずきながら、タイガの話に耳をかたむける。


「そして僕は、たしかに見たんだ」

「見た……」セリカは生唾をごくり。「なにを、見たのですか」


 ゆっくりと、幽霊が取り憑いたフランス人形のように。

 タイガは首を動かし、見開いた目はセリカを見つめた。


「タイガ・イヴァンツデール。その名前が、出演者の並びの中でいちばん上にあった。だから僕は……、僕は……」

「主人公、なのですね」

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