第7話 紹介したい人がいるのです2
扉から顔をのぞかせた戸辺さんはわたしを見てにっこりと笑いかけましたが、沙良ちゃんに気づきそれを引っ込めます。代わりに物珍しそうな表情を浮かべました。沙良ちゃんもそれを見逃さず、はきはきと自己紹介をしました。
「こんにちは、小麦の友達の葵沙良です」
「葵沙良ちゃんか、いい名前だね」
戸辺さんも沙良ちゃんの工夫に気がついたようで、感心しています。下駄箱からスリッパをもうひとつ取りだしました。
「私は戸辺美里。まぁ、とりあえずあがって」
言うと、いつものようにわたしたちに構うことなく、ずんずん部屋に戻って行きました。わたしたちも室内靴に履き替え、後をついていきます。慣れていない沙良ちゃんが緊張したように廊下を見わたしました。
リビングはしっとりと暖かく、わたしのからだから冬の緊張がいっきに弛緩していくのを感じます。靴下の上からぽかぽかと伝わり、部屋中に拡散されていく温かみは床暖房でしょうか。ストーブも加湿器もありませんが、これは本まみれのこの部屋でありますからしかたないところです。
沙良ちゃんは大きな書架をぺたぺたと触り、天井に届くほどの書架が部屋にぎっしりとならんでいるようすを興味深そうに眺めていました。
「すごい圧迫感だね」
とひとり言をいいます。
わたしたちがちょうどソファーに腰を下ろしたころ、戸辺さんがティーポットとカップを持ってきてくれました。ゆっくりと机に置き、丁寧にお湯を注ぎます。茶葉が一斉に開き、ダージリンの匂いがしました。
「戸辺さんまずはこれ。面白かった」
わたしは戸辺さんから借りた『長い家の殺人』をわたします。戸部さんも大切そうにそれを受けました。
「面白かったのならよかった。シリーズだからまた貸してあげれるし。沙良ちゃんもよく本を読むの?」
沙良ちゃんは話を振られると思っていたのでしょう。気まずそうにして答えました。
「いや、わたしあんまり本を読まなくて……。絵は好きなんですけど」
「なんか意外だね。小麦ちゃんの友達だからてっきり読書家なんだと」
そうなのです。沙良ちゃんの活字嫌いはわたしが読めとせっついても直らない、筋金入りのものでした。今年の読書感想文では半べそをかきながら、最終日に終わらせていたくらいです。まぁ、わたしも美術館では歩きながら船を漕ぐたちなのでひとのことは言えませんが。
「せっかくだからなんか読んでみる? そうだ、小麦ちゃんに選んでもらえば」
読書嫌いの小学生が本の面白みに浸かれる本。腕がなります。
『指輪物語』『霧のむこうのふしぎな町』といった定番ファンタジーはどうでしょう。『星の王子さま』も素敵ですが難解すぎます。わたしのミステリ初体験であった『そして五人がいなくなる』。図書館だよりのいいなりが嫌なら『おおかみこどもの雨と雪』『お召し』なんかをチョイスするのも面白そうです。
……どちらにせよ今までのやりとりの繰り返しになります。こればかりは無理強いするわけにはいきません。沙良ちゃんと本について語りたいのは山々ですが、わたしだってゴッホやゴーギャンだと言われてもピンときません。
沙良ちゃんはともかくわたしまでもが首を振ってしまったので、戸辺さんもそれ以上のことは言いませんでした。話題は学校のこと、休みの日のこと、好きなもののことになります。
「戸辺さん、わたしの本は読んだ?」
わたしが聞くと、戸辺さんは目をしばたかせました。やっぱり、また忘れているみたいです。
「ほら、『ヘンたて』貸したでしょ」
わたしがそこまで言うと、ようやくわかったみたいです。半分ほど読んだから明日返すと約束してくれました。
最初は緊張からかあまりしゃべらなかった沙良ちゃんでしたが、時間が経つにつれて緊張もほぐれてきたようです。だんだんと口が滑らかになり、明るくて利発な沙良ちゃんが戻ってきます。戸辺さんも楽しそうに笑っていました。
そろそろ帰ろうかというところで沙良ちゃんがトイレに行きたいと言い出します。わたしに場所を聞いてきましたが、わたしもお手洗いをお借りしたことがないので答えに窮してしまいます。戸辺さんがここから左のつきあたりにあるから、まっすぐ進んで、と説明をすると沙良ちゃんはいそいそと部屋を出て行きました。きっと紅茶を飲みすぎたのでしょう。
「いい友達だね」
沙良ちゃんが席をはずしている間、戸辺さんが紅茶をかき混ぜながら言います。わたしはもちろん頷きました。
「わたしにもああいう友達がいたらな……」
戸辺さんはすっかり遠い目です。
そういえば、戸部さんの交友関係をわたしは知りません。あまり詮索するのも失礼にあたりますが、どのこまで聞いていいものでしょうか。さりげなく尋ねる方法が思い浮かばなかったので後にします。代わりに「でも沙良ちゃんは最初、戸辺さんを悪いひとだと思っていたんですよ」と悪戯っぽく笑おうとしたところで異変に気がつきました。
戸辺さんのようすが変です。
額には脂汗が浮かび、、左手はぷるぷると痙攣していました。右手はそんな左手を押さえるのに必死でしたが、荒くなった呼吸の音はわたしにも届くほどでした。押さえきれなくなった左手が机の端にあたり、カップが転がりました。
「戸辺さん? あの、大丈――」
わたしが思わず声をかけた瞬間、ドアががらりとあきます。沙良ちゃんが戻ってきたのです。
うつろな目で沙良ちゃんをとらえた戸辺さんは無言のまま、沙良ちゃんと入れかわるように出ていってしまいました。不思議なことに「なにかあったの」と聞く沙良ちゃんまでもが青い顔をしています。わたしは不気味とおどろきのあまり、頭の中がぐしゃぐしゃになってしまって、沙良ちゃんの問いかけにも意味もなく首を振ることしかできません。
沙良ちゃんは青白い顔をしたまま、なにやら思案しているようでした。
どれくらいの時間がたったのでしょうか。わたしが落ち着いたころに戸辺さんが戻ってきます。さっきまでの表情が嘘のように優しい、戸辺さんのいつもの微笑みでした。
「ごめんね、ちょっと体調が良くなくて」
沙良ちゃんがなにか言おうと口をひらきますが、それよりも早く、有無を言わせずに戸辺さんが言い切りました。
「だから、今日はもうお帰り」
わたしはその姿を直視できません。そのすがたは怒っているような、悲しいような、迷子の子供が途方にくれてしまったすがたによく似ていました。
「小麦、帰ろう」
沙良ちゃんの声でわたしは立ち上がります。
冷たい廊下をわたりました。わたしと沙良ちゃんの足音が家中に響きわたっていました。振り返っても、寒々しい廊下が見えるばかりです。戸辺さんはいません。
ドアノブを回せば、玄関のカウンベルが空々しく鳴り、からだに染みいるような寒さが戻ってきます。冬の住宅地はひっそりと息をひそめ、あたりは墨を塗りたくったかのように暗く、一本の電灯に照らされてわたしの息が白くなりました。
沙良ちゃんの頬が光っています。涙にも見える、触れれば消えてしまいそうなみぞれでした。
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