第5話 大人の階段上る
その日の夕食までわたしは戸辺さんから貸してもらった本を読んでいました。
いつもはリビングで本を読むのですが、今日はお母さんが父母会に出掛けているのでとても静かに没頭することができます。半分ほど読み進めるとお腹がすきました。さっきおやつを食べたばかりだというのに燃費の悪いからだです。
わたしは仕方なく、冷蔵庫に向かいました。といっても目的はそのなかにあるのではありません。
洗面所に行って小さな踏み台を持ちます。冷蔵庫の前に立つと、踏み台をふみ、その上にある赤いキャップのついたボトルをつかみます。わたしの顔がすっぽりとおさまってしまうくらい大きな容器の中には、透き通った緑がたぷんと揺れていました。
これは梅酒です。といってもわたしの両親はふたりそろってアルコールがだめなので小学生でも飲めます。そうするともう、梅ジュースの原液ですね。お母さんはわたしに飲ませまいと冷蔵庫の上に保管しますが、まだまだ甘いです。わたしも踏み台をつかえば上までぎりぎり届く身長になりました。
透明なコップに原液をちょうど一対三くらいの割合で薄めます。カルピスよりちょっと濃いくらいがおいしいです。大きな梅が入り、ちゃぷんとしぶきをたてました。
わたしはこれを飲むと大人になった気分になります。アルコールが入っていないといわれればそれまでですが、ビー玉のように沈む梅たちを見ればコップの深緑の液体はなんだか本当の梅酒のような気がしてきて、わたしにはそれで十分だったのです。
もちろんジュースも飲みます。甘いもの大好きです。
飲み終わったあとはお母さんが帰ってくるまでに急いで片づけをします。コップを洗い、ボトルを戻し、踏み台を元の場所に置きました。
宿題の漢字の書き取りをやっているとお母さんが帰ってきました。わたしは手を休めませんが、明るい声で言いました。
「おかえりー」
玄関のほうでビニール袋が擦れる音がします。わたしは鉛筆を強く握りました。
「ただいまー」
リビングのドアをあけたお母さんは開口一番こう言います。
「小麦、あんた梅のやつ飲んだでしょ」
わたしはおどろいて鉛筆を落しました。
「そんなことないけど、どうして?」
おかあさんはぶらりと台所をまわっていました。シンクを調べ、食器棚に手を伸ばし、「ひとつコップが濡れてる」と呟きます。わたしは背筋が凍りました。
「なんでって、梅の匂いがしたから」
わたしは思います。母は強し。というよりこの場合はエスパーではないでしょうか。
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