第3話  美味しいピーチパイの図

 沙良ちゃんの家は近いというのはすぐに判明しましたが、小学校が違いましたので毎日のように遊べるわけではありません。下校の時間がずれていたりすると、すれ違うこともたびたびかさなります。

 わたしが公園で待っているあいだにブランコで気持ちよく風をきっていると、こっそり沙良ちゃんが後ろにまわり、背中を急におします。いきなり速度が増したわたしは悲鳴をあげ、鎖にぎゅっとつかまるしかないのです。そういったいたずらはよくされました。それからというものわたしは彼女の背中を虎視眈々とねらい、沙良ちゃんもスタントマンもかくや、という芸当で華麗に交わすことがよくあります。沙良ちゃんと遊んでいるあいだは、わたしの悪い心は顔を出さず、それだけでもわたしが沙良ちゃんと一緒にいる理由になりました。

 戸辺さんと出会ったのは半年も過ぎ、銀杏がぱらぱらと落ち始めたころでした。関係のないことですが、わたしは銀杏とたけのこが大好きで、この時期になるといつもお母さんに銀杏ましましの茶碗蒸しをつくってもらいます。あれだけ嫌な臭いのする銀杏が、茶碗蒸しにするとほくほくおいしいのは不思議なことです。

 その日は学校がお休みで、沙良ちゃんは駅前の画廊に行っているとのことでした。わたしは文学と音楽はたしなんでいますが、絵画の面白みはてんで分かりません。せっかくのお誘いでしたが断わり、のんべんぶらりと秋晴れを散策していました。

いつもの公園を通ると、見知った子供の中に知らない女性がまじっていました。だれの保護者というわけでもなく、ただじっとベンチで文庫本を読んでいます。

 わたしはさり気ないふうをよそおってそのひとの前を横切りました。というのも外から見えた題字が『空飛ぶ馬』とかかれていて、なんとわたしが昨日読み終わった本と同じものだったのです。

 そんな偶然はわたしをうずうずさせ、誘蛾灯にふらふらと近づく虫のように近づけるには十分な効果でした。しかしそんなうずうずは戸辺さんにはすぐに看破されてしまったようです。戸辺さんは本から顔をあげ、ふっくらと微笑みわたしに話しかけました。

「読んでる本がそんなに気になる?」

 わたしはまさか話しかけられるとは思ってもみなかったので、とっさにはうなずくことくらいが限界でしたが、小さな声で付け足しをしました。

「昨日、それ読んだから」

「私はちょうど今読んでいるの。『赤頭巾』も読んだ?」

『赤頭巾』は作品に収録されている短編です。わたしはちょっと考えて言いました。

「読んだけど、よく分からなかった」

戸辺さんは本にしおりをはさんでいましたが、ぽん、と本を閉じて、

「嘘をついたね」

 と苦笑いをします。ばれました。

 知らないひととお話しするのは学校で禁止されています。わたしは学校の言いつけを破るような子供ではありません。ですが、つまりは知らないひとでも知っているひとにしてしまえばいいのです。わたしは胸をはって自己紹介をします。

「わたしは村田小麦といいます。お名前はなんていいますか」

「私? 私は戸辺美里だけど」

 戸辺さんがそう言ってからしばらくは沈黙がつづきました。その間、戸辺さんはあわてる風もなく、目のまえのわたしを見たり、気持ちのよい風が吹いてくると猫のように目を閉じ、やってくる秋の気配を楽しんでいるかのようでした。

 困ってしまったのはわたしのほうです。わたしのほうから話しかけたのに、このまま黙って立ち去ったのでは、失礼にあたってしまいます。しかしなにか言わなくてはとあせるほど、うまい文句は浮かんできません。

 結局、気まずい沈黙を破ってくれたのは戸辺さんでした。うつむいて口をもごもごさせているわたしがおかしかったのか、くすくす笑っています。

「小麦ちゃん、だっけ」

「はい」

「小麦ちゃんは本が好きでしょう」

「うん、戸辺さんもでしょ」

「もちろん。どうかな、せっかくここで会ったのもなにかの縁だろうし、お互いのお気に入りを交換し合うっていうのは」

 わたしは思わず歓声をあげてしまいます。

「じゃあ、決まりだね。まずは私から本を貸すよ」

 戸辺さんはベンチに置いていた文庫本をつかんで立ち上がりました。せっかく公園に来ているというのに、戸辺さんの持ち物はほんとうに文庫本ひとつだけのようでした。前をゆく戸辺さんの髪からはとても良い香りがします。

「そうだ、美味しいピーチパイもあるんだ。食べるでしょ」

ピーチパイ。その単語にわたしの脳内は桃一色になりました。わたしはこうみえてお菓子の好き嫌いはしません。さくさくのパイ生地にとろとろの甘い桃を浮かべるだけで、頬がゆるんでしまうのを感じました。

 しかし落ち着いてみれば、これは『小学生がお菓子に釣られて誘拐されるの図』そのものです。絶品だったピーチパイはともかくとしてこのときの判断には忸怩たる思いがあります。

 ふと、ベンチの下を見ると白い紙袋が落ちてありました。落し物かと思い声をかけようとしまずが戸辺さんはまったく気にしないのでどうやら違うようです。わたしは甘いピーチパイを思い描き、こっそりよだれを垂らしてしまいました。

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