第2話 とても素敵な名前
一年ほど前まで、わたしはずいぶんいけない子でした。
といっても、学校中のガラスを割ってまわったりだとか、先生に反抗するだとか、目に見えた悪さをするようなことはありません。むしろそのほうがいっそ清々しいのではないかとわたしは今になって思います。
わたしの悪い心はわたしのなかで育まれ、どんどん肥大していきました。わたしは立派な人間になろうと、本を読んで知識をたくわえ、散歩をして感性をみがきます。しかしそんな日々の研鑽が、むくむくとわたしの悪い心をふくらませたのもまた事実でありました。
わたしはクラスメイトとは多くを語りません。いや、語れませんでした。わたしからすれば彼らの世界は驚くほど低俗で、つまらないものばかりだったからです。そしてこれは意外だったのですが、わたしが彼らに思っているような感想を、彼らもまた持っていたようでした。
小学生とはいえ、じぶんとは相容れない存在を嫌悪するのは人間の理のようです。しだいにわたしは彼らに攻撃されるようになりました。
わたしの机から『ノックスマシン』を隠し、ランドセルの奥底に入れておいた日記をあざけるように朗々と読みました。そんなときわたしは頬を赤くするばかりで、「やめて」のひとことも言えず、貝のようにだまってしまいました。思っている言葉の百万分の一さえ伝えることが出来ないのです。そうして心の内での思いがどんどん逆流するうちに、いつしかわたしは彼らを見下すようになっていったのです。
わたしは心の中では雄弁な批評家でした。
しかしそのことが自己嫌悪の裏返しであることはわたしにも重々分かっていました。
それを見かねた両親はわたしに転校を勧めました。わたしはしぶしぶという体をとりながらも、その提案に飛びつきました。新天地にいけばなにかが変わるのではないかと淡い期待をしたのです。
新しい学校での生活はおどろくほど早く、なじんでいきました。クラスメイトは転校生であるわたしに気づかい、優しくしてくれます。ひと月たち、ふた月たったところでわたしは異変に気がつきました。
わたしは変わらずつらいままなのです。
理由は明白のようでした。
クラスメイトはわたしに笑顔をもって語りかけます。わたしも微笑みながら応えるのですが、その本性は変わらずあなたを馬鹿にしたままなのです。相手が親愛の情を持って接してくれているとき、わたしは応えるふりをして平然と見下しています。相変わらず低俗はなしばかりだなぁと思います。こいつらはただ飯食って寝てるだけじゃないか、もっと文化的でうつくしいものは見えないのか、とさえ思います。
そんな汚らしい交友があるでしょうか。
世間のひとはそんなものだと笑うかもしれません。だけど苦しい思いもしたくないわたしは、厚い仮面をかぶったまま、中途半端に生きていきました。
世俗にまみれることもじぶんに徹することも出来ない。
そんなじぶんの甘さが死ぬほど嫌いでした。
わたしの中の悪い心はこの高慢ちきな心とちっぽけな自尊心だったのです。
悪い心は周囲にも伝わるようです。そのうちわたしに話しかけてくれるひとも少なくなり、わたしは孤立を深め、また悪い心も育っていきました。
わたしが橋の上で沙良ちゃんと会ったのはその頃でした。
思い返せばあの日の風景が脳裏によみがえってくる……、というわけにはいきません。沙良ちゃんは怒るかもしれませんが、去年のことなので細かいところは忘れてしまいました。ただ、今日よりかは強い雨が降っていたような気がします。
当時のわたしはそんな罪悪感にさいなまれていました。突然わけもなく悲しくなってしまうことがしょっちゅうありました。その日も散歩中に悲しみがやってきて、橋の欄干にもたれかかりうぐうぐと泣いていたのです。
レインコートを着て散歩に出かけたはずですが、息苦しくなったのか、わたしはフードをはずしていました。雨がわたしの髪の毛をぬらし、かわいたひじきのように、細く縮れています。わたしが情けなくしゃくりあげると、髪がべたりと頬につきました。
そのようすを沙良ちゃんは反対側で見ていました。わたしも視界のはしではとらえていました。しかし沙良ちゃんはわたしとは違う学区の小学校に通っていて、このときの面識はお互いにありません。「恥は掻き捨て」とつぶやいてわたしは感情の発散に努めていました。
すぐに行ってしまうかと思われましたが、どうやらわたしをぶしつけに見ているようです。またわたしの悪い心がつばを吐きました。
ゆっくりと近づく気配がします。わたしは身を硬くしました。
「どうしたの、お腹でもいたいの?」
そこでわたしははじめて声の主を見たのです。
そのときの沙良ちゃんは赤い傘をさしています。色白で白いブラウスを着ていました。背丈はわたしよりすこし高いくらいですが、鮮やかな赤をかかげ、すっくと屹立するすがたはまるでホウセンカのようです。好奇心のためにひらかれたその目には、無邪気さがよくあらわれていました。それでいてわたしはすべてを見透かされるような気持ちになりました。沙良ちゃんはそういう瞳をしています。いまでもはっきり形 容できません。
それにしてもハライタとは。わたしをまいごの子猫ちゃんとでも思っているのでしょうか。わたしは低い声で言いました。
「別に、そういうわけじゃない」
言いたいことも言えず、お腹に毒まんじゅうを秘めているわたしには珍しい行動でした。よっぽど心外だったのか、それとも「恥は掻き捨て」とこの場かぎりのつきあいになると思っていたのでしょうか。
「だって、こんなところで泣くなんて普通じゃないでしょ。道に迷ったのなら案内してあげるよ」
やっぱり、勘違いをしていたようです。
「迷ってなんかいない。それにわたしは普通じゃないの」
わたしはこの言葉に思いのたけを込めたつもりでいました。もちろん沙良ちゃんにはなんのことだか分かるはずもありません。瞳をよりいっそう大きくしてわたしをしげしげと見まわしました。
「どうみても普通、の小学生だよね。学年はいくつ?」
「うるさいな」
「見ない顔だけど、私と同じ小学校じゃないの?」
「しつこいってば」
「名前は?」
わたしはその言葉で我にかえります。自分が名前もしらないひとにこんな口の聞きかたをしていたと思うと、ちょっぴり恥ずかしくなりました。小さな言葉で言います。
「小麦。村田小麦」
「へぇー、小麦ちゃんか。私は葵沙良。どっちも名前みたいでしょ」
たしかにどちらも名前で通っていても違和感はありません。わたしは聞いたばかり名前を反芻しました。
「あおいさら、あおいさら……、これって」
わたしが言うと、沙良ちゃんは破顔しました。あらゆるものを吹きとばすような特上の笑顔でした。
「そう、青い空。狙ってつけたんじゃないって言ってるけど、とっても素敵だと思わない?」
わたしはそれを聞いて肩を震わせました。そう、とっても素敵な名前です。
また涙が頬をつたってくるのを感じます。どうしてでしょうか。今度の涙は止まる気配がいっこうにありません。わたしは精いっぱい笑おうとします。ほんとうに悲しいときは思いきり泣けばいい、なんて言うひともいますがそれは嘘っぱちです。泣けば弱くなるに決まっています。それでもわたしは涙を止めることができませんでした。
わたしが泣き笑いしているのに沙良ちゃんも気づいたようです。戸惑ったようにわたしの肩に手をおき、にっと、笑ってみせました。わたしもぐしゃぐしゃになりながら必死に応えようとします。優しくフードをかぶせてくれて、近づいたブラウスからはせっけんの健康的な匂いがしました。
沙良ちゃんの赤い傘に入り、わたしはしくしく泣きました。
わたしと沙良ちゃんは、そのまま友だちになったのです。
もっとも沙良ちゃんに言わせれば、あのときの小麦はとても放っておけるようなようすじゃなかった、なんて顔をしかめるのですが、すでにそれが照れくさいときの沙良ちゃんだとわたしは知っています。
なぜ、わたしが初対面の沙良ちゃんにそれだけ感情をさらけだせたのかは不思議です。ただ、沙良ちゃんの笑顔でわたしのなにかが吹きとび、すこしだけ軽くなったのは揺るぎようのない事実でした。
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