桃花
魔法少女空間
第1話 プロローグ
遠くから雨が降ってきました。
わたしは手のひらで雨を受け止め、ねずみ色となった空を見上げました。春も中ごろに近づいた雨は生温かく、多少のことなら風邪の心配はなさそうです。しかしそのまま歩くには少し、雨が強いような気もしました。
わたしは用意しておいた傘を広げます。そのたびにばしゅっと機関銃のような音がしました。
今も十分幼いわたしですが、もっときわめて幼かった頃、この傘を広げるときの音がわたしは好きでした。おじいちゃんが使っていた黒い立派な傘で、幼な心にもきっとこうもりが羽を広げるときはこんな音がするに違いない、とぼんやり考えるのが面白かったのでしょう。雨に濡れるのも構わず、ばしゅっばしゅっと、開いては閉じを繰り返していた記憶があります。もちろんきわめて幼い頃のはなしですが。
わたしにはお気に入りの黄色いレインコートがあります。遠くから見るとシンプルな雨合羽ですが、たくさんのポケットが付いていて雨の日の散歩にはとても重宝します。わたしは出たばかりの家に戻ろうかと振り返りますが、結局はやめにしました。ひとつは家に戻るのが面倒くさかったのと、もうひとつはわたし自身、これは散歩ではないということをよく分かっていたからです。
雨がわたしの腕にぽたぽたと落ちてきました。わたしはお小遣いでこっそり買った腕時計に目をやります。青と白の水玉模様でとても可愛らしい腕時計ですが、お母さんに見つかったら、小学生には必要ないと取り上げられてしまうでしょう。だからわたしは外出するときに机の引き出しからそうっと取り出してくるのです。
時計を睨みながらつぶやきます。
「確か時計は右回りだったはずだから……。まだ間に合う、と思うけど」
恥ずかしいはなしではありますが、わたしは時計の読み方に自信がありません。特に長い針と短い針が絡みつくように交わっているとこでは、いつも頭の中までもがこんがらがってしまいます。
わたしは時計を睨むのを終わりにして、前を向いて歩き始めました。残り少ない時間をどれだけ少ないか数えて時間を消耗するのは、愚者のすることだとわたしは教わっていたからです。
ぶらりぶらりと進んでいくと小さな公園があります。シーソーも鉄棒もしっとりと雨に濡れていて、だれも使っていません。
いつもは近所の子供たちでにぎわっているので思うように遊べません。そうか、公園でぶんぶん遊びたいときは雨の日に来ればいいんだ、ということにわたしは気がつきました。新しい発見です。
降りしきる雨は小さな公園の池を揺らし、水面にはいくつもの波紋がくもの巣のように広がっています。その上をアメンボたちが煩わしそうに行きかっていました。どれほど降りしきる雨の中でも、水滴が直接アメンボに当たるようすはありません。彼等は不思議な恩恵にあずかるように、ゆったりとした面持ちで水面を進んでいきました。
慣れ親しんだ公園はひっそりとしていて、目の前に立つポプラの木が息をひそめているのが分かりました。森は雨が降るのを素直に喜べないのでいつも頭を垂れて難しい顔をしています。
公園を出ると小さな川に出ます。川に沿って植えられた桜が、ちょうど三分咲きくらいになっています。
わたしが歩くたび、桜の花びらが混ざった水溜りが音をたてます。それは春雨がわたしのとなりを歩くようにも感じて、ちょっぴり嬉しくなりました。
細く長い川の端から端まで、家々が連なっています。昨今、物騒になってきた世の中です。表札を出していない家は少なくありません。目を凝らしてみてもどれも似たような家ばかりで、川の先へと、見えなくなるまで永遠と続くようなそれはちょっとした迷宮のようでした。
わたしはその長い迷路の中から戸辺さんの家を探し出す方法を知っています。
視覚を使う必要はありません。いくつもの玄関を過ぎるたびにちょっと目をつむり、鼻をすすってみればよいのです。暗闇の中からほわっと、かすかな桃の匂いがすればつむっていた目をひらきます。
そこではすっかり満開となった桃の木がわたしを出迎えてくれています。庭に入れば桃の香りはいっそう強くなり、あたりは甘く、艶かしい匂いで包まれていました。
わたしが始めてここを訪れたときは冬の足音が聞こえ始めていて、長袖一枚では少し肌寒いくらいでした。もちろん桃の木も茶色い棒がひとつあるだけで、この庭も閑散としていました。
わたしはこの青い扉の先で『シャーロックホームズの冒険』や、『十三角関係』を借りました。後者に関して、背伸びをした感は否めません。長いことかかって読み終わり、その年の終わりに返すことが出来ました。
それからしばらく本の貸し借りが続きましたが、戸辺さんはたいへんな忘れんぼうで、わたしが本の進捗を聞いてみても「あれ、そんなことあったっけ」ととぼけることがよくありました。それが冗談ではなく、本気で言っていると気付いたのは最近のことです。
戸辺さん自身もその癖について理解しているようで、わたしが心配そうなそぶりを見せると、奥に引っ込み、書架から貸した本を取り出してきてくれました。そんなときは「借りた覚えはないけど、見たことない本があったの」なんて言っているのですが。
戸辺さんは長く美しい黒髪をしていました。女のわたしでさえ見惚れてしまうそれは『緑髪』とよぶにふさわしい、深く、艶のある黒でした。当然わたしも真似をしてみようとするのですが、めざとい母にすぐ切られてしまいます。なのでいつもわたしはいつもおかっぱちゃんでありました。
窓にかかったカーテン越しから柔らかい光が漏れています。今回わたしは青い扉を叩きません。時計を見てもまだ時間があるようです。
わたしは桃の木に寄りかかり、祈るように扉を見つめていました。どこかで車が水溜りを蹴る音が聞こえるたびに、わたしははっと顔を上げます。しかしそれはいつも自家用車だったり、軽トラックだったりしました。家から漏れる光に変化はありません。わたしはまた時計を見ます。心臓がどくんどくんとからだじゅうを支配していました。
すっと息をはきます。
……どうやらわたしは少し、あせりすぎているようです。慌ててもよいことはありません。わたしはもういちど大きく息を吸い、ゆっくりと吐きました。
落ち着いてみれば、雨が傘を叩く音がくっきりと聞こえます。わたしはふと記憶を探ります。
雨の日には思い出があります。たとえば沙良ちゃんと仲良くなった日とか。
あの日も雨が降っていたような覚えがありました。
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