第8話 秀頼の逆転勝利 始末 その八

 豊臣領内の商人や農民が仕事に励み、全て順風満帆に思われていたある日、


「殿」


 幸村が声を掛けて来た。


「どうした」

「徳川がついに動き出したようで御座います」

「なに」


 幸村の手の者が探っていた徳川幕府の動きが、このところ活発になってきたというのだった。

 先の戦から五年後、江戸城では兵糧を用意し、全国の大名に対して、書状が盛んに送られるようになったと。


「ついに来るか。幸村、戦の準備だ、先手を打つぞ」

「はっ」

「徳川に書状を送れ。天下は民百姓町人の為にある。キリシタンが迫害されているのを見殺しには出来ぬとな。それから上杉景勝殿、伊達政宗殿、島津義弘殿宛やその他の大名にもだ、個別の文面はそなたに任せる」

「…………」

「豊臣軍は徳川方を攻めるが、徳川に組する大名以外は豊臣側になるか、中立をお願いせよ」

「分かりました」


 秀頼はキリシタンではないが、そんな事は関係ない。戦には大義名分が必要なだけだ。


「それから幸村」

「はっ」

「その方、今回は領内に留まってくれ」

「…………」


 豊臣の領国はちょうど東西の徳川方と思われる国々に挟まれている。豊臣軍を東に向かわせると、西からの攻撃を考慮しなくてはいけないだろう。幸村には豊臣軍の半数を与え、国境の防備を固めて領国を守ってもらう。領民には戦の最中も安全に商いや米作りに従事してもらいたい。その為にはどんな外敵にも対処できる軍事力が必要なのだ。幸村はそれを理解した。





「勝永、準備は良いか」

「はっ、御命じになれば、何時でも進軍できます」


 約十万の豊臣軍が東に向け進軍を開始、さらに十万が幸村と共に残った。

 当面の目標は尾張藩、名古屋城だ。徳川義直が藩主となっている。

 名古屋城の城地は、濃尾平野に注ぐ庄内川が形作った台地の西北端に位置している。

 台地の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地、と防御に適した地勢であった。伊勢湾に面した港から、台地の西端に沿って堀川が掘られて、城下の西の守りの機能も果たしていた。


「その前に攻めるは大垣、加納城だな」

「はっ、確かに」


 現代の岐阜県には二〇近くの城跡がある。名古屋城に向け進軍する豊臣軍を阻む城をまず攻略する。

 豊臣軍は領内東の端、彦根城周辺に集結している。ここからさらに東に約二十キロ行くと、五万石の大垣城がある。大垣藩主は松平忠良。もう彦根城に豊臣軍が集結している情報は届いているだろう。


 翌朝早く、豊臣軍は大垣城に向かい進軍を開始した。後からは弾薬や豊富な食料を運ぶ輜重隊が続いた。またこの隊にはおれの指示で金瘡医も多数従軍させている。刀や槍などによる傷を手当てする外科医だ。戦国時代の足軽たちは、仲間の身体に矢が刺さったりすると、力任せに引き抜いたと言うではないか。乱暴にもほどがある。勿論破傷風だの感染症だのと言った知識は無かっただろう。豊臣軍では負傷兵を運ぶ専門の部隊も編成された。身分の高い武士だけでなく、足軽も分け隔てなく運べと指示する。負傷した兵士に気をとられていては、他の者が戦に集中出来無いのだ。

 一方豊臣軍の兵士達には進軍先での乱取り、略奪は言うに及ばず、婦女子への乱暴狼藉を働いた者はその場で切り捨てると明言した。そこに暮らす人々はいずれ豊臣の領民になる者達なのだからと。

 豊臣軍の行く先では、絶対に一般民衆に危害を加えない事を徹底させた。その為に、食糧を豊富に輸送して、さらに規律を守った兵士らへの報酬を必ず払う事にした。他の領地からも信頼される豊臣軍をアピールするのだ。それがいずれ豊臣家に帰ってくるはずだ。

 そして豊臣軍が戦場に出発する際は、食糧を満載した輜重隊を道横にずらっと並べて、その側を行軍させた。これで否が応でもその山のような食糧が兵士達の目に入って来る訳だ。これは安心するだろう。



 大砲の威力を知っていたらしい家康は、関ケ原の前には、国友鍛冶に十数門の大砲を発注していたようです。大坂の陣の前には堺にも発注、イギリス東インド会社にも四門の大砲を注文しているとか。特に、堺の鉄砲鍛冶、芝辻理右衛門が製造した大砲は芝辻砲と呼ばれ全長は三メートルを超えた。

 一方東インド会社から輸入した大砲は、前装式のカルバリン砲で射程距離は六キロもあった。こうして家康が集めたり造ったりした大砲は、とても信じられないが全てを合わせると百門近くあったと言う。その大砲を大坂冬の陣で撃ちまくったのだった。



 大垣城を取り囲んだのは豊臣秀頼の隊三万、毛利勝永三万、毛利勝家二万、木村重成一万、明石全登一万であった。豊臣軍は直ちに砲撃を開始した。その砲撃に、大垣城側も黙っていたわけではなく、二の丸前に据え付けた大砲で迎撃してきた。しかし、圧倒的な豊臣側大砲数の前に大垣城の大砲は焼石に水だった。豊臣軍は徳川方から以前に奪い取った大砲を含めて一〇〇門もの大砲を所持している。それを今回は半分ほど持ってきているのだ。


「勝永」

「はっ」

「大砲を城正面門前に並べろ」

「分かりました」


 当時の大砲で石垣や城門を破壊できなくとも、敵の戦意を著しく低下させることは出来る。

 正門前に並べた大砲からは水平撃ちを指示した。砲撃で門や塀を狙い砲撃するのだ。

 それは凄まじい砲撃になった。砲弾が当たった兵士の身体は、粉微塵となって吹き飛ぶ。半日も続くとついに城の防御は破られて、豊臣軍が城内になだれ込んだ。


 カルバリン砲は、一五世紀から一七世紀にかけて、欧州で使用された大砲で、戦国時代のカルバリン砲は長さ三メートルもある。八キロの砲弾を飛ばす事が可能で、五キロの砲弾しか飛ばせない芝辻砲の性能を大きく上回った。ただカルバリン砲の狙い撃ちが可能な距離は五〇〇メートルが限界だったらしい。それに比較し家康の芝辻砲は六〇〇メートルとカルバリン砲より一〇〇メートル長かった。家康は有効射程距離が長く、しかも命中精度の高い大砲を求めたようです。


 豊臣軍の総攻撃で三の丸はその日のうちに陥落し、翌日には決着がついた。城内から豊臣側に寝返った者が内門を開けたのだ。何しろ夏の陣で接収された武器弾薬が、まだ補充しきっていなかったようだ。だから城内の戦意はすぐに低くなってしまっていた。大垣藩主の松平忠良自身は二の丸が陥落した後も抗戦を続けようとしたが、秀頼からの使者が説得すると降伏し開城した。

 そして戦の終わった後は、食糧を満載した移送隊の出番だ。この戦で混乱した地の民たちに、食料を配って回らせた。


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