第2話 完璧帰趙

 ちょう恵文けいぶん王は困り果てて、側に控える宦官の繆賢ぼくけんに尋ねた。


「どうしよう……しん昭襄しょうじょう王に返事をしないといけないんだけど」

「さようですな。結局議事ではどうなりましたか」

「結局それが決まらないんだよね。みんなが言ってることはわかるんだけどさ。でもそろそろ決めないと本気で攻めてくると思って」


 その頃、趙では1つの問題が起こっていた。趙王の下に秦王から1通の手紙が舞い込んだのだ。


和氏かしへきをよこせ。15の城塞都市と交換してやるから』


 有体にいうとそんな内容。壁とは薄いドーナツ型の宝玉である。何故バレたのかわからないが、王が最近手に入れた和氏の璧は中華の至高だ。何ものにも代えがたい。

 けれども趙と比べて秦は強大だ。断ったら無礼だと言って攻め滅ぼされてしまいそうだ。渡しても約束を反故にされそうだ。

 秦は虎狼の国と呼ばれていて、信義は通じず嘘をつくと有名だった。約束を反故にされれば周囲の国に趙は鴨だと思われる。

 渡すべきか、渡さぬべきか。議事は紛糾して進まない。

 

「そうですなぁ。私の客に胆もあって頭が切れる者が居りますが、呼んでみましょうか」

「うん、じゃあお願い」


 王の眼下に拝した藺相如りんしょうじょは妙に愛嬌のこぼれる美丈夫だった。その細く伸びた眉の下の透き通った両眼で王を見つめ、その物腰は柔らかかった。

 けれども王は直感した。こいつはヤベー奴だ。何がというわけではないが、なんか怒らせたら怖い気がする。


「お初お目にかかります。藺相如と申します。よろしゅうに」

「ああ、今秦から璧を寄越せと言われていてな」

「仔細は聞いとります。まあ国力がちゃうさかいに渡さんわけにはいかんでしょうなぁ。せやかてただ取られるだけやと周りに侮られてしまうやろし」

「どうしたらいいだろう」


 その男は妙に細長い指をその目元にあて、少し目を眇めて何かを考える素振りをした後、面を上げて述べた。


「他に誰もおらんのでしたら、私が行って参りましょか。15城市と引き換えやなかったら、必ず璧を趙に戻しますよって完璧帰趙


 その三日月型に曲げられた唇からうっすら漏れる音は、穏やかな口調であるのにもかかわらず有無を言わせぬ迫力があった。


◇◇◇


 秦の王都咸陽かんようの、ここはさらにその中心に位置する宮廷、咸陽宮かんようきゅう、ではなくその離れ。

 謁見の場で捧げられた璧に王はいたく満足していた。それほどに素晴らしい璧だった。まるで神気がにじみ出たような輝きとしっとりとした触り心地。王は思わず左右の寵臣や貴妃に回して自慢した。

 それは目の前の趙の使者などいないかのような振る舞いで、約束の15城市の話などその口から溢れなどしなかった。


 王はやはり城市を譲るつもりはなかったのだろう。そもそも目の前の男を正式な使者として遇していない。宮ではなく離れで、しかも貴妃とともに会うなどと。

 居並ぶ臣にもそれは伝わり、いつしか使者には気の毒そうな視線が集まっていた。使者はいかにも柔和そうな優男である。武威のかけらもない。王に意見を述べることなどできないだろう。


 この話は秦が璧を所望し趙より使者を呼び寄せたのだ。ここで約束を反故にすれば強盗のようなものである。けれども戦国の世、口約束が破られることはよくあることだ。それにここは敵地も敵地の敵国の国都。王の機嫌を損ねれば、この使者はあっという間に首を刎ねられるだろう。その程度ねじ伏せられるほどの国力差であり、そもそも文句を言うことも難しい。むしろ無礼打ちのほうが、秦が璧を入手するのにいい言い訳になる。


 皆がそう思って見ていると、いつのまにかその使者はにこにこと微笑みながら王の足下に寄り声をかけた。走る小さな緊張。使者はどう出るのか。


「実はその璧には傷がありますよって、お見せ致しますわ」


 多くの臣はなんだ、へつらっているだけか、と思って息をついた。やはり趙は小国だ。そんな侮りが見え隠れした。

 使者はその細長い指をふわりと広げ、恭しく手のひらを王に差し出す。王はそうかと言って気軽に璧を使者の手に乗せると、使者は見る間に壁際までするすると後ずさった。

 予想外のことに誰も反応できない。すると使者はふうん、と言って柱に背をもたれて顔を上げ、その眼前に優雅に璧を掲げてうっとりと見つめた。


「ほんまに上等な璧やわぁ」

「何をしておる?」


 王は怪訝に問いかけた。誰も何が起こっているのかよくわからなかった。


「上等な璧やのに秦は下等な振る舞いをされるんやねぇ」


 そこまで言われても、何を言われているのかよくわからなかった。下等。強大な秦に対してそのようなことを言う者がいるとは誰も思ってもいなかったのだ。

 最初に意味に気づいた文官が声を上げ、次々とざわめきが起こる。


「ぶ、無礼な! 早くその璧を」

「じゃかぁしいわ」


 美丈夫から発せられた音声に場が再び静まる。そして使者が何かおかしいことに何人かが気づく。普通、王に対して『うるさい』などとは言わない。


「この璧はなぁ、至宝なんよ。趙はようけ協議したんやけど秦に差し上げても城市はもらえへんいうお人ばっかりやったわぁ。せやけど国と国やん。そんなんあかんやろ?」


 そこで使者は言葉を切り、璧に空いた穴にその長い指を入れてくるくると回し始めた。まるでそこらの石に過ぎないとでもいうかのようにぞんざいに。今にも勢いでどこかに飛んでいってしまいそうな。先ほどとは違う緊張が走る。それは至宝である。


「平民でも騙しあったりせんよ。まして大国の話、なおさらそんなことはないでしょうよ、と私は申し上げたんよ。ああでもやっぱり見込み違いやったんやねぇ。やっぱ秦は犬畜生にも劣るんかな?」


 その言葉とともに使者はその目線を眺めていた璧から議場全体に移し、見渡した。

 その言葉に流石に臣下はいきり立ち、使者に迫ろうとする。


「動くな、璧を割るよ」


 大きくはないけどよく通る声だった。そしてその静かな声とともになにやら怒気が滲み出ていた。その一言で再び議場は凍りつく。本気だ。先程からの態度から、それがよく分かった。

 使者は璧のヘリをその長い親指と人差指でつまみ、ぷらぷらと揺らす。壁は大きい。それ故至宝。だからそれなりの重さがある。何かの弾みで指を離されてしまえばあっというまに落ちて割れる。ああ、あの至宝が。今もぼんやりと神気を放ち薄く輝く見事な璧が。


 いつしか使者のゆらゆらと揺れる指先からは何やら怪しげな気が広がっていた。まるで妖術か何かが展開しているように。

 そしてふふふと低く笑うその声音。その口からもなにやら強い怒りが形をとったような陰の気があふれ、そのゆらめきと熱で使者の髪が逆立っているようにも見えた。その紅い唇がうすく笑いの形に持ち上げられるほどに、その怒りの程は染み渡る。

 その頃には議場は一種異様な雰囲気で満ちていた。あたかも鬼神がそこに産まれいでたような、この世のものとは思えぬ異界感。

 その舌から這い出るねとりとした呪詛に全てが燃えて凍りつく。


「王はどうみても約束を守られる気があらへんようでしたさかい、この璧はお渡しできまへん。せやけど王は私を捉えて璧を奪ってしまわれるんでしょうなぁ。そんならいっそのこと、この璧と一緒に私の頭をこの柱にうちつけて砕いてしまいましょうかねぇ?」


 使者は朗らかにそう言って、璧を持つのと反対側の手で背後の柱をコンコンと軽く叩いた。けれどもその目は薄らと笑い、狂気をぽたぽたと垂れ流していた。

 やばい、こいつはマジモンだ。本気だ。それは場の一同が感じ取ったこと。


 璧が破壊される。趙も至宝を奪われるくらいなら破壊するほうがましと考えたのかも知れない。璧を手中に収めるならともかく、都市をやると言って呼び出しておいて約束を反故にして璧を割られて使者を殺したなんて格好がつかない。国の沽券に関わる。

 そしてそれは臣下だけでなく王も察した。使者が本気なのも。


「ま、待て。城市をやるから、おい、誰か地図を持て」


 すぐに文官が小走りに地図を持ってきて、王はここからここまでやるから、と雑に示した。雑だった。雑すぎたからそれが急場のしのぎにすぎず、本気じゃないのは誰もがわかった。再び場が冷える。

 けれども使者はにこりと笑みを深めた。


「さようですなぁ。そうまでおっしゃられるのならお渡し致しましょう」


 そう言われた王がほっと口元を緩めて手を伸ばそうとしたところで、使者はまたふわりと後ずさる。


「けれど、この璧は趙の至宝ですよって。趙王は璧を送り出すさいに5日間身を清めましたんよ。これは国と国との対等な交換でしょうから、王も5日間身を清められるのが筋なん違いますかなぁ」


 そう言い、使者はにこやかな表情で、けれども恐るべき陰気を垂れ流しながら、右手で璧を挟む細長い指先をじりじりとその璧の端に更に後退させた。

 もう璧は使者の爪先でわずかにとどまるくらいで、風が吹けば落ちて砕けそうである。満場に緊張が走り、すべての瞳がその長い指先の爪に集まった。ああ、落ちてしまう。至宝が。恐れて誰も声を上げられない。


「わ、わかった。5日、5日だな、しばし待たれよ。それまで貴殿に最上位の持て成しをする」


 その後、王は本当に最上級のもてなしを行い、使者はにこにことこれを受け取った。使者は自由に王城を動き回った。幽鬼のように。

 王は同時に使者の暗殺を試みた。油断をした時に璧を奪うか使者を殺してしまおうとしたのだ。

 けれども使者は常に小さな金槌を片手に懐に璧をいだき、何かあれば割りますよ? と目で訴えかけていたから、手を出すことなどできなかった。

 寝ているときならば可能かと様子を見たが、使者は一向に寝る様子も見せなかった。そしてその使者の目は得体のしれない何かに浸されていた。

 その5日間、咸陽宮は一種異様な雰囲気に包まれた。


◇◇◇


 そして5日後、使者は改めて謁見の間に招かれた。

 こころなしか王は緊張していた。

 もはやここに至っては、璧というよりどう上手く事をおさめるか、国としてのありようが求められるようになっていたのだ。


 身を清めるとは祖先神霊に正しきを証明することだ。5日も身を清めておいて使者を殺して璧を奪うのは流石に外聞が悪すぎる。まさに犬畜生の行い。虎狼の国。

 璧さえ奪って使者を追い返せば、その後の都市の割譲なんてどうとでもなる。そっちはその後に情勢が変わったとか、祖先神霊にも言い訳がたつ。それに言われるままに身を清めたのだから、璧が手中に収まるのは確実であった。


「わしは5日間身を清めた。璧を渡してもらえるかな」

「さようですか。さすが王、素晴らしい行いや思います。けれど」


 そこで使者は言葉を切って、申し訳なさそうに場を眺め渡し、平伏した。


「申し訳ありまへん」


 誰もが何の懐かことかわからず困惑した。

 使者が伏せた目でら取り出したものは、和氏の璧と同じくらいの大きさのただの白い石だった。


「なっ。どういうことだ!」

「王よ。秦は春秋五覇と讃えられる繆公ぼくこうの時代から400年ほどたちましたでしょうかな。その間、秦でいまだ約束をキッチリ守った王はあらしまへん。やから王を信じ切ることが叶いまへんでした」


 なんということだろう。この使者は交渉の相手の王の、その面前で、信用できないと言ってのけたのだ。信頼がなければそもそも話し合いなど行えない。心のなかで思ってはいても、そんなことを堂々と言った者はこれまでいなかった。

 それでも使者は微笑みをたやさず続ける。


「ほんに私の不徳の致すことでございます。夜半こっそり人を使うて璧は趙に戻してしもて、もうここにはあらしまへん。けれども趙は小国で、秦は大国。秦から15の城市を先に頂ければ、なんで趙が璧を惜しみましょうか。万一それで璧が得られんようでしたら、その時こそ趙から奪っておしまいなさいよ。それが祖霊のお心にも叶うでしょうし。王はお心のままに趙にご使者を向かわされたら、それで全て解決となりますよって」


 秦が趙に都市を贈れば璧の譲渡を断られることはあるまい。もともと15もの城市となると大きい。釣り合いは十分にとれる。そもそも趙が璧を持参したのに秦が約束を反故にしたからこうなっているのだ。

 だがこの使者はなんということを言うのだ。つまり、使者は信用できないと言うだけでなく大国の王を謀った。そういうことではないか。

 その事実に全ての臣下は驚愕する。

 そして使者は再び深く首を垂れて続けた。


「せやけど私は王にえらい無礼を働いてしまいました。どうか、私を煮るなり焼くなり好きになされませ。その前に皆様とよくご相談なされてから」


 使者はそう述べてから最後ににこりと微笑んで辞した。まるで自分には何も落ち度がないとでも言うかのような朗らかな表情だった。

 謁見の間中、王は地獄の獄卒のような顔で奥歯をギリギリと鳴らしながら、使者を睨みつけていた。


◇◇◇


 議論は紛糾した。捉えて殺そうという者も多かった。

 けれども結局のところ、この使者を殺しても璧が手に入るわけではない。璧はすでに国境を超えているだろう。仮に今秦が使者を殺しても、璧を手に入れられなかった腹いせに使者を殺したという話が広がるだけ。それなら趙と友好な関係を築いた方がマシという声にまとまった。

 使者をそのまま返すことにして、王はふぅ、とため息をついた。


「もうあいつに会いたくない。あの藺相如という気持ち悪い男には」

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