果てしなき堂々巡り

@daichishizuko

青春からの脱皮

プロローグ


今朝の目覚めは何時もと何ら変わりはなかった。ベッドで、寝返りを打ちながら、退屈な一日になりそうな予感がして、何処かに発散する場所は無いものかと考えていた。

まさかその日の午後のことだ。

思いもよらない出来ごとに遭遇するとは隆志の考えられる範疇を逸していた。

人を殴り付けた瞬間、これは無相の空間をさ迷っている僕がいる。

早く目覚めて現実に戻れ。

現実に戻った時、隆志はお巡りさんの横で呆然と立ち尽くしていた。


   友情、親友、友達の違いとは


 僕、隆志は、グループ四人を意気の合う親友と思っていた。三人の友に確かめた訳ではないのが、唯一の誤算だったのかも知れない。

 僕は十八歳の高校三年生。あと三学期を残すだけだ。それも出席はせず家庭学習でよく、卒業式を迎えることに成っている。進路も、先公の勧めもあり、推薦入試を受験して合格した。自分が目指していた大学の一つだったので受け入れることにしたのだ。と言うと、傲慢な自信過剰な奴だと言われそうだが、自力でも何校かは合格する自信があった。友には進路は決まったとは言っていない。勿体ぶったのではなく、次のステージを懸命に追っている友に言うべきことではない気がしたし、失礼にあたると思ったからだ。彼らも僕の立ち位置が決まっているだろうと言う感触は持っていただろう。お互い黙して語らないのも親友の証しであると思う。

友からすれば、それはお前の穿った、高慢な考えに過ぎないと思われるかも知れないが、まさか僕が「頑張れよ」とでも言ったなら猛烈に反感を買うだろう。

「ふざけるなよ。手前、俺達を嘲るつもりか」

神経の昂りが頂点に達している友の心情を逆なでするに等しい。言葉には充分気を使っているつもりだ。


 十八歳と言えば、世間では身体はでっかいがまだまだ子供。生意気盛りの大人になりきれない青年としか見ていないだろう。

 しかし、僕らは先差万別。

悩みを抱えて、あてなき反抗する者。

柔軟に程良い間隔を於いて、人達に接する者。

豊かな感性で状況を把握しながら行動を試みる者。

 だが、自分を守る術は皆必至に足掻きながら見付けだそうとしているのだ。誰もが通る青春の真っ只中の道、と脳内コンピュータの構造では分っている。

 通り過ぎた大人達も、昔々青春時代に思いを馳せれば、大人の口出しは厄介で、敬遠していたはずだ。当時青年であった大人も、大人の干渉を疎ましく思っていたに違いない。一昔前の大人達と、真っ只中に居る青年達も、双方足掻きながら、時が過ぎてそんなこともあったのかと言う心胸に至るのだろうと想像する。   

 だとしたら、ひと昔前を鑑みそっと見守るのも大人の知恵と思う、

だから、少しの時間をくれ。

僕は今進路を閉ざされてしまう状況に置かれてしまっている。暗闇の真っ只中の窮地に、迷い、惑わされ、精神的に追い詰められているのだ。

僕、隆志の持つエネルギーが、何時まで冷静さを保っていられるか、自分自身にも分からない。迷走しながら、自分の意志を確立しょうとしている。

乱闘の状況に至る事になったのは親友と思っていた友達三人に「無言」のまま誘いこまれたのだ。隆志は、友達の表情から「一緒に」帰ろうと読み取って、友の後ろから着いて行った。むしろ友達の方が相手と対峙することを持って居ながら、それを匂わせずに隆志を誘いこんだ事に義憤を感じている。

友達の不満は何なのだろう。乱闘より一歩遅れて加わった事が、気に入らないと言うのだろうか。

僕は想像だにしない状況が繰り広げられている事に恐れをなして逃げ出そうと思ったのも事実だ。その行為に加わったのは、隆志の意識の中に一瞬にして助けなくてはと言う気持ちが起きた。相手校の一人が逃げ出そうとしている事に「潔いな、君は」と言う言葉の余韻が彷彿と浮かび正義感の文字と合体した。そく、行動に移してしまった。

気がつけば首謀者のレッテルを貼られた。

こんな理不尽なことがあっていいのだろうか。

今以って知り得ない事の成り行きを解せないでいる。

その隆志に、せめて、どんな経緯があって、その場面に出くわす事になったのか、と言う事ぐらいは聞いてくれるのが、僕の意識の中では通常の事であると思う。

全てを教師の判断で事を納めようとしている。

隆志は腑に落ちないままだ。

友達の事の成り行きを知り得ていたら、友を制することも出来たと思う。

親友と思っていた事。それは共有する心境であると信じていた。それが友との係わりであって、心休まる空間でもあった。

ところが友は反旗を翻して背を向けて行く。驚きと、恐怖と、切なさが混然一体となって僕の心を蝕む。

全てが邪道じゃないかと思う。

人、それぞれ精神感覚には隔たりがあるだろう。が感じ取る精神は違っても、事の起こりは彼らが機先を作って、まんまと填められた情けない僕。浮かれていた僕の足元を引きずり降ろしたのだ。

僕は考えを整理しながら「断る勇気がなかった僕の失態だ。後悔ばかりしていてもはじまらない」と思う反面、悔しさが鬱積してくる感情に捕らわれ、自滅しそうな気持ちを奮い立たせて、今後を考えている。

友情とは、親友とはなんだ。

皆目、見当も、友の精神も、理解不能の状態だ。

家族の心情はどんなことが起きたとしても「守る」と言う。

心情を知るにつけ、窮屈で居たたまれないのだ。家族を巻き込むのは罪悪感にも似た感情を覚えてしまう。

十八歳と言う年齢は、選挙権も来る。

しかし、酒、煙草、禁止。

刑罰に振れれば、少年法適用によって家裁審判。僕はまだこの範疇にいる。良いのか悪いのか判断はつかない。

成人は二十歳。このアンバランス。法律を定める国会は十八歳を大人と言う規範を作りだした。そもそも制定した国会議員は、何をベースに作るのだ。

道徳?

十八歳という年令、一生のどの位置にいるのだ。

人生の助走に過ぎないと言う気もする。

勢い付けて突進する時期……。そこで挫折してしまう僕は、宙をさ迷って、着地が見えないのだ。

人生にピリオド……。

その先を考える自分を拒む。

拒みながら、存在した自分が失敗だった。と考えている。

存在したことが誤算であった。と思うなら、誰にぶつける言葉なのか。

過酷すぎる思い。

全てを人生の通過点と考え、時を待ちさえすれば何でもなかったと思ええるはずだ。と、かっこつけたところで何になるのだ。

今が、自分の裁量で決断しなくてはならない時なのだ。

迷い、悩み、瞑想の万華鏡の中で振り回されている。

宇宙空間を漂っている、未成熟な隆志がいる。

思考停止状態。

四面楚歌の僕の胸中を吐露してみる。

最後まで付きあってくれたら幸いだ。


     夢想の中の僕


オートバイにまたがりエンジンを踏み込み、轟く音と共にぶっ飛ばす。

隆志の身体は空へと舞いあがって行く。空気絨毯は気分を爽快にさせる。その心地良さが頂点に達した時、オートバイの後ろにまたがり僕にへばり付いて来た人間がいる。その奴が「無茶するなって」と怒鳴っている。

「お前、何者だ」と叫びながら振り向くと、僕によく似た隆志が彷彿とした顔で話しかけて来る。

「隆志の分身だ。ちょっかいを出す気持ちはない。ただブレーキ隊も必要じゃないか。と思う一人なのだ。覚悟しろよ」

むらむらっと僕の心が疼きだす。分身に負けじ魂の僕が言い放った。

「なんだと、かっこつけやがって。僕に説教でもしているつもりか。僕は僕だ」

ところが分身も負けずと、オートバイから引き摺り下ろそうと凄い力で身体を引っ張るのだ。万有引力の力を借りたのだろう。ずるずると引き摺り落とされそうになる。

僕は、分身を振り落とそうとオートバイを左右に揺すると、僕の身体が一回転し叩きつけられ「ヒエー」という悲鳴に驚く。

聞き覚えのある声は、確かに自分の声だ。

頭を抱え、痛さに堪えながら、僕自身の存在を確かめていると、胸が何かに圧迫された

のか、ドク、ドクッと何かがせりあがってくる。内臓が口から飛び出しそうな勢いだ。荒い呼吸を感じる。生きている証しだ。     

「ここは何処だ」と見定めようとした。ところが目は頑なに閉じたままだ。耳を澄まし周りの気配を窺う。

静寂の中で身震いする。押し潰されそうな心臓に手を当てると「ドクン、ドクン」と唸ったままだ。肝っ玉の小さな僕に戸惑いながら、自分を叱咤しつつ目を見開き辺りを見廻す。暗闇の中にベッドが浮かび、サイドテーブルに頭をぶつけたのだろう。頭を抱え。ベッドの下で蹲っている僕がいた。

夢……ゆめ、夢か。

もう一度辺りを確かめる。サイドテーブルに置いてある蛍光時計の透明な緑の数字が三時を指している。自室の時計だ。

今僕は僕の幻影の分身と話をしていたのだ。その分身は、僕に痛快と、痛さと、恐怖を与えて消えて行った。二人の隆志に遭遇して、僕の本質の隆志はどっちの隆志なのだ。実像の僕は如何いう性格の人間なのか。如何いう基準で物事を考えて来たのか。全く分からなくなった。荒い呼吸を鎮めながら横目で蛍光時計の数字をまた確かめた。此処は間違えなく自室だ。頭を抱えながら呼吸を整えていると、僕の背後に、分身が現れて傲慢無礼な事を言った。

「だから言っただろう、人間なんて事に立ち向かった時、正直な自分の誠意で事に当っている。と考えたとしたら、それは自分を飾って見せている。だから草臥れるだけだ。自分を追い込む必要もないし、息切れする状況に追い込む事も無いのさ。人間は考える葦だってパスカルが言っていた。弱い心であっても考える事が出来るってことが、人間の存在なのだって」

 僕はいきり立ち、

「随分偉そうなことを言うじゃないか」

僕のいきりを冷静に見つめる分身の隆志が、また言った。

「気持ちを休ませろと言ったのだ。深刻に考えれば考える程、自分を追い込む事になる」

僕は分身の言葉に耳を傾けた。

「分からない訳じゃない。僕は良心に従って行動していたと思っている。それが他人から見たら滑稽な行動だったと言うこと? 小さい時母親に、煽てられ、褒められ、無意識のうちに身についてしまった行為。教師の褒め言葉「潔いな」にまんまと嵌められて行き、それが窮地に立たされている今も、その教師の言葉が蘇ってくる。事に立ち向ったあの時の僕の心理状態は、歳相応だったのだろうか。憤懣やる方ない怒りの頭のすみには「潔いな」が顔をだすのだ。その言葉に翻弄されてしまった。

「お前甘ったれるなって言うの。気付いただけましなことだ。十八歳だろう。選挙権も取

得した。立派な大人なのだ。甘ったれている歳じゃないだろう。自分の意志を確立する時

だろ」

僕の混乱する頭に覆いかぶさるように顔をだす分身に苛立ちながら、思うのだ。

「今まで人を信じ切っていた。根拠のない想像の中に、人と人の空間で生きている。という思いがあった。妄想だったのか。人間関係って厄介だ」

「悩むなって、人間関係に摩擦が起きたら、するりと抜けだすことを考えればいいのだ。表面的な繕いはいけないなんて野暮なことは言わないことだ。偽善者になりたくない、良い子のままで一生過ごす人間なんていないよ。第一良い人間の定義ってなんだ? 善良である。善良ってなんだ? 悪い人間って如何いう人間か。決めつける原則なんてないはずだ。人を淘汰するために悪と決めつけることじゃないのか。そんなことに拘るなって言っているのだ」

「拘るなって言ったって、悪、と決めつけられた僕の気持ち分かるかよ」

「むくむくっと現れる分身の僕と、僕である隆志との葛藤に振り回されているのだろう。どちらもその時の感情が、実像の隆志と一心同体なのだから。昨日の僕と、今日の隆志とのギャップに翻弄されている。それが人間なのだ。お前らしくないぞ。今までのあっけらかんとしたお前でいれば良いのだ」

「お前、何時から僕に説教じみたことを言おうとしていたのだ」

「中学生になった頃から葛藤している隆志と、そもそもの僕というお前を見ていた。僕は気付かなかったとは言わせない。頭を振って取り払っていたじゃないか。考える事を封印して、気楽な方へ好んで逃げていたのを、じっと見ていたのだ」

「お前うるさ過ぎる。とっくにすぎ去った事を蒸し返すなって言うの」

夢の中でもがいていた僕と、客観視する分身と、二人の隆志に振り回されている僕。

僕は本当に中学生の頃から、心の葛藤があったのだろうか。思いを巡らしていると確かその頃だったように思う。友達が何に捉えられているのかは分からないが、焦点の定まらない目でぼんやりと空中をさ迷っているような顔で遠くを見つめている。その場面に出っくわす。

「お前、深刻な顔して何考えているのだ。よせよ、萎えるだけだぞ」

と声を掛けようと言う思いはあったが素知らぬふりして友達の横をすり抜けて行った。僕みたく大空に向かって「バカヤロー」と叫べば全てが空中で弾け心の叫びも空中分解するってこと。弾けりゃいいのだ。僕だって時には傷付けられる言葉を浴びせかけられて意気消沈することだってあった。ただ突き詰めることはしなかった。脳天気な僕だったから、のんびりとやり過ごすことが出来た。自分の心情に違和感を持つとか、自分の精神的な位置は如何いう程度なのか等と考えることは自分から避けた。深刻に物事を受け止めている友達と、自分との距離感を埋めるべきなのだろうかと考えた時期もあった。

声を掛けるべきか思い悩むことが重なって来た。

そんな時、自分と対峙して考えるようになったが、それもさほど深刻に考えてみると言う程の事はなく、ちょっと立ち止まったと言う程度だった。


    僕の心に「潔い」の語源


 潔いな、君は。

という言葉は、中学三年生の時担任に言われた言葉だった。担任は二年生の時からの持ちあがりで、何と無く僕の感性にマッチした体育教師だった。

その言葉の響きが心地よく脳裏にこびり付き記憶に残り、事あるごとにその言葉が蘇り、僕の全ての行動にいささかの迷いも持たせず、精神状態の在りようも、意識の持ち方も、青春を司る重要な位置を占めていた。

如何言う状況下で出た言葉かと言うと、同じクラスの直子と言う女子がいた。男子生徒が密かに胸に秘めたあこがれの存在だったのだ。僕にしてみれば数多の男子よりそれ以上の係わりがあるマドンナなのだった。直子と僕は二人で約束事をしていた。同じ高校を受験する。それには、僕は直子との差を考えると愕然とする。頭脳明晰な直子、追いつくのだ。勉学に集中することから初めて、塾を掛け持ち、ベッドに入ってからも参考書と首たけ、僕が初めて抱いた女子との関わりに胸ふくらませて、有りたけのエネルギーを注いで得た結果が、追い越せる自信がついたと思えるところまで来た。将来を夢見てハッスルし、引けを取らないように勉学に勤しんだのだ。

その直子が、クラスの男子生徒の妬みからか、直子の机の中から手紙らしきものを取り出して、誰かが、ピーと口笛を鳴らし「ラブレター」と大声を出し、気勢を上げたのだ。

男子が一斉に駆け寄った。興味津々なのは僕もその一人なのだ。

奪い合いが始まり、手から手へ便箋は無残にも千切れ、それでも二つか三つに引きちぎられても手から手へ渡り続けている。

直子が必死で取り返そうとして男子の腕を掴んで振り回している。しかし便箋は直子の頭上で回転しながら渡り歩いている。

その奪い合いのまっただ中に僕は突進したのだ。

僕は一人、クラスの男子全員と立ち向かいながら、不思議な感情が湧いてきた。

直子は、誰かに貰ったラブレターでなく自分が届けようとして書き始めたものなのだろう? 

それとも、誰かから貰って、その返事を書いていたものなのか?

だとすれば直子は誰に届けようとしたのだろう。

もしかして「ラブレター」は、と思った瞬間、僕に当てたラブレター!

僕の頭の血潮が滾りながら沸騰してくる。

身体は一気に取り合っている生徒の真只中にいた。

全精力を傾けて取り戻そうと力んでいると、

「隆志に出すラブレターだって」

「そうなのか、だったら隆志が取り戻せたら、直子が喜ぶって」

「さぁー、頑張れよ」

 冷やかし、それとも、やっかみなのか、図太い声ではやし立てている。

 僕は頭を冷やそうとするが、ますます沸騰して来る勢いを鎮めることも出来ない。

今がチャンスなのだ。

自惚れかもしれない、が、直子は僕のことを想っている。

自分と多数の男子の中で幾ら力んでも、便箋は、僕の手の届かないところを回っている。

男子達は意識して僕の頭の上を回しながら、気勢をあげているのだ。

そんな状況の中で、僕の気持ちを揺さぶる声が上がる。

「なんでラブレターなんて書くんだよ。馬鹿だなー。ハートマークをメールで送ればいいのだ」

と声を張りあげた男子の声が響きわたった。

あの声は確かに伸吾だ。

皆にも聞こえたと思うが誰も関心を示さなかった。

伸吾はメールでよこせと言っているのだろうか。

だとすると二人はもういい仲良しって言う事なのか。

伸吾はアドレスを知っているのだろうか。

僕は知らない。

ショックは僕の身体を膠着させていく。

嫉妬の様なものが入り混じって来た。

僕は男子の手から手へ渡るその便箋に、奴らと戦おうと言う気力が萎えて来て、打ちのめされて行く。どうしょうも無く惨めになった瞬間だった。

ラブレターは何処へ。

直子を見ると、必死に取り戻そうと、いまだに本領を発揮しだした。男子の腕を離さず振りまわしている。その迫力に圧倒され、僕の気持ちが奮い立った。

取り巻く男子を掻き分け直子に近付いた。僕は直子が振り回している男子の腕をねじ上げると、

「何するんだよ。俺は関係ない勘違いするなって」

叫び声をあげる。

僕はその声が最初に直子ともみ合っていた奴の声だと確信した。

「悠太。ふざけるなよ。お前」

という気持ちが勝って来ると勇気が湧いてくる。

するといろんな声が飛び交い始めた。

「お前が、ちょっかいを出したんだろう」

「違うぞ、俺じゃないって」

「隆志がぼっ始めた。好きなんじゃないのか」

伸吾の声が一段と高く張り上がる。

それに加えて、

「隆志が頑張る理由は一つ、直子に惚れっぱなしだって」

伸吾は言いたい放題だ。

僕はその声に反応し、言い放った。

「じゃお前もじゃないのか、如何なのだ。お前も惚れてんじゃないのか」

 ところが、ざわめく教室に、

「隆志がぼっ始めたんだって。大好きなんだって」

また、悠太の声が一段と高く張り上がる。

僕は間髪いれずに、

「じゃお前もじゃないのか、如何なのだ。お前も惚れてんじゃないのか」

「俺は知らないって」

「知らないって他人事にするなよ」

 すると、

「可愛いじゃありませんか。ラブレターだってさ。携帯電話じゃないってところが隆志が最も愛するところだって」

僕は素早く言い返した。

「自分のことを言っているだろう。素直に言えよ。伸吾。直子を好きですって」

〝え、へぃ、へー〟

〝ピー、ピー、〟と口笛が響く。

雑音が行き交い小突きあいが始めた。僕は一言も逃さず全ての声を頭にインプットさせた。

「隆志は、直子が好きなんだってさ」と言った伸吾に怒りを感じるところか、もぞもぞっと背中がこそばゆくなった。直子がどう受け止めたかが問題だ。今はいいところを見せるチャンスなのだから誰にも譲れない。僕の気持ちが届くだろうか。悠太も、伸吾も、僕と同じ直子が好きなのだろうと思う。

そんなことを思っているうち頭が、ぽぉーとして来て、ほんわかした気持ちが全てを「まあいいか」と言う気になってしまった。全く第三者的な感情になって来た。誰もが草臥れていた。みんなの気持ちの勢いが萎えて来たのだ。殆どの男子が加勢している。仲裁に入り、二人を引き離そうと試みた人間が反対に二人に殴られている。

しかし、直子はもみ合いの真只中にいる。それを見て、僕は、如何でもよいかと言う気持ちを奮い立たせ勢いづけて直子と取っ組み合いしている男子を、引き離し、彼を羽交い絞めにした。彼は真剣なのだろうか。思いもよらない力で僕に噛みついてきて、僕の股間に蹴りを入れてきた「いてーえ」と悲鳴を上げるのを堪えていたが、痛くて、彼の腕を捻じり挙げながら飛び跳ねていた。しかし、彼の方が有利だったのだ。するりと抜けられてしまった。

え、へぃ、へぃ、!。

笑い声が教室に渦巻いた。笑われている対象は僕だろう。萎え始めていた僕の気持ちが、此処で引き下がったら、惨めなような気がして彼に突進するのだ。と自分に発破を掛けた。

その時だった、

「いい加減にしろー」

いきなり野太い声が上がった。その声は担任の声だとすぐに分かる。

静まり返った。少しの間があって、

「張本人は誰だ。出て来い。これを見ろ」

 足元には、入り乱れたエネルギーの集積力で、スチール製の机の脚が捻じ曲がって傾いていた。直子は、我関せずと、遠ざかり、何事もなかったかのように女子の輪の中で澄ました顔をしている。あっけに取られて、ポカンとしている僕に、

「お前か? 何が原因なのだ」

頑健な体格の担任が僕を威圧する。

 最初に直子にちょっかいを出した奴は、そ知らぬ顔で遠巻きにしている。

「こん畜生」と思うと、僕の頭に血がどくどくっと上ってきた。

「助けに入ることはいけないのか」

喉まででかかったが、何か女々しい思いがして黙った。

「そう言われれば、そうかも知れません」

僕はそう言った。

 僕と担任を取り巻いているクラスのみんなは、肩透かしを食らったのか、呆気にとられたのかは分からないがぽかっと口を開けていた。僕は如何にでもなれという気持ちもあった。ところが担任は、一呼吸して、

「潔いなぁ、君は」と言った。

僕は瞬きし、その言葉の意味を考えた。みんなは思惑と期待外れの成り行きになったのか、開いた口を締めることも忘れて、軟体動物のような格好になって見ているだけだった。そのみんなの顔を眺めていると、僕の心は生き生きと可動し始めたのだ。

「僕が全てを背負って行く」と自分に忠誠を誓った。

その思いも直子には届かずに、あの騒動以来、僕の側をすり抜けていく。

「直子如何したのだ。なんでそっぽを向くんだ。可笑しいじゃないか。約束は忘れていないだろうな」

その言葉を、直子の背中に問い掛けるだけで声には成らないし、勇気も削がれて行く。

切掛けも掴めないまま中学卒業となった。

それって初恋? というものだったのかは今もって僕自身が分からない。

残ったのは「潔いな」の響きだけだった。

だが、未練かも知れないが、直子のことが頭から離れなかった。

あの時の直子、忘れてしまったのだろうか。それは中学二年生の三学期終了後に中学最後の研修合宿があり、三月下旬まだ肌寒い時期だった。クラスごとに研修内容を作り担任に提出する。課題は皆が知っている。上級生から言い伝えられているのが「三学年になり、進路をはっきり持ちそれに邁進する」そう書けばいいのだと。

全員高校進学だから、どの高校を目指すかが問題で、希望を持ってはいるが、自分の立ち位置が分からないのが悩み。過小評価することもないが、でっかいことを言ってしまうのもどうか、という気持ちがあり、皆、自分と葛藤しているのだ。僕は大した悩みでもないと思った。高校なんてどこかに入学出来ればそれでいいと言う事ぐらいで、それより一緒にクラス委員となった直子が気になって仕方がなかった。委員に選ばれた時、直子は即自分がクラス委員長と思ったのだろう。委員の役割分担をでっかい声で命令調に言ったのだ。直子のほかの三人の委員は逆らわずに一言も反論なしで従った。やる気があるのか、仕方ないと言う意志表示なのだろうか。僕もその類だったが、選ばれた方も選んだ方も冷めきった感じだった。僕は全てが中途半端で腹が立ったけど納得いかないまま、命令通りに従う。

僕の役割は出欠簿を確認して、担任に授業終了後に持っていく。担任は下校時のホームルームの時、生徒の一人一人を確認するかのように出席簿を眺め頷きながら確かめていく。それで充分じゃないかと思う。それなのに、間違えなく授業を受講したのかと僕に質す。

僕はそう質されるたびに思う事があるが面倒くさい質問を避けるために頷く。先公に言いたいことはこうだ「一人一人の顔をなめまわして確かめたじゃないですか」と。

だけど僕は真面目な生徒と言うレッテルから離れられずに「はい確かめました」と、職員室に轟くぐらいにでっかい声で返事していた。

研修合宿の班分けがあった、その日のことだ。

今が直子より早く意見を言うチャンスが来たと思った。

僕のクラス二十九名は三班に分かれることになった。男子十六名、一人が宙に浮く。女子十三名、やはり一人が浮く。僕は即座に声を張り上げて言った。

「一応クラス委員だから、僕が最後に入れてくれる班に行く。女子も誰か手を挙げてくれ」

 すると間髪を入れず、直子が言う。

「じゃ、私も委員だから、最後に入れてくれる班に行く」

「決まった。男子五人、女子四人のグループを作ってくれ」

 女子はあっという間に仲良し四人組と言わんばかりに固まった。男子は誰とでもいいと言わぬばかりに全員が窓際にたむろし、突っ立っている。僕は即座に威厳を発揮した。

「男子は出席簿順にして、早い順から、五人ずつに分かれて」

 僕の言葉に反応した奴がいる。それもかったるそうにこう言うのだ。

「そう言われても俺は女子の間に挟まれた十八だぜ。二班か三班どっちですか誰か決めて」

 奇妙な声を上げたのも伸吾だ。厄介な奴だと思った。難癖付けるのが彼の常道手段。

僕は間髪入れずに男子を出席簿順に番号を付けて読み上げた。ちゃちな意見など入れる隙を与えなかった。

伸吾はそれ以上逆らってこなかった。安堵したのと、この次、何を言い出すかちょっと不安はあった。

一瞬、シーンとなった。しかし、何も起こらなかった。

しかし、僕のクラスは、先生に提出した課題とは正反対の課題を掲げていた。

肝試し。冗談だろうと言う気持ちがあって、僕は聞き流していた。


そして二泊三日の研修合宿が始まり、一泊目の夜にその肝試しが全員一致で行うことになった。しかし、実行するのは誰とは決めていなかった。だから、むしろ冗談で済むだろうと言う気がしていた。

施設に着くと僕達のクラスは大部屋の二つが与えられていた。

「二部屋だから、男子と女子に分れよう」

隆志が言い終わらない内に女子が、キャア―、キャア―、わぁ、をぁー嬉しそうな声を張り上げて、荷物を持つと、あっと言う間に隣の部屋に消えて行った。

窓から外を眺めると、遥か向こうに橋が見える。向こう岸に通じる先は草が生い茂っていて道があるのかも分らない。夜になるとこの場景どんな状景に変わるのだろうと、ふと、思った。橋の欄干は何で出来ているのだろう。全く見えないから、分らない。木造の欄干だったら、朽ちかけていないだろうかとも思った。あの課題は、冷やかしに過ぎない。だから、そんなこと考える方がやぼだ。

欄干を一周してくる。橋のたもとには街灯らしき一灯がひっそりと立っていた。辺りは雑草が茂っている。どのくらいの背丈かは分からない。が高そうな気がする。

午後九時消灯時間が来た。小学生じゃあるまいし九時に就寝は頭が冴え出す時間だ。

消灯の合図で豆電球のほのかな明かりで、枕から頭を擡げて、端に陣取った奴が、徐に声を掲げた

「実行を開始」

「これから実行するのは時間との戦いだ。誰になるかなどと言っている時間はない。そこで……」

一時途切れた声が、また、小声だがハッキリと言い放った。

「班長と、副班長に実行してもらう」

「異議なし」

「今度の先生の見周りは二時間後、十一時だ」

「ぐずぐずしてないで早くしろよ」

 隆志は度肝を抜いた。僕はピエロ、完全に填められている。

班長は直子。

副班長は僕の事?

隣の部屋から、音もなく女子がなだれ込んできた。

直子を見ると、肝が据わっているのか立ち上がっている。僕だけが知らないところで話がまとまっていたのだ。舐められたと思ったが、直子ならいいと言う気持ちで心を鎮めた。 

 抜け出すのはどうすればいいか僕が考えていると、

「早く、早く、パジャマで大丈夫?」

女子が直子に小声で言う。

 直子はトレーナーを羽織る。

僕もあわててトレーナーを羽織る。

 僕は窓から下を見た。河原に立っているこの宿舎、下までは僕の背丈より高い。二メートル。これを音なく飛び降りられるか。飛び降りたら、捻挫か、悪くすると怪我をする。

女子の直子に、飛び降りる勇気があるだろうか。

「隆志、後ろ向きにぶら下がるのだ。僕らが、両手を確り持つから、後は呼吸を合わせて、一、二の三で、手を離す。後は二十センチ。信用しろよ。直子がそれに続くって」

 僕はあっけにとられていた。全てが整っていたのだ。

「素足じゃ危ないから、上履きをぶら下げるわ。直子頑張って」

 女子が涙声で耳打ちしている。

 僕は発狂するぐらいの怒りを覚えている「呼吸を整えろ。正義に打ち勝て。止める勇気も正義なのだ。考えるのも今だ」背中を押す声がする。

振り向いたが誰もいない。

自分で判断しろと言っている自分なのだ。 

如何すべきなのか分らなくなった。

また「潔く」の言葉が、心臓から頭を突きぬけていく。奮い立つ。すばやく窓に手をかけると、両手に男子達の強い力が加わった。  

僕は、

「運を天にまかせて実行するのだ」

と自分に言い聞かす。

ぶら下がると力が加わり、僕は一気に身体を伸ばす。つま先に土の感触がある。

「手を離すぞ。大丈夫か」

思いもよらない伸吾の声だ。

「大丈夫だ」

 窓を見上げると直子が今まさにぶら下がろうとしている。

僕は瞬時に両手を広げていた。

 直子は男子の手に助けられてするすると降りてくる。その度胸に圧倒され、僕は両手を広げたまま……。

口を閉めることすら忘れて……。

 上履きがするすると降りてくる。

「早く上履きを履くのよ」

 直子の命令通り、上履きを履いた。

 河原は石がゴロゴロしていて、上履きなど何の役にも立たず、足裏を嫌と言うほど痛めつけてくる。

 僕は咄嗟に言った。

「僕に掴まるのだ」

 返事はないが、直子の手の力が、僕の手にしびれさせるほど強く伝わって来る。無言のまま橋脚に向かう。

そこに待っていたのは「ごぉー」唸りをあげる水流の音。

流れは岩石にぶつかり水飛沫を上げ浮遊してくる。

春まだ浅い夜の空中に舞っている水飛沫が身体に覆いかぶさって来る。

僕は不覚にも身震いしてしまう。

 直子が、

「肝試しなんてやらせられている。もう嫌だわ、先生に見つかって、叱られたっていいじゃない。止めるわ。帰ろうよ」

「大丈夫だよ。僕は企てていることすら知らなかった。負けるものかと思う。橋を一周することはない。みんなの度肝を抜かすことだ。胸を張って堂々と帰ればいい。僕に任せろよ。責任は全て僕が持つ」

「隆志って度胸が良いのね。知らなかった」

「度胸なんかでない。直子のことが……」

 心配だと言えなかった。すると、

「私も……」

 直子の私もと言う言葉に何が含まれているかは分らなかった。それ以上、二人は言葉を閉じたまま切りだせないでいると、

「ねえ、隆志、研修課題の感想を何て書くの。私は目指す高校がありそれに向かって勉学に励むと書こうと思うの。一緒の高校を目指さない」

 僕は頭がくらくらして水音も暗闇も吹っ飛んでしまった。

「直子本気か。僕は信じて勉強するよ。本気で勉強するから、約束だよ。それで何処を目指しているの」

「公立よ」

 僕は公立と聞いて、直子なら、東大進学校を目指しているのだろうと、頭を過り、あまりのレベルの高さに悲鳴を上げるところだった。落ち着いて僕は言った。

「追いつくよ」

 それから直子を見つめながら「追いつけ、追いつけ」と自分を励まして勉強していた。

 それなのに受験間近に迫ったある日、直子を捉まえて、

「何処の公立校に決めた」

 と聞くと、

「あら、あたし私立に決めたの」

「何処の私立。僕もそこにする」

「だって女子高よ。隆志君は受けられないの。ごめんね」

「約束したじゃないか」

「だって私、男子にはなれないから」

 あっさりと言う直子に腹も立ったが、僕も女子にはなれないのだ。と悟って、あきらめたのではなく夢を将来に見ようと思った。高校の次は大学がある。其処は男女の区別はない。

「大学は何処と決めているの」

「そんなこと今から考えていたら、草臥れてしまうは、隆志って先々のこと考えるから、想いと行動のアンバランスに自分で萎えちゃうのよ」

 直子の言葉に僕は仰天するばかりで言葉が続かない。苛々してくるが、渾身の皮肉のつもりでこう言い放った。

「直子って、人物研究する学者なのかよ。僕は、心理学の教材ってことなのかよ」

 直子は僕の顔を見詰めていた。その表情は呆気にとられて、僕と同じ言葉が出で来ないみたいにキョトンとしていた。


   持ち続けた潔さ


尾を引き持ち続けた潔さが三年目にして裏目に出てしまった。売られた喧嘩に突進した友達を見捨てることは出来なかった。咄嗟に「廃る」という思いが頭を過ぎった「何が?」と言うことまでは僕の頭には浮かばなかった。が強いて言えば「男」と言う文字だ。

大学入試、誰もが神経を尖らせている時期だ。先生の「大丈夫だろう」という感触に有頂天になっていたところもあった。自己推薦入試も難なく通り気の緩みが、こんなことに出てしまった。残された三学期を如何に謳歌するかと言う気持を密かに楽しんでいた。二学期の期末は殆ど家庭学習になっていた。終業式直前久しぶりに出た学校の帰り、田川、斉藤、山谷が昇降口で誰かを待っているのか、所在なさそうにたむろしていた。気の合う仲間だった。僕は「やぁ」と声をかけた。「行くか」と田川が言い先陣を切って歩き出した。何時にない田川の雰囲気に、僕は意外な感を受けたが深くは考えなかった。何となく落ち着かない三人を、受験勉強に神経を苛立たせているのだろうと勝手に思いこんだ。進路が決まっている事に何故かすまないという気持ちもあった。学校の方からの話を僕は受け入れたに過ぎない。表面的にそう装っていた。本心は喜びのほうが大きかった。自分の目標の学校の一つだったからだ。ほっとしていたのは事実だ。その反面、友達の厳しい視線を感じもしていた。三人は、誰と言うことなしに裏道を選んで駅へと向った。僕も従うように後からのっそりと歩いた。小さな公園にさしかかると、前から他校の少しいかれた生徒が三人やって来る。そんな情景は何度も行き交ったことがある。互いに無言だったが何時も何となく顎を下げていた。そこには「おーす、どうも」という気持ちがあった。近づいてくる三人の中のひとりが肩に乗せた顎を上に向け、細めに開けた目の奥から鋭い視線を浴びせてくる。眼を付けられているような気がした。僕はまずいなという気持ちがあった。何時ものように挨拶代わりをしようと思った。ところが田川の身体が大きく揺れ出したかと思うと、ぴくぴくっと振動しているように揺れ出した。痙攣を起こしたのだろうか。どうすべきか田川の身体を支えないとぶっ倒れると思った瞬間、田川が拳を作ったように見えた。と同時に相手の生徒二人が、脇に抱えていたカバンを放り投げると、

「うわっー、うわぉー、うぅー」

叫び声をあげた。

荒れ狂ったように田川めがけて、

「この盗人、彼女をたぶらかしたな……」

喚きながら飛びかかってきた。

田川にはあり得ない状況が起きていることが理解できずにいた。

僕は「たぶらかす」と言う言葉としては知ってはいるが、使ったことがない。僕は幼稚なのか「だますな」とは言う。ぼおっとしている僕の目の先で田川は、相手校の二人にパンチを食らっている。その田川を助けようとしたのだろう、斉藤と山谷が他校の二人に飛びかかった。殴り合いの凄い光景が繰り広げられている状況をみた相手校の一人が、逃げ出そうと思ったのだろう。駆けだした者が目に留まった。

この野郎逃げるのかと思った瞬間、身体はその男子生徒に向かっていた。奴の背中に飛びつき思い切り殴った。

「ヒー、ヒー」

悲鳴をあげる。

 だが刃向かって来る様子は無い。

弱虫なのか。

意気地無しなのだ。

僕は、意気地無しの襟首を引っ張る。奴は、僕の手を払いのけようと懸命だ。逃げようとしているその手を僕は払いのけ、その腕を掴んでねじあげ、向き返らすと、僕の拳が相手の顔面に入った。一発目は相手の身体がのけ反ったが倒れはしなかった。相手は、顔面を両手で押さえていた。

結構強いのだ。僕のパンチ。相手は図太い割に刃向かう様子がない。何故だ。逃げる気か。その瞬間、隙をあたえないことだ、と思った。もう一発顔面にパンチを食らわした。

相手はのけ反り、後ろへ二、三歩ふら付かせ左右に身体を揺らせると尻もちをつき、そのままぶっ倒れた。

コッ、大きな音がした。

ドキッと僕の胸が鳴った。

相手を見下ろした。

動かない。

両手、両足を広げたまま木偶の坊の状態だ。しばらく見下ろしていたが。動かない。胸のあたりを見詰めるが、拡張も収縮もしていないようだ。呼吸が止まったのか。

僕の身体が小さく痙攣し出した。動かないと言うことはどういう事だ。

仕舞った。

何で僕がこの相手を殴らなければいけなかったのだ。

「てめえの友達を置き去りにして逃げるのか。風上にも置けない最低の男の行為だ」と、僕の頭を過ったのと同時に、身体はぶん殴る行為をしてしまったのだ。

僕は自分が逃げ出そうとした行為はすっかり忘れていた。友を助けることは友情の証しである。その延長線上で卑怯者を掴まえたのだ。

それがこんな状況に置かれるとは考えられる範疇を超えていた。まさか、最悪の事態となるのだろうか。いろんな思いが一緒くたになって頭はパニック状態になった。

襟首を捕まえた時「潔さ」の文字が過ったのも確かだ。

これは違うとも思った。

僕の身体は小刻みな震えが一向に収まらない。

しばらくすると相手の身体が動いた。

あぁー、大丈夫だ。こいつ生きている。

その瞬間、身体から力が抜けていき、今にも崩れそうに足が痙攣を通り越してガタガタと震えだした。みっともない真似は出来ない。身体に力を入れ構える。相手は身体を歪ませながらゆっくりと上半身を起こすと顔を手で覆った。

ちらっと僕を指の間から見ている。

掛かってくる気配はない。

ほっとしていたのは束の間、一瞬呼吸困難のように心肺停止状態になった僕。奴の指の隙間から鼻血がドッと流れ出したのが見えた。どうすればいいのだ。

僕は呼吸も、思考能力も停止状態だ。

自分のするべきことが分からないでいる。

血を拭ってやるべきか。

このまま逃げ出せばいいのか。

僕の身体は理科室にある人体模型のように、五官と精神機能と肉体が削がれた人骨だけになって突っ立ったままだ。

遠巻きに人の気配を感じる。が物音もしない。静寂の中で万人の目に晒されながら突っ立っていると、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。振り向くと斉藤と山谷が逃げ出そうとしている。カバンを抱えたがふらついて座り込んだ。その向こうに、田川と相手校の二人が仰向けにぶっ倒れている。どういう格闘になったのか、僕は全てを見ていないから分からない。拳を作ったのは田川だが、その田川に飛びかかって行ったのは相手校の二人だ。田川の窮地を見て斉藤と山谷が加勢に入り二対三の対決となった。体力も同等だろうから推して知るべし。田川と相手の二人は完全にのしの状態だ。

サイレンの音が止まった。僕は音に怯むどころかいやに冷静になってくる。不思議な感覚の自分に戸惑いもある。その心に問いかけると分身の隆志が「退くのだ」という。すると僕の隆志が間髪入れずに「逃げるな、引き受けるのがお前だろう」と言う。又「潔さ」が過った。この状況をつぶさに見ている僕の心情は目まぐるしく変わる。その心証の変化に僕自身が整理できない。   

ピーポー救急車のサイレンだ。

斎藤と山谷は幾度も逃げ出そうと試みているが、身体が言う事を効かないらしい。それに警官の目がそれを阻止している。ちらりと警官を見る二人の様子を警官は確りと見詰めている。

田川とぶっ倒れている相手校の二人が救急車に運ばれて行く。僕の足元にぶっ倒れている一人が救急隊員に応急処置をされてストレッチャーに乗せられる。救急隊員は僕が邪魔なのか、手で、あっちというように払う仕種をした。後ろに下がりながら四人を乗せた救急車が、赤色灯をクルクル回しながらサイレンを響かせ走り出す。

斎藤と山谷の距離は少しはなれている。斉藤の方が前にいる格好に見える。その二人をポリスは鷲掴みのように腕をつまみ上げるとパトカーの中に押し込んだ。

残されたのは僕一人だ。不安を覚えるが此処は自分がみんなを守らなければいけない。正義感がむくむくと心にせり上がってきた。だが、身が縮むような複雑な気持ちに変わりはない。

心は右往左往している。

身体の節々がちょっと痛い。大きく振り上げた手で力いっぱい奴を引っ張った腕が筋を痛めたのだろうか。僕は無傷だ。解放される。だが、まずい、という気持ちと、僕は喧嘩の張本人でないから当然と言う気持ちが入り混じった。遠巻きに見詰める人たちの目が気になりだした。その見詰めている奴らの中に学校の者が混じっているだろうか。もしいたとしても、先公にちくるなんて言う、心の狭い奴らは居ないはずだ。十八歳にいたる今日までこんなに居心地の悪い雰囲気に出っくわしたことがあっただろうか。めげていく気持ちを立て直しながら、いち、にの、さん、で、逃げ出そうと考えた。斉藤と山谷の格好は惨めだし情けない。僕はまだ瞬発力も温存している。いまだと思うが、僕の側にぴたりと張り付いている人間が気になっている。誰であるか予想はつく。振り向くことも出来ず「それ、行け」と自分をそそのかすが、身体は言うことを効かずに突っ立ったままだ。そうしているうちに、テレとも違う感情が僕の頭を走る。僕は勇敢に立ち向かったヒーローじゃないか。そうだと胸を張る。そこへパトカーが遣ってきた。側に張り付いている人間に腕をぐっと締め上げられた。言うまでもないポリスだ。否応無くパトカーに押し込められた。たった今、演じたかったヒーローも、たどり着いたのは警察署。その玄関に微動だにせぬ警官が立っていた横を通ると視線だけを僕に向けてくる。失礼じゃないか。見るなら真正面から見ろという気がする。署内に入ると警官は親切だった。

「君は、どこも怪我がないね。大丈夫」

「はい、ちょっと腕が痛むかなと言う程度です。斉藤と山谷はどこです? 怪我している連中はどの程度ですか」 

「ほう、連中ね……。そう焦らずとも。で、君が首謀者」

「えっ? 何のことですか」

「何のことって、君が良く分かっていることだ。君が殴ったの」

「乱闘からは離れていました。どういう乱闘が見ていません」

 はす向かいに座っている警官に見詰められていることに気付いた。まずいこと言ってしまったのだろうか。それに警官の「ほう、連中…」と言った響きが、なんとも理解しがたいニュアンスに取れて気になった。

「ここに掛けて待っていなさい」

警官は自分の机の横に椅子を持ってくると、ここに座れと言う。取調べでも始まるのだろうか。僕の頭は混乱してくる。斉藤と山谷の影も見えない。警官は書類に何か書いている。チラッと見えたところに大杉隆志という字が目に入った。僕は名前も聞かれていないはずだ。得体の知れない恐怖のようなものを感じた。

ちょっと待てよ、と思う。

あいつら斉藤と山谷の二人を引き受けようと思ったことは間違いだった。僕の名前を売ったのだ。卑怯だぞ。その時玄関から教頭と学年主任と担任の原口の三人が入って来た。茫然自失。

誰が学校に連絡した? 

どうにでもなれ。また三人の大人が入って来た。相手校の教師だろうか。

担任の原口が僕のそばを通りすれ違いざまに、一言。

「自重できなかったのか」

これから何が起こるか皆目分からなかった。なるようになれ。と思う反面、むらむらっと怒りがこみ上げてくる。気持ちの変調が腕に現れて震えだしている。怒りを握り拳に抑えこみながら、ぶん殴る相手は斉藤と山谷だったのだ。         

気が付くと、原口教師が僕の隣に立っている。落ち着きを失った僕に、動機や状況を細かく聞かれる。全く分からない。相手が、田川を標的にしていたのは間違いない。田川を目がけて飛びついてくるのを僕は見ている。そこには田川自身、自分が標的になっていることを知っていたような雰囲気だった。

「彼女と、盗人…」と言った言葉を聞いた。間違いなくそれが原因だろう。

田川は相手を見るなり身体を痙攣させ、直ぐに構えたその様子から間違えないような気もするが、しかし、どんな経緯があったのかは知らない。

そのことを言う事によって、事が大きくなることを避けたかった。

田川が切掛けでこの状況を招いたことは窺い知れるが決して口にしてはいけないと自分に言い聞かす。

僕は原口と向き合っているがこの空間を想像してくれ。高い所から物言う教師と、子ネズミがちょろちょろ動き回ったところで何が出来るか。

黙っているのが最善な気がする。

「相手校の生徒は、三人とも病院に担がれて行った。うちは田川ひとり。多勢に無勢。分が悪い。無傷はお前だけだ」

「斉藤と山谷はどこにいるのです。それに田川の怪我はどんな具合ですか」

「お前が見たとおりだよ。田川にはまだ会っていないがショックで多くを語らないらしい。安静にしているのだ。しばらくは退院できそうもない。相手校の生徒もみんな高三で全員入院となった」

「入院? どこがどうなっているのか、僕にはさっぱり分かりません。側に行くことも出来ないぐらいパトカーが来るのが早くて、話しかける暇もなく、あっという間の出来事というか、自分でも何が起こったか分からなかった。骨にひびでも入ったのですか」 

 僕は、口走ってしまった。

「なにを悠長なこと言っているのだ。骨にひびが入ったのか、とんでもない。相手校の一人は、一発が顎にまともに入って前歯が折れ、顎にもひびが入っているらしい。顔のむくみは精密検査をしない限り今は医師も、何とも言えないらしい。お前の一発じゃないのか? この大事な時期に、相手校の生徒も受験を控えている」

 お前の一発と先公が言った。

僕の動揺は烈しくなった。身体の震えが止らない。これでは喧嘩の張本人はお前だと決めつけられていることだ。

「違う」そんなことに嵌められてたまるか。

僕の力はそんなに強いとは思わない。確かに相手はぶっ倒れていた。向かってこなかったのは僕より力があって僕を見定めて、かかってこなかった。

僕は人を投げ飛ばしたのは初めてだ。力の存在はどの程度か自身も知らなかった。

今先公が言った事を認める訳にはいかない

「自重すべきだったのは、手を先に出したほうだと思う」

僕は、相手校から仕掛けられたと暗に言った。

原口の顔は穏やかに見えた。聞くでも無く、無視するでも無く僕の目を捉えて無言だ。しばらく見詰め合っていた。

「何を言いたいのだ」

原口は静かな口調で言う。

「……」

 僕は不意を突かれて言葉が出なかった。

「それにしても派手にやったなぁ。きっかけがもう一つ掴めない。相手とどういう接点があったのだ。お前は未来が開けていると言うのに、つまらぬ事をしたものだ、台無しになりかねない! それより入院した皆が、大事に至らないように祈るだけだ」

 何が台無しになるのかピンと来なかった。確かにこれでは警官が言うところの首謀者扱いされている。

どうしてだ? 

自分だけ隔離されている状態が気になった。無言の時があり、気がつくと窓の外はとっぷりと暮れていた。街灯の明かりが微かに周りの街中を照らしている。

原口はここで待っていなさいと言うと、どこかに消えた。警察署という所は制服を着た警官に囲まれているだけで、威圧的というのか、例えようもない圧迫感を覚える。自分自身がどうなるのか不安と言うより、想像もつかない雰囲気に置かれている。溜息混じりに大きく咳きをしたが何の反応もない。玄関にいた警官と同じ目だけを動かして様子を窺っているのだ。

足音に振り向くと、僕の両親、斉藤と山谷の両親が部屋の奥から出てきた。いつ来たのかも知らない。教師三人が、あとに続いて出てきた。父と眼を合わせるのを避け、母の顔を見ると、今にも飛び掛かりそうに手を握り締め、荒い息を鎮めるのに懸命のようだ。今にも平手打ちが飛んできそうな気配が伝わってくる。母に平手を食らったことはない。だからよほど押さえきれない何かがあったのだろう。母の様子から、僕を責めているように見える。話もしていないのに、どうしてそんな態度に出るのか解せない。父はちらっと僕を見て頷いた。身体から発するオーラーが任せておけというのだろう。実に落ち着いて、顔一面に強固な意志を漂わせていた。

父のこんな表情を見たのは初めてなような気がする。

「隆志、お前を信じている」と言われたな気がする。返って戸惑ってしまう。頼りにできると言う安堵の気持ちが複雑に絡み合って、済まない様な、迷惑を掛けたくないと言う思いもあり、ますます居心地が悪く如何いう態度を取ればいいのか分からないでいた。つい、

「斉藤君はどこにいるのですか」

斉藤のお袋に問いかけた。お袋さんは怖いものを見るような目で僕を見た。何故だ。いつ会っても大歓迎といわぬばかりに向けてくるにこやかな顔は、こわばっている。僕が何をしたと言うのだ。無傷が気に食わないと言うのか。やはり、僕が首謀者とでも言いたいのか。とんだ言い掛かりだ。僕は翌日の終業式まで出席する必要もなかった。帰りが偶然一緒になって、何時もと違う道を歩いただけだ。今考えると奴らは予定の行動だったのだ。相手は最初から眼を付けて向って来た。それも田川めがけてだ。僕の知らないところで何かがあった。僕はまんまと嵌められたのだ。見張り役だったのだろうか。相手校は田川ひとりで遣って来ると思っていたのだろうか。僕は相手校の奴らとは始めて出っくわした顔だった。田川はどちらかと言うと喧嘩は苦手、一目散に逃げるような奴だ。意気地なしと言うより、冷めた年寄り臭い。そんな田川に何があったのだ。まさか、彼女の取り合い。そんなこと出来ぬ田川だと言ったら失礼にあたる? それにしても子供の集まりだよな。徒党を組んで果し合いとは笑わせるよ。彼女っていうのはどっちの学校の女子なのだ。田川が奪ったと言うなら相手校の女子だろう。斉藤たちは、相手は二人で来るという思いで、四人で片付けようとした。僕の気付かぬうちにいつしか仲間にされた。逃げだそうとした相手は僕と同じ加勢させられるための要員に過ぎなかったのだ。僕は殴った相手の怪我が気になる。あいつは最初から無抵抗だった。隙を与えないうちにと思ってぶん殴ったが、相手は自分の立場が腑に落ちず、逃げようとしただけだったのかも知れない。

担任が親たちを見回して言った。

「明日は、終業式ですが家で待機させてください。あとはこちらから連絡します」

「出席させた方がよいのじゃないですか。家にいるより、本人も怪我させた相手の生徒さんの見舞いもあろうかと思います。出席させます」

 何時に無く強く主張する父を僕は見詰めていた。斉藤と山谷の親父は無言で、苛立たしいのか、不服そうに顔一面こわばらせていた。

「いや、斉藤も、山谷もみんな登校はさせません。校長がどういう判断をするか、我々にもわかりません。出来得るフォローはいたしますが、学校は規律を重んじないと、生徒に示しが着きません。それにしても相手校は全員入院ですから、何を言っても結果があります。それぞれお子さんと一緒にお帰りください。我々は署の警察官と話がありますから」

「僕は何も聞かれていない、どう言う話なのですか。斉藤と山谷はどこにいるのですか」

 僕は原口に詰め寄った。

「警察は相手校との話し合で、と言ってくれているのだ」

原口はトーンを落とした低い声で言う。

 斉藤と山谷の両親は教師達に最敬礼する。あっという間に踵を交わすと警察署の玄関ではなく何処かの部屋へと散った。

僕の両親には目もくれず無視の状態だった。あまりにも露骨な態度が気になった。親たちの間で諍いがあったのだろうか。父は毅然としている。この対照的な親たちをどう解釈したらいいのだろう。

僕は、斉藤と山谷の両親の背中を眺めながら、小さな子供が叱られて背を向けた姿にしか見えなかった。もっと大人になれよという気持ちだ。だからと言って僕の両親が、大人とも思はない。少なくとも意思を持って事に向かっていると思う。此処に僕だけが残った。殴った相手の名前も知らない。

教えようとしない原口。

父は原口と何を話し合ったのか。

「斎藤と山谷は何処に居るのですか」

 僕はまた尋ねた。

「大事をとって病院に行った」

「僕より早く走りだす態勢をとっていたから、逃げ出す体力は僕より有ったと思う」

大杉隆志は、怪我も無い、と自分で報告した思いは、葛藤する自分の保身出会って、全てが口走った後に一時の心の余裕があれば迂回すべきだったと気付くのだ。

これは僕の性格が出でいるのだろうか。自分自身では判断に迷う。

「僕が怪我してないことが、そんなにダメージを負う事なんですか。ぼくも手の筋が如何にかなっていると言ったらどうなるのですか」

 僕は、原口に噛みついた。

「隆志、落ち着きなさい」

 父に止められる。


         原石って、


「誰にだって原石の時代はある。焦るなよ。休養と思えば活力が湧いてくる」

父の言葉だ。

僕は今、父が穏やかにゆっくりと僕の目を見詰めながら話しかけてきた時のことを思い出している。僕はその時煩わしい思いしかなかった。うざったいとしか思わなかった。一瞬踵をひるがえそうと思った。

だが、今はまずい。

心情とは裏腹に神妙な顔で聞かなくてはならない状況だったのだ。何故なら今自分が置かれている状況は、生半可なことでは片づけられない、切実な状況に置かれていたのだ。十八歳の順風満帆な進路が始まろうとしていたところへ想像も出来なかった落とし穴に嵌ってしまったのだ。

「ふざけんなよ。何で僕が手前等の尻拭いを負うのだ」

計画的な誘いだったのか。引っかかった僕が頓馬だったというのかよ。喧嘩の真只中に押し込まれて、張本人に仕立てられ、挙句の果て、あと三学期を残し卒業と言う僕に、

「転校するか、退学するか」

と迫られているのだ。

「これが学校と言う組織だ」

原口先公が言い放った。

もし、あと、一学期を残して卒業と言う生徒を退学せよと迫られている生徒を受け入れる学校があると言うのなら、その学校をどう位置付けすればいいのだ。懐の深い学校と言うこと。それとも破棄された生徒を受け入れ、改心させる施設、そこに打ちこむことが、我々のやる仕事だと先公は言っているのだろう。事の成り行きも聞かず、目の前の状況だけで、先公は片付けようとしている。一学期残して卒業と言う生徒を受け入れる学校があるはずがない事を先公は一番知っているはずだ。

だとすれば、脅かしなのだろうか。

その一方で、学校と言う組織に逆らったとしても、勝ち目はないのだぞ。と言われていることなのだ。頭は混乱したままだ。

意識の薄すれた、夢遊病者の様な僕の頭に、耳から耳へ抜けて行ったはずの親父の言葉が、何故だろう蘇って来る。

「今は原石なのだ」

どう取ればいいのだ。

磨けと言っているのだろうか。

何を磨くのだ。

「焦るな」

焦らない訳には行かないだろう。

森閑とした真夜中、僕は今まで味わったことがない不安と苛立ちで張り裂けそうな心臓を抑えながら耐えているのだ。ベッドの下で膠着したままの窮屈な身体に喝を入れながら、頭の隅では、うっぷんを晴らす手段を探していた。

直感的意識の行動だったことを、作為とか無作為だとかに区別されるとしたら、僕は不本意だ。

今、僕が原石の時ならば、磨く時間が必要だろう。それには一人になることだ。

僕の定まらない思考は、容赦なく頭をかき乱し、疲れがどっと増してくる。


それは終業式の翌日から始まった。父母同伴で呼び出しを受けた。

「それは父兄と生徒全員ですか」

と母が聞き返すと、

「個別の面談で隆志親子である」

 原口は抑揚のない声で言ったという。

母はどうして個別なのか腑に落ちないと父に言っていた。全員が自分のした行為を話し合い、心中を吐露していく生徒を、それを教師と、父兄が、状況判断することでは無いか。お互いに納得がいくには、相手の話を聞かずに思惑だけだと、自分達の意見が正当であって相手を非難するだけでは後々不満だけが残っていく。僕は母親の誠意が伝わってきた。母は僕を三人と同じ立場なのだと言っていることを知って、冷静な判断だと母を見なおした。あの警察署であった母の顔は何処にもなかった。

会社に休暇届を出した父が、勇んで玄関に立っているその姿に、僕はすごい迫力を感じて嬉しかった。両親の後ろから俯き加減に歩いていた。この姿では意志薄弱な年不相応な姿にしか映らないと思う。じゃ、胸を張って歩いたとしたら、母が、

「なんですか、もう少し真面目になりなさい」諭すとも、説教ともつかない愚痴を言うに

きまっている。

指定された時間通りに教室を覗くと、担任の原口教師が、無表情な顔で、ちらっと僕達

親子を見て頷くような仕種で手を椅子の前に差し出した。無言で応対する原口に僕にではなく両親がいるのだ。舐められたのか。原口の前に三つの椅子が用意されている。

先に面談を終えた親子が居た雰囲気が伝わって来る。

斎藤の顔、山谷の顔。どっちらかだが、先公と向かった時如何返答したのだろう。まさか僕だけが首謀者に仕立て上げられていたらと思うと感情は頂点に達して目の前がくらくら回る万華鏡の中に居た。

席に着くなり原口が言った。

「無期停学か……、それとも転校か……、どちらを選ぶかは、本人とご両親の間で考えてください。そのほかの選択はありません」

 ドスの効いた低い声で言った。そこには若さも活気もない草臥れ果てた、老人原口の顔だった。

三学年のあと三学期を残すだけだ。それも三学期は家庭学習と言って出席する必要もない時期なのだ。大半の生徒は大学受験に翻弄されている時に、先公の言うことが解せない。

生徒が誰も居ない学校に転校を促している原口の顔を覗いた。無表情の顔は青ざめて見えた。これって退学しろということだ。想定出来る範囲を超えていた。両親もぽかんと口を開けていた。僕自身、宙をさ迷う夢遊病者のように頭がくらくら回り眩暈を起こしている。

「隆志、ちっと席を外せ。先生宜しいでしようか」父が言う。

僕が席を外してからの父と原口の攻防は、凄まじかったと母が言う。

「ことの成り行きが、まだ把握できていない時点でどうして結論が先なのか。確かに相手は怪我をしている。隆志にも言い分があるだろう。これでは面談ではない。一方的に判決を言い渡したと言うのですか。そんな面談なんてあってよいものでしょうか、納得がいきません。青年の人生が掛かっているのですよ」

父は噛み付いた。そして、付け加えた。

「勿論、停学解除の日数は冬休み中ですね。二学期は終了しているのですから」と言った。

原口は黙ったまま応じる気配がなかった。そこで母が堪えられなくなり口をはさんだ。

「それで他の方は納得されたのですか? みんな大事な時期で、相手校の生徒さんたちも同じ状況だと思います。それぞれの学校での対処は異なることだと思うのですが、話し合いを持つことが第一条件ではないのですか。それに今言うべきかどうか迷いはありますが、停学解除がないとなったら、推薦入学は如何になるのです」

「必然的に効力は消滅してくる。卒業と言う証書が出せませんから。大学側にはこちらから推薦の取り消しを願い出ます」

言い放ったそうだ。

「その理由を、何と書くおつもりですか」

「それは丁寧に、学校としての諸般の事情によることを書きます」

父はその返答にもあとに引かず、

「諸般の理由の中に、喧嘩とでも書くと言うのですか? 何故、一方的な結論を出すのです。先生はその場の状況も把握していない。結論が先なのですか」

原口はそれにも応じず、

「そういう理由は書きません。あくまで諸般です。三年担任の全員と教頭、校長が加わった結論です。二、三日の間に、正式な結論を出します。だが学校としての結論ですから揺るぐことは無いでしょう」と断定的に言った。

掛け合いが続いたが「もういい」と父は、原口を見切った。と母に聞かされた時どうして、僕は原口の心中が読めなかったのか。怒りとも、落胆ともつかない異様な精神状態になって、足元にあった母親のバックを蹴り上げていた。バックは襖に当たって鈍い音を立てて穴をあけた。両親は溜息をついたが黙っている。拳でも飛んでくるかと思ったが心を落ち着かせようとしているのだ。強張った顔だ。三人は異様な雰囲気の空間で呼吸をしている。しばらく間があったが、

「隆志落ち着け」父が言う。

 僕は情けなくて、歯痒く、もどかしく、体たらくしてしまったのか身体と精神の置き所がない。如何して警察暑で最初に原口に会った時の雰囲気が、意思の疎通が出来ているような感触を持ってしまった。僕という人間は人を信じてしまっている。見極めが出来ない餓鬼だったのだ。


二日目の夜、結果が学校から届いた。

電話の向こうからの言葉を反芻している母。

「無期停学、大学推薦入学取り消し」

 母の声。受話器を持って呆然と立ち竦んでいる母。

その受話器を父は取ると、原口と話し合っている。が、納得しなかった。顔の見えない原口相手に、

「一方的過ぎる。無期停学とはどういう事ですか。三年三学期に入ればどういう結果になるのか、卒業が伸びると言うことなのか? 一年棒に振ると言うことなのか。一年を棒に振らせることを躊躇っているのではない。なぜ四人の友と連絡を取らないように仕向けるのですか。一人一人違った行為、それに伴う行動があったはずだと思う。隆志が加わった経緯や、その行為を聞いてくれたのですか。聞かなかったじゃないですか。それで公正な結論が出せるはずはない。納得いくだけの説明を聞かせて欲しい。これから伺う」

と言う声は凄い迫力があった。

何事においても父は無頓着でのんびりしている。そう思っていた。全てにおいて「いいじゃないか」で済ます父しか見ていなかった。僕の成績がどうであれ、怒らず、「まぁ、焦るな」が心情のような父だったからだ。僕は引きずられるような格好で父と学校に行った。それだけ父の剣幕は凄く、始めてみる強固な姿勢に躊躇う暇もなかった。僕の擁護に立ち向かう父の背中に漂う緊張感は、辺りの空間を深閑とさせながら伝わってくる。背筋を伸ばし、荒い呼吸がその証拠だ。学校の理不尽さに立ち向かっているのだろう。その背中を見詰めながら僕は思うのだった。父の姿勢に敬意を示したかったが不安もあった。あり難いがこれが良いことに傾くか、反対の方向に行ってしまうのか分からない。父は確信を持って打開できると思って学校に向かっているのかが分からない。父は胸を張っている。

校門を潜ると、漆黒の闇の中の校舎に、ぽつんと灯る教員室の明かりが、水面に浮かんだ水晶玉に翻弄された遠い彼方の明かりに感じて、僕の胸を刺す。

警察で父が見せた背中が彷彿と現れた。あの時感じたオーラーが、本来の父の姿勢だったのだと感じると、訳も無く「親父と男」という文字が頭に浮かぶ。原口に会うなり、父は言った。

「まず相手校の怪我をした生徒の見舞いが先決じゃないですか。何故教えてくれないのですか。その後両者の言い分を聞き取ることが筋でしょう」

 父の話は筋が通っていると僕は思う。

「それは、学校どうしで話し合っています。怪我のことは精密検査がまだ出ていないので知らせる訳にはいかないのです」

原口が言う学校同士でと言うところに何か含みを感じるが、僕はそれ以上の事には分らないと言うより、もし、自分のことが含んでいるとしたら、それ以上はどうすることもできない。考えたくない。

「怪我の状態も教えてもらえないとは、理不尽すぎます。見舞うことも出来ない状況では話になりません。此方の誠意も伝わらないじゃないですか。それから、当人同士の言い分を聞かないのは、何故です」

父は拳を握り締めた。

原口は、どう弁明されても揺るぐことは無い。先生一同の結論である。警察が介入せずに、お互い生徒のために両校で話し合いに持っていてくれただけで感謝すべきだと言う。

そして、目を窪ませた生気のない顔で父と向き合って、

「この結論は、精一杯生徒を思って出した答えでして、もし、他校に移るならそれなりの単位は出します」

原口の虚しいほどしゃがれた声が、頭から、砂のように抜け落ちていく。一泊の呼吸をおいた原口が、語りだす。

「後一学期引き受ける学校があれば転校は一向に止めない。僕の力不足なのは重々分かっています」と言う原口の顔は蒼白だった。

父の顔が膠着した。

怒りがこみ上げてきたのだろう。その乾いた空間を父の声が響いてくる。

「学校に留めることを拒み、退学と同じ結論を出した生徒に他の学校に移るなら移れと言うのは、学校としても、教師としての資質にも関わると思うのですが。受け入れる学校があるとしたら、それはその学校の度量の深さと解釈するのか、その学校をどう評価したらいいのか教えてもらいたい」

父は一気に言った。そして付け加えた。

「貴方は、教師と言う職業をどう考えているのですか」

さすがの原口も窮していたが、無言で下を向いたままだった。

この雰囲気、僕はどう受け止めればいいのか、分らない。ただ、両親からも、原口からも、全てから解放されたかった。

田川の怪我、斉藤や山谷どうなっているのか、原口は口にしない。相手校の怪我の様子も気になる。斉藤と山谷は如何したのか気になるので僕は口を挟んだ。

「斉藤と山谷は如何したのですか」

「あれから検査のため病院に向った」

原口がぽつりと言った。

あの二人は本当に身体にダメージを食らったのか、ゼスチャーとまでは言わないが、腰が引けてショックで身体が言うこと効かないだけじゃないのかと言いたかったが、さすがに口にできなかった。斉藤と山谷の顔が浮かぶ。

怪我の功名という言葉が僕の頭を過ると、原口に向かってほざいてしまった。

「怪我で二人は助かったのですか。都合の良い解釈をしてあげた。それですか」

 原口は、生気のない顔で、

「意味が分からない。みんな同じように扱った」

原口の目に涙が滲んでいるような気がした。その顔をみていると、どうにでもなれと言う気持ちになってきた。そして、自分をボクサーに例えている。強い意思がむくむく盛り上がって来る。コーナーに追いやられ、両腕で頭に覆いかぶせていれば、一瞬、観客は、ジ、エンドと思ってしまう。だけど復活する者だっている。一時の我慢が流れを変えるという思いがあった。判断力は鈍っていないと自負していたはずだった。そのことが悔しい「馬鹿やろう」と自分に罵声を浴びせる。

何故あの最初の面談の時、

「あぁ、分かった、やめてやる。出て行きゃいいのだろう」

啖呵を切れなかったのか。

潔さに欠けてしまったと言う思いがくすぶり続け、気持ちのやり場に困ると、それに輪をかけるように苛立ってくる。持って行き場を失った怒りのエネルギーが全身を駆け巡りだした。僕には第一ラウンドもなし、いきなりノックアウトを食らってしまったと言う思いだ。僕の人生終わりなのか。ところで、どうして僕があの喧嘩に加わったのか、加わらせられた気もする。どう考えても解せない「無期停学」と言う言葉だけが頭を空回りしている。退学してくれと言われても納得出来る訳ないだろう。高校三年の二学期。それも終業式も終わっている今、如何すればいいのだ。そもそも担任の原口と警察署で会った時、僕は瀬戸際に追いやられていると言う認識がなかった。顔を窺うと何時もの血気溢れる青年教師原口の顔があった。

父は学校を探すと言う。だが誰が考えても、無駄だ。

三学年の後、三学期を残すだけの高校生を受け入れる学校があるのか。ある訳ないだろう、そんなこと原口だって父だってみんな分かっているのだ。

認識の違いなんてない。それを如何にかしようと思っている父の心中を思うと、辛いだろうなと思う。

もういいと思う。

充分に父の気持ちが伝わってきてあり難くもあり、嬉しくも思うが、申し訳ないけど、窮屈で息が詰まりそうになるのだ。

状況認識の甘さなのかという思いもするが、まずはこの状況から逃れたい気持ちが、時間を追うように強くなってくる。

独り、独りになりたい。

この間だってそうだ。相手がぶっ倒れただけで死んじまったのかと、冷水を浴びせかけられたように血の気が引いていく自分を感じていた。救急車で運ばれる相手に途方もないダメージを与えてしまったのだと意気消沈した。今考えると、あいつむっくりと起き上がったじゃないか。僕はあいつの観察眼で見詰められていた。向かってこなかった。だとすれば、僕は取っ組み合いをするに値しないということ? 軽く見られたものだ。屈辱の何ものでもない。僕を除いて全員打撲。斉藤と、山谷は何処へ消えたのだろう。警察署では合わなかった、と言うより、見えない柵に閉じ込められたのだ。

あの二人は警察署に一度来たが、病院で診察を受けた方がいいと言うことで、病院に向かった。病状も教えてくれない。何故なのか。

「大事をとって二、三日様子を見て、レントゲンと照らし合わせないと退院の見込みは分からない」

と、母が停学処分を言い渡された時、聞いたと言うのだが、頭が回らず全てが空中で分解して行ったと言う。

それを聞いた時、僕は言い表せない不可解な気持が増幅して行った。二、三日という言葉が医師から出たのなら細かい状況を聞かされなかったことに疑問符がつく。母は動転していたのだろう。

僕は聞きながら、怒りを抑えきれずに、目の前にあった母のパックを思いきり蹴飛ばすと、バックは襖に大穴を開けている。父の拳がとんでくると思ったが、両親とも僕を見詰めているだけで何も言わない。その空気が、僕の心臓を破裂寸前にする。

身体は膠着したままだが、殴った相手の前歯はどうなったのだ。折れたって原口は言っただろう。もし、脅しだったら、今度は原口をどやしに行く。

そんな思いが頭を掻き回していると、母が話しの続きをやんわりした声で先程の続きね、と言わぬばかりの声で続ける。

「隆志を見舞いに窺わせたい」

と言う両親に対し、生徒同士は合わせないことが両校の約束だと退けられた。

王道から考えたら、真っ先に見舞いに飛んで行けと言うのが教師の取る態度じゃないかと言う気がした。

父から相手が大事に至らなかったことで、ホットとした様子は窺えたが、理由はどうであれ、怪我を負わせたことは事実だ。相手を見舞うことを拒否される。なんと言うことだ、こんな不条理があっていいのか。父のうっぷんはどこへ向けられるのかとちょっと戸惑った。しかしそれ以上のことに触れず、父は僕の眼を見据えて言った。

「出来得ることは全力を尽くす。学校がみつかるといい。落ち着け、焦るな。この時期の停学はこれからのお前たちが味わうには、影響が重すぎる。未来を封じ込めることだ。喧嘩両成敗というが、何物にも代えがたい結果は存在する。相手の回復を願うことだ。それは忘れるな」

 父から伝わってくるオーラーは威厳に満ちていた。あぁ、父は教師を見切ったのだという思いを抱いた。それがたまらなかった。父にすまないと思う気持ちと、もう沢山だ。それが同時に頭を駆け巡る。誰が何を言おうが、僕は自分自身で解決しない限り何も進まないのだ。教師達は生徒に説明もしないだろう。この騒ぎのことは学校中に知れ渡っているのは承知の上なのだ「黙して語らず」とは、他の生徒に及ぼす効果を狙っている。僕は見せしめにあったのだ。

この事態を良く見ておけ。生徒達よ、結果はこうなるのだぞ。

考え過ぎじゃないか。と問われれば、当事者になってみないと分からないことだ。

手練手管の大人に、まだ僕は太刀打ちできないのだ。

斉藤、山谷、そして田川この三人今何を考えているのか。会いたい気持ちと、とばっちりはもう沢山だ。僕の頭から消え去ることを願うばかりだ。

悔しい。

これもまたエゴだろうか、あれから一度も会っていない。彼らも不満や、憤りを持っているかも知れない。だが、もう、惑わされることには付いていかないぞ。付いて行くものか。と、自分に言い聞かす。


      家出 


江ノ電に乗ると、その車両には乗客が、ぽっん、ぽっん、と離れ離れに座っている。何の関わりもない乗客が固まることはない。僕はほっとした。誰もいない連結機のそばの短い椅子に腰を降ろした。路面電車は民家の中を分け入り、常緑樹の枝が寒風にあおられ窓に圧し掛かる中を、のんびりと進む。商店街に差し掛かると、歩調に合わせるようにゆっくりと通り抜ける。と、車窓に海が広がり、彼方に江の島が見える。並行して走る幹線道路を電車より素早く走り去る自動車。このアンバランス。何か隔たっているようで、この空間を融和させているように感じて、僕はゆったりとした気分になる。枕木を通過するガタン、ガタンと言う音も、車体を揺るがす振動も間延びしいる。この路面電車に初めて乗ったのは、確か小学生の時だったように思う。目的地は江の島で、両親と妹の四人家族で来た記憶がある。石段を上る両脇の土産物屋を覗き、スマート・ボールに興じて、そこを動かない僕に、母が困って僕とにらめっこした記憶がある。それ以来、家族で行った記憶はない。オートバイの免許を取ってから、幾度となく、ツーリングしながら江ノ島に来た。ツーリングの仲間は中学時代の友達だ。あの「潔さ」の一件があって、卒業してからそれぞれ別の高校に行ったのだが、時たま出っくわす偶然が、懐かしさが募って何時しかオートバイを持った者同士が集まるようになった。ツーリングと言えば東京から最初に行く定番が江の島なのだ。僕の頭の中にある江の島はオートバイのハンドルを握り締め風を切り、エンジンを轟かせ、颯爽と飛すところなのだ。初めて行ったときは緊張の連続の中だったが、その肝っ玉の小さいところは友達には決して見せなかった。この江ノ電に乗っているのはそこに向おうとしたのでなく自然に向かっている。エンジンから轟く爆音は心を引き締める合図なのだ。母は身を縮めてその音を嫌がったが、僕は聞き流していた。

「どうして買ってあげちゃったのかしら、失敗したわ」と母は悔いていた。

僕はその悔いる言葉を聞くたびに、母は満足感を味わっているように思う。何故なら、

「友達みんなが持っているんだ」と言って寂しい顔で遠くを見詰めていると「欲しいの?」と、母はすまなそうな顔をした。可哀そうという気持ちなったのだろう。今になって、その母の心情の矛盾を推し量ることが出来るのは、今の僕の心情と同じように矛盾しているからだ。その愛したオートバイを、大学の推薦入学をもらった時、冬休みに自動車免許を取る資金にしょうと売ってしまった。手にしたのはたったの五万円。「中古車の中古をこんなに高く買い取るところはない」とオートバイ屋の店主は言った。母には五万円とは言えなかった。何故なら、オートバイが欲しくてせがんだ時は、高校三年生になる春休みだった。受験に備える真只中にいた「買ってくれ」とは言えない。それでも欲しくて父に頼むのに、僕は母に一緒に頼んでくれと言った。

「自分で頼むのが筋でしょう」

すげなく断られた。

バイクの免許は二年生の夏休みに取った。

母に泣き付いて教習所の費用は出してもらった。

「買っては上げませんよ。それだけは覚えていなさい」

母は矛盾したことを言っていた。母の気持ちのどこかに買わされるだろうという思いもあったはずだ。

雲をつかむようなのんびりした性格の父と向き合うと、どう説得すれば納得させられるか、迷って、なかなか言い出せずにいた。生まれて初めて父の前で、正座をしているのに父は新聞を読みながら、メガネの淵から覗いて、相変わらず、のびきった顔で、何も感じない振りをしたのか、先手を打ったのかは定かでないが新聞に目を戻した。

僕の身体は軟体動物のように背骨が抜け去ってしまった。しばらくそのままでいたが、思い切って、

「バイクがほしいのだけど」と言った。

「自分で持てるようになってからにしなさい」にべも無い返事が返ってきた。

父って何を考えているのか、不思議な感覚の持ち主のような気がした。

それでも欲しくて、いろんな手を考えたが、母しかいない。

「友達の大半は持っている。友達のバイクを借りて事故ったらやばい」

 僕は遠くを見つめながら独り言を言った。勿論母に聞こえる間隔の処で。

母は「事故」という言葉に素早い反応を見せた。

「オートバイを借りるのだけは止めなさい。事故でも起こしたら、借りた相手にも迷惑掛けることになるのよ」

母はまんまと僕の戦略に乗って来た。やっと僕と一緒になって父の説得に回ってくれた。それにも一ヶ月の期間を有した。母の説得は父を納得させられた。

「自分の責任において心して乗らせる。受験を控えているからといって息抜きもしたいのでしょう。若い時に興味を持ったものに挑戦させるのも、責任感を植えつけるいい機会だと思う」

僕は母の肝っ玉に感激した。

そのひと夏しか乗ってないオートバイを売ってしまった。

中古でも、高い値をつけてくる店主と掛け合いながら買った中古オートバイだが、父に言える値段ではない。父が出してくれるお金は買いたいと思っているオートバイの半分にしかならない。僕は、母の心をつかむ魂胆の為に、ただふさぎ込む態度をとり続けて無口になっていた。そのことが功をそうしたのか、母は、へそ繰りを出してくれやっと手に入れた。僕が買う時には、

「新品同様なのだ。ここで売ったのだが、転勤になった持ち主が、地方では自動車の方が生活ベースに適しているので、と言う訳で半年も乗っていないのを引き取った。人柄も知っていたし、慎重に運転していた。だから、新品と同じだよ」

とか言って、高く売りつけておいて、僕も、乗った時間を換算したら、延べにすれば二十四時間掛ける三日として、計七十二時間。買い取ってくれと交渉に行くと、五万円これが精一杯だと言ってのける。世の中の世知辛さにうんざりしたが、気持ちはそんな些細なことに拘らないほど浮かれていた。

誰よりも早く進路が確定していたからだ。浮かれは頂点に達していた。オーケーと言う声も弾んでいた。その五万円で売った オートバイを取り戻したかったが、その時間もなかった。家出を決行するのに、躊躇は意志をぐらつかせる。ついていない自分に惨めさを感じたら終わりだと言う思いを持って奮い立たせた。胸のポケットにはその五万円が全財産だと納まっている。これ以上の不幸に取り衝かれたら万事休すだ。

こんなレトロな電車に揺られているのも、何かを暗示しているのだろうか。ここにはクリスマスイブのイルミネーションもない、閑散とした空間が静かに息づいている。僕の子供の頃と違って、東京でもスピーカーから流れるジングルベルのメロデェーは全く聞こえてこなくなった。無音状態もいいものだ。それに変わるかのように、イルミネーションは各家庭で屋根からぶら下げ、目映く点滅させている。何かを誇張しているように思うけど、それがなんなのだ。考えるだけ無駄だし、その余裕も僕にはない。今から僕の行く手にどんな展開があるのか想像もつかないのだ。イルミネーションがどう飾られようが考えること事態、余計なことなのだ。

がらんとした江ノ電に乗っていると、全ての状況から解放されるように落ち着いてくる。枕木を通過するその音に僕が馴染みかけた時、何となく聞いた覚えのある停留所のアナウンスに誘われ下車した。歩き出し木立の中に見える道に自然に足が向き、ゆるやかな坂を下り右に折れると、そこは遮るものがない海が広がっていた。今降りた江ノ電の単線と木立を背に幹線道路を渡って海岸に降りて行った。遠くに小さな漁船が波間に見え隠れしている。右手に江ノ島が見えるほかは、どす黒い荒波が幾重にも折り重なり、寒風に突進して砕け白くしぶきを上げながら海鳴りと共に大海に戻る。その状況を眺めながら僕は思った。今自分はどの状況にいるのだろうか。

砕けてしぶきとなって散っていく。その前兆なのだろうか。

それとも荒波の真只中で、撹拌され、もがきながら抜け出せる道を探している。

どうやったら渦の中から抜け出せるだろう。

僕の生きた十八年の経験から知り得た知恵はちっぽけなものだ。数多の人の波に揺れ動き、自分であって自分が持てない。誰の目にも留まらず、微音にもならず、微粒子程のチリにも満たない僕は、風のひと吹きで飛散してしまうだろう僕に何が出来るか。何が引き出せると言うのだ。走馬灯のように頭を過ぎる一つ一つを僕は整理してみる。

散って行く。簡単だよ。目の前の海に突進すれば済むさ。

気持ちとは裏腹に、冷たいだろうか? 苦しいだろうか?

そんなこと考えているようじゃ、実行に移す勇気もないみたいだ。

撹拌されながらも抜け出せる? 人波は強くて、あとから後から覆いかぶさってきて波間に顔すら出せない。容易く抜け出せる事は出来そうもない、と、弱気な僕。

世間から疎まれる世界に身を投げる。俗に言う極道の道。ぶるぶるっと身体が震えた。肝っ玉の小さいやつだなぁー。とせせら笑う自分の心臓が烈しく波打ち、治まらない動悸に戸惑う。

もっと強かに何かに喰らいつけ。そうすれば自分自身で進む道が見出せるはずだ。良い子の心がちょっぴり顔を出した。その良い子を象徴する言葉の幾つかを頭の中で羅列してみた「誠心誠意」「真っ正直な心」子供に聞かせるおとぎ話の世界のような気がしてくる。

がむしゃらも青春だ、と、自分自身に発破をかけて見る。叱咤してみる。

一縷の望みを抱けば、何かが浮かぶかも知れない。頭をフル回転させてみた。

自立する。意志を確立させること。最も望んでいるところだが、全くの暗闇だ。米粒ぐらいの光でいい、見えれば細い糸でも自分で掛けてみせる。だから光をくれ。その光は誰がくれるのだ。

しばらくして夢想の境地にいた。僕は、誰もくれはしないと気付いた。

自分しかいないのだ。早かれ遅かれこういう時期が来るのは、家出までの三日間で、漠然とした意識の中には感じていた。  

今がその時なのだ。自身の力を知るには今が最高のシチュエーションだ。

僕は池の中から大海に飛び出したミジンコなのだと思う。どうやったら餌にならずに生きられるだろうか。ミジンコは寒い冬だって池の片隅で生きている。

僕はだらしないよなー。その一方で分身の隆志が、溜息をついて言う。

「お前、焦りすぎだぞ。家出を決行してから、半日も経たないのに、家に戻った方が楽かな、と頭を過ぎているようでは、自立なんて無理だ。孤独に打ち勝てるのか」

「余計な御世話だ。出来るさ」

両親とは、お互い、分かち合っていたと思っていたが、それは錯覚に過ぎないのだ。二つ違いの妹の綾乃にしても理解者ぶっているがまだ子供だ。

胸中を知りえた親友なんていなかった。仮面の友達だった。誰にも心のうちを覗くことは出来ない。その証拠に、友達と思っていた友は、遠い存在でしかなかった。

僕は孤独? いいじゃないか。そう思った時、僕は腕を引っ張る母の凄い力が蘇ってきた。手当たりしだい衣類をスポーツバックに詰めて家を出ようとすると、僕の腕を引っ張りながら言う。

「馬鹿な真似はしないで。お父さんがどこか学校を探すって言っているのよ。自暴自棄にならないで。バック抱えてどこへ行くというの?」

「身体がなまっちまっているから、体育館に行ってくる」

「本当に? 今まで行ったことないでしょう。何処の体育館?」

「市の体育館だよ。結構設備が揃っていて、運動不足にはもってこいの処だぜ。母さんも行くと好いよ。贅肉も摂れるってさ」

「そんな余計なこと言わなくていいの。本当に直ぐ帰ってくるのよ。トレーナー着にしては随分大きなバックね」

 母の目が振り子のように動く。

うざったいが、刺激しないように落ち着き払って言った。

「昼までには帰ってくるさ」

母の手の物凄い力に辟易しながら、母をなだめて家を出た。

そのバックを砂浜に叩き付け「ウォー」と唸り声を発していた。

どのくらいこの状態でいたのか時間の感覚がない。辺りを見回すとこの寒空の海岸には人っこ一人いない。背後の幹線道路から車の騒音と、寒風の音が交じり合って、悲鳴のような声に聞こえる。車の騒音がうるさいと楯突いても、誰も取り合ってくれない。寒風に向かって嘆いてみても、自然の力には勝てない。じゃどうすればいいのだ。

家出したことを後悔する。それは無い、考えるものか。

 叩き付けたスポーツバックの側まで、波が押し寄せてくるのを眺めていた。今度大波が遣ってきたら間違いなく波にさらわれる。太平洋の海原でこのスポーツバックはどこへたどり着くのだろう。僕と同じように無宿の旅をするのだろうか。一層のことバックと一緒にこの大海に乗せてみようか。大木が流れてきて、僕はそこに乗れるかもしれない。何も流れてこなければ大海の藻屑だ。賭けをしない限りここから抜け出せない。大海を何に位置づければいいのだろう。気持ちが砕けそうだ。

 ザクッ、ザクッと砂を踏む足音に振り向く。そこに顔が何かによって変形したのだろうか、目元から額にかけてこぶのように盛り上がった中年の男がいた。この寒空にトレーニングシャツ一枚で腰にジャージーを巻きつけて、フックしながらぐるぐると、僕を軸のように回りだした。アッパーカットを食らうような気がした。その男からのアッパーカットをよけるように、男の身体が回る左右に避けながら、逃げる体制をとった。男のフックが段々大きくなって、突き出した右手が、僕の鼻先で引いていく。後ずさりしたくても四方を囲まれているように動きが早く、僕の身体は縮み上がった。逃げる態勢をとったままだ。意味もない格闘はもう真っ平ごめんだと思う。だが、この男に一発食らったら僕はあの相手校の人間より、五体がばらばらに砕け散って行くだろうと思う。怖さを通り越して海岸にたたきつけられている自分の身体を想像していた。

男は、僕の心情をいち早く感じ取ったのだろう。

「俺は何もしないさ。余計なことかもしれないが、変な気持ちを起こすなよ。もう、三時間だぞ」

「三時間?」

「そうさ、この上からずっと見ていたのだ。一緒に来い」

「どこへですか」

「この道の向こう、あそこに見えるのが、俺のジムだ」

「あそこから、見ていたと言うのですか?」

「あの坂を下って行くお前の姿は迷いそのものさ。俺が幾人も見た人間と重なったよ。海に来るか、樹海か。海は開ける要素を持っている。君が求めた所だから、湿っぽくない。着いてこいってことだ」

 僕はじっとジムを見上げた。坂を下っている時、その道に家などあっただろうか。細い道の両側は鬱蒼と繁った樹木に覆われ、やっと光が見えてきて、右に折れると海が広がっていたのだ。この男が、今言った「樹海」に連れて行こうとしているのか。

「さあ、行こう。何を恐れているのだ。樹海などこの辺りにあるわけないだろう。雑木林、それもお天道様が真上に来ると、木漏れ日が注ぐ」

 僕のこと見通していると思った。

 胸は張り裂けんばかりに波打ってくる。

男の目を避けながら考えた。

今が賭けをする時なのかもしれないと思う。

それが不発に終わったとしても、それはそれで良い。不発なら、原型が残るはずだ。すなわち僕は存在する。が、破裂してしまった時、僕は木っ端微塵でチリと消える。

賭けはそういうものの様な気がする。

僕が迷い、考え続けている。と、男は言った。

「俺は今迷っているお前を見ている。どうするかはお前自身が選ぶことだ。それ以上は何も言わない」

 見ず知らずの僕をこの男が救ってくれる?

だが、ジムという場所に複雑な思いがする。何故か僕がこの状況に置かれてから、全ての例えがボクシングに繋がっていた。救いとも、奈落の底、と相反する思いも絡むが、僕はあえて人を信じて見ようと思った。

僕の声は弾んだ。

「お世話になってもいいのですか」

「お世話するつもりはない。それはお前が立ち向かう場所を提供すると言うことだ。格好の場所だ。うっぷんを晴らす最高のシチュエーションという場所には違いない。ただそれだけのことだ。あとはお前の心意気次第だ」

 男は歩き出すと、波打ち際に逆さに突っ立っているバックを摘み上げると、

「バックを持て」と僕に向けて放り投げてきた。

「はい」と大きな声を発したと同時にバックは手の中に受け止めていた。

男は「うぅー」と唸るような声を発した。

この短い時間に僕は自分の心の変化に付いていくのがやっとだった。

男の後ろを歩きながら、その身体から発するオーラーは、強固な意志と、身体から発する肉体と魂が兼ね備えられている感じがする。だがその肉体に、怖さと頼れる信頼とが混同して、どこへ進むのか不安は募って来るが、今が賭けだとも思う。


     ジムと人間模様


ジムには三人の男がいた。一人はサンドバックを叩いていた。二人はミット打ちをしている。大きな道場一杯に何かが溢れている。有り余る力のエネルギーが燃えている。たまらなく男臭い。こんな男臭い場面に出っくわしたことはない。その僕の頭に過るものがある。この状況の中に馴染めるだろうか。だが、チャンスを逃すことは無いのだ。心は揺れ動くばかりだ。

「みんなボクサーですか」

僕が聞いた。

「俺と同じボクサーからはじかれた。崩れじゃないぞ、ボクサーの心意気はある。今もそれが活かされていると言うところだ。お前にボクサーになれなんて言ってはいないから安心しろ」

「サンドバック叩かせてくれますか」

僕は無性に何かに突進したかった。

「いいとも、それが今のお前の治療法さ」

僕は一礼して部屋に入った。

一瞬たじろいだ。息を止めたくなる。四方開け放された窓から風が吹き込むと、部屋にこもった生暖かい空気に混じって、腐敗したような汗の匂いが身体に押し寄せてくる。

ひとりが、サンドバックから離れ、親指をサンドバックに向けて反らした。使えと言われたのだろうと男の顔を見た。視線が合わなかった。しかし男は頷いてくれた。僕は、ジャンバーと、セーターも脱ぎ捨てるとシヤツ一枚になった。素手で思い切り叩くと、腕に電流が走るような感覚がした。胸のもやもやは、一発叩くと一つの拘りが飛んでいった。  

誰かが、

「グローブなしで叩いたら、お坊ちゃまの骨にひびが入るぞ」

と言ったように聞こえた。

自分に言われているとは思わなかった。

僕は声を出して叩き続けた。

「ウォー、斉藤、お前に何をしたと言うのだ。首謀者扱いしたのはお前じゃないのか。お前のお袋と一緒に出て来い」

唸り声は腹の中で煮えたぎっている。

叩き続けた。

「ウォー、山谷、蹴り上げてやる」

いつも二番手に回って落ち着いていたのは、見せかけの繕いだったのか。本心が読めない。それにして、僕が如何して喧嘩に加勢させられたのかが分からないのだ。夢にも思わなかった。山谷、斉藤二人とも僕をなぶり者にしたかったのか。理由を聞かせてくれ。話す事も無い程のことだ。とでも言うのか」

間抜けな僕を笑うなら笑え。何時か元を取るからな。分かるかよ。

「ウォー、田川、お前、怪我は大丈夫か」

あの連中と何があったのだ。それを知りたいのだ。

僕がぶん殴った奴のこと知っているか? 教えてくれ。 田川、お前は喧嘩とは程遠い奴と思っていたのは、僕の思い違いなのか。素早く何時も逃げの一手の技には、あっけにとられた時もあったが、今度はお前の構えの早さに目を疑ったよ。教えてくれ、何があったのだ。まさか僕の空耳だと思うが、誰かの彼女を取ったとか。僕の空耳だよな。その通りと言うなら、済まない、僕は田川を知らなかった。涙が頬に伝わってくる。感情の切れた涙が伝わってくる。

叩いて、叩いて、叩きまくっているサウンドバック、前後、左右に大きく揺れながら、僕の顔面に跳ね返ってくる。その顔面に来るサウンドバックは僕を殴り倒すような威力に感じて避けるのに精いっぱいだ。身体に受けたら、眼つぶしにあい、打倒れた僕は又、真っ暗やみの世界に戻るだろう。

「ウォー、原口、何故、僕なのだ。教えてくれ」

ありったけの力で叩き、大声は胸の中で叫びつづけていたが、怒濤のように身体から発していた。止める力よりその声はジム中に広がっているだろう。もう、止める事は出来ない威力を感じていた。

意識が遠のいて行くのを感じてはいたが、それでも叩き続けていた。

「止めろ。止めるのだ」

男の声が僕の頭の中で渦巻いている。

僕の身体が、は羽交い絞めにされた。

振りほどこうともがくが相手の力は、僕の数十倍の力に屈している。

「遣らせてくれ。叩きたいのだ」叫んだ。

羽交い絞めにしていた男の手が緩んだ。それとも突き放されたのか、僕はすり抜けながら、相手校の生徒と自分が重なっていた。叩いて、叩いて、叩きまくると身体が一回転した。目の前は何もない真っ暗な世界が広がってくる。身体が空中に舞い上がって行く。また一気に叩き落されるのか。軋む身体を立て直そうとするがままならない。

「錯乱状態だ。止めろ、止めさせろ」

其の声が、微かに聞こえ、ふわぁと身体が浮いた。

 自由を失った身体が空中に舞い上がって行く。何処まで舞い上がるのだ。

遠のく意識に、睡魔が襲ってくる。


 カタカタと言う音。ざわざわと人の動く気配。僕は呼吸を整えながら、目を開けるのを躊躇っていた。全てが夢か現か判断できない。何時からこの状態なのだろう。両頬を軽く叩く者がいる。痛さはない。刺激となって頭が冴えてきた。生暖かい空気が、異様な匂いと一緒にファーと動く。

「おい、気がついたか」

 野太い男の声。聞き覚えがある。海岸で僕の周りをフックしていた男だ。 

僕の頭に過ぎる情景。海岸に突っ立っている亡霊の僕が、ウォーと叫びだしそうだ。   

今夢から覚めるべきなのだろうか。このまま幽玄の世界に留まる。いつまでだ。人の気配が無くなるまで。情けないが僕は眠り続けていた。

「何時まで頭を抱えていているつもりだ。起きろよ。まだ名前も聞いていない。そろそろ現実に戻れ」

野太い声は言い続ける。狸を装っていても、とっくに見透かされている。

勢いづけて身体に力を入れた。意識が身体を膠着させているのか本当に動かない。何のダメージが加わっているのか、身体を膠着させているのかも分からない。動かそうと思うが身体は反応しない。

「いい加減に眼を開けろ。さっきから、携帯電話が鳴りっぱなしだ」

 その声に反射した僕の身体は直立不動で立ち上がっていた。

「はい、分かりました。僕は小杉隆志です。お願いします。しばらくここに居ていいですか」

 海岸にいた男はガウンを着て椅子にもたれていた。海岸であった男からは考えられないスマートな男だった。サンドバックを貸してくれた男が、カーテンを引き向こう側に消えて行った。僕は部屋を見回した。至る所に物が雑然と置いてある。押しつぶされそうな部屋は小さいのか大きいのか見当がつかなかった。立ち上がった傍に簡易ベッドがあった。ここに寝かされていたのだ。その向こうのカーテンがほんの少し開けられると、その隙間から、もう一つベッドが置かれ、その周りはきれいに整頓されている。壁には、グローブとガウンが吊るされている。だがこの部屋は、ジムに最初入った時の匂いが漂っている。部屋全体に汗の匂いが染み付いているのか、ちょっと動くと、暖房器の熱に乗って鼻をつく。匂いが堪らず、胃の辺りがむかついてくる。堪えるべきか、ここから飛び出すべきか、飛び出せば行くところは海岸だ。

「この真夜中に、放り投げるのも、お前、小杉隆志には試練になるかも知れないが、今の君はまっすぐ海に向いそうだ。ゆっくりして居ろとは言わない。めどがつくまでな。鼻を犬のようにクンクンさせるのはよせ。なれるのもここに居る一つの試練だ。隆志、高校生だろう。一応、家族には電話はしておけ。飯を食って今日は休め。そうそう俺の名前は、高石建造」

 どっかで聞いた名前のような気がした。浮かんではその向こうに消える。一向に定まらない中にその名前を感じていた。もう少しで浮かぶ。

「もしかして、もしかして……チャンピオン!」

僕は歓声を上げた。

「それは昔のことだ。今の建造は、その栄光から抜けきるまでが苦悩と挫折の狭間でもがいた。お前も、今その真只中にいる。原因が何か、どういうことがあったのか俺は聞かない。聞いても、それは自分自身が悟らない限り、立ち直れないのだ。体験から何かを感じることが、一番分かりやすい。実体験だからな。関わった以上手助けはする。後はお前の気持ちしだいだ」

 高石建造はそういうと、一拍の休憩を与えてくれたのか、腕組みして目をつぶった。

 その高石に、僕は最敬礼していると心中に複雑な思いが揺らめいてくる。いつも僕は中途半端だ。殴りあいも思い切りしたことがない。どこかでもう一人の隆志が止めやがる。この間だってそうだ。相手がぶっ倒れただけで死んじまったのかと、冷水を浴びせかけられたように血の気が引いていく自分を感じていた。

迷想状態にいる僕に、高石が言った。

「この小部屋を自由に使ってよい。しかし、飯代位ぐらいは自分で稼げ。この道場にはバイトできる場所はない。皆それぞれだ」

「バイトが見つかるまで置いてください」

「あそこで掃除しているのが、お前より少し前に転がり込んできた加藤だ」

「加藤さんは、ここの掃除をする仕事ですか」

「おーい加藤、少し面倒を見て遣れよ。こいつ、お前を掃除する仕事かと聞いている。今一番、参っているところだからな、気にするなよ」

 すると加藤は掃除をやめてつかつかと側によってきた。眼の異様な鋭さに僕は怯んだ。さっき、サンドバックを貸してくれた人物だ。その時は視線をあわせなかった。僕は深々と頭を下げた。

「今日からお世話になります、小杉隆志です。宜しくお願いします」

「加藤です。僕の目は斜視なんだ。そんなにおびえた顔するなって、僕は掃除が仕事という言葉を始めて聞いた。そんな規則はここにはないよ。自分で考えろよ」

加藤は明るく笑った。

 僕は胸が詰まった。新参者が掃除するのは当り前だ。居場所を失いかけたと思った。相当おびえた顔で見たのを知られてしまったようだ。それより仕事という言葉に、高石も加藤も異様な反応を示した。ここは謝るべきなのだろうか。高石はそれっきり何のリアクションも起こさない。悠然と足を組み椅子に座っている。どうすべきか高石の助言が欲しかった。加藤を傷つけたことは歴然としている。おろおろするばかりで身体が膠着してきた。ぎこちない自分をどう扱って良いか頭が真っ白だ。加藤は頭を軽く高石に下げると踵を交わし部屋を出て行った。開け放されている部屋から加藤の掃除をぼんやり眺めていた。今がここで暮らせることが出来るかどうかを掴むチャンスなのだ。自分が掃除を率先してやること。だが、身体の芯がへなへなと座り込んでしまいそうに崩れかけている。

「今日はお前の身体と気持ちを癒せ。それから飯を食ってから加藤に聞くことだ」

 高石はそう言うと部屋を出て行った。

 加藤は高石が部屋を出て行ったのを見届けたのだろう。僕の居る部屋に顔を出した。

「美味い飯を作ってあるからな。ボスには心配かけてない。俺のおごりだ」

 加藤は、カーテンの横にある小さな扉を開けると手招きをした。続いて入るとやっと二人が入れるぐらいの小さなキッチンがあった。キッチンにはそぐわない大きな冷蔵庫がある。この冷蔵庫のためにキッチンを狭くしているのだと、しげしげと見ていると、加藤はおもむろに開けて、スポーツドリンクを取り出すと言った。

「この冷蔵庫は電気屋でバイトしていて、払い下げをもらってきたのだ。どうせお払い箱になるのだから貰ってやったと言う事さ。どこに不都合があるのか知らないが、金のある奴は買い替えるのを楽しんでいるのだ。だから冷蔵庫も喜んでいるってことさ」

 斜視の眼を僕に向けて言っているのだろう。焦点が定まらない加藤におろおろした。どこを見ればいいのか。自分の顔を加藤の横に持っていけばいいのか、戸惑ったまま下を向いてしまった。

「気にせずに話せよ。そんなに気にかけていたら、くだびれるぞ。今日はろくに飯も食ってないのだろう。分厚いステーキを焼くからさ。そう緊張するなよ」

 僕の身体から力が抜けていく。ほっとすると、自分のことを臆せずにずばずば言う加藤に親しみが沸いてきた。斜視を意識しているのは自分の方だ。

「ご馳走になります」

 僕の大きな声に、加藤もそれでいいのだと頷いた。


僕はジムに世話になって十日間が過ぎた。

その間、如何したらこの狭い空間が住みよくなるか加藤に聞きながら部屋を片付けた。ぶら下がっている物を眺めていた時、加藤が言った。

「捨ててもいいものだが先輩が置いていった物だから、一応僕に聞いてくれ。ボスに伺ってくるから自分で決めるな」

この十日間に、クリスマスと、正月が過ぎ去った。元日の誰もいない道場で独りサンドバックを打つ。それも素手だ。グローブもない。借りたとしても、バンテージの巻き方も知らないし、あれは個人の物だろう。私物を貸してくれなどと言っていいものか迷いながら打ちまくっていた。すると加藤が、

「今日はよしておけ」と言う。

何故と言う事は聞けない「はい」と反射的に言った。

窓を開けると、彼方に黒い海が見える。この土地に来て始めて出会った原風景が広がっている。海は、留まるところを知らない人々の心象を全て飲み込み、黙して語らず。加藤の気持ちを海に尋ねても教えてくれはしない。人の心を読むのは難しい。心理は複雑微妙で考えると煩わしくて厄介だ。親切と、同情の違いをどう見極めればいいのか。

うるさいように毎日携帯電話に、母と、妹の綾子からメールが入る。居場所を教えてくれという。教えれば迎に来そうだ。餓鬼じゃない。覚悟して家を出たのだ。

帰る意志は無い。だが心の隅に家が浮ぶ。ちょっと気弱になった次の日、大丈夫だと返信してしまった。それ一度だけだ。生きていることは分かったのだろう。

高石とは滅多に顔をあわせない。大晦日の夜、道場の掃除を丹念に加藤についてやっていると、

「慣れたか? 親に連絡だけはして置いただろうな」

と、低いドスの効いた濁声で声をかけられた。

最初に出会った海岸での声は、濁声も、もっと高い澄んだ声に聞こえた。それに癒されて着いて来たような気がする。最も、ビビリまくって逃げ腰になっていた僕は、今の声を聞いていたら何をされるかと迷い、恐怖におののいたりはしなかったかも知れない。ここに来た次の日に妹の綾乃にメールの返信をしたと言いたかったが、意志の弱さを悟られそうで黙っていた。その後は挨拶しても、あー、という返事しかしてくれない。そのたびに迷う。どうすればいいのか。加藤は見て見ぬ振りしている。どうして高石は冷たいのだ。ここに連れて来たのは、高石じゃないのか。僕は連れてこられたと思っている。

一月四日の朝、加藤は掃除を終えるとジャージー姿の肩にジャンバーを掛けて言った。

「俺は今日が仕事始めだ。出かけるから、後は自分で考えろ。道場も今日からだ」

 ダイエットコース。

体力アップコース。

ストレス解消コース。

それにボクサーの卵の練習生がいる。ボクサーの卵とはいえ、此処は僕が口出すところではない。論外だ。それくらいは分かる。加藤がいなくて僕は何をすればいいのだ。

仕事はどこへ行っているのですか? 

道場に来た人を、どうすればいいのですか? 

今日は何コースの人が来るのですか。もやもやした感情のまま、 

「ボスの高石に聞きに行くのですか」と言った時だった。

加藤の目が百八十度回転して黒目が左右対極になった。僕はしまったと思った。加藤の目にも慣れてきて、親しさを感じるようになったのに、背筋に電流が走った。

「ボスの高石だって! お前まだ早いじゃないか」

「すみません、だからなんと言えばいいのですか」

「それぐらい自分で考えろ、って言うの!」

加藤は捨て台詞を投げた。

僕が立ち竦んでいると加藤が振り返って言った。

「お前、毎日掃除をしている壁に、スケジュウル表が貼ってあるだろう。そこを掃除しながら何を見ているのだ。でっかく書かれているだろう……」

 加藤はそれだけ言うと出かけて行った。

「あーと」と僕は声を上げてしまった。何コースがあると言うことは頭にインプットしたが、その隣に貼ってある表を無視していた。何だろうとは思ったが読む気もなかった。コースだけで十分な気がしたからだ「お前って奴は子供だなぁ」と言われているように思う。細部に気が回らない。その通り子供なのかも知れない。突っ張っても、それが子供に見える。突っ張れば突っ張るほど露呈させてしまうようだ。何もかも中途半端なのだ。だから考えも薄っぺらだ。宙ぶらりんな意志が、全く定まらない心情から、他人が持つ印象が「優柔不断」家を飛び出したまではよかったが、その先を考えなかった。

生きるって面倒くさい。

がらんとした道場で、僕は意志とは全く違う状況を作り出していた。

「畜生、畜生、何でこんな窮屈なところにいるのだ」

と叫びながら、素手でパンチング・ボールを叩いた。手が痺れる。ボールには空気が入っているから軟らかいと思った。グローブも無い。壁にぶら下がっているのを横目で見た。ここに来た日に、サンドバックを叩いていた時、「やめろ、止めさせろ」と言う声を聞きながら、気が遠のいていく中で、誰かが「ミミズが這いつくばっている」と言ったのを聞いた気がする。あれは僕のことを言ったのだろうか。僕は、ミミズなのか。

ウォーと叫びながらリングに上った。身体を周りのロープに勢い良く当てた。その反動で向い側のロープに突進しようとした。ボクシングではなく、プロレスの真似をしてみたかった。プロレスはみみっちい掟などないように思う。だが向かいのロープに突進する前に痛くて悲鳴を上げ、リングの上にぶっ倒れながら叫んだ。

「この通り、力も、意志もない」

僕は目に滲むものを感じていた。ぶっ倒れたまま、焦点が定まらない目を見開いていると高いところに鉄骨の筋交いが見える。じっと眺めていると、天井は鉄骨がむき出しなのだと気付く。筋交いは家を守っている。今まで考えたこともない天井を思う。飾り? 飾りなど要らないが、僕は筋交いの家族を自分から遠ざかった。

クルクル回るパトカーの赤色灯が眼に浮かぶ。ピーポー、ピーポーとサイレンの音が、耳鳴りのように唸る。

あれが僕の奈落へ落ちて行く前兆だったのだ。

僕は誰に生贄にされているのだ。

友達は溜飲が下がっただろう。奴らは受験勉強の時間に追われている。あの声を掛けられた時、躊躇ったのは、すまない気がして身体をすくめた。あいつら焦っても間に合いそうも無いことは自分で知っていただろう。今は逆転している。僕は前途をふさがれた。ふさがれてたまるか、這い上がってみせる。頭を振って雑音を振り払い自分に言い聞かせた。

今の自分は振り返っている暇はないのだ。前へ進むのだ。

感情は昂ったが、直ぐに心はポシャって来る。

加藤は僕に何を言いたいのだろう。

加藤が仕事を持っているとは思いもよらなかった。何故ならここに来て以来加藤がしているのは、ジムの掃除と、高石が顔を出すと間髪を入れずに側に行って、一歩下がってついて回る。僕は側によることすら気後れしてしまう。だから加藤は、高石の付き人と思っていた。自分が就いたら加藤にすまないと思って身を潜めていた。加藤を押しのけ、高石に積極的にアピールしていたら、この雰囲気からして諍いが起きるだろうと感じる。だが、ここにつれてきたのは高石だ。ボスに近づいて何が悪い。加藤との仲に亀裂が入ったとしたら、いや、すでに亀裂の予兆がする。加藤は初めて僕を突き放した「てめえで考えろ」ってさ。だから考えたと言えばいいのだろうか。

何故、僕はボスと言ってはいけないのだろう。

この数日間で、僕が感じたここの雰囲気は、何か胡散臭い匂いがした。


大晦日だという日に、どこから来たのか、トレーナーという人物が二人、マスボクシングを始めた。加藤と二人で、隅のほうで見ていた。

身体の動き、スピード、フットワークのリズム感、見ているだけで、僕の身体が始動しはじめた。トレーナーに合わせて、シャドーボクシングを始めた。一人のトレーナーを相手に想定して、パンチ、キックを始めていると、ドスの効いたすさまじい声が、リングから飛んできた。

「馬鹿やろう、ウォーミングアップもなしで、関節も筋肉も壊すつもりかよ。俺はかまわないけど、見上げた度胸だな。俺を相手にイメージ、トレーニングしているつもりなのか? スパーリングは許可がないと禁止だって言うことも知らないっていうのか。ヘッドギアを付けて実践同様に練習試合することなんだぜ。それとも、お前、いっぱしのボクサーとでも思っているのか?」

 僕の身体が震えだした。

「すみません何も分からないで、身体を動かそうと思っただけです」

 僕は頭を深々と下げ続けていた。

静まり返ったジムに、時折靴の擦るような音がするだけだ。おそるおそる頭をもたげてみると、何事もなかったかのように、リングの上で、二人はマスボクシングをしていた。

加藤のボクシングの練習を見たことがない。不思議なものを感じながら、もう一方で出来ない事情を感じるが、それは口にすべきでない。

これから僕はどうなるのだろう。全く見えない。展望も開けない。ここに留まるべきか、いまが逃げ出すチャンスなのだろうか。バイトも見つからない。昨日、正月三日、バイトを探しに街に出て行ったが、小さな商店が並ぶだけでバイトの張り紙さえない。家の近所が目に浮かぶ。副都心のM町は少し歩けば幹線道路に出る。両側にコンビ二やファストフードが立ち並んでいた。ごく自然な風景として捉えていた。ここは観光地から何キロも離れていないのに、途轍もなく地方にいるような錯覚を起こした。シヤッターを降ろした店の真ん中に、半紙に書かれた賀正の文字が小さく揺れていた。今日も探しに出たとしても同じだろう。それに、加藤がいないのだから、留守番は僕と言うことなのだろうと思うが、それも、でしゃばりなのか。自分の置かれている位置が全く分からない。

居候? それは確かなことだ。 

高石は、加藤に「少し面倒を見てやれ」と言ったあれ以来、指図も何もない。思いつくままに道場を片付けたら、また加藤の逆鱗に触れそうだ。どやされるのは真っ平だ。何時ものようにうわべだけの掃除を終わらせた。気付くと正午になるところだ。道場のなかを見回して目に留まった物に、キックをあびせた。鈍いうめき声のように音が跳ね返ってくる。止められはしなかった。誰も居やしない。度胸がないとここには住めない気がする。構えている僕の頭に、ふと過ぎった。僕って、自分のこと、どこまで分かっているのだ。瞬間、瞬間に身体が自然に行動している。思考する間などない。脳が瞬時に命令するからだ。それがポーズに見えるのだろうか。加藤にとっては、僕のその行動が目障りなのだろう。それに僕の面倒を、どうして見なくてはいけないのか。苛立を覚えるのだろう。僕はあくまで高石に拾われた。

加藤は、高石の命令に従っているだけだ? 

この先も、僕は宙ぶらりんのままでいる?

高石は僕との関わりを切り離したのだろうか。連れて来たからには切り捨ててはいない。と、はっきり言い切ってもらいたい。苛々していると加藤が帰って来た。午後二時。サラリーマンではないだろうと思う。トレーナーの上にジャンバー出かけた時と同じだ。靴はブーツを履いている。加藤の顔を窺うと良く分からないが今朝のことは忘れたのか、何時ものような接し方だった。僕はこの場にいない方がいいのだろうか。逃げ出したら、帰りづらくなるから、買い物にかこつければいい。いいチャンスだ。

「先輩、今日は買い物しなくてもいいですか。行ってきます」

 加藤は、ちらっと顔を向けて来た。加藤の顔からは何も窺い知れなかった。食事は加藤に頼んで一緒にさせてもらっているが、全て折半にしている。加藤に指示されたものを買い込んでくる。もう五日も買い物を頼まれていない。この場から逃げよ。

ここに世話になるに当って、細かい日用品をそろえた。それだけで持っていた金の半分が消えていた。僕はあせりを感じている。バイトが見つからなければここには居られない。そのほうが、解放されるように思うが、お金が行き詰ってしまったら海に向うしかない。細く小さく使っても、あと残り僅か。

あぁー、と奇声を発したい。

我慢して声を抑えている。家のベッドがちらついてくる。手足を伸ばしてゆったりと寝たい。昨日の夜中に綾乃からメールが入っていた。無視しょうという気持ちよりむしゃぶりついて読んでいる自分がいた。

『お兄ちゃんへ。 お願い、私にだけは居場所教えて。けしてお父さんや、お母さんには教えないから……。私の小遣い少ししかないけど、使って。どこに送ればいいの。教えて、お願い。あのね、昨日、学校から返事が来たのよ。それはお父さんが、年末の三十一日まで学校に行って、お兄ちゃんの担任と校長に掛け合ったのよ。これからという青年達の進路を絶ってしまうのかって。それで出た結論が届いたって訳なの。それはね、席を学校に残して、足りない科目は、体育の実技だけだって。だから、三学期に実技だけ受ければ卒業できるのよ。一日で終わるみたいよ。学校に行きたくなければ、一年なんてすぐ経つわよ。他の人たちは留年ですって。何故だかは分からないけど、一年間勉強した方が受験に有利と考えたのでしょう。お兄ちゃんは、よく考えて。実技だけ出れば良いのよ。まだ大学受験は間に合うと思うけど、センター試験だって今なら間に合うけど、手続してないのがまずいみたいよ。それとも私が考えるのは、卒業だけして、来年受験するのよ。学校に戻るのがいやなら、大学受験検定って言うのがあるでしょう。それを受けて、大学受験すればいいのよ。ごめんね、怒らないでね。一生懸命考えたの。お母さんが、隆志、隆志ってめそめそすると、お父さんが言うの、隆志は大丈夫だ、確りしている。自棄を起こす子ではないって。必ず立ち直る。確りするのはお母さんの方だなって言うの。お母さんが、言い返すのよ。どうしてお父さんは、そんな呑気に構えていられるの? と、私は両方ともわかる気がしているわ。だから私だけに居場所教えてよ。お願い』

 僕は読みながら目が潤んできた。それを一字一句落とさず覚えてしまっている自分が不甲斐ない。今、また思い出している「僕が確り者だって」笑わすなって言うの。僕は一本足で立ち、ふらついているのだ。片方の足の着地が見出せないのだ。一本足のかかしは僕達がからかうとふらつくが、鳥たちがやって来ると微動だにしない。それは土の中まで一本足は刺し込まれているからだろう。その瞬間、僕は小学校低学年だった時のことが蘇ってきた。家族旅行先で見かけたかかしは、見掛け倒しだと感じた。幼稚園児だった綾乃が、かかしを指差して、

「ねえー、お兄ちゃん、かかしさんは、真っ直ぐ立っているけど、大きな目と、大きな口で鳥さんたちを、あっちに行きなさいって言えるのね。とても良いことをしているのでしょう。えらいのね。お兄ちゃんのお口も、目も大きいものね」

 綾乃にそう言われて、僕は子供ながらに恥ずかしかった。口も目も大きいお兄ちゃんと言うけれど、かかしより、何もできない木偶の坊なのだ。

だけど、その横で鳥が稲の穂先を啄ばんでいた。不思議な感覚にとらわれて、何か言うと綾乃がかわいそうに思い黙っていた。

いまだに綾乃は、僕をかかしと思っているのだろうか。

だが僕は直ぐに考え直す。ここでくじけてたまるか。家に帰って何が待っているというのだ。ふらりと帰って、フーテンの寅さんになると割り切れば、気が楽になる。それにはここを出ることだ。帰りたいと思う気持ちが、神経を昂ぶらせる。だがフーテンの寅さんは、失恋してふらりと帰っていく。

癒しの場所が見つからない。

失望の連続なのだ。

誰に失望したと言うのだ。家族に?

高石、それとも加藤に? 苛々していると、見計らったように加藤が、声をかけてきた。

「つい最近まで、俺がしていた電気店のバイトをするか? 俺の後釜がまだ決まってないそうだ。そこでよければ明日からはたらけるぞ。結構食っていけるだけの金は入るぞ」

 僕は飛び上がった。

「何でも遣ります」

「身体はきついぞ。お前、たまにボクサーの真似しているみたいだけど、身体鍛えているつもりなのかよ。それより、勝手に練習してはいけないって知らないのか? シャドーボクシングのつもりなのかよ。トレーナーにどやされていたけど、お前良く分かっていなのじゃないか、ボクシングのこと」

「教えてください。何も分かりません。良く考えてみると、加藤先輩も練習してないのだから、僕はまだ早かったのだと気付きました」

「俺は違うよ、ボクシングは出来ないのさ」

「何故ですか?」

「隆志、それを言わせるのか。お前が最初に気付いただろう。俺は出来ない身体なのだ。動体視力、それだけではないけど」

動体視力? 一瞬考えて、まずいことを言ったとわかる。

目はスピードの動体をいち早く察知するところだ。申し訳なくて心から、謝りたいがどう言う言葉がいいのか全く浮かばない。自分が知りえる言語の少なさに戸惑う。もしそのちんまりした言葉の中で何か一言を発したら、返って癇に障ることになると思う。微かな震えが身体に表れてきた。どうすればいいか言葉を失っていると、

「まぁいいさ、俺はここの門番でいいさ。それより、ひ弱なお坊ちゃまに、電気屋のバイトが務まるかが問題だ」

「ちょっと待ってください。僕、先輩に迷惑はかけません。精一杯働かしてもらいます。紹介してください。お願いします」

「じゃこれから行ってみるか。三が日も過ぎれば正月じゃないだろう。電気屋も今日から仕事始めだとさ。帰りがけに、お前のことは話してきた。やるきがあれば、ボスのところに居るのだから大丈夫だと、言われたさ。分かるかよ」

「お願いします。けして迷惑かけません」

「誰に迷惑かけないって言うのだ。それが分からないと、お前を連れて行けないさ」

「このジムの人たち全ての人達です」

「まぁ、いいや、お前なら大丈夫だろう。ジムも、今日から始動する。電気屋から帰って来てから、やること一杯あるぞ。女性のダイエットクラスの準備を、お前が受け持てよ」

「分かっています。掃除は今までどおりやります。今朝の掃除は終わらせました。ダイエットクラスの準備を、僕に任せてくれるのですか」

「あぁ、いいよ」

「帰って来てから、教えてもらっていいですか」

「じゃ急げ、三時半から、子どものクラスが始まる。その前に行こう」

僕は、加藤の後ろから突進するように走った。着いた先は、あの賀正の文字が揺れていた店だった。シヤッターを降ろしていて、看板も見ていなかった。真剣に探そうとする気があったのかと自分に問いかけた。

「稲垣電気工事」と書かれた看板がシヤッターの上にでかでかと書かれている。その横には、同じく書かれている看板がある。それもあの時は目にも留まらなかった。

落ち着け、店主に第一印象をよく思われることが先決だ。口をぎゅっと結ぶ。それでは硬くなりすぎる。こちこちじゃ、相手のほうが引いてしまうだろう。口を半開きにした。締りがなくて馬鹿に間違えられる。頬の筋肉を両手で力任せにぐるぐる回した。ほぐすつもりでいるのだ。

「それだけ緊張していれば、お前の心情は伝わるから大丈夫だ」

 店の奥から店主が出てきて、

「もう面接終わったよ。今日から働いてもらおうか」

と言って笑った。何処から見ていたのだろう。

「ありがとうございます」

僕は面食らいながら最敬礼した。あまりに早く採用されたからだ。

「加藤君に感謝しろよ。君を売り込むのに延々と話を聞かされたよ。高石ボスのところに居るのだから、間違いないってことだ」

「一度ジムに帰って、高石さんに挨拶して来ます。それにジムの仕事がちょっと残っているので、済みませんが明日からではいけませんか」

僕は懇願した。加藤が、

「大丈夫だ。今日は、俺が代わりにやっておくから」

加藤が言う。

甘えていいのだろうか。僕は採用されたことを取るか、高石に挨拶することを取るか、迷い始める。分らない。加藤を見ると、そっぽを向いている。

如何すべきか。すると店主が、

「ジムの方は大丈夫だよ。こちらから伝えるというか、高石ボスから丁寧に、隆志を頼むと電話をもらった」

 店主の顔と高石が重なって、僕は皆に保護されていたのだ。此処まで見ず知らずの僕を擁護してくれる。嬉しいが、何か、裏があるようでその先が分からない。今は甘えているしかないだろう。少し時間が経てば見えて来るものがあるはずだ。其処まで待っても大丈夫だろうか。今反旗を翻して此処から脱出してしまう事は、と、暗黒の海が目の前に広がり、ぶるぶるっと身体が震えだす。また涙が滲みそうで、ぐっと堪えていた。

目頭の辺りに霧が降り掛かってきた。

 僕は、息も堪えに加藤に頼んだ。

「稲垣店主と加藤さんの言葉に甘えて、今日から働かせてもらう事になったことを報告に行くのが遅れて申し訳ありません。高石会長に会ったら、そう伝えてください。必ず報告に行きます」

 何度も加藤に念を押していると、昨夜、加藤が珍しくジムに居る人達の事を話してくれたことを思い出して来た。

ジムには三人の同居者がいた。加藤と、塩田に、川口。塩田と川口がトレーニングボクサーであると加藤が教えてくれた。大晦日に僕がどやされているのを知りながら加藤は何も言わなかった。この道場に階段があるのは知っていた。そこが塩田と川口の住まいになっている。

「隆志をどやしたのが、塩田さんだ」

加藤は、一拍の呼吸を置いておもむろに話す。

「俺は一度、塩田さんの部屋に入れてもらった。二階に上るのは初めてで、緊張してしまった。凄い迫力で練習している姿しか見ていなかったからな……。ところがギターを弾きながら、人間って、ややっこしい生き者なのだよ。悩みなんて抱えちゃう動物で、困り者だって。だから『お前の悩みは、誰もが抱える悩みのうちの一つなのだから、悲観することはない。堂々と生きろ』と言われて、吹っ切れたのだ。誰でも人に言えない悩みがあるというのだ。塩田さんの悩みってなんですか、と、聞くと、聞かせてくれた。施設で育った。両親を恨んだ。週一度母親は尋ねてくるが親父さんは、一度も来たことないのだって。その親父の身体が良くないらしいのだ。それだけ言ってあとは人にいうことでないと言われた。俺も聞けなかった。他人に分かるはずないって俺が良く知っているから、それ以上聞かなかったのさ。ゴージャスな部屋だぜ。隆志も頑張れよ。道場の隣にあるボスの家は、もっとゴージャスだ」

僕は外から見ただけでそれは感じていた。うらやましいとか、あの家に住みたいとかいう感情は湧いてこなかった。それより窮屈なものを感じ取った。加藤は、僕のことをボクサーになると思っているのだ。ボクサーになろうと思ったことなどない。戸惑う。ここのシチュエーションがエネルギーの発散に事欠かない場所であったから、身体が自然にボクサーもどきのことをしていたに過ぎない。迷いに迷いながら、

「僕はボクサーになるつもりはありません。その意思がないと此処には居られないのですか」

「……」

加藤は黙ったままだった。


 電気店の初日は商品に叩きを掛けるだけの軽い仕事だった。羽根で出来た叩きは手ごたえがなくて、埃が払われたのかも分からない。加藤にきつい仕事だと言われた時ある覚悟をしたが、まるっきり正反対なことに戸惑いすら感じた。加藤と面接に来たまま午後三時から僕の初日となった。客も五時までに電球を買いに来た客が二人だけで、一人椅子に腰掛けて道行く人を眺めていた。とっぷりと暮れた商店街にまばらに行き交うのは中年の女性ばかりだ。子どもを見たのは客に来た二人だけ。若者の姿は目に留まらなかった。これでバイト代がもらえるのだろか。ただ働きは、今の僕には精神的にも、体感的なモチベーションにしてもきつい思いしかない。他のバイトを探すべきか考えあぐねていると、

「今日から加藤君に代わったバイトの人って、君なの?」 

 入り口からスタスタッーと入って来た若い女性が僕の目の前に立った。テレビに出てくるような整った容姿にドレスのような長いスカートに毛皮のケープを羽織っている。この店にはそぐわない装いだと思った「何だ、この女性」大きな面して。だが女性は違和感無くドレスを着こなしている。今まで出会った友達の中には、ほど遠い存在の女性だ。唐突に目の前に表れた女性、それも横柄な口の効き方、滅入るぐらい戸惑っている。三、四歳年上だと思うが『君』と呼ばれた声の響きのニュアンスが微妙に見下されている様に聞こえた。僕のこと全て調べ上げている。僕は何も知らない。初対面なのだ。女性から話しかけてきたのだから、自分の名前を名乗るのが筋ってものじゃないか。ムッとしたが、堪えていると、

「私はここのなんと言うか、娘、もしくはジムの伯父さんの……。あとは想像に任せるわ。そんな不服そうな顔をしないで、退屈そうだけどそれは今日までよ。加藤君は午前中でここを辞めたのは、君に譲るって。加藤君はジムに専念することになったのよ。だから余計な心配は要らないけど、加藤君の気持ちを汲むことね」

「僕のために仕事を辞めたと言うのですか……? 加藤先輩は困らないのですか」

「それは大丈夫、ボスが付いているから。隆志君に譲りなさいって言われたと思うわ」

女性は首を傾げて、ふふふーと笑った。その笑いが、僕の勘に障ってムカムカしてきた。すると女性はくるりと背をむけ、奥に消えていった。

何で初対面の僕に、挑発するかのような話し方なのだろう。ますます、逃げ出したかった。店番だけの仕事は、今日までと言ったが、明日からどんな仕事が待っているのだろう。不安と憤りが入り混じり『馬鹿野郎』ってどやしつけたい気持ちを飲み込んだのが、女性の高慢ちきな物言いが胸に刺さりムカムカッした気持ちが吐き気に変わって来る。

『もしくは、ジムの伯父さんの? ふふふ』ふざけるなよ『ふふふ』だと、言いたいことがあるなら続ければいいじゃないか。もったいぶるなよ。ジムのボスが何だ。と凄いセリフをこれまた、口の中で消化させて飲み込む。情けないよな。憤慨しながら、周りに誰もいないことを確かめ身体を大きくのけ反らした。

今の調子であの奴が僕をこき使う。たまったもんじゃない。それにしても五時までの約束なのに店主は出てこない。このまま帰っていいのだろうか。ジムに帰ってやることがある。もう子どもクラスは終わっただろう。女性のダイエットクラスの準備を任された。その準備の仕方も、加藤に聞かないと何も分からない。店先で苛々していると、さっきの女性が、ジーパンにエプロン姿で出てきた。顔を据え変えたように若く活き活きしている。僕とさほど年の差はないように見える。あまりの変わりように別人かと思い、じっと見詰めていると、

「ご苦労様。早く帰った方がいいわよ。仕事が待っているのでしょう。私、名前をいい忘れたけど和子って言うの。ごめんね、さっき、気を悪くしたのでしょう」

「いいえ、何も」

「顔に出ていたわよ。覚えてね、わたしのこと。ここの娘なの。大学一年生、隆志君と同じ歳だけど、早生まれだから、一年先輩って言うこと。私もここでバイトして小遣い稼いでいるの。自分の家なのに、時間通りに働かないとバイト代くれないの。けじめが大切だって。いま十分の遅刻だって言われちゃったわ。これから宜しく。子どもみたいだけど……。バイト代もらわないと、オートバイ買った代金、借りているの。内の親ってシビアーなの。ちゃんと返せって言うのよ。これから交代時間には遅れません」

和子は小指を出して「指きりげんま」しましょうと言う。

僕の身体が、ふぁーと宙を舞うように足が地面から浮き上がった感覚を覚えた。本当に指を出していいのだろうか。ボスと姻戚関係に或る女性とこんなことしているのを見られたら、ジムの人たちから蹴りが入るような気がする。目の前にある指は細くてしなやかだ。両手でぐっと握り締めたい。あー、溜息をついた。気が遠のきそうだ。たじろいでいると和子が指を絡ませて大きく振りながら「指きりげんま」と言った。この繊細な指でオートバイのハンドルを握る? 信じがたい。でも裏の空き地に確かに400CCのオートバイがあるのは見ていた。まさか和子のだとは思いもよらないことだった。どうやってジムに帰れたかは抜け落ちている。和子の顔の丸い輪郭と、黒い瞳が左右に揺れたのは鮮明に焼きついていた。


月曜から木曜日まで、朝十時から、五時までが勤務時間だ。昼休みはほとんどない。屋根に登って、アンテナたての手伝い。その銅線を肩にかけ屋根に最初に上った時、身体がふらついた。二度目はもっと躊躇った。傾斜がきつい屋根は、身体がずれ落ちそうな気がして、踏ん張る足に力が入らない。屋根に上るときはゴムで出来たズックのようなものに履き替える。

「滑り止めが付いているけど、足に力を入れる感覚は場を重ねることだ。そこから自然に分かって来るが、気を抜くなよ」

 と言われたが、その感覚を覚える前に堕ちてしまったら如何なるのかと言う思いがする。だけど皆そこを通り抜けてきたのだと思うと、僕は肝っ玉の小さい奴なのだ。和子が言った「明日からはきついわよ」がよくわかった。屋根の上で頷いていた。目の悪い加藤はどうやって克服していたのだろう。度胸でカバーできるのだろうか。もっときついのは、築何年も経った天井裏に這いつくばって、電線を張る手伝いだ。今日は、新築の家の電線張りだ。働く大工さんの機敏な動きを見ながら、木の香りと明るい陽射しの下でする仕事に気持ちも癒されるが、見回す限り、僕と同年齢は見当たらない。何故だろうと考えると、気持ちが萎えてくる。同年の奴はみんな将来を見詰める第一段階に来て取り組んでいる。専門学校とか、大学進学とか、正規に就職して社会人となって働いているところだ。僕はそこから弾かれてしまった。一月も過ぎようとしている。あと一ヶ月経てば、同級生は卒業式だ。羨ましいとは思わないが、僕の人生を狂わした乱闘のことを、どう考えればいいのだ。僕は優等生じゃない。頭を掻きむしりたいのを我慢している。何時まで堪えきれるか。僕の心の導線が切れた時どういう行動を起こすのか、自身でも予想不能だ。それを思うと心臓が膨張して胸から飛び出す気配を感じてくる。収めきれなくなった時の僕が怖くなる。ジムに世話になってから、癒される心がなく、何時も自分と、その自分の心と葛藤している。どの心が自分なのか全くわからないのだ。

自分の運のなさに、嘆く場所もないことに惨めさを感じていると、

「おーい、お茶にしょう。一休みだ」下から声が掛かる。

「御馳走になります」店主が下に向かって返事をする。

 僕は恐る恐る気を引き締めながら一足、一足屋根から降りた。上るのよりビビってしまう。足に力を入れると、滑り落ちていくような錯覚に陥る。木登りは得意だったが、傾斜のついた屋根には通用しない。みっともないけど足が小刻みに震えていた。

 職人さんたちが輪になっている後ろに座ると「此処に来い」と手招きしながら、僕のスペースを作ってくれる。すると、大工の棟梁が、お茶を振舞ってくれながら、

「隆志君、落ち込むなよ。大工だって今は覚えたい若者が一杯いる。机の上で図面だけ書かせてくれっていう奴が尋ねて来るが断っている。仕事をして始めて使い勝手の良さとかが分かるのだ。大工は、金ずちと、のこぎりがあれば仕事が出来ると思っている連中に何が分かるかだ。そりゃー、図面も大切だよ。それも必要だからな。この仕事に就きたいと思ったら、二級建築士から、一級建築士の資格を取っても遅くないさ。隆志君なら取れるよ。電気工事の仕事も同じだよ」

 棟梁の話は、僕のことを知ったうえでのことだ。誰が話したのかは、今は考えないことだ。

棟梁の話し方は同情には聞こえなかった。親密さが、淡々とした物言いから伝わってきた。僕は素直に聞き入れながら癒されて来た。

「僕はまだ、自分の進む道も決められないでいます。いろんな経験をしているところですが、今お世話になっている、稲垣電気店で修業させてもらっています」

 僕は稲垣店主の顔をちらっと見た。今の話を聞いていたのか聞き逃したのかは定かには分からないが、他の職人さんと話しをしている。どうでもいいようだけど、僕はいったい何者なのだと思う。この街中に知れ渡っているかのようだ。和子にしても、のっけから「隆志君ね」と来た。とうとうこの街に根を下ろせといわれているみたいだ。隙があったら逃げ出したいが、いまのところ行き先が見つけられないし、行く当てもない。それに、一文無しだ。今日は、一週間分のバイト代が入る木曜日だ。先週の一週間分の二万四千円は、加藤に奢ってもらっていたから、僕が食材を買い、安いジャンバーを買ったら、いま財布には千円札一枚と小銭が少々あるだけだ。ジムにはただでいさせてもらっているから、バイト代なんてない。掃除に受付、シャワー室の掃除はきつい。女性室の匂いと、男性室の匂いが入り混じっている。男性室の温泉の匂いのような卵の腐った匂いと、女性室の香水の匂いが交互にしてくる。複雑な気持ちだ。

「今日はこれで帰っていい。ジムの仕事があるのだろう。俺はまだ仕事が残っているから車はだせない。二駅だから走って帰れ。線路沿いに沿って歩けば江ノ電の距離はたいしたことないから大丈夫だ。給料は、和子が用意している。もういいぞ」稲垣店主が言う。

「はい、帰らしてもらいます」

僕は、頭を深々と下げ、先に帰ることを皆に告げた。給料をもらったら買いたいものがある。途中に本屋があるが千円じゃ買えない。帰りかけて、少し前借できたらと思うが、頼もうか迷っていると、稲垣がポケットから財布を出すと、三千円を隆志の目の前に出して、にやっと笑った。ありがたく手を出すと、

「和子に電話しておく。三千円、差し引くように言っておく」

 と言った。皆が下を向いた。クスって笑っているのを感じたが走り出した。

気持ちが萎えてくると、付随するように学校が浮かぶ。はっきりと決別したはずだ。それは儚いことに過ぎないと知りつつ、思いを遠ざけようとすればするほど、僕のそんな思いを見越したように綾乃からメールが入る。この頃は高飛車なメールを送ってくる。返事をよこすのが礼儀だってさ。こっちは頼んだ覚えはない。

「学校を諦めちゃ駄目よ。いろんな道があるのだから。身体だけは気をつけてね。もうそろそろ家に帰ってきても、いいじゃないの。我を通すと踏み外してしまうことだってあると思うし、チャンスを逸してしまうのよ。お金に困ってないの。私がいること忘れないでね。居場所教えて、持って行ってもいいわ。勿論、母さんや、父さんには内緒で行くから教えて」

 ひょっとすると、母の代弁なのか、とも思う。ほっておけ。

僕は走った。今日は女性のダイエットコースが終わると、六時頃から『俺は無敵』と身体全体で表しているつわもの達が集まってくる。丹念に女性の匂いを換気しておかないと「集中できない」と、どやされる。自分たちが落とした汗じゃないかと思うが、床の上に落ちた汗は、染み付いてなかなか落ちない。早く帰らないと……。その前に本屋に立ち寄りたかった。走って走り続けた。江ノ電の一駅は短いというが、二駅走るのは根性がいる。誰も見ていないし、電車沿いに走れと言った稲垣は、案に、電車に乗ってもいいといいたかったと思う。その誘惑には負けない自分に打ち克ちたかった。自分の意志を貫いて、線路沿いを走った。

本屋の棚を端からあさるように見ていると、大検に関する資料がずらりと並んでいた。

こんなにあることを知らなかった。背帯はどれも同じようなタイトルだが僕の色彩に合いそうな、ブルーを取って開くと選択肢が迷うほどある。学校や、塾もある。週一回の登校で体育の実技だけだから大学受験できそうだ。三冊ほど買い求めると、二千円がとんだ。それを抱えてまた走り出しながら、和子への挑戦だ。生意気な接し方に腹立たしいが、臆せず物事をはっきり言う和子に、三日会わないと気になる存在になった。気になりだすと次々に想像が果てしなく広がってしまう。癇に障ることを言われた瞬間、頭に上った血は、和子の透き通る声に青空へ吸い込まれていく。

ブルーがさ迷いだす。何故だろう。

幻想の世界に和子を置いているに過ぎないのだ。 

和子に負けてたまるか。もっと、賢くなれ。


       心を癒す空間


僕の癒しの空間はコーヒーの香りとなっていった。それはふとした切掛けからだ。金曜日は、丸一日休養日だ。加藤に頼まれた食材を買いに商店街を歩いていると「隆志君」と言う声に振り向く。和子が手を振りながら、小走りに近づいてくる。

「お買い物? 加藤君に頼まれたの。それとも、みんなの使い走り?」

「違います。僕たちの食材です。使い走りをさせるような人は誰もいません」

「あらごめんなさい。だったらまだ時間があるでしょう。コーヒーの美味しいところがあるの。飲むと気分も癒されるわ。私と一緒は嫌? 休養日なのだから、堂々と休めばいいのよ」

「でも、誰かに見られたら、和子さん困るのではないですか」

「どうして困るの? 誰かに見られることを気にするなんて、案外肝っ玉小さいのね。私に誘われたって言えばいいでしょう。それとも、誘いましたって言えば。う、ふふふー」

「からかっているんですか」

「どうして子供もみたいなこと言うの。だけどそういうところが、素敵! ただ、こんなこと言うと、此処の地域の人に叱られてしまいそうだけど、ここでしぼんでしまうのが残念な気がして。ジムがいけないって言ってはいないわ。隆志君って、もっと違う道に進む人と思っているから、いろんな可能性を秘めていると思うの。私に言われるのは嫌なのは分かるわ。誰かに頼まれているとかと違って、私が感じたことを素直に話しているの。そんなことに口を挟まれるのは嫌っていうことも分かるわ。でもね、今隆志君の置かれている状況からすれば、誰かの援護が必要だと思うの。今のところ周りには居るようで居ない気がする。ねえ、怒らないで聞いて。私で良ければ話してくれない。力の及ぶ限りのことはするわ。こう思うとしか言えないけどそれでも参考にはなると思うのだけど」

 和子の話は、僕に説教しているのだろうか。こんな場所で、ずけずけものを言う和子に、すごい貫録を見せつけられたような気がした。これが自分と同じ歳ぐらいの和子に言われていると思うと、僕は子供なのだ。情けなくて、腹の底から奇声を発して駆け出したいのを堪えた。堪える事もこの頃修行だと言い聞かせている。だが、いろんな状況下で、そく、我慢だと言い聞かせても、心がそれを受け付けず、態度や言葉に出でしまう。心って難しい生き物なのだ。身体から、遊離しているのが心って言う事らしい。

今はぎりぎりの状態から抜け出して、和子にのめりそうなのだ。廃るぞ。と自分に言い聞かせるが、如何したいのかも分からずに、和子の後に着いて歩いている。和子の気持ちを損なわない程度に、無関心を装いながら後について歩く。和子に気持ちが傾いているのを悟られないようにするだけで精一杯なのだ。相談に乗ってくれそうなのは和子しかいない気がする。もっと素直に、和子と将来のこと話してみようか。 

だが、直ぐに油断大敵と思い直す。

商店街を通り抜け、閑静な住宅街に続く路地を、網の目を潜るように進む。もし僕が和子を誘ってこんな場所を連れ歩いたら、ついて来るだろうか。振り向いたら和子はいなかった。という場面が浮かんだ。

喫茶店なんてあるのか? 

和子は何を考えているのだろう。

僕を子供と言った。子供なら和子は保護者のつもりなのか? 

ちょっと待てよ。今の話だって、まるで言い聞かされているみたいな話ぶりだ。

和子の華奢な背中を眺めながら、そのオーラーは堂々と高貴な香りを放散している。

不思議な生き物が和子。

「私は対等に付き合いをしようなどと思っていないわ」

和子にそう言われているように感じた。

優劣、高下、それじゃ恋愛感情を抱いたら身も心も踏みにじられてしまいそうだ。一番嫌いなのは女の高慢ちき。和子の物言い、それに値するぐらい傲慢に思えるのにどうしてだろう、心がもぞもぞっとして後ろから襲いたい衝動をこらえる。こんな感情を知られたら、男が、廃る。

和子は狼? 

僕は狸? 

と思った瞬間、和子が振り向いた。

「なにをそんなに苛々しているの? 喫茶店はそこよ」

 和子が指さす先を見ると、看板もない。普通の民家に見える。近づくと、竹垣で括った庭にくぐり戸が設えてある。そこに「喫茶、くう」と申し訳程度のプレートがかかっていた。家から付随して建てられているロッジ風の建物が見えた。大きな窓ガラス一面、早春の陽を浴びて明るい。庭の敷石を渡って扉を開けると、高い天井と、ゆったりしたソファー、レースのカーテンから届く屈折した柔らかい陽。そこに漂うコーヒーの香り。その香ばしさは今まで感じたことがない。これが本格的コーヒーの香りなのか。落ち着いた雰囲気。外国映画の世界に紛れ込んだような匂いが漂う。

僕はいままで友達と入ったファストフードの喫茶室とは格段の差がある。

雰囲気に飲まれてしまいそうだ。

此処は大人の場所だ。

和子が僕より年上と感じさせるのも、それはこんな場所に出入りしているからだ。窓際の椅子に席を取った和子は、何を話すでもなく、コーヒーを優雅に味わっている。僕もゆったりと椅子にかけている。唐突な誘いは戸惑うばかりで話題に欠き、あせれば焦るほど話題を見つけられずにいた。頭を過ぎるのは、時間にうるさい加藤の叱責。休養日といっても、掃除はある。和子の気まぐれに付き合っていられない。そんな思いでいると、「遅刻するわよ。苛々してないで、はっきり言いなさいよ。先に失礼いたしますって」

今のような物言いされると、ますます癇に障る。先に喫茶店を出たが、これが最初で最後のデート、もしくは慰めのコーヒーに預かった。という場面。だがコーヒーと和子の香りがずうっとついてきて、鼻先をくすぐった。


この喫茶店に僕は週に二度の割合で通っている。金曜日はフルに自分の時間だが、午後五時までが自由時間と区切りをつけている。この日が来るのが待ち遠しい。あとの一度は買い物帰りに時間を調整して通う。経済的にぎりぎりのところだ。香りが良い分だけ、コーヒー代の千円はしかたないのかも知れないが、財布の中身を圧迫した。だけど病み付きになった。時々思う。内心穏やかではいられない思いがある。和子とスリルを楽しんでいる僕。ほんの数分違いで和子が喫茶店に現れるのだ。リアルとスリルが交錯する空間。賭けをしながら、和子が現れると、小さくガッツポーズが出る。和子も落ち着いている。楚々とした態度で、微笑むでも無く、尖った顔をするでも無いく、流れるメロディーに身体を椅子に委ね聞き入っている。またそこが気になる。僕の存在を無視している。カモフラージュするための態度なのか。最初に誘ったのは和子。だけど金曜日が待ち遠しくて仕方がない。

僕の心が自制できないのだ。行くものか、あんな喫茶。

どこに惹かれているのだ。やっぱり和子だ。

和子の奴、自意識過剰じゃないのか。ところが心底惚れたのは自分という思いがする。自覚すると、その夜、ベッドの中で夢か幻か、現か幻覚か目の前にちらつき僕を惑わす。

僕が和子にほれてしまった? 

喫茶店のドアを開けた。

和子が話しかけて来た時にはごく自然に話しに乗ろうと、そのチャンスを狙っている。今日こそ和子に振り向かせる。ところが和子が見当たらない。変わりにウエイターに、

じろじろと眺め回される。挙動不審なのだろうか。始めて会ったウエイターではない。引き返す前にしばらく様子を窺ってみることにし、何時ものように、彼女がやって来るのが良く見える椅子に腰掛けた。どうでもいいウエイターを僕がちらっと見ると、その視線と合った。どっちらも、ぱっと逸らした。和子が来る気配が無く、諦めて喫茶店を出ようか考えていると、ウエイターが水を注ぎながら言った。

「和子さん、今日はお見えになりませんね」

「えぇ、和子さんを知っている?」

しゃがれた声しか出なかった。

その声に言いようのない屈辱を味わう。それっきり絶句した状態のままだ。

この土地の人間はなんだ。一族なのか。僕の一挙手一投足、皆で眺め回している。

背筋にぞっと寒気を感じた。

レジに千円を置くと飛び出した。このままこの土地から逃げ出したい。

外は霧雨か降り出していた。細かい水滴が顔に当たる。むしろ苛立った気持ちを冷やし癒してくれる。無宿の旅で始まったところだ。もっといい場所が見つかるかもしれない。それに、今朝から感情の起伏が自分で抑え込めないほど動揺しているのだ。

三月一日、卒業式だ。払いのければ退けるほど、卒業式が浮かぶ。

昂った心は、和子に対する反発心とは裏腹に和子にすがりたい。

和子はそんな僕の心情を打開してくれる。

空虚な移ろう気持ちを補ってくれる。

心を満たす女神なのだ。

無言でもよかった。側にいるだけで僕の心の空洞を補う要素をかもし出しているのだ。

顔にあたる冷たい水分を含んだ空気の滴を浴びながら、庭石を飛び跳ねるように道へと渡る。これが春雨というのだろうか。細かく降りそそぐ。土砂降りの心に纏わりつくその水滴は冷たい。

「あら、もう帰るの? 今日はお休みでしょう」

不意に声を掛けられた。その声は間違えなく和子だ。

僕は暗く途轍もなく打ちひしがれて歩いていたのだろう。傾けた雨傘から顔を覗かせた和子。タイミングを計ったかのように、現れたのは偶然だろうか。隆志は言葉を完全に失っていた。和子が畳み掛けるように、

「これからどこへ行くの? ジムに帰ったら、気持ちも休まらないでしょう。私は学校のサークルから帰ったばかりなの。今から、バイトの時間なのだけど、母に代わってもらったわ。隆志君が、寂しがっていると思って飛んできたのに、残念だわ」

「僕が寂しいだって。ここに居たってコーヒーを飲むだけだろう。それで癒され、何かが吹っ切れるとでも思っているのかよ」

「どうしたの? なにを吹っ切るって言うの?」

「和子さんを吹っ切るのだ」

「どうして? わたしを? 勘違いしないでよ。おせっかい出している訳じゃないわ。最初は隆志君の不安定な気持ちを和らげられたらと思って、ここに誘っただけだわ。あとは君の主体的感情で自由に癒しに来ているのでしょう。だからいつも障らず、当たらず黙って側にいただけよ。それが嫌だったら、はっきり言えばいいでしょう」

「あぁー、そうですか。僕も頼んだ覚えはないね。そんなに子供も扱いされるのは迷惑なんだ」

「それは悪かったわ。ごめんなさい、とでも言えばいいの? 隆志君を買被っていたみたいだわ。じゃーね。お互いに、消えましょうよ」

 背を向けた和子に、

「なんだよ。喧嘩売る気か。いいじゃないか、買って出るよ。あそこから君の彼氏のボーイが見張っているだろうな」

悶々とした気持ちが、腹からこみ上げてきて、罵声を浴びせていた。

 振り向いた和子はしばらく僕を見詰めていたが、

「嫌だわ。雅夫君のことを言っているの? 従兄よ。彼もこの春までのバイトなのよ。就職も決まって、今が最高に幸せな時だから、他人のことも心開けるのでしょう。それとも何か癇に障ることでも言われたの?」

「都合よく従兄が出てくるんだなぁー。一度だってそんな素振り見せなかったじゃないか。いつも客でしかなかったはずだ」

「そうよ。だって喫茶店に入ったのは私達でしょう。雅夫君はあそこではボーイに過ぎないのよ。それがけじめ。今日はコーヒーを飲むのを止めるわ。こんな気持ちであそこに座っても、メロディーに酔うことも出来ないわ。私がどうして隆志君に、打ちのめされないといけないの? 憶測するのもいい加減にしてよ」

「そんなに演技して何になるのだよ。メロディーに酔っていただと。聞き入っていただと。笑わすなよ」

「どう思おうと隆志君の勝手だけど不思議だわ。言いがかりをつけるのも勝手でしょうけど、隆志君って、考えることが飛躍しすぎるのよ。こんなことで怒るの」

 僕は、和子の叱責に戸惑った。自分の荒れ方に自分が分からない。和子を抱きしめたい衝動を抑える自分が遣る瀬無い。女々しいじゃないか。和子の全てが気になるのだ。和子と知り合ってまだ日が浅い。いつも難題を吹っかける和子を疎ましく思えば思うほど、どうにもならない僕が現れるのだ。微笑むでも無く、尖った顔をするでもない楚々とした和子に惹かれていくのだ。

彼氏がいない筈はないと思っていたが、あのボーイが僕の前に現れた。僕の存在は、和子の胸中にどれだけの部分を占めているのだろう「全く空っぽです」と言われたら、学校を停学になった時より、ショックかも知れない。よりによって今日は、高校の卒業式なのだ。考えるのはよせと言えば言う程頭を掻きまわしてくるのだ。


あれから、一週間、和子には会っていない。バイトの交代時間になっても和子は現れず、その代わりに、店主の稲垣が「時間だよ。ご苦労さん」と奥から声がかかる。今日のバイトの一日の終わりになった。和子は、この土地から逃げ出すことも出来ずにいる僕を、どう思っているのか気になる。ジムに帰ると掃除を素早く済まし、リングの下に寝転んだ。

この間説教もどきのことを、和子に朗々と言われていたが、僕は全てを忘れようとしている。和子に惹かれていく自分が、厄介な悩みを抱え込んだと思う。が和子の本心を知ることに情熱を注いでいる。注ぐと言っても、何時も用心しながら、顔に出すな、態度に気をつけろと、それに気を取られている。だから、素直になりきれないのだ。若さで当たって砕けろ。以前の僕だったらやってのけただろう。

今は借りてきた猫だ。

和子は、僕を意気地なし、それとも、駄々をこねる幼い子供と思っているのだろうか。

閉ざされている。何かからか? それが分かれば、どうにかなるように思うが。

こうやって天井のない、高い鉄骨の梁を、一つ、二つ、三つと数えている僕を、和子が見たら笑うのか、逃げ出すだろうか。最も、和子を彼女だと思っているのは僕だけで、あっちは「えらい迷惑です」とがなりたてられそうだ。寝転んでいる身体を起こしかけながら、ズボンの後ろポケットに手を突っ込んでみる。札が三枚と、小銭が少々。全財産だ。札はいうまでも無く千円札だろう。一万円札であろう筈が無い事を自分が一番良く知っている。


         働くと言う事


昨日から気持ちのやり場に困り、整理がつかないままの、苛立った気持ちで仕事をしていたのだろう、ドジをしてしまった。

「洗濯機の搬入に行って来い。自動車で先に運んで置くから、後はひとりで出来るだろう」

 稲垣はそう言って、台車に載せ、ひとりで軽トラックの荷台に洗濯機を載せると、その横に毛布を放り投げた。助士席のドアに立っていた隆志は手を貸す暇もないまま、軽々と載せる稲垣の技に敬服しながら見ていた。

「お前は、スクーターで来い」

稲垣が顎をシャクって言う。

あれ、という気はしたが、深く考えもせずに、スクーターにまたがり、軽トラックの後を追った。久しぶりにオートバイの感覚を味わいたかったが、軽やかで、女の子の乗り物のような気がして、物足りなさを感じだ。それでもいくらか気分が晴れる思いだった。

届け先の門の前で、稲垣はエンジンをかけたまま、運転席から、台車ごと下がる装置で、静かに難なく降ろした。台車の洗濯機の上には毛布が置かれていた。

「確り、設置してこい」と言うと発車して行った。

 隆志は人で据え付けるのかと聞くひまもなく、車は遠ざかって行った。

玄関まで運ぶと、インターホンを押す前に玄関の扉が開き、

「あら、嫌だわ、裏に回って」

奥さんにムッとした顔で言われる。

今まで一人で配達したことはなかった。それもちょっと離れたリゾート地みたいな新しいマンションが立ち並んでいる地域に何度か行った。出入り口は一つという家庭に配達していたから、そこまで気がまわらなかった。毛布は台車の手すりにぶら下げていた。勝手口に回って、荷をほどき持ち上げると結構重かった「よいしょ」と掛け声出して上がり口まで持ち込んだ時「洗面所の中よ」と言う奥さんの声がしたが姿は見せない。洗面所を覗くと、古い洗濯機が腰を据えている。ちえーと舌打ちした。古い洗濯機を引き取って来いとは言われていない。退かさない限り新品の置く場所は見当たらない。どうやって一人で持ち上げるのだろう。てこずりながら持ち上げると、ホースも下水にささったままだ。引っこ抜くと滴がぽたぽたと落ちる。相当古いものらしい(この家結構ケチなんだ)うっぷん晴らしにそう考えた。外に出すのはどうすべきか。引っ張ればいいのだ。洗濯機の底に手を入れるとキャスターに触った。だからそのキャスターを頼りに床の上を引いた。引きずったとは思わない。やっとの思いで外に出し台車に載せた。一仕事終わった気分だ。人の気配に振り向くと、奥さんが、口をあけ眼を見開いている。これから何かが始まる予感がした。あまりに怖い顔になった奥さんの指差すところを見ると、太い二本の線が床を凹ませ、上がりかまちまで続いている。何ものにも替え難い証拠を突きつけられた。

「すみません。後で蝋を塗りますから」

「あなた、蝋を塗って元通りになると思っているの。こんな乱暴な人に会ったことないわ。貴方は運搬人でしょう。どうやって運ぶのか覚えておきなさい。いいわ、直ぐにお店に電話します」

 奥さんはそう言って何処かへ消えた。しばらくして戻ってきた奥さんは、

「店主が来るまでそこにいてください。もう、触らないでね」

そう言うとまた消えた。

僕は思考停止状態で突っ立っていると、背後から、

「何をやらかしたのだ。何のために毛布を積んだのか分からんのか。どうして何時ものように運ばなかったのだ」

 稲垣の尖った声に、僕は振り向きざまに始めてしでかしたことの重大さを感じる反面、そんなに大変なことをしでかしたのかと思う。たかが、床に二本の凹んだ線が出来ただけじゃないか。それに、どうして一人でこんな重いものを運ばなくてはいけないのか。と反論したい気持ちだ。黙っていると覆いかぶさるように稲垣の声は凄まじい。

「お前、何度洗濯機を運んだ。子供だって一度経験すれば、間違えなく運べる。気持ちが入っていない。仕事に対する真剣さがない。ふぁふぁ、違うこと考えているからこんなしでかしをするのだ。間抜け」

 稲垣の剣幕は凄まじかった。

僕は初めて仕事に対する意気ごみがないことを見抜かれてしまった。愚痴ばかりが出ることを口にはしなかったが、心状を読みとられていた。まずい。これからどうすればいいのだ。首になればジムにもいられない。

傷心しきっている目に、僕は初めて毛布に気がついた。毛布の認識はあったが、ここで必要になるということをすっかり忘れていた。稲垣の顔を見ていると、全てにむかついてきた。叱られているというより、攻め立てられている。一度の失敗も許されないのだろうか「何時もは二人で運ぶじゃないですか」一人で行かせた方にも責任がある。と言いたかった。それも飲み込んだ。稲垣は唇を噛み、鋭い視線を浴びせて来たがそれ以上何も言わなかった。それは叱責の洗礼を受けているより恐怖になった。

僕の側にいる奥さんが、小気味よさそうに、しゃくりあげた顔を斜に構えて、その目で僕を見ながら稲垣に言う。

「お宅とは長い付き合いで、こんなこと今までなかったわ。だからって黙って引っ込む訳にはいかないわ。そこはお分かりでしょう。リフォームしたばかりなのよ。いいって訳には行かないことはご理解なさるでしょう」

 僕は、自分がしくじったことでこういう状況になったことは重々分かっている。が、その反省はどこかへ飛び去り、どうしても治まらない感情。責任転嫁する訳ではないが、稲垣は、責任全てを僕に押し付けている気がする。それにつけてもここの奥さんの凄まじさに稲垣は如何するのだろう。稲垣の顔をちらっと見た。険しい顔にビビってしまう。が、直ぐにこれはまずいと思い直し、真面目な顔に作り直した。稲垣も、ムッと来たのだろう。間髪いれずに、

「元通りにします。直ぐに大工をよこしますから」

 と、結構きつい声で言うと、携帯電話を取り出した。稲垣は心中とは裏腹に直ぐに静かな調子で誰かと話をしていた。

「大工に連絡が取れましたから」と奥さんに丁寧に言った。

 僕は、自分の失敗を忘れて腹立たしくなった。何時もの稲垣からは想像を逸している。言われるままに直さないといけないのだろうか。弁償ということになったらどうすればいいのだろう。弁償能力なんてない。稲垣が全てを抱え込んでくれるというのだろうか。少しでも手助けしないといけない。僕には何もない。で済ませられるのだろうか。和子に相談したいが、あれから避けられている。それに稲垣と和子は親子だ。直ぐに通じてしまうだろう。どこを探したって僕には何にもない。開き直ったら、ジムから追い出されるのは確実。加藤に相談しても、無いのは分かっている。借りたって返せるめどなんてない。食っていくのがやっとだ。これで家に電話を掛けたら、居場所も分かり僕の決意も台無しになる。自立、それは自分自身が心に刻んだ硬い意志だったはずだ。すると、頭の中はクルクルまわる観覧車の景色のように回り始める。身体が上下する回転木馬の上で眩暈を起こしているように、何かに撹拌され続けていた「ガサガサ」と言う音で我に返った。奥さんの後姿が目に入った。

 僕の身体が反射的に動き出した。古い洗濯機を元に戻して、新しいのは持って帰ろう。勝手口に出した、薄汚れた古い洗濯機を持ち上げた。床に下ろさずに踏ん張りながら洗面所へ持って行き元通りに戻すことだ。勝手口に入ろうとすると、奥さんがまたヒステリックな声を上げる。

「何をなさるの、折角外に出したのに、そんな古い洗濯機を家に入れてどうしようと言うの?」

「元に戻すのです」

「あら、嫌な人。新しいのを置くのなら分かるけれど」

「新しいのはその隣におきます」

「私が買ったのです。新しいのをちゃんと置いてください」

「それなら、古いのを奥さんが片付けてください」

 隆志の我慢が頂点に達し口から本心が突っ走った。この遣り取りに稲垣は口を挟まない。

「ご主人、ちょっと聞きました、お宅の若いかた」

 猛然と食って掛かる奥さんに、稲垣は、

「明日、大工をよこします。私から元通りにするように話をしておきますから」

 幾度目になるのだろう「直します」と言った。

 僕のことには触れずにいる。奥さんの不満げな、激化した顔を見ていると、古い洗濯機を戻そうとした僕に、何も言はない稲垣の何等かの代弁になったのだろうか。例えば、引き取る約束はなかったとか、以前受けた心の傷とか。隆志は、ここの奥さんの表向き顔と、深くねちっこい感情が潜む胸裏。上流家庭を気取っていながら、そこから出るえげつないことを平気で言ってのける。化け物のように醜い人なのだ。と隆志は思った。大人の世界はこんなえげつない葛藤の連続なのだろうか。稲垣とここの奥さんとのギャップ。どっちらにしても中途半端な憤りの矛先を、隆志はもう僕の存在を無視した二人の葛藤の現れのようだ。すると稲垣が言った。

「隆志、その古い洗濯機をどうするか奥様に窺ってから処理しなさい」

隆志は面食らった。奥さんは聞こえない顔している。やはり僕が感じたとおり、この古い洗濯機の処理は頼まれていないのだ。置いていってもかまわな、そう思った。

「元の処へ置いた方が良いと思います」

皮肉は的中した。

「そんなこと言わずに、もって行ってくださいな」

 奥さんの声がかすれるように小さい。稲垣と何かあったのだ。そうじゃない限り、隆志一人の配達が有る訳がない。そう思うと、奥さんをリング、コーナーに追いやった気分がした。すると胸の支えが下がって行く。しばらく三人の異様な無言状態が続いた。

「隆志、片付けて上げなさい」

溜息が出たが、僕は稲垣の言う通り道端に運び出した。


 とうとう洗濯機の利益分の何十倍も損失が出てしまっただろう。僕には弁償能力もない。頭を下げるだけでは居づらい。まだ今週中のバイト代をもらっていなかったが辞めるほかないだろう。僕は頭を下げながら、

「申し訳ありませんでした。どう償っていいか分かりません。仕事を辞めるしかないと思います」。

「あぁ、そう」

これが稲垣の返事なのだ。

引き止められもしなかった代わりに、請求書を回すとも言わない。どう、解釈してよいか分からないが、隆志は店を出た。案外太っ腹なのだ、稲垣は。と思うことにした。ジムに帰って加藤にどう説明しようか、ボスの耳にはもう、入っているかもしれない。ジムに居られるか、追い出されるか予測すら出来ない。歩きながらポケットの中をいじる。千円札三枚はバイトが見つかるまでの繋ぎだ。三枚はどう倹約しても、二日分の食事がまかなえるかどうかの金額だ。とうとう母に頼らざるを得ないのか。妹の綾乃のメールは何時も「わたしのお金を送るから使って」とあるが母の指図に従っているのだ。あいつが持っているはずがない。また無宿の旅に飛び出す。いまから思うとジムに拾われたのはついていたのか、他の道を塞がれてしまったのか、どっちなのだ。  

あの日は寒風吹く海岸に佇んでいた。三時間もその状態でいたとボスは言った。それも年末の忙しい夕暮れ時に、ボスの高石に拾われたことは、ついていたのだ。誰も居ない、あてもない一人ぼっちの状態だったことを思い出すと、今さらながら、背筋に得体の知れない寒気が走った。計画も立てずに突っ走るが、間抜けな僕。バイトが見つかるまでジムで堪えようと考えるが無理だろう。厚顔無恥って罵られそうだ。電気店もジムに居るからバイトさせてくれた。加藤の顔を潰したことになる。

何故か僕は「潔い」という言葉が過ぎると突っ走るのが早い。事が起こってからの自分と、その時、自分を見つめることを省いてしまう。その意志のギャップに時々戸惑う。

どっちが自分なのか、どっちも自分なのだ。

今が家に帰るチャンスを誰かが作ってくれたのだ。

甘いよなぁ、僕って。それは分かっているけど、現実って言うのは、自分の考えた世界からは想像も出来ないことが巡って来る。考えた末にたどり着いたのは「母」に「必ず返すから頼む」と言うこと。父のいない時間を見計らって電話することにしよう。父が出勤しただろう朝九時に電話を掛け、せめて修理代の半分を母に借りてバイトで返す。いま春休みだから、綾乃に持ってきてもらう。いつの間にかジムにたどり着いていた。躊躇いながら扉を開けると、ボスの高石が仁王立ちしていた。僕は倒れこむように正座すると、額を床につけた。

長い、長い時が経つ。無言の行ということはこのことだろう。

「お前、辞めるとはどういう根性をしている。必死になって働くのが償いだろう。戻って稲垣に自分のしでかした反省をして来い」

ボスの声は穏やかだった。

僕の甘えだろうか? 気付かせられた思いがする。

「はい、分かりました」

走って、走って息を切らせて店につく。

店に入ると稲垣は帳簿に向かっていた。顔を向けるでもない。僕は声を掛けられず、少し離れて直立不動の状態でいた。稲垣が何の反応も見せずにいる。如何したらいいのだろうか、まよいに迷っていた。すると、何時もの淡々とした顔で僕に目を向けてきた。謝ろうとしたが、言葉にならず、

「す、す、すー」

言葉にならない声を発した。

「明日は新築現場の配線があるから用意しておくことだ。今日は、それで仕事は終わりだ」

 と稲垣が言った。

「は、は、はい」

だらしない言葉にならない返事をした僕はそのまま突っ立っていた。

ボスの高石には床に額をつけて謝ったのに、ここではその勇気が出ない。

和子の存在がちらつくのだ。みっともない場面を見られたくない。それではいけないことぐらい分かっているが、どうしょうも無く身体がゆうことをきかない。

「もういい。お前はいい勉強しただろう」

 稲垣はそれだけ言うと店の奥へ行った。

変わりに和子が顔を出して、

「失敗は誰にもあるのよ。ちょっと判断が甘かったのね。もう忘れたら」

「それで済むのですか?」

「じゃどうしたいの? うふふふ」

「分からない」

「ここでバイトをしている限り、一生懸命というのが、その償いと思えば」

「でも、大工さんをお願いする金なんて、僕にはない。バイト代では返せないから、どうすればいいか皆目分からないのだ」

「何でそんなちっぽけな感覚しか持てないの? 父が、隆志君に大工代を払えって言った? 言わないでしょう。そんな父じゃないわ。隆志君は自分の根性丸出しにしているのよ。分る」

僕は身体を支えきれないぐらいシックを受け崩れるように床にしゃがみこんだ。世を儚んでいる僕を、和子が見下ろしている。こんな惨めな格好を、好き好んで、好きになってしまっている和子の前で言えるか。

僕の意志とは関わりない身体が、こけてしまったのだ。僕ってみみっちい小さな男なのだ、と言われたのか。ますます意気消沈していると、

「明日の仕事が終わったら、久しぶりにコーヒーを飲みに行かない?」

 和子が僕に近づいて言った。女の香りが、ぷーん、と漂った。


      青春の夢の中


朝日が射し込んだ窓を開けると、軒下の枯れ枝から青葉が芽吹きだしている。小さな若葉が折り重なるように、爽やかな風に乗ってゆれている。風の先を見つめると、水平線の彼方にコバルトブルーの海を、神々しい太陽がオレンジ色に染め、幻想的に壮大な空間を広げていた。隆志は。こんな情景を見たことはない。初めて味わう清々しい気分に浸り、春の訪れを感じたことはあったが、芽吹く木々、太陽の神秘に圧倒されながら眺めていた。ぼんやりと見つめていた浜辺に人影を見つけた。犬と一緒に散歩している女の人が居る。焦点を定めるとはっきりしてきた。和子だ。と思った瞬間、窓から飛び降りた。素足のまま海岸に向けて走る。小石や枯れ草が足裏をちくちくと刺激する。痛さは感じなかった。幹線道路を渡って海岸に出る。砂の感触が心地よい。人の気配に振り返った和子が手を振りながら、

「隆志君、早起きしたのね。気持ちいいでしよう」

「犬の散歩は毎日しているの?」

「そうよ。隆志君は寝坊助だから会ったこと無いのよ。小雨だって犬は散歩を怠ると病気になっちゃうわ。加藤君は、早朝ランニングしているわよ、毎日」

「えー、本当。知らなかった。隣の部屋で寝ているけど、起きた気配も感じなかった。今のって、僕に当てつけて言っているの?」

「あてつけたところで、私と加藤君とは何の関係もないわ。知りあいよ。強いて加藤君を語るのなら、加藤君は頑張りやって言うところよね。弱みは見せないし、自分の運命を嘆かないし、同世代の者からしたら大人だわ」

「僕は子供って言うこと」

「そうよ。いい加減に、嘆いていないで、これから進む道を見つけたら。走ろう! 気持ちいいわよ! もう直ぐ満潮になるわ。この辺りまで潮が満ちてくるの。冷たい潮に足をつけたら目が覚めるわよ、きっと」

「もう、僕は潮に足をつけているよ」

「だったら、目覚めたでしょう。希望を持ったら」

「僕の希望は、和子さんをあのボーイから奪うことだ」

「隆志君って、ちっぽけなことに拘っているのね」

「ちっぽけでもいいさ、好きだ!」

犬と一緒に素早い速さで遠のく和子を呼び続ける。

「大好きだ」

手を伸ばせば和子の腕を引き寄せられるところへ追いついた。

「和子さん……和子、さーん」

身体が何かに当った。

“ドスーン”と音がした。

「おい、何をほざいているのだ。起きろよ」

加藤の尖った声がする。

 僕は頭を振った。自分の存在を確かめようと目を開けた。ベッドの下でうずくまっている。頭をもたげ加藤の顔を見た。にやっと笑ったのだろう。口元を微かに緩めた。

 夢か。

 そうだよなー。和子と一緒に走っていたなんて言ったら、加藤は何と言うだろう。

 あ、はははー。その笑い声が耳の奥で、また笑った。

 僕っていつも何かの行動を起こそうと思うと、夢を見るらしい。

 家出するきっかけも、夢の中からだった。

そしていつもベッドの下にうずくまっている。


        同世代


三月下旬。同世代の者は、四月の新生活に向かって蠢いているはずだ。僕の前途は閉ざされてしまった。行き場のない人間だ。知らず知らずに全てものの見方が、屈辱を受けているような感覚しか持てなくなっている自分がいる。こんな感覚を今まで味わったことがなかった。僕は全て楽天的に物事を考えていたから悩みもなかった。強いて言うなら落ち込んでいる自分を演出していたことはある。推薦入学を勝ち取った時も、教師がくれると言うから、もらってあげたとうそぶいていた。その精神の鼻っぱしにいやというほど 強烈なアッパーカットを食らってしまった。

一生懸命血眼になって勉強していた連中からすれば僕のことを「お気の毒」と薄ら笑いをしているかも知れない。クラスメイトだった連中は全員進路が決まったのだろうか。自分にはもう関係ないのだ。考えるなと思えば思うほど、それが苛立つ原因となる。

自分が精神を入れ替えない限り落ちていくぞ。ということも分かっている。

「大学がなんだ。くそ食らえ」断ち切れと言い聞かす自分に腹が立つのだ。これほどついてない十八歳の青年が居るだろうか。このままバイト生活とジムの掃除の人生が続くのだろうか。

和子には夢の中でしか会えない。傲慢無礼で、鼻柱の強い和子を打ちのめしたい思いとは裏腹に、僕の脳裏にこびりついて離れない和子。加藤のどやす声に飛びあがりジムの掃除を終えると、パンをかじりながら、バイトへと向った。定刻通りに店に入れた。店主の稲垣が店に出てくる前に、昨日、用意した電線のコードを車の荷台に載せた。店の中に入ると、和子が、レジの前で何か書き込んでいる。顔を上げずに、

「隆志君、おはよう」

和子が隆志の名前を呼んだのだ。一向に和子は顔を上げない。どんな顔をしているのだろうか。朝陽に向かって浜辺を走った美しいまでに清々しい和子の顔を見たい。夢でない現の顔がみたい。

「和子さん。今朝浜辺を走っていましたか?」

「今日は、止めたの。寝坊してしまったのよ。どうして?」

「昨日だったのかなー。確かに浜辺を走っているのを見つけて、呼んだのだ」

「誰を? もしかして隆志君の恋人とか……。恋のシチュエーションには、絵になる場所ね。楽しかった?」

和子が僕を茶化した。

 ムカッと来たが、顔が赤らんできそうな気がして視線を逸らした。そこまで言われると気持ちも白けてくる。店の外に出る僕の背中に呼び止める和子の声がしたが、振り向くこともしなかった。和子は僕の気持ちを知りながら、引き寄せたり、突っぱねたりして遊んでいる。その手には金輪際乗らない。和子のことは通り雨に当っただけだ。

失恋? じゃないよなー。

一時でも二人が愛し合ったことがあったのか? 

和子はそっぽを向いたままだ。

じゃ片想い? 

どっちだって僕の知ったことか。

今は、一瞬、和子に翻弄されたが忘れることにしよう。と誓いを立てた。

つまり二人の出会いは偶然でも無く設えられた人たちの中の一人に過ぎない。ひずみが生じたというよりそれ以前の人間関係なのだ。

今、恋しいなんて泣くほど僕は弱くはない。

それより、胸の奥から忍び寄る僕の隆志の感情に義憤を感じる。友達でもいいからなんて言いやがる情けない自分。胸を叩き壊し、和子の目の前に放り投げたい。驚いて腰を抜かすか、目を見開き僕を見つめながら、

「隆志君、隆志、くーん」なんて飛びついてくる。

最も僕に似合わない事を考えたものだと思う。

友達って言えるのはどういう関係をいうのだろう。遊ぶ時に独りじゃ遣る瀬無いから、複数人間が集まって何かに興じっている時に確認する。

あぁー友達の輪の中にいるのだと。

 親友ってどういう関係? 精神的に支えられたりすること。

嫌というほど打ちのめされたじゃないか。山谷や、斉藤の奴。消極的でひ弱いと思っていた田川もその類だったのだ。どこか心の底で何かが渦巻いている。吹っ切れぬ自分がいると思うと、そのほうが切ない。

 和子は、僕のことを迷惑がっているのだろうか? 

それってプライドが高くて、中途半端な人間を嫌っているって言うこと。どっちでもいいけど、僕の人生は狂いっぱなし。その根源は「潔い」と言う解釈を早とちりしたばかりに、こういう状況になってしまった。

 たった今、和子を見切ったのに、頭に和子の名が刻み込まれている。その名を追い出すことが出来ないのなら、どうすればいいのだ。頭を叩いてたたき出す。そんなことで和子を追い出せるような平淡な心情じゃないのが厄介なのだ。僕は、頑ななまでに和子を拒否するのだという僕と、もっと素直に和子に近づけという隆志の存在が、入り混じって格闘技をはじめるのだ。

ジムなんかに世話になったばかりにアッパーカットを食らっている毎日の繰り返しなのだ。今日の昼休みにジムに戻って、サンドバックを叩いてこよう。無意識に、トレーニングパンチをしながら、稲垣を待っていると、胸がドキッと痙攣を起こしたように波打つ。僕には、もっと切羽詰ったことが目の前にある。大工費用? 見当もつかない。幾らが高くて、安いのか。そこで、運よく、いい解釈が思い浮かぶ。和子が言った言葉だ。

「父はそんなみみっちいこと言わないわ」

どう解釈するか、全て忘れていいって言うことか? 

稲垣が、車に乗り込んだ。慌てて助手席に乗る。

「おはようございます。頑張ります」

僕は自然に挨拶できた。

「今日は期日が迫った仕事でハードだけど、出来得るだけの仕事をするから、隆志も頑張ってくれよ。ジムの掃除は和子が代わってしてくると言っているから大丈夫だ。失敗は誰にでもある。もう拘るな。棟梁自身が行って綺麗に直してくるといってくれた。あとはお前の気持ちしだいだ」

 涙が滲んできた。僕のこれまでの人生の記憶に、こんな感情にとらわれたのは初めてな気がする。声を詰まらせていると、

「しょぼくれるな。隆志の人生はこれから始まるのだ。現場が見えてきたぞ」


          揺れ動く心情


 桜の花びらが、もう散り始めた。

 四月十日、携帯電話が鳴り続ける。綾乃からだ。僕が出ないことを知っていながら鳴らし続ける。用事があるならメールをよこせと無視していた。案の定メールが届く。開けると思いもよらない字が目に飛び込んできた。卒業できる。落ち着けと自分に言い聞かせながら、怖さ半分、一字も逃さず読む。

〝お兄ちゃん、いい知らせなの。三ヶ月遅れるけど、お兄ちゃんと、他の三人も卒業できるのよ。どういういきさつがあったのかは、わたしには分からないけど、お父さんは学校に何度も行っていたわ。きっとお父さんたちの、熱意と結束と子どもに対する情熱が伝わったのだと思うわ。六月に卒業証書がもらえるのだって。だから来年大学受験できるのよ。家に帰ってきた方が、勉強できるでしょう。もう帰ってきて。ジムの人たちに良くしてもらっているから心配ないけど、わたしは帰ってきてもらいたいわ〝

 ジムという字が目に留まった途端に僕の頭に血が登って行くのが分かった。

三回読み直した。

卒業という文字より、どうしてジムに居ることを知っているのだ。誰一人として、ジムの人間も、稲垣も、和子も口にしない。僕が囲まれているこの環境の中で、僕は家族のことを口にしたことは、全くない。

高校を追い出されたことだけだ。(その経緯も言っていない。ボスも、聞こうともしない)

住所も、家族のことも。家出の経緯も。

僕の心情も。(ボスは、僕の行動から、何かを汲み取っているのだろうか)

父が僕の居るところを調べ回ったというのだろうか?

 僕の知らないところで何が起きているのだ。

心の片隅に、綾乃からのメールにも、この頃母のことが何も書かれていないことに、寂しくもあり、今までのことを思うと不可解なものを感じていた。母のあまりにも早い諦めを、そんなものなのか、と割り切ってみたりしたが、解せないことが過ったりする。家を出てから四ヶ月になろうとしている。それは全てを失うスピードの速さに一抹の不安や、何に対してのジェラシーかを見極められないままの感情に戸惑う。今はこのジムの人間関係に、癒される思いがしている。精一杯の心情を持って、自分自身をコントロールし、ジムでの居場所と和子への想いを募らせているのだ。

邪魔しないでくれ。

ぶち壊さないでくれ。

安定しだした僕の気持ちを掻き乱すことはやめてくれ。

和子は、いま僕に心を傾けかけているところなのだ。抱きしめたい気持ちをセーブしながら、和子の気持ちを損なわないように、暴走しそうな僕を思い留まらせているのだ。


 今日は、珍しく一日中休暇日、二十四時間だ。それが不思議な感覚なのだ。強制的に休めとボスが言った。お払い箱になるのだろうか。いろいろあったから。休暇をくれた。だから素直にその時間を有効に使おうと、午後からは、秘かに大検と言うところがあることを知っていた。仕事の合間に書類を本屋で買い求めていた、大検受験に必要なカリキュラムの説明がある学校に行ってみようと思っている。

 すると部屋の扉をノックも無しに開けられた。ボスと思って振り返ると、和子だった。

「見付けて来たわ。隆志君なら週一日行けば、受験する資格も高卒の証書ももらえるわよ。一年なんて直ぐよ」

思いも寄らない和子が手にかざしているものを見ると、

「大検受験校」というタイトルが目に入る。

「ちょっと聞くけど、どうして僕が大検受けようとしていると思ったの?」

「だってこの間バイト代の前借り三千円を渡したから、と父から連絡があったその日、バイト代から差し引いた時に、何に使ったのって聞いたら、大検の本買って来たって言ったじゃない。余計なことだけど私ほっとしたのよ。隆志君がその気になってくれたって、嬉しかったわ。余計なことかもしれないと思ったけど、いい学校探して来たのよ」

「有難う」

僕は自分で驚くほど素直だった。ただ妹から入ったメールのことは言えなかった。

 学校を否定しながら、どこかに、学校に拘っている自分を見つめていた。ここで逆らい、独りで見つけるといっても、それはジムにいる限り無理だ。時間の調整もしてもらわなければ通うことは出来ない。和子にそこを見抜かれたと思うが、素直に行くつもりになった。


 今頃になって、僕が見切った学校から、卒業させるというのだ。三ヶ月遅れの卒業なんて聞いたことがない。父も、他の三人の親父もどう頑張って卒業と言う証を引き出したのか。何等かの確約があったのだろう。はっきりとメールの中に六月卒業とある。だから卒業させるのだろうが、ありがたくもない。迷惑だ。いま自分自身で光を見出そうとしているこの時期に、心乱されるのはたまらない「無期停学か、転校するか」こんなこと生半可じゃ言えない文言を突きつけ、心をずたずたに砕いておいて、卒業証書を出すだと。

いまさら以前の高校生の感覚を取戻せるとでも思っているのだろうか。この四ヶ月、僕は突っ張って、ここまでやっと生きながらえているのだ。大袈裟じゃない、気を許すと、頭が混乱して来て海底に沈みそうなのだ。海原の藻屑になりかけている僕を、辛うじて和子の存在が引き止めている。そこに一条の光を見出そうとしている。のこのこ家に帰って教師の顔を見たら僕の気持ちはただじゃいられない。イメージ・トレーニングしているパンチを顔面に浴びせるだろう。ぶん殴った相手がいることは事実に違いないが、教師に受けた屈辱はどんな傷より痛い。癒せないのだ。ちっぽけな人間になってしまった原因がそこにある。結果は相手を怪我させてしまっている。事実がそうだからと言って、僕の話を聞こうともしなかったではないか。その話し合いの過程「非が全て僕という事を僕自身が納得できれば「潔く」停学であれ、退学であれ受け入れられたのだ。今はあの時の喧嘩とは意識の違いがはっきりしている。狡猾な大人の世界を覗いたのはこれからもし、何かが起きた時の参考にするだけだ。人間の感覚的欲望を理性によって制御することが、少し見えてきたような気がする。人間は、物事の捉え方が千差万別ということ。

相手を責めつけるより、置かれた状況から脱皮することに力を注ぐ方が、未来が開ける。

男としての根性があるのかと問われると、根性ってどう定義付ければいいのだ。

我慢すること。人間には、全てにおいて限界があると思う。

だから、今の僕は根性だけで生きている。そう考えた僕に、分身の隆志がまた顔を出して言う。

「カッコ付けるな、たいした時間を生きた訳じゃないのに、爺臭い結論出すな」

叱責する。

ふと、過ぎる。家を覗いてくるのも一つの癒しになるとも思う。それから進む道がある。

 和子と江ノ電の停留所で十時に待ち合わせをしていた。

本当に和子が来るか疑問だ。

和子の奴、僕を手の届くところまで引っ張って、僕がその気になるとさっと消える。

「隆志君、もう少し大人になったら」

なんて肩透かしを食らわしておいて、うふふ、と笑いにごまかす。はにかんで見せる時もあるけど、穿ってみれば演技かも知れない。和子にしてみれば、大声で叫ぶだろう。

「ひねくれるのもいい加減にしたら」もっともだとも思う。

僕は自分を優柔不断、意志薄弱と。

僕は、腕時計を見ながら、まだ九時「あと一時間か」と呟く。携帯電話を片手で玩びながら、結構一時間は間がある。父の顔が目の前に現れる。出勤した時間だろう。綾乃も学校が始まっている。携帯電話を無意識に開いて、家へプッシュしてしまった。


        父と僕と、人と人との絆


受話器を確かに摂った通信音がする。隆志は無言でいる。

電話の向こうも一拍の無言があって、

「隆志、隆志だろう。何も言わずに帰って来い。それから決めることだ。まず帰って来い」

思いもよらない父の声だ。

「んー、んー」

隆僕は唸ってしまった。自分が唸った声がうわずっていた事に、戸惑いながら、身の置き所に困った時のように、恥ずかしさが加わって行く。

「あのうー」と、言ったまま言葉に詰まった。

「母は?」と聞きたかった。

父とこんな形で話すことになるとは予想もしなかった。というより想像もしていなかった。父の意志は何となく感じ取れる距離にあったが、対等に話し合うという場面に出っくわしていなかった。避けていたのは両方だと思う。何故なら、父の意見は、母を通して伝わってくるというのが常だったし直接話し合うということは滅多になかった。

父も隆志も、話しだすタイミングを考えている事が双方感じとれた。探りながら待っていた。

すると、父が話しだした。

「母さんも待っている。充分に考えてから、物事決めるべきだ。お前は運がいいのだ。高石さんに巡り会えたことが、家を出て得た一番の財産になる。世間がみんな高石さんだと思ったら間違えだぞ。懐の深い高石さんに感謝することを忘れるな。一日暇をもらって帰って来い。お前には未来がある。これからなのだから、早とちりはするな」

 僕は今父と話していることが、現実なのか把握できない。電話の向こうから伝わってくる声は確かに父だ。どうして、僕が高石のボスに世話になっていることを知っているのだろう。綾乃のメールの雰囲気から、ここに居ることを知っているような予感はあったが、まさかボスと接触があるなどと想像にもおよばなかった。強いて思えば、父は「無期停学」の烙印を押された時、動じずに僕を庇護する。申し訳ないというより、父は、僕に無関心なのかと思っていたから胸が詰まってしまった。その時の状況を「僕と父」そして「絆」という文字が浮かんだ。

 父も、絆も「全く無し」と決めつけてみた。

だが、父と、絆の文字が浮かぶ。目に見えない線が繋がっているようなそんな感覚を覚えていた。それは初めて味わう不可思議な感覚だった。その上に「学校を探す」と言った父の声。その驚き、父のエネルギーの源は何なのだろうと考えながら、異空間にいるような錯覚を起こしていた。そのエネルギーを父は、僕を探すことに当てたのだろうか。僕はそれを負担にも感じてしまうのだ。息詰まるような苦しさから解放されたくって、家出を決行した。理由にならない反抗だと言うのだろうか。

ジムに居ることをボスは、父に知らせたのだろうか。そういえば、僕が道場で朦朧とした頭から目覚めかけた時「家に連絡だけはしておけ」と言ったボスの言葉が頭に残っている。それっきり何も言わなかった。無意識の中にも、人と人との信頼は、一瞬の出来ことの中の一言が心に響き、感じ取って行くもののような気がする。家族の気持ちを踏みにじるつもりはない。他人の中に身をおいたほうが何故か素直になれる気がする。今、和子と一緒にいることが、未来に明かりが射し掛かってくるような気がするのだ。失いたくない。 

和子は気まぐれだ。

「隆志君はまだまだ子どもよ」

なんて皮肉たり、ぐさりと胸に突き刺す事を言う。

「こん畜生」という思いはある。

それでもいいのだ。という方が強いのだ。これが人を好きになる助走のようなものなのだろうか。

ただ空回りしているのかもしれない。駆け回っているだけだと言われてもいいじゃないか。

いいじゃないか、僕の人生だ。

僕の凝縮されたこの四ヶ月の思いが、頭の中で撹拌していた。

また、無言が続いている。お互い、父も僕も、次の言葉を待ち構えているのだ。

僕はここに留まることを言いそびれている。無言の父の言葉は想像できる。

「一度、帰って来い」

僕は重い口を開いた。

「どうしてここにいることを知っているのか教えて。ボスから連絡してきたの?」

「今言っただろう、懐の深い高石さんに感謝しろと。連絡があろうとなかろうと、そんなことに拘ることなんかないじゃないか。一度、帰ってこい」

「僕はもう少しここに居て考えたい。この四ヶ月どうにかやってこられた。高石ボスに拾われた幸運は分かっている。それに甘えてはいない。自立できるだけの仕事を探しているところなのだ」

「学校はどうするのだ。自分から見切ることはない。必ず必要なときが来るのだから。お前の一生はこれからが長いのだ。この何か月かは貴重な経験だっただろう。人情を知るいい機会だったと思うことだ」

「分かっているよ。学校は自分で高卒の資格を取る。もうあの学校に未練もないし、教師と顔をあわせる気持ちにはなれない」

「一時のことを何時までも根に持つより、将来の展望を見据える方が、お前のためだ。一度、帰って来い」

「考えるけど、僕は自分を試したいのだ」

 父との会話は止めど無く繰り返しだった。僕は、少し考えさしてくれと電話を切ると、

夢遊病者のようにふらふら覚束ない足取りで、江ノ電の停留所に向っていた。

停留所の長椅子に、もう和子の姿があった。身体の芯がしゃきっとなった。途轍もない夢の中に居るような錯覚を起こしている。走って腕を掴んだら、目が覚めたというのじゃ情けない。立ち止まって目を閉じ三秒数えて目を見開いた。

やはり和子に間違えない。

和子が手を振っている。

僕に手を振っている。

信じられない光景を見ているようだ。和子は僕に好意を示したのだ。

僕に惚れたということ? 

僕は腕時計を見た。十時五分前だ。ずうっと前から僕を待ち続けていたのだ。それなのに僕の身体は後ずさりし始めた。逃げ出したいような息苦しいような、得体の知れない感情が胸を押し潰す。和子に対してあれだけ自分への関心を持たせようと突っ張り、激情もしたが、現実味が目の前に表れたというのに臆している。これはなんなのか。たった今父の説得にも動じず、和子を選んだのにいまさら僕は何を躊躇っているのだ。和子と一緒に大検受験講座の学校に行ってしまったら、ジムから抜け出せない。そんな思いが頭の隅にちらついてしまった。家に帰りたい気持ちがあるのだろうか。自分の意志のぐら付きに困惑し、厄介な気持ちの整理がつかないまま、和子に向かって駆け出し、息をはぁはぁ言わせながら線路を飛び越えてホームに駆け上がっていた。

「ごめん、待たせて。僕が出ようとしたら、加藤に話しかけられて、時間食ってしまった」

「あら、加藤君、私が家を出る時うちに居たけど。久しぶりに父の手伝いだって。荷物をトラックに積んでいたわよ」

「はぁー、加藤さんがまた電気工事に戻ったの? 僕はお払い箱かよ!」

 僕は、嘘をついたことより加藤が店に戻ったことが、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。僕の見えないところで何かが動き始めているのだ。父と、ボスが何をたくらんでいるのだろうか。正気を失いそうだ。

「なに興奮しているの? お払い箱ってどういうこと? 私のほうが聞きたいは。加藤君が、工事を手伝ってはいけないことって何かあるの? 隆志君が今日は休みでしょう。父が一人で無理だから、頼んだのよ。もう少し大人になったら、苛々していたら自分のためにならないと思うけど。どこへ進もうとしているの? 今が判断する時期なのでしょう」

「あぁ、そうですか。あんたは、偉い、偉い人なのだろうけど、僕は影でこそこそたくらんでいることには乗らないからな」

「誰が何をたくらんでいるというの? 見られているわよ。わたしはかまわないけど」

 和子はそういって、誰かに向かって丁寧に頭を下げて挨拶している。

 僕は、ここが江ノ電の停留所だと気付き、和子の視線を辿るとホームの端に居る初老の男だ。男を見ると、ドキッと身体の血が逆流していくのが分かった。どこかで行き会ったような記憶がある男だ。男は、僕と目が合うと、さっと外したのだ。

探偵? 

誰に頼まれたのだ。

親父か? 

ボスか? 

「隆志君、勘違いも程ほどにしたら、あそこに居る人は近所の知り合いの陶芸作家の先生よ。昔は良く私と話をしてくれたわ。私は芸術家の道に進みたかったのだけど、素質がないと分かって諦めたの。随分通って、先生を見詰めていたけど、何にも言ってくれなくて、考えこんで、その答えが、自分の進む道は自分で決めなさいって言われていることに気が付いたわ。自分は、芸術の世界に、雰囲気やイメージに酔っていた自分を知ったと言う訳よ。で、きっぱりと諦めたの。それはね、芸術家といっても、いろいろ分野があるのに何を極めたいか全然浮かんでこなかったって言うこと。あぁ、電車が来たわ」

 和子は、背筋を伸ばし乗り込んだ。麗しく美しかった。陶芸家は、隣の車両に乗った。何故だろう。僕がいるから? 慌てて和子の後に乗り込んだ。


     東京のど真ん中にある学校


 東京のど真ん中にある学校だった。様々な年齢の人が、大勢カリキュラムをもらいに来ている。今までに出っくわしたことのない雰囲気がした。

髪を茶色に染めた奴。

肩を怒らしている奴。

その奴らを、遠巻きにしながら上目遣いで覗き見している奴。

いま病院から退院して来たような青白いひょろひょろした頼りない奴。

僕はこの中でどの部類に入るのだろう? 

茶髪の視線が僕に向けられている。また一触即発しないとも限らない。やばい。と思っていると、茶髪が近づいてきた。背筋に冷たい物が走り、緊張する。和子を守るのだ。周りの目も厭わず和子の腕を取り、逃げる態勢をとった。和子に動じる気配はない。落ち着いて僕の前に一歩踏み出すように茶髪と向き合っている。和子の度胸。僕はただ面食らっている。

 茶髪が和子の肩越しに話しかけてきた。

「おすー、君も学校、アウトになったのだな? 俺もアウト。忘れてしまったのかよ。そんなにビビルなって言うの。俺は相変わらず腰抜けのまま手なんて出さないさ。君の手の速さは凄い。見上げちゃうよ」

にやっと笑って、はにかんだ。

 僕の身体は、骨無しのふにゃふにゃの妖怪のような物体となった。意志とは裏腹にふぬけ状態だ。和子の後ろから見詰めていたが、逃げ腰になった。さっと頭を過ぎる。

誰であるか思い出したくない。いま目の前にいる茶髪の男は、あの時、逃げ出そうとした奴だ。その襟を掴まえ、くるりと回転させ、あいつは声を発しなかったが、僕にむけた目が、そのものずばりだ。確かだ。天地神明にかけて忘れてはいない。ふとした時に心の隅で疼くことがある。すまない気持ちはあるが、退院したことは綾乃のメールで知っていた。その奴と、こんな場所で向き合うとは、誰の仕業だろう。僕は落ち着きを装いながら尋ねた。

「気を悪くしないでくれ、誰でしたっけ?」

「思い出せないほど、君は俺の存在自体がなかった。認めたくないと、顔に出ているぜ。的中しているだろう。それだけ俺は、影が薄かったということだろうけど、もう手を出さないでくれよな。俺、今もって意気地なしさ。あの時も逃げようとしたら、首根っこ捕まえられて拳がまんまと顎を直撃してさ、医者の奴が言うのだ。顎にワイヤーを入れるところだったと。その手前で済んで、どうにかひび割れがくっつきだした。前歯もぐらつきながらも、ついている。けど何時まで持たせられるかと、歯医者が脅かしながら言っていた。顎にギブスをしておけと言うけど、みっともなくて外している」

 僕はショックを受けた。本当だろうか? 僕のパンチはそんに威力があるとは思えない。最も十八年の人生の中で、思い切りパンチを叩きつけたのは初めての経験だった。こんな経験二度と起こしたくない思いはある。浮かれた精神状態の力は、弾みが加わったとしか考えられない。茶髪の言葉を信じればそういうことになる。茶髪の目を真っ直ぐに逸らさずに見詰めた。外見からは顎にヒビが入っているなどと想像も出来ない。顔のゆがみも無く元気そうだ。こいつあの時も脅かしやがって。ぶっ倒れたまま微動だにせずにいた。死んでしまったのかと思い、僕の心臓が一瞬停止してしまったのだ。むっくり起き上がっても、かかってくる気配もみせず、放心状態で突っ立っていた僕を無視して、流れ出る血を手で拭っていた。今思うと、こいつは喧嘩に長けていたのだ。僕は、こいつの卑怯さが腹ただしいと思った瞬間、ぶん殴っていた。成り行きだった。僕はまんまと乗せられていたことに気付かずにいた。僕を手ごわい相手と踏んだので無く、体格に反してひ弱と見たのだろう。その僕に同情して手を出さなかったのだ。茶髪に向き合う僕の息使いに和子はのっぴきならない事態が起きそうな気配を感じたのだろう。和子はその場で二人を引き離すことを考えたのだろう。割って入るように真ん中で仁王立ちになった和子。

すげー度胸だ。

僕は、和子の態度に圧倒されながら、和子に太刀打ち出来ないのはこの凄さがあるのだと、恐れ入った。和子の肩越しに二人は首を伸ばして向き合いながら話す格好になった。茶髪の心中穏やかでないだろうと思うが、一向に逆らわずに話しかけてくる。

「もう、思い出しただろう。無傷と言うことだけで、それがわざわいして君を不利にしてしまったようだな。同情するよ。ひどいもんだなぁ。四対三じゃ言い訳なんて通らないのは分かるよ。気の毒に思うけど、無傷は何ものにも替え難い結果ということなのだろう。内の学校は、三人とも怪我を負わされた方ということで有利に運んで、全員、三ヶ月遅れの卒業だってさ。俺は断った。何故って、くどくどいちゃもんつけて、担任が言うのだ。お前は、相手校の奴とグル? と聞くのだ。そんな訳ないだろう。独り離れていた。俺は果たし合いとは知らなかったと言いたかったが、喧嘩の張本人の二人が病院で唸っている。面倒臭くなって「あぁそうだ」と俺が首謀者と請け負ったのだ。一度の誘いが、こんな目に填められるとはなぁ。そっちはみんなアウトになってしまったのか?」

茶髪は何の躊躇いも無く話し続けた。

僕は自分の思いすごしに恥じ入りながら、やっと口を開いた。

「僕は、あれから誰とも会ってない。あの乱闘の原因すら知らない。ほかの奴らはみんな顔見知りだったのか、その辺も分からない。あの日は、果し合いで決着をつける日だったの? その経緯すら知らないのだ」

「喧嘩に経緯もないよ。理詰めで喧嘩なんかしないさ。すれ違うたびに、両方が眼付け合っていたのだろう。たまたまストレスを発散したかった両方が合致してしまった。そんなところだろう。彼女を取った、取られたと言うのは口実さ。その最大の犠牲者が君って訳だ。お前、誰とも会ってないというけど、家を出たって言うこと?」

「家を出たとか出ないとかは、想像に任せるけど、それで無傷だった僕が首謀者って訳かよ。そんな道理ってあるか。屁理屈つける教師のすることが分からない」

「嘆いたってさ、もう戻らないって。これからが勝負さ。未来に向かってなんて、カッコいいこと思っていないと、なぁ。お前の親父とお袋さんが、教師を差し置いて見舞いに来たぜ。だから聞いたんだ。君の了解得て来たのかって。そしたら、もじもじしていたお袋さんが、えぇ、と言った時、これは嘘だと思った。だけど、家出しているとは思わなかったぜ。肝っ玉据わっているなぁお前は。俺は、楽な方を選んじまったって訳さ。家出する勇気はあるよ。面倒臭い事は、まだ先でいいと思ったのだ。母ちゃんが、凄いショックを受けているのを見て、あせることないと思って、ここは母ちゃんの勝ちにさせたってわけ」

 僕は、茶髪を見ながらこいつ僕と一緒の感覚の持ち主なのだ。その方法は百八十度違った行動をとったが、僕も茶髪も思うところは一つなのだ。父と母が見舞いに行くだろうという思いはあったが、まさか教師を差置いて行くだけの度胸はないと思っていた。何しろ、母は長い物には巻かれろというように感じるし、無難をいつも意識しているように思っていた。精神の共通項を見出したように思うと、得体の知れない感覚に捉えられた。茶髪と向かい合っていると、近づいても大丈夫、そんな気がしてくる。が、油断は大敵と、気を抜くなと自分を誡める。

和子が、そっと後ろにさがって、何事もなかったように掲示板なんかを読んでいる。

僕の頭の隅に、原口の言ったことが思い浮かぶ。両校で話し合いと警察が言ってくれたことに感謝しろと。あぁ、そうか。これが話し合い喧嘩両成敗ということか。これは妥当な線だろうと考えた。ちょっと間を置いて、

「同じだよ。僕も三ヶ月遅れの卒業なんて聞いたことがないから、断ったよ。自分で卒業してみせると、空元気出しているところなのだ。だからこの学校に来たのさ。他の奴とはあれっきり会ってない。君のところは?」

「二人とも喜んで、三ヶ月の遅れがなんだ。あり難いって涙こぼしている。だらしないってないよな。喧嘩もろくすっぽ出来なくて、俺を引きずり込んで、成れの果てが、涙だぜ。笑わせるなって言うの。まあぁ、それで好ければ、俺の出る幕じゃないから、俺は俺だと突き放した。そっちで考えろと言ったのだ。ところで俺の名前は、坂下順太」

「僕は、大杉隆志。あの時初めて会って、こんなところで会うなんて奇遇だな」 

「お前さっきから俺の頭、気になっているのだろう。最初が肝心なのだ。弱いものの集まりだと思うから、俺は自分を誇示させたって訳。お前隆志と言ったなぁ。隆志も頑張れよ。手が早いのだな。もうここで彼女つくったのかよ」

 順太は唐突に攻めてくる。辟易していると、和子がくるりと向き直って、

「そう、彼女でいいわ。でも、ここじゃないわ。私は一つ年上の姉さん恋人。と、保護者かな。隆志君は未成年でしょう、見張っている義務もあるの。それにパトロンからお目付け役仰せつかっているの」

 僕は、あっけに取られて和子を見たら涼しい顔して順太を見ている。その順太は、もっと大口開けてポカンとしている。二人は、肝を抜かれたまま話が続かず、黙りこくってしまった。

 迷いはあったが、隆志は勇気を出して順太に聞いた。

「気を悪くしたら、謝るけど、如何してあの時、僕に刃向かってこなかったの。腑に落ちないのだ」

「俺は、手を上げちゃいけないの。アマチュアでいいと思って練習していたんだ。だけど欲が出て来て、プロもいいかなって思うようになって力入れて練習し出した。すると、プロになったら、手は凶器に成るんだってさ。母ちゃんがさ、順太の体では無理。止めなさいってしつっこく言うので止めてあげたってこと。それは表向きの事なんだ。すごく怖がっていた事を知って居たんだ。だから言葉質をとって、屁理屈だけど止めれば好いんだろって言って止めた事にした。だけど実状は、自分で無理と感じていたから止めたのさ。今なら、パンチも隆志よりはあると思うから、手を出さなかった。気にしていたのか」

 順太は淡々と言って退ける。

「プロに成りたいってレスリング、の……?」

「いけませんか」

隆志には堪えた。僕は順太の足元にも及ばない餓鬼なのだ。気持ちが萎えて行く。

 その時、

「説明会が始まります。教室にお入りください」

拡声器から声が流れる。

隆志は、気持ちがほんわかしていく。だが、僕と順太は、この場をどう締めくくったらよいか分からないのだ。

「一緒に教室に入ったら」

和子が、二人にそれとなく促す。

メガホンを持って整理している男の人に促されるように、僕と、順太は教室に向かおうとするが、先を譲り合っている。

順太が、先に歩き出す。

僕は後に続きながら、遅れを取ったと言う思いがした。

果たして和子が説明終わるまでここで待っているか確かめたかったが、それも言えず、振り向くことも出来ない。

和子は待っているだろうか?


          自立


隆志は自立する意志を固め、家には帰らなかった。今の時点でいろいろ考えても始まらない。一応高校卒の証書を取っておくことに決める。三ヶ月遅れの卒業証書はきっと父は貰いに行くだろう。それは其れでいい。僕は自力で卒業証書を勝ち取る。揺るぎ無い決心だ。誰の束縛にも屈する気持ちはない。それが一番良いことなのかも分からないのが現状なのだ。暗中模索の中でもがいていることは自分が一番よく分かっている。

相変わらずとぼけた綾乃からメールが入る。

「居場所を教えて」だと。

 一応、自立する旨をメールした。

両親の使いだとは分かる。


週一回通い始めた学校に、順太も来ている。あれから初めての授業の時、順太を探して、僕は戸惑った。目の前にいる後姿は順太だろう。それとも人違いだろうか、黒髪にブレザーを着、生真面目そうにショルダーバックを掛けている。唖然と眺めていると、順太という人間のもつ複雑な側面が会うごとに一ずつ加わって来る。どこか大人の雰囲気を持っている。すると僕の頭に、万華鏡のように順太がまわりだした。気弱な逃げ腰の順太。友達を見捨てて逃げ去ろうとした卑怯者。なぜなら、順太は二対三の取っ組み合いを認識してから、素早く身体を翻した。

喧嘩に長けた順太。

手を出さなかった図太さ。ビビって膠着状態になっている僕を確かめ、無視というのか、相手に不足というのか、度肝を抜いている僕の様子をちらっと眺め、悠長に構えていた。茶髪のちょっと崩れかけた順太。ファッション感覚から人を跳ね退けようとたくらんでいるのも間違いない。今の順太は、昔の青年の手本を思わせるような身なりだ。どこから見ても好青年を印象付けるテクニック。清潔に刈上げた頭に、ブレザー。どれが地の順太なのだろうか。本心はどこにあるのだろう。どれも兼ね備え、全ての要素を持っていると言うことだ。どの部分で付き合ったら良いのか迷っていると、

「驚くことないだろう。茶髪も良く考えると、子供って自分から言っているような気がしてさ、脱色したって、染め直したと言うこと。俺が、隆志の脇を通り過ぎた時、気付くかと思ったが、全然気付きもしなかったのだろう。今日は、彼女と一緒じゃないのか。すげー度胸の良いのに、俺は見上げたよ。隆志は、あの彼女をコントロールできるのかよ」

「やめてくれよ。彼女と一緒に学校来る奴いるか。この間は、勝手について来たのだ、あいつ、僕をなめているように見えるだろうけど、案外、繊細なのだよ」

「で、彼女って言うことだろう」

「そう思っても良いさ」

 そんな会話があって、帰りも一緒に帰った。


次週は、昼飯一緒に食う約束をしていたのが、今日だ。午後一時からの授業だが少し早めに来て図書室で新聞を広げていた。ジムでは滅多に読めない。ポストに入っている三紙の新聞は、上に住んでいる塩田と、川口と、加藤の分で、時々加藤が回してくれるのを読むが、僕には取る余裕はない。一週間分綴じてある新聞を、片端から読みあさっていると、足音が近づいてくる。

あぁ、順太が来たな。

肩を軽く叩かれて振り向くと、父だ。一瞬眩暈を覚え、クルクルまわる万華鏡の中で目を見開いていた。

ここはどこだ? 

父がいる。ぼおっとしている僕に、

「ちょっと外に出ないか」

確かに父の声だ。

現実なのだろうか。

如何して父が此処にいるのだろう。

僕の光を遮られてはたまらない。

どんな事が起きようとも、僕の心は揺ぎ無い。

今が自分の意志を確立する時なのだ。と、胸に刻む。

その決意を父の顔を見ながら、今言うべきか、幾度も自分に問いかけているが、迷っていると、父が話しだした。

「元気そうだな。一緒に昼食を食おう」

「昼飯は約束があるのだ。どうしてここにいる事が分かったの」

僕は、小学生が尋ねる事のような質問をしていた。周りが気になって居たからだ。順太に見られることが嫌だった。子供と映るだろう。順太の家族のように、のびのびと放免してくれてもいいじゃないか。もう、自立することに躊躇はないのだ。家族が一丸となって僕を探したって言うのだろう。あれ以来、迷惑はかけていないはずだ。だが、家出してから四ヶ月間会っていない父と向き合っていると、言いようのない複雑な思いに捕らわれて気持ちが揺らいだ。随分年をとってしまった感じだ。

父、大丈夫なのかと思っていると、父は堰を切ったように話し始めた。

「順太君とは病院に見舞いに行って会ったことがあるのだ。昨日街中で、母さんが、若い青年に呼び止められた。どこで会ったか直ぐに分かったが、戸惑ったらしい。順太君の方から名乗られて、見違えるように立派な青年になっていたのに驚いたと言った。隆志と会ったことを言ってくれたが、何処で、と言う事は言ってくれなかった。順太君は、母さんに、こう言ったと言う。隆志君は、僕より確りしていているから大丈夫です。怪我のことを忘れているはずは無いのに一言も触れず。理性の確りした立派な青年に、母さんは嬉しかったと言っていた」

 隆志は話しを聞きながら、僕は駄目っていう事と。又、捻くれた自分が顔を出して来た。父は話しを続けている。

「お前に隠していたわけじゃないが、ジムの高石さんと、電気店の稲垣さんとは一度父さんが会いに行った。父さんが口止めしていたのだ。確りしているから大丈夫だと二人に太鼓判を押されて安心していた。昨夜、稲垣さんところへ連絡を取ると、明日はここに来ているだろうと教えてくれたのだ」

 じゃ今頃何故来たのだと思う。

学校が卒業させるといって来たからだろうか? 

そんなくだらないことで会いに来た。安心していたのなら、それでいいだろう。図書室で、こんな湿っぽい話を父としていること事態、消えうせたいほどの屈辱なのだ。考えてくれよ。父兄同伴で学校にいる。周りから、せせら笑う声が聞こえてきそうだ。

「僕は自分で遣っていける。何かあったら、僕から連絡取ることにするからさ」

「それは分かっている。隆志の意志に任せるが、まだ遅くはない。再出発するのに父さんの話も聞いてもらいたいのだ。隆志はまだ若い。この短い間に辛酸をなめただろう。もうそれで充分じゃないか。若い隆志が受けた苦悩は言い表せない葛藤があっただろう。それを克服したのだから、それなりに意味があったのだ。もう一つの違う道だって考えても良いじゃないのか。家に帰って考えても良いじゃないのか。隆志はその環境にいられるのだ。その環境を作って遣れるだけの父さんには力がある。父さんが考える意味と、隆志が思う意味の違いは分かる。だから、ちょっと昼飯を食いながら話そう。順太君が一緒でもいい。しかし、彼は断るだろう。彼は意志の強い代わりに、介入することを拒むだろう」

 支離滅裂な父。僕の意志を尊重する。と言っておきながら、父の意見を聞けと半分泣き落としに掛かっている。順太君も一緒に誘えといっていながら、彼は断るだろう。

さぁ、どうかな、順太は、僕の後見人宜しく、ついてくるぞ。

僕は自立すると言っている。揺らぐことはないさ。もうその道が開けかけている。

ノコノコ出てくるより、引っ込んでいてくれた方が、カッコよかった。何かの切掛けを作って接して来ても、それは過剰な甘やかしに過ぎないのだ。一定の落ち着きを取戻した僕を確かめてから遣って来た。ショックを受けているのはこの僕だ。分かるだろうか。

最も矛盾だらけのこの世の中。

正義だとか……。

人生に意味づけするとか……。

何か途方もなく、蹄鉄を履き鳴らしながら歩けといわれているみたいだ。

蹄鉄の重さを考えたのだろうか。

今はもう自立しかないのだ。だからそうさせてくれ。僕は言葉にはしなかったが、じっと父を見つづけていた。それが父に伝わったのだろう。

「小遣いを少し持ってきた。必要なものがあるだろう。これくらいは素直に受け取れ。母さんが、夜も寝付けずに心配していることだけは知っておくことだ。今日は帰るから、暇が出来たら、一度帰ってこい」

そう言って、これは母さんからだと封筒を出した。

「ありがとう。もらうよ。今日も会社に休暇届け出したの?」

父はそれには答えなかった。

「大事に使えよ。綾乃も、持って行ってくれと自分の小遣い出したが、それは隆志に負担をかけることになるからと、父さんが持ってこなかった。気持ちは伝えるといってある。綾乃は、いつの間にか大人になっていたよ。隆志と喧嘩しては泣かされていたのに、心配しているぞ。たまには、返事ぐらいしてやれよ。今日は、突然だったから、隆志も、面食らっているのだろうが、元気な様子に安心した。お前を信じているから、父さんはこれで帰る。順太君と美味いものでも食って若さを取戻せ。多分、順太君は昇降口にいると思う」

 父は財布から一万円を出した。

隆志は封筒をかざして、これ以上は、と手を振ると、まぁ、受け取れと言う。

「ありがとう。今日は突然だったので時間がない。昼飯食ったら授業を受ける」

 父を門のところまで見送ると、振り返った親父が軽く手を上げた。訳も無く僕の胸が詰まった。急いで順太を昇降口で探したが誰もいない。慌てて図書室に行くと、椅子にそっくり返った順太が、僕が広げていた新聞を読んでいる。図太い態度に、あいつ確りと僕と父のことを見ていたと感じた。

「いや、遅くなって悪い。いま親父から、昼食代せしめたよ。美味いもの食いに行こうぜ」

 僕の声が必要以上に高い。何に動揺しているのか、テレもする。

「しめた。ご馳走になるか」

順太は何の拘りも無くあっさりと受け入れる。

僕は重い荷物を肩から下ろしたように軽くなってくる。

「隆志もっと素直になれよ。俺が言うセリフじゃないけど」

 順太が、また新聞に目を落としてさらりと言ってのける。

「素直になれ」だと、同世代の者から言われたショック。

心を傷付けられた。僕の心がムカついてくると、意に反して肩が音を立てて滑り落ちるように力が抜けていく。

呼吸が薄く細く今にも止まりそうな気がする。

せめて激しく波打つならば意気も上がるが,何かが切れかかっている。精神構造が切れてしまった。

家族も友達も先公も僕を陥れた。

溜息をつき一瞬目を閉じた。

くすん、とだらしなく鼻が鳴る。

全てが面倒だ。

 叫びたい衝動を抑えていると、肩を叩かれた。

はっとして横を見ると順太が立っていた。

「今日はやめとくか?」

順太がそっぽを向いたまま言う。

 僕の心臓が早鐘のように波打ちだした。

「なんでだ。折角かすめた昼飯代なんだ。チョンボにすることないだろう」

「隆志目が覚めたか? くよくよするなって、ちょっと不意打ちされるとへこんでしまう。もっと図太くなれよ。まるっきり草食男子じゃ自立なんて出来ないぞ」

「それって僕に説教しているつもりか。よせよ。僕は順太が考えているより図太いって」

「そうだよな……。立派な隆志だ……。見上げた。凄い傲慢な彼女もいる。彼女に振られないことを祈る」

「馬鹿にしているのか」

「違うって……。今から神経すり減らしていたら、人間やっていられないって。まだ長いんだぜ。今日は御馳走になるのを止めとくよ。この次にあった時に、御馳走になるのを楽しみにしているぜ。じゃ。もったいないことするなよ」

「もたないって、何がもたないのだ」

「今隆志の心に過ったことだ。よせよ、それだけはよせよ。慌てることないって。ちゃらんぽらんもいいものだぜ。またな」

 順太は踵をかわすと、背を向けたまま手をちょっと上げた。父と同じ仕種だ。何ということだ。惨めな気持ちは底知れず押し寄せてくる。

 もったいない? 何が、だ。

確かに死ということは頭を過った。それは死にたいのでなく、面倒どくさい人間関係が嫌になってしまったのだ。それを順太が感じ取った。

この人間関係から解き放されない限り、僕は落ちていくばかりだ。その中に家族も入っているのだろうか。複雑な心理に自身がついていけない。

 順太はこの世代の男子の考えを象徴しているのだろうか。正統派というところなのか。

 あいつ本当は爺なのじゃないか。中年を過ぎた爺。

 僕は成長が止まった男の子なのだろうか。それとも僕の考えと順太の考えのニュウアンスは何処かかけ離れているのは、順太の方が正統児で僕が異端児。

順太が異端児で、僕は正統児。

順太が大人で、僕は小心者。

 僕は、順太の後ろ姿が豆粒になるまで目で追っていた。見えなくなった後ろ姿を追いながら「また一人になった」と呟いた。

授業も受ける気はない。とっくに失せている。

学校なんて如何でもいいじゃないか。

高卒の証書が人生にどう役に立つと言うのだ。

父だって将来役に立つと言うけど、其れって親としての保身に過ぎない。

親はきちっと教育の場を与え育てたと言いたいのだ。

僕は校門を後にした。 


         生きること


隆志は藤沢で電車を降りると江ノ電には乗らず小田急線で江ノ島に来た。

目の前の海岸。

その先に広がる海原。

この海岸で寒風の中佇んでいた時から、時は経ち、明るい風景が広がっている。橋のたもとにある散り始めた桜の梢の間から西に傾きかけた太陽が、まだ強い陽射しを送ってくる。 

橋を渡って階段を上って行く。

湯気を上げて饅頭が売られている。

一個紙に包んでもらい食べながら又、石段を登って行った。

春、春の陽光が眩しい。

明るい爽やかな季節に反して、強い海風が、渚に砕け白波を高く上げている。

江ノ島の中腹から海を見下ろすと、沖にヨットの帆が波間に大きく揺れていた。あのヨットに自分が乗っているような気がする。左右に揺れながら、ヨットは帆が重心を取っているのだ。帆は自分自身なのだろう。帆を引っ張ることが出来るかは気持ちしだいだ。この地に来た時より、季節も心身も穏やかになって行ったが、振り返ると、表面的であって気持ちは荒んだままなのだ。

和子は、今日授業がないと言っていた。家にいるだろうか。気持ちを整理したくて、和子にメールを打った。

「いま江ノ島の頂上にいる。突風のような風が吹き抜ける。その風に乗って、全てを飛ばしてしまったら、洗われるようにスカッとするだろう。恐怖も不安も感じていない。今、最高の気分を味わっている。この気持ちが何時まで持続するか分からない。いっそうのこと、集中している今かとも思う…」

 僕は自分でも中途半端な何を言いたいのか分からず、メールを送信した。

間髪いれずに、和子の返信。その素早さに驚きながら、目を通すと、

「バイクで直ぐ行くわ。何を考えているの? 隆志待って……」

 読んだ隆志の方が度肝を抜かした。

和子は勘違いしたのだ。

隆志が飛び降りるとでも思ったのだろうか。僕の心の隅にはその思いがあった。

順太が言った「よせよ、よせっていうのだ」と言ったことの意味が分からないではなかった。心中をつかれたのだ。何処かに不安定な要素が意識とは裏腹に僕の行動や言葉に表れているのか。

 生きるって面倒だ。

 僕には克服できる素質がない。

何時も、人の意見や言葉に左右され、自分が発信する言葉でさえ真逆に受け取られてしまう。何という性格なのか。自己分析することもままならないぐらい今日はいろんな事に立ち塞がれてしぼんでいる。

今、和子に打ったメールも、僕は気持ちを風に載せると言ったつもりなのだ。過った気持ちを整理してみる。

死と言う言葉が浮かんで消えた。

突進する勇気もないのだ。面倒だよ、生きるって。

ガーデンパーラーのベンチに腰掛けて海を眺めている。暮れなずんできた空は、海との境を外し、海鳴りと風が勇壮にコラボレーションを奏で始めた。

ヒュー、ヒューと唸っている。

和子がすっ飛んでくるのだ。もしかしたら、僕より和子のほうが、純粋に恋をしている。と僕はちらっとそんな思いを抱いた。言いようのない恍惚とした気分に酔って来た。それが二人にとって純粋な気持ちだったら、何物にも代えがたい生きる糧になる。強い風が僕の身体を吹き抜ける。平日の観光客はとっくに引き上げたのだろう。店員の姿も見えない。背後から、

「隆志、た…、隆志…」

 和子の息を切らせた声に、僕はベンチから立ち上がった。

「早いなー。そんなに息切らせて」

僕は親愛をこめて両手を広げた。

ヘルメットを脱いだ和子の顔が引きつった。

「やめてよ。随分、悠長に構えているのね。何のつもり? 私を試したの?」

「試しただって、僕が何を試したというのだ」

「私が来るか、来ないか、脅迫メールはやめてよ」 

「脅迫だって? 僕はただここに来ていることを知らせただけだ」

「全てを飛ばすのでしょう? どうぞ、ご自由にしたら、止めないわ」

和子は右手をゆっくりと優雅に海の方向に向けた。

「じゃ、お望みどおりに飛び降りてみせようか」

「はい、どうぞ」

和子は動じない。

感性の鋭さは、僕の数倍。人の心情を読み取り、心が機敏に働く。太刀打ちできぬまま後悔する。

僕は何時までたっても、とちり通しだ。あのメールの何処が和子の癇に障ったのだろう。僕は文学的要素の表現をしたつもりなのだ。和子は、腕組みして僕をまじまじと眺めている。どうにかしろと催促しているのだ。僕は来てくれとは言っていない。いっそうのこと本当に最後にしょう。目の前にある柵を飛び越えてしまおうとした。駆け出そうとしたが、身体が尻込みして動かない。何だ、僕という人間は。肝っ玉の小さいところを和子に見せてしまった。廃るぞ、とはっぱをかけるが身体は動じない。勢い付けて突進しようとしたが、分身の隆志が、

「見栄を張るんじゃない。これ以上突っ張ると返って自分はちっぽけだと言っていることになるぞ」と言っている。

僕は素直に分身の隆志に従うことにした。

 腕組して僕を眺めている和子を見ると、和子の目とあった。和子がにやりと笑った。

「オートバイの後ろに乗りなさいよ。ヘルメット持ってきているから」

 和子は駆け出し、石段を駆け下りる。その後ろを追うように、僕は駆け出す。さっき買った饅頭屋の前に来ると、退屈そうに外を眺めていたおじさんが、僕達をみると、興味津々と、好奇心丸出しにした眼で、追ってくる。僕は、和子の後に着いて行く。

 和子のオートバイは、鳥居の横に乗り捨てるように置かれていた。和子が如何に急いでいたかが知れた。

隆志の胸の鼓動が早鐘のように打つ。

 僕は、オートバイの側面に括りつけてあるヘルメットを被った。

ハンドルを握った。ハンドルを握った感触はなんとも言いがたい快感。和子は何も言わず、僕のなすままに従っている。和子は後ろに飛び乗ると両手を僕の腹に回し、食い込むように力を入れてくる。四ヶ月ぶりのハンドルだ。引き締まる身体に、和子の体温が伝わってくる。

「潔さ」が頭の中でクルクル回りだした。

エンジンを噴かした。轟く爆音に体中が叫びだす。 

「和子を背負っているのだぞ」

ハンドルを回しアクセルを踏み込む。

「分っている」自分に言い聞かす。

「いいわよ。一緒だから」和子が言う。

何がいいのだろう。一緒に天国に行くと言うことなのだろうか。

アクセルを噴かすのを止めた。

「大丈夫よ。隆志は理性があるから君の判断に任せるっていうこと。もっと自信と目標を持ちなさいよ」

 和子の言葉に心地良い感覚を覚える。

滑り出した。運転感覚が蘇ってくる。緊張と、快感が渦巻く。身体がファッと浮く感覚。

橋を渡り幹線道路に出る。

ライトに照らされた一本の道。対向車から放つライト。溶け合っているようで空中分解を起こし、跳ね返ってくる。跳ね返しながら僕は叫んだ。

「ぶっ飛ばしてもいいか」

 返事の代わりに、和子の強い力が、僕の腹を引き締める。

僕は離さない。                          


和子を家に送ると、オートバイを裏庭に回す。和子が手を差し出した。

僕はその手を引き寄せると、和子の身体を力の限り抱き寄せた。

和子は何の抵抗もせず、僕の腕の中にいた。


その夜、興奮が冷めやらないのか、寝付けず、ゴロゴロしていると隣の部屋から、加藤が顔をだして、

「大事にしろよ」

 それだけ言うとカーテンを閉めた。

 僕は「ありがとう」と言う気持ちで頷いた。

多分、和子のことを言っていると感じたからだ。

 和子と僕は今どういう状態なのか。

一時の感情の昂りで、恋人同士もどきで有頂天に居るのかも知れない僕。

もどきでも、現を抜かれている状態でもいい。と言う思いもある。

何時まで持続できるか。

そう思うと、これから先の展望なんて描ける訳がない。

相手が和子なんだ。

和子の気持ちを汲み取るなどと言う事は至難の業だ。

全く理解できない態度に戸惑う時が多々ある。

僕を子供扱いしていると思う時。

対等に向き合っている時。

同じ感性だと思う時。

それを願っている僕を嘲たり、自由奔放に振舞う和子に義憤を感じたりしている。

和子は、僕が頭を冷やしている間に、途轍もない大人の和子が現れて、

「隆志君、もっと大人になりなさいよ」と言う。

 僕はカットなるが、和子を離したくない気持ちの方が強い気がする。

どうすればいいのだ。

数多の女性がいるこの世の中の一人が和子だ。

ふと、直子が過った。

三年前の直子も、今の和子と同じ様な感性の持ち主だったのだ。

この世の女性はみんな同じような感性を身に付けた人達なのか。だとすると、それに打ち勝つ力を備えない限り、何時までも子供にしかず。

まだこの世に顔をだして十八年と言う歳月を生きただけの隆志は、その大人と言う感覚を身に付けていない。

赤子から十八年が経った人間と、十八年から辿り着いき、成人した人間との考える能力、解き明かす能力の隔たりには、雲泥の差があるのは当然のことだろう、と隆志は思う。

考えるモチベーション。

和子は歳月を跳び越えて大人になったのだろうか。

悩みの渦中から這い出すには、それなりの覚悟と知識を身に付けない限り、子供の考えと同じ様に思われる事が際立ってしまう。

世の荒波に押し潰されることなく、生き抜く事を達成出来るように、社会勉強をすることにする。

隆志は自分と言う意識を確実にした時が何時になるかは自分次第だと思った。

それが今の僕である。

そう考えることにするのだ。


     エピローグ


プロローグで自分の気持ちを吐露するから最後まで付きあってくれたら幸いだ。と言ったが、それを封印して、いま、エビローグに入ったのではなく。僕のプロローグが始まったのだ。十八年と言う歳月があったなら、もっと的確な判断が出来でいる時期だと言うけれど、僕は、感情を意識し出したのはここ半年しかないのだ。それまで、成すがまま、成さぬがまま、過ごしてきたことが、もっと早く気が付く年齢だと言われればそうかも知れない。だが人間なんて、日々、移ろう心があるのも人間だと思う。

目を閉じると分身の隆志が言う。

「気付いた事が、遅すぎたなんて考えるな。人の心の感情を感じ取れる事が出来る年齢が、今だったと言う事なのだ。それだけでもお前の心の成長を物語っているのだから、悲観も落ち込むこともしないことだ。心が芽吹き始めたと思えばいいのだ」

分身の隆志の心が厄介でどいてくれと思えば思うほど付きまとって来る。大人ぶって説教する。参ってしまう僕はまだ子供なのだろうか。

何処かに、大人の感性を持った青年が居る。その青年は、感情を整理整頓し、複雑極まりない感情の起伏をどうやって整理し、そのエネルギーを何に転嫁しているのだろうか。

僕には知る由もないが、そう言う奴がいたとすれば見上げたものだ。

僕の周りにそんな人間なんていただろうか。

喧嘩も、反抗心も、慈悲の心も。人間なんて、いろんな環境の中で日々ふらつき、一夜にして冷めた心境になったりする。

理解出来ずに戸惑ったりする生き者だと思うようになった。

その時の感情に全く逆らわない人間がいるだろうか。

すると、また分身の隆志が顔をだした。雑念を吹き込む分身を追い出そうと声を荒げて、去ってくれ。と叫ぶ。

隆志、聞くのだ。

お前の言っていること。

全てが、正論である。

全てが、虚構の世界である。

全てが、偽りの世界である。

全てが、フィクションである。

全てが、表裏一体なのだ。

と言う。


僕の心が納得する、と言いだした。

全ての慈しむ心に癒しを持ち、神ごとくの真心を持つ。僕はそんな人間になれるか。なれずはずもない。考えていること事態が、悩ましい気持ちなのだ。

 今、言えることは、和子と共に成長して行きたい。

 両親にも、妹の綾乃にも、僕が自立出来た時会いに行く。

父は分ってくれた気がする。

甘えだろうか。


 僕は今自立する事に自分をかけている。

もし、この話の続きを聞きたい、見たい、会いたいと思う人が一人でも居るとしたら、僕はぜひお会いし、付きあってくれたら幸いだ。

その時期は、後二年後、僕が成人した時、会えることを願いたい。     了  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

果てしなき堂々巡り @daichishizuko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る