第12話 八圏

 そのときヴィーチェが見上げたもは銀色に滲んだ女の姿だ。酷く狼狽していたせいか、涙に霞んで見たせいか、その輪郭は幾重に滲んで曖昧だった。それはヴィーチェを迎えるように優しく両手を差し伸べて、玩具のように彼女の右手を握り潰した。


 痛みよりも先に、ただぷっつりと腕の感覚が途切れた。ヴィーチェは驚いて悲鳴を上げた。振り返って助けを求める。縋る父はすでに潰れて真っ赤になって転がっていた。銀色の女は楽し気にヴィーチェを追う。幼い歩幅を見誤り、左脚を踏み砕いた。


 地面に臥したヴィーチェには、その後の記憶がほとんどない。気づけばベルタが赤く汚れ、喉の限りに名を繰り返していた。かの地を踏んだ代償だ。血肉を求めて訪れたのだ。あれは古の巨人の王、銀色のエルフ。ベルタの慟哭は止むことなく続いた。


*****


「よかった、まだ生きているようだね」


 人の気配にシグルドの焦点が結ぶ。まだあの呪われた夢の続きのように、視界は酷くぼやけている。裂けた冑の亀裂が陰り、女がシグルドを覗き込んだ。人だ。ここが何処で、何があったかも覚えている。なのに目の前の状況に理解が追い付かない。


「私はアリシア。アリシア・アンテノール。ワーデンの宮廷魔術師だ」

 元と付けるべきかな、と彼女は呟いて微笑んだ。

「今はしがない巨人の虜囚さ」


 シグルドはまだ声が出せず、ただ目線で応えた。アリシアは無為にシグルドを急かさぬよう気遣いながら、冑の中を覗き込んだ。恐らくシグルドの有様は相当に酷く見えるのだろう。内鎧こそ辛うじて無事だが、重甲冑はもはや原形を留めていない。


「ここは安全だ。心配はいらない。まあ、心配してもしょうがないのだけれどね」


 隙間に覗くアリシアは鳶色の瞳をしていた。肌は淡い褐色、端に覗いた長い髪は艶のある銀色だ。整った口許をぼんやり見つめるシグルドは、ふと我に返って身動いだ。胸部の装甲が音を立てて沈む。鉄塊が伸し掛かり、胸から息を押し出した。


「動かないで。いまそれを退かせよう」


 アリシアはそう言って身を引いた。霞む視界が不意に抜け、辺りの景色が見て取れる。壁が白く天井は低い。人の大きさだ。唐突に違う階層だと実感した。クラウンはどうなった。押し潰された身体は動かない。頸を捩じって亀裂に顔を近づける。


 不意に真円の水晶体が間近にシグルドを覗き込んだ。板金鬼ゴブリンの眼だ。悲鳴に喉を詰める。幾体もの機獣がアリシアを取り巻いていた。板金鬼ゴブリンがシグルドに手を伸ばす。避けようと仰け反る動作に、胸甲の残骸がさらに落ち込んだ。


 装甲に胸を圧され、シグルドは再び気を失った。


*****


 そこからは曖昧だ。時間も記憶も尺度を失い、シグルドはしばらく事の前後を見失っている。甲冑の長期装着による身体の負荷、戦闘の負傷、そして焦りと混乱が、現実を断片にした。その一方、受け入れ難い現状が否応なく擦り込まれて行った。


 騎体を切って生身を引き摺り出され、裸に剥かれて治療を受けた。裸で辺りを徘徊し、アリシアに見つかってベッドに連れ戻される。間近の板金鬼ゴブリンに悲鳴を上げては、蹴り飛ばして自身も床に這う。そんな無様な記憶が幾つも細切れに残っている。


 認めたくはなかったが、それでも休息と満腹は確実にシグルドの焦燥を宥めた。機獣を従えるリースタンの魔術師、アリシア・アンテノールとの会話が成立したのは、シグルドの意識がようやく輪郭を取り戻し、この状況を受け入れた後のことだった。


 清潔なベッドと乾いたシーツ。ここはすべてが人の丈に合わせて造られていた。灯の色、匂い、微かな音さえ、今まで意識の外で感じていた棘がない。まだ現実が曖昧な頃のシグルドなら、ここが人界の療養施設だと言われても信じたに違いない。


 この階層の環境は、どうやらアリシア一人のために整えられたもらしい。魔術師に対する巨人の執着、優遇は如何ほどのものだろうか。シグルドは声も出なかった。確かにクラウンの推測は的を射ていたが、彼もこれほどとは思わなかったに違いない。


 シグルドはアリシアを盗み見る。不躾な目が憚られた。傍の椅子に腰掛けているのは普通の女性だ。落ち着きがあり、それでいて悪戯な一面もある大人のひとだ。魔術師であること、機獣の女主人であることの特別な様子は、何ひとつ窺えない。


 アリシアの傍にいるとシグルドは自分が子供だと思い知らされる。あまりにも無様で余裕がなかった。理性と記憶が回復すると共に居心地の悪さも取り戻し、シグルドはしばらくベッドの上で蓑虫のようにシーツに包まって過ごしていた。


 ようやく向き合おうと決めたその日も、気づけば彼女は根気よくシグルドの言葉を待っていた。思えば明瞭な意識では初対面ともいえる。それを思い出し、シグルドは改めて名乗った。彼女は少し意外そうな顔をして、脳裏を探るように眉根を寄せる。


「この国の名は馴染みが薄くてね。その、よくある名なのかな?」


 シグルドはまだアリシアに呆けていたのだろう。これは戦場で使う名だ。クラウンは何の引っ掛かりもなく聞き流したが、あれの捜し人を馬鹿にはできない。彼女には今さらだが、見た目に誰もが怪訝に思いそれで幾度も問題になったことがある。


「探せばあると思う」


 シグルドは憮然とそう応える。あくまでその名を押し通した。その上で自身の置かれた状況を語る。上階に残したクラウンのことも打ち明けた。アリシアが何者であれ、今は彼女に縋るほかない。捜しに行かねばならなかった。今すぐにでも。


 最後まで言葉を遮らず、アリシアはシグルドの話を聴いていた。そして自身の手が届く範囲、届かない範囲を真摯にシグルドに告げる。環境と権限はこの上ないが、出会い頭の彼女が自身を巨人の虜囚と呼んだように、それは決して誇張ではなかった。


 アリシアの知る世界、地底に築かれた巨人の都市を彼女は好奇楼キュリオシティと呼んだ。上層には採掘と掘削の迷宮があり、地底湖に浮かぶ製造工場がある。その下にはさらに三つの階層があって、アリシアの足下が管理者の住まう最下層であるらしい。


 だがそれも、囚われた三年余りに状況を読み解いた末の推測に過ぎないという。ここに攫われて来て以降、アリシアは他の階層を訪れたことがなかった。彼女の権限を以てしても、生活を許された階層の外側は覗き見ることができないのだそうだ。


「シグルド、君が最初に知っておくべき残念な知らせが二つある」

 アリシアは穏やかに、しかし毅然とシグルドに言った。

「私の知る限り、この階層に来たのは君ひとりだ。後には便すら来ていない」


 シグルドは頷いた。予想していたことだった。昇降盤がシグルドを運んだのは、人と認識したせいか、あるいはクラウンがそう仕向けたのだ。黒い巨人を締め出すことで昇降機を封鎖された。その状況が変わるまで、恐らく再稼働はないだろう。


「もうひとつはね。昇降機が一歩通行だということだ。上に行く手段がないんだ」


*****


 内鎧を包む装甲具は厚い。歪んだ鉄の塊は切除するのさえ時間を要した。どれほどの攻撃を耐えたのか、頑健が取り柄の重甲冑は、継ぎ目さえ潰れて一体化していた。シグルドの身体を引き摺り出すことさえ、板金鬼ゴブリンには大仕事だっただろう。


 装甲具の各部には独立した炉心殻が入っており、まだ稼働する装備も幾つか残っていた。もはや重甲冑が自立するのは難しいが、幸い機動甲冑としての内鎧はまだ健在だ。当然、戦力は格段に落ちるが、今あるものを搔き集めるほかない。


 意識が明瞭になって以来、シグルドは甲冑の復旧に課題を絞った。一日の大半をアリシアの、正確には機獣たちの作業場を占有して過ごした。昇降機がない以上、上階に辿り着くには機動力が必要だ。当然、戦力も。諦めるなど思いもしなかった。


「こんなに早く形になるなんて思わなかったよ」


 感心しきりで声を掛けるアリシアを振り返る。彼女は気紛れに姿を見せたかと思えば、飽きもせず、ずっと傍で作業を眺めていた。シグルドは一息吐いて見渡した。今はまだ打ち捨てられた鉄屑とそう変わらない。余った右袖を掴んで汗を拭った。


「ここの暮らしはよほど暇なんだな」

 くすぐったいのを堪えてシグルドは皮肉を返す。

「周りは、ほら、無口なものばかりだからね。人の情動に飢えようというものさ」


 歳の差でいえばアリシアはシグルドより一〇歳以上うえだろうか。カッセルと同じ頃だ。見目ときに子供のようで、所作は自然と大人びている。同じように揶揄われても、彼女の柔らかな声はクラウンの皮肉のようにいちいち気に障らなかった。


 それだけが救いで、少しだけ物足りない。


 シグルドは作業場を取り巻く板金鬼ゴブリンを呼び寄せた。本来が彼らの使う作業機器だけあって扱いには長けている。わらわらとシグルドに走り寄る機獣に向かって、言葉を切りながら指示を出した。アリシアの得意げな視線は、ほんの少し居心地が悪い。


 こうして立ち戻ったシグルドだが、機獣との共存は最後まで受け入れ難かった。機械作業の不得手なアリシアに支配権限を付与されても、最初は作業を命じるどころか視界に入れることさえ拒んいた。背に腹は代えられない。それが実情でもある。


 目的があるのなら、在るものはすべて利用すべきだ。好奇楼キュリオシティで三年を生き延びたアリシアの言葉は重かった。今のシグルドは手も脚も自由が利かなず、物理的な課題も大きい。彼女の協力を無為にすることもできなかった。


 シグルドが意思を曲げたのはクラウンの影響も少なからずある。黒い巨人に立ち向かう機獣の姿も憶えている。まだ嫌悪が消えたとは言い難いが、それでもアリシアに習って扱いは覚えた。せめて道具として使えるように。シグルドはそう思った。


 とはいえ、機獣の扱いにかけてアリシアは別格だ。ここにいるのは大半が上層と同じ裸の板金鬼ゴブリン従蛮機コボルドだが、みな彼女への隷属を第一義としている。むしろ傅かれているようにさえ見えた。彼女が巨人の虜囚であれ、ここでは機獣の女主人だ。


「少し頑張り過ぎていないかな?」


 アリシアはさり気に手を伸ばし、シグルドの襟元を直した。長身のアリシアは体躯が近く、シグルドは足首丈のスモックを貸し与えられている。汗を拭くのに袖を引くため、シグルドの襟元はよく乱れた。そんな彼女の気遣いには、まだ少し緊張する。


「焦るのはわかるけれど、食事と睡眠はきちんと取るべきだ。お風呂もね」


 アリシアは食事の時間を知らせようとして、区切りがつくまで眺めていたのだという。彼女に詫びつつ、気遣いは無用だとシグルドは応えた。クラウンの安否を思う内心の焦りは、消すことができない。下腹の痛みになって今も居座り続けている。


 ただ、そんな遣り取りも何度目か。結局はいつもシグルドが折れた。アリシアに促され、二人並んで部屋に歩き出す。今のシグルドは片袖を垂らし、左脚も伝導管を外して杖にしていた。歩き方には癖も出るが、アリシアの気遣いはごく自然だった。


 シグルドはふと、クラウンに置き換えて反応を煩う。人の目を意識する時期などとう過ぎたのに、口さがないあの男が口籠りはしないかと少し気になった。同時に、そう思う自分も面倒だ。その点では、クラウンがここにいないことを幸いと感じた。


*****


「登る手段は考えるにせよ、戦力は必要だ。そう考えると時間が惜しい」


 シグルドは大半を作業場で過ごしたが、寝食の合間に、アリシアとは何度もそんな歓談をした。人と話すのが久しいせいか、本来が話し好きなのか、彼女は根気よく付き合ってくれた。今も天井に視線を彷徨わせ、思案するように彼女は応える。


「人を生きたままこの階層に送ること。その優先行動オーダーはまだ間違いなく生きている。でも、前にも言ったが生存は五分だ」

 アリシアの言葉にシグルドは頷いた。


 それが魔術師の質なのか、彼女の言葉は常に理知的だった。時に冷酷な割り切りがあっても、情で事実を隠さない言動はシグルドにも心地がよかった。猟兵気質に合っているのかも知れない。シグルドはアリシアの言葉の後を引き取って言った。


「捕まっていればここにいる。逃げ延びたとしても食糧がない。だろう?」


 しかも、あくまで黒い巨人が無力化されている前提だ。幾度も馬鹿げた状況を生き延びたクラウンだが、人の排除を優先行動オーダーにした巨人が相手では、その運も長くは続くまい。ただ、シグルドにはどうしても、あの男が観念するさまが想像できない。


「しぶとい男だ。生きている」

 根拠はないが、シグルドは嘯いた。

「その、クラウンと言ったかな」


 どこかもどかし気にアリシアが訊ねる。

「それ、本名かい?」

「間違いなく偽名だ」


 さすがのアリシアも言葉に詰まった。内心、シグルドは彼女の呆気に取られた様子が楽しい。この異様な世界で平然と暮らしているアリシアでも、まだ驚くことがあるのが心地よかった。ただ、言葉にするほどクラウンが怪しく思えるのも確かだ。


「あいつは人の知らない話をネタに商売をしていて、忌語もお構いなしに口にする変人だ。リースタンに居られなくなったのも、何やら問題を起こたかららしい」

「そんな人を、こうまで救出しようだなんて。それは軍人としての使命感かい?」


 呆れたようにアリシアが問う。シグルドは言葉に詰まった。こちらに返ってくるとは思わなかった。彼女は面白がっている。いつもの調子を取り戻していた。クラウンはなし崩しの道連れで、助けられた借りを返すだけのこと、思わず焦ってそう返す。


「まあ、助けられるものなら、諦める訳にはいかないよね」


 アリシアはシグルドを楽し気に眺めやり、苛め過ぎたと反省したのか、あるいはそれで満足したのか、微笑んでそう言った。自分にはそれだけの行動力がなかったからね、と彼女はシグルドを眩し気に目を細めて見せる。ほんの微かに影が射した。


「私も最初から独りではなかったんだよ。何人か後にもやって来たしね」

「殺されたのか」

 言葉を選ぶ前に口を衝いて出てしまい、シグルドは自分に舌打ちした。


 アリシアは受け流し、気にしていないと態度で見せる。

「逃げ出したりして色々ね、みな行方知れずさ。まあそうだね、生きてはいまいよ」

 その口調は余りに淡々としていて、彼女の思いはシグルドにも読み取れなかった。


「貴方は逃げようと思わなかった?」


「私は研究さえできればどこでもよかった。それが誰のためであろうとね。むしろここには世俗の柵もない。だからね、私はここの居心地を変えることにしたんだ」

 そう言ってから、アリシアは少し声を潜めて悪戯っぽく笑った。


「本当はね、宮廷を出た後ちょっとした政変があって、私も帰るのが面倒なんだ」


 例え都合がよかったにせよ、シグルドには虜囚の身が釣り合うとも思えなかった。ただ、シグルドの身近にも彼女に似た考えの者はいる。分隊顧問のベルタがそうだ。地位や家より研究を優先する手合いは、こうも身の回りに無頓着なのだろうか。


 ただ、シグルドには「誰のためでも」が少し気に障る。巨人に利するということが、まだ生理的に受け入れられない。アリシアの特権は強大だ。それほど巨人は魔術師を優遇している。それは決して人に良いものではないだろう。そう予感した。


「巨人は貴方に何をさせようとしているんだ」

 シグルドが問うと、アリシアは困ったように考え込んだ。

「そうだねえ、簡単に言うなら、融けない氷を融かす術式の完成だ」


「さっぱりわからない」

 シグルドは苦虫を噛み潰したような顔で降参した。

「だろうね、実は私もそうなんだ」


 思わずアリシアと目を合わせ、そこに惚けた困惑を見て取りシグルドは唸った。アリシアは容易にシグルドの表情を読むが、その逆はほとんどない。歳の差か、性格の違いかはわからないが、ときに彼女は自分の感情さえ弄んでいるように見えた。


「ごめん、ごめん。いや、本当に難解でね。私はたまたま知見があったけれど、普通の魔術師ならまず無理だろう。そうだね、これも私たちの界隈では大変な忌事だ。巨人があんなものを欲しがるなんて、いっそ童話の魔術師フースークにでも縋りたいくらいさ」


 アリシアの言う魔術師の諸々は、シグルドにはまるでわからない。恐らくクラウンの戯言に似た隠喩があって、童話に例えるほど漠としている。限られた知識でしかその意味は理解できないのだ。いつだろう、シグルドは最近そんな話をした気がする。


「それは一人では難しいのか」


「そうだね。このままだと生涯仕事になるだろうか。人は増やしたいところだね。でも、独りじゃあホラ、増やそうにも増えないじゃないか。だから私は好奇楼キュリオシティに管理者に、人を見つけたら生きたまま連れて来いって言ってやったのさ」


 それは家族の増やし方だ。シグルドは呆れて唸った。これは魔術師の感覚がおかしいのか、それともアリシアがずれているのだろうか。とはいえ、彼女が本気で好奇楼キュリオシティに入植したなら、増えた子孫に傅く巨人たちの姿は少し痛快でもある。


「そうだ、シグルド。君、私と番いにならないか?」

 シグルドは真っ赤になって跳び退いた。おかしいのはアリシアの方だった。

「いきなり、なんだ。無理なこと言うな」


「ここにいる限りは何の不自由もさせないよ?」

 アリシアが目を細めてシグルドに詰め寄る。無暗に凛々しく微笑んで、食事もお風呂も清潔なベッドも、今ならこうして話し相手もしてあげよう、そう続けた。


 普段は大人に見えて、ときおりアリシアは壊れた冗談で人を揶揄う。


「断る」

「つれないな、シグルドは」

「相手が欲しいなら、ここに板金鬼ゴブリンがいるだろう」


 シグルドは動悸を収めながら喉で笑うアリシアを突き放した。耳の先まで熱くなる。長らく独りだったせいか、彼女はシグルドとの会話を過剰に楽しんでいる。からかう隙を見つけたアリシアは、思いのほか子供っぽくて意地悪でしつこかった。


「彼ら喋ってくれないからなあ。君みたいに反応が楽しくない」


 確かに板金鬼ゴブリンは言葉を返さない。冗長な人の会話を理解はできず、はいといいえに絞ったような、ごく単純な受け答えをするだけだ。確かに、声もなく映写盤にたどたどしい文字を映すだけの会話を続けるのは、話し相手として退屈に違いない。


「高位の巨人は人の言葉も話せるそうだぞ」

「そんな話も聞いたね。まあ、確かに飛び切り高位の巨人も居るには居るけれど」

 アリシアは足許に目を遣って困ったような顔をした。


 指しているのは彼女の言う好奇楼キュリオシティの管理者だろうか。それは足下の最下層、昇降機を外縁に置いた、この世界の中央に居るらしい。人を保護せよという優先行動オーダーを全機に付与するほどの地位がある巨人だ。確かに高位には違いない。


「なにせあれは古巨人カルティベータだ。鋼の貴婦人シスターズのひとりだろう」


 再びその名を耳にしてシグルドの全身は粟立った。クラウンにしてもアリシアにしても、隣国の者はどうしてそれを無邪気に口にできるのか。それとも彼らが特別なのだろうか。シグルドの表情に気づいたアリシアが、気遣うように詫びた。


「この国の者には忌語なのだったね。すまなかった。国ではこの手の秘事に関わる機会もあってね。意識が薄いのも確かだ。それが縁で招かれたようなものだから」

 アリシアは誠実だった。からかいのネタにした誰かとは大違いだ。


「貴方は、それに?」

「私も会ったことはない」

 アリシアは首を振った。


「きっと人が見てよいものではないのだろうね。でも君の国の使節が昔、それを見たのだと聞いた。会って話もしたらしい。これは国家の秘め事だから、恐らく君は知らないだろう。それは銀色の人の姿をして、エルフと呼ばれていたそうだ」


*****


 格子の隙間に覗くのは、停まることのない昇降帯、果てなく上下に伸びた昇降路。足下に吊るされた昇降盤が起き上がり、輪の付いた爪が四方の誘導軌条を掴まえる仕組みだ。調速機が昇降帯の速度を調整し、荷を載せた昇降盤が移動する。


 ただし、この階層に露出した昇降機は下への一方通行だ。


 少しのあいだ佇んで、シグルドは昇降帯の唸りに耳を傾けた。板金鬼ゴブリンがシグルドは足許を避け、コンテナの影に滑って行った。補眼のひとつが焦点を絞るのを見て、ふとそれを怪訝さの仕草だと感じる。自分の感情にいささか衝撃を受けた。


「君もそのうち彼らに愛着を感じるかも知れないけれど、この子たちに個性はないんだ。沢山いても中身はひとつ。それも、君が口に出せないあれの一部なんだからね。気をつけて。愛嬌のある道具、この子たちをそれ以上に考えてはいけないよ」


 愛着など湧くはずもない。最初は反発したアリシアの警告が、今となっては空恐ろしかった。あれほど憎んだ機獣なのに、人の感情は儘ならない。クラウンはどうなのだろう。シグルドは怪訝に思う。あれはまるで人さえそんな目で見ていた気がする。


 昇降機の格子を一瞥し、シグルドは荷上場を後にした。またアリシアに見つかる前に、足早に作業場へ向かう。「愛しい人を待っているようだね」そう彼女に揶揄われたことをシグルドはいまだ根に持っていた。再会したら、ただ殴りたいだけなのに。


 この階層には外と同じ時間が決められており、時間の経過はむしろ上層よりも明確だ。数えた日数は既に片手以上、両手未満にもなる。時が容赦なく過ぎて行く中で、シグルドが昇降機を覗くのは、いつの間にか日課のようになっていた。


 甲冑の修理で焦燥を紛らわせてはいるものの、シグルドは昼夜に焦りと居直りを繰り返している。決して自分の調子を崩さないアリシアは、そうすることでシグルドを気遣ってくれているのだろう。彼女の過ごした三年も決して短くはなかったはずだ。


 シグルドはここに来て以来、昇降機は降りて来なかった。アリシアによれば、人に誂えた物資は自給も備蓄も豊富にあり、そう頻繁には動かないとのことだ。もし昇降盤が来るとなれば、機獣たちが荷受けに動員されるため、すぐにわかるらしい。


 だが、もう待つ必要はない。甲冑は今日にも直せるだろう。シグルドは甲冑の動力で昇降路を這い昇るつもりでいた。勿論、昇降路の防衛機構は不明も多い。何よりいつ降下して来るやも知れない昇降盤にどう対応するかは、半ば運任せでもあった。


*****


 シグルドは仕上げた右腕を眺めて息を吐いた。アリシアの好奇の視線は気なるが、スモックを脱いで内履き姿になる。薄く身体に貼り付いたそれは、鎧下の第二の皮膚だ。こうした素材の大半はアリシアと同じ出自の魔術で生成されている。


 右肩に内鎧の骨格を担ぐ。アリシアがすぐに傍に来て手を貸してくれた。武骨な内鎧の籠手には、本物の腕の代わりに壊れた義手が入っている。繊細な修理は手に負えないが、甲冑の仲介機としては使うことができた。これは腕の接続と稼働の試験だ。


「器用なものだね。おっと、握手は遠慮しておくよ」


 義手の伝導管も強力だったが、内鎧の籠手には装甲具から剥がしたものを組み込んだ。肘に繋いだ神経線が繊細な動作を扱えない代わりに、力は従来の内鎧も凌いでいる。逆に言えば加減もできない。それは予めアリシアにも警告していた。


「マグナフォルツの甲冑は本当に上手く巨人の身体を使っているね」

 籠手から伸びた神経線を辿りながらアリシアが言う。

「機工術で神経を繋ぐなんて古魔術の域だ。残念ながら我が国では禁呪だけれど」


 首に巻いた伝信帯に顔を寄せるせいで、間近の吐息にシグルドの肌が上気した。

「これはベルタの、うちの専任技師の特製だ。この手の仕掛けは一流なんだ」

 その名にアリシアが目を丸くした。


「ベルタ・リンドブロムか。私もその名は知っている。機工と符術の才人だね。いや、いや。まさかこんな所で。前に少し話をしただろう。君の国の例の使節に、彼女も参加していたのだそうだ。今となっては唯一の、」


 アリシアは言い掛け、ふと身を引いてシグルドを見つめた。


「貴方はどうやってその話を知った?」

 眉根を寄せるアリシアの表情を見て、シグルドは言葉を遮るように口を挟んだ。

「私は隣国の宮廷魔術師だよ? 国賓にはそれなりの扱いが当然じゃないか」


「元、だろう」

「まあ、今はね。でも、巨人の支配圏に入るにあたって先人の話を聞かせて貰った」

「どうして魔術師がそんな酔狂なことを」


「密約だよシグルド」


 アリシアの表情は変わらなかったが、シグルドに聴かせる意味は理解していた。

「君の国は巨人と争う一方で密約を結んだのさ。勿論、私も細かな内容までは知らない。だが、巨人が優秀な魔術師を欲していて、こうして私が囚われたのは事実だ」


「そんな、馬鹿なことが」

「カルネウス」

 不意に姓を呼んで声を上げ、今度はアリシアがシグルドの言葉を遮った。


「ヴィクトル・カルネウス。使節の責任者だ。確か生還したその後に亡くなったと。最初に君の名を聞いたとき、よくある名かと訊いたね。君は血縁者かな?」

「父だ」


 シグルドは応えた。よもやあのときアリシアが姓に引っ掛かっていたとは思いもしなかった。だが、彼女ならいずれ気づいてもおかしくはない。自らは言い出せなかったものの、本来シグルドにもそれを隠す理由はなかった。


「何とも奇縁だ」


 溜息と一緒にそう吐き出して、アリシアは破顔した。一方、シグルドはまだ混乱の最中にある。巨人との密約、それ自体が有り得ない。今となっては彼らを野獣とも思わないが、異質であることに変わりはない。しかも国軍にすれば殲滅を掲げる敵だ。


「巨人と密約を交わしていたなんて、馬鹿なこと」

「単なる外交、単なる謀略さシグルド。何があったのかは知らないが、結局、君らの国は巨人と決裂した。軍は私たちを置いて逃げ出したのだからね」


「アリシア」

 何と言えば良いのかわからない。生贄の如くアリシアを差し出し、置き去りにしたのは国の謀略とその失策。大裂溝に橋を架けたのも侵攻ではなく密約のためだ。


 アリシアはシグルドの肩を抱き、頬を寄せた。籠手を抑えて動けないのをよいことに、慌てるシグルドの髪を撫でる。子供のような扱いがシグルドには少し不満だったが、それでもしばらく動かずにいた。言葉も答えも、そこにあるような気がした。


「一緒にお風呂に入ってゆっくり話そう。大人の事情を学んだ方がよいと思うんだ」

「嫌だ、ひとりで入れ」

「相変わらずつれない子だな君は」


 ふと金管を打つような小さな音がした。アリシアが気づいて振り返り、作業机に残した映写盤を覗き込む。表示されているのは、辛うじて人語に翻訳された、つたない単語の連なりだ。記号まじりの文字と数式は、シグルドにはまだ判読し難い。


「おや、上から荷が降りて来たようだね」

 シグルドが身動いだ拍子に仮止めの籠手が鈍い音を立てた。見透かしたようなアリシアの笑みに、シグルドの頬が熱くなる。彼女の目が映写盤の表示を辿った。


「残念ながら、君の時とは印が違うな。人が載っているわけではないらしい」

 シグルドは辛うじて落胆を顔に出さないようにした。

「とはいえ、いつもの荷とも表示が違う。さて、何が運ばれて来たのだろう」


 アリシアの言葉尻に被せるように作業場の隅の板金鬼ゴブリンが一斉に立ち上がった。中空から指示を聴くように補眼を巡らせる。数体が作業台に駆け寄り切削用と思しき工具を抱え込んだ。車輪の付いた脚を器用に手繰り、次々と通路に走り出る。


 荷揚げには機獣が召集されるとアリシアは言っていた。だがそれは、工具まで持ち出すのが常なのか。シグルドが視線で問うと、アリシアは素直に肩を竦めて見せた。

「何かおかしなことが起きているようだね」


 そのときシグルドの脳裏に過ったのは黒い巨人だった。勿論、あれがまだ動いているとは思えない。まして、この階層に来るなど有り得なかった。それでも喉元に不安は込み上げて来る。万一に備えなければ。取り越し苦労なら後で笑うだけで済む。


「アリシア、着るのを手伝って欲しい」


 機動甲冑は全身の導力管と神経線を繋いで動く。いちど纏えば簡単には着脱できない。食事も風呂も柔らかい寝具も、当面はお預けだ。根拠のない懸念に賭けるのは分が悪すぎないか。アリシアの視線はシグルドにそう訊ねている。


 シグルドは首を振った。例え馬鹿げた懸念であっても、秤に載っているのはアリシアの安全だ。どんな些細なことであれ、それを無視するわけにはいかなかった。今度こそ後悔はしたくない。クラウンだけに恰好をつけられているのは嫌だ。


 内鎧の準備はできていた。重甲冑から剥がした装備も装着済みだ。慣れない手を借りて神経線を繋ぐのは容易くないが、着け終わるまでに決着がつくならそれでもよかった。万一あの黒い巨人と向き合うことになれば、今度こそ覚悟が必要だ。


 冑を繋いで面覆いを下ろすと、シグルドの視界は再び映写盤の色味に変わった。主眼、補眼の位置を合わせ、アリシアの肌で色調を揃える。籠る息。割れた声。息苦しさと奇妙な安堵が半々だ。通路を振り向くアリシアを追って補眼が動いた。


「君、手を貸して」


 アリシアが作業場を覗き込む板金鬼ゴブリンを呼び寄せた。予備の炉心殻と蓄動器を詰めた、ひときわ重い義足を支えるよう指示を出す。確かに彼女ひとりでは無理だ。結線で映写盤に接続表示が点る。いつもの調子で彼女は板金鬼ゴブリンに礼を言った。


「いえ、どういたしまして」

 何気に聞き流し、気づいて二人は凍りついた。

「ついでに伺いたいのだが、シグルドはどこに?」


 まるで頸が錆びついてしまったように、二人はぎこちなく板金鬼ゴブリンを振り返って目線を落とした。それはシグルドとアリシアにタレットを回し、きょとんと焦点を絞る。二人の姿を交互に見上げて、不意にアリシアに向かって慌てたように肢を振った。


「あなたなら失礼した。一般的には男性名と記憶していたので。何せクラウンが容姿の情報をくれないものだからね。いや、待てよ。それならこちらの方の可能性も?」

 板金鬼ゴブリンが早口に喋って考え込む。


「喋った?」

「クラウン?」

 ようやく我に返ったアリシアとシグルドの声が重なった。


「おや、そんなに驚かせて申し訳ない。しかし、喋ったくらいで驚かれるのも、いささか非礼ではないかな。私はザハート。クラウンの、ええと、友人だ。どちらかがシグルドなら、できれば急いで来て欲しい。出発まで、もうあまり時間がないのだ」


*****


 訊きたいこと、理解できないことが多すぎて、シグルドは頭が破裂しそうだった。輪を掛けて興奮したアリシアは、いつにも増して子供のように、ザハートの周りを巡っては質問を繰り返している。冷静なのはザハートと名乗る板金鬼ゴブリンだけだった。


 それは見掛けが少し汚れただけの、他と変わらない裸の板金鬼ゴブリンだった。本来の稚拙な発声器官を操って、人のように会話する。しかも、その機体で奇妙なほど人に似た仕草だ。ザハートは少しうんざりした様子で、二人を荷揚場に急かした。


 クラウンはそこから動けないという。

「要点を言おう。クラウンは昇降盤から降りられない。降りれば昇降盤が外れてしまう。この便を逃すと最下層に向かうのは数年先になるだろう」


「最下層に向かうとは、どういうことだ」


 怪訝に思ってシグルドが問う。ザハートは通い慣れた通路を先導していた。アリシアはまるで初めて鼠を見た仔猫のようにザハートの周囲を廻っている。シグルドは繋いだ義手義足と甲冑の動作を馴らしつつ、足早に奇妙な板金鬼ゴブリンを追い掛けた。


「気の毒だが、ここの昇降機では上層に行けない。むしろ、ほとんどの昇降塔は工場階層で折り返しているのだ。君がまだ地上を目指すなら、いちど最下層に降りて別の昇降機を探さねばならない。恐らく中央だ。我が同胞との対面は避けられないな」


 重要な情報だ。衝撃的ですらある。中央、我が同胞。好奇楼キュリオシティの管理者、鋼の貴婦人シスターズ、エルフ。血の気を失ったシグルドの身体を甲冑が支えている。言葉も出ない二人に痺れを切らしたのか、ザハートはタレットの眼を後ろに巡らせた。


「ここまでは理解したかね?」


 ザハートは、驚きすぎて反応が追いつかないという人の状態を見て取った。


「最下層への便は少ない。人の尺では数年に一度だ。なので、たまたま見つけた便をクラウンが占拠した。知っているかも知れないが、せっかちなのか、気が長いのか、あれの感覚は独特だ。碌な食い物がないから嫌だと理解できないことを言う」


 最後はクラウンの愚痴だ。あの男はどこにいても変わらないらしい。


「問題は、荷としてクラウンが異物だということだ」

 思えば荷役場に向かった板金鬼ゴブリンは切削工具を持ち出していた。

「急げという意味が理解できたかね?」


 荷揚場には機獣が集まり、運び出したコンテナを仕分けていた。その一方で、奥の昇降機の周囲には板金鬼ゴブリンがうろうろと集まっている。運び出す荷を待つ列かと思いきや、その隙間から声が漏れ聞こえた。シグルドはいつかの悪夢を思い出した。


「放せ、こら、一張羅だぞ。穴が空いたらどうするんだ」


  シグルドは小さく呻いた。何故かアリシアを前に居た堪れなくなる。ザハートが二人を振り返り、権限があるなら機獣に待機を呼びかけるよう促した。決定的は二律背反には至らないが、直接の指示であれば少しは時間が稼げるはずだという。


 果たして潮が引くように、板金鬼ゴブリンはたちは壁際に下がって行った。


 昇降盤の上には、半ば解体されたコンテナと、それにしがみつくクラウンが取り残されていた。残された周囲の箱は最下層の荷だろうか。クラウンはずるずると床に落ち、疲れ果てた顔で足早に駆け寄るシグルドたちを振り返った。


「昇降口を越えるなよ。面倒なことになるからな」


 髪はくしゃくしゃ、服もはだけて腰までずり落ち、野盗に身包みを剝がされたような有様だ。だが機獣だらけの階層に独り放り出され長らく彷徨っていたにしては、思ったより顔色は悪くない。やつれているように見たのは、この騒動のせいだ。


 アリシアがシグルドを見上げ、あれがそうかと視線で訊ねる。その目が痛い。シグルドは冑の下で真っ赤になった。普段はもう少しましなのだ、格好いいところもあるのだと、問われてもいないのに喉まで声が出る。恥じる理由もわからない。


「ザハート、そこの美人と白いのは何だ。俺が言ったのはでかくて黒い奴だぞ」


 クラウンが口を尖らせた。


「いや、ザハートは間違ってはいないよ。この甲冑はシグルド・カルネウスだ。前のが壊れてしまってね。君を助け出すために怪我を押してまで造り直したのさ」


「アリシア」

 慌てるシグルドを制し、アリシアは怪訝そうなクラウンに艶然と微笑んだ。

「ご紹介ありがとう。私はアリシア・アンテノール。リースタンの元宮廷魔術師だ」


 その名を耳にしたとたん、クラウンがうへえと苦虫を噛み潰したように呻いた。

「白髭の弟子か。塔の魔女が何をすき好んでこんな所に迷い込んだんだ」

「それ、大魔術師メイガスのことかい? 君はいったい何者だ」


「そいつの連れだ。助けてくれてありがとう」


 あっけらかんと頭を下げる。クラウンがリースタンを追われたのはシグルドも聞いていたが、よもやアリシアを間接的に知る立場とは思いもしなかった。出鱈目を売る商売と言われ、せいぜい宮廷の有閑婦人を騙して回る小悪党を想像していたのだ。


「あいにく今は何も持ち合わせていないが、そうだな、白髭の性癖とかでよければただで教えよう。あれはサルカン・アル・モルダスがまだ十四歳の時のこと」

大魔術師メイガスの弱みに興味はあるが遠慮するよ。この身が危ない」


 苦笑を返したアリシアだが微かに頬を強張らせていた。いつもの調子を保っているようで少し勝手が違うのも窺える。魔術師界隈に疎いシグルドにはクラウンの冗談がどれほどのものかよくわからない。首長家の醜聞といった類の話だろうか。


「随分縮んだな、シグルド」

 不意にクラウンに目を向けられ、シグルドは慌てた。今まで温めていた皮肉の山は、あくまで自分が瀕死のクラウンを助けた体だ。こんな状況は想定していない。


「その、腹は減っていないか?」

 散々迷ってようやく返したシグルドの言葉に、アリシアが堪え切れず吹き出した。甲冑の下で真っ赤になったシグルドを知ってか、助け舟を出したのはザハートだ。


「なに、クラウンはこの階層に向けて用意された食材を荒らして手配されていたほどだ。放置された機体に幽閉されていた私を見つけた頃には、随分と肥え太っていた」

「黙れザハート。俺は太ってない」


「よろしい比較を提示しようじゃないか。そこの映写盤に、いや、後だ。今は昇降機について決めなければならない。留めておける時間はそう長くないからな」

 ザハートが慌てて話を戻した。不自然さを感じないほど人にそっくりだ。


 肩を竦めたクラウンは、シグルドとアリシアに状況を繰り返した。即ち、地上への道筋は最下層を経由する他にない。しかしその方向は便が少なく、この機会を逃せば次は数年後かも知れない。決断は今この場で限り。荷を取りに戻る間も惜しい。


「下にいるのは好奇楼キュリオシティの支配者だ。私はお勧めしない」


 アリシアはそう答えた。シグルドが振り返る。彼女は言外に自身を外した。端から同行するつもりはないのだろう。冑ごしに目線を交わし、説得の言葉を探している時点でシグルドも答えを決めていることに気づいた。自分を知るのはいつも最後だ。


好事家キュリオシティね。なら少しは聞く耳はあるかもだ。アリシア・アンテノール、身の安全はシグルド任せだが、外の方が魔術師の本分は果たせやしないか?」

 クラウンが誘うと、アリシアはシグルドに向かって答えた。


「君がここにきて以来、それを迷わない日ははなかったよ。だがすまない。私の探求は外では憚られるものだ。例え相手が人外であろうと、契約は契約だからね」

「アリシア」


「待て待て、さては古魔術の類か。実に塔の魔女らしいな」

 別離の情緒の隙もなく、クラウンが興味深げに嘴を突っ込んだ。

「ここで何の探求を?」


「クラウン」

 余計な話に割く時間はないと、痺れを切らしたザハートが急かした。

「融けない氷を融かすことだ」


 シグルドに解けなかった謎かけに、クラウンは耳まで裂けたような笑顔で頷いた。

超構造体ステイシスか、素晴らしい。狂気の母堂ケイオスプラントならともかくも、好事家キュリオシティならやりかねないな。それなら俺にも興味がある。こちらに分けて寄越すなら、ひとつ手を貸そう」


 忌語に思わず顔を顰めたシグルドを横目に、呆気に取られたアリシアに向かって知クラウンは言った。まるで魂を寄越せと迫る童話の魔術師だ。気圧されたアリシアは、やがて微かに頷いた。不意にクラウンは時間を気にする板金鬼ゴブリンを振り返る。


「ザハート、ここに残って彼女を護れ」

「え」

 驚いたのはザハート本人ではなく、むしろシグルドとアリシアの方だった。


「私はここでは安全だ」

 慌てたアリシアが口を挟む。クラウンが首を振った。

「ここを出るとき必要だ。古魔術の語彙コードはこれが知ってる。解いたら塔に帰れ」


 アリシアの頬から血の気が引き、次の瞬間には耳まで紅潮した。クラウンとザハートを交互に見つめ、何かに気づいて震えている。契約が成ったとばかりにクラウンはほくそ笑み、売られたザハートに向かって手を振った。こいつは人でなしだ。


「やれやれ、私は構わない。この昇降機と違って寛容だからね。さあ、もう時間だ」

 ザハートは言うなり昇降盤の境界を退き、シグルドに先を促した。シグルドは踏み出そうとしてアリシアを振り返り、無駄とわかっていても、もう一度口にした。


「本当に一緒に行かないのか」

「魅力的だが、遠慮しよう」

 アリシアは微笑んでシグルドの籠手を手に取り、抱きしめるように身体を寄せた。


「クラウンを手放すなシグルド。あれは本物の忌語りだ。ここから先は彼の口先だけが切り札になるだろう。好奇楼キュリオシティを抜けるのも、君の呪いを解くのにもね」

 アリシアはそう囁いて、さようならとシグルドに言った。


*****


 いい加減にしろとばかりに昇降機の柵は勢いよく閉じられた。盤の調速機が昇降帯を噛んで、唸りながら降下を始める。手を振るクラウンとシグルドの白い甲冑は、ひと揺れしたあと床の下に沈み、あっという間に姿を消してしまった。


「なんとも騒々しいことだ。挨拶もまだだったな、アリシア・アンテノール」

 ザハートのタレットがくるりと巡ってアリシアを見上げる。

「アリシアと呼んでくおくれ、ザハート」


 今はもう何もない格子の奥に、遠くなる昇降盤の唸りを聞きながら、アリシアは人語を解する奇妙な板金鬼ゴブリンを見下ろして微笑んだ。

「もっと騒々しくなる予感がするんだ。まずはそう、君はお風呂に入れるかい?」

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