第8話 四圏
見渡す湖面は広大だった。白く霞んだ対岸は遠く、遠視眼でも見通せない。遥か頭上の岩盤が削り出され、半球の天蓋が湖を覆っている。それが巨人に造られたものであれ、理の時代に残されたものであれ、シグルドの理解を超えた光景だった。
二人の滑り落ちた排水管に並んで、幾筋もの管が地底湖の内壁を這っていた。まるで全天を巡る血管のようだ。排出した地下水を際限なく注ぎ込み、そうしてできた広大な湖の中央に、朱く燃え立つ灯で照らし上げられた島がひとつ、浮かんでいる。
それは島の外縁から漏れ出した光だ。島の周囲の湖面は朱く、まるで血の海に浮かんでいるかのようだった。遠く槌を打つように響く金属音は、島の外周が燃え盛る精錬施設であることを示している。朱色は溶けた鉄の照り返しなのだろう。
さらに、島から吹き出た水蒸気が上空で白く凝結し、天蓋を覆う霧を成していた。光を弾く混ぜ物があるのか、その雲が仄かな灯りとなって陽のない地底湖の全体を曇天の空ほどに照らしている。二人のいる湖の端でさえ、裸眼で辺りが見え明るさだ。
「ずいぶん下まで落ちて来たな」
クラウンが呟いた。その声は、まるで面白がっているようにも聞こえる。大きな岩の間にできた狭い岸辺に陣取って、クラウンは動くのも億劫だとばかりに座り込んでいた。水を吸った丈の長い外套は、海月のように水際に打ち捨てられている。
シグルドは応えなかった。自身がまだこの状況に現実味を感じ取れずにいた。巨人が街を、それどころか世界をまるごと造ろうとしている。呆然とする一方で、坑道での行動にも頭が冷えた。黒々とした苛立ちや、帰還への焦燥は消し飛んでいる。
「とりあえず休憩しよう。動くのも考えるのも、もう嫌だ。仕切り直しはその後だ」
仕切り直しというクラウンの言葉に、シグルドは微かに戸惑った。渓谷を飛び越え、排水管を滑り落ち、生身の身体で生きていられたのは奇跡的な状況だ。口を開けば泣き言ばかりのくせに、いつも前を向いている。どうにも理解し難い性格だ。
「そうだな」
シグルドは短く応えた。それ以外の言葉が浮かばない。シグルド自身もまだ目的を見失ったわけではなかった。ほんの少し気が抜けただけだ。クラウンに気づかされたわけでは断じてない。何より、そんな悶々とした感情を悟られる方が癪だった。
幸いこの辺りには機獣がおらず、
騎体を水辺に置いたまま、シグルドは重甲冑の膝を着底させた。診断と修復はまだ時間を要する。四肢に欠損こそないが、炉心殻と蓄動器を載せた片方の背嚢が剥脱し、予備出力が半減していた。基本動作には問題ないが長時間の作戦行動は困難だ。
何より槍を失ったのが痛い。超構造体に次ぐ硬度たというのは眉唾にしても、そのベルタのお墨付き通り折れずに重宝した得物だった。近接格闘はまだ可能だが、得物の有無は戦い方に大きく関わる。今までのような多対一も避けねばならない。
溜息と一緒に思案を放り出し、シグルドは映写盤を横目にクラウンの様子を確かめた。くたびれて明後日を向いている。シグルドは整備洗浄器を起動して、騎体に入った塵埃を洗い流した。本来は無人で行うが、ここでは装甲具の着脱ができない。
こうして生身の身体を一緒に洗うのは甲冑乗りの数少ない癒しだ。こと長期の装着で鉄の鋳型に凝り固まった身体を解すには、ちょっとした息抜きのコツと、後で整備士を誤魔化すための言い訳が必要だ。ただ、人に見られるのは少し気まずい。
吸気管から水を取り込み、炉心殻で温めて甲冑の中を巡らせる。制御できれば顔を浸すのも怖くなかった。水流は強く、手足を浸す湯は熱めに。最後は水を排出し、乾いた温風を勢いよく循環させる。長い吐息が無意識に漏れた。
ひと心地つくと外音が冑に戻って来た。地下水の奔流、鉄を打つ音。それらが遠く、近く、幾重にも混じり合って天蓋にこだましている。この地下洞はあまりに広く、そうした幾つもの響きさえ、いつの間にか無意識の中に沈んでいる。
ふと映写盤に目を遣ると、クラウンがじっとこちらを見つめていた。徐に裾に手を掛けると、何を血迷ったか、もがくように身体を捻って濡れた上衣を引き剥がした。服の端を掴んだまま水辺に踏み込み、半身裸で大股にシグルドに近づいて来る。
「何だ、何をする気だ」
近づく半裸の大映しに思わず上擦った声を上げ、シグルドは騎体を立ち上げた。
「そのまま動くな」
クラウンはそう言って腕を突き出した。水気を含んだ服から飛沫が撥ねる。
「そいつでこれを乾かしてくれ」
クラウンが顎をしゃくった。騎体の背中を指している。シグルドが目線を辿って補眼を向けると、排気口が温風を吹いていた。陽炎に風景が揺れている。舌打ちして顔を顰める。シグルドは映写盤のクラウンから目を逸らし、呻くように応えた。
「嫌だ。こっちに来るな。気持ち悪い」
だがシグルドが顔を背けたほんの一瞬、クラウンはシグルドの返事も聞かず水辺を渡り切っていた。谷を渡るとき目を付けたのか整備の把手掴まえて、あっという間に騎体を這い登る。映写盤を跨いで横切る半裸の男に、シグルドは悲鳴を呑み込んだ。
「干して油臭くなったりしないよな」
排気口に顔を近づけて、勝手に話を進める。
「止めろ、匂いを嗅ぐな気色の悪い」
「ついでに下も乾かしていいよね」
クラウンに間近の補眼が一斉に蓋を閉じた。
「やめろそれ以上脱いだら殺すぞ」
外声器から噛み付くようなシグルドの声がする。割れた音声は装甲が震えるほどだった。クラウンは気にした風もない。閉じた補眼に呆れたような目を向け、何をそんなにと肩を竦める。服を叩いて水気を切ると、排気口に扇いで伏せた。
「潔癖性だな。猟兵はもっと荒らくれかと思ったが人付き合いは悪い方か」
痛い所を突かれてシグルドが口を尖らせる。
「誰が好んで男の裸なぞ見たいものか」
「それなら性向は同じだ、安心しろ」
クラウンは笑って応えると、器用に重甲冑の背中に寝転んだ。
「ずっと甲冑を着たままだなシグルド。中はそんなに居心地がいいのか?」
そんなはずがあるものか。甲冑の中でシグルドは毒づいた。装甲具、内鎧、内履に至るすべてが絶えず身体を締めつけている。もしも起重機がこの場にあれば、喜んで裸にもなるだろう。この先そんな機会がいつ来るかと思うと暗澹たる思いだ。
「装甲具は切り離せるが、再装着には設備がいる。内鎧で行動するのは無謀だ」
「飯が食えないだろう、腹は減らないのか」
「問題ない」
冑の中には給水管がある。練った戦闘糧食を啜ることもできる。味は論外だが。
「すごいな、俺はずっと減りっぱなしだ」
クラウンが情けない声を出した。また吐き出した弱音に呆れつつ、仕方のない人だとシグルドは知らず口許を緩めた。そんな自分に気づいて思わず呻く。
「そういや倉庫で食糧を見つけたっけ」
クラウンはそう言って飛び起きた。
「落してなければいいんだが」
ついでに引っ張って来た外套をひっくり返し、懐を探る。鎖、石ころ、
「あった。シグルド、半分やるぞ」
「いらん」
「脱げないなら面を上げろ。あーんってしてやる」
苛立つシグルドが騎体を揺らした。転げ落ちたクラウンが水飛沫を上げる。怒ったクラウンとまたひと騒動あったものの、言い争ったり、拗ねたり、不貞腐れたりと、気づけば二人は寝入ってしまい、結果的には十分な休息を取ることができた。
陽さえ射さない薄暮の中、夜明けの節目こそなかったが、目覚めたシグルドは幾分か気力を取り戻していた。重甲冑を着たまま寝るのは慣れている。血の偏りも解せる範囲だ。起き抜けの映写盤に、間近でクラウンの寝顔を見たのは最悪だったが。
「あの島を目指す」
メンテナンスと身支度の後、シグルドはクラウンにそう宣言した。湖に浮かぶあの島が巨人の生産拠点であるならば、地上への道筋もあるだはずだ。それが危険な選択肢であることも確かだが、シグルドとしても検討の末の結論だった。
取りも直さず、現状の装備で滑り落ちた排水管を登るのは不可能だ。湧水の勢いもいつかは衰えるだろうし、調べれば遡上できる管もあるに違いない。だが、その行程を選べば長期戦は免れない。装備や食料の調達も考えねばならなくなる。
そうした理由をシグルドは詳しく説明しなかった。訊けば話すつもりでいたが、説得できなくても引く気はなかったからだ。映写盤を睨むと、すっかり重甲冑の背中を我が物顔で陣取ったクラウンは、補眼に目を遣り手を振って、あっさりと頷いた。
「ここにいても仕方ないしな」
クラウンの悪びれない笑顔に呆然とする。
「地上に行こうっていうのに落ちてばっかりだからな。ここいらで逆転しないと」
「誰のせいだ」
シグルドは辛うじてそれだけを言い返した。逸らした頬に映写盤がの光がちりちりと熱い。何なんだおまえは。外には聞こえないように冑の中で呟いた。
朱く染まった島は湖の中央にあり、外縁から幾筋もの橋が架けられていた。湖上に突き出た円型の台地は鉄と混凝土に縁取られ、中心部に向かって無機質な建築物が高く生え伸びている。それは工業施設、都市、あるいは城塞にも見えた。
島の中央には長く伸びた柱があり、地下洞の天蓋を貫いている。中央同心円上に三基、中心に一基。編み込まれたような格子の鉄柱の奥には高速で上下するケージが見える。地上に続く経路としては、最も可能性と危険性に富んだ目標だった。
勿論、重甲冑で湖を渡ることはできない。シグルドも水中歩行は二度と御免だった。シグルドとクラウンは地底湖の浅瀬を辿り、島に架けられた運搬路のひとつに近づいた。地底湖に外周路らしきものはなく、水辺や岩場を越えるしかなかった。
シグルドは輸送橋の基部に取り付き、橋脚を登る算段をつけた。さすがにクラウンにも自力で登れとは言えない高さだ。下から確認する限り、橋はバケットが行き来しているだけらしい。中身は採掘した鉱石だろうか、動きは単調で監視もない。
「敵もいないのに何を見張る必要がある」
警戒するシグルドを見てクラウンが笑った。
「脅威にもなり得ないと言いたいのか」
「そう拗ねるな」
そんなに子供っぽく聞こえたのかとシグルドは口籠る。クラウンは気づかない。
「仕事の邪魔をしなけりゃ襲って来ないだろ」
「巨人は人を襲う」
「少しばかり賢しいからな。でも邪魔だから排除するだけだろ、単純な話だ」
「奴らにとっては人そのものが障害だ」
「そうなら、とっくに皆殺しになってる」
クラウンが言った。微かなシグルドの身動ぎに騎体が反応する。それは国が、猟兵が棚上げする根本的な問題だ。口にするもの憚られる名前に絡んだ忌事だった。
「シグルド」
クラウンは宥めるようにシグルドの名を呼んで、言葉に一拍の間を置いた。
「おまえたちが狩っているのは戦闘用の巨人じゃない。あいつらはただの作業用だ」
巨人は脅威だ。人が総力戦で挑んでも、倒せる保証も生き残れる確信もない。なのに巨人とその眷属は戦闘に特化した身体を持とうとしない。皆はそれを巨人の知能のせいにする。わかっていた。誰も怖くて本当のことを言えないだけだ。
いつか「本物」が来たら、どうすれば良い?
「おまえたちは狩人で、ここは相手の縄張りだ」
クラウンの言葉は単純だ。その奥底を含めて語るのが、なお恐ろしかった。
「だからここでは無害なふりをしろ。何があっても目立つんじゃないぞ」
身の丈が三
鉤綱を撃ち上げ、騎体を引き上げる。それを幾度か繰り返した。幸い足掛かりの鉄柱は橋桁の外にあり、張り出し超える必要はなかった。ただ渓谷の時とは異なり、命綱の鎖がないクラウンには、振り落とさかねない動作は不安だったようだ。
必死にしがみつくクラウンの表情に少しだけ溜飲を下げて、シグルドは橋の上を窺った。一定間隔に連なるバケットは、橋に設置された二本の自走路に載って流れている。少なくともこの軌条の上は、遠い道程を自動で往復しているようだった。
外縁の横穴に向かうバケットは空。島に向かうそれには、ごつごつとした黒い石塊、あるいは細かい砂礫が盛られている。バケットひとつは重甲冑も余裕で入れるほどの大きさだったが、シグルドはあえて二台の隙間に騎体を潜り込ませた。
脇から補眼で覗き見ると、橋の先は赤熱した鋳造炉が並んでいる。島の周辺を染めるのは、そこから漏れ出た朱い光だ。施設はこれ以上ないほど機械的に稼働しており、自走する鉱石の上に乗って行くのは、行方を思うと心情的にも憚られた。
走路の唸り、重機の打音、時折り蒸気の吹き上げる音。それらが混じって橋の上に反響している。バケットが島に近づくにつれ周囲の気温は上がって行った。甲冑の内側は調整されているが、胸を開けて喘ぐ映写盤のクラウンを見て状況がわかる。
人の街の似姿だが、ここには人への気遣いが一切ない。この先も生身で耐えられる保証はなかった。今更ながらそれに気づいて、シグルドは生身の連れに不安を覚えた。気遣うように映写盤に目を遣ると、クラウンが後背の補眼を振り返って言った。
「脱いでいい?」
「やめろ、そこで脱いだら殺すぞ」
シグルドはクラウンに噛み付いて、補眼の蓋を閉じた。
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