第7話 三圏
飛び込んだ
脛の圧搾機を放てば水煙に
坑道を塞ぐ正体不明の影の手前、湾曲した壁の際でシグルドは取り囲む
こんなとき、シグルドの脳裏には彼女の悲鳴が聞こえる。幼く儚いヴィーチェの声だ。助けを求める少女のそれを、シグルドはいつも他人事のように聞いている。幾つ機獣を潰しても、奪われたものは還らなかった。父もヴィーチェも紅く濡れている。
血でてきた右手、石でできた左足。ヴィーチェは縋るように手を伸ばした。
槍先が思いのほか深く
「気をつけろ、静かに戦え」
間を置いて耳元に響く大声にシグルドは思わず顔を顰めた。またクラウンの声を拾ったらしい。振り飛ばした機獣を補眼で辿れば、対向の壁際にクラウンがいる。こちらを向いて怒っていた。シグルドは無視して
ところが機獣の焦点に迷った。急所を突き損ねて一撃を無駄にする。クラウンのせいで集中が散ってしまった。目の前に飛び出した
そんな所で何をしている。シグルドがクラウンを詰ろうした刹那、先を塞いだ闇が動きだした。黒々としたそれには凹凸がある。坑道を埋めるほどの鉄の塊だ。坑道整備のための作業機かも知れない。確かにシグルドもそこまでは予想していた。
光芒がシグルドを射抜く。あまりに物質的で、光の柱で突き飛ばされた気がした。
明暗の調節に戸惑う映写盤の奥に屋根板のような履板が皆見える。その上には巨大な円盤が立ち上がり、重甲冑の身の丈に迫る円筒が三基、手前を向いて突き出していた。小山のように伸し掛かる機体の圧は、先の
機獣は自己の
その
うねうねとシグルドに迫る円筒の先端が捲れ上がり、無数の鋭利な歯の列がその外側に剥き出しになった。鋭い幾重もの輪が回転する。本来は岩を掘り、穴を穿つためのものだろうか。面と向かえば怖気で戦意を削り取るほどの剣呑さがあった。
シグルドの視界を埋める機影は圧倒的だ。移動が遅いのがせめてもの救いだが、素早い頸の動きはそれを補って余りある。槍先さえ一瞬で削り取られた。重甲冑の近接装備では対処のしようがない。せめて三つ頸の根元に入り込むことができれば。
間近に振り下ろされた頸を辛うじて避け、シグルドは飛び退った。巨体がじりじりと重甲冑に迫って来る。金属製にも関わらず、どうして生物的な嫌悪を刺激するのか。シグルドは半ば理不尽に怒る。見れば
一機がシグルドの前で削り潰され、金属の粉になった。敵も味方も関係ない。
「そうやって風車に喧嘩を売った奴を知ってるぞ。さっさと逃げろシグルド」
クラウンの声がした。まだ壁際に張り付いている。
「ごめん、やっぱり先に俺を助けて」
どうやら水流が激しく思うように進めないらしい。どう反応してよいかわからず凍りついたシグルドは、一拍を置いて思い至った。このまま放り出す訳にもいかない。回収位置を確かめる。だが声を掛ける間もあらば、
目の前に伸びた顎先を咄嗟に殴り上げ、シグルドは辛うじて身を躱した。左腕の装甲具が外装環の中ほどまで削り落ちている。シグルドはいったん身を引いて坑道に踏み出し、立ち往生のクラウンの手前に狙いを定めて腕の鉤綱を撃った。
視界の端でクラウンが鋼索に飛びつくのを窺い、迫る顎を避けて騎体を振る。
「待てシグルド、それ以上こっちに、」
クラウンの言葉がぷつんと切れた。その姿も消えている。小さな波紋をひとつ残して綱先が水面を走って行った。それを追うようにぶくぶくと気泡が続く。どうやらシグルドの動作に引かれてクラウンを水中に引き摺り込んでしまったらしい。
「離すなよ」
聞こえないと知りつつ言い捨てて、シグルドは軸足を移して身体を回した。
そのつもりだった。
重甲冑の足下に床がなかった。騎体が沈む。シグルドは身体が上に引かれるような錯覚を覚えた。見る間に視野が暗転する。浮遊感と緊急与圧の破裂音。理解が及ぶのに数拍を費やした。騎体が水没している。しかも延々と落ち続けている。
各所から集められた水流が、床下で複雑に入り組んでいた。穏やかな水面から一転、排水口の奥底で苛烈な渦を作っている。重甲冑の巨体が木の葉の如く翻弄された。激しく揺さぶられたシグルドは、ただ騎体を屈めるので精一杯だった。
濁流に呑まれて滑り落ちる。行き着く底がどこにもない。水流に小突き回されたかと思えば、上下を見失うほど回転する。シグルドは四肢を固めてひたすら耐えた。砕けるほど歯を噛み締めなければ口から肺腑が飛び出しそうだ。
もとはと言えば、おまえが後先も考えず突っ込むからだ。脳裏でクラウンが嫌味を囁く。だがその姿を確かめる余裕はなく、腕も脚も動かせない。下手に藻掻けば管の内壁に持って行かれる。せめて押し流される勢いを殺す方法がれば。
シグルドは指先の操作で槍の固定具を開いた。磁性体の留め具が騎体を排水管に貼り付ける。頸を折るほどの衝撃と耳を聾する金属音に身体が震えた。回転は止んだが落下は止まず、速度は落ちたが振動は細かくなり、前にも増して激しさを増した。
好転したとは言い難い。恐怖に胸を鷲掴みにされたまま、シグルドは垂直に落ち、斜めに滑り、延々と排水管を滑って行くのを全身で感じた。騎体はどれだけ持つだろう。流れる闇だけが映写盤に映る。濁流と排水管の内壁は、それしか見えない。
腕から伸びた鉤綱は、まだ騎体の上で揺れている。それだけは表示でわかった。勿論、その先にまだクラウンが掴まっているとも思えない。今この止まない金属音の代わりなら、嫌味だろうと悪態だろうと、幾らでも聞いてやれるのに。
不意に映写盤に景色が灯った。全ての音が断ち切れたように消え失せる。だが、まだ落ちている。否、むしろ浮いている。外に映るのは遠くに広がる岩の壁だ。しかも大裂溝の断崖ではない。それは高く、広く、白く煙った岩の天蓋だった。
渓谷に排出されたわけでないらしい。ならばこの広大な空間は何だ。一瞬よりも長い間、捉えどころない景色が流れた。重甲冑が唐突に撥ねた。衝撃で緩衝帯に顎が埋まる。それは一度に留まらず、騎体は浮遊と衝撃を何度も繰り返した。
風を切る音。水を叩く音。騎体は滑空しながら何度も弾んでいる。中空でようやく気がついた。水面に投げた石のように、シグルドの重甲冑は水の上を撥ね転がっている。ふと宙に静止したような一拍の刹那、騎体はいきなり水没した。
水面が見る間に映写盤の上端を越え、きらきらとした揺らぎが、あっという間に頭上に遠ざかって行く。破裂したような気泡が天に連なり、やがて騎体の弁が絞られて細くなった。排出を反転した圧搾気が甲冑の中に吹き込み始める。
とはいえ重甲冑は気密されていない。圧搾気の備蓄も限られている。凍りつくような侵水と共に、冷気が一気に押し寄せた。藻掻いたところで沈下が止まるはずもない。暗い水の中に落ちて行く時間が、ゆっくりと間延びして感じられた。
唐突に足が地に着いた。騎体がゆっくりと倒れ込み、水底に這って泥の中に減り込んだ。果てなく埋まって行くような錯覚に、思わず変な声が出る。シグルドは必死になって騎体を起こすも、自分が立っているのかさえ、よくわからなかった。
肩の灯火は辛うじて生きていたが、泥に澱んだ周囲を照らすだけだった。どちらを向いても遠景に光が届かない。漏れ出る気泡の連なりが映写盤を横切って行った。無駄に漏れた圧搾気だけが、騎体の上下を正確に教えてくれている。
嵐のような滑落から一転、冷えた無音の恐怖がシグルドを包んだ。巨人に由来する機動甲冑は、神経部品に至るまで耐水性だ。例え幾年か水底にあっても機器が酸化することはない。今この中で最も脆弱な部品とは、この人の身体に他ならない。
重甲冑は水に浮かない。内鎧であれ、この生身であれ、シグルドも水には浮かべない。シグルドは湧き上がる悲鳴を喉の奥に堪えた。いっそ泣き叫びたい。だがそんな声を聞かれたら、あの男はきっとシグルドを笑う。それだけは嫌だと奥歯を噛んだ。
恐怖に混乱した頭を落ち着けた。重甲冑の装甲から腕を抜き、指先で左右の映写盤を切り替える。画面に操作卓が描かれた。本来は整備や外装の操作に使う仕組みだ。何度も操作を誤りながら、シグルドは甲冑の制御を掌握した。
あえて気圧の対抗を緩める。冑の中にだけ空気を残して、僅かでも空気を留め置く。みるみる内鎧が水が浸かり、内履きも冷えて行く。身体中が無数の針に刺されているようだ。左手の指先が水の染みた内鎧の中で悴んだ。思うように動かない。
だが、右手はまだ動く。操作卓を使う限り、それだけで十分のはずだ。
まずは周囲の状況を探る。吸気管を上げてみた。本来は洗浄桶に浮かべて使う簡単な仕様だが、先は水面を目指すはずだ。とはいえ肝心の管は五
留まっていても埒は明かない。右手の指先で操作卓を辿り、騎体をどうにか動かせるようにした。だが、岸はどっちだ。そもそも陸や浅瀬は存在するのか。垣間見た景色にそこまでの精度はなかった。シグルドは息を殺して映写盤に手掛かりを探る。
不意に吸気管がしなって背嚢を叩いた。液柱計は動いていない。ただ管だけが揺れて後ろに引かれる。水の流れにしては不自然だ。だが、シグルドは吸気管を追って騎体の向きを変えた。泥に取られた足を掻く。一歩ごとに泥の煙が巻き上がった。
岸に辿り着く保証はない。歩けばどこかに着くだろう。決め手がなければそうするほかない。暗い灰色の景色は代り映えがせず、進んでいるのかさえ疑わしく思えた。気づけば口許まで水に浸かっている。シグルドは喉を逸らして冑の中で喘いだ。
頭上の映写盤が仄かに明るかった。目を凝らせば水を掻く人影が見えた。呆気に取られるうちにも騎体は自動で歩き続け、やがて周囲は補正の利く明るさを取り戻した。光が揺らいだかと思うと不意に水が失せ、辺りの景色が見て取れる。
呪縛が解けたように全身が音と光を取り戻した。四肢が水飛沫を撥ねる。
眼前にあるのは荒い岩場だった。砂利と泥でできた小さな浜があり、その水際にひっくり返った人影がある。手にした吸気管を放り出し、クラウンは億劫そうに身体を起こした。荒い息を吐きながら、顔に張り付いた長い前髪を掻き上げる。
出会った倉庫で垣間見た、子供のような瞳が映写盤を通して見て取れた。
「金槌だよな。そりゃあそうだ」
シグルドの重甲冑を見上げ真面目な顔でそう言うと、何がどう壺に入ったのか、クラウンはひとりで馬鹿みたいに笑い出した。
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