第5話 一圏

 底の知れぬ溪谷は風だけが轟々と鳴いている。重甲冑の主眼を巡らせ、シグルドは横穴の縁から断崖の先を覗き見た。二人の落ちた岩棚は断崖の遥か上方にあり、空を見上げねば視線さえ届かない。今、残した分隊の安否を確かめる術はなかった。


 分隊との通信はとうに途絶えていた。渓谷を渡る風切音の後ろに、途切れ途切れの皆の声が流れていたのは覚えている。それも今は空電しかない。恐らく、この溪谷を境に動力域が切り替わったのだろう。炉心殻が動作しているのは不幸中の幸いだ。


 巨人由来の装備は全て、巨人の笠アトラスと呼ばれる目に見えぬ動力域の内側でしか機能しない。あらゆる信号、その制御、炉心殻さえ巨人の造る境界が作用している。こと電信に関しては、動力域アトラスごとに構文が異なり、変換器がなければ用を成さなかった。


 渓谷を挟んだこちら側は、恐らく異なる動力域アトラスに属している。電信の変換はおろか、構文が解読されていない可能性もあった。当然、渓谷を越えた交信は望めなそうにない。広大な巨人の勢力圏にあって、シグルドは孤立無援の状況に置かれていた。


 そう思えば、シグルドはたった十三メフトで父とベルタに追い付いたことになる。ここは二人が初めて足を踏み入れ、生還と引き換えに悪夢を連れ帰った巨人の世界だ。こうして奇跡のように生き延びた安堵も、束の間のことに過ぎないかも知れない。


「なあ、シグルド」

 まるで扉を叩くように、クラウンはシグルドの装甲を小突いた。

「いい加減こいつを外してくれないかな」


 背中の補眼に鎖を振って見せる。覗き込むクラウンの顔には不安も危機感も窺えない。せいぜい道を違えた程度の困惑加減で手枷の鎖を弄んでいる。本当に馬鹿なのかと思うほどの能天気だ。シグルドは独り途方に暮れるのが馬鹿々々しくなった。


 クラウンの鎖は案の定、槍の固定具に噛み込んでいた。長槍を留めるのは強力な磁石と鉤爪だ。到底、人の手では外せない。ひとつ間違えば腕ごと持って行かれてもおかしくはなかった。思えば、よくもこれだけを命綱に溪谷を越えられたものだ。


「ついでに鎖も切ってくれ、重くて仕方ない」

 クラウンは両腕を掲げ手枷の鎖を振って見せる。

「図太いな、おまえ」


「この状況で不平がたったそれだけなんて、遠慮深いにも程があるじゃないか」

 どうしてそんな無邪気な顔ができるのか。

「だったらずっと黙ってろ」


 シグルドは苛立ちを堪えて小さく呻いた。クラウンの表情の端々が、いちいちシグルドの癇に障る。それでもシグルドは膝を折って身を屈め、さっさと手を出せとクラウンを急かした。クラウンの手枷を掴もうと丸太のような重甲冑の腕を伸ばす。


「あ、いや、ちょっと待て」


 クラウンが腕を遠ざけた。無骨な鋼の指を見て急に不安気な顔をする。どうやら間近に見て怖気付いたらしい。三本と二本が向かい合う掌は、人の頭を掴むのも造作ない大きさがある。握力も機獣を潰すほどだ。確かに器用さは気になるだろう。


「どうした、早くしろ」


 少し面白くなった。シグルドは、わざと音を鳴らして指を開閉して見せる。不安なら、そのまま鎖を下げていろ。そう言って脅す。実は微細な作業も得意だが、今の腕前に至る生卵の教練を明かすつもりもない。食事の一品を賭けた毎日は辛かった。


 結局、そこからひと騒動あった。逃げたクラウンは穴から落ちかけ、二人してようやく大人しくなった。以来、クラウンは横穴の縁から遠く離れて、シグルドを渓谷側の盾にする。そうこうするうち、シグルドは途方に暮れる時間さえ失せていた。


 とにかく渓谷に架かる綱は落ち、自力で深さ二〇〇〇メフトの断絶を渡る手段はない。分隊の皆もシグルドの生存を知らないだろう。横穴は岩棚の遥か下、小さな染みのような大きさだ。そこに飛び込んで助かったなどと、例え見ていても信じ難い。


 残した仲間の安否には、実はそれほど不安はなかった。岩棚にいたのが板金鬼ゴブリンだけなら、数こそ多いが、ネルソンの指揮で対処はできるだろう。問題はシグルド自身と、もうひとり。映写盤に映るクラウンを横目にシグルドは溜息を吐いた。


「狼煙を上げるのはどうよ」


 クラウンが断崖を指して言う。シグルドもそれは考えた。恐らく分隊にシグルドの生存を知らせる唯一の方法だ。だが、渓谷の上空には巨人の残した覗蠅フライがいる。生存を伝えたとして、救出に固執した皆を悪戯に危険に巻き込む可能性もあった。


「ここから谷を渡るのは不可能だ。知らせても意味がない」


 反抗するかと思ったが、クラウンは肩を竦めただけだった。さっさと奥に歩き出し、陽の届かない奥を覗き込む。上を向いた傾斜は急で、足下には砂礫が深く溜まっている。所々に粗い岩塊も転がっており、人が歩いて登るのは辛そうだった。


「やれやれ、冒険なんてうんざりだな」

 振り返って口の端を曲げる。

「確かに、捕まって鎖に繋がれるほどの冒険なんて、そうないだろうな」


 シグルドも傾斜を歩き出し、クラウンに向かって皮肉を返した。重甲冑は巨体だが、歩幅は意外と調整が効く。芯の生身も制御は足で行うが、歩くほどには身動きもしない。時折り手を突いて歩かざるを得ないクラウンほどの苦労はなかった。


「近くに、来たもんだから、知り合いを、捜してたら、迷って、捕まった、だけだ」

「近く?」

「この、間まで、ワーデンに、いた」


 苦しいなら口を閉じていればよいものを、クラウンは息を切らしながら話した。シグルドはそれにも呆れたが、内容にも呆気に取られた。この国の者ではないと思っていたが、ワーデンは隣国リースタンの王都だ。近くと言ったが、その尺が違う。


 リースタンは魔術立国だ。ことワーデンの環状都市は、住人のほとんどが魔術に携わっているという。世情は違うがマグナフォルツとも交流は深く、巨人溝の駐屯地にも大勢のリースタンの魔術師が働いている。その外套も実は魔道衣なのだろうか。


「魔術師なのか?」

 そのナリで、と言い掛けシグルドは呑み込んだ。

「リースタン人が、みな魔術師なら、マグナフォルツ人は、みな猟兵だ」


 そのまま斜面に突っ伏して引っ繰り返った。斜面は辛いだろうが、明らかに体力も低い。ぜいぜいと息を整えつつ、クラウンはいじけたように口を尖らせる。

「少し面倒があって逃げ出したが、居たのはそう長くない。まあ、その前も色々だ」


 根無し草だとクラウンは笑った。見くびりも羨みもしなかったが、シグルドはマグナフォルツしか知らず、巨人の住まう北西のノルエッタ首長国を出たこともない。いくら思い返しても、今まで他所の国、他の生き方など意識したことはなかった。


「この国の兵隊ときたら、いきなり監禁だからな。おまえもそうだが、横暴だ」


 いや、それは当たり前だ。シグルドは冑の下で溜息を吐いた。余所者が国軍の厳秘の施設に迷い込む方がどうかしている。そもそもマグナフォルツの北西域に、選りに選って巨人の最前線に入り込むなど、どんな迷い方をすればそうなるのか。


「捜している知り合いとやらは猟兵か?」

「さて確かに戦しか能のない奴だったが、ザハートの奴、今は何をしているのかな」

 シグルドは吹き出しそうになった。それは作戦上の呼称だ。本名のはずがない。


「ザハートが知り合いとは恐れ入った。ならついでにフースークも捜したらどうだ」


 それは童話の戦士と魔術師だ。しかも美姫を攫い魔物を操る悪役だった。歴史の深いリースタンでさえ、そんなものを本名にする者はいないだろう。本気でその名を捜していたとしたら、国軍が疑うのも無理はない。端から迷走している。


「そうだな、それはさすがに間に合ってる」

 口にしてクラウンも気付いたのか、恨めしげにシグルドを見上げて口をへの字に曲げる。立ち上がって外套の土埃を払い、登り斜面を見上げて悪態を吐いた。


 重甲冑の投光器が穴の奥を照らしていた。肩口のそれは広角、狭角が左右に分かれて付いている。前に見える登り斜面はいよいよ急になり、壁の土塊が剥がれて質感が露わになっていた。横穴の全面が目の細かい混凝土で被覆されているようだ。


「排水管か?」


 シグルドの呟きに、クラウンは足下の砂利を蹴飛ばした。靴底を滑らせ、湿った砂利に黒い泥が混じる具合を確かめる。壁側にも跡を探して、首を振った。

「水抜きは別だな。跡が少ない。掘り出した土砂を捨てるための管じゃないかな」


「この先で巨人が穴を掘っていると?」


 クラウンは肩を竦めた。シグルドの声には険がある。猟兵にとって巨人は野獣と同じだ。習性と知性は別物だろう。その点でシグルドが巨人の知性を疑うのも理解はできる。ただ、シグルドの場合は生理的な感覚や捻くれた先入観もありそうだ。


 巨人の身体は技術的に再現でき機械部品だ。人が狩るのはそのためでもある。にも拘らず、理解できない知性を認めるのは拒否している。認めて利権を失うのも嫌なのだろう。とはいえ、クラウンにその良し悪しを断ずる気は、さらさらなかった。


「最初に掘ったのは人の方かも知れないぞ」


 シグルドの目にはクラウンが面白がっているようにも見える。その表情が気に入らなかった。感情の返し方が、どうにも分隊の仲間とは勝手が違う。クラウンを相手に無表情を通そうとしても、妙に焦って言葉に詰まった。咄嗟の反応に迷ってしまう。


「国軍は谷を渡る前に撤退した。それ以前に人が踏み込んだのは一〇年以上前だ」

 むっつりと答えるシグルドに、クラウンは一瞬、呆気に取られた顔をした。

「ああ、そうか、そうだった」


 呟いて、合点がいった様子でひとり頷く。

「俺が捕まったとき、橋はちゃんと掛かってた」

 クラウンは事も無げにそう言った。


「巨人が押し寄せて来たものだから、軍の連中が慌てて橋を落として逃げたんだ」


「落とした、だって?」

 シグルドが呆然と聞き返す。思わず身体が反応して、自走機能を切り掛けた。

「そうそう、ドカンとね。そのとき俺だけ置いて行かれたんだ。酷い話だよな」


 そう言ってクラウンは天を仰いで見せる。そのせいで砂利に足を取られた。


 シグルドの見た橋脚は建設の途上だった。クラウンの言葉が本当なら、板金鬼ゴブリンが橋を作り直していたとでもいうのだろうか。確かに倉庫も整備庫も、放棄したにしては設備、資材が不自然に消えている。それが橋脚の材料になったとしたら。


 だが、そんなことが在り得るだろうか。


 北方探査の以降、国軍が巨人の領域を越えた事実はない。少なくともそれは公開されていない。だが、こうして大裂溝に拠点を築いていた事実がある以上、クラウンの言う通り、巨人の勢力圏に橋が架けられていた可能性は十分にあり得た。


「急だったし、色々やってたから、こちら側に残されたのもいるんだろうな」

「国軍が、ここに?」

「どれほどいたかは知らないな。あいつら、やたら魔術師を集めたがってたが」


「何の戦力にもならないのに?」

 対巨人の前線では、魔術は素手ほどの戦力でしかない。

「まあ、巨人相手じゃそうだな」


 だが、魔術師の役割は後方支援だ。逆に拠点の構築には欠かすことができない。短工期で強固な土木資材、兵装用の特殊素材の生産。そのほとんどに魔術師が関わっている。だが、マグナフォルツの魔術師は層が薄く、隣国に頼るのが現状だ。


「駐留地があるのか」


 シグルドは呟いた。無論、推測にすぎない。あったとしても残存する可能性はほとんどない。だが、国軍が交信の手段もなしに渓谷を渡ったとは思えなかった。もしも先行した部隊の装備が発見できたなら。まだ帰還の術を全て諦めるのは早かった。


「そんなものを探す気か?」

 クラウンが察して呆れたように訊ねる。

「まずは橋脚の岩棚を目指す。そこからだ」


 地上に出る。捜索は橋を渡った場所から始めるのが順当だ。シグルドがそう言うと、クラウンはあからさまに面倒な表情をした。反対こそしないが、寝起きを連れ出されたされたような顔だった。そんなに嫌なら無理について来なくて構わない。


 反射的に言い掛けてシグルドは言葉を呑み込んだ。それでは拗ねているみたいだ。


 この穴の先に何があり、どこに繋がっているのかさえ見当もつかない。地上はまだその先にあり、危険があることだけは確かだ。巨人の勢力圏にあって、生身のクラウンはシグルドに従うほか生き残る可能性がない。それは卑怯な選択肢でもあった。


「まあ、構いやしないんだが」


 構わないらしい。シグルドはつんのめりそうになる。身構えた自分が間抜けに思えた。クラウンが気にしているのは、どうやら別のことらしい。重甲冑の灯火に照らされた横穴の先をじっと覗き込み、辺りを見回してからシグルドを見上げる。


「この土管、まだ使われていると思うか?」


 何を聴くのかとシグルドは意表を突かれた。だが、足許に転がる岩塊を見るうちシグルドも不安になって来る。映写盤を挟んで視線を交わし、少しのあいだ無言が続いた。どちらともなく我先に、二人は真っ暗な穴の先を目指して駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る