第4話 渓谷
岩棚右翼の鉄塔の前にヴィヴィの操る車両が走り込み、崖の縁までその距離を詰めた。渓谷に架かる鋼索は、その位置にあってようやくく吊り元に射線が届く。それを狙うと知る由もなく、堀を這い出た
座席と荷台で怒鳴り合うヴィヴィとアルヴィンの悪態が伝声管の中でも交錯している。投射砲の貫通力は高いが、鋼索の根元はさらに硬い。射撃位置を確保して、的中しても連写は必須だった。その間にも容赦なく巨人のゴンドラは近づいて来る。
ハスロは左翼のシグルドに交換用の蓄動器を放り投げると、足下の寒くなるような崖の縁を廻って二人の車両に走った。施設の大型炉心殻が繋がっている限り投射砲の動力は持つだろう。だが、砲身は消耗品だ。交換と調整には人手が足りない。
車両に向かった機獣を追って、ネルソンとカッセルは戦線の移動を余儀なくされていた。撃退は容易いが、数を相手の追撃は消耗が激しい。だが、巨人の上陸を阻止できなければ、いずれ即時撤退だ。巨人を相手に逃走が可能ならの話だが。
左翼の塔ではただひとり、シグルドが
遠目にクラウンは息を吐いた。ハスロに引き倒された際の土埃を払いながら、手枷から長く垂れた鎖に顔を顰める。せめてこれを何とかして欲しかった。とはいえ皆は取り込み中だ。さすがに今は無理だろう。解放されただけでも良しとしよう。
巨人を載せて迫るゴンドラ。湧き出る無数の
「さて、どうしたものかな」
この辺りは地理も地名もよく知らないが、歩いていれば、そのうちどこかに辿り着けるだろう。幸い、戦闘糧食も懐にある。何ならもう少し掠めて行っても文句は出まい。何せ咎める者が生き残るかどうかも怪しい。騒乱を背にクラウンは踵を返した。
鼻歌まじりに歩き出し、ふと前を見ると
殴るつけるような金属音が鉄塔を震わせた。複数の鞭が宙を薙ぐ、その風音が耳を突いた。蛇が水面を泳ぐように鋼索が渓谷の上を畝って行く。アルヴィンが砲台に突っ伏した。吊元を撃って鋼索の一束を断ち切るまでに二〇射近くを要していた。
鋼索の切先が宙を大きく振れて、
片側の鋼索に残ったのは、動輪と鉄枠、歪んだ背板、そこから突き出た銀の腕。
背板の鋼板が滑って谷底に落ちると、鈍い銀色の巨体が露わになった。
「何の冗談だ」
アルヴィンが呆然と短い台詞を言い切る前に、ヴィヴィは左翼の鉄塔に向かって車両を飛ばした。アルヴィンも慌てて砲身の向きを変え、照準器で残る鋼索の基部を探る。車両に鉢合わせたハスロが荷台に飛び乗った。この砲身の寿命はあと僅かだ。
架橋の鋼索は硬い。吊元に命中しても断線には幾撃も必要だ。焦るなとアルヴィンを諫めるハスロ自身も、冑の下では青ざめていた。間近に迫る巨人に冷静でいられるはずもない。不意に投射砲の連射が途切れ、アルヴィンの悪態が悲鳴に変わった。
伝声管にその声を聴き、シグルドは崖の際の車両に目を遣った。
「八分欲しい」
問うより先にハスロが応えた。砲身の交換とその調整に必要な時間だ。そこにいつもの彼女が見せる余裕はなかった。掛け値なしに必要なのだ。
「シグルド、こいつらを何とかしてくれ」
クラウンの声を聞いた気がする。当然、シグルドは無視した。この状況であの男に構う暇はない。刃先を払って
留まっていればそれでよい。シグルドは構わず鉤綱を鉄塔に向けた。
クラウンはまだ何か叫んでいたようだが、鉤綱を撃つ破裂音に掻き消えた。鉤は宙を抜けて鉄塔の先に絡み、堀の中空に躍り出たシグルドは最大出力で綱を巻き上げる。迫る鉄塔を蹴ってさらに跳ね上がった。重甲冑の巨体が塔の頂に飛び移る。
車両の荷台でハスロは赤熱した砲身を引き剥がした。甲冑を着ていなければ手が焼けているところだ。投射砲を組もうとして、ぽかんと間抜けな顔で空を見上げるアルヴィンに気づいた。何事かとつい目線を追って、図らずも同様に呆気に取られた。
シグルドの重甲冑が鉄塔に立っている。近接格闘が主体の騎体に鋼索の切断に有効な装備はない。せめてもの時間稼ぎだ。それはわかる。だがもうひとつ。シグルドの重甲冑の背中から、出来損ないの案山子のように男がひとりぶら下がっていた。
「マジか」
クラウンだ。手枷から伸びた鎖が重甲冑の背に繋がっている。槍の固定具は強力な磁石と爪状の留め具だ。恐らくそれにクラウンの鎖が噛み込んでしまったのだろう。それはわかる。だが、どうしてそうなったのかが、まるでわからない。
「何故そんな所にいる」
伝声管の皆の声で、シグルドはようやくそれに気づいた。呆れて声が喉を通るまで少し掛かった。声が割れるのも構わず発声管に怒鳴る。映写盤に揺れるクラウンは涙目で何か叫んでいた。あるいは息絶え絶えに喘いでいるだけだろうか。
「高いところは嫌いだ。さっさと降りろ」
シグルドはクラウンを見なかったことにした。巨人はもう間近だ。鋼索の吊元に近づき腕の鎖鋸を押し当てる。火花は派手だが切込みは浅い。本来が機獣解体用の装備だ。硬く固定された鋼索の吊元に重甲冑の切削兵装は貧弱に過ぎる。
初めからわかっていた。それでも何もしないよりはましだ。復旧した投射砲が、せめて射撃数を減らせれば。その僅かな時間が貴重だ。それまでは金属の悲鳴と火花の血飛沫を散らせ続ける。赤く照らされながらシグルドは砲撃の合図を待った。
鋼索を吊る幾重の緩衝具を経ても、巨人の綱渡りは大きくそれを揺らした。巨人が腕を手繰る度、シグルドの足場は揺れる。巨人の綱を引く動作は、僅かに切除の助けにはなる。だが、巨人はむしろ速度を増した。自滅する前に渡り切るつもりだ。
「ほら来るぞ。バナナでも投げてあいつの気を逸らしたらどうだ」
状況も弁えずクラウンが茶化した。思いのほか近く捉えた声にシグルドが後背の補眼を寄せると、惚けた顔が大写しになった。いつの間にか鎖を手繰り、重甲冑の背中に這い上がっている。思わず映写盤から顔を逸らし、シグルドは近いと毒づいた。
また巨人のひと振りでシグルドの騎体が跳ねた。塔から振り落とされそうになる。鋼索の先に目を遣れば、巨人の掌が映写盤を埋めた。あと一度、巨人が腕を巡らせれば鉄塔に届く。悪態まじりのハスロの声からは、まだ投射砲の復旧に至らない。
巨人との距離を目で測る。腰の鉤綱を解放して鉄塔の梁に絡めた。あれを上陸させてはならない。今の七八分隊には、あれに対抗する兵力がない。己の第一義を定めると、シグルドは他のことを考えられなくなった。両膝の圧搾機の内圧を上げる。
「冗談だろ、勘弁してくれ」
巨人に向き合うシグルドの意図を察して、クラウンが悲鳴を上げた。シグルドの耳にその声は届かない。クラウンは慌てて甲冑の背を弄り、しがみつける場所を探して回った。整備用と思しきの把手を見つけるや、手首の鎖を必死に手繰って潜らせる。
シグルドは泳ぐように騎体を捩じった。脛を沈めて身を屈め、鉄塔を踏んで圧搾機の引鉄を引く。塔を登る勢いにも増して、黒山の騎体が跳ね飛んだ。巨人に向かって直線を描く。殴りつけるような衝撃がクラウンの背骨を引き千切ろうとした。
瞬間、クラウンの意識が飛ぶ。圧し潰された胸には悪態を吐く息さえ残らない。間も置かず、甲冑の背に打ち据えられて歯が砕けそうになった。シグルドの狙いは違わず、突き出した両腕の圧搾槍は鋼索を掴む巨人の無数の指に突き刺さった。
宙吊りの巨体が衝撃に大きく揺れる。鋼索が震えて大きく波打った。
鋼索の揺れは続いている。いっそ大きく波打った。亀裂の入った吊元がぎりぎりと悲鳴を上げている。シグルドは巨人の掌を掴み、なおも指を打つ。掴み、打つ。掴み、打つ。左右の腕の圧搾槍で鋼索に絡む巨人の指を交互に刈り取って行く。
巨人が宙に足掻いた腕を振り戻し、
シグルドは中空で身を捩じり、両足を巨人の掌に蹴り込んだ。鉄塔に掛けた鉤綱を最大出力で巻き取り、巨人から離れて岩棚に向かって宙を滑る。巨人が身体を振り、もう一方の手で鋼索に縋った。落ちまいと引いた鋼索に津波のような揺れが来る。
狙いを変えた投射砲は数撃を刻んだだけだったが、吊元はその揺れに耐えられなかった。シグルドは間近に鋼の断ち切れる音を聞き、宙に跳ね飛んだ鋼索の先端を見上げた。シグルドが塔に噛ませた鉤綱に鋼索が絡み、重甲冑の命綱をもぎ取った。
重甲冑の重さが消える。木の葉のように浮いている。シグルドが咄嗟に掴んだのは、切り落とされて畝る鋼索だった。その瞬間、シグルドは人類圏と接触を断たれた。騎体は二〇〇〇
「そんな気がしたんだ」
渓谷を渡る風に嬲られながら、クラウンは重甲冑の背中で達観したように呟いた。重甲冑の手は辛うじて鋼索を掴んでいるが、一方通行の振り子の錘だ。落下の軌跡は弧を描き、底の見えない虚空に速度を増して行く。落ちる、潰れるの二択だ。
崖の縁ではシグルドの仲間たちが呆然とこちらを見おろしている。空気を読まない
間延びした時間の中、耳を聾する風音さえも意識から外れて静かになった。クラウンは騎体の背中で身を捻り、向かいの断崖を覗き見る。このまま鋼索に掴まっていられたとしても、崖に当って潰れて落ちるだけだ。ふと、眼下に小さな印が見えた。
「穴だ、跳び込め」
クラウンの声にシグルドは我に返った。聞こえたというより、後背の映写盤に映るの身振りがそう見えたのか。シグルドが迫る断崖に目を凝らせば、軌跡の先の下ほどに横穴がひとつ空いている。勿論、この距離と速さでは豆粒ほどの大きさしかない。
「無茶を言うな」
シグルドは反射的に叫んだ。叫びながらも鋼索を手繰った。不思議と心は覚めていた。穴の位置は低いが真正面だ。頭上に陰る巨人の重量は反動に使えるだろうか。減速と落下の放物線を頭で描く。騎体が崖の激突に耐えても、実証は一度きりだ。
「ほら、さっさと跳べ。俺をこのまま潰す気か」
勝手に引っ付いて来た癖にふざけるな。シグルドは冑の中で声に出して叫んだ。手繰った鋼索で反動をつけ、騎体を宙に躍らせた。心構えも何もない。迷う間はなかった。遠ざかる巨人の眼がシグルドを追って来る。それを痛いほど意識した。
全ての繋がりと切り離された騎体が慣性で宙を渡る。冑を通して響く笛のような風切音が無意識に溶ける。拡縮操作よりも速い画面の動きにシグルドは今の速度を思い知らされた。眼前の崖に鉤綱を撃ち出すも、激突の刹那は意識が飛んで星を見た。
岩にしがみつく間もあらば、騎体は弾かれて落ちる。崖に突き刺さった鉤綱に引かれ、吸い込まれるように断崖に激突し、また撥ねる。両腕の四基、腰の二基、鉤綱を順に総動員して、終わらない悪夢のようにそれを繰り返して崖を滑り落ちた。
運と反応がひとつでも違えばそれで終わりだ。既に横穴の位置を確かめる余裕もない。騎体はまだその直上に位置しているだろうか。不意に横殴りの飛礫が装甲を叩いた。斜め頭上に巨人がいる。シグルドに向かって千切れて欠けた掌を伸ばした。
迫るそれを横目に見た瞬間、巨人はシグルドを追い抜いて落ちた。視野の陰りに見上げれば、巨人の重みに対向の吊元も弾け飛んだのか、鋼索そのものが蛇のように波打ちながら降って来る。思わず逸らした目の先に黒い小さな横穴があった。
崖に噛んだ鉤綱を爆離し、巻き戻した全ての鉤を打ち込んだ。せめてどれかが地を噛めば。綱が張り、宙で捩れる間にシグルドは鉤綱を引き戻した。騎体が引かれて反転する。上下の見当も失せている。束の間の無重力。両足が砂利を巻き上げた。
跪く姿勢で反動を殺し、砂利に溝を穿ちながら滑った後、引っ繰り返った。
シグルドは眼前に瞬く点検表示を呆然と眺めていた。上に下に、鉤綱が蜘蛛の巣のように突き刺さっている。こうして横穴に座り込んでいることが、まだ実感できずにいた。しばし反応のないシグルドを了承と見做して、甲冑が自己回復を試み始める。
ただ運がよかっただけだ。そう思って初めて全身から冷えた汗が噴き出した。
横穴の丸い開口は断崖の底を覗き込むように俯いている。映写盤に覗き見る渓谷の狭間に、断ち切れた鋼索が落ちて行った。震えるような安堵の息を吐き出して、ようやくシグルドは後背の補眼を不安そうに覗き込むシグルドに気がついた。
「起きろ、寝るな、背中を着いたら俺が潰れる」
重甲冑の姿勢に焦るクラウンの叫び声に、シグルドは思わず小さく笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます