二番線【第五駅 終点】

 ぞろぞろと歩く人の列。散り散りになる人の群れ。花火大会でお馴染みの“パンッ”っていう音でお祭りが終了した。あの花火の名前ってなんて言うのかな、たまに破片が道に落ちてたりするよね。まあ役目が終わったものに興味を持つ人はいない。生まれたと思ったら、一瞬だけ輝いて散っていく。記憶の中でうっすら印象が残るだけ。人生と同じ。人の命と同じ。

“ガラガラガラ”

 花火が終わったあと、人の波に逆らってコミセンに向かった。キャリーケースの存在を忘れそうになった。まあ置いていってもいいんだけどね。でもやっぱり、手放せない。これって未練なのかな。

「ちょっと歩こう」

 無事キャリーケースを回収した。あとは帰るだけ。すぐそこのおみなえ駅に行けば、なんの問題もなく帰れる。駅に着いて、地下鉄に乗り換えて、歩いたら家に着く。それでいいのに、それがいいのに。言葉は正直だった。帰りたくない。喜一と離れたくない。私のわがままなの。約束と紐で結ばれてる未練なの。

 喜一は快く「いいよ」と言ってくれた。いつもそうだったなぁ。私のしたいこと、願い事に対して、当たり前のように笑顔を見せてくれる。本当はどう思っていたんだろう。こういうのって自分から聞くのも、自分で勝手にそう思っているんだろうって決めつけるものじゃないし。やっぱり恋人同士だったら自然とわかるもんなのかな。

「それ持とうか?」

「いいよ別に、重くないから」

 彼の優しさが身に染みる。祭りに行くときに通った道とは違うところを歩いている。これも私への気遣いなのかな。なんて、お姫様と執事じゃないんだから。そんなことばっかり考えてると心が疲れる。今は隣にいる彼に集中しよう。もしかしたらこれが最後だから。

 暗い夜道がずっと続く。街灯は点々としかないし、周りにはなにもない。左側の車道を挟めば民家、右側は草しか生えてない。花一輪ですら咲いてなかった。その奥に線路がある。たまに通る列車の光をみていると、なんだか落ち着く。

 ガタンゴトン。ガタンガタン。ゴトンゴトン。

 列車が通り過ぎたあとは、静寂に包まれる。線路の上を走る音がうるさいからかな。私たちがしゃべる声なんて簡単に消されちゃう。周りの音も、虫の音も、息遣いも。車は全然通らないし、人もいない。まるで私と喜一しかこの世にいないみたい。ふたりだけの世界が広がっていた。だからかな、記憶がじわじわと表に出てくる。

「そういえば、古文の末神すえかみ先生、今年で定年らしいよ」

「まじか、あの先生の授業結構好きだったんだよなぁ」

「わかる! 例文とか出すときにさ、“末神くんはぁ”って言うよね」

「言ってたなぁ。あの人優しいし、厳しくするところはちゃんと厳しいし。二年のときさ、副担だったじゃん。担任より担任してたよ」

「いいねっ!」

「ちょ、担任の口癖……腹がっ」

 担任の先生のモノマネ。当時はクラスのみんなやっていた気がする。なんなら今でも。ちょっと独特な先生だったからあだ名とかいっぱいあったなぁ。いいね先生とかベロシティ先生とか。それにしても喜一がこんなに笑うなんて思わなかった。そんなに似ていた? それとも久々に聞いて面白かったのかな。

 街灯に照らされて影ができる。そのとき見える彼の顔が好き。暗いとよく見えないし、幽霊になってもちゃんとここにいるって確認できるし。マラソン効果じゃないけど、次の街灯に行くまでがちょっとした楽しみだった。自然と足が速くなる。握っている手を大きく振る。全身で感情を表現する。

 気持ちが体を動かして、体につられて言葉が出る。私が喜一と出会ったその日から、写真を眺めるように思い出を話す。移動教室で起きたこと、一緒に登校したときのこと、初めて私服を見たときのこと。些細なことなのに次から次へと話題が出てくる。あれでね、これでね。一年間話せなかったことをこのひとときに詰め込む。楽しくて仕方がなかった。ずっとこうしたかった。新しい思い出を作るのも大事。でも立ち止まって、私たちが歩んだ道を眺めるのも同じくらい大事。初心を忘れると、感謝も忘れる。すべての出来事は当たり前じゃないんだよって自分に言い聞かせる。偶然の積み重ねが私たちを繋いでくれた。

——ありがとう

「玲奈、どうかした?」

「なんでもないよ」

 どのくらい歩いたんだろう。話に夢中になって全然わからない。相変わらず街灯以外に明かりはない。たまに車が通るくらい。ヘッドライトが直接私を照らす。喜一の顔はちょっと暗かった。影がない分、陰が濃かった。またなにか考えてるのかな。心配事でもあるのかな。私には言えないことなのかな。田舎道がより一層ノスタルジックにさせる。

 カランカラン。ガラガラガラ。ズッズッズッ。

 街灯の下で足を止めた。

「どうした?」

 照らされているのは私だけ。喜一は暗がりにいる。今日で最後、いつも後悔していた喜一。でもね、私は気にしてないよ。デートがうまくいかなくても、ちょっとすれ違いがあっても。全部、それも全部思い出なの。私の大切な記憶なの。幸せだった。喜一と一緒にいると、心が暖かくなった。

——幸せなら、態度で示そう。

 無言で喜一の手を引っ張った。ぎゅっと強く抱きしめた。顔を埋めて、喜一を感じて、感謝を伝えるように。ふたりで街灯に照らされる。喜一は驚いていたけど、ゆっくり手をまわしてくれた。ちょっとだけ、あとちょっとだけ。普段恥ずかしくてできないから、今だけでも。

「ありがと」

「こちらこそ」

 街灯直下の恋人たち。彼に影がなくても構わない。私の影を貸してあげる。

「よし、これで満足」

「急に止まったからなにかと思ったよ」

「ごめんって。あ! 喜一あそこ! なんか光ったよ。ほたるかな。さっきから黄色い光が見えてるんだけど」

 小さな光がぽわっと出て、しゅんっと消える。はっきりとしたものじゃないし、最初は見間違いかなって思っていたけど、今光ったのはちゃんと見えた。ほたるってこの時期だっけ。夏の夜ってイメージがある。

「え、見えなかったなぁ。玲奈、もしかして花と見間違えた?」

 もう一度見てみる。けど花と見間違えるどころか、そもそも花が咲いてなかった。そこには薄暗い草むらしかない。

 ちょっとした沈黙が生まれた。「まあいっか」とお互いに頷いてまた歩き出す。多分だけど、もうそろそろ駅に着くと思う。遠くに見える光が多分それ。そう考えると急に寂しくなる。やっと盛り上がってきたのに、もう終わりだなんて。でもどうしてかな、足は速くなる。心も幸福に包まれる。鼻歌も自然と出てくる。時間を代償に、幸せを得る。じゃあ時間が欲しいならどうしたらいいかな。あ、そっか……。

「次は流れ星が見たいなぁ」

「きっと見れるよ。玲奈だからね」

「なにそれ、屁理屈へりくつ

 

   ◯


 駅の中に入っても、だれもいなかった。駅員さんもいない。無人駅ってやっぱあるんだね。ネットとかテレビで見たことあるけど、実際に来たのは栂坂駅が初めてかも。ちょっと楽しい。

 蛍光灯でやっと喜一の全身が見えた。髪も顔も服も、一年前と同じだった。多分、事故があったときにこの服を着ていたんだね。私とデートするために買ってくれたんだね。新品そうな服とこれまた新しい靴を見て微笑む。

 券売機で都心の駅までの切符を買う。画面に駅名が大きく映っていた。利用者が多いからかな。カランッとお釣りが出てくる。それを財布にしまって、喜一に切符を確認してもらう。間違ってたらせっかくの雰囲気も台無しだからね。さて、あとは時間を確認して……確認……。

「ねぇ喜一、これどうやって見るの?」

 左右で時刻が違った。特急とか快速とか書いているものもあった。よ、読めない。初見でわかる人なんているのかな? 来るときは電光掲示板を見てホームを探した。迷ったけどちゃんと“おみなえ駅行き”って書いてたもん。なんとか線とかなんとか方面って言われても頭が混乱するだけ。地方の人ってすごいなぁ。

 喜一が言うに、あと十五分くらいで列車が来るらしい。終電のひとつまえの列車。それが来ちゃったら私たちはお別れ。時間はもうない。恋人の十五分なんて当てにならない。ちょっと話しただけでも一時間経っているのに、十五分だったらひと言言ったら終わっちゃう。いっそのこと時間が止まっちゃえばいいのに。そうしたらずっと一緒にいられる。

“カタン”

 妄想はやめろって言わんばかりに、時計は無機質に動く。

「もう入ってようか」

「え、でも……」

「俺幽霊だから切符必要ないよ。ホームにベンチがあるからそこに座ろう。最後まで見送らせて」

“カッシャ”

 改札機に切符が通った。穴が開けられた。もう後ろには引き返せない。

 駅のホームは開放的で、線路を挟んで向こう側に私が降りたホームがある。こう見ると本当に狭いね。ホームとホームの隙間には星空があった。流れ星落ちてこないかな。三回唱える準備はできてるよ。早くおいで。

「玲奈、こっち」

 喜一に呼ばれて歩き出す。よく映画とかで見るパステルカラーのベンチがあった。それに座ると自然と息が漏れた。結構歩いたもんね。久々の運動だよ。ちらっと隣を見る。喜一は大丈夫そうだね。幽霊だからかな。……本当に幽霊なんだね。

 改めてその事実を認識する。現実が体に入ってくる。さっきまで楽しく話していたのに、今はなんて声をかければいいのかわからない。ありがとう? ごめんね? またね? どれも違う気がする。喜一との約束を守るために尾美苗おみなえにやってきた。それが私の幸せだった。椿さんが言っていたことを考えたけど、やっぱり私には喜一が必要。それは今も昔も変わらない。それをなんて言葉にしたらいいのかな……。

“二番線、普通列車がおみなえ駅を発車しました”

「そういえば、コンクールってこの時期だよね。どんなの描いたの」

「あーあれねぇ。私は好きなんだけど多分佳作にもならないんじゃないかなぁ」

 沈黙を喜一が消してくれた。そこからはいつもの私たちだった。さっきの静けさが嘘みたいに花が咲く。たわいもない話でよかったんだ。私たちはそれで十分だったんだ。もっと早く気づいていたら、たくさん話せれたのに。ちょっと後悔かも。

 盛り上がったのも束の間、遠くのほうに光が見えた。

「もう来たか」

「早いね」

 これで最後。喜一と会うことはもうない。胸が苦しい。喜一が死んでから一年経って、やっと気持ちが整理されたのに。再会して、デートして、絆を深めて。ここから私たちは歩き出すっていうのに、それを許してくれない。こんなに苦しいなら、いっそのこと会わなかったほうがよかった。どうせすぐ会いに行く予定だったから。神様の意地悪。

“キーキー”

 列車がホームに入ってくる。白線の内側で待つ。窓から漏れる光がチカチカと私を照らす。そしてついに列車が止まった。

——嫌だ。

 ドアが開いて、閉まる。開閉するための空気の音が響く。列車はだれも乗せないでそのまま走っていった。足元に映る光が左へ流れていった。そしてまた、暗闇に戻った。

 わかってる。わかってるよ。喜一を困らせるって。でも、このまま帰りたくない。気持ちを伝えたい。もっと喜一と一緒にいたい。結局最後の最後まで自分勝手で振り回しちゃったけど、胸に残っているやるせない気持ちは喜一も同じだと思う。これをどうやって言葉にしたらいいの。考えてたはずなのに、いざとなると喉に詰まる。最終便の時間まで刻一刻に迫っている。ちゃんと言う、言うから、せめて終電までは恋人でいさせて。

「いいのか?」

「まだ終電が残ってるし大丈夫。もうちょっとだけ」


 次が最終便、大人だったらどんなによかったことか。朝までぶらぶらしててもいいし、車があればどこにだって行ける。喜一がいなくなるその瞬間まで一緒にいられる。高校生っていう縛りがもどかしく感じる。

——気持ちを伝えないと。でもこれを言ったら……。

 言いたい言葉がある。言ってはいけない言葉がある。言いたくない言葉ばっかり頭に浮かんで自分に正直になれない。“さようなら”って言えばすべてが丸く収まる。終電に乗り込んじゃったらもうなにも考えなくていい。ただ列車に身を任せて運ばれていればいい。頭だったらわかっているのに、それを“真心”がひどく拒絶する。

——どうしたらいいの……。

 千奈さんが言ったように、私はまだ未熟なんだ。現実が近づいているのがわかる。言いたいことも、言わなくちゃいけないことも、結局なにも言えない。沈黙のままお別れなのかな。そう思うと涙が出てきた。口を開いたら涙ぐんでうまくしゃべれない。情けないな……。これじゃあ喜一も成仏できない。約束も果たせれない。神社で盃を交わしたはずなのに、決心したはずなのに……。

 私が求めていた幸せは喜一と一緒にいること。この先もずっと笑い合うこと。ロマンチックな妄想に逃げて現実から目を背ける。そうでもしないと、とても心がもたない。想像以上に幼いんだね私って……。

“カカンッ”

 蛍光灯が点滅する。小さな蛾が蛍光灯の周りを飛んでいる。ぶつかっても跳ね返されても、一心不乱に光を求める。飛んで火に入る夏の虫。普段こんなにまじまじと見ないのに、今日はなぜか見てしまう。自分の姿と重ねてしまう。

 虫の音と車の音が聞こえる。下を向けば白線がある。浴衣が擦れて音が鳴る。そんな些細な音でさえホームに響く。

——だめだよ……もう……。

 向かい側のホームを見た。今日、あそこで再会したんだ。懐かしいな。あのときの私は想像できたのかな。今日起きた日常のような非日常のことを。恋人になにも言えない惨めな私を。

 キャリーケースを持っている手にぐっと力が入る。悔しい……悔しいよ……。結局このままなにも伝えられないで別れちゃうのかな。手に持った切符を破り捨てる準備はできている。喜一に抱きつくのもできる。あとはひと言言うだけ。「一緒に行こう」って。喜一が「行かないで」言ってくれたら、すぐに飛びつくのに。っと喜一を待っている自分がいる。

 思考は堂々巡り。自分から言う、相手から言って欲しい、でも自分が言わないと、でも迷惑になるし。生産性のない負のスパイラルに入ってしまった。情けないな……。目から涙が溢れる。声を出さないように、喉の奥を締め付ける。それでも涙は頬をつたって、ゆっくり地面に落ちた……。


「泣かないで」


 はっとして振り向く。そこには春風のような涼しい笑顔の喜一がいた。私の頭に手を置いて軽く撫でる。幽霊とは思えないくらい、温かくて暖かかった。慰めとして渡された言葉は涙腺に涙を走らせた。

「もっと泣いてどうするのさ。しょうがないなぁ。気が済むまで泣いていいよ」

 迷いひとつない純粋な声。さっきまでの苦悩が嘘みたいになくなった。安心し切ったせいで涙が止まらない。

 喜一はそのまま私を抱きしめた。

「玲奈の言いたいことは全部わかるよ。彼氏だからね」

「喜一……」

 ラズベリーの甘い香りがする。ああ、これだよ。私が感じていたもの。疲れたね、頑張ったねって、言葉じゃなくても伝わってくる。死んだあとでも、迷惑かけちゃったね。喜一はずっとそうだった。今日であったとき、ううん、私と出会ったときからずっと私のことを見ててくれた。私を喜ばせようと努力してくれた。新しい服と靴、整った髪の毛、優しい吐息、“真心”が映る瞳。私は幸せ者だ。愛をもらったから。今までの私は一方通行の“好き”だったんだね。相手のことを思う、それが“愛”なんだね。

 私もちゃんと応えないと。


 「さようなら」か「一緒に行こう」のどっちか。


 ここにきてまた悩む。喜一がいたおかげで白黒だった人生は彩りを取り戻した。もしも、あのとき帰る時間が少しでも違ったら、私は人間として死んでいた。なにもやる気が起きない。好きな絵も描けない。人生の目標もない。機械的に学校に行って、ありきたりなことをして、ひとりぼっちになっていた。大袈裟かもしれないけど、喜一は私の命の恩人なの。辞書に書いている言葉や、映画やドラマのセリフで表現できるようなものじゃない。もっと大きくて深くて、“真心”に強く根付く花。それを彼に渡したい。「一緒に行こう」って言いたい。

 でもそれが迷惑なのもわかっている。喜一は死んでいる。一緒に行けるかもわからない。喜一のことだから、優しすぎて申し訳なく感じると思う。だから「さようなら」って言わなきゃいけない。

 どっち……どっちなの……。私はどうしたいの……。喜一に? 喜一を? 喜一と? “真心”に咲いた花は見方によって大きく異なった。絡まった紐みたいに、一本引き上げれば余計なものもついてくる。

“まもなく、列車が到着いたします。白線の内側までお下がりください”

 急かすように、自動音声のアナウンスが入った。あと一分もしないうちに列車が到着する。なにをしてもこれが最後。なのに私ったら……。

「玲奈、俺はどこにも行ったりしない。玲奈のことも忘れない。ずっとそばで見守っている」

「喜一……私……」

「うん、大丈夫。だから、玲奈の好きな絵を描いてほしい。人生っていう大きなキャンパスに。約束だよ」

「うん……! 約束、絶対だから」

“シャーン”

 鈴の音が鳴った瞬間、列車が勢いよく入ってきた。風が髪の毛をさらう。窓から漏れる光が“私たち”を照らす。


 逆光になったふたりのシルエットはひとつになる。


「今乗って……」

「花火のお返し」

 大丈夫、もう迷わない。そもそもあの二択が間違っていたんだ。考える必要はなかったんだ。喜一と交わした新しい約束が私たちを繋いでくれる。たとえ、もう二度と会えなくてもこの約束が背中を押してくれる。大丈夫、怖くない。

「そのキャリーケース、私には必要ないから喜一にあげるね」

 列車が完全に止まってドアが開く。後ろ髪が引かれるけど、行くしかない。一歩、また一歩と列車に近づく。頭の中に“別れ”の文字が浮かんでくる。喜一はどんな顔をしているかな。泣いてる? 微笑んでる? 列車に乗ったら振り帰ろう。最後くらい笑顔で……。

「玲奈……!」

 ちょうど列車に乗ったそのとき、名前を呼ばれた。さっきまでの落ち着いた様子じゃない。声に反応して背筋が伸びた。パッと振り向いた。喜一を見つめた。

“ドアが閉まります”

 喜一は泣きそうな顔をしていた。ちょっとでも触れれば全部溢れてしまいそう。大きく息を吸って言の葉を叫んだ。


「強く生きて!!」


 ドアが閉まった。窓に手を当てた。喜一の目を見た。列車が動き出した。喜一の姿が見えなくなった。

 目の前が霞んで立ってられない。窓ガラスにしがみついて、つぶやいた。

「ありがとう……またね」

 

   ◯


 残された俺はベンチに座った。玲奈が残したキャリーケースを隣に置いて、ふーっとため息をつく。

 蛍光灯に虫が集まり音を立てる。最近新しくなった自動販売機が保冷している。ひとりになった瞬間、話周りの音がすべて雑音となり、とりわけ耳に入るものはなかった。彼女と別れた実感も湧かなかった。友達と遊んだ帰りのような、気持ちいい疲労を感じる。幽霊でも疲れるんだな。このまま目を閉じれば成仏できそう。そう思ってゆっくり目を閉じた。一瞬にして真っ暗になり、瞼の裏に奇妙な模様が映る。まるで生きているみたいだ。

 なにもない。なにも見えない。そんな暗闇の片隅で花が咲いている。段々と鮮明になってきて頭の中を埋め尽くす。相引玲奈。俺の恋人だった人。かけがえのない人。俺の人生に花を与えてくれた人。出会ってから今日にいたるまでの思い出を振り返った。どのシーンを切り取っても彼女は笑顔だった。そのさまを一枚の絵として額縁に収めてある。ひとつとして忘れたことなんてない。絵の具で汚れた彼女も、一緒に弁当を食べる彼女も、アサガオ柄の浴衣を着た彼女も。大好きだった。

“私には必要ないから”

 さっきまで気にならなかったけど、こうも目の前にあると心がざわつく。開けちゃだめなんて言われてないし、あげるってことは俺がどう扱ってもいいってことでしょ。これで中身が気にならない人はいない。あ、俺幽霊だった。

 キャリーケースを自分の前に持ってくる。案外軽い。なにも入ってないんじゃないかと思ったけど、中でなにかが揺られる音がした。伸びた取っ手をしまって横向きにする。トランクと同じやり方で左右に付いている金具を上にあげてロックを解除する。いよいよご対面。緊張と好奇心で心臓はバクバク。一旦落ち着くために深呼吸をする。よし、開けるか。固唾を飲んで、恐る恐るそれを開ける。

「これは……」

 キャリーケースの中には、今まで俺が玲奈に渡したプレゼントやデートで行った場所の記念品があった。手紙やパンフレット、映画のチケットなどは散乱しないようにまとめられていた。アクセサリー系も同様に。玲奈がもう必要ないと言った理由がわかった気がする。玲奈の出した意味不明なヒントの解釈かいしゃくも。

 細かく見てみると、俺がなんにもない日にあげたお菓子の箱が入っていた。その箱には“部活頑張れ”としか書いていない。ただのゴミなのに、写真を撮るでもなく、現物を残していることにじんとくる。

「まったく、玲奈らしいな」

 ひとつひとつ丁寧に目を通していく。ここにあるものすべてが思い出のかけらだった。俺が生きていた証だった。

——本当に大好きなんだな。玲奈も俺も。

 キャリーケースの中に入っていたものはあらかた確認した。せっかくだから最初と同じように綺麗にまとめようとすると。内側のポケットに膨らみがあった。手を伸ばしてみるとなにかあった。慎重に取り出してみると、綺麗にふうをしてある手紙だった。

 しかしそれに見覚えはない。俺が」渡したものじゃない。それに開封もされてないし、真新しい手紙だった。裏返してみると角に小さく“喜一へ”と書かれていた。

「俺あて?」

 封を切って中を取り出す。そこには手紙とラミネートされてるアサガオの絵が入っていた。折り畳まれた手紙を広げて読んでみることにした——


 “喜一へ

 急に手紙渡されて困ったでしょ。私も今とてもドキドキしてます。字汚いから読めなかったらごめんね。

 今日は旅行最終日です。どうでしたか? 一番の思い出はなんですか? これを書いているのは旅行まえですが、私はとっても楽しかったです!! っというでしょう。実際に聞いてみてください。

 喜一と付き合ってもう一年が過ぎました(はやい!)。喧嘩したり、泣いたり、笑ったりいろんなことがあったけど、やっぱり喜一と出会えてよかったなと思います。

 そんなささやかなお礼としてパスケースとしおりを用意しました。このしおりは定期券と同じサイズなのでパスケースに入れたり、本に挟んでも大丈丈夫です。

 馬鹿で不器用で、想像以上に消極的しょうきょくてき。そんな君を好きになった私も馬鹿な女です。喜一はだれよりも優しくて人に寄り添うことができる。これは簡単なことではありません。そしてなにより、私の生きる意味を見つけてくれました。今こうして絵をかけているのは、絵が楽しいと感じているのは喜一のおかげです。

 打ち上げ時刻に間に合わなかった去年の花火大会、絶対リベンジしようね。

 夏休みが明けたら、また一緒に帰ろうね。

 やりたいことはたくさんあります。ほかのだれでもなく君と一緒にいたい。だからなにがあっても私は君のそばにいます。約束だよ。

 こうして一年間一緒にいれるなら何年経ってもきっと大丈夫だね。私の人生に花を咲かせてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。大好きです。

 玲奈より”


 この手紙を読み終わったころには、俺は声を出して泣いていた。手紙を持っていないほうの手で涙を拭く。しかし拭いても拭いても治らなかった。

「ありがとう……ありがとう……」

 一緒に行くはずだった旅行。もし俺が生きていて玲奈と旅行に行ってたなら、同じくらい号泣していたんだろうな。文字を見れば自然と玲奈の顔が浮かぶ。声が聞こえる。暖かみを感じる。こんなサプライズ用意していたなんて。本当に困っちゃうな。

 紙に書かれたひと文字ひと文字が染み渡る。自分の存在をこんなにも認めてくれる人はいるだろうか。月日が経っても変わらぬ想いを抱いている人はいるだろうか。約束だからとか、付き合っているからとか、そういった義務感を一切感じさせない。彼女にとって約束は束縛じゃなく、自分自身への決意を、相手への愛を示すものだったかもしれない。この手紙や思い出がそう確信させる。心臓が熱くなる。まるで生きているみたいだった。

 いつか会ったら、この手紙の返しを送ろう。“真心”に咲いた言の葉を目一杯詰め込んで。



 それからどれだけの時間が過ぎたんだろう。なんどもなんども読み返した手紙は少しよれてしまった。大事に畳んで封筒にしまう。そしてその封筒を眺める。また浸る。

 周りはまだ暗い。心なしか女郎花の量が増えているような。というか、そもそも女郎花なんていつ植えたんだ? 去年や一昨年おととしはなかった気がする。祭り会場にも、玲奈と歩いた道にも咲いていた。尾美苗おみなえ市がそういうプロジェクトでもしているのかな。

“フォーン”

 すると突然、どこからか汽笛が聞こえた。上り線の列車が来る右側を見てもなにもない。まさかと思って反対側に目を移した。そんな……あれは……。遠くにライトが見えた。車の光でも街灯でも、ましてや女郎花でもない。まぎれもない列車のライトだった。徐々に大きくなって眩い光を放つ。そして俺がいるホームで停止した。ここは上り線、左側から列車が来るわけがない。それだけじゃない。明らかに現代の列車じゃなく、古い車両の二両編成だった。普通に考えるなら逆走ぎゃくそうだけど、もうすでに納得していた。

“午前二時二十二分”

 キャリーケースの取っ手を持つ。もう片方の手には玲奈からの手紙を握る。俺も行こう。その顔にはもう涙はなく、清々しい表情だった。

“プシュ”

 ドアが開いて、一両目の一番端から中へ入る。一両目の客は俺以外いないらしい。すぐには座らず進行方向とは逆を向いてぼーっと外の景色を眺めていた。

“ドアが閉まります。ご注意ください”

「じゃあな」

 ドアが閉まって、列車が動き出す。街灯や民家が俺の後ろから登場して奥に消えていく。上り線のほうは毎日利用していたから慣れている。けど下り線方面は久しぶりで、見慣れてない景色に胸が躍る。中学校まで地元の学校だったから、外の世界に興味があった。だから高校を選ぶときの最低条件は都心の学校だった。毎日通って、友達とも遊んだ。知り尽くしていたと思った俺の世界はこんなにも狭かったんだな。地元ですら新境地になる。

 しばらくして席に座った。一番ドアから近い席だ。キャリーケースを隣に置いて一緒に揺られる。古い列車だから心配していたけど、案外揺れも少ない。レトロな雰囲気もあって心地もいい。

「楽しい人生だったな」

 手に持っていた手紙を両手で包み込む。まだほんのり暖かい。撫でるように手を動かすと、玲奈の顔が脳裏に浮かんだ。大丈夫、きっとまた会える。

 ふと二両目を見る。あ、乗客って俺だけじゃないんだ。ここからだとはっきり見えないけど、男女ふたりが奥のほうに座っている。制服を着ているし、学生なのかな。学ランと帽子を被った青年。おさげをたらした女性。椿の香りが漂ってきて、列車内は竹林の中にいるみたいに解放感がある。

「まさかね」

 外の景色は次第に見えなくなり、トンネルに入ったように暗くなった。ゆっくり目を閉じて“真心”に身を任せる。眠りに落ちるみたいに、次第に意識は遠くなった。そして列車が闇に消えたのが感覚でわかった。

 片道切符を片手に、終点を目指す。

「ありがとう、玲奈」



“最終列車、発車しました”

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