【第四駅 縁】

「いたたた……ん? なにこれ……ってここは……」

 勢いよく神社の境内に入ってバランスを崩す。前から倒れる瞬間、痛いのを覚悟していたけど、全然痛くない。ちょうど手のあたりになにか感触がある。ゆっくり体を起こして見てみると、一面が草花くさばなで埋め尽くされていた。どういうこと? 私は神社に入ったはず。尾美苗おみなえ神社に来るのは初めてだけど、境内が草原なんてことあるのかな。街灯や電柱はない。それどころか周りの建物すら見当たらない。目の前にはひたすらに草原が広がる。そもそもこんなに敷地が広いわけない。なにかおかしい……。

 風が吹いて草が揺れる。ところどこと背の高い花が咲いている。それは月明かりに照らされて黄色く輝いていた。

「女郎花……。それじゃあ、ここのどこかに喜一が……!」

 右隣すぐにある鳥居を見上げた。お祭りに行く途中に見た鳥居と似ているかも。そう考えると、ここが尾美苗おみなえ神社なんじゃないかって思えてきた。近くに寄ってみると、石段いしだんの隙間に小さな花が咲いているのが見えた。ゆらゆらと揺れている姿がかわいい。周りを確認しながら、一段一段ゆっくり登っていく。裸足だから地面が冷たい。草が足に当たってくすぐったい。

 石段を登って、鳥居をくぐる。開けた場所の奥には本殿があった。

「ここが……尾美苗おみなえ神社」

 本殿周辺は草むらになってなかった。見た感じ普通の神社だった。石畳いしだたみと砂利、灯籠、お守りを販売している建物があった。そしてここにも女郎花がポツポツと咲いていた。まるで人の気配がない。それどころか、鳥や虫、列車の音も聞こえない。鳥居をくぐってから風がパッと止んだせいで、奇妙な静けさに包まれている。お化けとか出てきそう。もしかして私、神隠しにあった?

 恐怖で体を縮める。それでも一歩ずつ確実に歩いていく。きっといる。絶対にいる。

「喜一! どこにいるの!」

 叫んでも返事はなかった。どこを見ても喜一はいなかった。神社の中央で立ち尽くしていると、本殿に目がいく。なんでだろう、あそこに行きたい気がする。そんなことしている場合じゃないのに強く引かれる。その好奇心は神頼みと理由をつけた。そして本殿に向かって歩き出す。

“カラン”

 触る前に風でなびいて鈴が音を鳴らす。いつもの習慣でお賽銭を入れようと賽銭箱に近づいた。ん? なんだろう、なんか変。その物陰が怪しく膨れていた。怖い、けど気になる。十分に距離をとって、恐る恐る賽銭箱の裏を見る。そこにいたのは喜一だった。

「喜一! やっと会えた! 私ね、謝らないといけないことがあってね。ここまでくるのにいろんなことがあって、でも約束だからって……」

 言葉に反応しない喜一はしかばねみたいだった。目を見開いて焦点が合っていない。賽銭箱にもたれかかっている背中は丸まっていた。頭や腕は重力に任せてたるませている。嘘……まさか事故当時そのまま……。いや、そんなわけない。目の前にいるのは喜一。それは間違いない。でも精気がなさすぎて頭が喜一と認識するのを拒んでいる。まるで捨てられた人形みたいに無機質だった。捨てたのは……。

 しゃがんで喜一と同じ目線になる。肩に触れて顔を近づける。やっぱり喜一だ。やっと頭が追いついてきた。もう二度と会えないと思っていた。あんなこと言いたくなかったのに、喜一を傷つけたくなかったのに。そんな後悔がずっと残っていた。胸の底から湧き出る感情が目から溢れる。

「ねぇ喜一。私だよ、玲奈だよ。君に会いに来たんだよ」

 かすかに口が動いた気がした。空気を漏らす音は声になりきれてなくてわからなかった。なにか言いたいのかな。顔に花を咲かせたまま喜一に「ん?」と聞いてみた。すると、唇をの動きを最小限にして言の葉を一枚取り出す。


「俺は死んだ……」


 風が止んだ。周りは音を立てることなく、まるで私の発言を待っているみたいだった。高まる緊張感に笑顔も崩れる。それ以降、喜一がしゃべることはなかった。また元の人形に戻った。一瞬、身を引いた。せっかく会えたのにまだなにも話せてない。たくさん走って、いろんなところを探して、やっと見つけたのに、今度は言葉が行方不明だ。今ここで「好き」って言うのも、「会えて嬉しい」って言うのも違う気がする。喜一にまとわりつく闇を払ってあげないと。約束だから。

「そ、そうだよ。でも今こうして会えてるから大丈夫」

 手を伸ばして触れようとする。けどその手は空振りに終わってしまった。そこに喜一の姿はなくて、煙のように消えてしまった。

 え……そんな……嘘よ……。絶句した。悪寒がした。身が震えた。身構えるように立ち上がって名前を叫ぶ。なんどもなんども叫ぶ。それに反応することはなかった。境内を駆け巡って彼を探す。本殿の横、灯籠の裏、お守りを売る建物。額に汗をかいて走る。頭を左右に振って喜一を探す。

 建物の入り口や窓はどんなに力を入れても開かなかった。人はいないとわかっていても声をかけた。だれかいませんか! 私の……大切な人が……。その訴えも虚しく、無人の神社に響いただけだった。お守りを売る建物のドアに拳をつけたまま、ゆっくり膝を落とした。諦めと悲しみで心臓の音も聞こえなかった。約束、約束……。私は結局、なにも守れなかったのかな。涙が出ないくらい、諦めてるのかな。

 ふと女郎花が脳裏に浮かんだ。そうだ……もしかしたらあそこに……! はっと頭を上げて鳥居のほうを見る。もしかしたら向こうにいるかもしれない。落ち込むのはまだ早い。喜一に会いに来たんでしょ私!

 自分で自分を鼓舞して全力で走った。

“ボオン”

 鳥居をくぐろうとすると目に見えない壁に弾かれた。叩いても波紋が広がるだけでそれ以上に進めない。なんで……なんで……。どこを探しても喜一が見つからない。それどころかここから出ることができない。万策尽きたと理解したとき、焦りを感じた。

「やっと……約束が果たせたと思ったのに」

 見えない壁にもたれかかって、ゆっくりと腰を下ろす。参道の真ん中に座り込むなんて罰当たりだね。焦燥感が虚無感に変わる。鼓動は感じるけど、ぽっかりと穴が空いたような無気力に襲われる。足を揃えて自分のほうに引き寄せる。小さく縮こまって体育座りをする。少しでも寂しさを和らげるように。

「私のせいなのかな——」


『まあもしもがあるからね。一応話を聞いてるんだよ』

 喜一が死んだあと、案の定私に事情聴取がおこなわれた。警察は自殺の可能性を視野に入れているらしい。そしてその原因が私あると決めつけて話が進んだ。

『束縛なんてしてません……』

『そういうところなんだよ最近の若い人って。どうせ気づいてない間にやってたんじゃないの? ほかの女の子と話しちゃダメとか、履歴を確認するとか。そういうのやめたほうがいいよ』

『だからしてませんって……』

 気だるそうに話す警官は事情聴取というより拷問に近い説教だった。ときどき挟んでくる元カノの話が無性に腹がたった。自分の恋路こいじが脱線してんだろうね。でもだからって……。

——私に当てつけてなにが楽しいのさ。

 そのあとも長時間にわたり椅子に座らされた。在学中に喜一は一度、自殺未遂をしている。それを止めたのは私なのに。


 結局自殺の理由はわからなくて、『人生に疲れていたから』と適当に処理された。

 恋人を亡くしたうえに、自殺に追い込んだ彼女っていうレッテルを貼られた。上から叩かれて痛めつけられたのに、それに対する謝罪なんてなかった。望んでもいないけど。胸に残るのはやるせない思いだった。

『私のせいなのかな——』


“チリーン”

 目を覚まさせるように、鈴の音が響いた。はっと目を開けて頭を上げる。もちろん周りにはだれもいないし、なにもなかった。でもその鈴は確かに私に届いた。忘れていたものを呼び起こしてくれた。喜一と交わした大切な約束を。

「そっか……そうだよ。黙ってたってなにも伝わらない」

 力強く立ち上がった。もちろん不安はある。けどそれで立ち止まるなんてしない。境内の中央に向かって一歩ずつ確かな足取りで歩いていく。心臓がドキドキしている。本音を話すのはいつになっても緊張する。“真心”をさらけ出す出すのはこれが最初で最期。喜一に届くように、目一杯想いを込めよう。


 境内の中央で止まって、周りを見渡す。やっぱり喜一はいない。

——私の想いを届けなくちゃ。

 深呼吸をして胸を撫でる。大丈夫、大丈夫。私たちは繋がっている。今日会えたのもきっとそのおかげ。約束は目には見えないけど、心に残る。それは束縛なんかじゃない、そうそれは……。

 喜一のミサンガに触れる。ほのかに暖かい。たくさんの思い出と想いが詰まったミサンガ。私のミサンガも同調して熱くなる。今しかない、今言わないと。決意を固めて、ゆっくりと自分の言葉を出していく。

「私ね、正直言っていつから喜一のこと好きになったのかわからないの。でもだんだんと喜一を意識するようになっていた。話したと思うけど、喜一ってすごくお母さんと似てるんだよ。雰囲気というか感性というか。だからどうしたって思うかもだけど。私は君に救われたんだよ」

 どこにいるかわからない喜一に向けて言の葉をばら撒いていく。私を中心に少しずつ範囲を広げていく。

“カタンッ”

 後ろのほうで音がした。まさか……。反射的に振り返ると人影が地面に映っていた。人物本体は見ていない。月明かりに照らされてできた影が不気味にあるだけだった。喜一……? 半信半疑でゆっくりと近づく。一歩進めば、影は一歩遠ざかる。その距離は縮まることはなかった。目の前にいるのに届かない。もどかしい気持ちにさいなまれる。

 立ち尽くして地面を見ていると、声が聞こえてきた。

「どうして……どうして俺なんだ? 才能も思いやりも金もなにもない。見窄らしいていたらくで君なんかと釣り合わない。夢がある君とは大違いだ。俺に君の彼氏を名乗る資格なんてない」

 小さな声だった。消えてしまいそうな声だった。これが喜一の本心なのね。付き合って約一年の間、彼が抱えていた苦悩くのうの一部であり核が目の前にある。喜一が生きているときに、気づいてあげられたらよかったのに……。

 また境内が静かになった。木々も本殿も砂利も女郎花も。ときが止まったみたいに形だけ残して抜け殻になった。風も吹く気配がない。どんよりとした空気が私と影の間を埋め尽くす。肩にかかる重圧に押し潰されそう。気軽に声を出したら、なにもかも崩れてしまう。無責任に「大丈夫」なんて言えない。喜一が自殺しようとしたときと似た空気を感じる。

 ふっと息を吐いて心を整理する。うん、間違いない。そこにいると思う喜一の目を見る。“真心”から取り出した言葉の矢を手に持ち、約束という弓を目一杯に引く。

「夢追いがすべてじゃないよ。喜一は馬鹿で真っ直ぐで、自分のことは二の次で。必死でバイトして貯めたお金を私のために使ってくれて。暑い日も寒い日も、大丈夫って心配してくれて。私の喜びも悲しみも自分のことのように感じてくれる」

 十分に引かれた弓はしなりにしなって月と重なる。そして手を離すと同時に一直線に飛んでいった。


「喜一は私に生きる意味を与えてくれた! 君じゃなきゃダメなの! 大好きだから!!」


 息も絶え絶えになって想いをすべからくぶつけた。その瞬間、月の明かりが妙に強くなった。放心ほうしん状態の私は無意識に月を眺める。さっきまでか欠けていた月は満月になっていた。到底現実では起こりえない現象、いまさら疑問なんてない。ただ美しいという感情が湧き出てくる。

 なんでかな、懐かしいって思うの。喜一が告白しようと声をかけてくれたあのときの空を思い出すの。星は見えなくて、ただそこには大きな満月が浮かんでいた。美術部の友達と綺麗だねって、こういうの描きたいねって話していた。校門にいた喜一の顔は夜だしちゃんと見えなかったけど、月明かりに照らされた彼は普段よりかっこよく見えた。そのとき、やっぱり好きだったんだなって思った。一緒にいたいって思った。今でも月夜の告白が一枚の絵として残っている。


「「綺麗だ」」


 今、声が重なった。

 はっとしたのも束の間、突風が神社を襲う。木々が激しく揺れて花びらが宙を舞う。それはほんの数秒だった。たまらず閉じたまぶたを開けると……。

「喜一……なの?」

「玲奈。ごめんね。待たせちゃったみたい」

 そこにはしっかりと地面に足をつけている喜一の姿があった。今日出会ったときと雰囲気が全然違う。この世のことわりさとったような涼しげな花だった。それでも喜一には変わりなかった。私の心が安堵で満たされている。

 一歩前へ踏み出した。すると喜一は両手を広げた。なにも言わず、私を受け入れようとしている。本当に……本当に……。歳をとったように足元が揺らぐ。

「喜一……喜一!」

 私の足は加速していった。なんども転びそうになった。うれしくてうれしくてたまらなかった。涙を拭いて、喜一を見失わないようにしっかり前を向いた。その勢いのまま喜一の胸に飛び込む。喜一の香りがする。温もりも感じる。顔を埋めて力一杯抱きしめた。今、この状態で口を開いたら、涙ぐんでうまくしゃべれないと思う。

 喜一は花を愛でるように優しく包み込んだ。浴衣越しでも肌の感触が伝わる。それが全身にいき渡って、より一層ふたりをひとつにする。いつまでもこうしていたい。ずっとずっと、喜一を感じていたい。

「ありがとう」

「まったく、待ちくたびれたよ」

「カフェでもいこうか?」

 お互いに小さな花をポンッと出す。それがうれしくて懐かしくてしかたがなかった。声を聞いて身を震わせる。ぐっと抱きしめる。恋人には時間や空間なんて関係ない。そこに好きな人がいる、それだけでいいの。いつものように鼻を合わせる。これが好きなの。

「こちらこそありがとう」

 二、三度擦り合わせて少し離れる。喜一の両手を握った。うん、やっぱり喜一だ。つま先から髪の毛の一本一本までぼやけているところはないみたい。鏡で自分の姿を見た動物みたいに、おとぼけて間抜けな挙動きょどうをとった。念入りに確認していると、ラズベリーの笑い声が聞こえた。無邪気に顔にしわを作っている。喜一ってこんなふうに笑うんだ。心の底から滲み出る暖かみに釣られて私もアイビーを咲かせる。ただそれだけのことだったけど、私には十分だった。

“シャンッ”

 突然鈴が鳴った。さっきまではひとつの音だったけど、今のは複数の鈴の音だった。よくテレビとかゲームで聞くような、和風の音色だった。

「うわっ! 玲奈あれ!」

 喜一は本殿を指さした。振り向いてみると、そのには人がいた。本殿に向かって右側には、青い着物に緑のはかま姿の髭の長いおじさんがいた。左側には、黄色の巫女みこ衣装を着たお姉さんが微動だにしないで佇んでいた。

 得体の知れない恐怖に襲われて、喜一にしがみつく。彼も驚いて顔に余裕がなかったけど、腕をまわして私を引き寄せた。宥めるように「大丈夫」と言ってくれた。

“シャンッ”

 巫女の女性が神楽鈴かぐらすずを振る。そしてもうひとりの神主が懐から龍笛りゅうてきを取り出した。静寂に身を置く四人。なにが起こるのかと心だけが動く。


“ボンッ!”


 どこからともなく太鼓が鳴った。ビクッとして恐怖で眉間にしわができる。それと同時に、石畳の地面から舞台が迫り上がった。ふたりは姿勢を崩さずそれに乗っていた。屋根はついてなくて、赤い柵で覆われている。高さは大体私の目のくらいかな。ちょっとだけ見上げないと、ふたりがちゃんと見えない。

 舞台が止まると、神主は龍笛を吹き鳴らした。甲高い音は一気に空気を張りつめさせた。

「これって……神楽?」

「おそらく。たぶんおみなえ太々神楽だと思う。昔に一度だけ見たことあるんだ」

 予想が的中して、巫女が舞を踊り始めた。それは美しくて雅なものだった。神楽というものは知っているけど、実際に見たのはこれが初めてかも。見る機会なんてないし、正直やっていても見に行くかどうかわからない。でもこれだけは言える。今私は、この景色のとりこになった。

 神楽鈴を鳴らすたびに花びらが舞う。観れば観るほどひかれていく。なんだろう、胸の奥がざわつくような、体が温まるような。ミュージシャンのライブとは毛色の違う興奮こうふんを感じる。彼らの神楽には日本人の“心”をくすぐる趣があるのかもね。私たちは知らないうちに警戒を解いていた。ふたりして、その舞台の前で佇んでいた。

“ボンッ”

 またも太鼓が鳴り響いた。それに反応するように灯籠がひとつ、舞台の横に現れた。さらに太鼓が鳴ると今度は反対側に灯籠が現れた。太鼓が鳴れば鳴るほど境内は豪華になっていった。舞や装飾に心を躍らせていると、あっという間に神楽は終わってしまった。曲の終わりとともに舞台だけが地面に消えていく。残された灯籠は道を作るように置かれている。

「終わった……のかな?」

 自然と手が拍手しようとする。あ、でも雰囲気を壊しちゃうかな。

 巫女と神主は本殿の階段を登って、ふすまの両端でお互い見合っていた。一糸乱れぬ動きで正座をして深々と礼をする。厳かな雰囲気に呼吸も止まる。だれも触っていないのにふすまが開き始めた。ゆっくりと開くふすまの隙間からなにか見える。どんどん近づいてくる。怖いけどちょっと気になる。待ちに待って、本殿の奥から現れたのは人ならざるものだった。その神々しさにひと目で察した。

「あれは……カヤノヒメ……様」

 直感でしかないけど、確信はあった。不自然な後付けの「様」に、お怒りにならないでほしいな……。

 カヤノヒメはゆっくり近づいてきた。艶やかな長い髪を一本も逃さず後ろで結う。その髪型は神にしかできない威厳あるものだった。月の光に照らされて輝きを増す髪の毛はほんの少しだけ緑を帯びていた。植物のような、森の精霊のような、癒しのオーラを感じる。いざ間近で見ると、そのみやびさは言うまでもなく、それより身長の高さに圧倒される。目で測っても約三メートルはあるんじゃないかな。こんなの初めて……。

「……っあ! 正座したほうがいいかな」

 喜一に小さな声で耳打ちする。私たちの不安を払うように、カヤノヒメは両手を出して私たちの手を握った。手のひらを上に向けた。次の瞬間、私たちの手の上に丸い光が集まった。小さな粒が空間から現れて手の上にやってくる。驚くことを忘れて見惚れていると、ひとつの大きな球体になった。それを支えるようにふたりで持つ。

「綺麗……」

“チリーン”

 聞き覚えのある鈴のが鳴った。光の中から紅色のさかずきが出てきた。ふわふわと落ちる盃を手で受け止める。見た目は普通の盃かな、あまり見たことないけど。中央には女郎花の模様があしらわれている。

「玲奈、本当にいいのか」

「うん、覚悟はできてるよ」

 その盃を両手に持って一歩前に出る。カヤノヒメは一本の枝を取り出した。ふっと息をかけると、見事な梅の花が咲いた。そしてその枝先を盃に向けて鈴を鳴らす。

“チリーン”

 枝の切り口から水が流れ出た。少しずつ盃に溜まっていく。その水からいろんなの花の香りする。決して悪いものじゃなく、すべてが調和された心地のいい香りだった。まるで花園にいるみたい。

 最後の一滴が盃に落ちる。水面には自分の顔が映っていた。盃の中の自分に向かって「うん」と決意を確認する。溢さないように喜一の元へ運ぶ。

「喜一、私はあなたと一緒にいる。約束だからってこともあるんだけど、心からそう思うの。だからこれを受け取ってほしい」

「俺も玲奈と一緒にいたかった。玲奈がそういうなら、断る理由はないよ」

 盃を受け取った喜一はカヤノヒメに向かって掲げた。そしてそれを半分飲んだ。盃をもらって、同じくカヤノヒメに掲げる。


——もう未練はない。

 残った水を飲み干した。


“チリーン”

 カヤノヒメはそれを見届けると鈴を鳴らす。彼女はお面をつけているように表情が変わらなかった。それでもなんとなく、微笑んだ気がした。その瞬間、花吹雪が周りを取り囲む。乱れに乱れて目も開けられない。必死で喜一に抱きついた。喜一も私の頭を抱えるようにして守ってくれた。

「喜一!」

「大丈夫、俺がついてるから!」

 花吹雪はますます強さを増した。絶対離さない! 約束したんだ! ってあれ……なんだか、頭がぼんやりして……。


   ◯


 目が覚めるとそこは神社の中だった。本殿の賽銭箱の前で私たちは倒れていた。

「あれ……ここは……あ! 喜一しっかりして!」

 そばにいた喜一の肩を揺さぶる。目を覚まして、無事なの。心配をしたのも束の間、朝のような大きいあくびをして起きてきた。よかったぁ、ひとまず安心かな。心を落ち着かせて周りを見渡す。ここがさっきと同じ場所なのか現実世界なのか区別がつかない。立ち上がって確認しようとしたとき、足になにか当たった。

「これって私の下駄じゃん。どうしてこんなところに」

 よく見てみると応急処置された鼻緒が別な鼻緒に変わっていた。しっかりと結えつけられた紐は市販のものとは思えないほど、繊細な作りをしていた。それに私の好みの色。もしかして、カヤノヒメが直してくれたのかな。それならあとでお礼しないとね。

「玲奈! あれ見て!」

 喜一の声に遅れて火薬の爆ぜる音が響いてきた。顔を上げると夜空に花火が咲いていた。

「嘘……っていうことはつまり」

「ああ、元に戻れたんだな」

 体の感覚を確認する。心臓がドクドクいってる。少しふわついた感覚は手のひらに残っている。それでも夏の空気感や香りは私の知っているものだった。戻ってきたんだ。喜一と一緒に戻ってきたんだ!

 深呼吸をして高揚を抑える。今すぐに抱きつきたい。けど現実ってことは周りに誰かしらいるよね。私にはちょっと……その、勇気がないっていうか、人前では恥ずかしいっていうか……。その代わりに、気持ちはそのままで、喜一の手を取った。

「花火見よっか」


 本殿の階段にふたり並んで座る。ここからだと大きな花火しかちゃんと見えなかった。そのほかの花火は木で隠れて音しか聞こえかったり、見切れてたり。だからなんだろうね、私たちの周りにはだれもいない。よくいえば貸切状態。もしかしたら、もっと下のほうに降りたら人がいるのかも。まあでも、ここがいいかな。邪魔をする人もいない。それに、時間に間に合わなかった花火デートを思い出す。あのときも見切れた花火を見てたっけ。

 あ、そうだ。足拭かないと。せっかく綺麗な下駄があるんだから、汚さないようにしないと。ウエイトティッシュを取り出して足を拭く。

「うう……ちょっとしみる」

「こんなにボロボロになって俺を探してくれたんだね。なんか申し訳ないな」

 花火の音だけが境内に響く。言葉が胸に刺さった。申し訳ないっか。うずくまるように膝を揃えて足元に目を落とす。綺麗に拭いたはずの足は少し擦りむけていた。下駄の鼻緒が当たって少し痛い。記憶が蘇って心が痛い。垂れ流すように話し始める。

「謝らないといけないのは私のほうだよ。ちょうど一年まえの今日、私がデートすっぽかしたようなもんだもん」

「……なにがあったの? あのとき連絡すらつかなかったから」

 深呼吸をしてちゃんと喜一のほうを向いた。当時は自分が被害者って思っていた。けど、ひとりになってよくよく考えると、私が悪かったかなって思う。それを謝らないといけない。もう喜一は死んじゃったけど、このまま有耶無耶うやむやになんてしたくない。犯した過ちをつらつらと並べた。

「駅集合って話だったじゃん、でも喜一が来なくて。私ずっと待ってたんだ。結局来ないからすっぽかされたのかなって思って……ショックだった。だから君のメッセージを未読無視みどくむししたたの。あのときちゃんと連絡してれば……」

「ちょっと待って、俺は駅で待ったたよ。栂坂駅のベンチでずっと待ってた」

「え、集合ってそっちだったの。私いつものオブジェ前で待ってた」

 ふたりはお互いの話を確認するようにひとつひとつ言葉を整理した。私は都心の駅で待っていて、喜一は地元の駅で待っていた。っていうことは“駅で集合”の意味が違ったってこと!? だからそれぞれ別な場所で待っていて、約束を破られたって感じたのね。些細なすれ違いが人生に関わる未練を生むなんて。やっと頭が整理された。もやもやした気持ちはなくなったけど、代わりに罪悪感が大きくなる。

「なおさら私が連絡しとけばよかったね……ごめん」

「俺もちゃんと言ってなかったし、こっちこそごめん」

 露骨ろこつに落ち込む私にあれやこれや言って慰めてくれている。でも喜一を死なせたのはほとんど私みたいなもの。そう簡単に癒えないよ……。喜一の笑顔や気を遣ってくれる言葉がかえって私を責め立てる。開き直れない。喜一が死んでいる事実は変わらないのに、祭りに来たときのような陽気にはなれない。ごめん……本当にごめん……。

 すると喜一は改まった口調で私の名前を呼んだ。むくっと顔を上げて彼を見る。気恥ずかしそうに目を逸らして話し始めた。

「俺はひと目惚れだったなぁ。綺麗で頑張り屋で、たまに抜けてるところあるけどそこが可愛くて。付き合ってるときも毎日が楽しかった。俺、昔からネガティブだったから正直心配だったんだ。この人と釣り合うのかなって。いじめられたりしないかなって」

 遠い記憶を思い出しながら言の葉を落とす。それに感化されて、私もぼんやりと振り返る。というか、聞いているこっちが恥ずかしい。

 花火の音をBGMにして、ひとつひとつ押し花にして脳に保存する。それを記憶の引き出しに入れると気分が楽になった。ひとつ、またひとつと喜一の言葉を聞いているうちに罪悪感が薄れていった。彼の目を見つめると、幼い子の純粋な光を宿していた。私の瞳が大きく開く。

「俺は玲奈に救われたんだよ。生きる意味を与えてくれた。幸せの意味を教えてくれた。だから、俺のそばにいてくれてありがとう」

 喜一を見つめているはずなのに、水の中みたいに視界がぼやける。ぽつりぽつりと雨も降ってきた。それは頬をつたって足元に落ちる。ミサンガに当たった雫は弾けた。そんなの……そんな言葉聞いたら私……。

 喜一が私の頭に手を乗せて宥めてくれたけど、涙は流れるばかり。その手はお日様のように暖かかった。包まれるような多幸感を感じる。それが余計に目を赤くさせる。

——よかった……むくわれたよ私……。

 鼻をすすって無理矢理笑ってみせた。どうかな、ちゃんと笑えているかな。ため息をついて心を落ち着かせる。本当に、喜一には敵わないなぁ。どんなにときが経っても、どこにいても、私の心を支えてくれる。私にはもったいないよ。でも、ありがとう。

 あのときと同じ、教室でたわいもない話をしていたころに戻った。そこはもう私たちの空間。もうだれも、引き裂けない。

「玲奈」

「ん?」

 名前を呼ばれて振り向いた。


“バーン”


 特大の花火が打ち上がった。逆光になったふたりのシルエットはひとつになった。

「もう……ずるいよ」

 花びらにうるおいが蘇り、発色がよくなる。

 そして、おみなえ祭りはあの花火をもって終了した。

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