【幕間 相引玲奈】
私の母は絵を描くことがとても好きだった。家事や子育ての合間はいつも絵を描いていた。母の絵が好きで、見ているうちに自分も描くようになった。
「見て見て! こっちがお母さんでこっちがお父さん。そしてこれが私!」
「わーお、上手にかけたね。玲奈は本当に絵が好きなんだね」
「えへへ、玲奈はお母さんの絵が好きなの。ねぇねぇ一緒にお絵描きしよ!」
「もちろんいいわよ」
明るくて怒ったところを一回も見たことがない。まさに綿毛のように温もりで満たされた人だった。
そんな母に
中学生のとき、体調が悪いからと病院にいった母は精密検査で末期の癌と診断された。現実を受け入れるまえに、母は入院した。
部活が終われば病院に行くようにした。もちろん時間が遅くなって間に合わないときもあるけど、ほぼ毎日母に会いに行った。病室に入ると、いつも絵を描いている。鉛筆片手にすらすらと描いている姿を見ると、日常を感じて安心する。フルーツや花、病室からの景色など、さまざまなものをスケッチブックに残していた。
けど入院してから数週間後、以前よりも
「私はもうダメね。鉛筆すらまともに持てない」
「なにいってるの。絵が描けなくたって楽しいことはいっぱいあるよ」
綿毛はすっかりなくなって、明るかった性格が少しずつ
すると母は私の手にとって言の葉を置いた。
「ありがとう。お母さんは玲奈のそういう黄色いところが好きよ。あなたはあなたらしく、好きな絵を描いてちょうだい」
「もう、
中学一年のある冬の日、コンクールで佳作をもらった。その報告をしようと心を躍らせていたそのとき、看護師さんが慌ただしく病室を出入りしていることに気づく。まさかと思って、病室へ急いだ。そこから見える光景はまさに地獄だった。
「お母さん! だいじょ——」
「しっかりしてください! 聞こえますか!」
ベッドの上で母は
そしてしばらくするとピタッと体が止まった。鳴り響く機械音が耳にこびりつく。
「玲奈さん! 大丈夫ですよ。お母さんは助かりますから」
運ばれていく母を私に見せないように、看護師さんが視線を遮る。持っていたカバンを地面に落とした。取り残された私はどうしたらいいかわからなかった。なにが起きたのかも受け入れたくなかった。空っぽになった私を看護師さんが支える。手を引かれるがままに椅子に座って、母を待った。
そして手術も虚しく、帰らぬ人となった。
◯
父が遺品整理のときに母の絵を破り捨てた。唐突の出来事に混乱した。こんな乱暴なことしないのに、どうして……。私の大好きな絵が次々に破られるのが耐えられなかった。絵を持った父を必死で止めた。
「やめて! お母さんが描いた絵だよ! どうしてそんなことできるの」
「うるさい! こんな絵……こんな……」
「お父さん……」
母を亡くしてから父は抜け殻のようになっていた。私も私で寂しさが拭えず、絵を描く気すらおきなかった。
月日が経ったあとも傷は癒えなかった。結局遺言となってしまった母の言葉を思い出して絵を描き始めた。ペンは思うように進まない。それでも描いているうちに、少し気が楽になってきた。やっぱり私は絵が好きだったんだね。できあがったら仏壇に置こう。そんな前向きな気持ちがちょっとずつ出てきた。
リビングで絵を描いているそのとき、父が帰ってきた。私を見るやいなや、突然
「やめろ……やめてくれ!! 絵はもう勘弁してくれ!!」
大人とは思えない姿に、必死さを感じた。それから私も絵を描くのをやめた。
◯
「え、いや……相引さんって黄色いなって。ご、ごめん。初対面なのに意味わかんないよね」
彼の第一印象は最悪だった。正直いって嫌いだった。けど、どうしてだろう、彼と出会ってから手が勝手動く。ノートの切れ端、プリントの裏、まっさらなコピー用紙。次第にスケールが大きくなっていった。絵を描くのはやめたはずなのに。とうとうあの日から更新されていないスケッチブックを取り出した。自分の思考よりも筆のほうが早く動く。自然と口が緩んでしまう。
「楽しい……」
描き終わったあとの達成感は久々で、全身が痺れるようにそれを
悩みに悩んだ。それでもあのときの言葉を思い出した。母さんが私に言ってくれた言葉。それに背中を押されて、入部届提出最終日、滑り込みで美術部に入った。もちろん父の了承は得てない。けどこの思いは止められない。それが母との約束だから。
◯
「なんで声かけられるのかな。気持ち悪いんだけど」
「ねえ玲奈、ずーっと後藤くんこと嫌いって言ってるけど、本当は好きなんじゃないの?」
「は? そんなこと……あるわけないじゃん」
部員の子に言われたせいで心がざわつく。別に私の描く絵がたまたま彼に似ていただけで、そんな気持ちはない、と思っていた。
朝と帰りに挨拶してくるあいつ、口実つけて話しかけてくるあいつ、補習を受けてるあいつ。
“あなたらしく”
もしかしたら、母を思い出すのが怖くて彼を拒絶していたのかもしれない。母と同じ感性を持つ彼に怯えていたのかもしれない。私が絵を描き始めるようになったのは彼のおかげ。もし出会ってなかったら私は人間的に死んでいた。
知りたい、彼のことをもっと知りたい。
それが恋路の出発点だった。
◯
「あれ、玲奈これ下書きからはみ出てるよ。というかほぼ新作のような……」
「これであってるよ。私が描きたいのはこれだから」
高校三年の最後の作品。下書きを消さないで、直接上から絵の具を塗りたくる。他人の評価を気にした絵なんて意味がない。私の生きている価値はそんな安いものじゃない。構図はもうすでに頭の中で完成している。下書きなんて描かなくとも彼の姿は鮮明に思い出される。
七割ほど描き終わった。まだ細かいところや背景は描いていないけど、メインは綺麗にできあがった。その姿を見て満足する。これが私の最期の作品。未完成が完成。
「ねぇ、私の作品のタイトルさ、裏に描いておくから先生に伝えてくれない? 多分、評価会来れないからさ」
「いいけど、珍しいね。いつもは描き終わってから決めるのに」
「まあね。それじゃあよろしくね。作品のタイトルは——」
“
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