【第三駅 亡き者】

「ここはどこだ」

 目を覚ますと、暗闇に閉じ込められていた。まるで水中にいるみたいに体が浮いている。その水は決して気持ちのいいものじゃなくて、人の体温のように生暖かくよどんでいた。左右どころか上下すらわからない。

 体を捻ったり足をばたつかせてもがいてみる。それでもなにも変わらない。進んでいる感覚がまったくない。

“……来ないで”

 ふと耳に音が入ってきた。人の声だと思うけど、それがだれでなんて言ったのか聞き取れなかった。

“……約束だから”

 次は別な人だ。俺になにを伝えたいんだろう。依然として目の前は真っ暗。断片的でこもった音があちこちで響いている。その数は次第に増えていって俺を取り囲む。耳鳴りのような不快感にたまらず耳を塞いだ。

「やめろ……やめてくれ!」

 それでも音は脳内に響く。なすすべないと理解してしまった。いらだちが込み上げてくる。それらの音は俺の記憶をばら撒く。暗闇の中で可視化された思い出は鮮明に映っていた。友達のこと、家族のこと、玲奈のこと。急速に咲いては花びらを散らして消えていく。まるで花火のように記憶は入れ替わる。でもなぜだか懐かしいと思うことはなかった。そのすべてが根を張って、いばらを伸ばして俺を批難ひなんする。

「もう許してくれ……」

 体を丸める。だれにも触れさせないように。頭を抱える。自分を守るために。不特定多数の人間に対して懺悔ざんげする。なんのことを謝っているのか、だれに対してなのか、目まぐるしく響く音から逃れようと必死で叫ぶ。ごめん……許して……。その瞬間、ひとつの言葉がはっきりと聞こえた。

“忘れたの……”

 目を見開いた。そこには眩しい光があった。だんだんと近づいてきて、汽笛が鳴った——


『ねぇ、なんで昨日連絡してくれなかったの? まさかほかの女の子と電話してたりとか』

 数週間まえに交わされた約束をしっかりと覚えていた。初めは寝るまえに必ず連絡をしていた。けど時間が経つにつれて義務感は怠惰たいだに変わっていく。俺のことを心配してくれてるのは痛いほど伝わる。あんなことがあったあとだから。だからこそ自分の情けなさを突きつけられているみたいで、正直心が疲労する。

 前日、夜遅くまでバイトをしていた。風呂に入るのも面倒で布団に倒れ込んだ。あと数秒で寝るというときに携帯を見た。もちろん玲奈から連絡がきてたけど、アプリを開いてそのまま力尽きてしまった。

『あ、あー……。ごめん、疲れて寝落ちしちゃった』

 怒られると思ったけど杞憂に終わった。玲奈は存外あっさりしていた。出会ったころと同じ笑顔をしていた。ふっと息を吐いて胸を撫で下ろす。こんなところで喧嘩している場合じゃない。もう少しでバイト代が貯まる。才能のない俺を選んでくれた感謝を改めて伝えたい。

『ありがとうな』

『どうしたのよ急に。なんか奢ってくれるの?』

『え……じゃあ購買で』

『ふふふ——』


 バッと体を起き上がらせた。心臓がドクドクいっているのが聞こえる。

「びっくりしたぁ。やっとお目覚めだね」

「れ、玲奈……! どうしてここに」

 違和感を感じて、周りを見渡すとそこは教室の中だった。体に手を手を当てて確認する。さっきまで着ていた服は制服にすり替わっていた。俺はイスに座っているし、玲奈は生きているし、ましてやここは学校だし。なにがなんだかさっぱりだ。

 慌てて携帯を取り出して確認する。

“七月二十八日”

「講習よっぽど疲れたんだね。私はセンター入試ないから勉強してないなぁ。もう一年とか二年の内容とか忘れちゃったよ。喜一に教えてもらおうかな」

 机に置いてあった数学Bの教科書をパラパラ開いてる。それはあまりにリアルで手を伸ばしたら触れそうだった。

「玲奈が……生きてる」

「ちょっと、勝手に殺さないでよ。まさか熱でもあるの?」

 そういうと俺のおでこに自分のおでこをくっつけた。彼女の息が聞こえる。体温も香りも感じる。それは紛れもない現実だった。不意ふいに彼女と目が合う。近すぎてぼやけているけど、確かに俺を見ている。すると玲奈は「ふふふ」と笑って鼻を軽く擦り付ける。これが好きだったんだと思い出した。目を瞑って懐かしい感覚に浸る。すると彼女は不意をついて口を湿らせてきた。

「勉強頑張ってるご褒美」

 すっと体を元に戻す玲奈は窓辺に移動して夏風を浴びる。不規則になびく髪の毛がキラキラと輝いているように見えた。「涼しい」と素直な感想を放り投げる。俺はようやく理解した。


 あれは全部夢だったんだ。


 玲奈が死ぬなんてありえない。馬鹿馬鹿しい夢の内容が徐々にツボに入って頬が緩む。絶望から安心に変わった瞬間だった。

「なんか楽しそうだね」

「まあな」

 しばらくの間、たわいもない話で盛り上がっていた。外から聞こえる野球部の掛け声がBGMとなって青春をさらに色濃いものにした。

“ポポン”

 唐突になった鼓の音。なんだ今の……ってなんだここ! さっきまで座っていた椅子はそのままに、景色が変わっていた。教室、それどころか室内じゃない。ここは……尾美苗おみなえ神社? 動揺する俺とは対照的にまったり歩いている玲奈。

「ちょっと待って! なんで鼓が鳴って神社にいるの」

「なんでって、うちの学校のチャイムでしょ。忘れたの?」

 至極当然のように玲奈は答えると境内の奥に歩いていった。急いでついていくと、そこではクラスメイトが夏服でバレーボールをやっていた。よく目を凝らしてみると葵や立花、せん姉もいた。

「私も混ぜてー!」

 走っていった彼女は手にスイカを持っていた。状況が理解できない。怖くなって後退りするとなにかにつまずいて転んでしまった。尻餅しりもちをついたちょうど手のあたりにあるものを拾った。

「棒?」

「喜一早くー!」

 玲奈の声が聞こえてきた。顔を上げるとそこは海だった。水着姿の玲奈が遠くから俺を呼んでいた。周りには高校の友達や葵たちもいる。不思議と既視感きしかんに襲われた。こんな体験したことがあったような。なんなら結構最近……そう、ループしているような。

 いつの間にか持っていたタオルで目隠しをして棒を構えた。そして声の指示にしたがってスイカを目指す。

「ちょい右!」

「そのまま真っ直ぐだぞー!」

「しくったら昼飯奢りなー」

 さまざまな声に導かれてピタッと歩みを止める。大きく振りかぶって勢いよく叩きつけた。手応えはある。目隠しを外してみると、そこは教室だった。

「びっくりしたぁ。やっとお目覚めだね」

 制服を着た彼女が目の前にいた。

「講習よっぽど疲れたんだね。私はセンター入試ないから勉強してないなぁ。一年とか二年の内容とか忘れちゃったよ。喜一に教えてもらおうかな」

 身の毛がよだった。すぐさま携帯を確認すると“七月二十八日”と表示されていた。玲奈は数学Bの教科書を手に持ってパラパラと開く。まさか、本当にループしてる……? 得体の知れない恐怖に襲われて呼吸が荒くなる。はぁ……はぁ……。目の前にいるはずの玲奈がぼやける。心臓が大きく鼓動する。ドクン……ドクン……。

 とっさに教科書をはたき落とした。

「ど、どうしたの喜一……」

「だって玲奈は死んだはず」

 次の瞬間、教室のいたるところがドロドロと溶け落ちていき、空は真っ暗になる。玲奈は髪を垂らして下を向いていた。じりじりと近づいてくる。逃げ出したいのに体がまったく動かない。

 彼女は一本の黄色い花を手に持って、もう片方の手で俺の胸を強く押さえた。そして釘を打ち込むように構えてその鋭い茎の先端を——


 気がつくと、祭り会場の十字路に倒れていた。起き上がって周りを見渡す。提灯や屋台の灯りはついていたけど、客どころか屋台の中にも人はいない。人の声や祭り囃子も聞こえない。風も、鳥も、姿を消したように音を立ててなかった。あるのは、まるでさっきまで作っていたように残された食材が焼ける音。

——どれが夢なんだ。

 俺の脳内CPUはすでにオーバーヒートしていた。思考するなんて到底できない。

「玲奈……玲奈どこなんだ」

 俺の体は無意識に玲奈を探していた。だれもいない祭り会場にも関わらず、見つけ出せると謎の自信を身につけていた。そうしてふらふらになりながら歩いていると、人影が屋台と屋台の隙間に消えていくのが見えた。

「玲奈!」

 弾かれたように走った。どこまでも追いかけた。ちらりちらちと見える人影は俺を翻弄するかのように、現れては消えてを繰り返す。前かと思ったら後ろに、後ろかと思ったら右に。追いかけているうちにだんだんと出口に近づいていた。そして道の真ん中に現れたその人影はくるりと俺に背を向けて真っ直ぐ神社に向かっていった。

 俺もついていこうと道路を飛び出した瞬間、横から光を浴びた。


 * * *


 切れた鼻緒を葵くんが直してくれた。

「これでよしっと。ちょっと立ってみて。痛くないか?」

「大丈夫そう。ありがとう」

「どうってことないさ。それより、ミサンガ足首につけてるんだね」

 そう言われて自分でも確認する。だれからかもらった緑色のミサンガを右足のくるぶしあたりに巻いてあった。いったいだれがくれたんだろう、それとも自分で作ったのかな。まあいいっか。うんと軽く返事をして改めて葵くんを眺める。お互いなんて声をかければいいのかわからなくて、なかなかに照れ臭く気まずい空気が流れた。

「と、とりあえず歩こっか」

 あっちと指を差して祭り会場の奥を示した。屋台のない暗い道をふたりで進む。すれ違うのはどれも大人のカップルだった。大学生かな、それとも社会人かな。向こうからすれば私たちも付き合ってると思うのかな。周りと比較すると私たちはまだまだ幼いね。

 一番奥の入り口に着くとその熱気はまだ健在けんざいだった。時刻を確認しようと携帯に手を伸ばす。あ、でも現実に引き戻されそう。時間なんて考えなくていいよね。

「そうだ。私ね、割引券持ってるの。助けてくれたお礼になんでも好きなの奢るよ」

 巾着から割引券を取り出しひらひら揺らす。私が持っていたことが意外だったらしく、少し興奮気味に驚いている。

「懐かしいなぁそれ。地元民なら知り合いのおじさんからもらったりするけど、よくもらえたね」

「えへへ、でもなんで持ってたんだろう。思い出せない」

「まさか盗んだ?」

「馬鹿」

 屋台を見ていると、売り切れの看板を出しているところが多々あった。全部の商品とかじゃなくても、一部の味や品がない屋台がほとんどだった。やっぱり祭りもそろそろ終わりなのね。こういう行事の終わりはいつも寂しい気持ちになっちゃう。学校のイベントや部活だってそう。過去の思い出だったらなにも問題ないのに、現実が思い出に変わる狭間はざまが一番苦しい。

「そういえば、この祭りって花火上がるよね。ほかの祭りに比べたら時間遅くない?」

「そうなのか? 俺、この祭り以外いったことないから基準がわかんない」

「本当に!? 彼女とかとデートしないの? 一応ギリギリ都心の学校でしょ」

 祭りの雰囲気に流されて恋バナを始める。今まで葵くんとはなんどか会ったことあるけど、そういう話は一切しなかった。部活に熱心で家族思いの彼は口を開けば弟たちかプロ野球の話しかしない。愛慕あいぼに満ちた彼に彼女がいてもおかしくないし、いないと言われても納得がいく。けどどうして葵くんと会っていたんだろう。なにか大切な約束とかだったような……思い出せない。

「彼女がいたら相引さんと歩いてないよ」

 その言の葉が頭の上に乗っかった。そんな紳士的なこと言うんだ。たまに楽観的なことをいうから大雑把だと思ってた。どうせばれないのならとか、気がないから大丈夫と考える男性が大半だと思っていた。将来できるであろう葵くんの彼女は幸せだろうなぁ。ちょっと羨ましいかも。

 そのあとの葵くんはいつもの彼で「あそこの屋台で使ってるのが尾美苗おみなえの特産で」とか「尾美苗おみなえ神社が」など話している。

「葵くんって本当に尾美苗おみなえが好きなんだね。ここの人ってみんなそんな感じなのかな」

「なんもさ、ただ俺と喜一が田舎くさいだけだよ」


「いいと思うよ」


 ふっと風が止んだようにほんの一瞬だけ静かになる。話をしているうちに中のほうまでやってきた。なにげなく歩いていると声をかけられた。

「おう、嬢ちゃんさっきぶりだな」

「え、えーっと……」

 金魚掬いのおじさんが景品整理のかたわら、私を引き止めた。完全に不意をつかれて、反応がたどたどしくなってしまった。なんかすごく親しげに話しているけど、おじさんってみんなこうなのかな? それにさっきぶりって、ここ来たことあったっけ?

「さっきはさすがにいい過ぎだな。歳をとると話を盛りたくなるんだよ。ほれ、割引券余ったから全部やるよ。彼氏さんのためにな」

菊二きくじさん、俺彼氏じゃないですよ」

「おめぇじゃねよ」

 私と葵くんは同時に首を傾げた。

 差し出されたものを断るのは忍びなく、一応受け取った。頭を下げてお礼をいうと、「楽しんでこいよ」と私たちを笑顔で送ってくれた。もらった数枚の割引券を眺めながらなにに使おうか考える。もちろん葵くんへのお礼は忘れていない。使いきれなかった分はお土産に持って帰ろうかな。パンフレットとか、切符とか、旅行先のそういうもの好きなんだよね。

「相引さん、菊二さんと会ったことあるんだね」

「うろ覚えだけど、なんとなくあそこで金魚掬いした覚えある。一匹も取れなかったけどね」

 あのおじさん、菊二さんの顔どころか金魚掬いをしたことすら記憶が曖昧あいまいだった。ぼーっと割引券を見ているうちにそんなことがあった気がしてきた。あれ、ひとりで来たんだっけ? それとも……。

「金魚掬い難しいもんね。楽しかった?」


「楽しかったよ」


 鼻緒の応急処置が心配でどうしてもゆっくり慎重に歩いてしまう。それでもなにも文句を言わないで、慣れたように私の歩幅に合わせてくれた。すると葵くんはちらっとある屋台を横目で見た。

“肉巻きおにぎり”

 手のひらサイズの茶色い食べ物が鉄板の上でコロコロと転がっていた。焼き目のついたお肉の香ばしい香りが漂ってくる。おいしそう。ネットとかで見たことあるけど、実際に見たのは初めてかも。こういうのって祭りの雰囲気を楽しみながら食べたいよね。そんなことを思いながら、屋台を通り過ぎた。あれ、もしかして……。間違ってたらと不安半分に聞いてみる。

「葵くん、お腹空いてる?」

「え……い、いや別に」

 目線が近くの屋台に落ちる。ジュージューと音を鳴らして白い煙を出している焼きそばを凝視していた。目は口ほどにものを言うってまさにこのことなんだね。そのまま歩こうとする葵くんの袖を掴んで動きを止めさせる。都心の祭りでは人が多くてこんなことできないなと密かに花を咲かす私がいた。

「遠慮しなくていいんだよ。弟たちばかり気にして好きなことやれてないでしょ。割引券もたくさんあるし」

「そこまでいわれたらしゃあないか。あそこの肉巻き気になってたんだよ。そこそこいい値段するから毎回買ってなかったけど」

「じゃあ早速いこっか」

 私たちは少し戻ってさっき見かけた肉巻きおにぎりの屋台の前に来た。しゃべっているときはまだ羞恥心が拭えてなかったけど、いざ足を動かしたら、我慢していたものを解放したように自然な表情と声色になった。大きなため息をついた彼とは心なしか距離が縮まった気がする。

「私が奢るよ。割引使うのは格好悪いけど許してね」

 一個三五〇円の肉巻きおにぎりを三つ買った。味はタレ、チーズ、キムチの三種類。男の子だし運動してるから、このくらい食べれるよね。

 へそ出しファッションの韓国系美人なお姉さんはたわら状になった米を取り出して、手際よく肉を巻く。ぴっちり張り付いている黒い手袋が彼女の美意識と職人であることを示しているみたいだった。大人っぽくてかっこいい……。

 熱々の鉄板に油がひかれて肉巻きたちが転がり込む。ひっくり返しながら焼き加減を調整しているのをふたりで眺めた。

 透明なトレーに三つの肉巻きおにぎりが綺麗に入れられた。それを受け取ると香ばしい匂いが漂ってきた。こっちまでお腹が空きそう。お姉さんに追加で箸と袋をもらって葵くんに渡した。

「まいどありー」

「ありがとう。でも、相引さんのぶんはいいの?」

「私お腹空いてないから。その代わり、もうちょい付き合って」

「お、おう、もちろん」

 そのあと、ちょっと話をしているうちに彼は食べきりました……早くね?


「そんなにお腹空いてたのね」

「部活引退しても食う量は変わんないのさ。おかげで太る一方だよ」

 カランコロンとゆっくり音を立てて屋台を過ぎる。見る景色が新鮮で、その非日常な世界に心身ともに吸い込まれていく。両脇が屋台で埋め尽くされているせいか、圧迫感という好奇心がかき立てられる。映画やドラマで見たことある風景。まるで映画のヒロインになったみたい。口がにやけてないか心配。

 人とすれ違い、香りを感じて、また前を見る。実際には聞いたことのないお囃子はやしが脳内で自動再生されるのも無理はない。私だって日本人だから。雰囲気に浸かりに浸かれて、満足満足。帰ったら和風の絵を描いてみようかな。

「相引さんは今日金魚掬い以外になにしたの?」

「玲奈さんとご飯食べたりしたかな。玲奈さんの友達も一緒ですごく賑やかだったよ。ほかは……なにしたんだっけ……」

 思い出そうにも、虫が食べたせいで記憶に穴が空いている。その穴を覗き込んでも見えるものはなくて、ただ虚しく心を締めつける。だから無意識に囲いを作って、外見だけよくする。


「いろいろと楽しかったよ」


 ふっと息を吐いて思考を止める。

 割引券がまだ残っている。周りの屋台になにかめぼしいものはないか探す。行列ができているところはないし、買うなら今かな。でもなにを買おうかな。葵くんならまだ食べれるかもしれないけど、そればっかり買っていると祭りというより餌付けだよね。お土産で焼きそばとか持って帰るのもいいと思う……けどあんましっくりこない。

 悩んで頭を振っていると、ひとつの屋台が目に入る。

「あ、そうだ。ねぇ射的やらない? 私やったことないんだよね」

「相引さん……」

 足を止める葵くんと距離が離れる。それに気づいて振り返った。


「早くいこう」


 声をかけても葵くんはなぜが泣きそうだった。醜いものをあわれむようなさげすむような。私の予期してない花が咲いていた。なにかまずいことでもしたかな。それとも私になにかついているとか……あ、浴衣とか? くるっと回って確認してもなにも異常はない。黙っている彼に助けを求める。すると葵くんはゆっくり近づいてきた。

「無理してるのは相引さんなんじゃないか?」

「無理してないよ」

「それだよそれ。その作り笑いだよ」

 心から笑っている。本心でものを言っている。なにも間違ってはいない。私は普通だよ。祭りは楽しかった。葵くんと玲奈さんにも会えた。幸せだと思っている。そこに嘘なんてない。

「何回か見たその作り笑い、最初は俺に気をつかってるのかなって思ったよ。けどバレバレなんだよ」

 言葉にトゲがあった。それでも私の表情は変わらない。目と口を細めて弧を描いたシンプルなデザインだ。さらに葵くんは責めるように私の両肩に手を置いた。じっと見つめられる目はにくらしいほど輝いている。


 * * *


 「早くいこう」

 彼女はそう言った。目と口、顔全体を石膏せっこうの彫刻にして表情を固めている。鮮やかなはずの祭り会場は彼女の周辺だけ灰色と化す。最初はただの勘違いかなって思っていたけど、なんども同じ顔をする。そんなの見てられなかった。

 相引さんことも考えないで、デートってこんな感じなのかなってちょっと浮かれていた。別に好きとかそういう感情じゃなくて、祭りの雰囲気が映画みたいだったからそう思っただけ。隣で歩いている人よりも風景が目につくなんて……。


 だからあいつも俺も、約束を守れないんだ。


「相引さん、喜一のことを忘れちゃダメだ」

「なんのこと?」

「今日の祭り、喜一とまわってたんでしょ」

「喜一は死んだよ」

「で、でも……」

「死んだよ」

 なにを言っても、依然として石膏だった。どんな言葉をかければ傷つかないか、あれはダメこれはダメと頭の中が複雑にからまっている。それ以前に言葉が届いてない。ロボットと会話しているみたいだった。いや、正確に言えば、初期化された中古品。ふたりの仲がいいのは知っていたけど、こんなにも喜一で埋め尽くされていたんだな。俺には、すべてを理解することはできない。

 道ゆく人が俺らを横目で見る。気まずい空気が流れる。相引さんは自分からしゃべらない。ただ固まった笑顔でどこかを見つめていた。俺がなにか言わないと。でも俺はどうしてこんなことを言ったんだ。別にわざわざ引き留めなくてもよかったのに。なにが俺を動かしたんだ……。

 言の葉を押し花にして渡せたらどれだけ楽か。形に見えないものはいつだって伝えるのが難しい。俺が思ったイメージと相手が受け取ったイメージは違う。バラを見て綺麗と思うか、痛そうと思うかは人それぞれ。じゃあ俺は、黙っているほうがいいのか……。

“葵”

 そのとき、頭の中に喜一が現れた。栂坂駅で俺を呼ぶ制服姿のあいつ。俺と千奈さんにしか見せない笑顔を浮かべていた。

——そっか、これだったんだ。

 自分の気持ちにようやく気づいた。相引さんを呼び止めた動機、この祭りを心待ちにしていた理由、胸に引っかかるような焦ったい気持ちの正体。言葉より心が先行する。さっきまでなんて言えばいいのかわからなかったのに、今は自然と浮かんでくる。なにも難しいことはなかったんだな。自分に正直になれば、それでいいんだな。嘘偽りなく、“真心”に咲いた言の葉を渡す。


「相引さんだけが知ってる喜一の顔をなくさないで」


 相引さんの顔に亀裂が入った。石膏の表面がボロボロと剥がれるように顔が動く。眉毛、目、口がだんだんと動物のナチュラルを取り戻す。それはあまりに残酷で、喜一の死を再度感じているみたいだった。ほうれい線が深くなって、口はへの字に垂れ下がり、目ははち切れんばかりに開いた。玉のような綺麗な瞳は見えなくなるほどに縮んでいた。まるで魔法が解けたように、一瞬にして老いた。

 さすがに心配になって「大丈夫?」と聞いた。それに応えることはなかった。その代わりに、なにかつぶやいた。


 * * *


「探さなきゃ」

 唖然とする向日くんを置いて走った。全身が罪悪感と焦燥感しょうそうかんで覆われた。なんで私……忘れていたんだろう……! 探す場所なんて考える余裕はない。ただ会わなきゃいけないという使命を受けて地面を蹴る。首を左右に振って、喜一を探す。どこ、どこなの。探しているはずなのに、彼の姿を追っていない。気が動転している。探す”という行為をしているだけで、なにを探しているのか頭にない。

——ダメだ、落ち着け……落ち着けってば私!!

 そのとき、後ろから手首を掴まれた。

「相引さんちょっと待って! どうしたんだ急に」

「約束が……約束が!」

「大丈夫、深呼吸して」

「約束が……喜一と約束したのに。私……なんで忘れちゃってたんだろう。最低なは私のほうだよ……。喜一、ごめん……ごめんなさい!」

 膝から崩れて向日くんの服を掴む。周りからの視線や話し声は入る余地がない。絶望の足枷が私を泥沼に引きずり込む。もたれかかっている私を割れ物を扱うように支えてくれた。ゆっくり慎重に、トランプタワーの一番上を乗せるように私を立たせた。

 それでも落ち着かなかった。心のさかずきが容量を超えて溢れ出す。耐えきれなくなって目が水浸しになった。みっともない姿。屋台やすれ違う人々が私を見ているのが感覚でわかる。惨めだなぁ、私ってば。向日くんにも迷惑をかけるなんて。頭では泣き止みたいのに、涙は止まる兆しがない。この歳になってこんなに泣くなんて。本当、私ってダメだね……。

 自責の念に駆られて、ますます心にいばらが刺さる。そのとき、肩をポンッと叩かれた。パッと振り向くと、向日くんが目の高さを合わせるようにしゃがんでいた。

「大丈夫だよ。喜一がいれば解決するんだろ」

「え、でもどうやって……」

「わからない。けど、ここでやらなきゃ一生後悔すると思うんだ」

 同い年とは思えない説得力に背中を押される。あれ、涙が……止まった。それになんだろうこの感覚、心の奥深くにある蕾が開花するような、ようやく動き出すような興奮。喜一との約束を果たすために、私は今、咲くんだ。

 胸に当てた手をぐっと握りしめた。そうだよね、くよくよしたって喜一が生き返るわけじゃない。会える可能性があるなら、約束が果たせるのなら、行くしかない。私はもう迷わない。諦めない。逃げない。これがラストチャンスだ。


「約束は未練じゃない、希望」


 一輪のアイビーが咲き誇った。

 迷いのない一途の葉を自分で握りしめる。向日くんの目を見て「行ってくるね」と伝えた。後ろは振り向かず、記憶と約束を頼りに人混みに消えていった。


 * * *


 彼女は人混みに消えていった。一途という花びらを散らしながら。「行ってくるね」っていう言葉に不安はない。この選択があってるかどうかわからない。それでも健気な背中を見ているとあいつを思い出す。不器用で勘違いしやすいあの男が相引さんと重なる。なんやかんやいって、ふたりは似たもの同士だな。まったく、手が焼けるよ。

「あれ、葵くん? どうしたのこんなところで。あ、そうだ。今買い出し中なんだけど手伝って……」

「千奈さん! 一緒に喜一を探してください!」

 偶然通りかかった千奈さんに頭を下げる。腰を九十度に曲げて必死で説得する。悪いことだってわかっている。千奈さんが俺に振り向かない原因はただひとつしかない。喜一にだけ見せる笑顔をいつも横目で見ていただけだった。喜一が死んだ今でも、その満開の花を見せてくれない。一年、一年だぞ。それだけ千奈さんの“真心”に根付いたものは枯れないらしい。

 それを知っていて、手を貸してくれなんて都合がよすぎるかもしれない。けど、俺にも、“真心”にある一枚の絵が、あいつの姿が必要なんだ。

「お願いです。相引さんと喜一を会わせたいんです。喜一のためにもこれしか方法がないんです」

「はぁ、まったく。その真面目さが憎らしいわ。……いいわよ、だから頭上げて。でもどうやって探すの。私見えないよ」

「実は……」


 * * *


 私はある場所を目指して走っていった。鼻緒が切れることなんてお構いなしに足をまわした。祭り会場の奥、そこの屋台はもう灯りが消えていた。段ボールを持って片付けをしている。待って……! 間に合って欲しい、その一心で体を動かした。滑り込むように、その勢いのままあじさんに声をかける。 

「菊二さん! 教えてください! “モドリ”に会う方法を」

「びっくりしたぁ……って嬢ちゃんじゃないか。葵のやつは……」

「お願いです。大事な約束があるんです。忘れてはいけない人がいるんです。ここで会えなかったら私……」

 それは数時間前の話だった——


『い、嫌だなー! 私金魚掬い初めてやるんですよ。人違いですって』

 苦し紛れについた出まかせだったけど、なかなかよかったと思う。昔見ていたテレビ番組がこうも役に立つなんてね。屋台のおじさんは明らかになにか知っているみたいだった。けど、今の喜一は私が幽霊で、自分は生きているって勘違いしている。伝えたほうがいいんだろうけど、もし真実を伝えて喜一が幽霊って自覚したら、消えちゃうかもしれない。せっかく会えたんだから、もっと一緒にいたい。生前行けなかったこの祭りを楽しみたい。私のわがままだけど、現実はもう少し後でいい。

 必死にアイコンタクトを送ると、おじさんは私に合わせてくれてた。そして何事もなく金魚掬いを終えた。

『嬢ちゃん、ちょっと』

 席を立とうとしたとき、屋台のおじさんが小声で呼び止めた。身を前に出して周りを確認し、怪しげな口調で話し始めた。

『お前さん、“モドリ”が見えてるんだろ』

『モドリ?』

『ああそうだ。お盆になると死者がよみがえってのある人に会いに行くって話だ。それを“モドリ”ってんだ。まあ尾美苗おみなえの都市伝説だけどな。わかっちゃいるだろうが、ボーイフレンドは嬢ちゃんにしか見えてねぇ。だから十分に気をつけるんだぞ。ボーイフレンドのことも、嬢ちゃん自身のこともな』

 手短に話してくれた。そっか、そういうことだったんだ。千奈さんの話でなんとなく予想はついていたけど、“見えないもの”がいるとはっきりといわれて少し動揺する。私には見えているし、たまに触れることもできる。もっと詳しく聞きたい。けど喜一を待たせたくない。惜しみながら、おじさんにお礼をいって喜一を追いかける。

『えへへ、金魚掬いのおじさんから割引券もらっちゃった。これ全部の屋台で使えるんだって——』


 菊二さんは顔を渋らせていた。その理由はわからないけど、ひどく悲しそうだった。

「ということは見えなくなったってことか。まずいことにならなきゃいいが」

「まずいこと……ってなんですか」

 聞くのを少し躊躇ちゅうちょした。菊二さんはなにか知っているのは間違いない。まずいという言葉に重みを感じた。受け止め切れるかわからない。もしかしたらまた、喜一のことを忘れるかもしれない。それでも知りたい、いや、知らないといけない。ふっと息を吐いて心の準備をする。

「初めにいっておく。俺はどうすれば会えるかはわからねぇ。けど、嬢ちゃんと同じ境遇の人を知っている」

「同じ境遇……ってまさか……!」

「あの人と面識あるらいしな。ここに来たときに、優しいお嬢さんに出会ったって喜んでてな。名前は……」

 あのとき感じたオーラは間違ってなかった。あの人の背中にひかれたのは同類だったからなんだ。モドリのことも、菊二さんや千奈さん、そして喜一の話がすべて繋がった。

 そう、あの人の名前は……。


「椿さん」

——椿さん。


 菊二さんは舌を打って、ため息をつく。とても重たくて地面に真っ逆さまだった。屋台の椅子に座ってポケットからタバコを取り出す。背中を丸めた姿に、数時間前のような明るさはなかった。

「一日一本って決めてたんだけどよ……許してくれ」

 ぼっと火がつくとタバコの先端は赤くなる。そして言の葉を代弁した煙が吐き出された。白い煙が空中に消えて、タバコの先から一筋の煙が天に昇っていく。両膝に手を置いて、地面の一点を見つめながら口を開いた。

「昔から美人で有名なんだ。俺が小学生のころ、椿さんはもう三十手前だったにもかかわらず、まるで学生のように若かったんだ。当時まだ彼氏がいなかったらしくて、なんとか口説こうとませたガキが増えたんだよ。俺もそのうちのひとりだ。」

 つらつらと並べられた内容は菊二さんの思い出話だった。もう何十年もまえのことで、私の知らない出来事や常識がそこにあった。

 タバコを吸っては話をして、灰を落としてまた話をする。手にタバコを持っているけど、その表情は少年そのものだった。

「でも椿さんはだれも相手にはしなかった。そしていつの日かその人気もなくなって胸糞悪いあだ名がつけられたんだ。今となっては話し相手は俺くらいだろうよ」

 そのとき、タバコの火が消えた。

 うれしいのか、懐かしいのか、はたまた悲しいのか。そんな大雑把な感情ですら判断がつかなかった。菊二さんの想いはそう簡単なものじゃないのかも。数十年間、募りに募った想いを知るなんて、今の私にはできそうにない。

 年季の入った思い出を聞いていると、ちょっとだけ心が落ち着いた。タバコの吸い殻を携帯灰皿に入れてポケットにしまう。口の中に残った香りに意識を持っていきながら、私のほうを向いた。

「椿さんは結婚予定だった幼馴染を亡くしたらしい。なのにこの祭りで一度だけ会ったことがあるんだってよ。おかしな話だよな。ここからは俺の予想だが、都市伝説は本当で、椿さんは今でもその幼馴染を探している。約束だって呟きながらな」

 用意していた言の葉を散らした。拾おうとしたけど、どれを選べばいいのかまったくわからなかった。目に涙をためている菊二さんに、私がかけれる言葉なんてあるかな。それと同時に、約束が未練になって、足枷になることに恐怖を感じる。通り過ぎる人の足音が鈍くこだまする。

 それ以降、菊二さんはモドリの話をしなかった。結局喜一と会う手がかりは得られなかった。

——時間がない。やっぱり椿さんを見つけるしか……。

 今度は丁寧に頭を下げてお礼を言った。菊二さんはダンボールを担いで背中を向けた。そしてひと言私にたくした。

「椿さんによろしく言っといてくれ。花火が終わるまでに」

 意志を受け継ぐように、力強く返事をした。

 心の奥深くで花の根が約束に深く絡まりつく。私も時間の問題みたい。


 * * *


「まったく、私が車で来てなかったらどうするつもりだったのよ」

「すみません……さっき思いついたんで」

「喜一に似てるわね。親友だからかな」

 俺は千奈さんに頼んで車を出してもらった。田舎の道は街灯がちらほらと並ぶだけで車の通りは少ない。ましてこんな時間に外出する人なんて帰宅途中の会社員か子どもを駅に迎えに行く親くらいだ。こう急いでいるときだけ、田舎でよかったって思う。もちろん、ちゃんと法定速度は守っている。つい気持ちだけ先走ってしまう。

 アスファルトの出っ張りで車が揺れた。

「で、そろそろ話してくれる? なんで栂坂とがさか駅に向かうのさ」

 急いでて、詳しいことを話してなかった。栂坂駅に着くまであと数分。座席の上の手すりにつかまりながら端的たんてきに話した。

「栂坂駅が心霊スポットっていわれている理由はわかりますよね」

「確か、自殺者があとを絶たないからだっけ。慰霊碑いれいひも置いてあるし、そういう噂がたつのはしょうがないよね」

 栂坂駅はネットで検索すれば予測で「栂坂駅 心霊」と出るほど有名な心霊スポットだった。実際に見たことがあるわけじゃないし、利用者も多い。心霊スポットっていうことは知っているけど、認識はしていない。その代わりに、昔から不思議に思っていたことがある。それは……。

「俺の勘違いだったらあれですけど、その慰霊碑、ちょっと変なんです」

「変ってどういうこと」

「千奈さんならひと目でわかりますよ。尾美苗神社のレポートを書くくらいですから」

 千奈さんは「なるほど」と言ってアクセルをさらに踏んだ。体が一瞬席に押し付けられた。周りの街灯がひとつ、またひとつと過ぎていく。

「ちょっと千奈さん、そんな急がなくても」

「なに言ってんの。一刻も早く玲奈ちゃんを助けないと。それに法定速度は守ってるわよ。ギリギリね」

 はにかんだ彼女の瞳は怪しく光を反射した。


 道路の脇に車を止めて栂坂駅の南口に到着した。この時間は駅員がいなくて、無人駅になっている。普段は連絡橋を通って南口に行ってるから、こっちからの外観は新鮮味を感じる。しかし今はそんな余韻に浸る時間はない。駆け足で慰霊碑に向かった。

「これよね慰霊碑って。見たところ普通だけど」

 駐輪場のさらに奥にある慰霊碑。その付近だけアスファルトで舗装されてなく、砂利が敷き詰められていった。三メートルくらいの慰霊碑の一番上には小さな地蔵が鎮座ちんざしている。その地蔵は線路のほうを向いて手を合わせていた。自殺者をとむらうためって聞いたことがある。それに関して疑問はない。だれがどうみても普通の慰霊碑だけど……。

「見てください。この一番下の土台だけ異様に古くないですか? まるで上半分を新たに作って乗せたみたいな」

「災害がなにかで壊れたとか? そう考えれば自然だけど」

「俺も最初はそう思ったんです。けどこの土台、どこかで見たことありませんか?」

 そういうと千奈さんは近づいたり遠ざかったりして観察する。さすが調べていただけあって、すぐに察した。

尾美苗おみなえ神社の灯籠と同じだ……!」

「そうなんですよ。土台部分が灯籠でその上に地蔵を乗せてる感じなんです。でもどうして灯籠なんだろう……」

「ちょっと待って。灯籠は“みあかし”のために使われるから……ということは昔ここにも神社があったってこと? ねぇ葵くん、この周りになにか建ってない? 標石や神社の名前が書いてるやつ」

 トーンを下げた真剣な声に俺も同調する。俺や千奈さんは喜一を探すことはできないし、相引さんに見つけてもらわないと意味がない。俺らができること、それはおみなえ祭りの都市伝説を紐解くこと。それがあいつらの助けになる、っと信じるしかない。

 慰霊碑の裏にまわってもなにもない。地蔵を眺めて尋ねてみても、しゃべるわけがない。別な場所を調べようとしたそのとき、視線を感じた。まさか……。もう一度その地蔵を見る。確かに体は線路側を向いているけど、目線はなぜか下のほうにある。慰霊碑って言うなら、ちゃんと前を向いているのが妥当。そうじゃないってことは……。そのまま線をたどるように顔を動かすと、草むらの中に石柱せきちゅうが刺さっていた。

「千奈さん! ありました!」

 草をかき分けて、その石柱を携帯のライトで照らす。

“おとこえ神社跡地あとち

 風化してところどころ読みにくいけど、確かにそう書いてある。

「やっぱりそうなのね。“おみなえ神社”と対をなす神社だから“おとこえ神社”ってことね」

 俺にはさっぱりだが、千奈さんは好奇の眼差しを石柱に向けてうなずいている。舐めるように下から上へ目線を流して隅々まで観察する。触りながら石柱の凹凸を確認していた。俺もなにかわかることはないかと必死で目を細めるけど……ただの石じゃん。これじゃないのかな。ほかの手がかりを探そうとしたそのとき、千奈さんはピタッと静止した。そして覗き込むようにして石柱の裏を見る。

 俺も気になってライトを向けるとなにやら傷がついていた。

「これは……文字? き、みが……さげよ……ってちょっと待って! 葵くん、私の車から適当に紙とペン持ってきて! 早く!!」

 一刻も争う様子の千奈さんに押されて矢のように飛んでいった。車のドアを開けて座席前のボックスを探す。紙はあったけど使っていいやつなのか……もういいや! 早く持っていこう! 

 急いでいたあまりに、ドアを強く閉めてしまう。やっべ、これ怒られるやつだ。よくはないけど今はいい、こっちが優先。持ってきたペンと紙を渡した。

「ナイス葵くん。ちょっとここ照らしてて。これをこうやって押し付けて、ゆっくり擦ると……」

 石柱に紙を押し当ててペンで凹凸おうとつを印刷するように擦った。一見ただの石の凹凸に見えるけど、さっきの傷がはっきりと浮かび上がった。


“きみがためかみにささげよをみなえし ひきゆるまえにうけとりたまえ”


 だれかが手で殴り書いたような歪な文字だった。二行に分かれているし、全部ひらがなだし。これは本当に日本語なのか? まったく読めない。

「こ、これは……呪文じゅもん?」

「いや、これは短歌だよ。君がため神に捧げよをみなえし、火消ゆる前に受け取りたまえ。つまり、“あなたのために女郎花を神に捧げなさい、それを火が消える前に受け取ってください”ってことかな」

 石に傷をつけるほどの念がそこにはこもっていた。生々しい肉筆にくひつに背中が冷たくなる。冷静、というかむしろ興奮気味の千奈さんは紙に漢字を交えて改めて書いてくれた。それをライトで照らしながらふたりで頭を悩ませる。

 この短歌になんの意味があるんだ。


 * * *


 目を覚ますと神社にいた。賽銭箱の横で乱雑らんざつに倒れていた。ライトに照らされたあとの記憶がない。そもそもどこまでが夢なのかわからない。まさに夢現の状態だ。掴みきれない状況にいらだちを覚える。けど、その感覚もすぐに消える。

「これは……」

 一直線に伸びる置き型の提灯。これがあるのはおみなえ祭りのときだけだ。頭ではわかっているけど、信じられなかった。提灯のもとに駆け寄った。まさか見慣れた古臭い提灯で心が休まるなんてね。もしかしたらさっきの出来事も、ただの悪夢なのかもしれない。

「そんなわけないよな……きっと夢だったんだ」

 境内の空気を切って祭り会場へ急いだ。少しでも早く玲奈に会いたい。ただその一心だった。


   ◯


 相変わらず人が多い祭り会場。みんな夜遅くに上がる花火が目的なんだろうな。家族連れやカップルが目に入る。

 正面入り口から入る。あてなんてあるわけないけど、積もりに積もった後悔が足を動かす。お願いだ、間に合ってくれ。

「すみません! ここらへんでアサガオ柄の浴衣を着た女の子見ませんでしたか。背丈はこのくらいで、髪の毛は……」

「残りあとわずかだよー。今ならサービスしちゃうよー」

「そんな……本当に……」

 心臓は耳で聞こえるほどに鼓動する。焦りがまた別な焦りを引き連れて大きく膨れ上がる。俺ひとりで抱えるには荷が重かった。思考がだんだんと崩れていく。

——嘘だ……嘘だ……嘘だ!

 すがる思いで玲奈を探す。これで見つからなかったら俺はどうなっちゃうのかな。いや、今はそんなことどうでもいい。玲奈と会えば答えが出るはず。

 コミセンの中を調べて、葵と出会った場所に移動する。そしてせん姉とぶつかった場所、一緒に話をしたテーブル席を順を追っていく。どこを探しても玲奈の姿はなかった。

「すみません!」

「アサガオ柄の浴衣を着てる……」

「だれか……反応して……」

 俺の声は地面を打って自分の耳に入るだけだった。


 * * *


 たこ焼き屋の前を全力で走り抜け、ガラス屋の風鈴を一斉に鳴らす。下駄は今日でだいぶすり減っただろうね。今日で使い物にならなくなるかも。そんなのはどうでもいい。喜一と会えればそれでいい。

 立ち止まってる人や向かってくる人を紙一枚で避ける。もしかしたら浴衣の袖や巾着はぶつかっているかもしれない。それでも私はただひとりを想って走る。

——喜一どこなの……!

 近くを見て、遠くを見る。右を見て、左を見る。挙動不審きょどうふしんな行動だってわかっている。けど、他人を気にする気なんてさらさらないよ。行動しないと得られないものがある。それが失敗に終わっても後悔はない。そう思うために足を動かさないと!

 刻一刻と迫る祭りの終わり。屋台を見ればそれが伝わってくる。

「いっそのこと祭りが終わってから探したほうが……」

 息が切れて立ち止まる。膝に手を当てて呼吸を整える。普段運動していないから……こんなところで体力が必要だなんてね……。

 顔だけ上げて次どこを探そうか目星をつける。すると奥に椿さんがいた。菊二さんの話が頭をよぎる。椿さんなら喜一と会う方法を知っているかもしれない。前のめりになりながら彼女を追いかけた。

「椿さん! 実は聞きたいことが……」

「もうダメだわ……! あの人に会えない!」

 椿さんは屋台裏の道端みちばたで突然倒れた。急いで駆け寄ると、声をあげて泣き出した。喉が潰れんばかりに嘆く彼女はあまりに幼かった。その声は耳には響かず、私の胸を締めつけた。不幸中の幸い、この道にほかの人はいなかった。屋台の人も気づいていない……のかな。

「椿さん、大丈夫ですか」

「優作さんごめんなさい……。私のせいであなたの右腕が……。もう一度見たいの、あの黄色い……黄色い……」

 必死に宥めようと背中をさするけど、私なんていないに等しかった。なにをしても落ち着くことはなかった。ポロポロとこぼす言葉は現実を突きつけていた。私も……そうなるのかな……。声は次第に出なくなっていた。目から流れる哀れな雫はまだ地面を打つ。

——これが椿さんの約束で、未練……。

 後悔先に立たず。宥めるのをやめて、彼女の正面に移動した。無慈悲むじひだと思うけど、貪欲に問う。

「椿さん、モドリについてなにか知っていることありませんか。些細なことでも構いません」

 さらに言葉を繋げようとしたその瞬間、椿さんはパッと泣き止んだ。ゆっくりと顔を上げて私を見る。いや、私の後ろを見つめる。はちきれんばかりに開いた目。丸々と大きくなった瞳が街灯に照らされて輝いていた。

優作ゆうさくさん……そこにいるのね。やっと……やっと出会える」

 小さな下まぶたで支えられなくて、たらたらと涙をこぼした。そしてゆっくり、ゆっくりと前へ足を動かす。まるで操り人形のようにたどたどしかった。ぶつかりそうになるのを避けて椿さんに声をかける。でも、なんて言えばいいの……。結局言葉が詰まって、ゆらゆらと歩いていく椿さんを見届けるしかなかった。

「もう覚悟はできているわ」

「椿さん……」

 黄色い花を踏み分ける椿さん。喜一のためには椿さんが必要不可欠。今さっき、彼女は亡くなった幼馴染と出会った、ようなそぶりを見せた。そこに答えがある。

——今いかなきゃ……椿さんを追わないと!

“ブッブー”

 突然、携帯のバイブレーションが鳴った。巾着から慌てて取り出して確認すると、向日くんからの着信だった。電話にでないと、けど椿さんを追わないと。迷ったすえ、携帯を耳元に持っていった。

「もしもし、どうしたの」

“相引さん! 女郎花おみなえしを探して!”

 電話の向こう側から必死な声が聞こえる。

「ど、どういうこと。女郎花って……」

“今栂坂駅にいるんだけど、ここは昔、おとこえ神社っていう神社だったらしいんだ。その跡地に石柱があって、裏に短歌が書いてあったんだ”

 向日くんいわく、その短歌の内容がこのおみなえ祭りの起源にかかわるらしい。たまに風の音や砂利の音がしてうまく聞き取れなかった。千奈さんの声も聞こえる。ふたりが私のために……。

 左手で目を擦る。まだなにも解決していない。ふたりの優しさに浸るんじゃなくて、それに応えないと……! ひと文字も逃さないように片方の耳を塞いだ。

“……になる。そしてこれを解釈すると、女郎花を神に捧げて死者と出会う。火が消えるまえは祭りが終わるまでを意味している。つまり、花火が打ち終わるまえに女郎花を探さないといけないんだ!”

「で、でも女郎花ってどんな花なの」

“今千奈さんが画像送った。それを頼りに探してくれ! 俺たちもすぐ戻るから!”

 メッセージの画面を確認すると一枚の画像が送られていた。それは黄色い花で、一輪大きな花が咲くというより、小さな花の集合体だった。これが喜一会うための鍵。そう思うと約束に根を張った花が急かすように成長する。

「向日くん、千奈さん。ありがとう!」

 通話を切って走り出す。黄色い花を喜一に渡すために。

 タイムリミットまであと……。

 待っててね、喜一。


 * * *


 急いで祭り会場に戻る。揺れる車の中で切れた通話を心配した。冷静になってからいろいろと気づく。俺らができることはほとんどここまで。小さいころからおみなえ祭りに行ってるけど、女郎花なんて見たことがない。それは千奈さんも同じだと思う。ないとわかっていて相引さんに探せと促した。残酷だったかな。千奈さんが険しい顔をしてフロントガラスの奥を見つめる。

「ちょっと思ったんだけど、おみなえ祭りって死者、つまり仏を降臨させる儀式ってまえ話したでしょ」

 重々しい空気が肺に入ってくる。千奈さんがこれから話す内容になんとなく察しがついていた。


「でもこれって降臨じゃなくて、生贄いけにえだよね」


 その言葉を口に出したくなかった。

 神のために女郎花と自らを捧げて死者と出会う。神は等価交換とでも言いたいのか。そこまでして会いたいものなのか。疑問に疑問が重なる。千奈さんは自論を並べた。それのどれもが納得できるものだった。

「もちろん、絶対死ぬとは書いてないけど、もしすべての噂や都市伝説がこのおみなえ祭りにかかわっているなら筋が通るんだよ。そう思わない?」

「女郎花は片道切符なんですね。千奈さん、仮にそうだとして、相引さんに伝えるべきだったんでしょうか。俺は……犯罪者でしょうか」

 沈黙が車内に広がる。ただひたすらに街灯が俺らの顔や上半身をかすめていった。

 高架下をくぐり抜けて、とびきり眩しい街灯が目を眩ます。一歩踏む込んだことを聞いてしまって、肩がさらに重くなる。後悔の文字が胸に残る。そんななか、千奈さんは静かに口を開いた。

「会えないっていうはそれだけでつらいんだよ。生きながら死ぬか、死んで生きるか。それを決めるのは私たちじゃない、約束なんだよ」

 それはまるで自分のことを語っているみたいだった。言葉のひとつひとつに現実的な感情が乗っていた。いまだに引きずっていると自ら述べているのと同じだった。

 すっと息を吸って、声のトーンを変える。

「狭間にいる彼女に道は示したし、あとは本人がどうするかだと私は思うわ。もちろん、絶対に死なせないよ」

「俺も絶対に救ってみせます。相引さんも千奈さんも」

 彼女がはっとした一瞬だけラッパスイセンが香った。俺の胸の奥深くに染み込んでいくのがわかった。さっきまで車内にあった重たい空気は消えていた。つらいのは相引さんのほう、俺がくよくよしてもしょうがない。

 俺のセリフが予想外だったのか面白かったのか、千奈さんはためたものを吐き出すように笑い出した。そして身軽になった車のシフトに手をかざした。花を咲かせた千奈さんはいつ見ても美しい。それに今の彼女は喜一といたときの狂い咲きだ。

「言ってくれるじゃないの。約束したからね」

「もちろんですよ」

「しっかり掴まってて。揺れるわよ」

「えっ……」

 言葉が出るか出ないかの瞬間、SUV車は悲鳴をあげながらドリフトをした。タイヤの擦れる音はしけた田舎道に響き渡った。

「法定速度どぉぉぉ……!」

「問題なしぃぃぃ……!」


 * * *


 カランカランと音を鳴らして屋台の裏を駆けていく。アスファルトの隙間、屋台の隙間、家の塀の上など、手当たり次第に女郎花を探す。けど黄色い花なんてなかった。たくさんの屋台を通り過ぎても見つかることはなかった。そう簡単にいくとは思はないけど、最初にここに来てから一度も黄色い花なんて見てない。祭り会場にはないのかな。でも、さっき椿さんは屋台の裏で想い人と会っているし。私と椿さんでなにが違うのかな。

 屋台の隙間を通り抜けて道に出る。

——ほかにありそうな場所は……。

 周りをキョロキョロしているのを屋台のおじさんと子連れの親子に見られる。

「あ、あはは……失礼しましたぁ」

 顔をうっすら赤らめてそそくさと逃げる。そしてまた女郎花を探す。

「すみません! この辺に女郎花って咲いてますか? こんなやつなんですけど」

「女郎花? 聞いたことも見たこともないな。悪いね」

 どの屋台の人に聞いても、みんな見たことないって答えた。何十年も屋台をやっている人やこの付近に住んでいる人にも聞いた。それでも知らないなら、だれに尋ねればいいんだろう。

 漠然とした不安が私をかすめる。手がかりであった椿さんはどこか行っちゃったし、教えてもらった女郎花は見つからない。

「やばい……やばいやばいやばい!!」

 突風が吹いたように飛ばされた。自分に置かれた状況がじわじわと実感になって焦らせる。タイムリミットはすぐそこ。

 もう一回入り口を探してみよう。落ち着け……落ち着け私。その道中に女郎花を探してみるけど、もちろんない。あっという間に入り口に着いた。

「見つからないなら再現すればいい」

「ねぇ喜一! あそこに焼き鳥があるよ! 早くいこ」

「んーこの焼き鳥美味しい! 美味しいなぁ……」

 このときの私はネジの壊れたブリキみたいだった。正常な判断なんてとっくにできていない。目も口も線で歪な弧を描く。今日の始めから祭りをやり直した。記憶を頼りに足早に進む。もしかすると喜一が来てくれるかもしれない。そう願いを込めて演技を続けた。

 次はコミセン、向日くんと会った場所、一緒にまわった屋台と、覚えているところを巡る。その間も周りを怪しげに観察した。女郎花がないか、喜一がいないか確かめる。きっと見つかる。きっと……

「あの人さっきからやばくない?」

「NPCと同じじゃね」

 お金を払って射的をする。輪投げもやる。記憶が曖昧になっていて次の行動に悩む。

「落ち着け落ち着け落ち着け! 次は……」

 ふらふらと動き出して、危なっかしく走る。考えている時間がもったいない。とりあえず進まないと。確かここの屋台、喜一とまわったような気がする。隣の屋台も……あれこっちの屋台も。あそこも、ここも、その奥も……あれ、こんなにたくさんまわったっけ……。

 視界が徐々に狭まっていく。

——ダメ、こんなところで力尽きちゃ……!

 

 その瞬間、見覚えのある背中が横切った。


 * * *


 俺は認めたくなかった。だから走り続けた。玲奈の背中をただ追い続ける。人の流れなんてお構いなしに、一応“物体”を避けてみる。浴衣を着ている人が存外多くて、似たような浴衣に振り回される。

「玲奈! ……じゃない」

「れい……」

「やっと見つけ……って違う、玲奈じゃない……」

 玲奈探しは難航した。どこを探しても見つかる兆しすら感じない。本当にここにいるのか。あのあと帰ったってことも考えられる。くそ……それじゃあもう……。

 道のど真ん中で足を止めた。屋台や祭りを楽しんでいる人は俺を気にも留めない。目も合わせない。


「俺は……どうして玲奈を探しているんだろう」


 周りの音が次第に聞こえなくなった。脳内に残るはあのときの頭痛と同じ耳鳴りだった。祭り会場に飲まれてしまう。重たい水の中にいるように、あらゆる音が鈍く反響する。体もふらふらとしてきた。倒れそうになったけど、なんとか足を出して耐えた。でも体のふらつきとは別に、後悔の感情のせいで地面に膝をつく。

「ごめん……ごめんよ玲奈。約束も守れない俺なんて……」

 もうすでに泥沼の中心に取り残されていた。草木も生えず、だれの助けも来ない。ただひとり、虚しく懺悔するだけだった。


“チリンッ”


 突如鳴った風鈴は一面を縁日に戻す。目を覚まして色づいた景色を眺める。ゆっくりと立ち上がって、怪しげに体を曲げて周りを警戒する。

“チリンッ”

 また鳴った。風鈴に体が反応して真横を見る。そこは風鈴の屋台だった。ひとつだけが音を立てず小さく揺らいでいる。ここの屋台の前を通ったことある気がする。ゆっくり近づいてそれを眺める。そう、確か玲奈がこんな風に手を伸ばして……。

「この風鈴……ってもしかして!」

 少し距離をとった。ちょうど人ひとり分のスペースを作って、目線を少し下げた。両手の人差し指と親指で枠を作って覗き込む。その景色に既視感があった。やっぱりそうだ。ここに玲奈が収まる。まるで絵画のように美しい瞬間だったのを覚えている。

「集めなきゃ」

 また走り出した。今度は確かな足取りで。この祭りに来てから、たびたび目にしたその芸術品。記憶の奥にしまい込まれたその絵画を集めれば、玲奈に会える気がした。

——あんな終わり方なんてあるもんか。俺はまだ生きている!!

 屋台の隙間を通っていく。そのときに、かすかにアサガオ柄の浴衣が見えた気がした。


 * * *


「喜一!」

 あれは間違いなく喜一だった。見間違えるはずがない。屋台の隙間に吸い込まれるように入っていった彼を追いかける。今度こそ絶対に……喜一に会うんだ!

 人がひとり通れるほどの空間を抜ける。勢いよく飛び出したけど、だれもいなかった。喜一だけじゃなく、屋台裏で休憩している人すらいなかった。段ボールがちらほら置いてある。いないと思いつつ、影に隠れていないか確認する。……まあいないよね。冷たいアスファルトのせいで弱音を吐いてしまいそう。

「喜一も私を探してるんだ。それなら私が諦める理由はないよ」

 自分を鼓舞するようにピシッと顔を叩いた。もう一度、今日の祭りを再現してみよう。大丈夫、喜一はすぐそばにいる。


 流れるようにポイントを中継していく。

「花火どこで見よっか」

「そうだなぁ、神社の階段が空いてたらそこにしようか」

 すれ違ったカップルが手を繋ぎながらタイムリミットを知らせてくる。当然花火を見るために来ている人がたくさんいる。夏の風物詩だし、恋人のメインイベントだから。恋の花を咲かせるカップルと私とのコントラストがひどかった。どれもこれも私にとっていばらでしかない。悔しくて情けなくて唇を噛んだ。

——私はなにしてるんだろう。

 約束に囚われて足をまわす。それでも喜一は見つからない。喜一に会いたいから汗を流すのか、約束を果たしたいから走っているのか、不安な気持ちをなくすために彼を探しているのか。自問する私と沈黙する私。両方が混在する花園はなぞのは乱れに乱れている。

 コミセンの中に入ってコインロッカーを確認する。そしてそのまま外に出た。次は向日くんと……。

“キーン”

 激しい耳鳴りとともに頭痛が襲う。図書室のときと痛みは同じだった。けど治まる傾向がない。だんだんと大きくなる痛みに耐えきれなくて、コミセンの壁にもたれかかった。頭を抱えても叩いても変わらない。ぐっと堪えた息が漏れる。

「き……いち……」

“玲奈……!”

 耳鳴りの奥でだれか私を呼んでいる。その声は恐ろしく彼に似ていた。

“玲奈!”

 喜一の声……間違いない! 枯れそうな喉で遥か遠くから叫んでいる。喜一がそばにいる。喜一が私を探している。今も昔も私は単純だった。一歩、また一歩と足を踏み出した。それは駆け足に変わって、声の主の元へ一直線に向かった。

 まだ痛いよ。正直うずくまりたい。けどそれ以上の感情が背中を押してくれる。こういうのってがむしゃらって言うんだろうね。

「もう少しで会える」


 * * *


 焼き鳥屋、とある屋台の前、祭り会場と路地の境目。彼女が絵として花を咲かせた場所を巡り巡った。記憶が曖昧になってるせいで、適当に作られたブーケのように乱れていた。どれが本当の思い出なのか判断がつかない。電柱に手をついて死に物狂いで頭を整理する。それがかえって焦燥感をあおって、余計に混乱する。

「くそっ! なんで思い出せないんだよ!」

 拳を打っても打出の小槌のように妙案が出てくるわけがない。大黒天にでも玲奈を出してくれと頼もうか。いや、冗談なんて言ってる暇はない。葵やせん姉は? まだこの祭りにいるかな……っていたところで俺は見えないか。俺の問題なのに、他人任せの考えしか出てこない。

 立ち止まってもなにも得られない。それならと歩き始めようとしたそのとき、激しい耳鳴りとともに頭痛が襲う。

 それもさっきまでとは違って、すぐに治らない。頭を抱えて電柱によりかかる。風船が膨張ぼうちょうするように痛みが増してくる。強く頭を抑えすぎたせいで髪の毛は型など留めていていない。

「玲奈……!」

“き……いち……”

 頭に響いてきた声は聞き覚えのある声だった。無邪気で感受性が豊かなあの声だった。

「玲奈!」

 彼女が俺を呼んでいる。そう思い込んでからが早かった。いち目散にその声の主を探す。声が反響してどこにいるのかわからない。それでも確かに、玲奈は近くにいる……!


 私は十字路を突っ切って奥へ進む。頭痛がひどくて喜一の声に集中できない。けど後ろから気配を感じた。


 俺は真っ直ぐ走った。だれかとぶつかってるなんて気にかける余裕はなかった。けど確かに気配を感じる。


——喜一……。

 もう離れないと誓って。


——玲奈……。

 まだ間に合うと信じて。


“チリーン”


 私は思わず立ち止まる。頭痛はもうない。


 俺は反射で振り返る。耳鳴りはもうしない。


 今、この十字路の真ん中で確かにすれ違った。

 鈴の余韻が脳の端にまで届く。

 私は高鳴る鼓動を抑えて手を伸ばす。すぐそこに喜一がいる。きっと触れたらわかるはず。


 俺は手を伸ばして玲奈を探す。今すぐにでも抱きしめたい想いを心の奥に忍ばせる。


 十字路の中央、おそらく目の前に喜一がいる。そう思うと急に恥ずかしくなって髪の毛をいじる。喜一はどんな顔をしているのだろうか。私はとびきりの花を咲かせて彼と向き合った。

 しかし、私の花は根から抜き取られた。

「消える……」


 玲奈に触れようと一歩前に出た瞬間、通るはずがない車にひかれた。


 * * *


 暗く冷たい路地の片隅で、私はひとり体育座りでうずくまっていた。浴衣が汚れるなんて気にもとめず、街灯の影に身を隠していた。

 祭りの賑わいが遠くで聞こえる。距離は離れていないのに耳が受け付けない。

「もう……無理だよ……」

 足首につけているミサンガを手で優しくなぞる。こうしていると喜一が慰めてくれそうで、少しだけ安心した。それと同時に我慢していた涙が溢れ出した。声を押し殺して涙を止めようとするけど、ミサンガのせいでいろんなことが頭をよぎる。喜一との学校生活、帰りに寄ったコンビニ、一緒に座った地下鉄、改札まできてくれる喜一。

 今はもう灰色の思い出になっている。そんななか、記憶のすべてに黄色いミサンガだけが光り輝いていた。手を振る、手をつなぐ、頭を撫でられる、片方のイヤホンを渡される。

「ほんと……大好きなんだなぁ……私」

 フィルム映画みたいに記憶の断片が切り替わる。懐かしみ半分、切なさ半分。人はこれをなんて言うのかな。

——いっそこのまま、ずっとここで喜一のことを……。

 浴衣に顔を埋めた。涙を拭くという口実で自分の世界に入り込んだ。

「お姉ちゃんどうしたの?」

「えっ……」

 人がいたことに驚く。顔をあげるとそこには男の子がいた。小学校低学年ほどの背丈で黄色の半袖と黒いジャージの短パンを履いている。子ども独特の動きを見せて純粋無垢な眼差しを向ける。だれだろうこの子……。不自然にまじまじと見る。あっ……私泣いてたんだ。思い出して、そっさに涙を拭く。

「僕、迷子? それともこの辺に住んでるの?」

「迷子じゃないよ。僕ここに住んでるんだ。お姉ちゃんこそ迷子? 泣いてたもん」

 私より遥か歳下のはずなのに、私が座っているせいか、この子が頼もしく感じる。そのんだ瞳を見続ける勇気はなくて、ゆっくり目線をずらして下を見る。

「迷子……なのかな。これだけやってダメなら、会わないほうがいいのかな。ってごめんね急に変なこといっちゃって」

「はい、これあげる」

 元気な声が私を振り向かせる。男の子が目一杯腕を伸ばして両手で差し出す。これは……。


「き、喜一の……ミサンガ……!」


 ところどころ汚れているけど、喜一のミサンガで間違いない。記憶の中にあったミサンガがそこにある。この黄色とグレーの組み合わせを見たのはいつぶりかな。震えながらそれに手を伸ばそうとする。けど、それを受け取る勇気がなかった。

「どうして君が持ってるの」

「去年のお祭りのときね、僕急いで神社にいってたの。道路に出たら車が横から来てたんだけど、お兄ちゃんが助けてくれたんだ。僕は大丈夫なんだけどお兄ちゃんは死んじゃったの。そのときにこれをもらったんだ。“勇気が出るお守り”って言ってた」

 話をさえぎって、思わず「えっ」っと声を出してしまった。息を飲むように手を口元に当てていた。一生懸命話す男の子の言葉を一言一句逃さず聞くと、次第に心臓が不規則に揺れだす。

——喜一は自分から車にひかれにいったって……ドライブレコーダーにもそう映ってるって……。

 改めて男の子を見た。小さくて私が座っていてもちょっと目線が上にあるくらいだった。

「映らなかった……」

 ぽつりと呟いた言葉に男の子は首を傾ける。そして真実を知ってしまった。


「喜一は、自殺してない」


 ひと粒の雫が浴衣に落ちた。

 喜一は自殺してない。ちゃんと約束を守ってくれてた。私が自殺に追いやったわけじゃなかったんだ……。ごめん喜一、信用してあげれなくて……本当にごめん……。

 大きな涙は次第に数を増やした。約束を忘れてなかったことは嬉しいと思うけど、喜一が死んでいるし、嬉しいと言えない。むしろ勘違いをして、勝手に落胆して、勝手に泣きわめく、そんな自分が嫌になった。

「お姉ちゃん、これをつけてるとね勇気が湧いてくるんだよ。僕ね、その日からいいことたくさんしたんだ。お姉さんちゃん迷子なんでしょ。だからこれあげる」

 男の子が再度ミサンガを差し出した。これを受け取る資格があるのか疑わしい。喜一がこの子に渡したものだし、この子が持ってたほうがいいのかも。迷って手を出しそびれていると、手を引っ張って無理矢理持たせた。

「でも、本当にいいの? 大切なものなんでしょ」

「僕にはもう必要ないから。にしし。」

 無垢な笑顔が咲き乱れる。それのおかげで、胸のあたりが暖かくなる。「じゃあねお姉ちゃん」と手を振って、男の子は祭りの会場へ走っていった。小さな体は瞬く間に消える。ひとり残された私は喜一のミサンガを手につけた。こんなにもボロボロになっても切らないでいるのは糸のおかげなのかな、それとも喜一のおかげなのかな。自然と口も緩んで花が咲く。

「もう少しだけ浸ってから帰ろうかな」

 片方の手は二の腕あたりを掴んでもう片方の手は下駄の鼻緒を触る。足だけかすかに街灯に照らされている。

——今日は本当にいろんなことがあったね。喜一は今なにしてるの。

「私の隣はいつでも空いてるよ」

 座り直したそのとき、手首につけた喜一のミサンガと足首につけている私のミサンガが触れ合った——


『え、どこ?』

 一瞬眩い光に包まれたかと思うと、濁った水の中にいた。身動きは取れるけど、上下左右がわからない。ただなにもなく浮かんでいる。

“約束だよ、お兄ちゃん”

 どこからか男の子の声が聞こえてきた。けど聞きたことない声。

“じゃあ六時に集合な。約束だよ”

“大丈夫、約束は覚えてるよ”

“約束する。玲奈のためだから”

 頭に入ってくる映像と声が繋がった。

『これは……喜一が交わした約束の記憶……』

 数多のシチュエーションが泡のように浮かんで消える、浮かんで消えるを繰り返す。小さなころの些細な約束から私とした約束までいろんなものがあった。普段は気にしてなかったけど、人ってこんなに約束を交わすんだね。

『喜一だからか……だれよりも他人の笑顔が好きだから』

 するとそのとき、私の下のほうから大きな泡がやってきて私を包み込んだ。ぎゅっと目を瞑り衝撃に耐えようとする。そのとき、脳の中枢ちゅうすうに刺激が走る。浮かび上がる映像と声が断片的に入ってくる。

 そして私を包んでいた大きな泡は盛大に弾けた——


「思い出した……私がここにきた理由」

 バッと立ち上がって土埃を払う。そしてもう一度ミサンガに触れると耳鳴りがした。けど頭痛はない。まるで同調するみたいに細かく音を震わせている。

 もう少し……もう少しで音が……。喜一、私はここにいるよ。喜一……好きだよ。


 音が重なった。


「そこにいるのね喜一」

 祭り会場も民家も木々も眼中にない。私の目指す場所はただひとつ。尾美苗おみなえ神社。

 ゆっくりと深呼吸する。不思議と今は心が安定している。心臓も正常だ。

「待ってて」

 黄色い花びらを撒き散らして祭り会場に踏み込んだ。ぶれることのない“真心”の花を心に植えて。


   ◯


 道の真ん中を駆けていく。ここを通ったのは今日で何度目かな。屋台の人も不審に思うに違いない。それでももう迷わない。汗を流す顔に不安の要素はない。

“ヒュー……バンッ!”

 猛烈もうれつな光が炸裂して、遅れて火花が散る音が聞こえてくる。

「始まった!」

 タイムリミットは刻一刻と迫っている。この花火が終わるとき、それは喜一との別れを意味していた。焦る気持ちを抑えてひたすらに前へ進む。ここが踏ん張りどころ。焦ってこの機会を無駄にしたらもう二度と会えなくなる……! 十字路で人にぶつかりそうになる。間一髪で止まって「ごめんなさい!」と頭を下げる。申し訳ないって思うけど、相手の様子をうががう暇なんてない。十字路を曲がって走り出す。あとはここの直線を突っ切れば神社に着く。尾美苗おみなえの地の利がなくても、自然とルートが見える。

——この黄色い花を追っていけばいいのね。

 導かれるように地面に咲く女郎花をひとつひとつ通り過ぎていく。前を見ると尾美苗おみなえ神社がある森が暗闇にうっすらと露出している。

「もう少し……!」

 しかしその視界は突如さえぎられた。

「やっと見つけた。薬物の使用の疑いおよび公務執行妨害で署まできてもらおうか」

「放して! お願いですから!!」

「うるさい! 大人しくしなさい。おい、手錠」

 警官が数人いた。彼のすぐ後ろに人影が見える。あれは……私に絡んできた三人組だ!

 ここで捕まれば喜一に会えない。警官の忠告ちゅうこくを無視して隙間を抜けようとするけど、大人数でいろんなところを掴まれてた。腕を乱暴に捻られて骨がみしみしと音を立てる。大人でも子どもでも、この状況を打開するなんて不可能だよ……。

「やめてください! 彼女がなにかしたっていうんですか!」

「なんだね君は。部外者は引っ込んでなさい!」

 仲裁しようと私と警官の間に入り込んだのは向日くんだった。けど力や言葉で敵うわけもなくて、警官のひとりに引き離されてしまった。気持ちだけは諦めないで、必死でもがいた。それでもびくともしない。嘘……嘘よ……こんな形で終わるなんて……。

 諦めようとしたそのとき、割り入って警官の手首を捻る人影が見た。なにがなんだかわからなくて、されるがままに体を動かす。その人は優しく解放して自分の背中に私を隠した。

「大の大人がこぞって女の子を取り合うのって惨めだわ。欲求不満なら私も混ぜてちょうだい」

「千奈さん……」

 ライラックの香りが漂ってきた。その匂いに安心して少し目が潤む。私たちと警官の間に夏の生ぬるい風が吹き抜ける。じりじりと近づいてくるに対して、私たちも後ろに下がる。

 一触即発な空気感に先手を打ったのは千奈さんだった。

「こんな乱暴なやり方ないんじゃない? 彼女の手首真っ赤になってる……痛そうに」

「しのごのいわずに彼女を渡しなさい。でないと君も逮捕するよ」

 そういって私の手首をまた掴んだ。力加減なんて言葉を知らないらしく、爪を立てて握ってきた。痛い……痛いよ……喜一。千奈さんは警官の腕を掴んで抵抗してくれている。私のために警官に歯向かうなんて、普通だったらありえない。そこまでしてくれるんだ……ありがとう。

 感謝と応援を心の中した。でも現実は残酷で、力の差は歴然だった。もう無理だよ。そう思ったとき、近くの屋台で轟音ごうおんが鳴り響いた。なにごとかと目を向けると、射的の屋台がめちゃくちゃにされていた。

「おらぁぁ!!」

 暴れているのは向日くんだった。テーブルを蹴り飛ばして、射的の銃を商品に投げつける。彼の意図はすぐに理解できた。身を挺して自分に注意をひきつけようとしてくれている。そして彼の思惑どおりに三人の警官が彼を止めに入った。向日くんまで……。

 それでも、私の手首を握っている警官だけは微動だにしなかった。

「さあ来なさい。君もだ」

「放せっていってんだよ……言葉も通じねぇのかこの腐れ外道が!!!!」

 私の知らない怒号が聞こえた。私まで萎縮した。普段の千奈さんからは想像つかない男勝りな声だった。ここにいる全員が必死だった。約束のために逃げたい私、私を行かせたい千奈さんと向日くん、そして法を取り締まる警官。彼は掴んでいる手を緩めることはなかった。子どもが大人に敵うわけがない。現実を見ろ。喜一は死んだ。死んだ人間には会えない。それはただの都市伝説だ。妄想だ。そんな無言の圧力を感じた。

——そんな……こんなところで終わりだなんて……。

“ビチャ”

「んあぁ!?」

 突如警官の顔になにか投げつけられた。その破片はとても冷たかった。よく見てみると赤いシロップのようなものがこびりついていた。これは……かき氷!? いったいどうして……。

 警官は思わず手を離した。なにが起きたかわからず呆然とする。そのとき、だれかが私の肩を叩いた。ポケットに手を入れてメガネをくいっとあげる。

「いけ。ここは任せろ」

 それは立花くんだった。喜一から話は聞いていた。喜一の葬式で一度しか会ったことないし、そんなに面識がない。それなのに、昔からの友達みたいに、クールに私を先に向かわせようとした。事情を知っているのかどうか知らないけど、今はそんなことはいい。足を動かして神社へ向かう。

「待ちなさ……ってあらっ」

 警官はキーホルダーを踏んだ。私が落としたあのおみにゃんだった。こんなところにあったんだ。撒き散らしたはしまきの油がついていたのかな。足を滑らして転倒する。

「玲奈ちゃーん! 頑張れぇぇ!!」

 その叫びは追い風となった。葵くん、千奈さん、そして立花くん。みんなからもらった花を束ねてひとつのブーケにする。その気持ちを胸に、大きくを張って前進する。私はひとりじゃない。まだ枯れていない。みんなからもらったこの花束を喜一に渡すんだ!

“キキーッ!”

 車が急ブレーキをして体スレスレで止まる。それでも足は止めない——


『確かこの切符でいいはず……。あれ、どこのホーム行けばいいんだろう……』

『この列車でいいんだよね。もうだいぶ来ちゃったけど』

『約束、したもんね』


 初めての列車に苦労したのを覚えている。同じ改札なのにプレッシャーが地下鉄と全然違う。今日の出来事なのに懐かしく思う。今日起きたことすべてが現実なんだ。喜一にあったことも全部。

 浴衣をなびかせ駅前の広場を駆けていく——


『焼き鳥は持てるんだ。どうしてだろう』

『ん? なんかいった?』

『ううん、なんでもないよ。それより次は——』


 広場を突っ切った先には幅の広い道路がある。幸いにも車は通ってなかった。そのまま一直線に進む——


『喜一が私の手を……自分の意思でなら触れるのかな。でも本人は気づいてないっぽい。いつもこうやって歩いてたもんね』

『それじゃあいこうか』

『うんっ——』


 銀行の駐車場には数台車が止まっていた。その敷地と神社の狭間に登れそうな場所があった。階段があるわけじゃないし、暗くて先が見えない。怖い、でも行かなくちゃ! 迷うことなく縁石を登って獣道へ入っていく。

「いたっ!」

 地面には人が歩いた形跡があるけど、草木の手入れはされてないらしい。鋭利えいりな木の枝が私の頬を傷つける。急勾配きゅうこうばいでも果敢かかんに立ち向かう。足を踏み外して滑り落ちる。ミサンガを見つめる、拳を握る、歯を食いしばる。頑張れ私……! 負けるな私……!

「喜一と約束したんだ!——」


『それでも私は喜一が好きだよ』

『ずっとそばにいる。だから自分をそんなに責めないで——』


 気がつくと、下駄を履いていなかった。素足で必死に登っていた。地面にある小石や木の枝が足の裏に刺さる。けど喜一の痛みに比べたらこんなのっ!

 なんども転んでなんども滑って。指は泥だらけになって血が滲む。

「私がここへきた理由……約束を果たすためでしょ。挫けるな!」

 カッと頂上だけを見つめて登り出す——


『もし君が遠くへ行っても、たとえ君がまた自殺しようとして死んだとしても——』


 頂上付近にやって来ると道がなだらかになっていた。目の前には境内が見える。もう少しで神社に着く。もう少しで喜一に会える。動いて……動いて私の脚! ぽっかりと不自然に空いた隙間を目指す。汗なのか涙なのかわからない。顔にしたる雫を腕で拭く。最後の力を振り絞って全速力で走る。


「私は絶対、君のそばにいるよ!!」


 力尽きる直前で、神社の境内に向かって大きく飛躍ひやくした。お願い、届いて……! 彼との約束を果たすために、境界を渡る。

“チリーン”

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