【幕間 宇水千奈】

「それじゃあよろしくね」

 私がまだ小学二年生のころ、彼はうちにやってきた。親同士が昔からの知り合いだったらしくて、彼の母親はたびたび「面倒を見てほしい」と幼い息子を置いて仕事に行く。小学生の私はそれについて深く考えることはなかった。遊び友達が増えた、としか思ってなかった。

「喜一! 今日はなにする?」

「公園いきたい! お砂遊びしよう!」

 喜一が成長するにつれて、一緒に遊ぶ頻度も高くなっていった。虫取り、水遊び、木登りや雪合戦。休日はコミセンの図書室に入り浸っていた。

 当時の私は活発かっぱつな子だった。クラスメイトの男子に運動で負けたことなど一度もない。夏は半袖に短パン、冬はスキーウェアを身にまとって学校周辺を走りまわっていた。もちろん喜一も一緒だ。

「喜一! 神社まで競走だ!」

「せん姉ちょっと待ってよぉ……」

 ことあるごとに喜一を連れ回した。それが楽しかった。そこに恋愛感情はなく、実の姉、いや実の兄のように可愛がっていた。無意識にひとりにさせないと“彼”に誓っていた。

「大きくなったらせん姉と結婚する!」

 と言って、今折っていた折り紙を私にくれた。それは不恰好ぶかっこうで暖かみが詰まったラッパの折り紙だった。彼も彼でませた約束をした。


   ◯


 小学校から中学校にあがっても私たちの関係は変わることなかった。学校から帰ったら一緒に遊ぶかご飯を食べる。休日はどこか出かける。喜一がいじめられていたら、助けに入る。地元だし、クラスメイトが大きく変わるわけじゃない。ただ行く学校と先生が変わっただけだった。周りが部活や恋愛に花を咲かせているのことに微塵みじんも興味なかった。

「おい濃口醤油、来週末暇か? 花音の家でお泊まり会やるんだけど」

「あーごめん。喜一と約束あるんだ」

「喜一喜一って……。俺らとも遊べってぇの……」

 学校が終わったら喜一の家にいくのが毎日の日課だった。もちろん家にいないときもある。会えないと寂しいけど、それでも家に行くまでの胸の高鳴りは今でも覚えている。「せん姉」と呼んでくれるあの声を求めていたのかもしれない。

「今日はなにしよっかな」

 いつからか、私は彼の兄だと本気で思っていた。


   ◯


 喜一が中学生になった。私も気がつけば高校一年生だ。春先のある日に下校している喜一を見かけた。新品の制服がなんとも初々しくて頬がにやけてしまう。友達と歩いている彼に急接近して、普段となんら変わりなくちょっかいを出す。

「よう喜一! このあと暇か? 今くっそバッティングセンター行きたいんだよね」

「や、やめろって。そんなに近づくなよ」

 彼は私から距離をとった。怒っているわけでもなく、嫌っているわけでもない。昔とは違う彼がいた。それに衝撃を受けた私は顔の表面は笑いながらそそくさと家に帰った。部屋に入ってカバンを放り投げた。そして魂が抜けそうなため息をこぼす。頭はもう理解している。喜一はもう子どもじゃないことを。そして私の気持ちにも。

 カバンから荷物を取り出して整理する。そのとき、古文の教科書を見てひらめいた。

「そうか。喜一に勉強を教えればいいのか。そうすれば喜一も恥ずかしくないはず。あとは……」


「せん姉!? どうしたんだよその髪型」

「ふふふ、どうかな? イメチェンしてみたんだけど」

 長かった髪の毛をバッサリ切ってショートヘアにした。うなじあたりに春風が当たる。髪の毛とともに昔の自分を捨てた。兄ではなくひとりの女性として喜一に約束をする。

「今度うち行っていい?」


 それから吹奏楽部に入った。楽器はトランペット。少しでもできたら喜一に聴かせて感想をもらう。それが私のモチベーションになっていた。勉強も部活も両立して、少しでも時間があれば喜一に会いに行く。

 高校時代、なんどか告白されたけど、すべて断った。ほかの男なんて興味なかった。だからかな、今でも遊んでいるのは中学時代の友人ばかり。

 コンサートに来てくれる喜びを知った。部屋で勉強を教えるという口実を作った。暇だからと言ってご飯や寝泊まりを一緒にした。このころから狂い始めていたのかもしれない。心の奥深く根付いた優越感の花は独占欲どくせんよく胞子ほうしを撒き散らしていた。

「喜一、私が彼女になってあげようか」

「飯代で財布吹っ飛びそうだわ。それよりなんかゲームしね? 今なら勝てる気がする」


   ◯


 大学生になって、新しい世界に心を躍らせていた。しかしそれは私だけではなかった。

 ある日、講義が終わって帰宅するところだった。地下鉄の改札を出て、駅のショッピングモール内を歩いていた。すると目の前から高校生カップルが手をつないでこちらに向かっている。

——若いねぇ。

 彼らを避けようと横に移動したときに声をかけられた。

「あれ、せん姉?」

 体感温度が一気に下がった。血の気が引くとはこういうことなんだと初めて知った。恐る恐る声の主に目を合わせると、やっぱり喜一だった。しかも知らない女と手を繋いでいる。

 喜一はあれこれ説明してくれている。そんなの耳に入るわけがない。唖然とする私を置いてふたりは楽しげだった。玲奈という女は終始弾けるような笑顔だった。耐えきれなくなって、散った花びらを蹴るようにその場から逃げた。そして家に着いたら部屋にこもって、部屋の片隅で縮こまっていた。

「千奈はダメで、玲奈はいいんだ」

 しばらくすると、私の心に新たな花が芽を出した。


 SNSで玲奈と連絡を取るようになって、ときが経たないうちに友人になった。向こうの認識では喜一の姉ポジションらしい。私がどれほど喜一に時間をかけてきたのか知らない女、私がどれだけ喜一のことを愛しているのか知らない女、私の心の支えを奪ったゲスな女。

 どうにかして取り返せないかと案を練ろうとしたけど、まったく思いつかない。喜一に色気作戦は効かないし、会える時間が昔より少ない。そしてなにより、玲奈のことが愛らしく思ってしまった。

 よく笑い、よく食べ、よくしゃべる。見知った相手に対して感情を表現するのが得意らしく、あざとさを感じなかった。

——勝てない……のかな。

「どうかしました?」

「ううん、なんでもないよ。ほら遠慮しないでデザートも頼んでいいからね」

 私の芽は蕾から成長しなかった。


   ◯


 子どもの戯言たわごとに縛られていた私は抜け殻となった。

「結婚するんじゃなかったの。先に逝ってどうするのさ」

 喜一の墓の前で残夏ざんかの風を浴びていた。四角く色づきもない灰色の物体が彼なんて、信じるもんか。触ってみると陽に照らされてせいで熱くなっていた。その場にしゃがみ込んで頬杖をつきながら“後藤家”という文字を眺める。すると今になって涙が溢れてきた。

「ひとりにしないって約束したのに」

 いっそのこと雨が降ってほしいと願うばかりだった。


「やっほー喜一。今日ね、レポート発表だったんだけど、教授に褒められちゃった」

 あの日から、私と喜一は昔と同じように毎日会った。

「この曲難しいんだよね。あ、今馬鹿にしたでしょ」

 雨の日も風の日も、雪が積もっていても会いに行った。

「あ、流れ星! 惜しかったなぁ。お願い事するまえに消えちゃった」

 喜一が好きだったジンジャエールの缶をいつも持っていった。乾杯できるようにオレンジジュースも忘れてない。

「ねぇ喜一、一度でもいいから姿見せてよ。早くしないとほかの人に取られちゃうぞ」

 墓石と背中合わせになって縮こまる。声が震えてるのを悟られないように顔に花を咲かせた。そして綺麗にラミネートされた不恰好なラッパの折り紙を両手で包み込んだ。

 墓地に通うひとりの女、今日は新月が美しいですね。

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