【幕間 後藤喜一】

 物心ついたちょうどそのころ、俺は兄を殺した。

 

 三つ上の兄がいた。彼はとても活発でいつも泥だらけになって遊んでいた。何回怒られても眩しい笑顔で返答する。そんな兄にいつもくっついていた。買い物をするときも、遊びに行くときも、風呂に入るときも。外から帰ってきたら服についているひっつき虫みたいに、俺は兄に依存していた。

 兄のお気に入りの服は黄色の半袖と黒いジャージの短パンだった。事件当日もその服を着ていた。自転車を漕いで、尾美苗おみなえ神社に向かった。家から数キロしかないけど、子どもにとっては遠出だった。敷地が広くて、普段人がいないため遊びやすい。神社の周りを囲むように木が植えてあるのも、好奇心を駆り立てる。

 俺と兄は境内の横に道みたいなものを発見した。そこをよく見てみると、銀行の駐車場につながっていた。母さんとたまに来る銀行だ。

「喜一! 探検だ!」

「おー!!」

 探検ごっこと命名して、枝を手に持ちながら坂道を下る。舗装ほそうされているわけでもなく、ちた木の階段が少しあるくらいだった。正直、下るのが怖かった。子どもに限らず、大人にとっても急勾配きゅうこうばいで、慎重に足を運ばないと滑り降りる。この道を使っている人はいないんだろう。朽ちた木の階段に苔が生えているし、そもそも階段がない部分が多い。土が露出した道が続いている。それが危険だなんて、幼い頭では思いもしなかった。

 兄は順調に降りていった。俺も負けじと小さな足をえっこらえっこら動かす。それでも追いつけなくて、気づいたらはるか下のほうにいた。

「お兄ちゃん待ってよぉ」

 その声に反応して、身軽に登って俺のところまでやってきた。ぴょんぴょん跳ねたり、新しい枝を探したりと余裕をかましていた。


 そして靴を履き直している兄を見て、ひらいた。


 いたずら心を存分に出して、兄の背中を「えい!」っと押した。すると兄はまるで石ころのようになんども坂で跳ねて駐車場に落ちた。顔面が蒼白そうはくしたのが自分でもわかった。急いで兄の元へ向かった。幼稚園児の頭でも、これはただことじゃないと理解した。

 滑らないように、急いで。小さな体を一生懸命動かした。どうしよう……、どうしよう……。涙が溢れて目の前が霞む。兄は無事か、怒られちゃうじゃないか、もう一緒に遊んでもらえないんじゃないのか。そんなことが思考を埋め尽くす。

 中盤まで降りてきた。ここからは比較的降りやすい。兄の姿もしっかりと見えていた。うずくまっているけど、かすかに体が動いた。

「よかった……! お兄ちゃ……」


 安心したのも束の間、駐車しようとバックしてきた車に押しつぶされた。


   ◯


「それじゃあよろしくね」

 そのころだろうか、俺はせん姉の家に預けられた。母さんは仕事に復帰してなかなか帰ってこなかった。父さんも元々夜勤が多かったため、夕飯のほとんどはせん姉と一緒だった。家に帰ってもだれもいない。せん姉の家にいる時間のほうが長かったし、俺もそっちの家族と一緒にいるほうが居心地がよかった。俺の家族はどっちなんだろうな。

 学校の書類もすべて父さんがサインした。

「母さん今度の参観日……」

「お父さんに頼みなさい」

 あからさまに避けられていた。

 結局不慮ふりょの事故として兄の死は処理された。しかし、母さんは俺のことを憎らしく思ったらしい。確かに兄は運動もできるし、学校の成績もすこぶるよかった。小学校の内容なんてたかが知れてるけど、それだけ兄に対する期待が強かったんだ。小学生になった俺は兄のようになんてできなかった。学校に行っても、家にいても、無意識に比較される。兄のほうがどうだったとか、それなら君もできるでしょとか。勝手に期待されて勝手に失望して。できが悪いのは、自分がよく知っている。これ以上追い込まないでくれ……。

 学芸発表会も運動会も両親はこない。父さんはいつも「ごめんな」といってくれるのに、母さんとはそもそも顔すら見てくれない。結局いつものようにせん姉の家族と過ごしていた。学校行事だけでなく、家族旅行にも同行させてくれた。

「俺居場所はどっちなんだろう」


「人殺し!」

「やーい人殺し! こいつに近づいたら殺されるぞー!!」

「こっち来んなよ人殺し!」

 小学生はよくなんでもしゃべる。言わなくていいこともすべてさらけ出す。このときに嘘をつくことを覚えていたら、どれだけよかったことか。おかげでいじめの対象になった。

 悪口を言われたり、無視されたり、ときには暴力も。先生は気づいていたのかどうか知らないけど、助けてくれることはなかった。俺の目の前で死んだ兄を褒めているだけで、俺を見てくれなかった。学校に俺の居場所なんてない。でも孤独だった。でも、心のどこかで仕方がないと思っていた。ふざけとはいえ、兄を殺したのは事実。無能なのも事実。孤独は当然。

 それでも構ってくれるやつらがいた。葵とせん姉だ。こいつらと一緒にいる時間が楽しくてしょうがなかった。暗くじめじめした空間をこじ開けて、陽光と爽風そうふうで満たされるような、そんな感覚。つらい現実を忘れられる唯一の方法だった。幸せってこれなんだ。


  ◯

 

 高校生になると、彼女ができた。父さんにその話をしたが、母さんにはしていない。この歳になってもまだ恨んでいるとは考えにくい。けどこうも長く交流していないと話し方を忘れてしまう。母親という肩書きはあるけど、俺の目に映っているのはだ。せん姉の母さんのほうが何倍も母親だった。それでもやっぱり、心に引っかかるものがある。できるなら話がしたい。幼少期のころに見せてくれたあの笑顔が見たい。

「なあ葵、仲直りってどうやるんだ?」

「おいおいまさかもう喧嘩したのかよ。案外早いな」

「なんだよ案外って」

 学校に行けば玲奈がいる。遊びたければ葵がいる。寂しくなったらせん姉がいる。俺の生活は次第に家族を必要としなくなった。経済面以外では。

 俺の心にあった突っ掛かりが消えた。


「喜一、今度出張で沖縄いくんだけど、なんか欲しいのあるか?」

「いいなぁ俺もいきてぇ。沖縄だったらなんだ……サーターアンダギーとか?」

「んじゃ、適当にお土産買うから楽しみにしとけ」

「あいさー」


 父さんがいない夜は続いた。俺はバイトがあるし、家なんてほぼ寝に帰ってるだけだ。いまさら寂しいなんて思わない。強いていうなら、父さんが作る弁当がないのは少し面倒だ。毎朝テーブルに用意されているあの弁当が今は恋しい。

“ガチャ”

 母さんが帰ってきた。眉間にしわを寄せてため息をつく。ボソボソと独り言を言っている。気まずくなりたくなかったからそそくさと自分部屋に戻ろうとした。

「喜一、洗濯物片付けた?」

「いや、してないけど」

「私にやれっていうの!? 仕事で疲れている私に!!」

「べ、別にそういう意味じゃ……」

 母さんは俺の想像以上だった。部屋中にいばらを伸ばして俺を拘束した。そのトゲは皮膚ひふを引き裂く。数年ぶりに会話したと思ったら些細なことで激怒された。俺は本能的に彼女を敵とみなした。

「なんでもかんでも私に任せればいいってもんじゃないでしょ! 自分の書類くらい自分で作りなさいよ!!」

 怒号の大半が会社の愚痴だった。日々のストレスの積み重ねを俺が崩してしまったらしい。母さんの怒りは収まることはなかった。いばらはさらに数を増して俺の胸を刺す。たとえ自分のことじゃなくても、鋭い言の葉はひどく痛かった。ときおり俺の悪口を挟むからなおさら。

 どのくらい時間が経っただろうか。足が疲れてきた。重心をちょっとずらして足を動かす。母さんの怒りはまだ止まらない。いばらのせいで、ズダボロだ。なんとか乗り越えようと必死で耐える。大丈夫、我慢していれば穏便に済む。もう少しの辛抱だ。

「ご、ごめんなさい……」

「謝って済めば警察はいらないのよ! この人殺し!!」

 その瞬間、俺の中でなにかが壊れた。椿のように花ごと地面に落ちる。切り離された花と枝、周囲の音は一切入ってこなかった。


 翌日、自殺未遂をした。


   ◯


 八月十六日、心が躍っていた。普段は都心でデートをするため、玲奈が俺の地元に来るのが新鮮だった。あらかじめ葵や立花とデートの作戦を立てた。せん姉と玲奈が仲良かったこともあって、女性目線でのアドバイスももらった。これで準備は万端。

「父さん、いってくるね」

「いってらっしゃい。楽しんでこいよ」

 ショルダーバックをそばに置いて、玄関で靴を履く。今回のために買った新品の靴だ。靴紐を丁寧に結んでいると、後ろに気配を感じた。振り返ってみると母さんだった。反射的に体を遠ざける。

「ど、どうしたの……」

「これ……少ないけどたしにして」

 そういって渡されたのは一万円だった。母さんからなにかもらったのは幼稚園以来だ。正直驚いた。自殺未遂の一件があって、より一層関わらなくしていたから。ましてこんな……送りものなんて、夢にも思わなかった。

 まだ混乱している。母さんは泣きそうな顔で俺を見つめていた。初めて見る顔だった。いや、二度目かな。ちょっと時間が流れた。母さんは絞り出すようにゆっくり口を開いた。

「ごめんなさい。とっくの昔から許していたのに……なんて話しかければいいのかわからなくなっちゃって。こんなんで許してほしいとは言わないわ」

 下を向いてポツポツと涙を流す。俺だって母さんのことが嫌いなわけではない。ただ怖かったんだ。また俺がなにかしでかすんじゃないかって。だれかを傷つけるんじゃないかって。

 なにも言わずに、靴を履いてすっと立ち上がる。十一年分の想いを胸に、背中越しに伝えた。

「別に。あ、ありがとう」

 玄関のドアを開けて陽を浴びる。その日差しはいつもより暖かく感じた。すると母さんが俺の名前を呼んだ。

「お弁当、美味しいかい?」

 その言葉を理解するのに時間はかからなかった。母さんは何年も前から俺のだったんだ。これからデートなのに、涙で目が赤くなる。家族として失われた時間は戻ってこない。それでも今からでも遅くない。結局自分も前に踏み出さなくちゃ意味がない。

 すべてが解決したわけじゃないけど、ほんの少しだけ家に帰るのが楽しみになった。

「ふりかけ、もう少し少なくていいよ。それじゃあ母さん、いってきます!」

 帰ったら、玲奈のことを話してあげよう。今までの思い出も一緒に。

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