【第一駅 御盆】

「どうして……。どうして玲奈がここに……」

「え、うそでしょ……。喜一……なの?」

 言葉を忘れた俺らは改札を挟んでたどたどしく会話をする。ちょうど一年振りの出来事だった。

 相引あいびき玲奈れいな、それが俺の彼女だった人の名前。アサガオ柄の浴衣を着て、つややかで長かった黒髪を丁寧に結わえている。手には取っ手が握られていた。ベージュのトランクのようなキャリーケースの取っ手が……ん?? キャリーケース? え、キャリーケース??

 そのまえに、目の前にいるこの人は俺の知っている玲奈なんだろうか。だって玲奈は一年前に死んだはず。それは間違いない。死者が生き返るなんてあるわけないよね。

「本当に玲奈……なのか?」

「彼女の顔も忘れたの? それこそ私のほうが聞きたいよ」

 さっきまで動揺していた玲奈はパッと表情筋を動かして笑ってみせた。その笑顔と頼もしい口調はまさしく彼女だった。

 ——これは夢だ。

 そう暫定した。

「聞きたいこと山ほどあるんだけど……ひとまずこれってどうすればいいの?」

 そういうと苦笑いをして手に持っている切符を見せてきた。あ、これわからないよね。普通の改札と違うから。その場から動かず、壁に取りつけられているボックスを指さした。「へぇそうなんだ」とお賽銭を入れる子どものようにウキウキしている。

 改札を通った彼女を間近で見る。つま先から髪の毛一本一本にいたるまで非の打ち所がない。玲奈が生きていたどの瞬間よりも、今が一番美しかった。

 幽霊なのか夢なのかわからない。けど死んだときの高校二年生の姿というのは変わらない。それなのに胸がざわつくほどに心がひかれていく。まるで年上みたいに大人びて見えた。

「な、なに。恥ずかしいからそんなに見ないでよ」

 浴衣の袖で顔を隠しているけど、隙間から赤くなった顔が見えていた。

「す、すまん。なんかこう……綺麗だなって思って」

 すると玲奈は目を見開いて耳の先端まで赤らめる。夏だっていうのに頭から湯気が出ている。「ずるいよ……」と言った矢先に「やっぱ帰る!」と言って改札を逆戻りした。とっさに呼び止めてひたすらに謝った。

「次変なこといったら叩くからね」

 頬を膨らませる彼女も愛おしい、そう思った。彼女だ、絶対に彼女だ。玲奈に間違いない。なんでかわからないけど、目の前にいるのは俺の恋人だ。一年前から止まった俺の時間がゆっくりと動き出す音がした。田舎の狭苦しい駅内で俺らは花を咲かせる。


   ◯


 ガラガラと音が響く防音林。人工物の灯火ともしびが光るレンガの道を通り、道路に出る。そしてずっと気になっていたことを聞いてみた。

「なぁ玲奈。どうしてここに来たんだ?」

 髪の毛を耳にかける仕草をして目を逸らす。薄暗く表情が読み取りにくい。しばらく考え込むようにうなっていたけど、今はただ静かに佇んでいる。

「約束を果たしにきたんだけどなぁ……」

 一瞬当たった車のライトで彼女の輪郭りんかくが映る。頭を重たそうに傾けて、虚な目線を地面に落としていた。そんな様子の玲奈におびえていた。

「約束?」

「そうだよ」

「えーっと……どんな約束だっけ?」

 すると玲奈は浴衣の袖を揺らして俺のほうを向いた。後ろに手を組んで少し距離を取る。そして一年前と変わらない、子どものようなあどけない笑みで口を開く。

「別に教えてもいいけど、できれば君に思い出してほしいな」

 え、えー……。全然思い出せないよ。教えてくれないの。頭の回転が追いつかなくて固まってしまう。空気漏れのような返事をすると玲奈は腹を抱えて笑った。本当に生きているみたい。

「期待してるぞっ」

 俺の肩を叩こうと手のひらを大きく振り下ろした。

「え……」


 彼女の手は肩に当たることなく、俺の体を通って空を切った。


 その瞬間、周りのトドマツがざわめいた。血の気が引く感覚に襲われ、玲奈が死んだ現実を突きつけられた。やっぱりこれは夢じゃない。玲奈は死んだんだ。生き返るわけない。玲奈も自分の手をまじまじと見ていた。まあ無理もないよね……ってあっさりと受け入れてるし。「そうだよねぇ」って楽観的な感想をこぼした。

「そういうものなの? もしかして俺だけ状況整理できてないのかな……」

「そりゃあ私だってびっくりしたよ。でも私は私だし、君は君でしょ。私はなにも変わってないよ。一年前からね」

 嘘偽りない芯のある言葉。これって“真心まごころ”っていうのかな。

 一年前から変わっていないのは俺のほうだ。玲奈の言葉にどれだけ助けられて勇気づけられたことか。いくら玲奈が死んだといっても、今はこうして目の前にいる。声をかけることができる。元彼氏、いや彼氏として俺がしっかりしないといけない。胸に空気を溜めて一気に吐き出す。余計なことは一切考えず、玲奈と向き合うことを決めた。そして玲奈と瞳を見つめて満面の笑みを浮かべた。

「どうしたの急に」

「玲奈が彼女でよかったなって思って」

「まったくもう。叩けないからって恥ずかしいこといわないでよね。でも……ありがとう」

 浮ついたり沈んだり。俺の動揺はすっかりなくなって、玲奈を“女の子”として見ることができた。この日のために練習したであろう化粧は麗美れいびなものだった。言うタイミング逃しちゃったなぁ。ちょっと後悔している。この感覚も懐かしくて心が暖かくなる。大丈夫そうだね。気を取り直して進もう……ってそもそもどこに行くんだ?

「あ、言ってなかったね。てか、浴衣着てるんだしわかるんじゃない?」

「え……今日ってなんかあったっけ?」

 玲奈は呆れ混じりの驚嘆をし、道路に設けられたのぼりのもとへ向かった。それをピンッと張って自分の作品を自慢するように説明した。

「今日は八月十六日、お盆最終日はおみなえ祭りで決まりなのです!」

「お、おう……」

 人さし指をビシッとさした。自分の周りをキラキラさせてとても満足げだ。そんな彼女に俺も釣られて口角が上がり、さっきの決め台詞を補足した。

「それならもうひとつ先の駅だぞ」

「え……えぇぇぇぇ!」

 幽霊の叫びは天を貫いた。俺と玲奈の最期の夏が始まるのだった。


   ◯


 昼間と夜では大きく印象が変わる。来た道を戻っているだけなのに、まるで違う道を歩いているようにソワソワする。涼しげに揺らいでいたトドマツも怪しげさを増して、車通りの少ない道路は不安感を掻き立てる。

“カランカラン”

 俺の背中をさするように下駄の音がする。大丈夫、大丈夫と俺に寄り添う。

「本当に歩きでよかったのか? 列車乗ればすぐだよ」

「いいのよ。初めてきたんだし観光ついでってことで」

「なんでおみなえ祭りなんの? そんな珍しくもないのに」

「約束のためだよ。さっきそういったじゃん」

 ふくみを持たせた言いぶりは綿をまとっているみたいでもやもやする。不敵ふてきに笑う顔がなおさらそう思わせた。玲奈の思考は出会ったときからわからない。衝動的というか抽象的というか。美術部に入っていたということもあって、表現方法が独特な場合がある。俺にはわからないアーティスティックなロジックが彼女を動かしているに違いない。

 アーティスト……。もしかして作品のため? 次描く絵の題材とか? 玲奈に尋ねると「さぁどうでしょう」と誤魔化された。

「遠いね」

「そうだな」

 彼女はうれしそうに話す。

「涼しいね」

「そうだな」

 街灯がひとつまたひとつ過ぎていく。聞こえるのは虫の音と列車が通る音だけ。ビルなんてあるわけないし、住宅街の明かりはそれほど強くない。暗いせいか、ところどころに咲いている黄色い花が光っているようにも見えた。

 踏切のところまでくると、賑わいが目と耳で感じられる。浴衣を着ている人、家族連れの人、部活帰りの人。全員すべからくある場所を目指して進んでいる。ちらほらと増え始めた人と提灯。それに比例するように心が躍る。

「うわーおっきな鳥居」

 階段下から口を開けて眺めていた。階段の両端には提灯が灯って、雅な参道を作っていた。見惚みとれている玲奈に見惚みほれる俺。

「さてと、いきますか」

「あれ? ここじゃないの?」

「祭りの会場はこのさきだよ」

 

 おみなえ駅から徒歩一分ほどの距離にそれはある。駅からでも会場の入り口がわかるほどに光が漏れていた。駅前の広場を突っ切って、小洒落たレンガのオブジェを横目に見やる。そしてある通りの入り口に俺らはたどり着いた。

「今日こそ絶対に当ててやる!」

「けんちゃん今どこー?」

「パパ! あれ食べたい!」

 周囲から老若男女問わず、さまざまな声が聞こえた。目の前が屋台で埋め尽くされて、さっきまでの暗い町が嘘のようだった。

「すごい……すごいよ! 私こんなに綺麗な祭り初めて見たかも」

 玲奈もキャッキャとよろこぶ。その大きな瞳に入りきらないほど、たくさんの景色を目に焼きつけていた。純粋で、感受性がよく、表情が豊か。俺が惚れた理由でもあり、後悔の原因でもある。玲奈の言った“約束”が果たされれば、彼女も成仏じょうぶつするのかな。この心のわだかまりも消えてなくなるのかな。

「ねぇ喜一! あそこに焼き鳥あるよ! 早くいこ」

 目も口も線で弧を描く。年に一回の大きな祭り。俺も俺で幼心おさなごころを咲かせていた。

「懐かしいなぁ。来たのは去年……」


 そのとき、激しい頭痛が俺を襲った。


 頭がかち割れそうな痛みは心までえぐるほどだった。けどそれは一瞬で収まり、“痛い”と認識したときにはなんともなかった。

「どうかしたの?」

「な、なんでもないよ。それよりいこっか。玲奈が満足できるくらい案内するから楽しみにしてよ」

「お、それは期待しちゃいますね。約束だぞ」

 玲奈に気をつかわせなように笑ってみせた。久しぶりのデートなんだし、楽しまないと。


   ◯


「安いよ安いよ!」

「お嬢ちゃん、おまけするから買っていきな」

「あー惜しかったねぇ。こっからここの景品からひとつ選んで」

 道の両端に展開された屋台。進んでいくたびに花模様を変える。カンナのように情熱的な唐揚げ屋、オレンジのガーベラのような繊細せんさいなガラス細工、そしてライラックが集う型抜き屋。同じ種類のお店でもひとつひとつ個性がある。定番のものもあれば、ちょっと珍しいものまで。色とりどりな光景はそこにいるだけで心が満たされる。終始驚いている玲奈は左右に出ている髪の毛をゆらゆらと揺らしていた。

「今なら焼きたてだよー!」

「あ! 焼き鳥!」

 玲奈は飛びつくように向かった。浴衣が彼女と同期してはねている。「まったく……」っとうれしいため息をついた。屋台の前に佇む彼女の姿が一枚の絵として成り立っていた。手元にカメラかなにかあればよかったのに。けどまあ、カメラがあっても幽霊は映らない。記憶の片隅かたすみに保存しようと瞬きせず眺めていた。カメラ? カメラ……っは!

「ちょっと待って! 俺が買うから……」

「ありがとうございます」

 白いトレーに乗った焼き鳥をうれしそうに受け取る。そして普段と変わらず会計をしてなに食わぬ顔で戻ってきた。うれしそうに焼き鳥を持ち上げると「見て見て、湯気すごい」とその煙を顔に浴びた。その様子に違和感しかなかった。

「え、幽霊って買い物できるの……てか屋台の人見えてたの?」

「んーこの焼き鳥美味しい! ちゃんとお金も払ったし。案外大丈夫なのかも」

 そういうとまたひと口焼き鳥を頬張った。手にしっかりと握られている串からは確かにひと口分なくなっていた。どういうこと……。俺の頭が追いつくはずもなく、またあれこれと考えてしまう。

「そんな固い顔しないで。ほら、これ君の分だよ」

 白いトレーにはもう一本焼き鳥が残っていた。恐る恐るそれを受け取った。どっからどう見ても普通の焼き鳥。少し躊躇ちゅうちょしながら口へ運ぶ。

「おいしい……」

「でしょ」

 はにかんだ彼女に気を取られて口が緩む。その拍子によだれが垂れそうになり、とっさに口元に手を当てる。み、見られてないよね。「行こっか」と声を弾ませてる彼女、俺らは焼き鳥片手にまた歩き始めた。

「お祭りで食べるものってなんでこんなに美味しんだろう」

 頬に手を当てて「太っちゃう」と半ばうれしそうに言葉を漏らす。二台先の屋台に着くことにはもうすでに完食していた。そんなに美味しかったのね。そういえば食べるの好きだもんね。昔、デートに行ったときも頬張ってもぐもぐ口を動かしてたっけ。なんか懐かしいな。残った串とトレーのゴミを玲奈からもらって俺も完食する。玲奈のいる左側にはものを持ちたくない。かといって右手で持つと向かってくる人にぶつかって服を汚してしまうかもしれない。レジ袋なんて持ってないし、しかたなく右手で持ってゴミが邪魔にならないように体の前にそれを置いた。

“ガラガラガラ”

 玲奈が引きずるキャリーケースが祭り会場に響き渡る。なんどかレンガにつまづいて音が途絶える。

「そういえば聞くの忘れてたんだけど、これってなに入ってるの?」

「んーとね……強いていうならアイリスかな?」

 本人もあまりしっくりきていないらしくて、首をこくりと傾げる。玲奈がわかんないなら俺がわかるわけないよ。それなら直接教えてくれてもいいのに。素直に中身を教えてはくれないらしい。頭がこれ以上詮索せんさくしないように自動で切り替わった。俺が代わりに持とうとしても断られた。これをもって会場をまわるのはちょっと不便だよね。そこでひとつ提案した。

「あれだったらそれロッカーに預ける? ここの近くにあるんだけど、多分空いてると思う」

 玲奈はしばらく自問自答するように「んー」と思考を巡らせていた。

「そっか、そっちのほうがいいね」

 と俺に同意を示した。

 ロッカーがある場所はそれほど遠くない。今いる場所からでもその建物が見えている。

 少し歩くと屋台に挟まれた閉鎖空間は解放される。お祭り会場の中央にそびえる三階建ての大きな施設。


“中央公民館、通称コミュニティーセンター”


 読んで字のごとく、ここは人々がつどう公民館で、みんなから“コミセン”ってよばれている。レンガをベースにした落ち着いた外観に、アーチ状の屋根、そして正面がガラス張りという開放感が西洋建築の雰囲気をかもし出している。

「綺麗……」

 玲奈は放心して言葉を言う。玲奈は美術部だし、こういう建物とかも好きなのか。公民館前のスペースには祭りの本部テントや役員の休憩場がある。小中学校の先生が見回りの集合場所としても利用しされている。元担任がいないか横目で確認しながら、そこを通り過ぎて中に入っていく。

 二重の自動ドアが順に開いて俺らを迎え入れる。クーラーを全身に浴びて突き当たりを左に曲がる。自動販売機が連ねる奥にロッカーがある。玲奈のキャリーケースは小さいだけど、荷物として考えれば大きいか。三百円の縦長のほうに入れておこう。

「よし、じゃあ祭りに戻ろっか」

 ついでにゴミも捨てた。身軽になった俺らはコミセンをあとにした。


 改めて祭り会場を見るとその煌びやかさに心臓がざわつく。普段この通りには車どころか猫一匹すらいない。年に一度、お盆の数日間はこうして“人のいとなみ”を体感できる。だからこの祭りが、この町が好きなんだ。

「ふふふ」

「急にどうしたの」

「喜一があんまりにも楽しそうだからつい。ここくるときもそうだったけど、子どもみたいな顔してたよ」

 浴衣の袖を持って口元を隠した。小馬鹿にしたような、子供扱いするようなセリフは不思議と悪い気はしなかった。玲奈も玲奈で人のこと言えない。彼女は死んでいる、そう思わせてくれないほどナチュラルな微笑みと言葉の抑揚よくよう。自分が悪い夢でも見ていたのかなって思ってしまう。屋台を見つめるその横顔をいつまでも見つめてしまう。

 さっきの通りに戻ろうとコミセンの壁にそうように歩いているた。すると後ろのほうから男の声がした。

「相引さん?」

 その声にひかれて振り向く玲奈。そこにいたのはシャツを着たガタイのよい青年だった。肌が黒く焼けていてまさにスポーツマンという印象。俺はこの男にひどく見覚えがあった。

向日むかいくん!? 君も祭りきてたんだね」

「地元だからな。ていうか久々だな。葬式以来か」

 向日むかいあおい。小学校から野球をやっていて、高校ではキャプテンを務めている。物事に対して楽観的なところもあるけど、真面目で人に優しい性格。そしてなにより俺の親友だ。以前会ったときは坊主でまんまるとした髪型だったのに、今は伸びて少しおしゃれしている。

 玲奈と葵は旧友に再会したように話を持ち出して、その記憶に浸っている。まるで幼馴染のそれ、地元が同じ人のそれ。表面的な会話は一切なく、自然な笑顔をこぼしていた。

——こいつらなんで面識あるんだ?

 葵はもちろん、玲奈にもこんな親友がいるんだとSNSを見せたことがある。けど少なくとも玲奈が生きている間にふたりを合わせた記憶はない。俺が知っている範囲では。それに屋台のおじさんといい葵といい、玲奈のことが見えているようだ。しかも鮮明に。むしろ俺が置いていかれてる。

「あ! 玲奈姉ちゃんだ!」

「ほんとだ。ねぇねだ」

「トランクス……」

「みんな久しぶりだね。ってれんくんその呼び方はやめてよ!」

 コミセンの入り口のほうから甲高い声が聞こえた。小学生くらいの男の子ふたりと小さめな女の子がぞろぞろとやってきた。彼らは葵の歳の離れた家族で、元気いっぱいな次男のいつき、物静かな三男のれん、そして末っ子で長女のかえでの三人はいつも一緒にいる。特に楓は寂しがり屋な面があり、げんに今も樹と手をつないでいる。

「おい蓮、あんまり玲奈姉ちゃんをいじめるなよ。チョコバナナのコアラさん食べられちゃうぞ」

「え、やだ」

「私ってどういうイメージなの……」

 葵は兄弟と祭りに来ていたらしく、ちょうど今から見てまわるらしい。男女ふたりと子どもたち。それは恐ろしいほどしっくりきた。こんなに人数がいるのにがくに収まり、なおかつ目を奪われる。少しばかり心が痛む。こんな家族いそうだな。

「お、お前ら仲良かったんだな。ていうかなんでみんな玲奈が見えてるんだ?」

 団欒だんらんに割って入るように声で刺した。周りの熱気が相対的に下がったのが肌で感じた。玲奈は俺を見て少し目を動かす。右に左に、ぎこちなく揺らして口も歪む。「えーっと……」と慌てている彼女に対して意外と冷静な向日一家。頭を傾げて葵が「どうしたの?」と聞いてきた。

「いやーその……幽霊って信じるのかなぁって」

「どうした急に……」

 突然、葵を押しのけてちびっこたちが前に出てきた。

「おばけはいるよ! 俺見たことあるもん」

「僕も……」

 楓は少し怖がった様子で葵の足にしがみついていた。樹と蓮は学芸会のように身振り手振りをし始めた。その内容は到底信じられないというか、子どもが考えそうな内容で、見ているこっちが微笑ましく思えてしまう。

「こらこら楓が怖がってるだろ。楓も、兄ちゃんがついてるから安心して」

 ぽんぽんと楓の頭を撫でて落ち着かせる。

「まあでも、この町にはいろいろと噂とか昔話があるんだよ。今日はお盆だし、幽霊と会えるのも不思議ではないのかもしれないな」

 そういうと玲奈の目を見てニカッと笑った。楽観的すぎるというかロマンチストというか。最初出会ったときに驚かなかったのはそういうことなんだな。幽霊と会えるって信じてることに驚きだけど。

「兄ちゃんずっと会いたかったっていってたもんね」

「もんね」

 樹と蓮は茶化すようにふたりの間に入った。大きな図体にもかかわらず照れて伏し目になる。それを見て玲奈は「ふふふ」っとさっき俺に向けた笑みをこいつに見せた。今この状況で俺がなにかしゃべろうなら祭りの雰囲気が崩れそうだった。喉に詰まる感覚、それは決して気持ちのいいものではなかった。

 地面のレンガの数を数えていたそのとき、遠くから列車が通る音がした——


『ごめん!』

『まったく君は。待ちくたびれたよ』

 初めてのデートの日、俺は待ち合わせに遅れた。準備もデートプランもすべて昨日済ませて万全ばんぜんだったのに、今日が休日っていうことを忘れていた。休日でダイヤが変わって、予定していた時刻より早く列車が来てしまった。その列車を一本逃して、結果一時間の遅刻になった。約束に心を浮かせて、約束が俺を焦らせた。そして彼女を失望させる。約束は諸刃もろはつるぎなんだと痛感した。

『焦ったでしょ。汗すごいよ。私喉乾いたからカフェいきたいな』

 それでも玲奈は俺に嫌悪感を示すわけでなく、いつもと変わらない彼女でいた。

『ふふふ』

 不敵に彼女が笑った。それを見て——


“バフンッ!”

 近くでポン菓子ができあがる音がした。凄まじい爆発とともに客の驚嘆きょうたんが聞こえてくる。

「兄ちゃん! 俺あれ食べたい!」

「おういいぞ。相引さんも一緒にどうかな? 来てくれると……その……うれしいかなって」

 黙って聞いていたけど、我慢ならない。とうとう口を開く。

「葵! 調子乗んなよ。一回死んだからって俺の彼女には変わらないんだ。あ、あとあれだ。髪の毛なんて伸ばして監督に怒られても知らないぞ」

 すっとんきょな顔をする葵はなにを言うでもなくただボケッとしていた。玲奈はというと、なぜが笑いを堪えるように口元に手を当てて、俺に見えないように顔をらしていた。え、なんかおかしなこと言ったか? 特に変なことをいったつもりはないけど、周りの反応から察するに俺がおかしいのか? カクンッと首を傾げる。

「どうしたんだ急に」

「あーごめんごめん。私ね、喜一とデート中なんだ。だから遠慮しておくね」

 玲奈がきっぱり断ったとき、葵の瞳孔どうこうがすぼまったのが見えた。それを皮切りに玲奈はせかせかと話し始めてこの場を離れようとする。葵は依然として豆鉄砲をくらったハトだった。

「じゃあそういうことだから。みんなまたね」

「お、おう。おみなえ祭り楽しんでな。ふたりとも」

 こうして高校生ひとりと小学生三人を置いて俺らは祭りに溶け込んでいった。


「怒らないで。向日くんとは別にそういう関係じゃないから」

「別に怒ってないけど、なんでさっき笑ってたの?」

 葵との関係よりも数十秒前のことが気になった。重たい空気を紛らわせようとかそういう意図は感じなかったし、予想外な反応だった。なにかあるんじゃないかとなんとなく思った。玲奈は「あーあれね」と思い出し笑いをした。

「だってあんなに真剣なのに、最後に髪型のこと突っ込んだんだよ。もうそれがおかしくておかしくて。なにかかっこいいセリフとか出るのかと思っちゃった」

 あーなるほど……なるほど……って! それを聞いて瞬時に理解した。待って、結構恥ずかしいやつじゃないこれ? 「いやだって……」となにか言おうとしたけど言葉が出てこなかった。全身が熱い。

「あっちぃな」

「あらら」

 ふと見上げると道に沿って丸い提灯が暖かな光を放っていた。赤、青、黄、緑。紐でつながれ宙に浮いているそれは高級品じゃないけど、それがあるとないとでは祭りの印象が大きく変わる。十字路に差し掛かると見える景色は倍になり、人の流れも多様だった。入り口からまっすぐの道をいくのもよし、右に曲がるのもよし。コミセン横のスペースには特設ブースがあり、テーブルと椅子、そしてそれらを囲うように屋台が配置されている。ビールを飲むおじさん、屋台と屋台の隙間を駆け巡る子どもたちがここから一望できる。

「このまま突き当たりまでいくと、また右側に屋台の通りがあって、全体図は上から見たら“F”みたいな感じ」

「なるほどね。じゃあ今私たちはちょうど“F”の下ぼっこの付け根にいるのね」

 玲奈は前を見て右を見て、また前を見る。悩んだ結果、「こっち!」と元気よく右側を指さした。

「それじゃあいこうか」

 一年前と変わらず恋人として歩き出した。玲奈が死ぬ前に祭りに行ったことなかった気がする。花火大会の屋台をちょっと眺めた程度。夏デートの定番をできていることに幸せを感じる。まあ彼女は幽霊なんだけどね。

 さっきの通りは焼き鳥とかポテトとか食べ物が多かった。ここらへんは射的とかの娯楽ごらく系が多い気がする。歩くたびに小学生から大学生まで若い人たちがこぞって屋台に挑戦しているのが見受けられる。

「なんか祭りって感じだね。人は多いけど歩くのに不便ないし」

「確か都心にも祭りあるよね? そんな変わる?」

「変わるよ。もう人だらけで一メートル進むのに一分くらいかかるんだから。終わったら終わったで地下鉄は混雑するし、侘び寂びもおもむきも感じられないのよね」

 まるでついこないだ行ってきたように鮮明に話した。実際に体験してないけど、混雑する様子は目に浮かぶ。だからおみなえ祭りの快適さに感動しているんだろうな。七時間授業の日、帰りのホームルームが終わって解放されるような感覚。

 歩幅を合わせて屋台を眺めている。すると玲奈が足を止めた。

「あ、くじ引きだ。懐かしいなぁ小学校以来かも」

「そういえば俺もそうかも」

 手提げの巾着きんちゃくから財布を取り出して屋台のおじさんに渡す。浴衣の袖をもう片方の手でおさえて、カゴの中に入った四角い厚紙をガシャガシャとかき回す。

「やっぱ狙うは一等だよね。あのゲーム機前から欲しかったんだ。知らない間にいろんなソフト出てるし、喜一とも遊べそうだし」

「仮に一等出たとして、それってあの世でもできるの?」

「意外とお墓にお供えすればいけたりして?」

「俺、玲奈の墓参りでゲームするんか」

 眉間にしわを寄せて真剣な彼女はパッと花咲くように一枚取った。それを花の浮かんだ顔でおじさんに渡した。冗談まじりの会話は蔓が伸びるように派生する。「あの世の電気代が」「それってただの怪奇現象」とか、馬鹿な会話だなと胸の奥をじんわりと暖かくさせる。

「あー残念、一二八番だ。この前列からひとつ好きなの選んでね」

 前列に置かれた商品はどれも駄菓子屋に売ってそうなカラフルなものだった。玲奈はじーっと眺めて商品を受け取る。「ありがとうございやした」と威勢のいいおじさんの声が響いた。

「なんだろうねこれ。熊? 猫?」

 歩きながらそれを前に出して舐めるように眺めていた。特徴がありそうでない人形のキーホルダーは間抜けにぶらぶらと揺れていた。たとえるなら、田舎のご当地キャラクターみたいな。マイナー性とデザインを持っている。

「ねぇ、これに名前つけてよ。パッケージになんも書いたなかったし」

「え……じ、じゃあ、“おみにゃん”で」

 次の瞬間、彼女は吹き出して笑った。ネーミングセンスないのを知っているからこそタチが悪い。お腹を抱えながら謝っているけど。息を吸って、「せっかくだし」と言って巾着につけた。不思議と祭りの雰囲気に合っていて、彼の顔も心なしかほこらしげにみえる。

「喜一、次いこ」

 それから俺らは祭りを満喫した。玲奈の人生初の射的では全弾外れて、おじさんがかわいそうだからとラムネ菓子をふたつくれた。そのあとふたりでラムネを食みながら輪投げをして、缶倒しをした。

「喜一、一緒に投げよ」

 玲奈は俺にボールを渡してきた。それと同時に玲奈の温もりも感じた。生きているのと大差なく、手を握っている感触すらあった。

「いっくよー、それ!」

 ひとつのボールをふたりで投げる。俺の右手と玲奈の左手が重なって大きく振りかぶった。けどそのボールは台に届くことすらなく弱々よわよわしく地面を跳ねた。それがやけに面白くて腹を抱えて笑った。

「全然届いてないじゃん」

 玲奈も「ふふふ」っと笑ってはずれ当然の景品を受け取る。

「初めての共同作業がこの結果かぁ。次に期待ですな」

 手を後ろにやって上目遣いで俺を覗き込んだ。相変わらず愛おしいやつで、周りに花びらを散らしている。話をしながら歩いているとあっという間に端にきてしまった。そこは普通の住宅街で街灯がポツポツとあるだけだった。背中に広がる豪華絢爛ごうかけんらんな景色とは真反対だ。暗がりの陰が不気味に染まっている。

「暗いね」

「そうだな」

 左奥には屋台が少し見えて明るくなっていた。人もちらほらいて想像よりも怖くもない。歩道の縁石に座って屋台で買ってきた物を仲良く食べるカップルが薄暗く見えた。そして彼らは缶の飲み物で乾杯する。

「青春だね」

「そう……だな」

 そのとき列車の通る音がかすかに聞こえた——


『こんなん終わるけないよ……』

 補習が終わったあと、先生からもらったプリントに勤しんでいた。「今日中に提出しろ」と言われて嫌々ペンを動かしてる。先生は先に職員室に戻ったし、教室には俺ひとりだけだった。

『あっちぃな』

 窓を開けても風が入ってこない。クーラーなんてあるわけもない。俺は溶けて机に突っ伏した。

『まだ残ってるの?』

『あ、相引さん!? どうしてここに……』

 ガラガラっとドアを開けて入ってきたのは相引さんだった。向こうから声をかけられたのがうれしいかった。けど同時にだらしがないところを見られて恥ずかしくもあった。慌てて椅子に座り直す。

『忘れ物取りに来ただけだよ。それより補習って君ひとりだけなのね』

 ナメクジを見るかのような顔をする彼女。明らかに幻滅げんめつされた、そう思った。さっきのうれしさはどこかに行って、俺の心が徐々に萎んでいく様子が見てとれた。ひたすらに情けなかった。成績はよくないし、部活をやっているわけでもない。なにか誇れるものがあるかと聞かれれば、特にないと答えるだろう。ただバイトをして帰ってきたらゲームをして寝る。そんな毎日を繰り返している。自分が嫌いだ。

『情けないよな。正直部活もやって勉強もできるみんながかっこいいよ。俺なんて……』

『ここの式間違ってるよ』

 相引さんは知らずの間に近くにきてプリントを眺めている。髪をかきあげるとともにシャンプーの匂いが漂ってきた。破裂しそうな心臓もつゆ知らず、相引さんは淡々と説明を続けた。

『私は別に能力があるから素敵だなんて思わない。人の魅力ってもっと奥深くに眠っているものなんじゃないかな』

 しぼんだつぼみが一気に開花した。自分の可能性に気づいたわけじゃない。この人の思考レベルの高さに感化された。その美化や誇張されてない自然な発言はそう簡単にできるもんじゃない。

 これが相引さんなんだ。これが俺が好きになった人なんだ。改めて惚れなおしたのは言うまでもない。

『教えてあげるから、ほらペン持って』

 促されるがままにペンを走らせる。たまに談笑をして、それはそれは有意義ゆういぎな時間だった。面倒くさくて終わるか心配だったプリントもあっという間に終わった。

『本当にありがとう。これお礼に』

 カバンから缶の飲み物を取り出して渡した。ちょっと戸惑っていたけど受け取ってくれた。両手で持ちながら缶のふたを眺めていた。

『じゃあお疲れさまってことで、乾杯しよっか』

 お、おう。案外乗り気だな。まあ嬉しいけど。水筒を取りだして乾杯をする。

“カンッ”

 金属音が教室に広がる。俺らは同じタイミングで幸福のため息をついた。開放感と達成感を同時に感じる。

『絵だって人によって評価が違うの。それが金賞なの? って思うときだってある』

『そ、そうなんだ』

 相引さんはどこか遠くを見ながら話をした。俺に目を合わせて言葉を続けた。

『だから私の好きな絵でみんなに認められたいの。私はそう約束したから』

『約束?』

『そうだよ』

 どこか懐かしんでいた相引さんはふっと息を吐くと、またいつもどおりのクールな女子高生に戻った。そしてそのまま画材を持って教室をあとにした。

そのとき、『じゃあね』のひと言が言えなかった——


「なあ玲奈」

「ん?どうしたの?」

「玲奈のいっていた約束って絵のことか? 好きな絵で認められたいって言ってたあれのことか?」

 すると玲奈は眉間にしわを寄せて寂しそうに笑った。「そんなことよく覚えてたね」と約束のことより思い出についての感想を述べた。そして玲奈は祭り会場のほうを向いた。色とりどりに光る背景はうっすらボケて、俺の目の前に佇む彼女を引き立たせた。逆光で浴衣の柄がほとんど見えない。声をかけようとした瞬間、玲奈は勢いよく振り返った。

「残念、はずれでした」

 顔の縁がかすかに照らされて色が見える。花を咲かせているのがうかがえる。

 結局、玲奈の約束はこれではなかった。また頭を悩ませる。

「まだまだ付き合ってね」

 そういうと玲奈は来た道を戻っていった。

 約束、もしそれが導き出せなかったらどうなるんだろうか。今日が過ぎれば玲奈はどうなるんだろうか。なにか重要なことを忘れているんだろうか。

「喜一早くー」

 玲奈にせかされて俺は祭りに戻る。約束を果たすために冥界からやってきた彼女が祭り会場に溶け込んでいる。

 もしこれが夢だったら。

 もし玲奈が死んだことすら夢だったら。

 そんな切望せつぼう半分に約束を思い出している。この祭りがなにかの鍵かもしれない。


   ◯


 私は死んだ。

 高校二年生の八月、人生の時計は地面に落ちて歯車が散り散りになった。

 私の初めての青春は一年草だったらしく、見るも無惨むざんに枯れ果てた。

 約束に絡みついた根はどこまで伸びているのかな。それをよしとする人なんているのかな。

 私は一年前に——


“チリリーン”

 ガラス細工の屋台から風鈴の音が聞こえる。そよ風にさらわれてゆらゆらと揺れている。玲奈はそれを慈しむように眺めていた。触れてしまえば壊れてしまう。なんの根拠もなくそう思ってしまった。

「綺麗だね。やっぱ夏といえば風鈴だよ」

 ガラスに反射した瞳が俺を見つめている。湾曲わんきょくに歪んでキラリと光を放つ。屋台につられた数多の風鈴は彼女と同期するようにぜつを振った。その様子を額に収めた。

「俺は浴衣のほうが好きだけどな」

「言うと思った。特に後ろ姿が好きなんでしょ」

「さすが」

「彼女ですから」

 玲奈はくるりと方向転換して歩き出した。カランカランと音をたてて夏をまとう。その神秘的な佇まいのせいか、さっき通ったはずなのに、全然気にならない。彼女をつい横目で見てしまう。まるで初恋みたいに照れ臭さい。心が惑わされてバクバクする。

 射的屋を過ぎてお好み焼き屋をチラリとみる。小学生がおもちゃの銃を持ちながら走り抜ける。すぐ隣には行列待ちのカップルが一緒に写真を撮っていた。

「ねぇあれ買っていい?」

 そういって指さしたのはリンゴ飴だった。「いいよ」と反射的に答えた。付き合うまえからの癖で、どんな内容でも受け入れてしまう。これが玲奈だろうが見知らぬおじさんだろうが関係なく、人のためならと自然と口が動いてしまう。優しいって人に言われることもあれば、なにも考えてないと反感をかうこともある。俺自身の気持ちは同じなのに受け取る人次第で変わるなんて、小難しい……。理解したくても時間がかかりそうだ。

「お待たせ」

 どう思っているのかな。そう疑問に感じて玲奈のことをふと見る。真っ赤なリンゴ飴を食べようと小さな口をくぱっと開けている。自分が見られていることに気づいたらしく、すべての動作を一旦停止して俺を見る。不敵に笑うとかぷっとかぶりついた。

 ごくりと飲み込んだあと、リンゴ飴を俺に差し出してきた。

「はい」

 自分が食べたほうをわざとらしく俺に向ける。ダメ押しでぐっと差し出され、しかたなくそれに口をつける。満足そうな玲奈。またリンゴ飴を頬張った。

「ねぇドキドキした?」

「す、するわけないだろ。生きてたときに何回もやってたし」

 言葉に反して耳が熱くなる。それを玲奈が見逃すわけもなく、「冷ましてあげよっか」と自分の手を差し出す。色白で細い指。なんども握った暖かい手。一年前から握ることがなくなった大好きな手。

「私冷え性なんだ、って言わなくても覚えてそうだけど」

 そういうと玲奈は俺の耳を包むように触ってきた。

「暖かい……」

 その手は温かくはないが暖かった。耳を触ろうと集中していて、玲奈の口は間抜けに開いていた。その眼差しは心が締めつけられるほど愛しかった。無邪気を顕現けんげんした瞳は大きくてこぼれ落ちそう。それと同時に玲奈が死んでいなかったらと余計なことを考えてしまった。耐えきれなくて、頭を前に向けて手を振り払った。

「あ、置いてかないでよー」

 彼女の声が周囲の音に混じって、祭りの一部として溶け込む。


 祭りの通りをいって帰ってきた。彼女の言葉を借りるとすれば“Fの下ぼっこ”を見てまわったということだ。消去法で考えれば、次行くのは入り口からまっすぐ伸びているメインの通り。

 玲奈はあたりをキョロキョロとし始めた。そしてなにかを見つけたらしく、ひょこっと背を伸ばした。

「ちょっとゴミ捨てにいってもいい?」

「なら俺いくよ」

「いやいいよ。私いくから喜一は待ってて」

 かっかっかっと足を鳴らしてゴミ箱にかけていった。つまずいて転ばないか不安になる。

——そんなに急がなくても、俺はどこにも行かないのに。

 少しずつ遠くなる背中を見失わないようにコンマ一秒で更新していく。ゴミ箱を見つけてさっき食べていたリンゴ飴の串をそこに入れる。巾着からなにか出している。おそらく手を拭くためのハンカチかティッシュだろう。

 すると突然玲奈の動きが止まった。

「あー……」

 重いため息をついてふらふら肩を揺らした。

「おばあちゃんハンカチ落としたよ」

「あぁ、ありがとうお嬢さん」

 玲奈の隣には老年の女性が立っていた。腰は曲がっていなくしっかりとした足だった。白髪で眼鏡をかけていて、上下ともに白い服をめしている。


 するとおばあさんは玲奈から受け取ったハンカチを見つめてまた落とした。


 動揺する玲奈は「え……え?」と細切こまぎれに母音をいう。

「玲奈、こっち」

「え、でも……」

「いいから」

 また拾おうとした玲奈を制してその場から離れる。さっき俺がいたところまで戻ってくると「喜一どうして?」と無垢な質問を聞いてきた。手を頭に当てて髪の毛に触れる。どう説明しようか少し考えたあと、声のトーンを下げて話した。

「実はあの人この辺だと有名なんだよ。悪い意味で。椿つばきさんっていうんだけど、毎年祭りの日はああやって意味のわからない行動を繰り返してるんだ。ものを落としたり、電柱に話しかけたり、屋台裏ひとりで座ってたりな。普段はどうってことないらしいんだけど、その気味悪さからNPCって呼ばれてる」

認知症にんちしょうなのかしら……それにしてもひどい言われようね」

「まあそう呼ぶのは小学生くらいだよ」

 余計なことを教えたかな。ちょっと後悔する。人一倍他人に感情移入しやすい性格の彼女は悪意のこもったあだ名に嫌悪感を抱いたかもしれない。後悔は焦りに変わり、じとっと背中を湿らせる。

「ま、まああれが通常運転だからそこまで気にしなくていいよって話」

 玲奈はちらっと椿さんのほうを向いてポツリとなにか呟いた。それは俺の耳に届かず、まるで本音をこぼすようだった。人間味あるれる彼女の横顔は初めて見たかもしれない。首をゆっくりと戻したころには多年草の花が咲いていた。俺が知ってる彼女だった。

「じゃあ気を取り直していこっか」

「そうだな。それじゃ——」

 足を踏み出そうとしたとき、縁石にひっかかって体勢が崩れた。その瞬間、カトレアの香りが脳に漂い、張りのある柔らかなものが顔面をおおった。

「おっと」

「うわぁぁ! ごめんなさい!!」

 慌てて距離を取って頭を下げた。事故とはいえ触れてしまったことに赤面する。

「あれ? 確か喜一と……そうそう玲奈ちゃんだ!」

 その言葉と声質を聞いて恐る恐る顔をあげると、そこには見知った人がいた。

「せ、せん姉!?」

「久しぶり」

 右手を上げて胸元で手を振るひとりの女性。俺の幼馴染であり、玲奈の友人だ。

 タンクトップにカーディガンを羽織り、パンツは腰の位置ではいて夏らしいサンダルで足元を着飾っている。ショートな髪型と大きなピアスのせいで大人な女性という印象がある。

「せっかくだしちょっと話そうよ。奥の席空いてそうだし」

 そういうと玲奈の手を引っ張ってコミセン横の特設ブースに歩いていった。


「いやー元気そうでよかったよ。最近会ってなかったから心配しちゃった」

 宇水うすい千奈せんな、歳は俺の三つ上で都心の学校に通う大学生だ。家が近かったため、昔からよく世話をしてくれたり、一緒に遊んだりしていた。俺にとって実の姉に等しい。

 玲奈は俺経由で千奈さんと友人となった。付き合ってたときも「千奈さんとデート行ってくる」って言われたものだ。

「千奈さんも元気そうでなによりです。それにまた綺麗になりました?」

「まったく褒め上手なんだから。ほら、これお姉さんの奢りだからたんと食べなさい」

 テーブルにはイカの丸焼き、じゃがバター、唐揚げが透明なプラスチックの容器に入って置かれていた。見た目や性格が変わっても胃袋は変わらないらしく、その量は三人で食べるのに十分なほどだった。

「私ちょっと買うものあるから食べてていいよ」

 そういうとカーディガンをなびかせて特設ブースの屋台に消えていった。周りの空いていたテーブルもすぐに埋まって、つねに談笑だんしょうが渦巻いている。

「千奈さん、これひとりで食べるつもりだったのかな……」

「可能性はなくはない」

 玲奈は割り箸をパチッと割って右手に持つ。切り開かれたじゃがバターの角を箸で切る。崩れないように慎重に持ち上げて左手を添える。それをごく自然に俺の口元に運ぶ。俺も日常となんら変わりなくそれを受け入れる。玲奈はもう一度じゃがバターに箸を伸ばして自分で食べる。ああ、幸せだなぁ。

「あ、バターつけてなかった。まあおいしいけど」

 口に手を当ててもぐもぐさせてている。お茶目なところがあるのは昔から変わっていなかった。口に残っているじゃがバターの味がほんのりおいしく感じた。俺はそれを静かに堪能たんのうする。

「お待たせー。いやーさっき屋台でおじさんからサービスってことで、もう一杯もらったさ」

 コトンッとテーブルに置いたのは使い捨てのコップに入ったビールだった。せん姉がお酒を飲む印象があまりなくちょっと驚いてる。

「さっき胸のあたりになにかぶつかったから色気でも増したのかな」

「ギクリ……あれはわざとじゃないだろ!」

 口を開けて「ははは」と笑うせん姉。今思うと俺たちと出会うまえから飲んでいたのかもしれない。頬のあたりがうっすらと色づいている。一度カーディガンをあおぐように着直してカバンの中を漁る。

「はいこれ玲奈ちゃんの」

 取り出したのは缶のオレンジジュースだった。手のひらサイズの小さなやつだ。「ありがとうございます」とお礼を言われてせん姉は年上の笑みを見せる。またカバンからなにか取り出す。それを俺の前に無言で置いた。

「これって……ジンジャエールじゃん。俺の好きなやつ」

 玲奈のオレンジジュースと同じサイズの缶で俺が好き好んで飲んでいたメーカーのものだった。もちろん普段はペットボトルを買っている。缶のジンジャエールはなかなか売っているとことがない。

——わざわざ俺のために……。

 俺の好みを覚えていてくれたことに驚きだった。いや、それを超えて涙が出そうだった。玲奈は缶のフタを開けて上に持ち上げ、せん姉もそれに合わせてビールをかかげる。

「さーて、久々の再会を祝いまして……」

「「かんぱーい!」」

 せん姉は喉を鳴らして気持ちよく飲む。プハーッと大量の息を吐いて今この瞬間を噛み締めていた。余韻があるうちにすかさず唐揚げをひとつ摘んで口に放る。噛めば噛むほど滲み出る肉汁が側からでも想像できた。せん姉のとろけた唇をまじまじと見てしまう。

「それにしても玲奈ちゃんはなんでおみなえ祭りにきたの?」

「まあ色々とありまして」

 苦笑いをしてごまかす玲奈。それを深く追求しようとはしないせん姉。異様なほど自然なやりとりをしている。やっぱりまたあの疑問を持った。

「せん姉はなにも驚かないのか? 死んだ人が目の前にいるのに」

「千奈さんも幽霊とか信じるタイプなんですか?」

「も?」

 玲奈は葵のことを話した。彼女自身も少し疑問に思っていたらしく、カウンセリングを受けるように順を追って説明した。それを聞き終えるとせん姉は「なるほどねぇ」と感傷かんしょうに浸って言葉を漏らした。どこか遠くの景色を眺めるような。そして一杯目のビールを飲み干した。

「私の専攻さ日本文化なんだけど、その中でも神仏習合に興味があってレポート書いたことあるんだ。まあ難しいことは置いておいて、そのときに尾美苗おみなえ神社について調べたんだけど……」

 せん姉はイカ焼きのゲソを箸で持ってひと口食べる。もったいぶるように言葉を溜めて玲奈のほうに目線をやる。


尾美苗おみなえ神社のご尊神そんしん、カヤノヒメは“ちぎり”をつかさどっているらしいよ」


「契り……」

 俺らはボソッと口を動かした。せん姉の説明はまだ序盤で玲奈の質問にどう関係するのかわからない。けど心の奥底、自分自身でも認識できない深いところで灯火がついたのを感じた。“契り”という言葉になぜかひかれる。嘘を見抜かれたようなざわつきが胸をさする。

「本来は草の神なんだけど、なぜかここの神社は“契り”、つまり“約束”が関係しているんだってさ。おみなえ祭りはお盆に開催されるんだけど、その起源は亡くなった人を現世に降臨こうりんさせるための儀式だったらしい。この神社ができてからだから……百年以上も前の話だけどね」

 生暖かい風が俺と玲奈の間を通り過ぎていった。気の利いたあいづちすらする余裕もなく、ただただ口を開けて呼吸していた。もし仮にせん姉のいうことが事実ならば玲奈は儀式によってあの世から呼び出されたことになる。

 そのとき、玲奈の言葉を思い出した——


『約束を果たしにきたんだけどなぁ——』


「そういうことか……だから玲奈は祭り最終日の今日現れたんだ。そして周りのみんなにも見えてるのか」

 今日出会ったときの玲奈の発言とせん姉の話が恐ろしいほどに一致していた。混乱していた頭を整理するように、納得して大きな独り言をつぶやいた。非科学的でにわかには信じられないけど、そう考えればこの不可思議なできごとに説明がつく。

 葵がいっていた。この町には噂や昔話があるって。そのひとつが尾美苗おみなえ神社であり、おみなえ祭りの起源だったんだ。もしかするとこの人だかりの中にも実は幽霊がいたりするかもしれない。俺は好奇こうきの眼差しであたりを見渡した。ちょっとだけ背筋が冷たい。

「すみません……」

「急にどうしたのさ。玲奈ちゃんに謝られることあったっけ?」

「いや、なんでもないです」

 玲奈はまぶたを半分閉めて缶ジュースの飲み口を眺めていた。それは決して祭りの雰囲気に合ってなかった。浴衣に描かれているアサガオが夜になって萎んでいた。どこか寂しそうな、申し訳なさそうな。

 せん姉はふっと息を吐いて笑うと、ビールを持って乾杯するように掲げた。

「無理しなくていいよ。ふたりで楽しんできな」

 玲奈ははっとして目を開いた。瞳の光沢こうたくを動かしながらせん姉を見つめる。なにかいいたそうに口を歪ませる。その様子に気づいたせん姉は溜まっていたものを出すように声を出して笑った。そして花びらに触れるようにしっとりと頭を撫でた。実の姉妹かと見間違えるほど柔らかで気の置けない香りが漂っていた。「はい」と泣きそうな笑顔で返事をすると、箸を持ってイカの丸焼きにかぶりついた。

「千奈さん、ありがとうございました。また会えたらこの続きしましょうね」

「お、約束かな。お姉さん期待しちゃうよ」

 ふたりは「ふふふ」と笑って会釈した。玲奈とせん姉に交わされた約束。目の前で確かにおこなわれた。普段意識しない分、話を聞いたあとに約束を目にすると、なんだが生々しく感じる。

「またなせん姉」

 手を振る彼女を背中越しに見て祭り会場に戻ろうとしたその瞬間、またあの強烈な頭痛に襲われた。それだけじゃない。痛みとほぼ同時に遠くのほうから列車の汽笛が鳴った。徐々に列車が近づいてくる——


『それでも私は喜一が好きだよ』

『ずっと君のそばにいる。だから自分をそんなに責めないで』

『もし君が——』


「大丈夫?」

 玲奈が声をかけてくれたときにはすでに痛みはひいていた。原因不明の頭痛は耐えられるけど、いつくるのかわからないのが困りもの。気が滅入ってしまう。

「ああ、ちょっと立ちくらみしただけ」

 頭痛のさいに当てた手をはぐらかすようにわしゃわしゃと動かす。髪をセットする。少し心配そうな彼女にぎこちない笑顔を見せて歩き出す。俺の気づいは空回りしてそうでいつも不安である。玲奈みたいに自然な笑顔ができたらいいなと、なんど考えたことだろうか。心のにごりを残して祭りに戻った。


   ◯


 祭りの通りは依然として人で賑わっている。さっきと比べて十代の若者が増えた気がする。ちらほらで俺らと同じくらいの人が浴衣をきたり、制服や部活帰りの格好をしている。もちろんお酒のつまみを買う大人たちもいる。隣を見れば彼女が浴衣を着ている。最高のシチュエーションだ。

「そういえば。私の言った“約束”って思い出した?」

「な、なにかヒントください」

「えーなにそれ。本当に忘れちゃったんだね」

 唐突に聞いてきた玲奈は小悪魔な笑みをしている。俺が答えられるわけもなく音をたてて息を吸った。下唇の下らへんに人さし指を当てて目線を傾ける。下駄の音に合わせて二、三度指を打つと、ピンッとなにか思いついたように声をあげた。その指をそのまま俺のほうに向けて言葉をのせる。

「ひまわりかな」

「ひまわり? また花でたとえるのかよ」

「いいじゃん。私好きなんだもん」

 結局自分で思い出すしかなく、振り出しに戻った感覚だった。玲奈は自分の出したヒントが存外気に入ったらしく「ひまわり……うんやっぱそうよね」とひとりぶつぶついっていた。そしてヒントを出したついでに高校の話をした。

「縁日といえば、学校祭でお化け屋敷やったの覚えてる? あの風船暴発事件の」

「ああそんなのあったね。一年の時だっけね。確か暑くて大量に破裂はれつしたやつでしょ」

「そうそう! 私そのとき受付してたんだけど、こっちがびっくりしちゃってお客さんに心配されちゃったんだよ」

 今からおよそ二年前の話。もうそんな昔なんだとませた感想を持って在りし日を思う。特に色濃かった高校一年生の記憶は鮮明に覚えている。初めての環境で見るのもすべてが鮮やかに見えていたせいかもしれない。それに対して高校二年生なんて途中からもう記憶がない。これを慣れって言うのかな。

「学校祭用に絵を描いていたんだけど、絵の具が足りなくて」

「有志バンド観にいった? どこのグループか覚えてないんだけど私の好きな曲を弾いてて」

「そのときだよね。一緒にまわろっていってくれたの」

 学校祭という話題だけで話が樹状じゅじょうに広がっていく。尽きない思い出話に花を咲かせて花びらを散らしていく。付き合っていたときはデートに行くし一緒に帰る。もちろん一緒にどこか出かけたりするのは楽しかった。それよりももっと、玲奈と話をしているのが好きだった。一緒にいるだけでよかった。

 おしゃべりで感受性も豊かな彼女は俺とは対極で釣り合わないと思っていた。彼女にももっとイケメンで高身長でスポーツ万能な人が隣にいると思っていた。しかし俺を選んでくれた。

「でもやっぱり学校祭終わりが一番印象的かな。美術部の片付けをしていて打ち上げに間に合わない私を君は待っていてくれた」

「そんなことあったな」

「なに照れてるのさ。私のほうが恥ずかしかったよ。まあうれしさが勝ったんだけどね」

 思い出すと恥ずかしくなってわざとらしくに屋台を眺める。するとまるで計っていたように一本の列車が線路を揺らした——


 三日間続く学校祭も終わって、あんなに賑わっていた学校は静けさを取り戻した。別に部活に入っているわけじゃなかったし、クラス展示の代表だっていっても、イベントが終わればなにもない。学校祭の準備をしていた約二ヶ月、特に学校祭一週間前が充実しすぎて本祭があっという間に感じた。

『まだかな』

 校門に背中を預けてある人を待っていた。巡回じゅんかいの先生がきたらカバンを持って帰るふりをし、定期的に玄関のほうを見た。

『いやーやっと終わったねぇ』

『だねぇ。まあうちらまだコンテストもあるけど』

 きた。深呼吸をして、持て余した手をポケットに突っ込んだ。それでも心臓は激しく鼓動する。気を紛らわせるためにSNSを見ると、友達から“がんばれよ”とメッセージがあった。

——だれにも言ってないのにどうして。

 カタンカタンとローファーの音が近づいてくる。それに共鳴する心臓。もう一度深呼吸をして胸を撫で下ろす。大丈夫と自分にいい聞かせる。もうあとには戻れないと覚悟を決めて彼女の目の前に飛び出そうとする。

『あれ、後藤くん? こんなところでなにしてるの?』

 意気込んだのはいいけど、行動に移すまえに相引さんが来てしまった。しまったー! 躊躇し過ぎた! 周りにはほかの人もいて、言うかどうか迷う。いや、行くしかない。ダメでもともと。拳を握って声を出した。

『あ、相引さん! じ、実は話したいことがあって』

 距離感を間違ったセリフは彼女をビクンッとさせる。周りにいた人たちはその言葉を瞬時に理解したらしくざわつき始める。『え、まじ!』『ほらいきなよ』と相引さんの背中を押した。やたら早口の相引さんは半ば強引に置いていかれた。ため息をつく彼女は目を泳がせてこっちをゆっくり向いた。

『な、なによ。話って』

『じ、実は……俺、相引さんのことが——』


 屋台のおじさんの声が聞こえた。できたてを知らせる威勢のいい声が。それが耳に入っていないらしく、話の続きをして「ふふふ」と笑った。

「あのときまさか先生が来るなんて思わなかったよね。で、結局地下鉄までいってやっと告白してくれてね。とりあえず歩こうって言われたときびっくりしちゃった」

「いや、だってあそこでもう一回いうのは恥ずいよ。地下鉄のホームにだれかいたらどうしようかと思ったわ」

 今だから気軽にいえる告白のときのこと。俺が人生で初めて女性を好きになってそれを言葉にして伝えたあの日、幸福という文字を身をもって感じたのだった。

 記憶を巡って彼女を見る。そうしていると初恋の高揚感こうようかんを疑似体験しているみたいだった。すると俺はパッとなにか思い出しそうになった。

——あれ、告白したときってなにか言っていたような。

 告白をして玲奈が返事をくれたその日、地下鉄の中でなにか言葉を交わした気がした。

「玲奈、告白したあとさ、俺ら地下鉄内でなに話したっけ?約束とかしたような」

「んーなに話したっけ?告白がうれしくて覚えてないや」

 はぐらかしている様子はなかった。俺の予想はまた外れてしまった。“約束”の鱗片りんぺんすら思い出せなくて正直つらい。愛した女性の言葉をそんなにもおざなりにしていたのか。「約束……約束……」とぶつぶつ呟きながら通りを歩いていく。

「まあまあ、そんな怖い顔しないで、祭りを楽し……」

「あ! 玲奈姉ちゃんだ!」

 言葉を遮るように前方から飛んできたのは元気な声だった。戦隊ヒーローのお面を斜めに被った樹が小さい足を回転させて近寄ってくる。樹がいるということはもちろん……。

「また会ったね。どう? 祭り楽しんでる?」

 夜なのに太陽が出ているかのような清々しく暑苦しい笑顔だった。背の高い葵を首を傾けて見やる玲奈。まさにひまわりのそれだった。子供たちの手にはそれぞれ買ってもらった食べ物やらおもちゃが握られていた。葵もビニール袋をぶら下げている。おそらく家に持って帰るんだろう。

「うん楽しんでるよ。向日くんはもう帰るの?」

「いや、俺はまだ残るよ。こいつらはあとで親が迎えにきてくれるんだ」

 なるほどと納得する。環境音だけが聞こえる時間が流れた。口下手な葵は言葉を探しているようであれやこれや目を泳がしている。すると樹がまた玲奈を呼んだ。

「玲奈姉ちゃん、これあげる。すっごくおいしいよ」

「あ、じゃあ僕も……はい」

「ねぇね、楓のも食べて」

 樹は唐揚げ、蓮はフライドポテト、楓は鈴カステラをひとつ摘んで玲奈に差し出した。その小さい手を目一杯伸ばして無垢な瞳をキラキラと輝かせている。玲奈は両手を口に当てて同じく瞳を動かしていた。

「みんなありがとう」

「玲奈姉ちゃん、あーんして」

 ひとりずつ丁寧に口に入れてもらう玲奈。恥ずかしそうにしているけど、それはそれで絵になった。やっぱかわいい。一生懸命モグモグと口を動かす玲奈は彼らからの好意こういを受け取ると改めてお礼を言った。すっと立ち上がって「いい弟たちだね」と葵に伝える。自分のことのようにうれしく思った葵は「あ、ありがと」となぜかお礼した。お前じゃない。その様子を見て玲奈はいつもと同じ、「ふふふ」と笑った。

 そんな彼らを見るのがどうしても嫌だった。そういう関係じゃないと頭ではわかっているのに心の奥深くでくすぶるように焼け焦げるものを感じる。それでもふたりは俺にとって大切な人。玲奈の隣で見守ることにした。

「「「じー」」」

 ちびっ子三人はなにも言わないで葵を見つめていた。

「ど、どうした……」

「兄ちゃんもあげないの?」

「僕らあげたもんね……」

「ねぇね喜んでくれるよ」

 葵の足元でやんややんやと騒ぐ小さな童。その光景は微笑ましく心を抉るものだった。玲奈は遠慮しているけど、周りの空気が逃してくれなかった。しかたなくビニール袋からたこ焼きを取り出して差し出す。玲奈の細い指が爪楊枝つまようじを掴んで口に運ぶ。

「なんかごめんね」

「いや、こっちこそ……」

 甘酸っぱい青春映画を見ている気がした。もしそれなら俺は主人公ではなくただの咬ませ犬だ。無言のまま歩き出した。ここにいると自分が自分でなくなってしまいそう、そう思った。玲奈が楽しければ、幸せならば俺はモブで構わない。頭の中でなんども反芻して自分に言い聞かせた。胸のざわつきを抑えるために。ついてきてほしいって、どこか思う気持ちもしまい込む。

「む、向日くん! 私行くね!」

「お、おう。またな」

 後ろから下駄の音が聞こえてきた。振り返ることはしない。気がつくと隣には玲奈が息を切らして歩いていた。

「ちょっとなんで置いていくの」

「別に。葵といたほうがいいのかなって」

「なに、嫉妬してるの?」

 その質問には答えなかった。こっちに来てくれたのはうれしいけど、現在進行形で気まずい。お好み焼きを焼く音も、射的の音も、カランカランと鳴らす彼女の音も。目では祭りを楽しんでいるはずなのに耳から流れる情報を無意識に拒絶きょぜつする。

——どうしてこんなにも女々めめしいんだろう……。

 彼女と葵への嫉妬は確かにある。けどせっかく会えたのに彼氏として楽しませてあげれてない自分へのいらだちが上回る。ほんの少しだけ、あそこから逃げたのを後悔している。

「約束したのにな……ごめん」

 懺悔したことによって周りの空気が重たく肩にのしかかる。しばらくの間、俺と玲奈は会話をすることはなかった。さっきまで満開だった花は気まずさに負けて萎れる。なんの解決もしないまま、つきあたりまで来てしまった。右に曲がると屋台がある。来た道を引き返すのもひとつの手だ。なにも考えないで曲がってしまえばよかったのに、そこで止まってしまった。玲奈も合わせて止まる。「どうする?」と聞いたら最後、彼女の怒りをかっていなくなっちゃうかもしれない。そうしたら俺は一生後悔するだろう。

——どうすればいいんだ。

 悩んでいると玲奈が俺の前にひょこっと現れた。

「ねぇねぇ。あそこにある金魚すくいやろうよ」

 屈託くったくのない花を見せてきた。彼女に引っ張られて金魚掬いの屋台に行く。心の整理はまだついていない。玲奈は何事もなかったのような、いや、無理して明るく接してくれている。それに気づいたのは彼女がしゃがんで金魚を眺めていたときだった。

「わあかわいい! 見て見て、黒いのもいる。出目金でめきんってやつだっけ?」

 指をさしてはしゃぐ姿は幼心を忘れてはなかった。屋台のおじさんが「嬢ちゃんよく知ってるねぇ」と親戚の子どもたちにいうように喉を唸らせた。

「おじさん、ポイふたり分お願い」

「ふたり……嬢ちゃん、もしかして……」

「い、嫌だなー! 私金魚掬い初めてやるんですよ。人違いですって」

 急に慌てて手を振る。かなり必死なのが伝わってきた。さすがに気になって聞いてみた。

「ほら、二年くらい前にテレビで金魚掬い女子高生ってやっていたでしょ? あの子私に似てるのよねぇ」

 そういわれて改めて玲奈を見る。記憶の奥を探して、ふたりの面影を比べる。確かにそういわれれば似てなくもないかも。多分髪を縛っているからよりそう見えるのかもしれない。テレビに出ていたその子も金魚掬いをやるときはヘアゴムで束ねていたから。

「あ、ああそうか。人違いか。はい、お二人さん頑張って」

 差し出されたポイを受け取って、体の向きを整える。金魚掬いなんていつぶりだろう。小学生のときにやった記憶はあるけど、それが何年生なのかはっきりとは覚えていない。母さんとふたりでやったのだけは鮮明に思い出せた。

「これって全部水につけちゃっていいの?」

「いいんじゃないかな」

 すっと水にくぐらせてポイ全体を湿らせる。そして金魚の真下にそれを持ってきて慎重に動かす。金魚が止まった瞬間、勢いよく持ち上げた。

「獲った! ……ってあれ?」

「喜一残念でした。次は私の番だね」

 ますに入れるモーションは完璧だったのにそこに金魚はいなかった。ポイを見てみると、綺麗に破けていて水槽にいる金魚がはっきりと映っていた。まあ想像どおりというか最初から期待してなかったというか。侘しさを少し抱えて破れたポイを屋台のおじさんに返す。

 それから玲奈の様子をうかがった。両手を構えてちょこんとしゃがんでいる。どの金魚にしようか悩んでいる姿がとても自然で人間味にあふれていた。そして愛らしくもあった。わざとじゃないのがなおタチ悪い。

「じゃあせっかくだしこの子狙おっと」

 ゆっくりとポイを入れて黒い出目金を狙う。ほかの金魚に比べて体が大きくいきもいい。真剣な眼差しを水面に向ける。なんかプロっぽい……! 耳にかけた髪の毛がパサリと落ちる。それに目も暮れず金魚を追っていた。

「ここ!」

 流れるようにポイを持ち上げた。その上にはしっかりと出目金が乗っかっている。俺も驚いてつい「おお!」と声を上げた。本人もまさか獲れるなんて思ってなかったみたいだ。換気していると、升に入れる直前でポイが破れてしまった。

 俺らは同時に黙ってしまった。

“まいどありー”

 近くの屋台から店主の声が聞こえる。玲奈は落ちた金魚を見てふつふつと笑い始めた。そして腹を抱えて大声で笑った。

「うちら下手だね。こりゃあ来年もリベンジしなくちゃね」

 その瞬間、ピンっと音が頭に響いた。次第にガタンゴトンと列車が積み荷を鳴らして近づいてくる——


 暑い夏の日、俺と玲奈は美術室にいた。夏休みで人もいない。聞こえるのは野球部の練習する熱気だけだった。机を下げて椅子を持ち出す。空いた空間にポトンと置くと玲奈に肩を押さえつけられて座らされた。

『しゃべってもいいけどあまり動かないでね』

 そういうと玲奈は自分が座るようの椅子を引っ張り出してイーゼルのそばに置いた。鉛筆と練り消しを用意する。ヘアゴムを口にくわえて髪を束ねる。

 美術部の彼女にとって、いたって普通のこと…一連の動きがルーティーンになっていた。けど俺は指の先まで見入ってしまう。学校やデートのときに出会う彼女とは違った雰囲気を醸し出している。なんか珍しいな。ひと言でいうならかっこいいにつきる。

『なに見てるの。恥ずかしいよ』

 髪を束ね終えた彼女は複数本ある鉛筆うちの一本を手に取り俺に見せるように前に突き出した。

『右足を両手で抱えてくれる? 左は楽に伸ばして』

『こ、こう?』

 ポーズを指示されてとりあえず動かしてみる。『もう少し曲げて』『背中はリラックスして』と玲奈から細かい注文を受けた。モデルなんて美術の時間でもやったことないのにと、内心で文句もんくをいっていた。

『うん完璧。ちゃんと休憩もとるから安心して』

 そういうと玲奈はキャンパスに向かってスラスラと絵を描き始めた。シャッシャッシャっと鉛筆が擦れる音が教室に響く。目のやり場に困って教室を見渡す。白い壁にたくさんの棚。絵の具の匂いが漂ってくる。

“カキーン”

 外ではだれかが盛大に打ち上げたらしい。パッと玲奈を横目で見た。髪を耳にかけて真剣そのものでキャンパスに向き合う。俺が初めて見る顔だった。つい見惚れてしまう。そのとき玲奈と目が合ってしまった。反射的に目を逸らす。

『頭はもう動かしていいよ』

 彼女は『ふふふ』と笑ってみせた。しばらく沈黙ちんもくの時間が続いた。特にすることがなくて、ただただ壁に貼られた絵を見ていた。すると玲奈の声が唐突に入ってきた。

『その絵綺麗でしょ。先輩が描いたんだ。本人はあんまり納得いってないらしいけどね』

『へぇーそうなんだ』

 テンプレの返答をして床に視線を落とす。ぼーっと考えて俺もぽろっと言葉をこぼす。

『なんで俺がモデルなんだ? これってコンクールに出すやつでしょ。もっといい人いそうだけど』

『君じゃなきゃダメなの。もしコンクールでいい結果が出せなくても君のせいじゃないよ』

 玲奈のいっていることは半分理解できた。確かに描いているのは玲奈だしそれが審査員に刺さるかどうかは俺というより、彼女の技量次第。けど彼氏だからといって俺にこだわる理由はわからなかった。付き合って一ヶ月くらいしか経ってないし、まだ彼女というものを知らない俺がいる。

“カタン”

 鉛筆を置いて立ち上がった。ゆっくりと俺に近づいて『休憩しよ』と言ってくれた。同じ姿勢をしたせいで体が硬くなってる。背伸びをして大きく息を吐く。

『今年ダメなら来年リベンジするから。それまで見捨てないでね』

 いつもは目線の下にいる玲奈が上から俺を覗き込んでいる。その言葉は優しく俺の胸に入っていった。立ち上がろうとすると、腰が固まったせいでふらついた。『大丈夫?』と玲奈に支えられた。その玲奈の手を強く握ってはっきりと伝えた。

『見捨てたりなんかしないよ。約束だ』

 玲奈は恥ずかしそうに視線を逸らして『ありがと』と小さな声でいった。静かな教室にふたりきり。初い恋心を持った男女がすることは決まっている。夏の雰囲気に飲まれた俺と玲奈は手を広げて握り直す。顔を近づけてお互いの鼻をこすりつける。恥ずかしさ半分と学校にいる緊張感半分を持ち合わせて、もう一度彼女の目を見る。蛍光灯が反射しているそのひとみはとても大きくて愛おしい。

 手を離してゆっくりと彼女を支える。彼女もそれに合わせる。たかぶぶる気持ちとねっとりした感覚に身を任せて唇を——


「喜一? どうかしたの?」

 はっとして俺は声のするほうに顔を向ける。そこには玲奈がきょとんとした表情で俺を見つめていた。

「いや、ちょっと思い出に浸ってただけ」

「えーなになに気になる!」

「お、教えねぇよ」

 立ち上がって背伸びをする。座って金魚掬いをしていたせいで固くなった腰を動かす。この痛みも懐かしく感じるのはきっとそういうことなんだろうね。玲奈も穴あきのポイをおじさんに渡す。

 玲奈のおかげで暗い気持ちも吹っ切れた。今度は俺が案内するぞと意気込んで屋台を見渡す。ぼちぼち歩いてみると型抜き屋やきゅうりの浅漬あさづけがあった。よく考えてみればきゅうりって珍しいよね。ほかの祭り行ったことないけど。たこ焼きとかはいっぱい屋台出てるし有名だし。でもきゅうりはここだけ。

「あんなのも売ってるんだな。なあ玲奈……」

 振り返るとそこに玲奈はいなかった。俺ひとりで歩いていたらしく、慌ててあたりを見渡す。近くの屋台にはいなかった。心臓が大きく鼓動する。

——まさか消えてしまった……。

 最悪の事態を妄想する汗が止まらない。心音がさらに速くなる。次第に目が潤んできてきた。こんな終わりなんて信じたくなかった。すると遠くからカランカランと音が聞こえた。

「ごめんね遅くなった……ってなんか泣いてる?」

「泣いてねぇし」

 玲奈が「ふふふ」と笑って心が安らぐ。いないいないと焦っていたけど、結局ただ俺が置いていっただけだった。ともかく玲奈がいる安心と俺の馬鹿さ加減にため息をつく。冷静さを取り戻した俺は玲奈がなにか持っているのに気がつく。

「あれ、それは?」

「えへへ、金魚掬いのおじさんから割引券もらっちゃった。これ全部の屋台で使えるんだって」

 満面の笑みでそれを両手で広げて見せてくれた。百円引きと書かれた手作り感満載まんさいの紙切れ。これに見覚えがあった。小学生のころ、屋台の景品でもらっていた気がする。さっきみたいになにも取れなかったときに。

 大事そうに巾着に割引券をしまった。それをお土産として持って帰るのもいいんじゃないかな。あの世に帰ったとき、巾着についている変なキャラのキーホルダーだけだと寂しいを通り越して虚しいからな。

「よかったな」

「え、子ども扱いじゃん」

 そんな冗談を挟んで俺らは恋人として堂々と祭りを見てまわった。


   ◯


 しばらく歩いていると先が真っ暗になった。ここがちょうど端らしい。これで祭り会場はすべて見た。時間はまだたっぷりあるし、玲奈の“約束”も思い出していない。

「これで全部だけど、どうしよっか。もう一回まわる?」

「あ、それならあそこ行こ! 尾美苗おみなえ神社!」

 ピンと跳ねて上目遣いで俺に迫る。少し悩んだ。距離は近いけど、荷物を取りに往復することを考えればそこそこな距離になる。浴衣を着ていればなおさら大変だろう。あ、でも……そうだったな。ここに来るとき、鳥居を見た玲奈の顔は好奇心のかたまりだった。

——玲奈のためだ。

 同意の頷きをして玲奈の手を引く。祭り会場ではない街灯がポツポツと照らす道を歩いていく。別に来た道を戻ってもいいけど、こっちのほうが人がいなくてスムーズにいける。神社を見に行けるのがそんなにうれしかったのか、玲奈は歩いているさいちゅう腕を振り回していた。

「確かもうそろ境内けいだいで餅まきがおこなわれるはずだよ」

「あ、なんかテレビで見たことある。あれってちゃんと取れるのかな。人多くてもみくちゃにされそう」

尾美苗おみなえだから大丈夫だよ」

 地元の自虐じぎゃくを入れるのは田舎民あるある。実際に人が多くないというのは間違いではない。境内はそこまで大きくないし、そもそも餅まきがあることすら知らない人だっている。ポスターやチラシの端に小さく日時が書かれているだけだからだ。俺自身、餅まきに行ったのは中学校のときだろうか。ひとりでいくには心細さと羞恥心しゅうちしんがある。だから葵や立花を誘っていった記憶がある。

尾美苗おみなえって意外といい町だね。派手で表面的な都会よりも伝統ある田舎が私は好きだな」

 玲奈は空に浮かぶ星々を結ぶように見上げた。都心ではお目にかけない星が数多にあるんだろう。俺と玲奈の瞳はその輝きが違っていた。

“カンカラン”

 唐突に空き缶がなる音がした。空を見ていた玲奈はふと目を向ける。ちょうど俺らの足元にジュースの空き缶が転がっていた。しかも飲み口から茶色く濁った液体がたらっと流れていた。

「お前まじやっべーな」

「んなもん大したことねぇべ。この前なんか国道でサーキットしてたわ」

 縁石にヤンキー座りして仲間と談笑する青年が三人いた。奇抜な髪色と髪型、だらしなく着崩した彼らは暴走族だ。夜中になると爆音を響かせてバイクを乗り回す。彼らかどうかわからないが、俺も一度だけバイト帰りに出会したことがある。

 本能的に関わってはいけないと思って、反対側の歩道にいことした。しかし玲奈のてがスルッと抜けた。

「これお兄さんのゴミでしょ。こういうのはちゃんと捨てなくちゃ」

「あ!? なにいってんだ」

 空き缶を拾ってヤンキー座りしているひとりに声をかけた。一瞬にしてその場が凍りつく。今にも襲いかかりそうな暴走族に玲奈は臆せず空き缶を投げつけた。

「小学生からやり直したほうがいいかもね。それとも小学校すら入れない感じ?」

 言われ放題の暴走族は持っていた飲み物を地面に叩きつけた。凄まじい音がしてあたりが騒然そうぜんとする。

「舐めた口聞くなよ。殺すぞ」

 三人は立ち上がって指を鳴らす。じりじりと近づいてくる彼らに圧倒されて後退あとずさりする玲奈。彼女が危機というのに俺は足がすくんで動けない。

——どうしたんだ。動け。動けよ!

 思いとは裏腹に背筋まで凍って身震いをする。ここから逃げ出したい、そう思ってしまうほどに。

「なんだ喧嘩か?」

「ねぇあれやばくない?警察呼んだほうがいいんじゃない?」

 たまたま通りかかった人が集まってきてちょっとした騒動に発展しそうになった。暴走族たちはそれを見て舌打ちをした。ポケットに手を突っ込んで、だるそうにこの場を離れた。一件落着と言いたいけど、あまりうれしく思わなかった。彼女の突拍子とっぴょうしもない行動に呆れる。玲奈は胸を撫で下ろすとにこやかに戻ってきた。

「いやーびっくりしたね。今でも心臓バクバクっだよ」

 一歩間違えば暴行事件につながりかねない危険な物言いだった。それを悪びれもしない彼女の笑顔はへらへらしているように見えた。言いたいことが多すぎてまとまりきらない。とりあえず神社目指して歩き出した。途中で祭り会場に入って明るい道を暗い気持ちで進んでいった。

「ああいう人っているんだね。都心だとあまり見かけないんだよなぁ」

 まるで世間知らずのお嬢様のような発言に俺はとうとう頭にきた。

「見せ物じゃないんだけど。楽観視しすぎじゃない?」

 頭の酸素が消費されるのが感じられる。まっすぐ前を向いて言葉を横にいる玲奈に放り投げた。歩くスピードが心なしか早くなる。

「ど、どうしたの急に」

「どうしたもこうしたも、そのまんまの意味だけど」

 彼女に対するいきどおり以外にも自分の情けなさも入っている。それを他人にぶつけてなんとか気を紛らわせようとしていることに薄々気づいていた。かっこ悪い。けど一度生えたトゲはなくならなくて、徐々に成長していった。

「ちょっと待って、私の目を見てよ。悪いことしたなら謝る」

 俺の前に飛び出して無理やり制止させた。祭りの道のど真ん中で俺と彼女は不穏ふおんな空気を放出している。

「別にいいよ。ほら先いこ」

 彼女の制止を無視してそのまま歩き出す。


 そして玲奈の体を避けずに通り過ぎた。


「意気地なし……言いたいことあるならはっきり言ってよ!!」

 玲奈の怒号は祭りの音をかき消した。ピタリと歩みを止めて下を向いた。俺は俺なりに玲奈のことを考えて言わない選択をした。確かに最初も我慢できてればこんなことにはならなかった。丸く収めようとしたのにこうも怒鳴られちゃ意味がない。

「ごめん……」

「ごめん? 君はそれしかいわないの? これじゃあ私が逆ギレしてるだけじゃない」

 ふたりから出たいばらは周囲を巻き込むようにして広がる。不規則に生えたトゲがじわじわと俺の体に突き刺さる。言の葉を散らすたびにそれが深くなっていく。情けなくなった。幼い自分にも、彼女を守れない自分にも。泣きそうになる目を堪えて振り返った。

「やっぱ俺じゃなくて葵のほうがいいよな」

 今まで思ったことの集大成を一文でまとめた。異常に仲がいい玲奈と葵とその弟たち、いざというときに救えない自分、玲奈の約束。

「お前言ってたよな、ひまわりがヒントだって。まんま葵じゃねぇか。どうせ死ぬ前に葵と約束してそれを果たしにきたんだろ。俺とたまたま出会でくわしちゃったから、しかたなくふたりでまわったんだろ」

「やめて……そんなわけないじゃん」

 壊れた蛇口のように言葉を垂れ流した。

「頼りないだろこんなやつ。ごめんな、お前が死んでも足枷あしかせになっちゃって」

「ねぇ皮肉いわないでよ。それにさっきからわざとやってる? 私がお前呼ばわりされるの嫌いなの知ってるよね?」

 自分でもどうしてこんな言い方しかできないのかわからない。ただ出来損ないの自分に駄々をこねているようにしか見えない。この喧嘩になんの意味があるんだろう。これを止める方法が思いつかない。考えるまえに言葉が出てしまう。本音なのは変わりないけど、それはあまりにも自己中心的だった。

「あーごめんごめん。どうせ彼女との約束も思い出せないダメ男なんで」

「だからその言い方やめてよ」

 立ち止まる人、引き返す人。見て見ぬふりをして通り過ぎる人が大半だったが、近くの屋台の口上がぎこちないのに気がついた。この雰囲気をひと言でいうなら最悪だ。俺と玲奈だけ空間に取り残されたように、祭りそのものが冷めてしまった。玲奈に近づいて目を合わせた。

「荷物取りに行くか?」

 そのとき、玲奈の瞳がすぼんだのが見えた。目を見開いて細かく震えている。うなだれるように下を向いて黙ってしまった。肩がヒクヒクと動いている。道ゆく人の視線が痛い。なすすべなくただ佇むことしかできなかった。なんでこんなこと言っちゃったんだろう……。言ったあとに後悔する。もう手遅れなのに。

 すると玲奈が小さくなにかささやいた。周りの音にかき消されて、かすかに見える口元が動いたとしかわからなかった。「え?」っと声を出すと玲奈は勢いよく顔を上げた。


「最低」


 涙を浮かべた大きな目が俺を見つめていた。

「喜一はそんなに私のことを信じられないの? 確かに向日くんとは仲いいけどそれは友達としてだよ。最初にいったじゃん、君に思い出してほしいって。君との約束に決まってるじゃん!」

 涙がこぼれないように必死で堪える玲奈。文末の息が荒くなっていた。返す言葉を探していた。どんなことをいっても玲奈を傷つけてしまいそうで怖気づいてしまった。そんな俺に呆れたのか、目を逸らして玲奈は言葉を重ねる。

「君はなんにも言わないんだね。好きだったのに……こんなことになるんだったら……」

 玲奈は息を吸って呼吸を整える。


「会わなきゃよかった」


 涙声じゃないはっきりとした声だった。独り言のような吐き捨てた言葉は地面に叩きつけられた。心臓がドクンと張り裂けそうになる。玲奈本人から言われたせいで、自虐よりも心の傷は大きかった。そのショックが大きすぎて涙すら流れない。萎れるように首を曲げて地面を見る。新しいスニーカーが目に入る。それを好きで履いていることが恥ずかしくなった。買ったばかりのゲーム機を手に持って怒られている感覚に近い。

 どんなに頭の整理をしてもこの言葉しか出てこなかった。

「ごめん……ってあれ……」

 頭を上げて玲奈のほうを見た、そのつもりだった。


 しかし、そこに玲奈はいなかった。


 あたりを見渡しても玲奈の姿は見つからない。屋台の人に話けても無視され、道ゆく人に声をかけても目すら合わせてくれない。まさか……。さっききた道を戻ってみる。そこには街灯と暗い通りしかなかった。玲奈と喧嘩をした場所に戻ろうとする。焦りのせいで人とぶつかっているのですら気づかない。その場にたどりついてもやはり玲奈は見つからなかった。

「玲奈……」

 認めたくない現実、知りたくない現実。唖然あぜんとした間抜けな顔でひたすらに遠くを眺める。そのとき、小さな雫が頬をつたって地面に落ちた。


 約束を果たしに来た彼女は俺の目の前から姿を消した。


 走った。どこを探すか当てもなくがむしゃらに走った。屋台やすれ違う人には目もくれないで、ただひとりを探して祭り会場を駆けていく。走れば走るほど心のざわめきが大きくなる。それを宥めようと自分の心臓を掴んだ。服のシワが放射状に伸びて体をきつく締める。

——いない……どこにもいない……。

 酸素を必死に取り込もうとしているのが耳でわかる。それでも足だけは止まらなかった。地面を蹴って、足をまわして、靴底をすり減らす。気がつくと出口付近までやってきていた。衝動的に動いて、勢いよく道路に飛び出した。

「もしかしたら神社のほうに……」

 そのときだった。道路を渡ろうとした瞬間、横から眩い光に照らされた。俺が光源を見たときにはときすでに遅かった。目と鼻の先に車が突っ込んできている。スピードを落とす気配もない。

——ひかれる……!

 次の瞬間、視界が真っ白に染まった。

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