【プロローグ】
名にめでて折れる許りぞ女郎花
我おちにきと人にかたるな
僧正遍昭
約束、それは期待。
約束、それは疑念。
約束、それは
影も形もないそのものに縛られるありさまはまさに
他人なんて完全に理解することはできない。まして自分の思いどおりにしようなんてもってのほか。
私はもっと知りたい。
俺はもっと知りたかった。
いまさらのように言葉を連ねても意味はない。夏のあの日が運命の分かれ道だった。
汗が滲むシャツをあおいで、窓際で涼んでいる彼を忘れはしない。
風でなびく髪をかきあげ、読書に
天気のようにコロコロと模様を変える“心”は可視化された表面世界をいき交っているにしかすぎない。
その“
約束、それは未練。
* * *
約束を破った彼女は一年前に死んだ。
目を覚ました俺の
「まぶっ……ってあれ……!」
上半身を勢いよく起こした。両手を確認して胸に手を当てると、少しドクドクしてるのが感じられた。顔をゆっくり前に向けてあたりをキョロキョロと不安げな目で見る。そこは見慣れた神社だった。
社殿の
そのとき、そよ風がさっと吹いて俺を
“
ここ、
結局神社のことなんて知っている人、いや気にかけている人はごくわずかだ。俺みたいなやつはな。
夏の日差しは絵の具をベタ塗りしたように明るかった。柱に寄りかかっている俺はすっと暗闇に身を置いている。そのコントラストは夏の
「あの子は……」
もちろんこんな田舎の神社に人がいるはずもない。まだ寝ぼけている俺は夢のことを思い出している。さっきまでは明瞭に覚えていたはずなのに、今となっては断片的で印象深いシーンしか残ってない。
“ミーンミーンミーンミーン”
太陽が傾いて影が少し長くなっている。まだ空は青いけど、夜になるのも時間の問題だ。そんなに長い間寝ていたのかな、あるいはおやつを食べて眠たくなったとか。まあそれはないけど。
深く息を吸い込んで肺に
“ボトンッ”
立った拍子になにか落ちた。
“銀河鉄道の夜”
「あれ、この本……。俺が借りたのか? まあいっか」
よくわからないし、とりあえず賽銭箱に乗せた。
そのとき、一匹の蝉が鈴紐に止まった。それをじっと見つめる。手を伸ばせば届きそう。じっとして動かないし。少年の幼心で、ゆっくりとそいつに手を伸ばす。けどあとちょっとのところで、ビビッと羽音をたてて逃げてしまった。いき場のなくなった右手。虚無感を埋めるために、鈴紐を一回大きく揺らす。
“カランッ”
低い鈴の音は存外広くこだまし、その反響が耳に入ってくる。もわんもわんと頭の中が響く感覚に襲われる。まるで洗脳されるように。
あ、お賽銭しないと。急に思い出してポケットを確認する。後ろのポケットに入っていた財布を取り出して中身を確認する。中には千円札とユーロ硬貨しか入ってなかった。しかたないか。ユーロ硬貨を一枚、賽銭箱に投げ入れた。
賽銭箱に当たったコインは甲高い音とともに三度跳ねて吸い込まれていった。また鈴を鳴らして拍手する。手を合わせてゆっくり目を
「もし会えるなら、もし伝えてくれるなら。俺の気持ちを代弁してください。ひと言いわないと気が収まらないんだ」
ときの流れに逆らうように、ゆっくり、ゆっくり。合掌した手をさげた。
そのとき、快速列車が近くを通り過ぎていった——
『え、あ……どうも』
高校初登校の日、田舎から来た俺は友達ができるはずなくて、ひとりぼっちで帰っていた。最寄りの地下鉄に入ると同じクラスの人がホームに
目があって少し気まずい。地元なら人間関係に困らないのに、都会の人は冷たくて話しかけづらい。今さら場所を変えるのも、かえって失礼だしなぁ。苦し紛れに名前を聞いてみた。
『名前?
そのいいぐさは淡白でクールな印象だった。距離は近いのに壁があったけど、それより会話してくれたことがうれしかった。ぎこちなく会話を続けた。内容はベタに自己紹介から。
『ふーん。そうなんだ』
彼女は気まずそうに視線を逸らす。少し間が空いた。肺の空気を押し出すように地元のことを話す。
『あ、電車民なんだ。私乗ったことないや』
初めて聞いた色味のある言葉。彼女という花の一片が
『え?さっき——』
神社に静寂が戻った。目を半分だけ開けた。焦点が合ってないのが自分でもわかる。空のどこか遠くにトンビが円を描いて飛んでいる。そんな鳴き声が耳に入ってきた。重そうに肩を上にあげて、大袈裟な身振りでポケットに手を突っ込む。そして神社を背にしてスタスタと歩き始めた。
◯
大鳥居をくぐって階段を降りる。
「あれって……」
社殿へ道を作るように提灯が置かれていた。木材でできている二メートル半の簡易的な土台に、人の胴体くらいある提灯には
神社あとにしようと前に足を踏み出した瞬間、二度見した。
参道の横にある小道。昔は立派でだった木の階段。今はもう朽ちてなくなっている。雑草が禿げた
神社にの近くにある銀行の駐車場から登っていける。小さいころとか、よく探検ごっことかしたなぁ。秘密の通路のような非日常感がワクワクして、泥だらけになったあげく、おにゅうの帽子をなくして母さんを怒らせた。そんなこともあったなぁ。
高校生になった今はもうその道を通ろうとは思わない。でもどうしてだろう、心臓がひどく動く。ドックン、ドックン。
“ピーヒョロロ”
唐突に入ってきたトンビの声にはっとする。空を見上げるとトンビが俺の真上を飛んでいた。狙いを定めるように俺を中心に回っている。背中を押されるようにぽとぽとと歩いていく。そして鳥居の真下に立って景色を眺める。アスファルトの上を走る車、入れ違いになる列車、天高くそびえる入道雲、そして青空。
「夏だな」
神社にそういい残して、階段をおりた。
◯
アスファルトに足をついて左右に首を振る。どこに行こう。財布以外ポケットにはパンのシールすら入ってない。なにをしたいわけでもないし、とりあえず神社の周りを歩こうか。
“おみなえ駅”
この駅と神社は目と鼻の先で、車通りが少し多い。といっても田舎なのは変わらない。ところどころ
“三番ホームに列車が到着いたします”
また足を動かして、道に沿って歩く。木々で囲まれた神社は外から見えない。ひたすらに木が生い茂っている。隣接する銀行を過ぎたあたりから背の高い石垣が積まれている。ところどころ
上を見上げると木の天井があって、木漏れ陽のシャワーを浴びる。ゆらゆら、カサカサ。耳から涼しさが入ってくる。自然と鼻歌を歌っていた。遠い遠い昔に聞いた題名も知らない曲を。
気分よく歩いていると左側に坂が現れた。その道路の真ん中に立ってなんとなく眺める。左側が緑生い茂る神社、右側には小学校がある。ゆったりとカーブしている坂を登っているさいちゅう、右側を見る。大人の背丈ほどのフェンスがあって、その向こう側では小学生が野球を練習していた。多分地元の少年団かなにかなんだろうな。甲高く必死な声がちらほらと聞こえる。
横目で歩いていると前方から一台の車がやってきた。
「うわっ!!」
間一髪で避けた俺はフェンスにしがみついた。みっともなくへっぴり腰になる。だれも見てないよね……。
「田舎だな……」
肝を冷やしたせいでどっと疲れが出てきた。道の途中にあるレンガ作りの倉庫の前に腰掛ける。
“カーン”
ボールが高く打ち上がって内野がキャッチする。それをホームに送球する。人が変わってまた繰り返す。野球には興味ないけど、あんな小さな子が頑張っている姿に俺の目は釘づけになる。
「バッターアウト。スリーアウトチェンジ……ってな」
どこかで聞いたことあるフレーズをボソッといってみた。親戚の集まりを思い出して鼻で笑った。おじさんたちがこぞってビールを持って、お盆は高校野球、正月は
もちろん俺を含めた子どもたちにはその面白さなんてわからない。だからいつもゲームをしたり、やんちゃな子と
「おやじになったなぁ」
“カーン”
金属バットの音が空を打つ。
小道を出たあたり、見渡す限りの住宅街だった。背中にある緑のほうが
「俺が一番だぜ!」
「もう待ってよぉ」
小学生がカバンを揺らして目の前をかけていく。肩掛け、リュックサック、手ぶら。彼らでさえも鮮やかだった。
“ガタンゴトン、ガタンゴトン”
ふと耳に入った列車の音に体がビクンと反応する。
「こっち……か?」
すぐそこには踏切があった。
“カンカンカンカン”
踏切がランプをつけてうねりをあげた。ゆっくりと下がってくる踏切。それに合わせて俺も一歩ずつ近づく。そして踏切と同時に俺も止まった。踏切のバーをじっと見つめる。
“カンカンカンカン”
なかなか通過しない列車。たまにこういうことがある。目線を元に戻した瞬間、線路向こうに人影が見えた。身長は俺くらいで、体はか細い。眼鏡をかけているのがここからでもわかる。
「あれ、立花か?」
中学校からの知り合いで今でも遊んでいる友達のひとり。最近は塾やらなんやいって全然会ってなかった。
「おーい!たちば——」
そのとき、立花の背後からひとりの女性が出てきた。見知らぬ女性だった。仲良さげに手を握って顔を近づける。あ、そういうこと。声をかけるのをやめた。なんだよ、彼女いるなら教えてくれたっていいじゃないか。夏の静けさを崩すように列車が
『やっと五月か』
一ヶ月が過ぎたころ、俺も友達ができて学校生活が楽しくなってきた。クラスではある程度グループのようなものができている。それのせいもあって、相引さんと話すきっかけがない。せっかく仲良くなれそうだったのに。無意識に彼女を追っていた。地下鉄のホームであったあの日からずっと。いっときの笑顔が忘れられないままだった。
“キーンコーンカーンコーン”
下校を知らせるチャイムとともに人が流れ出す。掃除をする人、廊下でだべる人、そそくさと帰る人。その多様性に身を隠して機会をうかがった。
『玲奈またねー』
友達と話していた相引さんがカバンを持って帰る。その瞬間を見計らって、自然を
『じゃあね』
すれ違いざまに挨拶をした。心臓がバクバクするのを悟られないように教室に入っていった。彼女が返事をくれたのか、ましてや聞こえていたのかすらわからない。けど達成感で満たされていた。
『やったぞ』
『おーい
散歩中の犬が俺に向かって吠えてきた。
「あら、どうしたのかしら。普段はおとなしいのに」
そんなのは無視して、この場から離れた。
「ねぇたっくんこの犬かわいい!……ってたっくんどうかしたの?」
「いや……なんでもない」
◯
踏切を渡らないで線路に沿ってだらだら歩く。おみなえ駅とは反対方向に。どれだけ列車が通ったんだろう。防音林の影に落ちた俺は夏に溶けてしまった。
「六時にコミセン集合な! 遅れたらたこ焼きと焼きそばと焼き鳥と……」
「おいおい、お前が遅れてもそれ奢れよ」
夏服を身にまとった高校生か中学生っぽい二人組がだべりながらすれ違う。彼らが日向で俺が日陰。色のコンストラストがとても激しかった。
「ねぇ今日だれ誘ったの?」
「そ、そんなのだれでもいいでしょ……!」
「あらぁ浴衣ちゃんと着れるのかしら」
道ゆく人から
歩道の端に均等に配置される幟。手を伸ばしてそのポールに軽く触れる。カクンッと動いて元に戻る。そのとき、防音林のトドマツが擦れ合って音を鳴らした。ザザッと吹いた風は涼しいはずなのに、なにも感じなかった。マンションの七階ほどあるトドマツを見上げても、その足を止めることはなかった。
「あっちぃな……」
しばらくすると防音林が途切れている場所に来た。正確にいうならばそこだけ通り道ができている。
“列車が到着いたします”
レンガが敷き詰められた道はまっすぐ駅につながっていた。道に沿うように置いてある自転車を横目に見る。後輪の泥除けに貼ってある学校のシールが目に入る。同じ学校の人……なんているわけないか。
“
ネットでは心霊スポットだの言われているけど、それは
手前は北口で下り線、線路を挟んで向こう側が南口で上り線のホームだ。向こうにいく手段は改札外にある
“チャカチャカチャカ”
自転車を押して連絡橋から出てきた高校生。地元のセーラー服が田舎感を増幅させる。変わらない風景にちょっとホッとする。
“ピーンポーン”
下り線の駅内へ入ると、聞き慣れた音が鳴る。畳一枚ほどの幅の駅はただの通り道。改札はひとつしか置いてなく、駅員はいない。そっとベンチに座って外を眺める。
三十分に一本の列車、片方のホームにしかいない駅員、そのまま通り抜けられる改札。快速列車が停まらないのは常識で、それらを思い返してみると駅に苔が生える。
“普通列車が到着いたします”
反対側のホームに列車がくるらしい。俺はぼーっとそれを待っていた。しばらくしてゆっくりと鉄の塊が入ってきた——
『来ないな……』
栂坂駅のベンチでひとりの男が携帯片手にソワソワしていた。玲奈とつきあって一年以上経つけど、連絡もなしに遅れてくることはなかった。でもよく考えれば理解できる。最近の玲奈は俺に対して冷たい気がする。昔みたいに弾んだ会話をしたのはいつだろう。久々のデートに心躍らせていたのは俺だけだったのかな。考えることすらおっくうになりそう。
約束に期待して、約束に胸を弾ませ、約束のために頑張った。
『約束なんてしなきゃよかった』
そのとき、一本の列車が入ってきた。これに乗っていなかったら帰ろうと決め、半分諦めで改札を見ていた。
『お、喜一じゃねぇか。こんなところでなにしてんだ?』
『いや、その……。なぁ、このあと暇? 一緒にいこうぜ』
『いいけど、一回荷物置きに帰っていいか?』
野球部のジャンパーを着たガタイも器もでかいやつと自動ドアをくぐる。
『お前、来週彼女と旅行なんだろ。お
『そう……だな——』
それから時間は過ぎて、列車も過ぎる。快速列車、普通列車、貨物列車。どれくらいたくさんの列車が過ぎていったのかな。すでに陽は暮れていて、かすかに見える太陽の周りには星が見えていた。
駅内の蛍光灯がカカンッとついた。
最初のころは都心にいけるうれしさでこの駅にも感動していた。定期券を買って、それを改札にかざす。うまくできるか不安で心臓がバクバクしたのを覚えている。まあ今では日常になっていて、そこらへんの道を歩くのと大差ない。“慣れ”って恐ろしいものだなと他人行儀で思う。
“おみなえいき、普通列車が到着いたします”
遠くのほうから白いライトが近づいてくる。それはだんだんと大きくなって本体も明瞭に見えるようになる。プシュッと空圧システムが起動してドアが開いた。半無人駅に足音が響く。会社帰り、部活帰りの人々がぞろぞろと降りてくる。定期を使う人、切符をボックスに入れる人。田舎にしては意外と利用者が多くて、今ごろ迎えの車やらが
列車が発進して人の波も去る。また静かな改札に戻った。蛍光灯にはバチバチっと
「さてと、そろそろ帰って……」
「あれ? 切符が入らない。ここ……なわけないか。 えーどうしよう……」
その瞬間、快速列車が通り過ぎていった。それはあまりに唐突で夢か
「どうして……」
死んだはずの彼女が改札の向こう側に立っていた。
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