第9話 ありがとう、マリ!

 三人の楽しいお正月も、あっという間に過ぎた。

じいちゃんは、三が日が過ぎると、イギリスに旅立って、マリとの二人の生活に戻った。

学校も始まり、俺の日常が再会した。三学期と言っても、俺のような受験生は、

大学の試験があるから、授業どころではない。みんなそわそわしたり、イライラしたり学校に行っても、あまりいい雰囲気ではなかった。

 もちろん、ウチに帰っても、マリという最強の家庭教師が待っている。

ウチでも勉強することには、変わりなかった。

 そして、いよいよ受験当日がやってきた。

「がんばって下さいね。ひろしさんなら大丈夫です。自信を持ってくださいね」

「わかってるって」

「気をつけてくださいね。いってらっしゃい」

 そう言って、マリに見送られて家を出て行く。

もちろん、その前に、頬にキスをされる。やっと慣れたとはいえ、まだ、されるときはドキドキする。でも、それをお守り代わりに思って、寒い中でかけて

いった。

 受験開場には、時間より少し早めに着いた。係りの人に案内されて会場に

入る。自分の番号を確認しながら席に着いた。

チャイムとともに先生が入ってくる。

会場には、何十人の受験生が座っている。みんなライバルだ。

注意事項を聞いて、答案用紙が配られる。そして、合図とともに試験が

始まった。

 答案用紙を開いて問題を読む。頭の中でいろんなことがグルグルして目が回りそうだ。深呼吸を何度かして気持ちを落ち着かせる。

「よし」

 と、自分に気合を入れて、問題に集中する。

会場内は、静まり返って、受験生たちのペンを走らせる音しか聞こえない。

 最初から何度も問題を読み返す。次第に頭が冴えてきた。

マリから教わったことや今まで何度も模擬試験をしてきたことを思い出す。

すると、自然にペンが動き出した。この問題は、あの時に教えてもらった。

これなら、出来そうだ。

 俺は、マリと勉強はしたことを思い出す。大丈夫だ。やればできる。

マリと勉強したことを無駄にしてはいけない。マリのためにも、自分のためにも、がんばるんだ。俺は、何度も自分にそう言い聞かせた。

 そして、無事に試験も終わった。後は、結果を待つだけだ。

それまでがドキドキなんだけどな。

でも、やれることはやったんだ。プレッシャーから開放されて、爽快感を

感じた。

帰りの足取りは、意外に軽かった。来たときに比べると段違いだ。

まるで、スキップでもするように、軽い足取りで帰宅した。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 マリの明るい笑顔で迎えられた。

「どうでした?」

「やることはやってきた。でも、余り自信はないな」

「大丈夫ですよ。ひろしさんなら出来ます。私は、信じてますよ」

 そう言われると、合格しているかもしれないという気になるから不思議だ。

その晩は、いつにもまして、豪華な料理がテーブルに並んだ。

まるで、合格したかのような雰囲気だった。結果は、まだなのに……


 寒い冬がやってきた。そして、今日は、いよいよ待ちに待った合格発表の

日だ。

「それじゃ、行ってくる」

「あの、私もいっしょに……」

「いや、一人で行ってくるよ。子供じゃないんだから大丈夫だって」

「でも……」

「マリは、ウチで待っててくれ」

「わかりました」

「それじゃな」

「ハイ、いってらっしゃい」

 マリにキスされて、俺は一人で出かけた。

昨夜から、いっしょに行くといって聞かないマリを、かなり強引に説き伏せて

一人で行った。

もしも、落ちていたら格好悪いからという理由だけだ。

 そして、大学の前に着く。校門に入るとすぐに大きな掲示板がある。

合格者の番号が張り出されている。すでに、たくさんの人がその前にいた。

胸のドキドキが止まらない。したことがないような、緊張に包まれて、なかなか掲示板を見られない。

俺は、自分の受験票の番号を何度も確認しながら、一歩ずつ足を前に出す。

そして、顔を上げる。自分の番号を探した。

「一五一五」

 俺は、呪文を唱えるように、自分の番号を探して目で追った。

「やっぱりダメか……」

 俺は、必死に自分の番号を探した。

「一五一五……」

 小さく言葉にしながら掲示板を食い入るように見た。

「あった…… マジか、一五一五」

 俺は、掲示板に書かれた番号と受験番号を何度も比べた。

「やった。やったぞ」

 俺は、小さくガッツポーズを作った。

「あった、あったんだ。俺は、合格したんだ」

 俺は、夢じゃないかと、自分の頬を抓ってみた、痛かった。確かに痛かった。

だから夢じゃない。現実なんだ。そのとき、一番先に思い出すのは、マリの

顔だった。

 俺は、合格した人にだけもらえる、大学の説明書と入学手続きの入った書類を持って大学を後にした。足が地に着いてないというのは、このことなのか。

俺は、雲の上を歩いているような感じで駅まで歩く。

電車で帰る時も、これはホントに現実なのか信じられない気持ちだった。

 駅からウチに帰る時も、フワフワした感じがして、歩いているとは

思えなかった。

やっとの思いでウチの前に着いた。だけど、すぐにドアを開けられない。

ドアノブに手をやっても、開けられなかった。すると、ドアの方から勝手に

開いた。

「ひろしさん!」

 マリが待ちきれずに、ドアを開けたのだ。そこに俺がいたから、驚いている

ようだ。

「あの、ひろしさん……」

 言葉が口から出てこない。いろいろ考えたのに、口から出てこないのだ。

その代わりに、俺は、大学のパンフが入った封筒をマリの前に突き出した。

「ひろしさん、これ……」

「やったよ。合格だ。マリ、ありがとうな」

 すると、マリは、俺に抱きつくと泣き始めた。

「ひろしさん、おめでとうございます。ホントに、おめでとうございます」

「うん、マリのおかげだ。今まで、ありがとう」

「いいえ、ひろしさんががんばったからです」

 マリは、ゆっくり俺から離れると、涙でぐしょぐしょの顔のまま微笑んだ。

「泣くなよ。受かったんだから、笑ってくれよ」

「ハイ、すみませんでした。私は、うれしいことがあると、泣いちゃうんです」

 そう言って、エプロンで涙を拭った。泣き虫のアンドロイドなんて、聞いた

ことがない。

だから、マリは、人間なんだ。一人の女性なんだ。アンドロイドなんか

じゃない。

俺は、そう思った。そして、マリの手を引いてウチの中に入る。

「今日は、合格祝いをしないといけませんね。今夜は、ひろしさんのお好きな

ものを作りますね」

「頼むよ。楽しみにしてる」

 俺は、そう言って、二階の自分の部屋に上がった。

大学のパンフを机において、しばらくじっと見つめた。

「やったぞぉ~!」

 俺は、初めて声を出した。大きな声で、そう言った。きっと下にも聞こえて

いるかもしれない。

それでも、言わずにいられなかった。うれしいのに、それを体で表現することが出来ない。だから、せめて声だけでも、大きく張り上げたのだ。

そのとき、なぜか、俺も泣いていた。これが、うれし涙なのか?

 一度声に出すと、すごく落ち着いた。ホッとした。鏡を見ると、俺の顔が

昨日までの自分とは違う気がした。やり遂げたという気持ちと安心感で、

顔が微妙に引き締まって見えた。

 気持ちも落ち着いて、一階に降りると、マリは、ホントにうれしそうな顔で

俺を見た。

「私は、信じていましたよ。今まで、ひろしさんは、ホントにがんばったん

ですから」

「マリがいたから、がんばれたんだよ」

「そんなことありません」

「イヤ、マリのおかげだ。マリがいなかったら、大学なんて行けなかったん

だからさ」

 すると、マリの顔がまた泣きそうだったので、俺は、話題を変える。

「そうだ、じいちゃんに知らせとかないと」

 そう言って椅子に座ると、携帯でじいちゃんにメールを送った。すると、すぐに返事が来た。

『わしの孫じゃ、合格して当たり前じゃ。これからが本番だから、しっかり

がんばれ』

 という返信に、頭に冠をつけた、きれいなドレスを着た、金髪な高齢女性と

いっしょに写っている写真が添付されていた。

「まさか、これって、エリザベス女王?」

 Vサインをしているじいちゃんの隣に写っている、その人を見て腰が抜けた。

「何してんだ、あのじじいは……」

 思わず声に出すと、おかしくて笑ってしまった。

この日の夕飯は、すき焼きだった。ウチでは、特別な日にだけ作る、

特別な料理だ。

牛肉やネギに豆腐、白滝に春菊としいたけを甘辛く煮て、卵をつけて食べる。

俺は、これが大好きだった。マリと差し向かいで食べるすき焼きは、

さらにうまかった。

「大学に入っても、マンガは続けるんですか?」

「もちろんだよ。だって、夢はマンガ家だもん」

「そういえば、前に書いたマンガは、どうしたんですか?」

「あのまんまだった。忘れてたよ」

「そう言うと思って、私が出しておきました」

「えっ!」

「ハイ、出しておきました」

「どこへ?」

「出版社ですわ」

「えー!」

 受験勉強していたときに、気分転換にマリと書いたマンガのことなど、

すっかり忘れていた。

「出したって、出版社に?」

「ハイ」

「もしかして、新人マンガ賞ってやつ?」

「ハイ」

「マジか……」

 もちろん、応募はするつもりだっけど、あの時に書いたマンガは、まだまだ

なのだ。

もっと、上手に書いたら送るつもりだった。それをマリが送ったのだ。

「あの、いけませんでしたか?」

「イヤ、そういうわけじゃないけど、アレは、余り自信がないから、もっといいのが書けたらにしようと思ってたんだ」

「そうなんですか。でも、すごくおもしろかったですわ」

 送ってしまったら、もうどうすることも出来ない。どっち道、送ることに

なるから、いいかなと思い直す。

でも、このときは、まさか、そのマンガが準グランプリに選ばれるとは、

夢にも思っていなかった。それが、マンガ家の第一歩になるとは思いも

しなかった。


 大学が合格したことで、俺は、一気に気持ちが楽になった。

その日から、高校の卒業式までは、あっという間だった。

卒業式当日、俺は、いつもよりも制服をきちんと着こなした。

朝食を食べると、かばんを持って家を出る。

「それじゃ、行ってくる」

「ハイ、いってらっしゃい。私も後から行きますね」

「やっぱり、来るの?」

「ハイ、博士もいないし、私は、ひろしさんの保護者で妻ですから。ひろしさんの晴れ姿を見なくてはいけません」

「そうか。それじゃ、また、後でな」

 そう言って、玄関を出る。マリは、いつものように、俺の右の頬に軽くキスをしてくれた。

「いつもありがとな」

 そう言って、軽く手を振って、学校まで歩いて行く。

これも、今日が最後だと思うと感慨深い。なんにしても、高校の三年間は、

いろんなことがあった。

ほとんどが、俺とじいちゃんの二人暮らしだったが、去年の秋からは、ガラッと変わった。マリが来たことで、家の中が明るくなった。

マリのおかげで成績も上がって、

夢にも思わなかった、大学まで行ける。今日の卒業式は、俺のためでもあるが

マリに俺の姿を見せたかった。

 学校について教室に入ると、クラスの友だちは、みんなそわそわしながらも

緊張していた。胸に卒業の花を付け合い、担任の先生を待った。

 チャイムが鳴ると、先生が教室に入ってくる。普段は、ジャージしか着ない

先生もこの日は、ビシッとスーツを着ていた。こんな姿を見たのは、入学式以来かもしれない。

「いよいよ卒業式だ。お前たちの晴れ姿を、ご両親たちにちゃんと見せろよ。

三年間、ありがとうな」

 担任の挨拶に、女子たちは、早くも涙目になっている。

その後、みんなで体育館に移動する。入場の曲が流れて、クラスごとに

入場する。後輩たちが着席している間を一列で歩く。

体育館の後方には、親たちも座っていた。

 俺は、前を向いて歩いた。その中に、マリの姿もあった。

チラッと見ると、もうハンカチで目を押さえていた。泣くの早いぞ、マリ。

俺は、心の中で呟いた。拍手に迎えられて、俺たちは席に着く。

 卒業式が始まった。校長先生やPTA会長の挨拶が続く。

そして、いよいよ卒業証書の授与式だ。名前を呼ばれると、一人ずつ壇上に

上がって卒業証書を受け取る。俺の番が来た。担任から名前を呼ばれると、

元気よく返事をする。

「牧村ひろし」

「ハイ」

 俺は、返事とともに立って、壇上まで歩く。

「卒業、おめでとう」

 校長先生に言われて、卒業証書を両手でしっかり受け取りお辞儀をした。

それを持って壇上を降りる。そのとき、マリの姿を見つけた。

目が真っ赤になるくらい泣いている。

「大袈裟だよ」

 独り言のように言うと、思わず頬が緩んだ。

卒業式は、滞りなく進み、卒業生全員で仰げば尊しを歌う。

周りの卒業生たちも、泣いている生徒が多かった。

だけど、俺は、泣かなかった。俺は、すでに前を向いている。

この後、大学に行くこと。マンガ家になること。俺には、夢がある。

その夢に向かって、歩いていく。俺は、これから、大人としてがんばっていく。

そう思うと、泣いている場合ではない。

 その後、教室に戻ると、みんなで黒板にいろいろ書いていく。

『忘れないよ』とか『また、会おう』とか『今までありがとうございました』

などなど

思いのたけを黒板に書き捲くった。そして、お世話になった先生たちと謝恩会をして友だちとの別れもあった。それぞれが、違う道を進む。

もちろん、俺にも友だちがたくさんできた。これからも友だちだと思っている。

道は違っても、高校三年間をともに過ごした仲間たちのことは忘れない。

 別れを惜しみながらも、夕方になって帰宅した。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 マリは、笑顔で迎えてくれた。

「今日のひろしさんは、最高に素敵でした」

「何を言ってんだよ。そんなことないって」

「いいえ、ひろしさんは、本当に素敵でした。三年間、ご苦労様でした」

 マリは、また、泣きそうだった。

「マリは、ホントに泣き虫だな。卒業式の間、ずっと泣いてたろ」

「だって、ひろしさんは、ホントにがんばったんですよ。それを思うと……」

「わかったから、もう泣くな」

 マリは、エプロンで涙を拭くと、夕食の支度を始めた。

「今日は、ご馳走ですからね」

「また、すき焼きか?」

「ハイ、ウチでは、すき焼きは、特別な料理ですから」

 そう言って、マリは、包丁を動かした。

俺は、一度、部屋に戻り、着替えたり、卒業証書や学校で使っていたものを

整理する。

 しばらくして、一階に戻ると、テーブルには、鍋が煮えて湯気が出ていた。

相変わらず、すき焼きは、うまそうだ。ウチでは、じいちゃんが、すき焼きが

好きなのだ。だけど、特別な日にしか作ってくれなかった。

だから、自然と、俺にとっても、すき焼きは、特別な食べ物になっていた。

「いただきます」

「ハイ、たくさん、召し上がって下さいね」

 マリは、そう言って、肉を鍋に入れていく。ホントにうまそうだ。

実際、マリが作るのは、おいしかった。

「博士には、卒業式のことお知らせしたんですか?」

「さっき、メールした。返事はきてないけどな」

 じいちゃんは、正月が開けてから、ずっとイギリスに行ったままだった。

向こうで何をしているのか、俺には、サッパリわからない。

たまに来るメールも、イギリスの首相とか、有名人とのツーショットばかりで

どう見ても、遊びに行っているとしか思えなかった。

 そして、もう一つ、俺には、大事なことがあった。

大学に合格して、高校を卒業したら、やろうと思っていたことだった。

それが、今日なのだ。それは、初めてマリを抱くことだった。


 夕食の後、風呂に入って、じっくり考えた。

マリを抱いていいのか? 俺には、その資格があるのか? 夫として、妻を抱くのは、愛を確かめ合う儀式だ。

だけど、俺は、まだ大人じゃない。大人としての一歩を踏み出しただけだ。

マリは、俺を受け入れてくれるのか? 断られることだってある。

嫌われたらどうする?

しかし、答えは出なかった。やっぱり、俺は、まだまだオコチャマなのだ。

大人と子供の中間くらいなのかもしれない。考えれば、考えるほど、

頭がごちゃごちゃしてきた。

「失礼します。お背中流します」

 風呂場のドアを開けて、マリが入ってきた。

いつもなら断って、マリを風呂場から出て行かせるところだ。

なのに、俺は、こう言っていた。勝手に言葉が口から出たのだ。

「頼むよ」

「ハイ」

 俺は、タオルで前を隠して浴槽から出て、鏡の前の小さな椅子に座った。

もちろん、マリは、服を着ている。裸なのは、俺の方だ。マリは、スポンジを

泡立てる。

「失礼します」

 そう言って、マリは、俺の背中を洗い始めた。

鏡越しに見るマリは、なぜだかうれしそうだった。

「なぁ、マリ」

「ハイ」

「ずっと考えてたことがあるんだ」

「なんですか?」

 マリは、手を動かしながら言った。

「俺な、俺…… その、なんだ、だから……」

 どう言ったらいいのかわからなかった。何も風呂で裸のときに言うこと

じゃない。なのに、今しかないと思った。

「今夜、マリを抱いていいか?」

「えっ?」

 マリの手が止まった。

「イヤ、嫌ならいいんだ。無理にはしないから」

 マリは、再び手を動かしながらこう言った。

「ハイ、喜んで」

 俺は、思わず振り返った。

「私は、ひろしさんの妻ですよ。夫に抱かれるのは、うれしいことですから」

「そうかもしれないけど、俺は、まだ、その……」

 マリは、お湯で背中の泡を流すと、肩に手を置いて言った。

「私は、ひろしさんに抱かれて、幸せです」

 そう言い残して、浴室を出て行った。

俺は、しばらく鏡の前で座ったまま動けなかった。

いいのか、ホントに? 信じられなかった。

 もう一度、浴槽に肩まで浸かって、ちゃんとマリを愛してやろうと思った。


 風呂から出ると、黙ってマリの横を通り過ぎて寝室に入った。

ベッドに横になりながら、マリを待つ。

 大学に合格して、高校を卒業したら、マリを抱こうと思っていた。

今まで、ずっとマリを抱くことはなかった。いっしょに寝ていても、体に

触れることも出来なかった。マリは、それをどう思っていたのだろう?

俺を待っていたのか? 自分からはそういうことはしなかった。

いつまでもマリを待たせるわけにはいかない。区切りをつけるつもりで、

今夜、マリを抱こうと思っていた。

 ドアが開いて、マリが部屋に入ってきた。心臓がバクバクいってる。

緊張感が頂点になる。

「失礼します」

 マリが、いつものようにそう言って、俺の隣に入ってくる。

「あのさ、大学に合格して、高校を卒業したら、マリを抱こうと思っていたんだ」

 ドキドキしながら言った。

「俺、マリの夫だよな」

「ハイ、そうですわ」

「今まで、マリを、その、なんだ……」

 ダメだ、がんばれ、俺。ちゃんとマリに言うんだ。俺は、自分を奮い立たせた。

「今夜、これから、マリを、その……」

 ちゃんと最後まで言えよ。はっきり言わなきゃダメじゃん。俺は、自分に言い聞かせた。

「だから、その、マリを、抱いていいか」

 マリは、俺を優しそうな目で見ると、小さく頷いた。

「ハイ」

 それしか言わなかった。だけど、女性を抱いたことなどない俺は、どうやっていいのかわからない。

「いいのか」

「ハイ。私は、ひろしさんに抱かれて幸せです」

 そう言って、静かに目を閉じた。

「マリ、愛してるよ」

「私も愛してます」

 初めてマリを抱きしめた。パジャマの上からでも、体の温かみがわかる。

そして、生まれて初めて、女性の唇にキスをした。マリが初めてでよかった。

俺は、そう思った。優しく唇を重ねて、マリを抱きしめる。

そのとき、マリの目から涙が流れるのを見た。慌てて唇を離す。

「ごめん、痛かった?」

「いいえ、うれしいんです。ひろしさんに愛されて、私は、幸せ者です」

 そう言われて胸が一杯になった。そして、もう一度、唇を重ねた。

その後のことは、余り覚えていない。マリの柔らかな胸と、初めて裸で抱き合う喜び、夢を見ているようだった。マリは、俺にとって、女神だ。

 まるで、夢心地だった。何をどうしたのかもわからない。

でも、マリを初めて抱いた。それだけは、変わらない現実だった。

 

 翌朝、目が覚めると、俺もマリも裸のまま寝ていた。

慌ててパジャマを着る。しかし、よく見たら、マリがまだ隣で寝ていた。

いつもなら、この時間には、マリは起きて朝食を作っている頃だ。

昨夜のことを思い出して、疲れているのかと思い、起こさないように、

そっとベッドから出た。

 洗面所で顔を洗って、改めて昨夜のことを思い出すと顔が赤くなる。

俺は、部屋に戻って、マリを起こそうと思った。

「マリ、朝だぞ」

 俺は、優しく語りかけた。しかし、マリは、眠ったままだった。

「マリ、起きろよ。もう、朝だぞ」

 今度は、肩を軽く揺さぶってみた。しかし、マリは、目を覚まさない。

「マリ、マリ、起きろよ」

 なにかおかしいと感じた。今度は、肩を少し強めに揺さぶった。

でも、マリは、目を開けない。

「おい、マリ。なに寝てんだ、起きろよ。マリ」

 慌ててふとんを胸まで剥がした。裸の胸が現れる。

その胸に手を当てた。動いてなかった。昨夜、マリを抱いたときは、胸の鼓動がした。心臓の音がちゃんと聞こえた。それは、鮮明に覚えている。

「マリ、どうしたんだよ? マリ、俺の声が聞こえないのか?」

 声を上げてマリを呼んだ。体を強く揺さぶってもみた。

なのに、マリは、まったく反応を示さない。まさか、死んだのか?

死ぬわけがない。

そんなことしてない。何があったんだ、マリに……

「マリ、目を開けろよ。開けてくれよ。どうしたんだよ。マリ、マリッ!」

 俺は、叫び続けた。でも、マリは、目を開けない。

ホントに死んだのか? 何で死ぬんだ?

マリは、アンドロイドで不死身じゃないのか?

いったい、どうしたんだ? 俺は、頭がパニックになった。

どうしていいかわからなかった。俺は、マリの胸に顔を埋めて泣きながら名前を呼び続けた。そのとき、部屋のドアが開いた。

「朝っぱらから、何を大声出してんだ」

 じいちゃんだった。俺は、じいちゃんの足元に崩れるように倒れて、

しがみついた。

「マリが、マリが……」

「マリがどうしたんじゃ?」

「マリが、息をしてないんだ。目を覚まさないんだ」

 じいちゃんは、胸に手を当てて、まぶたを指で開くと、ふとんを首まで

かけた。

「お前、マリを抱いたんじゃな」

「えっ?」

「マリを抱いたんじゃろ」

「あっ、イヤ、それは、その……」

「はっきりせんか! 抱いたのか、抱かなかったのかどっちじゃ」

 そんな恥ずかしいことを、例えじいちゃんにも言えない。黙って頷くしか

なかった。

「そうか、抱いたのか。だが、それでいいんじゃ」

 じいちゃんは、俺を優しそうな目で見る。だけど、その意味がわからない。

「マリは、お前から卒業したんじゃ。もう、役目は終わったということ

なんじゃ」

「どういう意味だよ」

「忘れたのか。マリの体の仕組みのことを」

 言われて、思い出した。確か、スイッチを切るのは、俺しか出来ない。

ということは、知らないうちに、俺は、マリのスイッチを切ってしまったのか?

俺は、自分のしたことに呆然となった。俺が、マリを殺してしまったのだ。

「お前が、マリを抱いたときに、スイッチが入ったんじゃ。だがな、ひろしが

悪いんじゃない。それでいいんじゃ。マリの役目は終わったんじゃ」

「なんだよ、それ。わけわかんねぇよ。俺が、マリを殺したことには変わりないじゃないか」

 俺は、じいちゃんに反論する。

「お前は、高校を卒業して大学に行く。もう、マリがいなくても大丈夫じゃろ」

「大丈夫なわけないだろ」

「それじゃ、お前は、いつまでマリに甘えるつもりじゃ?」

「それは…… でも、マリは俺の妻だろ。マリと結婚するんだろ」

「人間とアンドロイドが結婚できないと、最初に言ったのは、ひろしじゃ

なかったのか?」

「それは…… でも、今は違う。マリは人間なんだ。だから俺は、マリと結婚

するんだ」

 俺は、早口で捲くし立てた。

「じいちゃん、マリは、どうなるんだ?」

「また、別の男が現れたら、良心回路と服従回路を取り替える。それまで眠ったままじゃ」

「何、言ってんだよ。ふざけんなよ」

「心配するな。ひろしのことは、服従回路を組み替えたら、きれいサッパリ

忘れるから」

「ふざけんな! そんなの、絶対認めない。マリは、俺のもんだ。俺の奥さんなんだぞ。勝手なことするな」

 俺は、じいちゃんを怒鳴りつけていた。

「じいちゃん、一生の頼みだから、マリを生き返らせてくれよ」

 俺は、じいちゃんの足にしがみついて泣いていた。マリがこのままなんて、

あってたまるか。

まして、違う男と俺のようなことをするのかと思うと、どう考えても納得

できない。

「頼むよ、じいちゃん。マリをもう一度、生き返らせてくれ。お願いだ。お願いします」

 俺は、じいちゃんの足元に座って、頭を床にこすり付ける。

「マリを助けてくれよ。マリをもう一度、生き返らせてくれ」

「ひろし、顔を上げるんじゃ」

 じいちゃんは、静かに言った。俺は、涙でぐしょぐしょの顔を上げる。

「なんじゃ、その顔は。まったく、情けないやつじゃな」

 そう言われても、何も反論できない。

「お前は、白雪姫の話を知っとるか?」

 いきなり、なにを言い出すんだ。今は、そんな話をしているときじゃ

ないだろ。

「子供の頃、絵本で読んだことがあったじゃろ」

 白雪姫の話は知っている。だけど、それがどうしたというんだ?

「悪い魔女に騙されて、毒リンゴを食べて、永遠の眠りについた白雪姫の

話じゃ」

 俺は、黙ってじいちゃんの話を聞いた。

「眠りについた白雪姫は、その後どうなった? 王子様にキスをされて目が覚めて、その後は二人で幸せに暮らしたじゃろ」

 確か、そんな話だった気がする。だけど、それがマリとどう関係あるんだ?

「今のマリは、その白雪姫と同じじゃ。王子様にキスをされたら目が覚める」

「何を言ってんだよ。王子様なんて、どこにいるんだよ?」

「目の前にいるじゃろ」

「目の前って…… まさか!」

「お前じゃよ」

「バカなことを言うなよ。俺は、王子様なんかじゃないし」

「お前の方こそ、バカなことを言うな。マリにとっての王子様は、お前以外に

誰がいる?」

 俺は、言葉をなくして、眠ったままのマリを見た。

「お前がマリにキスをして、起こしてやれ」

「そんな、そんなことで……」

「起きるわけがないと思っとるのか? まったく、お前は、救いようがないバカ

じゃな。それでも、マリの夫か。そんなやつは、マリと結婚なんて、わしが

許さん」

 俺は、ヨロヨロと立ち上がると、寝ているマリを上から見下ろす。

「わしは、下におるから、何かあったら呼べ」

 じいちゃんは、そう言って、一階に降りていった。

俺は、ベッド脇に膝をついて、マリの寝顔を見つめた。

「マリ、目を開けろよ。今、俺が起こしてやるからな」

 そう言って、マリの唇にそっと唇を重ねた。昨夜のような温かさも、

柔らかさもなかった。機械のように硬く閉じた冷たい唇だった。

でも、俺は、マリを生き返らせたかった。

そのためなら、何でもしようと思った。じいちゃんの話も信じてみようと

思った。俺は、マリを抱き上げて、もう一度、唇を重ねた。

「マリ、目を開けてくれ」

 心の中で何度もそう願った。何度も名前を呼んだ。

マリの体を強く抱きしめながら、キスを繰り返した。

頬を伝う涙がマリの頬に落ちる。マリの笑顔をもう一度みたい。

マリが喜ぶ顔が見たい。こんなことなら、マリを抱かなければよかったと

後悔もした。

 その時だった。マリの目がゆっくり開いた。

抱きしめていたマリの指が動いた。

唇をそっと離して、マリの顔をもう一度見た。

マリは、目をパチパチさせて、俺を抱きしめてきた。

「マリ!」

「ひろしさん……」

「マリ、起きたんだな。目が覚めたんだな」

「おはようございます」

「俺がわかるか?」

「ハイ、ひろしさんです」

「ホントに俺がわかるのか?」

「何を言ってるんですか? ひろしさんは、私の大事な旦那様で、私は、妻ですよ」

「マリ…… よかった。ホントによかった」

 俺は、もう一度、マリを強く抱きしめた。

「ひろしさん、どうしたんですか?」

 俺は、マリを離すと、パジャマの袖で涙を拭いた。

「なんでもない。ただ、ちょっと、寝てただけだ」

「いけない、朝ご飯を作らなきゃ」

 そう言って、起き上がると、裸なのに気がついた。

「私、裸だわ」

「ごめん」

 俺は、後ろを向いた。

「いいんですよ。こちらを向いて下さい。昨夜のこと、私は覚えていますよ」

 マリは、そう言って、パジャマを着る。

「昨日は、その……」

「何度でも言いますわ。私は、ひろしさんに抱かれて、うれしかったんです」

 俺は、マリに心から感謝した。

マリは、俺の横を通り過ぎると、一階に降りていった。

「あら、博士! いつ、お帰りになったんですか?」

「たった今じゃ」

「それじゃ、急いで朝ご飯を作りますね」

「ゆっくりで構わんよ。それより、ひろしのこと、これからも頼むぞ」

「ハイ、お任せ下さい。私は、ひろしさんの妻ですから」

 そんな会話が聞こえてきて、また、涙が勝手に流れた。

マリのことを泣き虫と言っておきながら、俺のがよっぽど泣き虫かもしれない。


 それからも、マリとじいちゃんとの三人暮らしが続いた。

大学生になった俺は、勉強をしながらもマンガを描いていた。

 やっと大学にもなれたころ、一本の電話がかかってきた。

出版社からだった。俺が書いたマンガが、新人マンガ賞の準グランプリを

取った。

 俺は、言われるままに出版社に行って、これからのことなどを話し合った。

あれよあれよという間に、デビューが決まった。

 それからは、学生マンガ家として、連載を持つようになった。

とはいえ、まだ新人なので、アシスタントなど雇える立場ではない。

しかし、俺には、最強のアシスタントがいる。もちろん、マリのことだ。

 俺の横には、いつもマリがいた。マリのおかげで、大学にも行けて、夢だったマンガ家にもなれた。

これからもマリのためにも、自分のためにも、大学を卒業して、本格的なプロのマンガ家になる。俺は、固く心に誓った。


 じいちゃんは、相変わらず、外国や地方に行ったりして、家には余りいない。

俺が、大学とマンガ家の二足の草鞋で大変だった頃、じいちゃんがホントに

ノーベル賞を取った。

地元商店街から、ノーベル賞の受賞者が出たことで大騒ぎだった。

テレビや新聞のニュースでも報道された。ウチにもたくさんのマスコミが

押し寄せた。

 でも、正直言って、俺には、ピンと来なかった。それでも、すごいことをしたことだけはわかった。

俺のじいちゃんが、ノーベル賞を取るなんて、自慢のじいちゃんだ。

もう、クソじじいとか、エロじじいなんて言えない。

 ところが、受賞してから初めてのテレビのインタビューで、じいちゃんは、

こう言って世間をあっと言わせた。

「ノーベル賞は、辞退する。そんなもん、もらうほど、もうろくしとらん」

 違う意味で、マスコミは大騒動になった。前代未聞の、ノーベル賞の辞退だ。

俺は、腰を抜かしそうになった。ウチに帰ってきた、じいちゃんに俺は言った。

「何を考えてんだよ。ノーベル賞だぞ、ノーベル賞。わかってんのかよ、

このじじい!」

「わかってるから辞退したんじゃ。その程度のことで、喜ぶとでも思っとる

のか」

 開いた口が塞がらないとは、このことだ。なのに、あれほど盛り上がった

商店街の連中はあっさりしたもんだった。

「あのじいさんなら、やりかねないな」

「さすが、じいさん。ノーベル賞を断るなんざ、男だねぇ」

 むしろ、逆に盛り上がって、じいちゃんを褒め称えていた。

このクソじじいは、死ぬまで理解できないと、孫としてつくづく思った。


「ひろし、ちょっとこい」

「今、忙しいんだけどな……」

「いいから、ちょっとこい」

 やっと、マンガを書き終えた俺は、正直疲れていたが、じいちゃんに

呼ばれて、いやいや地下室に行った。

「これを見ろ」

 そう言って、難しそうな設計図を見せた。

「お前、子供は、男がいいか、女がいいか、どっちじゃ?」

「ハァ? なに言ってんだよ。子供なんか要らないし、俺たちには無理だろ」

 俺は、現役大学生で新人マンガ家だ。連載はあるものの、まだまだ一人前とは言えない。

そんな若造の俺に、子供なんて育てられるわけがない。

まして、まだ、正式に結婚もしてない。

それなのに、子供なんて、まだまだ先の話だ。第一、マリは子供が

産めない体だ。

 バカバカしくなって、相手にしていられない。

俺は、無視して一階に戻ろうとした。

「だから、お前たちに子供を作ってやろうというんじゃ。男と女、どっちが

いい」

「まだ、結婚もしてないうちに、子供なんて作ってる場合じゃないだろ。余計なお世話だ」

「なんじゃ、つまらんな。赤ん坊のアンドロイドを作ってやると言ってる

のに……」

「また、ヘンなもん、作るんじゃねぇよ」

「でも、たまには、マリを抱いてやってるんじゃろ?」

「な、なにを、言って……」

「夫婦なんだから、別に、照れることじゃなかろ」

 その後も何度かマリを抱いたことがある。でも、その翌日、いつも眠ったまま起きない。

その度に、おはよう代わりのキスで起こすのが日課になってしまった。

だから、安心してマリを抱くことが出来た。

「夫婦は、やりゃ、子供ができるのが自然じゃろ。だから、わしが、子供の

アンドロイドを作ってやるといってるんじゃ」

「放っといてくれ! 余計なことすんなよ。この、クソじじい!」

「マリだって、母親になりたいはずじゃ。今度は、マリを母親にしてやったら

どうじゃ」

 それを言われると、返す言葉がない。マリと外出したとき、小さな子供を

連れた母親を見るとなんとなく羨ましそうな目をしているのを思い出した。

「どうじゃ?」

「それは、マリがなんて言うか……」

「だったら、マリに聞いてみるか」

「後で俺から聞くから、じいちゃんは、黙っててくれ」

 そうは言っても、こんなことは、マリには聞けない。きっと、答えは決まっているからだ。

それよりも、 明日までに、次回作のタイトルとネームを提出しないと

いけない。

 だけど、次の話は、決まっていた。俺には、自信があった。

自分の部屋に戻ると、マジックのキャップを開けて、原稿に大きく書いた。

この作品は、後に俺の代表作となった。そのマンガのタイトルは、もちろん……


『奥様は、アンドロイド』。



                                終わり

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奥様は、アンドロイド。 山本田口 @cmllaaa

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