第6話 マリが学校にやってきた。
その晩は、初めてのマリと二人だけの夜を迎えた。
マリは、エプロン姿でキッチンで夕食の準備をしている。
俺は、そんな後姿を見ながら、リビングでテレビを見ていた。
でも、ついつい、マリの方ばかりに視線が行って、テレビの内容がちっとも頭に入らない。
「ひろしさん、ご飯が出来ました」
そう言われて、ドキッとした。立ち上がって、テーブルにいく。
そこには、トンカツにコロッケ、トマトサラダ、冷奴、味噌汁、ご飯が二人分
並んでいる。
「二人分なので、少し量が少なくしました」
「そ、そうだよな」
緊張しながら、目の前のマリを見る。
「それじゃ、いただきます」
俺は、そう言って、手を合わせて食事を始めた。
こんなとき、何をしゃべったらいいのかわからない。黙々と食べ続けるのも
おかしい。だけど、何を話したらいいのかわからない。
「味は、どうですか?」
「とても、おいしいよ」
実際、うまい。これは、ホントだ。すると、沈黙を破るようにマリが話を
する。
「明日の授業参観は、がんばってくださいね」
「そうだな。がんばってみるよ」
「なんだか、緊張しますね」
「緊張するのは、俺の方だよ」
そう言って、笑って答えた。明日は、授業参観だ。マリが教室に来たら
どうなるだろうか……
「明日は、なにを着て行くんだ?」
「なにがいいかしら?」
「あんまり派手な服は、着ないでくれよ」
「ハイ、ちょっと考えてみます」
マリは、そう言って、笑った。だけど、学校に着て行くような服をマリが
持っているのだろうか?
俺は、部屋に戻って、明日の準備をする。授業参観の科目は、国語だった、
苦手な科目でないので、少しホッとする。しばらく、ぼんやり明日のことを
考えて見た。
クラスの生徒たちと先生はもちろんだが、生徒の保護者たちの目が気になる。
後で、なにか言われなきゃいいなと思った。
「ひろしさん、お風呂いかがですか?」
部屋の外から声が聞こえた。
「それじゃ、先に入ってくる」
俺は、そう言って、着替えを持って部屋を出る。
「お背中、流しますよ」
そう言って、マリが後から付いてくる。
「イヤイヤ、それは、いいから」
「恥ずかしがらなくてもいいですよ。夫婦だし、博士もいないんだから……」
「まだ、早いって。俺は、まだ高校生だし、大丈夫だから」
俺は、そう言って、浴室の扉を閉めた。
マリには悪いが、二人きりだといって、調子には乗りたくない。
そこは、理性を持っておかないと、思っているのだ。
そうは言っても、思春期の俺の心理としては、異性に興味がないわけでは
ない。まして、マリみたいな美人の女性と二人きりで生活するわけで、男としていきなりマリを抱くなんて、そんな下心を丸出しみたいな男にはなりたくない。
浴槽に沈みながら、ひざを抱えて、マリのことをずっと考えていた。
風呂から上がって、冷たい麦茶を飲んでいると、交代でマリが風呂に入る。
今夜は、二人きりの初めての夜だ。これを緊張するなという方が無理だ。
こんなときに、じいちゃんがいればと、思わずにいられなかった。
とりあえず、手持ち無沙汰なので、寝室に入って横になった。
明日もあるし、早めに寝ようと思ったけど、全然寝られない。
ドアが開いて、マリが入ってきた。電気を消して、静かにベッドに入って
くる。パジャマ越しでもお互いの体温が伝わる。風呂上りなので、体もポカポカしている。お互い背中を向き合っているのもおかしいと思って寝返りを打った。
すると、ほとんど同時に、マリもこっちを向いた。
目の前に、マリの可愛い顔が目に入った。このまま、抱きしめたくなるのを
押さえるのが大変だ。
「眠れないんですか?」
「う、うん」
マリの小さな声に頷くしか出来ない自分が情けない。
「少し、お話していいですか」
「いいよ」
そう言うと、マリは、話し始めた。いったい、何を話すんだろう……
「私は、ひろしさんに出会えてホントにうれしいんです。博士に作ってもらったときに、いったい、どんな人のお嫁さんになるのか不安でした」
俺は、初めてマリと会ったときのことを思い出した。
「博士のお孫さんだから、きっといい人だと思ってました。でも、それ以上に
優しい人でよかったです」
目の前でそんなことを言われると照れるぞ。
「私は、ひろしさんの妻として、結婚できるまで、いつまでも待ちます」
「ごめんな。俺が高校生で……」
「いいえ、今は、勉強が第一だから、私は大丈夫です」
「それじゃ、俺が高校を卒業して、就職したら結婚しようか」
「ダメですわ。ひろしさんは、博士の後を継いで、大学に進学してください」
「俺は、頭は悪いからなぁ」
「大丈夫ですわ。私が付いてます。勉強なら、私が教えますわ」
確かにそう言われると、マリは、超一流のアンドロイドで、電子頭脳の
持ち主だ。外国語もペラペラだし、もしかしたら、最高の家庭教師かも
しれない。
「それじゃ、教えてもらおうかなぁ……」
「何でも聞いてください。どこの大学に行くんですか?」
「実は、それが問題なんだよなぁ」
実際、大学進学のことは、余り考えていない。俺の成績じゃ、入れる大学は
限られる。しかも、三流か、それ以下だ。これじゃ、とてもじいちゃんの後
なんて継げるわけがない。
「東大はどうですか?」
「それは、無理」
「それじゃ、京大とか……」
「それも、無理」
「何か、大学でしたいこととかあるんですか?」
そう言われると、はっきり言えることがない。少し考えてから、俺は自分の
夢を語った。
「じいちゃんには、言ってないんだけどさ、俺、マンガ家になりたいんだ。
イヤ、夢だよ、夢」
「素敵な夢ですわ。私は、応援します」
「そうなると、大学って美術系とかデザイン系とか、そういう大学になるだろ」
「専門学校でも、いいと思いますわ」
なるほど。その手もあるかと思った。何も大学にこだわらなくても
いいわけだ。
しかし、マンガのネタになるようなことを、大学で学ぶことも悪くない。
もっと社会のことを知りたい。人間関係や楽しいことも見て見たい。
「なんか、俺でも行けそうな大学を探してみるよ」
「ひろしさんなら、どこでも行けますわ。私に任せてください」
マリに言われると、その気になってしまう。ホントに大学に行けそうな気が
してくる。
「私は、ひろしさんの夢を応援します。ひろしさんなら、おもしろいマンガを
書けますよ」
「ありがとな。もし、デビューしたら、一番先にマリに読んで欲しいな」
「楽しみにしてますわ」
マリは、そう言って笑った。明日から、本気で大学進学のことを考えてみようと思った。
「それから、ひろしさんが子供の頃の写真とか見せてください」
「う~ん、昔の写真なんて残ってたかなぁ……」
子供の頃に両親を亡くして、自分が子供の頃の写真を撮った記憶が余りない。
引き取ってくれたじいちゃんは、研究で忙しくて、それどころじゃなかった。
小学生になってから、自分で料理や洗濯、掃除など家事をこなしてたし
中学生になっても、部活動はやらずに、帰宅すると、じいちゃんの食事の
こととか家事が忙しくて、自分のことは、あまり考えたことはなかった。
そんなわけで、じいちゃんとも余り遊びに行くこともなくて、写真を撮った
記憶がないのだ。
「子供の頃からじいちゃんと二人暮らしだったろ。じいちゃんは、忙しいし、
俺は学校と家事で写真を撮ったり、どっかに遊びに連れて行ってもらったり、
しなかったからなぁ」
「そうなんですか……」
マリは、そう言って、少し悲しそうな顔をした。
「でも、俺は俺なりに楽しかったんだぜ。友だちと自由に遊びに行けたしな」
俺は、慌てて否定して、楽しい話題を振った。
「夜遅くまで遊び歩いても、じいちゃんは、地下室に篭もりっきりだから、
怒られたりしないし結構、楽しく遊ばせてもらったんだよ」
マリは、俺の話を聞いて、また、笑顔に戻った。
「中学の頃は、友だちと釣りに行ったり、自転車で遠くの方まで行ったりしたよ。夜中にこっそり帰ってきたこともあったなぁ」
俺が懐かしい話をすると、マリは、ニコニコしながら聞いてくれた。
「夏は、河原まで自転車で行って、花火をするんだよ。あの時は、楽しかった
なぁ……」
「楽しそうですね」
「夏になったら、マリも花火しような」
「ハイ、楽しみにしてます」
「それと、夏祭りにも行こう。浴衣を着て、縁日を回って、わたあめとかりんご飴とか、食べたことないだろ」
「ハイ、ないです」
「甘くて、うまいぞ。それと、神輿を担いだり、マリならきっとみんな喜ぶぞ」
「楽しみですね」
マリが笑ってくれるので、俺もその笑顔が見たくて、調子に乗ってしまう。
「冬は、雪が降るから、雪ダルマを作るんだ」
「雪ダルマですか?」
「そう、雪ダルマ。きっと、おもしろいぞ」
マリは、そう言って、楽しそうに笑う。
「もしかしたら、今年の冬は、降るかも知れないな」
「降るといいですね」
「そうだな」
それからも、春は桜の花見のこと。夏のプールで泳いだこと。秋は、友だちとキャンプに行った事。
沈黙で何を話していいのか緊張していたのに、気が付けば、二人での話は遅く
まで続いた。
初めての夜は、まるで小学生の修学旅行のように、語り合っていた。
そして、翌朝、いつものようにマリのうまい朝食を食べて学校に行く。
「今日の授業参観は、控えめで頼むな」
「ハイ、お任せください」
そう言って、マリは、笑った。微妙に心配だけど、何とかなるだろうと思う。
玄関先で、登校前の儀式をする。頬に軽くキスをしてもらって出かけるのだ。
「いってらっしゃいませ」
オレは、毎朝、マリに見送られる。それでも、出かけるときのキスだけは、
いまだに慣れない。
学校についても、気持ち的にそわそわする。他のクラスメートたちも、今日は
授業参観で親たちが学校に来るので、そわそわするのは、俺だけではない。
チャイムが鳴って、担任の先生が教室に入ってくる。
朝の挨拶をしてホームルームが始まる。
「今日の三時間目は、授業参観で、みんなの親御さんたちが来るわけだけど、
普段通りの授業のつもりで緊張するかもしれないけど、いつも通りやるように」
そう言って、先生は教室を後にした。
一時間目、二時間目と、何事もなく終わった。問題の三時間目が始まる。
休憩中になると、親たちがぞろぞろと教室に入ってきた。
みんな自分の親を探している。親たちも、自分の子供を見つけると、笑顔で手を振ったりしている。
しかし、マリは、まだ来ていない。もしかして、学校内で迷子になっているのか?
それとも、時間を間違えて遅れているのか……
俺は、何度も後ろを気にしていた。
そうこうしていると、三時間目の授業開始のチャイムが鳴った。
「何してんだ、マリは……」
俺は、独り言のように呟いた。三時間目の国語の先生が教室にやってきた。
「こりゃ、遅刻か」
俺は、ため息とともに呟いた。
その時だった。パタパタとスリッパの音が聞こえた。急いでいるのがわかる。
なんとなく、嫌な予感がしたが、それが的中した。
国語の先生が教壇に立って、全員で挨拶したと同時に教室のドアが開いた。
「すみません。遅れました」
そう言って、頭を小さく下げたのは、紛れもなくマリだった。
「マジか……」
俺は、振り返ってマリを見て眼が点になった。
マリの姿は、白いスーツ姿で、長い髪を後ろにまとめて、赤いメガネまでかけている。白いスカートから伸びる足に誰もが注目した。
同じように並んでいる親たちはもちろん、正面にいる先生までが注目して
いる。そして、マリは、俺を見つけると、軽くガッツポーズをした。
「そうくるか…… 全然控えめじゃないだろ」
母親たちの視線を感じてないのか、マリは、終始ニコニコしている。
どことなく、先生のが緊張している感じで授業が始まった。
クラスの友だちもときどき後ろを振り向いてマリに視線を送っている。
とてもじゃないが、俺には振り向くことが出来ない。
「えーと、そちらの白いスーツの方は、どちらの親御さんですか?」
先生は、場違いなくらい若くて美人のマリに聞いた。
「ひろしさんの妻…… じゃなくて、ひろしさんの保護者です」
「えっ、ひろしの…… お前にこんなに若い人いるのか?」
先生は、マリのことは知らない。俺にその話を振るなよ。
「えっと、じいちゃん…… じゃなくて、祖父の助手で、俺の世話をしてくれている人です」
とっさに考えたけど、それくらいしか言いようがない。
「そう言うことなら、いいけど。それじゃ、授業を始めるぞ」
何とか乗り切った。とにかく、早くこの時間が終わって欲しい。
前回の続きなので、今日は、源氏物語についての話だ。
先生に名指しされて、生徒たちは、交代で教科書を読む。
「それじゃ、次、ひろし、読んでみろ」
よりによって、俺かよ。仕方なく立って教科書を読み始める。
「ひろしさん、がんばって下さい」
マリが俺を応援した。声は、出さなくていいんだけど……
「すみません。そちらの保護者の方は、お静かにお願いします」
先生に注意されて、またしても小さく頭を下げる。
俺は、マリを一瞥して、教科書を読み始めた。
その時だった。外からすごい音がした。窓際にいる俺が外を見ると、
一台の車が校門を突き破って、校庭に入ってきた。何事かと、教室にいる生徒
たちも窓に駆け寄る。
校庭のど真ん中に止まった車から、二人の男が出てきた。
その後ろから、パトカーが大きなサイレンを鳴らして追いかけてくる。
「みんな落ち着け。保護者の皆さんも落ち着いてください」
先生は、予期せぬ事態に動揺しながらも、騒ぎ始めた俺たちを席に着くように言った。外では、警官と二人の男がなにか大声で言ってる。校舎に入ってきたら大変だぞ。俺は、身を乗り出して外を見た。警官に追われた二人の男の姿が
見えない。
「まずいな」
俺は、不安に思って思わず振り返った。すると、そこにマリの姿がなかった。
「まさか……」
俺は、立ち上がると、先生が止めるのも聞かずに教室を飛び出した。
「マリー!」
俺は、大きな声でマリを呼びながら走った。
三階の教室から階段を駆け足で走り降りた。すると、一階の昇降口のところに
マリを見つけた。しかも、マリは、両手を広げて二人の男の前に立ちはだかっている。
「止まりなさい。ここをどこだと思っているんですか」
「うるせぇ! そこを退け」
「いいえ、退きません」
「危ないぞ、下がりなさい」
二人の男と警官とマリの声が混ざり合う。
「マリーっ! 」
俺は、下にいるマリに向かって叫んだ。
「ひろしさん、安心してください。学校のお友達は、私が守ります」
「そうじゃなくて……」
「ひろしさんは、逃げてください」
「そういうわけにいくか」
俺は、マリに近づいた。階段を一段ずつゆっくりと降りていく。
「どけーっ!」
二人の男は、ナイフをかざしてマリに向かっていく。
マリに向かって、なんて無謀なことをするんだ。あいつら二人は、マリに
投げ飛ばされるぞ。俺は、足を止めて、その様子を見守ることにした。
マリに向かっていく二人。マリにナイフを突き出した次の瞬間、その二人は、あっという間に投げ飛ばされて、硬い廊下に仰向けに倒れていた。
転がるナイフをマリは、平然と拾い上げる。完全に気を失った二人の男を警官が取り押さえる。
騒ぎを聞きつけて、職員室から、残っていた先生たちが出てきた。
「ひろしさん、もう大丈夫ですわ」
マリは、そう言って、笑顔で振り向いた。俺は、ゆっくり階段を降りてマリ
に近寄る。
「まったく…… でも、よくやったな」
「ハイ、ひろしさんに、もしものことがあったら、博士に申し訳ありません
から」
連行されていく二人の男たちは、ガックリとうな垂れている。
「ご協力ありがとうございます。でも、危険な真似はしないでください」
警官に軽く注意される。
「あ、あのぅ…… どちらの方ですか?」
今度は、集まった先生たちを代表して、校長先生が聞いてきた。
「ひろしさんの保護者です」
「あぁ、今日の授業参観の親御さんですか」
「ハイ、そうです」
「しかし、その、危ないとこでした」
「私は、大丈夫ですわ。私は、アンドロ……」
「ストップ、ストップ」
俺は、慌ててマリの口を塞いだ。
「えっと、あの、その、校長先生、もう、大丈夫だから」
俺は、軽いパニックになりながらマリの手を引いてその場を離れた。
「危なかった。ダメだろ、アンドロイドなんて言っちゃ」
「すみません」
「とにかく、今日は、おとなしく帰ったほうがいいぞ」
「そうですか……」
「もしかして、いろいろ聞かれるかもしれないけど、俺が誤魔化しておくから、今日は帰ってくれ」
「ハイ、わかりました」
マリは、少し残念そうな顔をしながらも、学校から帰っていった。
こりゃ、大事になるぞと、俺は覚悟を決めた。幸い目撃者は、二人の男と
警官だけだ。生徒たちや先生も見ていないので、そこだけが救いだ。
教室に戻ると、先生や友だちが俺に注目する。
「なにがあったんだ? 危ないだろ。勝手に教室から出て行くな」
「すみませんでした」
俺は、先生に頭を下げて席に着く。
「おい、何があったんだよ」
隣の友だちが俺に聞いてくる。
「よくわからないけど、事件らしいよ。でも、犯人は捕まったから」
俺は、言葉を濁した。
そんなことがあって、授業参観は、中途半端で終わってしまった。
ある意味、ホッとしたけど、事件のせいで中断されたまま終わったのは、後味が良くない。
今日の授業は、三時間目の授業参観で終わりなので、生徒たちは、自分の
親たちと帰ることになる。もちろん、先にマリを返したので、俺は一人で帰る。
カバンを持って、靴を履き替えようとすると、校長先生に呼ばれた。
「よくわからないけど、さっきの女性は、キミとどういう関係なんだね?」
「じいちゃんは、アメリカに仕事でいないから、代わりに俺の世話をしに来て
くれた、助手の人です」
「それで、何があったのか、説明してくれないか」
俺は、言葉を濁しながらそのときの事を話した。
車で学校に逃げてきた男たちを追って警官が来たこと。車から降りてきた
二人組が警官に追われて校舎の中に逃げ込んできたこと。
そのとき、たまたま居合わせたマリを見て、驚いた二人組は
廊下で滑って転んだときに、頭を打って失神したと、軽いウソをついた。
「なるほど。しかし、危なかったね。怪我でもしたら大変なことになっていたよ。それで、キミの保護者の方は?」
「帰りました」
「えっ?」
「騒ぎになるとまずいからって、先に帰りました。だから俺も帰ります」
ポカンとしている校長先生にそう言って俺は、校長室を出て行った。
壊れた校門を出ると、俺は、無意識に走って帰宅した。そして、家に着くと、
ドアを開けて中に入った。
「お帰りなさい」
「マリ、大丈夫か?」
「私は、なんともないですわ」
「それはいいけど、騒ぎになるぞ」
マリには、余計な心配をかけたくなくてそう言った。
しかし、事が事だし、警官が目撃者だけに、このままってわけには
いかなかった。
だけど、マリの顔は見られても、名前は知らないはずだ。この家を探し出せるとは思えない。
俺は、安心していた。しかし、夜になって、いきなり刑事が尋ねてきた。
間が悪いことに、マリが応対に出てしまった。俺は、慌ててマリを追って
玄関まで出た。
「こちらは、牧村さんのお宅ですね」
「ハイ、そうです」
「昼間の事件のことで、少しお聞きします」
「何のことでしょうか?」
マリは、トボけて見せた。よし、その調子だ。俺は、マリの後姿に頷いた。
「何のことって、学校に逃げ込んだ犯人を捕まえたのは、あなたですよね?」
「いいえ、私ではありませんわ」
「しかし、目撃者の警官の話では、あなただということですが?」
「違いますわ」
刑事は、わけがわからないという感じで首を傾げた。
「それについて、犯人逮捕に協力していただいたので、感謝状を贈りたいのですが」
「人違いですわ。だから、感謝状と言われても、いただけませんわ」
「う~む、これは、どういうことだ……」
困ったような素振りで、腕を組んで考え込んでしまった。
「本当に、あなたではないのですか?」
「ハイ、人違いですわ」
「そうですか。そう言われると…… とりあえず、今日は、これで失礼します」
そう言って、刑事は帰っていった。
玄関の戸が閉まると、振り返ったマリは、ニコッと笑ってこういった。
「これで、よろしかったですか?」
「百点満点だ」
俺は、そう言って、マリを褒めた。
本人が認めない以上、これ以上の追求はないだろう。とにかくホッとした。
「さぁ、食事にしましょう」
マリは、気を取り直すように言った。今夜の夕飯は、いつにも増して、
うまかった。
それからというもの、二度ほど、刑事が感謝状のことを言いに来たが、
そのたびに、マリは、人違いだと言い張ったので、それからは二度とウチにくることはなかった。
それからも二人の生活が続いた。じいちゃんは、まったく帰ってくる気配も
ない。たまにメールするくらいで、じいちゃんからの返事も、すぐには返って
来ない。
少しずつ二人での生活も慣れてきた。それが、次第に当たり前のように
なっていった。
その日、俺は、少し元気がなかった。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
俺は、マリに迎えられると、そのままマリを素通りして自分の部屋に行った。
追いかけてきたマリは、気になるようで俺に聞いてきた。
「なにか学校であったんですか?」
俺は、椅子に座ったまま、机に突っ伏していた。
「ひろしさん……」
マリが心配そうな声がするので、顔を上げてこう言った。
「大学、どうしようかな……」
「進学するんじゃないんですか?」
「それは、したいけど、どこの大学に行くか、わかんないんだよ」
俺は、進学希望をしたけど、どこの大学となると、どこにするか決めて
なかった。進路相談で、担任に聞かれても、答えられなかったのだ。
「ひろしさんは、マンガ家になるんじゃないのですか?」
「そうなんだけどさ、マンガ家の大学なんてないし…… それに、俺の成績
じゃなぁ」
俺の成績じゃ、そもそも大学進学なんて、夢のまた夢だ。
だけど、マリと結婚の約束をしたし、そのためにも大学には行かないと
いけない。
「博士に相談してみたらどうですか?」
「そうだなぁ…… じいちゃんなら、なんか教えてくれるかもしれないからな」
俺は、そう思って、早速、パソコンを開いてメールを書いた。
その返事が来たのは、その日の夜だった。
俺は、じいちゃんには悪いけど、じいちゃんの後を継ぐ気はなかった。
自分の頭の悪さも自覚していたし、科学や工学なんて、わからない。
素直にマンガ家になりたいとメールに書いてみたのだ。
すると、その返事がこうだった。
『東京美術大学・デザイン科を受験してみろ。デッサンを勉強してからでも遅く
ない』
俺は、早速、その学校をネットで調べてみた。
しかし、倍率の高さと偏差値の高さにガックリした。とてもじゃないが、
合格できる自信はない。だからといって、予備校に行く気にもならない。
俺は、ため息とともに、パソコンを閉じた。
すると、携帯電話に着信が来た。じいちゃんからだった。
「ハイ、俺だけど」
『メールは読んだか?』
「読んだよ。でも、東京美術大学なんて、無理だよ」
『ハッハッハッ、そう言うと思った。お前は、わしの孫じゃろ。やれば出来る』
「だけどさ、予備校にも通ってないし、頭も悪いしさ」
『バカもん。そんなこと問題ないわ』
「問題、大有りだろ」
『予備校なんて通うことはない。お前には、優秀な家庭教師がおるじゃろ』
「ハァ? そんなやつ、いないし」
『お前の目は、どこに付いてる? お前の目は、節穴じゃのぅ』
「なに言ってんだよ」
俺は、じいちゃんの話を聞いても意味がわからなかった。
『目の前におるじゃろ。マリに教えてもらえ。マリの電子頭脳は、そこらの
スーパーコンピュータより優秀じゃぞ』
「えっ……」
『マリなら、お前を東大に合格するくらい朝飯前じゃ。もちろん、お前のやる気次第じゃけどな』
「いくらマリでも、そんなの無理無理。俺の成績じゃ、無理だって」
『お前がそう言うなら、わしは、何も言わんがな。だがな、マリと約束したん
じゃろ』
それを言われると、返す言葉がない。
『自分の人生じゃ。好きなようにしろ。だがな、後悔だけはするな。自分と
マリを信じてみたらどうだ』
俺は、黙るしかなかった。すぐに返事が出来ない。
『お前は、まだ若い。多少の遠回りしても、自分の夢を信じて、がんばって
みろ。それと、マリを信じろ』
そう言い残して、じいちゃんは電話を切った。
俺は、携帯を握り締めたまましばらく動けなかった。
マリは、そっと部屋のドアを開けて俺の様子を見ていた。
「なぁ、マリ。俺に、勉強を教えてくれないか?」
「ハイ、喜んで」
「俺、マンガ家になりたいんだ。そのために、大学に行きたいんだ」
「ハイ、私は、ひろしさんのために生きているんですよ。ひろしさんの妻ですから」
「それじゃ、頼む。イヤ、お願いします」
俺は、そう言って、マリに頭を下げた。
「ひろしさん、お任せください」
俺は、マリの喜ぶ顔が見たかった。もちろん、大学に行きたいのもあった。
だけど、大学に合格して、マリを喜ばせたかったのだ。
次の日から、俺の勉強が始まった。
翌日、学校に行くと、担任に大学進学の希望校のことを言った。
先生は、笑ってはっきりと無理と言った。しかし、俺は、どうしても行きたいと強く主張した。最後は、先生の方が折れて、志望校のパンフレットを用意すると言ってくれた。
後は、自分ががんばればいいだけだ。俺には、マリが付いている。
妻を喜ばせるのが、夫の役目だ。だったら、俺が、しっかりしなきゃいけない。
自分のためにも、マリのためにも、今日から勉強するんだ。
そう自分に言い聞かせた。
学校から帰ると、マリは、時間割を作っていた。
夕食の後の二時間を勉強時間に当てる。土日は、しっかり頭を休める。
人間は、集中力が持続しない。だから、短期集中で、二時間の勉強で
いいらしい。
電子頭脳を有するマリは、ものすごく頭がいい。しかも、教え方がわかり
やすい。
ろくに勉強などしなかった俺でもわかるのだ。じいちゃんの言ったとおり、
マリは、優秀な家庭教師だ。
こうして、平日の夜は、マリとのマンツーマンでいろんなことを教えて
もらった。
ベッドの中では、数学の公式や英単語や文法を、耳元で囁かれながら眠った。
まるで子守唄のように聞きながら寝ると、なぜか朝になっても忘れていない。
そんなことが、一ヶ月、二ヶ月と過ぎていく。すると、自分でもわからない
うちにテストの点数が目に見えて上がっていった。
毎回、赤点か、ギリギリのラインで、補修の常連だった俺が、平均点以上を
取れるようになった。それどころか、80点、90点と取れるようになった。
先生は、最初は、驚いていたが、次第に協力的になっていった。
大学の申請書を用意してくれて、俺の本気を感じるようになった。
もちろん、その裏には、毎晩、勉強を教えてくれるマリがいた。
大学は、デザイン科を希望しているので、放課後のマンガ研究会では、人物画を描いたりデッサンの勉強も始めた。
そんなことが続いて、いよいよ冬休みに入った。受験生には、クリスマスも
年末もない。学校が休みの間の昼間も勉強することにした。
だけど、それをマリが止めた。
「ひろしさんは、充分、勉強しているのだから、それ以上はしなくても大丈夫
ですわ」
「でも、もっと、やっておかないと心配だし……」
「これまでどおり、一日、二時間の勉強で充分ですよ」
マリはそう言うけど、やっぱり不安だった。そんな俺に気を使ったのか、
マリは、気分転換を進めてきた。
「なにか勉強以外のことをしてみたらいかがですか?」
「勉強以外って言われてもなぁ……」
そう言われても急には思い付かない。
「ひろしさんは、マンガを描くのが好きって言ってたじゃないですか。なにか
書いてみたらどうですか?」
「マンガねぇ……」
俺は、腕を組んで天井を見つめながら考えてみた。
確かに、俺は、マンガ家になるのが夢だ。そのために、いろいろネタは考えて
ある。出版社に新人マンガ賞に応募するためのアイディアだ。
そう言えば、描きかけのマンガがあったはずだと思い出して、机の引き出しを
捜してみた。すると、一番下の引き出しの奥から、途中まで描いたままの
マンガの原稿が見つかった。
「あった、あった。これだよ、これ。応募しようと思って、途中まで書いたんだよ」
「いいじゃないですか。それを最後まで書いてみたらどうですか?」
「下書きは、出来ているから、後はペン入れだけなんだけどな」
「だったら、やってみましょうよ。私も手伝いますわ」
「そうか。それじゃ、書いてみるか」
俺は、なんとなくマリに乗せられたような気がした。
だけど、書きかけのマンガを完成させたいと思う気持ちはあった。
受験勉強で頭が一杯なので、忘れていたというのもある。
下手は下手なりに書いたマンガでも、それを見ると、やる気が沸いてきた。
「よし、やってみるか」
俺は、机の引き出しの奥にしまいっ放しだった、インクとGペンを取り出して、ペン入れをしてみた。
慎重に、丁寧に、インクで書いていく。初めて書いたマンガだから、
正直言って、自信はない。
だけど、俺なりに考えて書いた作品なので、完成させたかった。
自分が高校生なので、学園物のラブコメ的な内容だ。どこにでもいるような
女子高生と男子高校生の両思いなのに、すれ違いがあったり、ケンカをしたり、初めてのデートとか、そんな内容だった。
俺は、いつの間にか、無心で書いていた。
そして、やっと、一ページ書き終えるとマリに渡す。
「そこのテーブルで、消しゴムをかけてくれる?」
「ハイ、わかりました」
「紙を破かないようにな」
「ハイ、お任せください」
なんとなく、マンガ家になったような気分で、マリをアシスタントのように
見ながら言った。
次第に夢中になっていく自分に気が付いた。こんなに集中して、何かを
したことは今までなかった気がする。
マンガを書いていて、すごく楽しいのだ。これが、職業に出来たら、
どんなに楽しいか……
まだ、プロのマンガ家にもなっていないのに、その気になっていた。
消しゴムをかけて、下書きが消えると、今度は、黒い部分にXをして、
マジックで塗りつぶす。
「このXになってる部分を黒のマジックで塗ってくれ」
「ハイ、わかりました」
「はみ出さないようにな」
「ハイ、承知しました」
髪の毛や制服の部分などを黒で塗る作業である。
その間も、無心でペンを走らせた。少しずつだが、できていくのがわかると
楽しくなってきた。
出来上がった原稿に、今度は、服や背景にスクリーントーンを貼って、模様をつけていく。細かい作業だけど、だんだん本物のマンガになってきた。
紙を切らないように、注意しながら、余分な部分をカッターで切っていく。
「すごいですわ。マンガになってきましたね」
マリは、俺のやっていることを覗いて声を上げる。
「これが、マンガって言うんだ」
俺は、得意になって、マリにマンガを説明する。いったい、何様のつもりだ。
だけど、それが、ものすごく楽しかった。
最後は、吹き出しにキャラクターの台詞をエンピツで書いていく。
「完成したら、読ませてください」
「それじゃ、読者の第一号は、マリだな」
俺は、心の底からうれしかった。ホントにプロになったら、一番先にマリに
読んで欲しかった。
もしかして、これくらい集中して勉強したら、大学なんて簡単に合格できるかもしれない。そんなことを考えながら、マンガの原稿にペンを走らせた。
気が付いたら、すっかり夜になっていた。時間も忘れて書いていたようだ。
「出来たぁ!」
俺は、満足感で一杯だった。何かをやり遂げたような達成感を感じていた。
「お疲れ様でした」
マリに笑顔で言われると、ホントにうれしくなる。
俺は、乾いた原稿をまとめてながら、ページを確かめてから、マリに渡した。
「読んでいいよ」
「いいんですか?」
「最初にマリに読んで欲しいんだ。後で感想を聞かせてくれ」
俺は、そう言って、風呂に入ると言って、部屋を後にした。
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