第5話 友だちが家にやってきた。

 翌朝、目が覚めると、マリはすでにいなかった。

俺は、パジャマから制服に着替えて、一階に降りる。

「おはようございます」

 マリは、エプロン姿で挨拶する。毎朝、こんな姿を見る事になるのかと思うと

寝ぼけ眼の目も、サッパリ冷める。俺は、そのまま洗面所で顔を洗って歯を

磨く。テーブルに着くと、すぐに朝食が出てきた。今日は、パンだった。

「パンで、よろしいですか?」

「もちろん」

 テーブルには、スクランブルエッグにウィンナー、野菜サラダとジャムと

マーマーレード。バターたっぷりのトーストにオレンジジュースだ。

まるで、ホテルの洋食だ。

 そこに、じいちゃんが起きてきた。

「おはようございます」

「おはよう。今日は、洋食か」

「ご飯のがよろしかったですか?」

「別に構わん。明日から、毎日、パンだからな」

 じいちゃんは、今日の昼間にアメリカに行く。

「それじゃ、いただきます」

 そう言って、三人で手を合わせて、朝食を食べる。

トーストの焼き加減が絶妙だ。しっかり焼いているのに、中はふわふわ。

バターの匂いが食欲を掻き立てる。俺は、そこに、イチゴジャムも乗せてみた。

 トロトロのスクランブルエッグにソーセージの歯ごたえがたまらない。

野菜サラダは、シャキシャキで、滅多に野菜を食べない俺でも、うまかった。

「今日の朝食もうまいな」

「そうですか。よかったです」

 マリは、俺の一言に、必ず笑顔で返してくれる。朝からマリの笑顔を見ると

気持ちがよくなる。オレンジジュースを最後に流し込んで、朝食の終了だ。

「ご馳走様でした」

 俺は、そう言って、自分の皿をキッチンに持っていく。

「そのままでいいですよ。ひろしさんは、学校に行く準備をしてください」

 マリは、優しく言って、俺の皿を受け取った。

俺は、ありがとうといって、部屋に戻りかばんを持って、出かけようとする。

「ハイ、お弁当です」

「ありがとう」

 昨日の今日だが、ちゃんと弁当を受け取ることが出来た。ちょっとだけ、

成長したかなと思った。

「じいちゃん、気をつけてな」

「わかっとる。ひろしも、マリと仲良くするんじゃよ。困ったことがあったら、連絡するんじゃよ」

「わかった。それじゃ、いってきます」

 俺は、靴を履いて玄関を開ける。すると、マリが急いでついてくる。

「ひろしさん、忘れ物ですよ」

 そう言うと、俺の肩を握って、右の頬に軽くキスをしてくれた。

「いってらっしゃい。気をつけてくださいね」

 俺は、マリに手を振って、かなり大股で歩き出した。

まだ、朝のキスには慣れない。右の頬だけが熱い。

明日からは、二人きりの朝を迎えるのかと思うと、ドキドキする。

果たして、うまくやっていけるだろうか……


 学校に着くと、早速、クラスの友だちが俺の周りに集まってきた。

「今日は、あの美人のお姉さまは、来ないのか?」

「来るわけないだろ」

 オレは、素っ気無く答えた。

「でもさ、また、来ないかな……」

「来ないよ」

 オレは、カバンから教科書やノートを出しながら言った。

「あっ、そうだ。今日さ、学校が終わったら、お前んちに行っていい?」

「ハァ? ダメに決まってるだろ」

「なんでよ?」

「なんでって……」

「いいだろ。また、あの美人のお姉さんに会いたいんだけどなぁ……」

 そんなこったろうと思った。学校の友だちをウチになんて呼べるわけ

ないだろ。マリがいるんだぞ。会わせるわけにいくか。俺は、心の中で

そう言った。

「なぁ、いいだろ」

「ダメだよ」

「だから、何でよ?」

「忙しいから」

「なにが忙しいんだよ?」

「いろいろと」

「それじゃ、理由になってない。よし、決まり。おーい、今日、学校が

終わったら、ひろしん家に行きたいやついる? いたら、手を上げて」

「マジかよ?」

「俺、行く」

「あたしも行っていいかな?」

「ぼくも行きたい」

「いいぜ、何人でも来いよ」

 何を言ってんだお前は。自分家でもないくせに、勝手に話を進めるな。

「勝手なこと言ってんじゃねぇよ。ダメったら、ダメなの」

「別に減るもんじゃないだろ。それとも、見られたら困ることでもあるのかな?」

「ないけど……」

「だったら、いいじゃん。ハイ、決まりね」

 勝手に決めると、朝のチャイムが同時になって、みんな席に着いた。

冗談じゃないぞ。大勢でウチに着たら、どうなるか……

マリのことだから、絶対、調子に乗るに決まってる。一言でも口を滑らせたら

大変だ。しかも、オレの部屋なんて見られたら、どんなことになるか……

ダブルベッドがあるんだぞ。余計な妄想をするに決まってる。

どうにかして回避したい。

 担任の先生が入ってきて、朝の挨拶の後、いつものホームルームが始まる。

「明日は、土曜日だから、午前中で終わりだから、三時間目は前にも言ったが、

授業参観日だから、みんなそのつもりでな。この前渡したお知らせは、親御さんに見せてあるな」

 オレは、今日のことで頭が一杯だった。

「おい、ひろし、ちゃんと聞いてるか? お前のとこは、誰が来るんだ?」

「あっ、ハイ…… たぶん、来ないと思います。じいちゃんは、アメリカに

行ってるし……」

「この前の美人な女性はどうした?」

「えっ、あの、マリ…… じゃなくて、彼女は、親じゃないからきませんよ」

「そうか。残念だな」

 そうだ。授業参観のことをすっかり忘れていた。

じいちゃんは、研究に忙しいので来たことはない。

なので、授業参観と言っても、いつも一人だった。それには慣れている。

だから、今度も、きっと一人なのだ。

「イヤ、待てよ……」

 頭の中にマリの姿が現れた。このことを知ったら、絶対に来るに決まってる。

マリに授業参観のことを知られてはいけない。そういや、そのお知らせの

プリントは、どうしたっけ?

カバンの中を漁ってみたけど、なかった。捨てたのか?

イヤ、そんなことをした覚えはない。てことは、机の引き出しの中か?

まさか、出しっ放しにはしてないはず。

いや、俺の部屋を掃除するマリが、見つけてしまうかもしれない。

まずい、まずいぞ……

 俺は、今すぐに帰って、授業参観のお知らせを処分したい。

だけど、そんなことができるわけがない。オレは、その日一日、授業に身が

入らなかった。


 やっと放課後になって、オレは、急いで帰り支度をした。

今日は、マンガ研究会は、休むしかない。とにかく、早く帰らなきゃ。

 オレは、靴を履き替えて、ダッシュで校門まで行こうとした。

「そこまで! ひろし、約束通り、おまえ家に行くからな」

 数人の友だちがオレの前に立ちはだかった。そのことがあった。授業参観の

ことで忘れていた。

「今日は、ホントにまずいんだ。また、今度にしてくれ」

「長居はしないから安心しろよ」

「あのお姉さんを見たら、すぐに帰るからさ」

「さぁ、行こうか」

 そう言って、俺は両手をがっしり抱えられてウチまで連行された。

「ちょっと、待てって……」

「いいから、いいから」

 オレの話なんて、ちっとも聞いてない。友だちの縁を切るぞ。

そして、ついに、俺のウチに着いてしまった。

「ひろしさん、お帰りなさい」

 タイミングがいいのか悪いのか、洗濯物を取り込んでいるところだった。

「こんにちは、お姉さん。遊びに来ちゃいました」

「あら、ひろしさんのお友達ですか?」

「ハイ、そうでーす」

「いらっしゃいませ、さぁ、どうぞ、上がってください」

 ダメだから、マリも何を言ってんだ。俺は、マリに目で合図を送る。

しかし、マリは、まったくわかってない。それどころか、友だちを笑顔でウチに入れている。

「ひろしくん、覚悟しなさい」

「ここまで来たら、もう、帰れなんて言えないよな」

 こいつら、オレの弱点を知ってる。断れないということを……

「マリ、ごめん。すぐに帰ってもらうから」

 オレは、小さな声で言った。

「大丈夫ですわ。ひろしさんのお友達なら、歓迎しないと…… 

それが、妻の役目ですわ」

 そう言って、マリは、うれしそうに中に入っていった。

こりゃ、ダメだ。せめて、マリとの寝室だけは、見せないようにしないと

いけない。

「おーい、ひろし、なにやってんだ。早く来いよ」

 すでに靴を脱いで、ダイニングに座っている友だちが言った。

俺ん家なのに、何で俺より先にあいつらがいるんだ。俺は、急いで靴を脱いで

上がった。

 マリは、エプロン姿で、あいつらにお茶を入れ始めた。

そんなことしなくていいんだ。

「皆さんは、クラスのお友達なんですか?」

「そうです。いつもひろしくんと仲良くしてます」

「まぁ、そうなんですか。ありがとうございます」

 マリは、そう言って、頭を下げる。だから、そんなことしなくていい。

しないでくれ。

「さぁ、どうぞ。皆さんのお口に合うかわかりませんが、召し上がって

ください」

 そう言って、お茶を人数分入れると、冷蔵庫からケーキを出して切り分けた。

何で、ケーキが入っているんだ? どうしたんだ、そのケーキは……

「うわぁ、おいしい!」

「すっげぇ、うまいです」

「どこで、買ったんですか?」

 あいつらは、口々にそう言った。

「これは、さっき、作ったんですよ」

「えっ? お姉さんの手作りなんですか」

「ハイ、初めてだから、うまくいったかどうかは、わかりませんけど」

「イヤイヤ、全然うまいから」

「お店屋さんより、おいしいわ」

 なんだこの展開は…… マリの手作りケーキを俺より先に食べるなんて

許せない。

「ひろしさん、食べないんですか?」

「食うよ」

 俺は、慌てて一口食べた。正直言って、すごくおいしかった。

あいつらが言ったことは、ホントだった。ホイップクリームがほのかに甘く、

決してしつこくない。スポンジケーキは、フワフワのフカフカだ。

二重になった間には、新鮮なフルーツが挟まっている。

「どうですか?」

「うまいよ。すごくおいしい」

「よかったですわ。ひろしさんのお口に合って……」

 そう言って、マリは笑った。その笑顔をこいつらなんかに見せるのは、

もったいない。俺とマリのやり取りを見ていた一人が口を開いた。

「お姉さんて、ひろしの親戚かなんかですか?」

 きた。きたぞ、その質問。マリがなんて言うか、俺は心の中で手を合わせた。

「えっとぉ…… 私は、博士…… じゃなくて、おじいさんの助手というか、

なんと言うか……」

 よし、合格だ。それでいい。その調子だ。間違っても、妻とか奥さんとか

言うな。

「今日は、おじいさんはいないんですか?」

「仕事で、アメリカに行ってるんです」

「それじゃ、ひろしと二人きりなんですか?」

「そうなりますね」

 そう言って、マリは、さらにうれしそうに笑った。しかも、俺を見ながら……

友だちの視線が俺に集まる。その視線は、何を言いたいのか、わかってる。

わかってないのは、マリだけだ。

「お姉さん、ご馳走様でした。ちょっと、ひろし、お前の部屋に行こう」

 有無を言わせず、二階に連行された。もちろん、入るのは、俺の勉強部屋で

寝室ではない。ドアが閉められると、俺は、床に正座した。

その周りをあいつらが取り囲む。

「正直に言ってもらおうか。お前と、あの人との関係は?」

「だから、じいちゃんの助手だって」

「そんなこと聞いてんじゃないんだよ。今夜から、あの人と二人っきりで生活するのかって聞いてんの」

「そう…… なると思うけど……」

「イヤらしい!」

 一人の女子がそう言って顔をしかめる。そんなこと言われても、事実だから

仕方がない。

「お前さ、それって、どういうことかわかってる?」

「あんなきれいな女の人と二人きりなんて、いいと思ってる?」

「そう言われても……」

「先生が聞いたら、学校で問題になるぜ」

「えっ? イヤ、それは困る」

「別に、そんなこと、先生にチクったりしないから」

「そうよ。あたしたちは、友だちだもん。そんな真似しないから安心して」

 俺は、少しホッとした。

「だから、正直に言ってくれ。彼女とお前の関係は?」

 そう言われても、ホントのことは言えない。

「だから、ホントに、じいちゃんの助手なんだって。ほら、じいちゃんが帰ってくるまで、俺は一人だろ。だから、その間だけメシを作ったりしてくれるだけ

なんだよ」

「ホントかしら?」

「ホントだよ」

 確かにホントだ。そこは、ウソではない。

「まさか、いっしょに風呂に入ったりしてないだろうな?」

「するわけないだろ」

 これもホントだ。まだ、いっしょに風呂には入っていない。

「もしかして、いっしょに寝たりしてるとか……」

 ドキッとした。心臓の鼓動が激しくなる。

「してない、してない」

 俺は、片手を顔の前で横に振って、強く否定する。

でも、それは、ウソだ。毎晩、いっしょに寝てる。

だけど、そんなことは言えない。心臓がバクバクしている。焦っているのが

顔に出ないように、懸命に落ち着かせる。

 そのとき、ドアがノックされた。

「ひろしさん、入っていいですか?」

「どうぞ、どうぞ」

 俺の代わりに友だちが答えた。何でお前が答える。ここは、俺の部屋だぞ。

「お茶のお代わりをお持ちしました」

 マリは、そう言って、コーヒーカップを乗せたトレーを持っていた。

「すみません」

 そう言って、あいつらは、机に置かれたコーヒーをそれぞれ手に取る。

「あの、ひろしのおじいさんは、今、アメリカに行って、留守なんですよね?」

「ハイ、そうです」

「それじゃ、明日の授業参観は、誰が来るんですか?」

 そうだ。そのことを忘れていた。あのお知らせのプリントは、どこにある……

俺は、机を見た。しかし、なかった。それじゃ、引き出しの中か……

すると、マリは、エプロンのポケットから、一番見られてはいけない物を出してこう言った。

「もちろん、私ですわ」

 マジか! 俺は、ビックリして、そのままひっくり返りそうになった。

「お姉さんが来るんですか?」

「ハイ、今は、私は妻…… じゃなくて、保護者ですから」

 もう、ハラハラ、ドキドキして、心臓が止まりそうだった。

「イヤ、イヤイヤ、マリ…… じゃなくて、マリさんは、来なくていいから」

 俺は、慌てて否定した。学校にマリが来たら、どうなるか…… 

想像もしたくない。

「いいえ、私は、ひろしさんの…… えっと、保護者ですから、ちゃんと

行きますわ」

「やったー!」

「よかったな、ひろし。いつも、お前だけ、一人だったからな」

 そう言って、俺の背中をバンバン叩く。

「いつも、ひろしさんは、一人なんですか?」

「そうなんだよ。だいたい、どこの家も、母ちゃんか父ちゃんが来るんだけど、ひろしの両親はさ……おじいさんはいるけど、仕事で忙しくて来たことなくて。なんだか、可哀想でさ」

「まぁ、そうなんですか。でも、明日は、大丈夫ですわ。私が行きますから」

 プリントを出しっ放しにしていた俺が悪い。こうなったら、諦めるしかない。

「ひろしさん、明日は、私も張り切って、授業参観に行きますからね」

 張り切らなくていい。張り切られても困る。だけど、そんなことは、マリに

言えない。

「あのさ、ひろしは、どこで寝てんの?」

「ここは、お前の部屋だろ。でも、ベッドとか布団とかないじゃん」

 そこを聞くか。言えるわけないだろ。どうやって誤魔化す……

「えっと、その…… 一階の部屋で布団を敷いてるんだ」

「そっちの部屋は?」

「えっ、そこは、ほら……」

 俺が口篭っていると、友だちの一人が立ち上がって、向かいの部屋を入ろうとする。

「ちょっと待って、そこは、マリ…… じゃなくて、マリさんの部屋だから」

「そうなんですか?」

 そう聞かれて、マリが少し考えてから言った。

「ハイ、そうです」

「女性の寝室を覗くなんて失礼よ」

「すみません」

 あっさり言われて、引き下がる。よかった。これで、ダブルベッドを

見られずに済む。

「それじゃ、お邪魔しました」

「ケーキ、おいしかったです。ありがとうございました」

「明日の授業参観も楽しみにしてます」

「ひろし、またな」

 そう言って、友だちは、やっと帰っていった。

マリは、玄関の外まであいつらを見送っていた。

 マリは、コーヒーカップなどを洗っている。その後姿に声をかけた。

「今日は、いきなり、あいつらを連れてきて悪かったな」

「いいえ、ひろしさんのお友達ですから、いつでも歓迎ですわ」

「それと、さっきは、俺の保護者とか、じいちゃんの助手とか言わせて、

ごめんな」

「大丈夫ですわ。ちょっと、焦りましたが、ちゃんと言えました」

「明日も、それで頼むわ」

「ハイ、お任せください」

 マリは、そう言って、エプロンで手を拭くと、コーヒーを二つ入れたカップを前に置いて冷蔵庫の中から、ケーキを二つ並べた。

「ハイ、どうぞ。ひろしさんの分は、ちゃんと残してあります。いっしょに

食べましょう」

 その一言は、涙が出るくらいうれしかった。マリの思いやりに、抱きしめて

やりたくなった。

「いただきます」

 俺は、震える声を必死にこらえながら一口食べた。うまかった。

世界一、おいしかった。マリも、ニコニコしながらケーキを食べている。

「今度は、プリンとか作ってみますね」

「楽しみにしてるよ」

「がんばります」

 マリは、そう言って、微笑んだ。

「そういや、プリン…… じゃなくて、あのプリントは、どこで見つけたんだ?」

「机の上に出してありました。掃除したときに見つけたんです。なんで、

言ってくれなかったんですか?」

「いつもじいちゃんは来ないからさ、別にいいかなと思ってたんだ」

「でも、今度は、私がいるから、言ってください。それが、妻の役目ですわ」

 そうなんだけど…… マリが来たら、きっと、学校中が大騒ぎになる。

友だちや先生たちだけでなく、明日は、生徒たちの親も来るんだ。

そんな中に、マリがいたら、絶対目立つ。何かと、クレームをつける母親も

いる。マリは、そんな格好の標的になる。だから、マリを見せたくはなかった。

「明日は、なにを着ていこうかしら」

 マリは、なんか楽しそうだった。服装次第じゃ、大騒ぎになる予感がする。

「それじゃ、買い物に行ってきます。今夜は、なにが食べたいですか?」

「そうだなぁ……」

 俺は、少し考えてから、こういった。

「買い物に行くなら、俺も行くよ」

「いいえ、買い物くらい、一人で行かれますわ」

「昨日の今日だろ。また、商店街の人たちに何を言われるか、わかんないだろ」

 昨夜の大騒ぎのことを思い出しながら言った。

「それじゃ、いっしょに行きましょう。ひろしさんとお出かけするのは、

楽しいわ」

 マリは、そう言って、うれしそうにエプロンを外した。

俺だって、マリと出かけるのは楽しい。だけど、昨日のことが気になるので、

付いていこうと思ったのだ。

 俺は、制服から外出着に着替えると、マリも着替え始めた。

タンスが俺の勉強部屋にあるので、いっしょに着替えるときは、背中を

向き合って着替える。交代で着替えるのは、面倒なので、そうすることに

したのだ。

 そして、買い物かごを持って、俺たちは家を出た。

歩いてすぐのところに、商店街がある。一歩踏み込むと、すぐに声がかかる。

「いらっしゃい、今日は、生きのいいのが入ってるよ」

 魚屋のおじさんから声がかかった。

「おっ、ひろし、なんだ、その美人は?」

「えっ!」

 俺は、思わず聞き返した。昨日、あれだけ大騒ぎしたのに、マリのことを

覚えてないのか?

「お前も隅に置けないな。でも、まだ、学生だろ。そんな美人と付き合うのは、十年早いぞ」

「そう、そうだな」

 俺は、苦笑いを浮かべながら、マグロの刺身を買った。

「どうなってんだ?」

 俺とマリは、顔を見合わせる。次に八百屋の前を通りかかった。

「おいおい、ひろし、素通りはないだろ? 安くしとくぜ」

「それじゃ、どうしようか?」

 俺は、マリに聞いてみた。

「なんだなんだ、そのベッピンさんは? ひろしの彼女か?」

 ここでもマリのことを覚えていない。

「そういうんじゃないんです。それじゃ、キャベツとトマトをもらおうかな」

「ハイよ、毎度」

 慌てて話を反らした。八百屋のおじさんも、それ以上マリのことを聞こうと

しなかった。

「どうなっているのかしら?」

 マリも不思議そうな顔をしている。

その後に行った、肉屋とか乾物屋でも、同じ反応だった。

いったい、どうなっているのか、俺にはサッパリわからない。

 そんなとき、気になっていたことが、頭をよぎった。

昨夜のこと、じいちゃんは、大騒ぎして帰って行った人たちのことでなにか

言ってた気がする。

『明日になったら、きれいに忘れているから』そんなようなことを言った気が

する。そのとき、なにか目薬のような液体を見せた。でも、そのときは、それがなにか聞かなかった。聞いておけばよかったかもしれないが、聞いちゃいけない気がして、聞かなかったのだ。もしかしたら、そのときの薬のせいか?

なにか、記憶をなくす薬とか、記憶を消す薬かも……

 俺たちは、なにがなんだかわからないままに、買い物を済ませた。 

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