第八章
日本岐阜県 岐阜市
96式装輪装甲車は、国道158号線を岐阜市北部に向かって走っていた。走っているというより、ゆっくり動いていたといった方がいいかもしれない。道路上に放置されていた事故車両は道路の端に押しのけてあったので大型の装甲車が通るのにさして問題はなかった。しかし、今回は1個中隊が丸々移動しているため隊列が長い上、今回の作戦から急遽米軍からブラッドレーM2装甲車が数台供与されていたので、まだその操縦に慣れていないためだろうか、M2装甲車はあっちこっちにぶつかりながら進んでいたのだった。高橋の乗っている96式装輪装甲車は8輪のコンバットタイヤを装着しており、平地であれば全速力なら時速100キロメートルぐらいのスピードで走る事が出来る。それから考えるとまるで歩いているようなものだった。
隊員達は装甲車の上部ハッチから身を乗り出し、ライフルを構えながら、いつでも発砲できるようにしていた。この辺りは自衛隊の勢力圏の辺境地区に当たり、少なからず奴らがうろついてはいるが隊員たちはほとんど無視していた。車両の正面にいる奴らはそのままひき殺してはいたが、奴ら全部を掃討しながら行くとなると弾薬が幾らあっても足りないし、いつ目的地に着くかわかったものではなかったからだった。
高橋は恵美子と同じ車両に乗っていた。彼は宮田小隊長から任務の時は第2分隊と一緒に行動するようにと言われていたものの、彼女がこの小隊の第2分隊を預かっていた事を今朝の点呼の時、始めて知ったのだった。(陸上自衛隊の組織変更に伴い、最小戦闘単位を班から分隊へ呼称変更)岐阜基地に配属された第1中隊の中には恵美子以外に、もう一人、女性分隊長がいるということだった。それだけ自衛隊に於いて初期の被害が多かったのであろう。高橋は同じ中隊に昔の仲間の生き残りも数名いたので少し話をしたが懐かしさと悲しさで複雑な気持ちになってしまった。
今回の作戦からこの分隊に配属されたのは高橋ともう一人、長屋宏一士がいた。もともと彼は春日井駐屯地の施設科の所属で滑走路の整備のために岐阜基地にいた。あらかた滑走路の整備が終わったので無理やり大野一尉が中隊に引っ張り込んだのだ。しかし、本人は余り意に介しておらず、どちらかというと環境が変わって張り切っているようだった。彼は既に2日前からこの分隊と行動を共にしており、同年代の三桶や薮野と仲良く話し込んでいる。根っから陽気なのか、人懐っこい性格なのか、既に分隊に馴染んでいた。
一方高橋は今朝、第2分隊の隊員に紹介されたばかりで身の置き所に困っていた。恵美子は借りてきた猫の様な高橋を見て少し笑みを浮かべた。今までこんな高橋をあまり見た記憶が無かったからだ。
「高橋士長、ライフルの調整は出来たの?」恵美子は高橋が大事そうに持っているライフルを見ながら尋ねた。
「ええ、200発以上撃ちましたよ。150メートル以内なら大丈夫だと思います」高橋は言葉に気をつけながら恵美子に言った。彼女の部下の前でいつものように話せば立場が悪くなってしまうし、もともと彼女と付き合っていたときも、高橋にとっては恵美子の方が上官だったので任務中でのその話し方には慣れていた。
「そう、頼もしいわね」恵美子は高橋に笑顔で答えると今度は部下に向かった。「そろそろ着くわよ、みんな準備して!」恵美子はそう言うと自分のライフルを確認した。分隊の各隊員も、それにならって安全装置をはずした。
先行部隊が確保している橋頭堡に中隊が到着すると、トラック部隊を中心にして、その周りを装甲車が囲む形をとった。走行中は比較的安全だが、停車中は奴らのやりたい放題になり危険なので、その間は各部隊とも射撃のしっぱなしになる。部隊は、まず橋頭堡を拡大するために周りを掃討してから各分隊が割り当てられたエリアに前進する事になっていた。装甲車が停車した途端、車載機銃が唸り始め中隊本部から無線で作戦開始が号令された。
「高橋士長、装甲車の上で援護して頂戴。みんな行くよ!全員下車、散開して射撃開始!」恵美子がそう叫ぶと装甲車の扉が開き「おー!」と全員が叫びながら飛び出していった。
恵美子の分隊はトラック隊の右翼前方に位置していた。彼等はトラック隊にユニットを近づけないようにするのが任務だった。彼女は怒鳴り声をあげながら隊員たちを効率のいいところへ的確に配置した。
高橋も装甲車の上にあがりレミントンを射撃し始めた。
恵美子達が所属する第1小隊は、中隊本部とトラック隊の守備の為、その場に留まり周りの警戒に当たったが、その他の部隊は前進して担当エリアの掃討作戦を開始した。
高橋は小隊の周りを見渡し警戒線を突破してくる奴を見つけてはレミントンを放った。しかし、警戒地域があまりにも広い為かなり多忙を極めた。
あるときは、警戒線内に侵入者を見つけた時、すでにトラックに触れそうなくらい近づいていたため慌てた事があった。しかし、今回は弾薬がホローポイントだった。高橋の放った弾丸は150メートルの距離を飛ぶと侵入者の胸に当たった。そして、皮膚、筋肉と貫いていくにしたがって慣性の法則によりその運動エネルギーは脆弱な7.62ミリの弾頭を数センチの鋭利な棘を持つ鉛の塊に変形させていった。体内に侵入したその鉛の塊はそこにあった臓器を引き裂きバラバラに撃ち砕いてしまったのだ。その侵入者は一瞬にして死んだ。それを見ていた宮田小隊長は高橋に向かって満足そうに親指を立てていた。
2時間後、トラック隊が救助作業をするため中隊本隊から離れ、掃討している部隊の方に向かって前進し始めた。エリア内の奴らがあらかた片付いたのだろう。暫らくしてほとんどのトラックが前線に向かっていってしまった。作戦も中盤にさしかかったのだ。
第2分隊の隊員達は交代で弾薬を取りに装甲車へ戻ってきていた。全員ひっきりなしに射撃を続けている為に見る見るうちに持っていた弾薬がなくなっていくのだ。恵美子が2度目に戻ってきた時、通信士の尾上士長が小隊長から無線入っていることを彼女に伝えた。
「分隊長、小隊長からです」尾上士長はそう言うと恵美子にマイクを渡した。
「小隊長から?わかった」と言うと彼女はマイクを受け取った。
宮田からの連絡では、救助作業中の第2小隊が奴らに囲まれたので、そこから最も近い彼女の分隊が応援に行くようにと命令された。今、恵美子達が守っている場所は第1分隊をカバーに向かわせるとの事だった。
恵美子は第1分隊が装甲車と共に移動してくるのを確認すると、射撃を続けている隊員に向かって叫んだ。「第2分隊集合!」恵美子は大声を張り上げてそう言うと全員が射撃をしながら装甲車に戻ってきた。彼女は、高橋にそのまま車上で援護を続けるように言った。そして、残りの隊員を急いで装甲車に乗せ人員を確認すると車長に装甲車を前進させるように言った。
「みんな大丈夫ね。さっき第2小隊がユニットに包囲されたと連絡があった。今から応援に向かう。この警戒線は第1分隊が引き継ぐ。今のうちに弾薬を補充するように」恵美子は部下を見回しそう言った。
「分隊長、囲まれたなんてどういう事でしょうね」分隊支援火器ミニミ機関銃担当の三桶一士が連続射撃で熱くなった機関部を開いて新しい弾帯を詰め込みながら聞いた。
「さあね。とにかくあなたはミニミを壊さないでね。いざという時使えないなんて最悪だから」
「わかってますよ、分隊長。任しといてください」三桶一士はそう言ってミニミ機関銃を叩いた。
高橋は、装甲車の上で前方のトラックが大勢の奴らに取り囲まれているのを見た。物凄い数だった。“どこから出てきたんだろう?”高橋はそう思いながらトラックの傍の奴から順に狙いをつけて射撃を開始した。車載のM-2はトラックに当たると危険なので撃つ事は出来なかったのだ。
恵美子は、高橋が発砲し始めたのを聞いてそろそろだと思った。
「松山三曹、島添と長屋の2人連れて後方をお願い」恵美子はそう言うと松山三曹が頷くのを確認した。
「さあ、行くよ!」恵美子はそう言うと、装甲車の扉が開いたと同時にみんなと一緒に出て行った。
高橋は装甲車の上から恵美子たちが射撃しながら前に進んでいくのを横目で確認した。彼はこの場所で隊員達を援護するのは非常に難しいと思った。道路の両サイドには高いビルが乱立しており、道路も車が二台すれ違うのがやっとのくらい狭い。これではビルの中から、いつ奴らが飛び出てくるかわからなかったからだ。これでは先着の第2小隊が奴らに取り囲まれてしまったのも頷ける。装甲車のM-2重機関銃も射界が狭いのとトラックとの距離が無いので撃ちづらそうだった。
恵美子は、自分を先頭に楔形の隊形を保ったまま徐々にトラックに近づいた。“いったい何処からこんなにたくさん出てきたんだろう?”恵美子はそう思った。しかし、そんな事を言っていても始まらないので、射撃を続けながら一人ずつ倒していった。彼女は左右のビルからもからも出てくるのでライフルを左右に振り回しながら前進しなければいけなかった。トラックまであと少しという時、恵美子のすぐ後ろを進んでいた藪野一士が、横倒しになった車の陰から突然飛び出してきたユニットに腕をつかまれて転んでしまった。
「うわっ!」藪野一士はそう叫ぶと上に覆いかぶさって来た奴に噛まれないよう自動小銃の銃床でブロックした。
恵美子はその声に振り返ると藪野が道路に仰向けになり必死で格闘している所だった。彼女は、すかさず彼の上に乗っている奴の頭を銃床で殴り倒した。そして、ライフルを構えると再び立ち上がろうとしている奴の頭に一発撃ちこんだ。
高橋は、それをスコープ越しに一部始終見ていた。射撃しようと思っている間に恵美子はユニットを倒してしまったのだ。それの光景を眺めながら、なかなかやるなと感心していた。しかし、その瞬間、恵美子の背後からもう一人現れて彼女を捕まえようと手を伸ばしてきたのだ。高橋はすぐさまそいつに狙いをつけた。だが、恵美子とそいつのシルエットが重なり、ほんの少しでも狙いがずれたら弾丸が彼女に当たり危険だと感じた。しかし、このままでは間違いなく恵美子がやられると判断し、彼は思い切って引き金を引いた。
仰向けで倒れていた藪野一士は、恵美子が地面に倒れた奴を射殺してくれたのでホッとした。もうダメかと思ったのだ。彼はやれやれと思いながら立ち上がろうとした。その瞬間、藪野は車の陰からもう一人飛び出してくるのを見つけた。「隊長、あぶない!」藪野は叫んだ。
恵美子はその声に驚いて振り向いた。その瞬間、恵美子はヤバイと思った。恐ろしい形相をした男が今にも彼女に襲い掛かろうとしていたのだ。彼女は咄嗟にライフルでブロックしようとした。ところが、そいつが彼女に掴みかかった瞬間、その頭が目の前で粉々に吹き飛んでしまったのだ。恵美子はそいつの脳の破片や血しぶきを浴びて、あまりの事に驚き尻餅をついてしまった。彼女は一瞬何が起こったのかわからなかったが、すぐに高橋が倒してくれたのだという事を理解した。
恵美子は、もう少しで漏らすところだった。彼女は藪野一士に起こされ何とか立ちあがることが出来てホッとした。ここで指揮官が腰を抜かしていては分隊の士気に関わるからだった。恵美子は顔にかかった奴のなれの果てを迷彩服の袖でふき取ると高橋のほうに手を振り再び前進し始めた。
高橋は恵美子が倒れた時、一瞬しまったと思った。奴に当たったことはわかっていたが、もしかしたら、貫通した弾丸の破片が彼女に当たってしまったのかと思ったからだ。しかし、立ち上がり高橋のほうに手を振った彼女を見てホッとした。高橋は気を取り直して再び他の奴らに向かって射撃を開始した。
その後10分ほどで掃討が完了した。第2分隊はそのまま第2小隊と一緒に救助活動をすることになった。結局、第2小隊は2名やられてしまった。高橋は、さっきの緊迫した状況からして、その被害で済んで良かったと思った。運が悪ければ1個分隊全滅していてもおかしくは無い状態だったのだ。彼はレミントンを車内に置き、89式自動小銃に持ち替えて救助活動を手伝った。
救助活動はかなり時間がかかった。高橋達は何度か危険な目にあったが、それ以上損害を出すことなく無事終了した。中隊全体で救出した生存者は500人ほどで、みんなかなり衰弱しており、生命の危険な状態の人が多かった。
高橋は、生存者捜索のために各部屋をさがしていた時、自殺した人たちが多数いた事にショックを受けた。誰しも愛する者や家族を失い生きる気力を無くしてしまってもおかしくはない。当然それは予想していたが現実に目の当たりにすると気が滅入ってきた。死者の中には餓死していた者も多かった。本来ならまだ時間的余裕があるはずだった。これは餓死というより、こういった悪夢のような状況の中での恐怖と生存の見通しが立たない失望感で、衰弱した体が絶えきれなくなったのではないだろうか。
高橋は、急がないとまだ救出していない生存者も、近い内には全滅してしまうのではないかと危惧した。
救助活動と同じくして、施設科による爆薬の設置も行われていた。彼らは救助が済んだ建物から順に高性能爆薬を取り付けていった。この爆薬で破壊しきれない場合は航空機による空爆を行うという事だった。これは、奴らを市の中心部に閉じ込める狙いと、奴らが建物の中に隠れつつ、自衛隊の勢力圏に侵入するのを阻止する為だった。
爆薬の設置と救助活動は作戦開始から24時間で終了した。
翌朝の建物の爆破と空爆の監視及び誘導を行う為、ここから5キロメートルほど後方の前線基地に第3小隊を残し、あとの小隊は基地に撤収する事になった。
帰り道の装甲車の中で第2分隊の隊員はぐったりしていた。作戦の間中ほとんど休み無く働いていたので仕方なかった。しかし、基地に帰れば、またやるべき仕事がたくさん待っていた。彼らはその間だけの僅かな休憩を満喫していた。
「高橋士長、ありがとう。おかげで命拾いしたわ」恵美子は感謝を込めて言った。
「いいえ。でも隊長が倒れた時はヒヤッとしましたよ。弾が当たったのかと思った」
「あの時は、私もビックリしたわよ。目の前で突然頭が吹っ飛んだんだから。ちびるかと思ったわ」恵美子が笑いながらそう言うと他の連中も笑った。
「隊長、ほんとはちびったんじゃないですか?」藪野一士が冗談めかして言った。
「それはあんたじゃないの?ひっくり返って泣いてたじゃない」恵美子はそう言いながら肘で藪野を小突いた。
「そんなことないですよ」藪野一士は恵美子に切り返されてしどろもどろでそう答えた。それを見て他の隊員は大笑いした。
「高橋士長の射撃の腕はさすがですね。驚きましたよ」松山三曹が言った。
「自分も何度か助けてもらいました」三桶一士が言った。
「大した事はないですよ。ちょっとしたコツがあるだけです。今度教えますよ」高橋が言った。
「高橋士長は昔、連隊の射撃大会で優勝した事があるんですからね」恵美子が言った。
「それじゃ上手いわけだ。今度じっくり教えてもらわないと。長屋一士、お前が一番聞かないといけないんだからな」松山三曹が言った。
「えっ、自分だけですか?自分は確かに射撃は下手くそですけど、藪野一士も大して変わらないような気がするんですけど…」長屋一士が言った。
「なんだと?俺はいいの、本来はM79担当なんだから」藪野一士が言った。しかし、M79は前回の任務の時、壊れてしまったので今回彼はライフルマンになっていたのだった。
「でも今は無いじゃないか?」松山三曹が言った。
「三曹、お願いしますよ。いじめないで下さい」藪野一士は泣きついた。
「長屋、藪野、それに三桶はどっちにしてもどんぐりの背比べってとこね」恵美子が言った。
「自分もですか?」三桶一士が言った。
「そうよ。とにかく暇な時に高橋士長に教えてもらっておきなさい」恵美子が言った。
「暇な時ってありましたっけ?」三桶一士が言った。それを聞いてみんなが笑いながら首をかしげた。
「それはともかく、みんな今日はよくやったわ。これと同様の作戦が場所を移動しながら連続して行われるわ。大変でしょうけどがんばって頂戴ね」恵美子は隊員に向かって言った。
「でも隊長、今日掃討したところは爆撃するんでしょう?まだ生存者が残っていたらどうするんですか?100パーセント調べたわけじゃないのに」松山三曹が疑問をぶつけた。
「ええ、それは私も思うけど上からの命令だからね。大野中隊長もそれは言ったらしいわ。でも時間的期限が有るらしいのよ。今日の掃討した地区だって明日の朝には空爆されるわ。仕方ないみたいね」
「米軍なんて生存者がいたってヘッチャラで155ミリ榴弾砲や爆弾を落としているらしいですからね」松山三曹が言った。
「それは私も聞いたわ。米兵の安全確保が一番なんでしょうね」
「わざわざ救助に来てやっているんだから文句を言うなって感じなんでしょうか?」滝沢士長が尋ねた。
「そうかもしれないわね。私だって逆の立場だったらそうなるかもしれないわ」
「隊長はそんな事はないですよ」藪野一士が言った。
「わからないわ。大事な部下が他国での救助活動で死ぬなんて耐えられないもの」
「でも、アメリカだってアラスカがやられているんでしょう?こっちの気持ちはわかるはずなのに。そんな位なら来て貰わなくたっていいって思いますよ」三桶一士が言った。
「そうね。それでも、米軍はいないよりはマシよ。確実に救助されている人が大勢いるんですもの。残念だけど今の自衛隊だけじゃ決してやりきれないものね」
「そうですね。仕方ないんでしょうね。いずれにしても上の連中は前線の兵隊の気持ちなんか全く考えてないですから」松山三曹が言った。
「松山三曹、他でそんなこと言っちゃダメよ。営倉に放り込まれるわよ」
「わかってますって。こうなったら、俺達が生存者を一人でも多く見つけないといけませんね」
「ええ、そうね。みんなキツイと思うけどがんばりましょう」
高橋はみんなの話を聞いていて、恵美子は自分の分隊を上手くまとめている事を感心していた。この緊迫した状況の中で的確に命令を下し、さっきは男顔負けの身体能力と射撃の腕前を披露していた。大したものだ。彼女の部下も自分の分隊長を信頼し、与えられた命令を忠実にこなしていた。彼らは、全く女性の現場指揮官だという事を意識していないようだ。ただ、違う意味では有るようだが…。
いずれにしても、彼は、元々彼女にその素質があることは知っていた。通信大隊の時でもチームを率いていたし、運動神経もよく銃剣道二段のうえ、柔道でも三段の高橋を負かす事も有った。彼は、昔から現場指揮官であっても、彼女なら務まると思っていたのだった。
基地に着くと恵美子たちは救助した生存者の搬送、銃の手入れやら弾薬の補給、基地の雑用など色々な仕事をくたくたになりながらこなしていた。数時間後、恵美子は小隊長に呼ばれ本部に向かったが他の隊員達はそのまま仕事を続けた。暫らくすると恵美子が本部から新しい命令を携えて戻ってきた。
「ご苦労さん、あらかた片付いたら宿舎に戻って休んでいいわよ。松山三曹、明日1200時に野営地に出発するから明日の朝はその準備をしてね」
「わかりました。また今日と同じでいいですか?」
「そうね。次は任務が少し長くなりそうだから弾薬と食料を多めに積んでおいて頂戴」
「多めですね。わかりました。それから分隊長、M79を1丁手に入れましたよ」
「あら、凄いわね。どうやって手に入れたかは聞かないわ。どうせあなたが得意の裏ルートでしょ?でも、ありがとう。壊れてどうしようかと思っていたのよ」恵美子はそう言うと笑みを浮かべた。
「隊長のためなら例え火の中水の中ですよ」松山三曹は笑顔で言った。
「今度お礼するわね」恵美子はそう言うとウインクした。
「いいなぁ。三曹、どんなお礼なんでしょうね?」藪野一士が意味ありげに尋ねた。
「それは秘密さ」松山三曹が笑顔で答えた。
「三曹は、なんでも調達できるんですね」長屋一士が羨ましそうに言った。
「この間なんか、どこからか知らないけど米軍のクレイモア地雷とM72ロケットランチャーを持ってきていましたよね」滝沢士長が言った。
「三曹は、そいつには貸しがあるからとか何とか言っていたけど、恐ろしくってそれ以上聞けない」島添士長が言った。それを聞いて他の隊員が笑った。
「でも、今日は役に立ったろ?」松山三曹が自慢げに言った。
「確かに」島添士長が言った。
「この調子だとそのうち90式戦車でも手に入れてきそうですよ」藪野一士が言った。全員が大笑いした。
「あぁ、俺も隊長にお礼してもらいたいなぁ」三桶一士がひがみながら言った。
「あら、いつも感謝しているわよ。だから、松山三曹が手に入れてくれたM79のメンテナンスもお願いね」
「それは藪野の仕事ですよ」三桶一士がミニミ機関銃を組み立てながら不満そうに言った。
「藪野は40ミリ榴弾と携行食料を調達してくる仕事があるのよ。だから、やっぱり三桶がメンテやって頂戴ね。それと、ミニミの弾薬も一杯積んでおいてよ」
「人使いが荒いですね」三桶一士が言った。
「何を言ってるのよ。第3分隊はこれからパトロールなのよ。そっちの方が良いって言うの?」恵美子は、今にも動き出そうとしている第3分隊が乗車した装甲車を指差しながら言った。
「とんでもないです。がんばります」三桶一士はヤバイと思いそう答えた。
「ちゃんと第3分隊の準備もしてあげるのよ」
「はい、わかりました」三桶は、やぶ蛇をつついたと思いながら敬礼して答えた。それを見て恵美子はしてやったりと思い笑顔で敬礼を返した。
恵美子は、他の隊員が仕事にきりをつけるのをチェックしながら眺めていた。彼女は、彼らが事件発生してからこの2週間というもの殆ど休まず働いている事を知っていた。恐らくあまり眠ってもいないだろう。恵美子自身も同じだった。彼女は、フラフラになりながらも仕事を片付けている隊員達を見て“もう少しだからがんばって。いつまでもこんな事が続くわけが無いんだから”と心の中で呟いた。
暫らくして隊員達が仕事を終え宿舎に戻ろうとしている中、高橋がライフルのメンテナンスを終了しジュラルミンケースにしまうのを見て恵美子は声を掛けた。
「高橋士長、これから病院に戻るの?」恵美子は尋ねた。
「ええ、そのつもりですが…」
「そう、もし時間があったらちょっと話があるんだけど」
「いいですよ」高橋はそう答えた。
恵美子は、高橋が片付け終わるのを見届けると彼に合図を送り食堂の方へ歩いていった。彼女は後ろで隊員たちが何か噂をしているのに気が付いたが、そんな事には全く気にとめなかった。
食堂は結構広く80人位は一度に座れそうだった。もう夕方だというのに食事をしている隊員はまばらで、かなりの席が空いており、何処に座っても自分達の話を聞かれる事はないくらいだった。
恵美子は、高橋に席に座るように告げると、コーヒーをヤカンから二つの紙コップに注いだ。そしてフレッシュと砂糖を一つのコップにだけ入れると高橋のところに戻ってきた。
「ブラックだったわよね」恵美子はそう言うとコーヒーだけの方を高橋に渡した。
「ええ、すみません」高橋はそう言うと熱いコーヒーを一口すすった。
二人は暫らく無言でコーヒーを飲んだ。恵美子は何て切り出そうか悩んだ。色々話したい事はあった。だが、何から話し始めればよいかわからなかったのだ。悩んだあげくやっと言葉が出た。
「本当に今日はありがとう」恵美子はそう言った。彼女は“何を言っているのよ。そんな話がしたいんじゃないでしょ?”と自分自身に諭した。
「えっ?ああ、あの時の事ですか?当然の事をしたまでです。感謝されるような事じゃないですよ。他の隊員の援護が自分の仕事なんだし、それにあれくらい誰だって当たるんじゃないですか?」高橋は、彼女が突然何を言い出すのかと思い、少しビックリした様子でそう答えた。
恵美子は、彼が堅苦しい言葉遣いをしていたのでは話しづらいので今は直してもらおうと思った。
「もういいわよ、その言葉づかいは。どうせ誰も聞いていないんだから」そう言って少し間を置いてから続けた。「さっき小隊長も感心してたわよ。200メートル離れたのを1発で仕留めたんですってね」
「そんなに距離はなかったと思うよ。ライフルがいいのさ」高橋は苦笑いしながら言った。
「あら、謙遜ね。それはそうと次の掃討作戦は岐阜市南東部だそうよ。病院から西に十キロほどの辺りね。第1小隊は先行して1200時に出発して病院の隣に本部を設営しに行く事になったの。恐らく掃討作戦が終わったあとも丸一日は爆破の監視と空爆の誘導のために、その野営地に駐屯する事になると思うわ。」
「俺のために?」
「まさか。そな事があるわけないわ。単なる偶然よ」
「そうだよね」
「だから、明日の夜から連続勤務になると思うけど良いかしら?小隊長は本部の設営が出来た時に出頭してくれれば良いって言ってくれたわ」
「いや、明日の朝から手伝うよ、みんなに悪いからね」
「そう、わかったわ。そのように小隊長に伝えておくわ」
「うん、頼むよ」
恵美子は、少し時間を置いて何か思いつめたように言った。「実はね、あなたに謝りたいことがあるの」
「えっ、なに?」高橋は、突然何の事だろうと思った。
「あなたが自衛隊を辞める時に、私はヒドイことを言ったわ。ごめんなさい」
「あぁ、その事。なんとも思っていないよ。それどころか僕のほうがいけないんだ。あとから考えてみたら自分勝手だなって思った。だから、僕の方こそ君に謝らなくてはいけないんだよ」
「あなたは悪くないわ。あの時、私は少し感情的になっていたみたい。あとから冷静に考えてみたら言い過ぎたと思ったわ。だから、それだけはどうしても言っておきたかったの」
「君があの時言った言葉は今でも覚えているよ。自衛隊は私の家族も同然なんだって。その言葉で君がいかに自衛隊を愛しているのかよくわかった。君から思えば僕が自衛隊を辞める理由は君の家族をバカにしているような事だったんだと」
「確かにそんなような事を言ったわね。でも、それをあなたに押し付ける事は間違っていたわ。お互い生活してきた環境が違うんですものね。私には私の、あなたにはあなたの価値観がある。それを変える事なんて誰にも出来ないわ。でもあの時はわからなかった。若かったのかしら」恵美子は笑みを浮かべながら言った。
「何を言っているんだい。今でも十分若いよ。それに魅力的だ。お世辞じゃないからね」高橋はそう言うと恵美子を見た。彼女は少し照れているようだった。高橋は続けた。「僕自身あの時はまだ子供だったと思うよ。精神的にね。だから、自分と違う意見を受け入れる事が出来なかった。視野が狭かったんだね。まあ、今でもそれほど成長したとは思っていないけど…」
「それは私だって同じよ。人がそんなに簡単に変わる事なんて出来ないわ。誰しも失敗をひとつひとつ重ねていくうちに理解出来るようになるんじゃないかしら」
「そうかもしれないね。出来る事なら失敗はしたくないけど」
「そうね。取り返しのつかない時もあるものね」恵美子は悲しそうに言った。恵美子は続けた。「でも、これで心に引っかかっていたものが取れたような気がするわ。ずっと後悔していたのよ。あなたと別れてからね」
「どうしたの?急に。そんな事言うなんて君らしくないよ」高橋は驚いて尋ねた。
「私、ちょっと変かもね。ただ、この状況でしょ。いつ死ぬかわからないから心残りがないようにと思って」
「君なら大丈夫さ。今日は立派だったじゃないか。感心したよ。現場の分隊長だもんね」
「ありがとう。でも最初は大変だったのよ。みんなは女の指揮官なんて、って感じでね」
「でも君はがんばった」
「えぇ、最初は信頼を得ようと必死だったわ。どうしようかって色々考えて。でも2、3回実戦に出たら何てことなかったわ。あれこれ考えたのがバカみたいだった」
「君には素質があるんだよ。僕も何回か言ったじゃないか」
「そうだったわね。でも、再びこうしてあなたと一緒に自衛隊で働く事になるとは思いもよらなかったわ。大野中隊長からあなたが復帰したと聞いて凄く嬉しかったのよ。あなたが生きていたという事と、一緒に働けるという事で有頂天になったわ。不謹慎かもしれないわね」
「そんなことはないさ。僕も君を守山駐屯地で見たときは嬉しかったんだ。こんな状態でなければと思ったよ」
「でも、こんな事が起きなければあなたはここにいる事は無かったわ。皮肉なものね」
「そうだね。だけど、そのお陰で自分のすべき事がわかったような気がするんだ。たくさん大切な人を亡くしてようやく気がついたんだ。というよりその人たちが教えてくれたと言った方が良いのかもしれない。何が大切なのかという事を。人の命の大切さと、人の為にどれだけのことが出来るかという事をね」
「私もそうかも知れないわ。自衛隊で教育されていただけで、今までは知っている振りをしていただけのような気がするわ」
「現実に直面してみないとわからないものだね。僕も自衛隊時代にそれが分かっていたら生き方も変わっていたかも知れない」
「あのまま自衛隊に残っていたかもしれないわね。でも、もし自衛隊に留まっていたらあなたは今頃…」
「死んでいたかもしれない。でもそれは誰にもわからない事だよ。ほんの少しの違いで生死が分かれたんだからね。少なくとも今はこうして生きているんだ。だから、僕達は出来る事、しなければいけない事を精一杯やるしかないと思うんだ。死んだ人たちはやりたくても出来ないんだから」
「そうね。とにかく今はがんばるしかないわね」
高橋はその言葉を聞いて笑みを浮かべた。恵美子はそれを見て不思議な顔をした。
「どうしたの?」
「変わらないね。昔からよく言っていたじゃないか。“がんばるしかない”って。君の口癖だよ」
「そうだったかしら?」
「そうだよ。僕が何か相談しても、最後にはいつも“がんばるしかない”で終わっていたからね」
「人聞きが悪いわね。それじゃまるで相談に乗っていないみたいじゃないの」恵美子はむくれた。
「そんな事は言っていないよ。君らしいなあと思ってね。何だか辞めてから何年もたったとは思えないな」
「あれからもう4年か」恵美子は懐かしそうに言った。そして高橋に尋ねた。「辞めてからどうしてたの?」
「スポーツ用品の店員さ」
「へえー、そんな事してたんだ」恵美子は驚いたように言った。
「意外だろ?自分でもそう思うよ。こう見えても売るの上手いんだよ。去年、岐阜支店のマネージャーになったんだ」
「そうなんだ。私はここ一筋だからあっという間に過ぎちゃったけど、4年もあると色々かわるのね」恵美子は悲しげに言った。
「ごめんね。連絡もしないで」高橋は言った。
「いいのよ。でも待っていたのよ。さあ、行きましょうか。軽装甲機動車を借りたの。病院まで送るわ」恵美子は“待っていた”の所は言ったつもりはなかった。心の中で言ったつもりだった。しかし、高橋には聞こえていた。いや、そう聞こえたような気がした。高橋は席を立つ恵美子に向かって何と言ったらいいかわからなかった。言葉を失っていた。
真っ暗な道を進む車の中で病院までの間、二人は無言だった。お互い何も言い出せないでいた。20分間の道のりは長く暗く、まるで二人の間を隔てる空白の4年間のようだった。
恵美子は思った。この4年間は埋める事が出来るのだろうか?やはり無理なのだろうか?しかし、彼女は、今はそんな事を考えている時ではないような気がした。自分には任務があり、それに支障があってはならないのだ。それに自分の分隊7人の命を預かっているという事を忘れてはならない。自分の判断ミスが彼らの命を奪ってしまう事になるからだ。恵美子は決めた。こんな状況はいつまでも続くはずはない。だから、今は心の中から彼の事を締め出そうと誓った。
病院のメインゲートに着くと恵美子は、積み上げられた土嚢のところで警戒していた歩哨に部隊章を見せた。歩哨が合図をするとゆっくりゲートが開いた。恵美子は車寄せのある正面玄関に車を止めた。
「着いたわ」恵美子が言った。
「ありがとう」高橋は車から降りながらそう言った。彼は扉の前で恵美子に手を振ると病院のなかに入ろうとした。
恵美子は、彼のその後ろ姿を見て声を掛けた。
「ねえ、私もお見舞いに行ってもいいかしら」恵美子は大声で尋ねた。
「ああ、いいよ」高橋はそう答えると、恵美子が病院の駐車スペースに車を停め終るのを待って一緒に美里の病室に向かった。
二人が病室に入ると、直子が美里のベッドの横に座って彼女の顔をタオルで拭いていた。直子は高橋達が近づいて来たのに気付くと顔を上げて少し微笑んだ。そして、彼の後ろにいた恵美子に軽く会釈をした。恵美子もそれに答えた。
「お帰りなさい。高橋さん、今日美里さんが目を覚ましたんですよ」直子が言った。
「えっ、本当に?」高橋は驚いたように直子に尋ねた。
「でも、訳がわからないこと言い出して…。今は鎮静剤で眠っているんです」直子は悲しそうに言った
「訳がわからないこと?なんて言ってたの?」高橋は尋ねた。
「美里さんが、ここは何処って聞くから私は各務原の病院だって言ったんです。そしたら、美里さんは、このすぐそばだから行かなきゃって。それで、部屋から出て行こうとするから、わたし、それを止めようとしたら美里さん急に暴れだして、それで…」直子は最後まで言えず泣き出してしまった。
「大丈夫だよ。大変だったね」高橋は、急に泣き出した直子のそばに駆け寄り肩に手をやり慰めるように言った。
「この近くに家族の人でもいるのかしら」恵美子が言った。
「ああ、前に聞いた事がある。家族が岐阜市に住んでいるって。その人の事かも。ねえ、美里さんが気付いた時、先輩のこと何か言っていた?」
「いいえ、記憶の一部が無くなっているみたいです。先生が言うには精神的ショックによる一時的な記憶喪失だって。それで、記憶が混乱しているらしいんです。いずれ戻るらしいけど…」直子は、そこまで言うと声を上げて泣き始めた。
恵美子は、それを見て直子の方に近づき話しかけた。「大丈夫よ。ちょっと外に出ましょうか。秀人君、しばらく彼女連れて外に行ってくるからね」恵美子は直子の腕に手をやると高橋の方にむかってそう言った。
「ごめん。頼むよ」高橋は恵美子にそう言うと二人が病室を出て行くのを見送った。そして、美里の横に腰掛け彼女の手を握った。
高橋は、少しホッとしていた。少なくとも意識は戻った事は嬉しい事だった。記憶に関してはそのうち戻ると医者が言っていたそうだから時間さえ掛ければ大丈夫だろう。美里が藤岡の事を言わないのは、その部分の記憶をショックで無くしているからに違いない。
高橋は、直子に悪い事をしたと思った。彼女は美里が目を覚まし理解に苦しむ話をし出して暴れた時、どうしたらいいかわからず一人で大変だったにちがいない。しかし、その場所に仮に自分がいたとしても、いったい何が出来ただろう。自分も無力なのだ。
高橋があれこれ考えていると二人が病室へ寄り添うように入ってくるのが見えた。
「少し落ちついたようだわ。彼女もちょっと疲れているみたいね」恵美子はそう言うとあいているイスに直子を座らせた。
「秀人君、明日はいいからここにいなさいよ。私から小隊長に…」恵美子がそこまで言うと高橋は遮った。「ありがとう、でも明日の午後には行くから」高橋はそう言いながら今日の作戦が大変だった事を思い出していた。
「そう、わかったわ。無理なようなら言ってね」
「迷惑かけてごめん」
「いいのよ。それじゃね」恵美子はそう言うと病室から出て行った。
恵美子は、病室を出て薄暗い廊下を歩きながら、さっき帰りがけに病室で見た光景を思い出していた。確かに高橋は彼女の手を握っていた。本当に先輩の彼女というだけの関係なのだろうか?面識はなかったが藤岡先輩と美里さんの事は昔、高橋から聞いた事はあった。それに先日彼は先輩の彼女だとはっきり言っていた。その事は廊下で直子という女性を慰めていた時、彼女が言っていた言葉がそれを裏づけていた。
彼女が言うには、自分は高橋と彼の先輩である藤岡によって助けらた。そして、藤岡が死んだ時、今ベッドに眠っている美里という女性はショックで倒れて意識を失ってしまった。藤岡が死んだのは自分のせいであり、その彼女を自分が看護するのはその償いだという事だった。しかし、恵美子の直感は、どうしてもその事を受け入れる事は出来なかった。
恵美子は軽装甲機動車に乗り込むと、さっきまでいた2階の病室の明かりを暫らく眺めた。そして、首を振り頭の中を空っぽにするとイグニッションをまわしてエンジンをスタートさせ、基地に向かって真っ暗な道を走り去っていった。
高橋は、直子が少し落ちついたようなので毛布を持っていってやった。
「直子さん、少し休んだ方がいい。このままだと君の方がまいっちゃうよ」高橋は毛布を彼女の肩に掛けながら言った。
「ありがとうございます。でも、まだ平気です」直子は、きっぱり言った。
「今夜は俺が付いている事ができるから今のうちに休んで。それに明日の晩から、またお願いしなくちゃいけないしね」
「高橋さんだって疲れているんでしょう?さっき岩田さんから聞きました。24時間以上働いていたんだって」
「お願いだよ。君が倒れたら美里さんだけじゃなく他の患者さんも困るんだから」高橋は、部屋の中をくるりと指差しながら言った。
直子は、この調子ではどう考えても高橋が譲りそうにないので仕方なく休むことにした。
「わかりました。お言葉に甘えて休ませていただきます。おやすみなさい」直子はそう言うと渋々病室を出て行った。
「ああ、おやすみ」
高橋は、直子が嫌々ながらでも休んでくれると言ってくれてホッとした。彼女まで倒れたら大変だからだ。彼女は唯の看護助手とはいっても、今では圧倒的な看護婦不足でこの病院では無くてはならない人になっていた。
高橋は、直子が病室から出て行ってから、美里の横に座り暫らく彼女の顔を見つめた。彼は怖かった。今度、彼女が目を覚ました時、もし藤岡の事を聞かれたらどうすればいいのだろう。いすれは死んでしまった事は言わねばなるまい。その時美里はどうなってしまうのだろう?高橋はいろいろ考えていたがあまりの疲れでいつの間にか美里のベッドに顔をつけ眠ってしまった。
アメリカ合衆国ペンシルベニア州 フィラデルフィア・マイクロ波研究所
リチャードとクリコフが研究所の実験室でデータの整理をしていると、突然スナイプス大佐が部屋の中に飛び込んできた。二人は何事かと思い揃ってスナイプス大佐の方を見た。
「リチャード君。日本政府の承諾がおりたぞ。条件付だがな。装置は完成しているのか?」
「よかった。装置は既に完成して最終チェックも終わりました。それでいつ頃実験の実施が可能ですか?」
「現在進行中の作戦が終了したらすぐだ。恐らく一週間以内には行なえると思う。ただ、実験の実施に関しては生存者への影響がない事が前提だ」
「それは大丈夫です。全く影響はありません」
「向こうも心配なのだろう。日本政府は人体への影響についての報告書が欲しいそうだ。それと、システムの詳細と実験結果もだ。ただ、このシステム自体は国家機密に関わる事だ。ペンタゴンのチェックが必要になる」
「わかりました。至急、人体への影響の報告書を作成して提出します。システムの詳細に関しては既に報告書が完成しています」
「そうか。それではシステムの詳細に関する報告書は私が預かっておこう。もう一つの報告書も出来上がり次第、私に提出してくれ」
「大至急仕上げます。それで、実験の実施場所は決まったのですか?」
「今、日本派遣軍司令官と日本政府が詳細を詰めているところだ。恐らく、日本中部になるだろうな。首都圏では余りにも規模が大きすぎるし、他の都市は余り捗っていないようだ。名古屋の北部、岐阜市という所が第一候補に上がっている。そこが一番早く封じ込め作戦を展開しているようだから」
「聞いた事はないですね。余り大きな都市ではないのでしょうね。まあ、そういう所の方が一番都合もいいですけど」
「そうだな。リチャード、君には現地へ行ってもらう。実施場所を君の目で確認して欲しいのだ。君のOKが出次第、装置を現地に輸送する。ただ、日本中部にアメリカ軍は展開していない。名古屋空港にわが軍の兵站基地があるだけだ。日本派遣軍から一部の部隊を実験の為に裂いてもらう。あとは自衛隊との連携になると思う。現地にいる国防総省のベッカム大佐が自衛隊との調整をしてくれる」
「大佐、私は行ってもいいのですか?」クリコフ大尉が尋ねた。
「クリコフ大尉、本当に行きたいのかね?」スナイプス大佐が言った。
「はい、リチャードだけに危険な所へ行かせるわけにはいきません」
「そうか。恐らくそう言うと思ってロシア政府には許可は取ってあるよ。あちらさんが言うには軍人に危険は付き物だそうだ。“一々そんな事で許可を得るとは律儀な事だ“と言われたよ。もちろんこの間の話は何もしていないから安心したまえ」
「ありがとうございます」
「とにかく、いつ出発してもいいように準備を整えてくれ。出発の許可が出次第連絡する」
「わかりました」
リチャードは研究所の実験室に設置してある電話で妻のキャサリンに日本行きになった事を説明していた。彼は“マイクロ波による人体への影響に関する報告書”をやっと書き終えたばかりだった。長時間パソコンと格闘していた為、この電話をかけるまで頭の中は朦朧としていたが、今はそんなことも忘れ日本に行く事を妻に納得させるという最も重要な任務に血相を変えて取り組んでいた。
「キャサリン。君に相談もせず勝手に決めてごめんよ。でもどうしても日本に行かないといけないんだ」
「リチャード。何故あなたが日本に行かないといけないのよ。軍人じゃないのよ。あなたがそこまでする義務があるの?」
「義務はないよ。でも、プロジェクトのリーダーが知らん顔しているわけにはいかないじゃないか。この実験を成功させる事が人類の為に必要不可欠なんだ。わかって欲しい」
「大事な事はわかるわ。でも、私心配なのよ。ニュースでもやっているけど日本では感染者が多すぎて自衛隊が苦労しているって。そのためにアメリカ軍が派遣されたんでしょう?そんな所にあなたが行くなんて…」
「大丈夫だよ。そのアメリカ軍が僕達を守ってくれるんだ。それに、僕が行くのは安全が確保された基地の中だけで、危ない所には行かないんだからね」
「本当に危なくないのね。嫌よ。あなたにもし何かあったら私…」
「心配しないで。すぐ帰ってくるよ」
「本当に無事に帰ってきてね」
「もちろんだとも。それじゃ準備があるから」
「わかったわ。気をつけてね。愛しているわ。リチャード」
「僕も愛しているよ。キャサリン」リチャードはそう言うと受話器を置いた。ふと気が付くと彼の後ろでクリコフが微笑んでいた。
「クリコフ大尉。聞いていたのかい?」
「ああ、まあね。でも、嘘はいけないな。基地の中だけだなんて」
「ああでも言わないとキャサリンは行かせてくれないよ」
「まあ、そうだろうな。俺の妻も心配しているんだろうか」
「すまない。君の事をすっかり…」
「いいよ。これが成功すれば妻に会えるんだからね。多分…」
「ああ、そうだな。きっと会えるよ」
日本岐阜県 各務ヶ原
高橋は、突然聞こえてきた地響きのような爆発音で目を覚ました。彼は一瞬自分が何処にいるのかわらなかった。彼はイスに腰掛けたまま美里のベッドにもたれかかっているのを理解すると体を起こし伸びをした。
「眠ってしまったのか」そう独りごとを言うと腕時計で時間を確認した。針は午前6時をさしていた。遠くから再び爆発音が聞こえた。高橋は、この爆発音で美里が目を覚ますのではないかと思い彼女の眠っている顔を見つめた。しかし、依然として鎮静剤が効いているのか全く目を覚ますような気配は無かった。病室の他の患者達は何が起こったのかというようにベッドから起き上がっていた。立てる人は窓際に行って不安そうな顔をして外を眺めていた。今の爆発はここから20キロメートル以上はなれている。それなのに、これほどの音が響きわたるとなると、明後日の爆破の時にはここの人たちは腰を抜かすのではないかと高橋は思った。
暫らくすると直子が眠そうな目をこすりながら病室の入り口までやって来た。そして、美里の横に座っている高橋を見つけると驚いたような顔で見つめた。
「おはようございます。ずっとここにいたんですか?」直子は目を丸くして言った。
「ああ、おはよう。ここで眠ってしまったようだ。直子さんはよく眠れたかい?」
「ええ、おかげさまで。すごい音ですね。何の音ですか?」
「奴らを市街地に閉じ込める為に、周辺の建物を爆破しているんだよ。明後日は岐阜市南東部の番だけどね」
今度は何機もの飛行機の爆音が聞こえ始めた。
「今度は、飛行機による空爆だよ。残った建物を爆弾で破壊するんだ」高橋はそう言いながら廊下に出て北側向きの窓の方へ向かって歩いていった。窓を開けると岐阜市北部の方で真っ黒い煙が物凄い勢いで立ちのぼっているのが見えた。そして、空には編隊で飛ぶF15が爆音を轟かしながら飛んでいった。
直子は高橋のそばに近寄った。
「建物を壊すって、もう誰も残っていないんですか?」直子は疑問に思い尋ねた。
「多分。でも100パーセントではない」高橋は悲しそうに言った。
「仕方ないんでしょうね。他の人を守るには」
「そうだね。理不尽な事が多いんだよ」高橋がそう言うと市街地の方から大きな爆発音が連続して聞こえてきた。さっき飛んでいった飛行機が爆撃し始めたのだ。病院の上空には再び何機もの飛行機が爆音を轟かせながら岐阜方向に向かって飛び去っていった。岐阜基地だけではなく小牧空港からも飛来している。今回の作戦では航空自衛隊だけではとてもカバーしきれないので米軍による航空機の支援もあるというの事だった。
高橋は、岐阜市北部から出る真っ黒な黒煙が空を覆い尽くすかのように広がっているのを見て、あまりにも忍びなく窓を閉めた。
廊下では泣きながら座り込む人や誰かの名前を呼びながら窓枠を叩いている人が何人もいた。家族がその辺りに住んでいたのだろうか。とても声をかける事ができる雰囲気ではなかった。
高橋は、目を伏せながら病室に戻ると美里の眠るベッドの傍に腰掛けた。暫らくすると美里に掛けてある毛布が僅かに動いているのに気がついた。高橋は立ち上がると美里の耳元で彼女の名前を呼んだ。
「美里さん。聞こえる?」
直子も高橋のそばに行き美里の顔を見つめた。
美里は「うぅ」と唸ると、少しずつ目を開けた。
「目が覚めたようですね」直子が言った。
「美里さん。俺だよ。高橋だよ。わかる?」高橋は美里の手を握りそう言った。
美里は目を完全に開けたが目の焦点が合っていないようだった。恐らくまだ鎮静剤が効いているのだろう。
美里は、ボンヤリしていた室内の様子が徐々にはっきりと見えはじめたのだが、今度は地響きのような大きな音で頭が痛くなってきた。彼女は高橋の手を振り払って手のひらを耳に押し当てた。
「なあに?この音。うるさい」美里はそう言って首を振った。
「ねえ、秀人だよ」高橋は自分の顔が美里に見えるように真正面に近づけて話した。
美里は訳がわからないうえ、目の前にいる人が誰かまったく理解できず、鬱陶しそうにその顔を横にはね飛ばした。
「あなただれ?何しているの?」
「僕だよ!わからないの?」高橋はショックだった。美里は自分の事を覚えていないのだ。
「美里さん、直子です。わかります?」直子もその光景を見て驚き咄嗟に尋ねた。
「うるさいわね!あなたたち何よ?!何故ここにいるの?離してよ!」美里はそう言うと二人をはねのけようと両手をばたつかせ、体を起こそうとした。
高橋はこのまま美里が立ちあがっては危険だと思い、力一杯彼女をベッドに押さえつけた。
「美里さん、じっとしてよ!」高橋は言った。
美里は、高橋が体重をかけてベッドに押し付けていたのでまったく動く事が出来ず少し大人しくなった。
「あなた!ここ、岐阜の病院だって言ったわね!」美里は体の自由が奪われたのが悔しくて直子に顔を向け怒ったように言った。
「岐南病院です」直子は美里の形相があまりにも怖かったのでおろおろしながら答えた。
「私の家、この近くだから帰らなくちゃいけないのよ。私はもう大丈夫だから離して!」
「ダメだよ!外には出られないよ。わかっているだろ?」高橋は彼女をなだめるように言った。
「いいから離して。そばにこないで頂戴!家に帰るんだってば!」
「大人しくしてよ。美里さん。お願いだから」高橋は頼んだ。
「嫌よ.!あなたたち何の権利があって私にこんな事するのよ!」美里は悔しくて泣きながら叫んでいた。
高橋は完全に狼狽していた。こんな美里を知り合ってから一度も見たことがなかった。まったく別人のようだ。美里は自分がまるで誘拐でもされかけているかのように、その場から逃げ出そうと渾身の力をこめて高橋の手を振りほどこうとしていた。
直子は、またこの前と一緒だという事にショックを受けた。いずれにしてもこのまま美里が大人しくなるとはとても思えなかった。
「私、先生呼んできます」直子はそう言うと病室を飛び出した。
「ねえ美里さん、よく聞いてよ。今は外には出られないんだよ。危ないんだから。藤岡先輩の事わかるだろ?」
「藤岡?」美里はそうくり返すと一瞬パタリと動きを止め、何かを思い出したかのように名前を呟いた。「よしあき?」
「そうだよ!ちゃんと覚えてるじゃないか!」
「知らないわよ、そんな人!行かせてよ。お願いだから、誰か助けて!」美里は再び暴れだし悲鳴に近い声で叫んだ。
その時、ドクターと看護婦2人が注射器と薬品のアンプルを持って病室に駆け込んできた。その後ろに直子が目を潤ませながら続いた。
「どうしました?!」
「暴れて出て行こうとするんです」高橋は美里を押さえつけながら言った。
「少し押さえておいて下さい」
「はい!」直子はそう言うと高橋と反対側に周り二人で美里を押さえた。
ドクターはアンプルから注射器に取り込んだ。そして、高橋が押さえつけている方の腕を捲くり消毒すると一気に薬剤を注入した。
美里は暫らく泣きじゃくりながら暴れていたが、数分したあたりから徐々に動きが緩慢になり大人しくなっていった。
「ふぅ、なんとか落ちついたようですね。鎮静剤と睡眠薬を打ったので、また暫らく眠るでしょう」
「先生、どうなってるんですか?俺達の事覚えてないみたいだけど。記憶喪失なんですか?」
「恐らく、ショックで一部の記憶を無くしているんでしょう。無意識の内に思い出したくないという気持ちがそうさしているのかもしない。よくあるんです。でもいずれは思い出すとは思います。いつかはわかりませんが…」
「そうですか。ありがとうございました」高橋はそう言ってイスに座った。
「それじゃ、また何かあったら呼んでください」ドクターはそう言うと看護婦と共に病室を出ていった。
「ありがとうございました」直子は廊下まで一緒に出てそう言うと頭を下げて見送った。直子は病室に戻ると美里の顔を眺めて溜息をついた。
「この前と一緒です。この前も私の事はわからなかった。でも、高橋さんの事まで知らないなんて、ましてや、藤岡さんの事までも…」直子は藤岡や高橋の事まで美里が忘れてしまっている事にショックを受けて泣きながら言った。しかし、最後まで言う事は出来なかった。
「大丈夫だよ。いずれ思い出すさ。直子さん泣かないで」高橋は直子の肩に手をやり慰めた。
「美里さん、かわいそう」直子はそう呟くとイスに座り込みずっと泣いていた。
高橋もイスに座った。彼は頭が真っ白になった。まさか自分の事まで忘れているとは。それどころか藤岡の事も知らないと言った。信じられなかった。そんな事があるのだろうか?しかし、藤岡の名前を出した時、“よしあき”と確かに呟いた。一瞬思い出したのではないのか?でもそのあとは支離滅裂だった。それにあの豹変ぶりはただごとではない。いつもの優しい美里さんはどうしてしまったのだ。本当にあの優しかった美里さんに戻ってくれるのだろうか?
高橋は、今では眠っている美里の顔を見ていると、まったくいつのも穏やかで優しい美里であり、とても数十分前に高橋と格闘していた人とは思えない。とりあえず信じよう。先生がいずれ戻るといった言葉を。それまでは、どんなに日数が掛かろうとも自分は元の美里に戻ることをひたすら信じて待ちつづけようと誓った。
日本岐阜県 各務ヶ原
「そろそろ出かけるよ。美里さんが気付いて、またさっきと一緒だったら先生を呼んで鎮静剤を打ってもらうんだ。わかったね」高橋は直子にそう言うとライフルを肩にかけて出かける準備をした。彼も本当はこのままここで美里の看病をしたかった。しかし、美里をこの病院に入れてくれた大野中隊長や自分の事に目を掛けてくれている宮田小隊長を裏切るわけにはいかない。ましてや、一緒に戦った分隊のみんなをほっといて、じっとしていることなど出きるはずもなかった。その事は直子わかってくれていた。恐らく美里もわかってくれるだろう。
「わかりました。でも出来るだけ早く帰ってきてくださいね」直子は少し不安げに言った。彼女は心細かった。美里がまた気が付いた時あの悪夢のような光景がくり返されたらと思うと高橋に一緒にいて欲しかった。
しかし、高橋は今では重大な任務を背負ってしまっているので、そんなことはとても言える訳はなく、ましてや自分から美里の看病を買って出たのだ。今さら泣言はいわないでおこうと思った。
「ああ、わかってる。それじゃ頼むよ」
「はい、いってらっしゃい」
「美里さん、行ってくるからね」高橋は眠っている美里の顔を見つめて呟いた。
病院の横の空き地にはすでに第1小隊が到着していた。大勢でよってたかって本部の設営をしていた。高橋は、小隊長の所に出頭して、迷惑をかけたことを謝罪した。宮田小隊長は快く受け入れてくれた。宮田にしても元々そのつもりだったので、どうっていうことはなかった。
高橋は宮田のところをあとにすると第2分隊の隊員を探した。彼らは、陣地の左翼の警戒をしながら本部の設営をしていた。高橋はその中に松山三曹を見つけると近づいた。
「松山三曹、遅れて申しわけありませんでした」
「高橋士長、謝らなくてもいいですよ。分隊長から聞いていますから」
「ありがとうございます。でも、自分だけ勝手なことをしているんですからみんなに申し訳なくって」
「まあ、いいじゃないですか。条件付で大野中隊長に強引に引き戻されたんでしょう?それを活用しない手は無いですよ。それに見合う働きもしているんだし。それはともかく高橋士長は看病する人がいるだけでも幸せかもしれませんよ。みんな羨ましがっています」
「そうかもしれません。ところで分隊長が見あたりませんが?」高橋はあたりを見回しながらそう言った。
「今、他の分隊長とブリーフィングしています」
「そうですか。松山三曹、指示をお願いします」
「三桶たちと一緒に土嚢積みやってもらえるかな。でも高橋士長に三曹って呼ばれると何か恥ずかしいね。自分は特別昇級で三曹になっただけで陸曹教育隊に行ったわけじゃないし。実際、自衛隊経験は高橋士長の方が長いんだからね」
「ほんの少しですよ。それに平時の1年より今の1日の方が勝るんじゃないですか?大体、自分は臨時雇いですから遠慮せずにどんどん命令してください」
「そう言ってもらえると気が楽ですよ」
「全然違和感は無いから心配しなくてもいいですよ。松山三曹は自分が入隊したばかりの時に所属していた班長と比べたらよっぽどしっかりしています」
「ありがとう」
高橋は松山三曹に敬礼すると少し離れた所で土嚢積みをしている三桶達の所に行き遅く来た事を謝った。分隊の隊員たちも恵美子から聞いていたらしく嫌な顔もせず受け入れてくれた。
「高橋士長の分は残してありますからね」三桶一士が言った。
「優しいね、君達は。涙が出るよ。三桶一士、スコップを貸してくれないか」
「はい、どうぞ」三桶一士はそう言いながら高橋にスコップを渡すと続けた。「それはそうと、高橋士長は奥さんがみえるんですか?」三桶一士は尋ねた。。
「いや、いないよ。どうして?」
「女性の看病で病院に付きっきりって聞いたもんで」
「入院しているのは知り合いの女性さ。いろいろあってね。分隊のみんなもまだ結婚していないんだろう?」
「ええ、自分達はまだです」三桶は藪野に目配せしながらそう言った。そして今度は少し離れたところに停まっている装甲車で無線機の整備をしている尾上士長を見つめると続けた。「尾上士長は結婚しているんですが、どうやら奥さんはダメだったらしいです。尾上士長はあの当日、奥さんが心配で隊を抜け出して官舎へ行ったらしいんです。でも、行って見たら部屋には誰もいなかったって。多分買い物で外出していたんだろうって」三桶一士は悲しそうに言った。
「そうなのか。辛いだろうな」高橋が言った。
「自分はその話をしている尾上士長を見ていられなかったですよ。それを思うと自分達は結婚していなくてよかったと思います。ただでさえ親父やお袋のことが心配なのに、この上、嫁さんの事まで心配しないといけないなんて。ましてや子供がいたとしたら自分には耐えられないですよ」藪野一士が言った。
「尾上士長が言っていました。“じっとしていたら頭がどうにかなっちまう“って」三桶一士が言った。
「誰も一緒だな」高橋はポツリと呟いた。
「じゃないとこんな事していられないですよね」藪野一士が土嚢を積み上げながらそう言った。
「まったくだ」高橋はそう言うとスコップを地面に突き立てた。
暫らく彼等と一緒に本部の設営を手伝っていると何処からか恵美子が戻ってきた。
恵美子は、高橋を見つけると昨日見た病室での光景が脳裏をよぎり、何か悲しい思いに襲われたが、病院からの帰り道に誓った事を思い出しながら、さりげなく高橋に声をかけた。
「大丈夫なの?彼女」
「今日も気が付きました。でも、自分の事覚えていないんです。先輩の事も」高橋は悲しそうにいった。
「そう、大変ね。でもまた思い出すんでしょう?いずれは」
「ええ、たぶん。でもいつかはわからないそうです」
「元気出してね。私にできる事があったら何でも言って頂戴」そう言うと恵美子はその場を離れていった。
「ありがとうございます」高橋はお礼を言うとまた仕事に戻った。
小隊が本部の設営が終わる頃、大野中隊の本隊がやってきた。本部で小隊長を集めてブリーフィングすると今度は小隊長が分隊長に同じ事をおこなった。
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