第二章

日本愛知県守山 


5月10日夜、高橋は、忙しかったゴールデンウィークも終わり、2週間も休みの無い長い勤務から開放され、何ヶ月かぶりに高校の先輩である藤岡義明の所に遊びに来ていた。

藤岡は、高橋の2才年上で、高橋が高校へ入学して柔道部に入ったときのキャプテンだった。最初はやたら厳しいだけの先輩であったが、暫くすると何かにつけて高橋の面倒をよく見てくれるようになり、よき相談相手になってくれた。彼は、彼女の事や夜遊びの事のような、たあいもない話だけではなく、就職の時や父親が死んだ時も親身になって話を聞いてくれたし、良いアドバイスもしてくれたのだった。

彼らは、妙に馬が合い高橋が高校を卒業して7年たった今でも、色々と理由をつけては一緒に飲みに行ったりしていた。そして、柔道部時代の思い出や、女の子の事、仕事の事などの話をしながら、いつも朝方まで飲み明かしていたのだった。今では先輩後輩というだけでなく親友といっても良いくらいの間柄であった。

藤岡は、責任感と正義感が強く人から頼りにされる人柄だった。恐らくそれは、彼が小さい頃から色々苦労をしていた事によるものなのだろう。彼は母親を20年程前になくしており、それから藤岡が専門学校を卒業するまで、父一人子一人で掃除、洗濯、食事など、お互い協力しながら生活をしていた。その後、父親の仕事の都合で別々に暮らしてはいたが、彼の父親に対する感謝の気持ちと尊敬の念は人一倍強かった。

しかし、その父親も3年前、不慮の交通事故で他界してしまった。その時、藤岡は、そのかけがえのない人を失ってかなりショックを受け、病院の待合室でずっと泣いていたという。

高橋は、彼の父親に何度か食事に連れて行ってもらったことがあり、気さくで話のわかるとてもいい人だったので、その葬儀の時には藤岡の気持ちを思うと泣いてしまったが、藤岡はその時には涙一つこぼさず気丈に葬儀をこなしていたのだった。

柔道三段で、いかにも格闘家らしく見える藤岡には違う一面もあった。彼は見た目とは違ってコンピューター好きで、高校時代から自分でプログラムを組んだり、インターネットでホームページを作ったりしていた。

高橋は、藤岡が机に向かってキーボードを打ち込んでいる姿を見るたび、180センチの身長があって体格もかなり大きい藤岡がパソコンの前に座っている様があまりにも滑稽で“まるで熊がパソコンをいじっている様だ”とさんざんバカにしたものだった。しかし、彼は高校を卒業すると情報処理の専門学校に行き、今では某ソフト会社のSEをやっていた。

彼の勤めている会社は、結構、時間的に融通が利くらしく、ゴールデンウィークの連休が終わったばかりだというのに、高橋のため翌日は休みを取ってくれていた。

今は名古屋の守山区で同い年の中村美里という彼女と同棲していたが、その彼女も高橋の事は弟のように可愛がってくれた。

高橋は、その日の夜も守山まで来て、藤岡といつもの居酒屋“おいしんぼ”で一緒に飲んでいた。今回は特別で、藤岡と美里が結婚することになったので、その前祝の飲み会であった。

高橋は以前から「もう長いあいだ同棲しているんだから早く結婚しなよ。美里さんが、かわいそうじゃないか」と藤岡にしつこく言い続けていた。

しかし、藤岡に「おまえに人の事が言えるのか」と切り替えされ、返答に困り、そこで話が終わってしまう事が常だった。

ところが数週間前、藤岡から「この秋、美里と結婚する事にした」という連絡があり、高橋は時間を作って、お祝いに駆けつける事にしたのであった。

時間も11時を過ぎると店は暇になってきたので、いつもの事ながらマスターの熊沢もカウンター越しに参加して3人で飲んでいた。マスターの熊沢は年が二人と同じくらいだということもあって話もよく合うし、愛想もいいのでプライベートのときも一緒に遊んだりしたこともあった。ましてや、この店の魚料理は格別美味いので高橋と藤岡はしょっちゅうここで飲み明かしていたのだった。

「先輩。おめでとう」高橋が言った。既に何度目かのお祝いの言葉だった。

「藤岡さん、おめでとうございます」熊沢が言った。3人は乾杯した。

「高橋、マスター。ありがとう」

「藤岡さん。結婚する人っていつも連れてくる、あの綺麗な人でしょ?」熊沢が言った。

「マスター、当然だよ。他に先輩が結婚する人なんているわけがないじゃないか」

「ちょっと待てよ高橋。それって俺が他の女にはモテないとでもいうような言い回しだな」

「被害妄想じゃない?」高橋がそう言うと藤岡は肘で小突いた。

「本当に綺麗ですものね。美里さんでしたっけ?あの人が店の中に入ってくると他のお客さんが振り向いていましたからね。あの人はいいですよ。いつもニコニコして人当たりもいいし、賢いし、よく気がつくし。いつもそう思って見ていましたよ。お二人の時は話し掛けるのも悪いみたいでしたからね」熊沢が言った。

「そうだったかな?いつも話しに割り込んできていたような気がするんだけど…」藤岡が言った。

「バレました?実は僕のタイプなんですよ。スタイルも抜群ですもんね。いいなぁ。羨ましいですよ」

「何を言ってるんだ。マスターの奥さんも美人じゃないか。そんなこと言っているとママに言いつけるぞ」藤岡は奥で働いているママを覗きながらそう言った。

「わっ、それだけは勘弁してください。でも、綺麗なものは綺麗なんだから正直に言ったっていいじゃないですか。ねぇ、高橋さん」熊沢は高橋に助けを求めた。

「まあ、良いか悪いかは別にして、美里さんの事は誰でもそう思うんじゃないかな。とにかく、先輩にはもったいない位だよ」

「何だ?高橋はお祝いに来たんじゃなくて、けんかを売りに来たのか?」

「違うよ。それだけいい人なんだから大事にしなよって事さ」

「わかっているよ。高橋に言われるまでもないさ」

「それならいいけどね」

「藤岡さんのあとは高橋さんの番ですよね」

「俺はいいよ。そんな気ないしさ」

「高橋は人の事ばかり世話を焼いているわりには、自分の事はまったく無頓着だからな。最近は女の子をとっかえひっかえして遊んでいるようだけど、いったいどれが本命なんだ?」藤岡が尋ねた。

「高橋さんは遊びすぎですよ。いつも店に違う女の人を連れてくるから話を合わせるのが大変なんですからね」熊沢が苦情を言った。

「ちょっと二人とも人聞きの悪い事を言うね。みんな友達だよ。彼女だなんて一度も言っていないじゃないか」高橋は不満げに言った。

「それはそうだが、そろそろ真剣に考えた方がいいんじゃないか?大体、自衛隊の時に付き合っていた年上の彼女はどうしたんだ?近頃あんまり話を聞かないけど」

「そう言えば自衛隊の彼女は何度か店に連れてきた事がありましたよね。最初は自衛官だとは思いませんでしたよ。話を聞いてビックリしましたからね。結構美人だったじゃないですか?」熊沢が思い出したように言った。

「二人ともいつの話しているんだよ。もう何年も前のことじゃないか。とっくに別れたよ」

「そうなんですか?いい感じの人だったのに」熊沢が言った。

「マスターに言わせると、みんないい人になるんじゃないの?」高橋が突っ込んだ。

「当然です。みんなお客さんですから悪口は言いません」

「いい加減だな。という事は美里の事もそういう意味なんだな」藤岡が言った。

「いいえ、違いますよ。美里さんのことは本当です」

「だったら、俺の彼女の事は?」高橋が言った。

「それも本当の事です。本当ですったら…」熊沢は泣きを入れた。

「まあ、信用しておくか。それはともかく、高橋はもう少し真面目に女性と付き合ったほうがいいと思うけどな。と言っても俺の言う事を聞くとは思えんが…。美里に言って貰えば聞くかな?」

「ちょっとやめてよ。美里さんに言うのだけは勘弁してよ。頼むからさぁ」高橋は手を合わせて頼んだ。

「冗談だよ。そんな事、口が裂けても言わんよ。俺まで美里に叱られるからな。まあ、高橋の場合は一種の病気かもしれん。よっぽどいい女じゃないと治らんかもな。なあ、マスター。高橋に誰かいい人を見つけてやってくれないか」

「わかりました。藤岡さんの彼女に負けないような人を紹介しますよ。でも、まったく心当たりないですけどね」

「最初っから期待していないよ。それより、明日の人工衛星のことテレビで見た?午前中に日本の上空を通るんだってさ」高橋は無理やり話を逸らした。

「ワイドショーでやっているの見ましたよ。あれは燃えてなくなるらしいですね」熊沢が言った

「ああ、そうだろうな。大体の人工衛星は大気圏に入れば燃えてしまうんだろう。元々そんなに丈夫に作っていないんじゃないかな」

「燃え残った部品が落ちてきたらえらい事だよな」高橋が言った。

「マスター、この店に落ちてきたらどうする?」藤岡が言った。

「泣きますよ。その場合どこに損害賠償の請求をすればいいんですか?」

「さあな。ロシアにでも請求したら?」

「そんなの無理ですよ。英語でさえわからないのにロシア語なんてさっぱりですからね。日本政府が替わりに請求してくれればいいけど」

「やってくれるかな?」

「仮にやってくれたとしても、支払われるのは何年先のことだか」

「そうですよね。結局泣き寝入りする事になるのかな?」

「マスター。この店、保険に入ってないの?」高橋が言った。

「そんな事で保険っておりるの?」熊沢が藤岡に尋ねた。

「知らんよ。俺は保険屋じゃないんだから」

「そりゃそうだ。まあそんな事どうでも良いや。どうせ落ちてこないんだし。難しい話はやめよう。先輩、そんな事より飲もうよ。乾杯!」高橋はそう言ってビールのグラスを掲げた。

「乾杯」3人はそう言うとグラスを空けた。


その後も高橋は、まるで自分にいい事があったかのようにはしゃぎまくり、居酒屋を出たあと引き続き藤岡のマンションに移動し、今度は美里も含めて3人で飲むことにした。高橋が泊り込みで飲みに来るのはいつもの事だったが、美里も高橋がわざわざ婚約のお祝いをしに来てくれた事を喜び、もう食べられないと言う高橋の言葉を無視し、つまみをたくさん作ってもてなしてくれた。

美里は藤岡と専門学校の時のクラスメイトで、彼らは知り合ってすぐに付き合いだした。

高橋が高校3年生の頃、藤岡に初めて美里を紹介された時は、あまりの美しさに挨拶をしただけで、そのあと一言も言葉が出てこなかった。彼女は、まるでファッション雑誌から抜け出してきたようで、高校生の高橋にはまるで別世界に住んでいる人のように思えた。

その時、藤岡は赤くなっている高橋を見て「俺の彼女だって紹介しているのに、何をおまえは照れているんだ」とからかった。更に美里も「高橋君、真っ赤になってかわいい」と追い討ちを掛け、その言葉に更に顔が赤くなり、その場から逃げ出したい気持ちを押さえるのが大変だった思い出がある。結局、高橋はその日、彼らとどんな話しをしたのかさっぱり覚えていないくらいだった。

美里の両親は健在で、今は岐阜市に住んでいて、仲のよい弟と妹がいた。妹の裕美子はすでに結婚して同じ岐阜市に住んでおり、1歳になる由希子という子供もいた。

弟以外の家族には、それほど距離もないため度々会うことは出来たのだが、特に仲の良かった弟は仕事で東京に行っており、なかなか会う事が出来なかった。

それで、その弟とちょうど同い年の高橋を重ね合わせていたのだろう。まるで本当の身内のように色々と世話を焼いてくれた。高橋の誕生日とかには、毎回のように何がしかのプレゼントをしてくれたり、食事をご馳走してくれたりした。高橋が今している腕時計も2年前の誕生日に美里がプレゼントしてくれた物だ。彼はこのタイメックス・エクスペディションをとても気に入っており、そんなに高価な物ではないが大切にしていた。

暫くして、藤岡と美里が同棲するようになったと聞いた時、高橋はちょっとショックを受けた事もあった。しかし、それから3年以上経過した今では、そんな感情もどこかへ行ってしまい、とても居心地のいい空間でしかなかった。

高橋は頃合を見計らって、とっておきの婚約祝いのプレゼントを二人に渡した。

「先輩、美里さん婚約おめでとう」

「ありがとう」二人は照れながら揃ってお礼を言った。

「さっきはそんなのがあるなんて言わなかったじゃないか」藤岡が言った。

「これはね、二人にというより美里さんに買ってきたんだよ。いつもお世話になっているからね」

「あら、秀人君。嬉しいわ、何かしら?」美里はそう言うと嬉しそうにプレゼントを開けた。そして美里は綺麗なリボンで包装された包みの中に入っているガラス細工のオルゴールを手にすると「まあ、ステキ!秀人君ありがとう。大事にするわね」といって高橋の腕をとった。

「気に入ってもらえて嬉しいよ。プレゼントした甲斐がある」

「なんだそりゃ、俺には全く関係ない物じゃないか」藤岡が文句をいった。

「だから言ったじゃない。これは美里さんに持って来たんだって」

「確かに、美里に世話になっているっていうのはわかるけど、俺の方がもっとお前の面倒をみてるんじゃないかなぁ」

「義明。そういう物の考え方はよくないわよ。親切の代価を求めちゃいけないわ」

「俺はそういう意味で言ったんじゃなくって…」

「あっ、わかったわ。義明。妬いてるのね?」

「何で俺がやきもちを焼かないといけないんだ」

「あら、違うの?」

「違うに決まっているだろう!」

「ちょっと、二人とも喧嘩しないでよ。ところで、美里さん。婚約指輪見せてよ。貰ったんでしょう?」

「うん、これよ」美里は照れながらそう言うと左手の薬指にはめてあるダイヤの指輪を見せた。

「凄いね。高そうじゃない?」

「そうでしょう?貰った時はビックリしたわ。突然買ってきちゃうんだもの」

「なんだ?一緒に買いに行ったんじゃないの?」高橋は藤岡に尋ねた。

「何度か一緒に見に行ったんだよ。でも全然ダメ。美里にどんなのか良いか聞いても高いのは要らないって言うだけで話にならないんだ」

「美里さんらしいね」

「だって、結婚式とか色々お金かかるじゃない?だから婚約指輪は形だけでいいからって言ったのよ。そうしたら、義明が“俺が買って来るから楽しみにしてろ”って。それがこれだったのよ」美里はそう言いながらも嬉しそうだった。

「でも、美里さんは気に入っているようだね」

「もちろん」美里はきっぱりと言った。

「よかったね、先輩。気に入ってもらえて」

「当然だよ。大奮発したんだ。これで気に入らなかったら俺は家出してるよ」

「あら、義明。そんな事思っていたの?」

「あっ、嘘です」

「先輩、弱い」

「やかましい!」藤岡がそう言うと、高橋と美里は大笑いした。それからも3人は大騒ぎして明日の衛星落下の事や他愛もない話題を酒の肴にしながら朝方まで飲んだ。最後には衛星の落下する時間に外で見てみようという事になったが、結局、みんな酔っ払ってしまい、その頃はまだ3人とも寝てしまっていた。


ギリシャ クレタ島 NATO軍基地


格納庫の中で強烈な投光機の光を浴びているロッキードC―130ハーキュリーズ輸送機の周りでは完全武装のアメリカ軍海兵隊1個小隊が警備していた。その表情はいずれも険しい顔をしており誰か不審な人物が近づいてきたら躊躇すること無く撃つだろう。

輸送機の尾翼には鷹がナイフを抱いたマークがくっきりと浮かび上がっていた。そのマークはアメリカ空軍第104特殊輸送隊のシンボルであり隊員たちはそのマークを誇りに思っていた。一般的に輸送部隊は戦闘機などに乗る第一線のパイロットたちと比べると格下に思われていた。給油、整備、滑走路の割り当て、何でもかんでも後回しになるのだ。しかし、特別な貨物を運ぶ彼らが任務を遂行するときには離着陸からコースの選択まで、すべてに最優先させることできる特別権限が与えられていた。それもこれもこの尾翼に付いたマークのお陰だ。

輸送機の貨物室では3人の輸送隊員が海兵隊員に見守られながら厳重に梱包された貨物を特別あつらえの固定器に取り付けていた。サミュエル・ロックウッド少佐はその作業が何の手落ちも無く完全に行われるのを満足そうに眺めていた。彼は何度か同じような任務に就いてはいるがその度に緊張が走る。その原因はこの荷物のお陰だ。二種類の異なった大きさの収納容器が2個ずつ、その貨物の横にはいずれも黄色の核物質を表す目印が付いていた。大きな容器がB―61―11核爆弾で小さい方がW-50核弾頭だ。B―61―11はバンカーバスターとも呼ばれており地下深くにある司令部などを攻撃するための核爆弾だった。この11タイプは最新式で核出力も可変式になっており10キロトンから500キロトンまで調節できる。そしてもう一種類は既に退役したパーシングⅠ短距離弾道弾ミサイルに使われていた核弾頭だった。これは旧式だが核出力200キロトンの破壊力がありこれ一発で小都市を完全に破壊することが出来る。もちろんこれらの核弾頭には安全装置が付いているので仮に床に落としたところで核爆発はしない。とは言えこんな核弾頭を積んで空を飛ぶなんてあまり気分の良いものではなかった。


サミュエル・ロックウッド少佐はイラク戦争のときはF―16ファイティングファルコンでイラクの空を駆け回ったパイロットだった。しかし、イラク軍基地の爆撃ミッションを成功させ基地に帰る途中、地上からの猛烈な対空砲火にあい負傷してしまった。破片が目に入ってしまったのだ。辛うじて基地には戻ったのだが、その怪我のお陰で視力が落ちてしまいパイロット生命が断たれ地上勤務を言い渡されてしまった。彼としてはいくら軍からパープルハート勲章をもらったとはいえ飛行気乗りとしてはどうしても地上勤務は受け入れることが出来なかった。一時は退役まで考えた。ある時、それを見かねた上官があちこち根回ししてちょうど空きがあったこの輸送隊に転属させてくれたのだった。最初ロックウッドは断ろうと思った。“今まで最新鋭戦闘機に乗り、マッハ1以上のスピードで大空を駆け回っていたのに、今更輸送機などに乗れるか!”という気持ちが心の奥にあった。パイロットとしての傲慢なプライドが許さなかったのだ。しかし、上官からの説得とパイロットとしてではなくとも飛行機に乗れるということで引き受けることにしたのだった。

それから5年ほどたつが既に15回以上の特殊任務をこなしていた。今回の任務はこの化け物のような核弾頭を4発、このギリシャNATO軍基地から日本の厚木基地に運び、太平洋第7艦隊へ引き渡すのだ。これは中東問題から波及して全世界的にテロが頻発しており、ここギリシャも安全ではなくなっていた。万が一にもテロリストたちに奪われないようにする為、不要な武器を撤去する必要があったからだった。そもそもギリシャ政府にでさえこの基地に核弾頭が保管してあること自体内緒のことであり今回の任務も通常爆弾の移動であると届けているくらいだった。もしばれたら国際問題に発展する可能性もあるだろう。しかし、周りの環境は多少問題あるものの今回はあまり切迫した状況下での任務ではないので比較的楽だとロックウッド少佐は思っていた。

貨物を固定器に取り付け終わるとマイク・オーウェン中尉が額の汗を拭いながら頷いた。「少佐、取り付け完了です」オーウェン中尉が言った。

「よし、ご苦労」サミュエル・ロックウッド少佐が言った。彼は振り返ると操縦室に向かって声をかけた。「こっちは準備完了だ。ノートン大尉、離陸の準備をしてくれ」ロックウッド少佐は大声で言った。

「了解」操縦室からこの輸送機のパイロットであるノートン大尉が返事をした。ノートン大尉とそのクルーとはもう4回も一緒に任務をこなしていた。今ではオフの時には一緒に飲みに行って馬鹿話をする間柄だ。警備に付いている海兵隊の隊員がいなければ、“了解”のあとにもう一言二言余分な言葉が付いていた事だろう。ロックウッド少佐にはノートン大尉の頭の中は既に日本での夜遊びのことで頭がいっぱいだろうということは容易に察しがついた。彼は少し笑みを漏らすと、機外で警備についていた海兵隊隊長のウインストン大尉に近づいた。

「ウインストン大尉、警備ありがとう。同行してくれる隊員は誰かね?」ロックウッド少佐はウインストン大尉に敬礼をするとそう尋ねた。今回は念のため海兵隊員が同乗することになっていたのだ。

「はい、そこにいるマクミラン少尉とガードナー曹長、リンドン伍長です」ウインストン大尉は敬礼をするとロックウッド少佐の横にいたジェフ・マクミラン少尉たちを指差した。

「よろしくお願いします」マクミラン少尉は敬礼した。

「こちらこそよろしく」ロックウッド少佐も敬礼を返した。彼は機外で撤収の準備をしているウインストン大尉にもう一度挨拶すると後部貨物室扉を閉じるためスイッチを押した。その途端、搬入用の傾斜板も兼ねた扉は油圧でゆっくりと上がり始めた。ロックウッド少佐は機内に残った海兵隊員に話しかけた。「君たち日本へは?」ロックウッド少佐はそう言うと貨物室の奥に向かった。

「はい、一昨年まで沖縄にいました。久しぶりです。ここより日本のほうが良いです。ここは基地も人里から離れているし、男ばかりでちょっとむさくるしいですから」マクミラン少尉が言った。

「そうだな。しかし、残念ながら向こうでゆっくり出来ないだろうね。恐らくとんぼ返りになりそうだよ。向こうではもう既に帰りの輸送機も準備されているとのことだ」ロックウッド少佐が笑みを浮かべながら言った。

「そうでしょうね。ガードナー曹長、リンドン伍長に変なものでも食わせて入院させようか?そうすれば1日か2日向こうにいられるかもしれない」マクミラン少尉が言った。

「少尉、だめですよ。こいつはガソリンをがぶ飲みしたあとヘッチャラで葉巻を吸うようなやつですから」ガードナー曹長が言った。

「自分はおっしゃっていただければ何でも飲みます。何でしたらここにあるお化け爆弾でも食べましょうか?」リンドン伍長は真面目くさった言い回しで答えた。

「こいつならやりかねないでしょうね」ガードナー曹長が呆れたように言った。

「おいおい、君たちこの荷物のことはトップシークレットなんだ。あんまり大きな声で話さないようにしてくれよ。それとリンドン伍長、いくら腹が減ってもこいつを決して食べるんじゃないぞ。腹をこわすだけじゃすまんからな」ロックウッド少佐は笑みを浮かべながら言った。そして、荷物の横でチェックリストとにらめっこをしているオーウェン中尉達に近づくと、さらに続けた。「君たちに私の部下を紹介しよう。彼が技術士官のオーウェン中尉、この荷物のお守り役だ。そして、その部下のスマイソン曹長とライトマン伍長だ」全員が敬礼を交わした。次にロックウッド少佐は三人を操縦室に案内した。操縦室は貨物室から見ると2階部分になり、そこに行くには急な階段を上がらなければならなかった。ロックウッド少佐は操縦室に入るとコックピットクルーを紹介した。「彼が機長のノートン大尉。副操縦士のフェリス少尉、機関士のオリバー曹長、通信士のゴーディー伍長だ」ロックウッド少佐は紹介した。全員挨拶を交わした。

「少佐、離陸準備完了。管制塔からの合図待ちです」ノートン大尉が言った。

「よし、合図あり次第離陸してくれ」ロックウッド少佐が言った。

「了解」

「マクミラン少尉、そろそろ離陸だ。準備をしてくれ」ロックウッド少佐が言った。

「わかりました」マクミラン少尉はそう言うと部下を連れて貨物室に降りていった。ロックウッド少佐はマクミラン少尉のあとに続くと核弾頭のチェックをしていたオーウェン中尉にも離陸間じかのサインを送った。貨物室の全員が兵員用の座席に座るとシートベルトを締めた。この兵員用の座席は全く人間のことを思って作られていない。公園にあるベンチのほうが余ほどマシだろうとロックウッド少佐は思った。それは恐らくここにいる全員が思っているに違いない。ジャンボのファーストクラスの座席とは言わないが、もう少し何とかならないものかと思った。隣で座席のシートベルと格闘していたピーター・オーウェン中尉がロックウッド少佐に話しかけた。

「少佐…」

「座席の文句を言われても俺にはなんともしてやれないぞ」ロックウッド少佐が言った。「もう慣れましたよ」オーウェン中尉が言った。

「その話じゃないのか?」

「ええ。少佐、ギリシャからこの厄介者を運び出すのは良いんですけど、日本に持ち込むのもどうかと思うんですが…」オーウェン中尉が言った。

「うん?日本の非核三原則。作らず、持たず、持ち込ませず、か?いずれにしても、そんな約束とうの昔に破っているんだからな。今さらどうこうなるもんでもないだろう?日本政府だって知っていて知らん振りしているだけのことだし。とにかく、俺たちは軍の偉いさんが言ったことを忠実に実行するだけだよ」ロックウッド少佐が言った。

「それはそうですが…。アメリカ本土に持ち帰るのなら分かるんですが何故日本なんです?爆弾だけならわかるのですが、退役したミサイルの核弾頭まで」

「さあな。どっちみちこんな物アメリカ本土で保管していてもしょうがないだろう。厄介なだけだし。誰かがほかにいい使い道でも思いついたんじゃないのか?いずれにしてもアメリカ本土で使うことは100パーセントないんだからな。そんなくらいなら現場に預けておいたほうが何かと都合が良いんだろう。おまけに今は例の人工衛星のお陰で太平洋艦隊は警戒態勢に入っている。どこかのバカが、お偉いさんのご機嫌取りに核弾頭の受け入れの要望でも出したかも知れんな」ロックウッド少佐が言った。

「そんなことですか」オーウェン中尉が言った。

「大体そんなところだろう」ロックウッド少佐がそう言うと機長の声が聞こえた。

「離陸します」ノートン大尉がそう言うとC―130ハーキュリーズ輸送機は滑走路を全速力で走り出した。そして彼らが乗った輸送機は数分後にはペルシャ湾の上空で日本に向けて方向転換をした。途中、インド洋で空中給油を受ける必要がある。かなり長い飛行プランだった。ロックウッド少佐は長時間の飛行は好きだった。恐らく何十時間飛んでいてもまったく意に介さないだろう。それどころかこのままずっと飛び続けたい気分だった。やっぱり空はいい。彼はシートベルトをはずすと窓に近づいた。そして、眼下に広がるペルシャ湾の真っ黒な海を眺めた。美ししい眺めだ。彼はオーウェン中尉の言葉が頭をよぎった。

 “俺たちは使いもしない爆弾をあっちに運んでこっちに運んでと一体何をやっているんだろう?こんなものが世の中にあるから怯えなきゃならん。とっとと全部廃棄してしまえばいいんだ。でもそうなったら俺たちはお払い箱だな”ロックウッド少佐はそう思いながら暫く機外の景色を眺め続けた。


衛星は大気圏に突入したとたん外部パネルやら太陽電池パネルを次々と吹き飛ばしながら秒速8000メートルという物凄いスピードで落下していった。分離した細かな部品はあっという間に燃えてなくなってしまったが、最後まで原形をとどめていたのは頑丈に作られていた原子炉だった。それも時間の問題でしかなかった。インド上空に達するころにはそれも殆どなくなっていた。しかし、その内部にいた微生物は消滅しなかった。

当然ながら、原子炉の中の数千度という温度と放射線の中が、この微生物にとって居心地のよい場所なのであれば大気圏の摩擦熱ごときでは死ぬ筈もなかった。それどころか摩擦による振動で今まで固まりになっていた微生物が大気の壁の中を通り抜けるたびにドンドン拡散していってしまったのだ。地上から見ると、上空を通り過ぎていくその物体は、小さな太陽がひかりの矢を放っているように見え、まるで花火を見ているような鮮やかな光を放射していた。

地上で見上げていた人間たちは、まさか人類にとってとんでもない厄災が訪れているとは思わず、なかには拍手喝采を浴びせていた人たちもいた。結局、その物体はインドから日本を通り抜けてアラスカに至る広範囲に微生物の雨をまき散らしそして消えていった。


日本岡山上空 C―130輸送機機内


「しかし、きれいだったな。まるで花火のようだ」リンドン伍長とライトマン伍長が口をそろえて言った。二人は人工衛星の落下を目にして少し興奮気味だった。

「そんなもん見てもしょうがないだろう?どうせ見るなら俺はそんなものより日本人の綺麗なお姉ちゃんのほうがいいよ」オーウェン中尉は荷物が固定器の安全を確かめながら言った。

「確かにそうだ。日本のお姉ちゃんはべっぴんだからな。俺も嫁さんにするのなら日本人がいい」スマイソン曹長が言った。

「それは言えるよ。俺の同期のやつが日本人の嫁さんもらったんだけど、それりゃ至れり尽くせりで最高だって言ってたからな」ガードナー曹長が言った。

「曹長、果たして日本人女性が相手してくれますか?」リンドン伍長が言った。

「何だと?リンドン伍長、お前にだけは言われたくないぞ!そんな筋肉バカ向こうから願い下げだとさ」ガードナー曹長が切り返した。それを聞いてみんな大笑いした。 

「少佐。結局、人工衛星は無事に燃え尽きたようですね。上層部じゃ大騒ぎしていたようですけど…」オーウェン中尉が言った。

「全くだ。人騒がせも大概にしてくれないとな。まあこれでこの鬱陶しい荷物の受け入れもスムーズに進むだろう」ロックウッド少佐が言った。

「段取りよくいけば日本で3日ほどのんびりできますね」

「そうだな。ノートン大尉が言っていたが、東京にいいところがあるらしいからそこに行ってみるか」

「少佐。大尉の“いいところ”は当てになりませんよ。一度ひどい目にあいましたからね。美人がたくさんいると聞いて行ったところ年増のデブがぞろぞろ出てきた」オーウェン中尉が笑みを浮かべながら言った。

「そんなことがあったか。となると今回も話半分に思っておいたほうが無難だな」

「確かに。でも、大尉はそのおばさんと楽しそうにはしゃいでいましたからね。我々と大尉とは趣味が違うのかもしれません」

「そうかもな」ロックウッド少佐はそういうと腕時計で時間を確認した。彼は立ち上がるとみんなにも聞こえるように話した。

「あと3時間くらいで到着だ。今のうちに荷物のチェックをしておこう」

「そうですね。早いところ片付けましょう。スマイソン曹長、チェックをするから頼むぞ」オーウェン中尉が言った。

「分かりました。ライトマン伍長、工具を持ってきてくれ」スマイソン曹長が言った。スマイソン曹長とオーウェン中尉、ロックウッド少佐が核弾頭の所に集まった。そこに、工具を持ったライトマン伍長がやってきた。

「曹長、もって来ました」ライトマン伍長が言った。

「ありがとう。ガイガーカウンターをくれ」スマイソン曹長が言った。ライトマン伍長は工具箱の中からガイガーカウンターを引っ張り出すとスマイソン曹長に渡した。しかし、その手が微かに震えていた。それを見ていたスマイソン曹長がライトマン伍長の顔を覗き込んだ。その顔には冷や汗が浮き出していた。その上にまばたきをしきりにしている。かなり具合が悪そうだった。さっきまで元気だったのにと不思議に思った。

「伍長、大丈夫か?」スマイソン曹長が心配そうに尋ねた。ライトマン伍長は急に視界が狭くなったことに驚いた。耳も遠くなり、めまいがし始めたのだ。まるでひどい貧血になったときのようだ。さらに体がしびれた様にいうことを利かなくなった。

「曹長…。体が…」ライトマン伍長はそう言うと意識を失い倒れこんでしまった。

「おい、伍長?!」スマイソン曹長は驚いた。それを見ていたオーウェン中尉とロックウッド少佐はライトマン伍長に近づいた。マクミラン少尉も心配そうに近づいてきた。

「どうした?!ライトマン伍長?!」ロックウッド少佐はそう言うとライトマン伍長の額に手をやった。特に発熱はしていないようだった。「曹長!何があった?!」ロックウッド少佐は尋ねた。

「分かりません。突然倒れたんです」スマイソン曹長はそう言うと倒れこんだライトマン伍長の胸に耳を当てて心拍を調べた。「呼吸と心拍数は少ないですが、安定しています」スマイソン曹長がそう言った。その時、ガードナー曹長が叫んだ。

「リンドン伍長!」ガードナー曹長の声に全員が振り向いた。リンドン伍長も倒れたのだ。マクミラン少尉はリンドン伍長の所に駆け寄った。彼はリンドン伍長の様子を見るとライトマン伍長と同じ症状だと判断した。彼はいやな予感がした。

「ライトマン伍長と全く同じです!」マクミラン少尉が叫んだ。

「くそっ!どういうことだ?!二人とも同時に意識不明になるなんて?!スマイソン曹長、核物質の漏洩じゃないのか?!」ロックウッド少佐が言った。

「そんなバカな!」スマイソン曹長は慌ててガイガーカウンターのスイッチを入れた。しかし、その目盛りは核弾頭が本来持つ若干の放射線反応しかなかった。

「こんな放射線レベルで人が倒れるとは考えられません!」スマイソン曹長は言い切った。

「それじゃ何故?!」ロックウッド少佐が言った。その時突然機体がガクッと揺れた。そして次の瞬間急に降下をし始めた。機体の振動も激しいし、降下する体勢も普通ではない。彼は非常事態に違いないと思った。

「今度は何だ?!」ロックウッド少佐は急いで機内電話で操縦室を呼び出したが応答がなかった。ロックウッド少佐は「くそっ!」と唸るとオーウェン中尉に向かった。

「オーウェン中尉、操縦室を見てきてくれ!」ロックウッド少佐が言った。

「分かりました!」オーウェン中尉はそう言うと操縦室に向かった。しかし、機体の揺れがひどいので階段を登るのも必死だった。

「とにかく、全員酸素マスクを付けるんだ。何があったか分からん。最悪のケースを想定するしかない。急げ!」ロックウッド少佐が言った。全員が酸素マスクを取りに行った。

ちょうどその時、操縦室から叫び声が聞こえた。

「少佐!コクピットのクルーは全滅です。全員が意識を失っています!」オーウェン中尉が叫んだ。

「何だと!」ロックウッド少佐がそう言った瞬間、再び飛行機がガクンと揺れた。前回より大きな振動だった。全員が倒れた。2階部分の操縦室から乗り出していたオーウェン中尉はその振動で頭から墜落した。更にガードナー曹長はリンドン伍長に躓いて吹っ飛ぶように倒れこんでしまった。その時、運悪く胸に付けてあった手榴弾のピンが何かに引っかかり外れてしまった。そして、起爆レバーが宙に舞った。まったく考えられないことだった。ガードナー曹長は「あっ!」と声を上げ、慌てて手を伸ばしたのだが、ほんの少しのところで間に合わなかった。手榴弾はコロコロと転がり非常用扉の隙間に挟まってしまった。ガードナー曹長は「しまった!」と叫んだ。そして貨物室の全員に聞こえるように叫んだ。「手榴弾のピンが外れた!爆発するぞ!」

それを聞いたロックウッド少佐は大声で怒鳴った。「全員伏せろ!何かにつかまるんだ!吸い出されるぞ!」ロックウッド少佐はそう言うと核弾頭の固定器にしがみ付いた。数秒後、大音響と共に機体後部の非常扉が吹き飛んだ。それと同時に固定してなかった物が次々と機外に吸い出された。倒れていたリンドン伍長と一番近くにいたガードナー曹長はあっという間に機外の人となった。ロックウッド少佐はライトマン伍長が吸い出されないように彼の左足を必死に掴んだ。「もう暫くすれば気圧が安定する。それまでの辛抱だ!」ロックウッド少佐は自分に言い聞かせるように叫んだ。


日本全国


物体が上空を通り過ぎて30分ほどすると突然、外にいた人たちが次々と倒れていった。それも殆ど同時に。車に乗っていた人も同じで突然意識を失い次々と車や建物にぶつかっていった。当然火災も発生し道路はまるで修羅場のような様相を呈していた。

空港はもっと酷かった。旅客機が突然滑走路に頭から突っ込んだのだ。着陸体勢を取っていた旅客機のコクピットのクルーが全員倒れてしまったのだろう。飛行機は激突と同時に胴体が3つに分かれそれぞれが爆発してしまった。そして、離陸しようとしていた旅客機に、墜落した飛行機の一部が当たってしまったのだ。それは、ちょうど主翼の付け根付にある燃料タンクに当たり、満載していた2万ポンドの航空用ガソリンに引火してしまった。その飛行機は大爆発を起こし乗客、乗務員共々粉々に砕け散ってしまった。

このような事は衛星の落下コース上にあった国々で起こり、およそ数分の間に全世界で5億人。日本では4000万人以上の人が倒れたりもしくは二時的な火災や爆発などで命を落としていた。

しかし、室内に居て光を見てない人たちには全く影響はなかった。無事だった人たちは急いで倒れた人の介護をした。だが、道路は事故を起こした車で全く動けず、どう考えても救急車を呼んだって来る事が出来ないことはわかっていたが、人々はどうしたら良いのかわからず、電話機を持って右往左往するばかりであった。そのあとに恐ろしい事が起こるとも知らず。


日本滋賀上空 C―130ハーキュリーズ輸送機機内


機内の空気の流出が止まった。気圧が安定したのだ。ということは、それだけ飛行高度が落ちたということだった。“何とかしなければ…”ロックウッド少佐はそう思った。彼はライトマン伍長の左足を掴んでいた手を緩めた。しかし、その手はなかなか開かなかった。もう一方の手でこじ開けるしかなかった。余程力いっぱい掴んでいたのだろう。機内には警報が鳴り響いていた。“コックピットのクルーが全滅”オーウェン中尉の言葉が頭をよぎった。時間はあまり残されていない。ロックウッド少佐は立ち上がると辺りを見回した。

「スマイソン曹長、無事か?!」ロックウッド少佐が言った。

「はい、何とか…」スマイソン曹長はゆっくり起き上がるとそう言った。

「マクミラン少尉!」ロックウッド少佐が叫んだ。

「はい、大丈夫です」マクミラン少尉は起き上がると大きく開いた穴を眺めた。ついさっき部下が二人そこから吸い出されたところを思い出すと悲しくなった。

「私は操縦室に行ってくる。オーウェン中尉を頼む」ロックウッド少佐はスマイソン曹長にそう言うと操縦室にあがる階段に向かった。階段の脇には頭から血を流しているオーウェン中尉が倒れていた。スマイソン曹長は応急手当をする為にオーウェン中尉に近づくと脇にかがみ込んだ。ロックウッド少佐はそれを横目に見ながら階段を上がった。操縦室のドアを開けると操縦室の全員が意識を失っていた。機長と副操縦士が操縦桿にもたれこんでいた。

「くそっ!なんてことだ!ノートン大尉、フェリス少尉…」ロックウッド少佐は操縦席に近づくと二人の様子を見た。リンドン伍長、ライトマン伍長と全く同じ状態だった。ロックウッド少佐はノートン大尉を操縦席からどけるとそのあとに座った。彼は操縦桿を思い切り引き上げると機体を安定させるため必死に格闘し始めた。

「マクミラン少尉、スマイソン曹長!ちょっと来てくれ!」ロックウッド少佐は怒鳴った。数秒後何とか機体を安定させるとロックウッド少佐はホッとした。

「これでしばらくはいいだろう」ロックウッド少佐はそう呟いた。その時、マクミラン少尉がやってきた。かなり憔悴していた。部下が目の前で死んだのだ。やむ終えないことだった。続いてスマイソン曹長もやってきた。二人は操縦室の床に倒れているノートン大尉を見ると驚いた。

「何てことだ?!」スマイソン曹長が言った。

「ライトマン伍長と同じだ」ロックウッド少佐が言った。そして、マクミラン少尉に向かった。

「君の部下は気の毒だった」

「仕方がありません」マクミラン少尉が悲しそうに言った。そして、操縦室のクルーの様子を見た。

「ああ、他のクルーを座席からおろしてやってくれ」ロックウッド少佐がそう言うとマクミラン少尉とスマイソン曹長が近づいて2人がかりでコックピットのクルーを座席から下ろした。

「とにかく、何とかこの輸送機を飛ばさないといけない。かなり高度が落ちたから危険な状態だ。二人で機長たちを貨物室に下ろしてくれないか。ここでは危ない」

「わかりました。ところで少佐は操縦できるんでしょうね?」マクミラン少尉は不安そうに尋ねた。

「ああ、ずいぶん飛ばしていないがな」ロックウッド少佐が答えた。

「それなら私よりはいいですよ」マクミラン少尉はそう言うとスマイソン曹長は二人でコックピットクルーを貨物室に下ろした。その間、ロックウッド少佐は操縦桿と悪戦苦闘した。さすがに機体に穴が開いているので、まともに飛ばすことは不可能に近い。だましだまし飛ばすのがやっとだった。暫くするとコックピットクルーを貨物室に下ろし終えたマクミラン少尉が戻った。

「全員下ろし終えました。スマイソン曹長が万一に備えて体を固定しています。彼らの様子は相変わらずです」マクミラン少尉が報告した。

「そうか、ありがとう」ロックウッド少佐が言った。マクミラン少尉はそこらじゅうの計器から警報が鳴っているので心配になった。

「墜落しそうですか?」マクミラン少尉が恐る恐る尋ねた。更に地面がどんどんと近づいているのだ。

「飛んでいるのが不思議なくらいだ」ロックウッド少佐は忙しそうに操縦桿やスイッチ類をいじくりまわしながら言った。

「メイデー、メイデー。こちらアメリカ空軍輸送隊。緊急着陸の要請です」ロックウッド少佐は無線のマイクに向かってそう言った。応答がないので他の周波数で同じ事を繰り返した。

「メイデー、メイデー、こちらアメリカ空軍輸送隊。緊急着陸の要請です」ロックウッド少佐は再び同じ事を繰り返したがどこからも返事は無かった。

「どこからも返事がない。無線が壊れているのか?」ロックウッド少佐は無線機を手で叩くとそう言った

「無線機は大丈夫のようですが…。みんなやられたんでしょうか?」マクミラン少尉も無線機をいじってから首をかしげながらそう言った。

「そんな馬鹿なことがあるか!日本海でAWACSも哨戒飛行しているはずだ」ロックウッド少佐はそう言うと再び無線機の周波数を変えて連絡を取ろうとした。しかし、まったく応答がなかった。暫くすると再び機体がガクンと揺れた。マクミラン少尉はひっくり返りそうになった。操縦室内は今までと違う警報が凄まじい勢いで鳴り出した。

「何ですか?この警報は?」マクミラン少尉は体勢を直しながら言った。

「油圧系統だ!操縦が全く利かん!さっきの爆発でイカれたんだろう。この調子じゃ車輪も出ないだろうな。こうなると不時着するしかない」ロックウッド少佐は計器を再び手で叩くとそう言った。

「不時着ですか。核弾頭は大丈夫でしょうか?」マクミラン少尉は心配そうに尋ねた。

「ああ、俺たちが死んだって核弾頭は無事だろうさ。あとはNEST(核緊急捜索部隊)が探してくれることを祈るしかないな」

「NESTですか?あいつらは自分たちより核弾頭の方が大事な連中ですよ」

「核弾頭のついでに助けてもらうしかないだろうな。まあ、それも無事に不時着出来たらの話だ。そろそろ降りるぞ。後ろのやつらに準備させろ」ロックウッド少佐はそう言うと胴体着陸の準備を始めた。

「分かりました」マクミラン少尉はそう言うと貨物室に戻った。

「くそっ!無事におりられたら奇跡だ!」ロックウッド少佐はそういいながら周りを見渡した。山しか見えないこんな所で不時着したらNESTでも探し出すのに時間が掛かるだろうと思った。とにかく、降りるしかない。救難用自動発信ビーコンのスイッチを入れると操縦桿を両手で握った。いよいよだ。

「何かにつかまれ!降りるぞ!」ロックウッド少佐は貨物室に聞こえるように大声でそう叫ぶと覚悟を決めた。彼は徐々に高度を下げると出来るだけ機体が水平になるようにした。目の前に少し樹木が開けた場所があった。ロックウッド少佐は今だと思い操縦桿を少し押し倒した。それに反応して輸送機の高度が徐々に下がりだした。暫くすると機体が樹木の枝にこすった。ものすごい振動だ。ガタガタという音と振動に機体が分解しそうになる。更に操縦桿を押し倒すと胴体が地面を捉えた。その瞬間、「ドン」という音と共に機体が跳ね上がった。もうこうなるとロックウッド少佐の制御は利かなかった。C―130輸送機は木をなぎ倒しながら林の中に突っ込んでいった。機体が地面を滑り、あらぬ方向へ進んでいく。そして立ちはだかる樹木や岩にぶつかり強烈な衝撃が襲ってくる。その度に翼や外壁が吹き飛び操縦室のガラスが砕け散っていった。ロックウッド少佐は本来フロントガラスがあった穴から襲い掛かってくる破片や土砂を避けるように両腕を顔面に押しつけた。そして、次に来るであろう衝撃に備えた。機体が大きな木の幹に激突したときロックウッド少佐は操縦桿に叩きつけたれた。貨物室にいた隊員たちも壁に激突した。


日本 滋賀と福井の県境山中 C―130ハーキュリーズ輸送機機内


マクミラン少尉は不気味な野鳥の鳴き声で気が付いた。ゆっくり体を起こすと関節のあちこちが悲鳴を上げた。彼は顔をしかめながら痛みを訴える関節を宥めるようにさすった。生きているのが不思議なくらいだ。身体のあちこちを動かしてみたが取りあえず骨折などの重傷は負っていないようだ。彼は一安心して生存者がいないか探した。機体の破損状況を見る限りよく機体が爆発しなかったものだと思った。機体後部は尾翼の付け根から後ろがどこかに行ってしまっていた。核弾頭は固定器のお陰で飛び立ったときのまま貨物室の床にしっかりと固定されていた。それだけでも救いだった。もし、これが固定器から外れて貨物室内で暴れだしたらとても助からなかっただろう。彼は貨物室の前部にいるはずのクルーの様子を見るためにふらつきながらゆっくり歩いていった。床にはスマイソン曹長も倒れていた。他の隊員の様子は墜落前と同じようだった。ベルトで固定してあったので放り出されずにすんだのだ。マクミラン少尉はスマイソン曹長の横にかがみ込んだ。

「スマイソン曹長、大丈夫か?」マクミラン少尉はスマイソン曹長の体をゆすりながら言った。スマイソン曹長は眉間にしわを寄せながらゆっくりと目を開いた。

「うぅ、マクミラン少尉?取りあえず生きてます。ロックウッド少佐は?」スマイソン曹長は朦朧とした意識の中でそう尋ねた。

「分からん。操縦室を見てくる。彼らを頼む」マクミラン少尉は倒れている隊員を指差しながらそう言った。そして彼は操縦室に行くために階段を上がった。操縦室に入るとそこは悲惨を極めた。フロントガラスは砕け計器やパネルが天井からぶら下がっている。マクミラン少尉は慌てて操縦席に座っているロックウッド少佐に近づいた。彼は操縦桿にもたれるようにして気を失っていた。

「ロックウッド少佐?大丈夫ですか?」マクミラン少尉はロックウッド少佐の体を揺すった。額からかなりの血が流れていた。暫らくするとロックウッド少佐は気が付いた。

「マクミラン少尉か?君も無事だったか。奇跡だな」

「少佐の腕のお陰ですよ。額から出血しています。他に怪我はないですか?」マクミラン少尉はがそう言うと額の血をそこらにあった布で拭った。ロックウッド少佐はゆっくり体を動かしてみた。その時左足から激痛が走った。

「うぅ、左足が折れているようだ。ちょっと手を貸してくれないか」ロックウッド少佐はシートベルトを外すとゆっくりと体を持ち上げた。少し動かすたびに激痛が走った。

「はい、どうぞ」マクミラン少尉はそう言うと肩を差し出した。マクミランは少尉ゆっくり体を動かしロックウッド少佐にあまり負担が掛からないようにした。しかし、ロックウッド少佐の痛みは和らがないようだった。少し動くたびに顔をしかめた。

「うぅ、なんてこった。ちょっとおろしてくれ」ロックウッド少佐はあまりの痛みに床に腰を下ろした。

「ファーストエイドセットからモルヒネを持ってきます」マクミラン少尉が言った。

「ああ、頼む。他のみんなはどうだ?」

「スマイソン曹長は無事です。ほかのクルーは固定されていたので多分大丈夫だと思いますが曹長に確認させています」マクミラン少尉はそう言うと貨物室に戻って行った。

「くそっ!任務に失敗した上に足を折るとはな。一体全体何が起きたんだ?隊員の半数が同時に意識を失い、おまけに無線も使えなくなるとは。核兵器が使われたのか、細菌兵器か?」ロックウッド少佐はそう呟くと救難用ビーコンが発信されているのを確認した。

「今となっちゃ無線機も完全に壊れてしまっている。果たして、このビーコンを聞いてくれているやつがいるかが問題だ」ロックウッド少佐がそう呟くとマクミラン少尉が医療キットを持って戻ってきた。彼はすばやくキットの中からモルヒネの注射を取り出すとロックウッド少佐の太ももに打った。

「これで楽になります」マクミラン少尉が言った。更に彼は添え木の代わりになりそうな何かの部品を拾い上げるとロックウッド少佐の折れていると思われる部分に当てがい包帯で縛り上げた。その瞬間ロックウッド少佐は「うっ」と唸った。

「足の怪我は単純骨折のようです。運がいいですね。これなら治りが早そうですよ」マクミラン少尉が言った。

「ありがとう。手際がいいね」

「品のいい空軍と違って、海兵では骨折なんか日常茶飯事ですから」マクミラン少尉が笑みを浮かべながら言った。

「とにかく助かったよ」

「オーウェン中尉がさっき目を覚ましました。脳震盪を起こしていたようです。命に別状はありません」

「そうか、よかった」

「しかし、何が起こったんでしょうね?」

「分からんな。とにかく今はここで救助隊が来るのを待つしかないだろうな。救難用ビーコンは発信しているんだ。聞いているやつがいてさえくれたらその内来るだろう」ロックウッド少佐がそう言うとマクミラン少尉は救難用ビーコンと無線機の様子を眺めた。ビーコンは発振しているようだが無線機はとても使えそうに無かった。

「完全に無線機はお釈迦ですね。これじゃ長期戦になりそうです。私は貨物室に行ってオーウェン中尉の様子を見てきます」マクミラン少尉が言った。

「ああ、頼む。それから手が空いてからでいいがスマイソン曹長に核弾頭のチェックをするように言ってくれ。私は暫くここにいるよ。足手まといになりそうだからな」

「分かりました。何かあったら呼んでください」マクミラン少尉はそう言うと貨物室に戻って行った。


日本愛知県守山 マンションの一室


突然の振動と爆発音で、三人は目が覚めた。最初、彼等は何が起こったのかわからなかった。藤岡は立ち上がりカーテンを開けると窓から外を見た。彼は外の状況を見て愕然とした。街のあらゆる所から黒煙が立ちのぼっており、舗道には無数の人が倒れているのだ。道路に至っては今まで走っていたと思われる車がビルや電柱に激突したり、車同士で衝突したりしており、交差点では何台もの自動車がひっくり返って火災が発生していた。

「高橋!美里!」と藤岡が突然叫んだ。余りの動揺で殆ど声というより泣き声に近いものであった。

「先輩どうした?!」と言って高橋と美里は顔を見合わせながら、尋常でない藤岡の様子を見て急いで近寄り、藤岡と同じように窓から外を見た。高橋はその目に飛び込んできた光景を見て唖然とした。

「何だこれは?!」

高橋は声が出なかった。その修羅場を見て足が震え立っている事がやっとだった。

突然、泣き声が聞こえてきた。振り向くと美里が座り込んで泣き崩れている。外を見て余りの事にショックを受けたのだろう。「何が起こったの!?」と泣きながら叫んでいた。藤岡は美里を抱きしめ、「大丈夫だ!大丈夫だ!」とくり返した。

「先輩、何があったんだろう?」それを藤岡に聞いてもわかる筈はなかったが、そんな言葉しか口からは出てこなかった。

「よくわからんが、地震とかじゃなさそうだな。人が倒れているのも変だ。高橋、とりあえずテレビをつけてみてくれ。臨時ニュースをやっているかもしれない」

「そうだね」高橋はそう言いながら部屋の隅にあるテレビをつけてみた。しかし、テレビは、どのチャンネルもテストパターンになっていた。あるチャンネルではセットだけが画面に映っており、その中でスタッフらしい人たちが血相を変えてスタジオの中を走り回っている画像が映しだされていた。普段なら何の意味もない内容をキャスターもどきのタレント達がだらだらと喋っている筈なのだが…。

「ダメだ、ニュースはどこもやっていないよ」

「ラジオもつけてみてくれ」藤岡が何処からからラジカセを持って来た。それを受け取ると高橋は慌てて電源を入れ、チューナーをあっちこっち回し、どこかやっていないか探した。しかし、これもテレビと同じで録音番組以外は沈黙していた。

「くそっ、ラジオもダメだ。これじゃ何が起きたのかさっぱり分かんないよ。先輩、テロか何かかな?」

「こんな大規模なテロは考えにくいな」

「そうだよね。あちこちで爆発してるみたいだし…」高橋が言った。

それを聞いて藤岡は外では何ヶ所も火災が起きているのを思い出した。それに焦げ臭い匂いも漂ってきている。

「おい、高橋。俺はこの建物から火事が出てないかちょっと見てくる。美里を頼む」藤岡はそう言うと玄関の方へ向かった。

「義明!」美里はそう言うと行かないでとでもいうように離れていく藤岡の方へ手を伸ばしていた。

「先輩!チョッと待った!外に出るとヤバイかもしれない。もしかしたら化学兵器かも。外の人たちが倒れているのは絶対おかしいよ!」高橋はそう言いながらドアを開けようとしている藤岡に近寄った。彼は自衛隊時代、何度か細菌化学戦の訓錬をやったし、講義を受けた事があったので咄嗟にそう思ったのだった。

藤岡は、高橋の言葉に少し躊躇はしたのだが、どうしても見に行く必要性を感じた。

「どっちにしてもマンションが火事だったら、ここには居られないからな。それに、この部屋だって気密じゃないんだから化学兵器とかなら俺達も影響が出ているんじゃないの?」

「そりゃそうだけど…。ちょっと待って」高橋はそう言うと台所に行き、そこにあったフキンを水で濡らして持って来た。本当に化学兵器や細菌兵器であったならこんな物では全く役に立たない事を高橋は十分理解していた。しかし、当然ながら一般家庭に防毒マスクや防護服が有るわけも無く、どうしても外に出るという藤岡を止めることが出来ない以上、高橋は、この際何も無いよりはマシだろうと思ったのだった。

「一応これで鼻と口を押さえていってよ。それと、絶対何も触っちゃダメだよ!皮膚から浸透する化学物質もあるんだから」

「わかった、そうするよ」藤岡はそう言うと高橋から濡れたフキンを受け取り玄関から出て行った。

美里は少し落ちついたようで、心配そうな顔で高橋を見つめた。

「義明、大丈夫かしら?」と美里は高橋に尋ねた。その声は涙で震えていた。

「大丈夫だと思う」高橋はそう言ったものの自信はなかった。ただ、ここで美里に不安をかき立てるような事を言うと藤岡のあとを追いかけて部屋から出て行ってしまいそうなので、とりあえずそう言う事にしたのだった。

「秀人君。何故みんな倒れているの?化学兵器って何?戦争でも起こったの?」美里は矢継ぎ早に質問した。

「戦争なんか起こる訳ないじゃないか。何故みんな倒れているのかはわからないけど、ここにいれば大丈夫だよ。先輩はちょっと外を見に行っただけだから、じき戻ってくるよ。だから美里さんは心配しないで」

「でも…」美里が不安そうに尋ねるのを高橋は遮った。「大丈夫だって。俺達もさっき窓を開けて外の空気吸ったけど、どうって事無かったでしょ。とにかく先輩が帰ってくるのを待っていようよ。ね、美里さん」

その時、つけっぱなしにしておいたテレビが突然何か喋りだした。高橋は急いでテレビの前に戻り何を言っているのか一言一句聞き逃すまいと食い入るように画面を見つめた。

「臨時ニュースを申し上げます」ニュースキャスターが怯えたような顔で画面に映っていた。声も普通ではない。普段なら、どんな恐ろしい内容でも平然とした声と顔つきで淡々と話している筈なのに、この表情は明らかにうろたえているようだ。それを思うとただ事ではないような気がして、その内容を聞くのが不安になった。

「今日10時30分頃、日本全国で多数の市民が突然倒れて意識不明になっております。さらに道路上では自動車事故が至る所で起ており、火災が発生し死傷者が出ている模様です。現在詳しい事は全くわからず、日本政府や各省庁とも原因解明のため全力をあげているところです。未だに連絡の取れない地域や公共機関があり、かなりの被害があった模様。また救急車や医師が現場には行けないと思いますので、出来るだけ市民の皆さんで負傷者の介護をしていただきたいとのことです。また、電話は普通になっており…」とそこまで言うと、まるで電気を消したかのように突然画面がテストパターンに戻ってしまった。

高橋は慌ててチャンネルを変えてみたが、今では全部が同じような状態になっていた。

その時、急に外から悲鳴のような叫び声が立て続けに聞こえてきた。

高橋と美里はその声に一瞬ビクッと身体を震わせると、お互い顔を見合わせた。“藤岡は大丈夫だろうか?”という不安が二人の脳裏をよぎった。

「義明!」美里はそう言うと立ち上がり玄関に向かおうとした。

「美里さん!ちょっと待って!」高橋はそう言うと美里の腕をつかんで止めた。

「でも、義明が!」

「俺が見てくるから美里さんはここで待ってて!」高橋はそう言うと玄関に向かおうとした。

その瞬間、ドアが大きな音を立てて開き、青ざめた藤岡が飛び込んできた。彼は急いで玄関のカギを掛け、その上チェーンも掛けるとその場に座り込んでしまった。 

高橋と美里は慌てて藤岡の傍に駆け寄った。

「良かった!無事だったんだね」高橋はそう言うと藤岡の肩に手をやり「先輩、大丈夫?外で何があったの!?火事があったの?」と聞いた。すると藤岡は首を横に振ってからうなだれてしまった。よく見ると座り込んだ所に小さな水溜りが出来て少しずつ広がっていくのが見て取れた。あまりの恐怖で失禁したのだ。その様子から外で何か恐ろしい事があったのだろうという事はわかった。しかし、気丈な藤岡が果たして何があったらこんな状態になるのだろうかと高橋は思った。こんな藤岡の姿を知り合ってから一度も見たことが無かったからだ。

暫くして藤岡は少し落ち着きを取り戻し、外で起こった事を二人に話し始めた。

藤岡はフキンで鼻と口を覆い玄関を出た。外に出てみると状況は思っていたよりひどく、あちこちで爆発が続いているし、叫び声や泣き声が至る所でしていた。1ブロック先の建物からは、もうもうと黒煙が吹き出しており火災が発生しているようだった。この状況ではとても消防車が来るとは思えないが少し離れているためここまで延焼する事はないだろう。とりあえずこの建物に火災さえなければまた部屋に戻る事ができるし、一段落するまで部屋にこもって様子を見る事ができる。彼は早い所確認しなくてはと思って両サイドの通路を見た。

藤岡の部屋は四階建てのマンションの三階にあり、ちょうど真中辺りにあった。自分のいる階は大丈夫そうなので下の階を確かめに行く事にした。通路には何人もの人が倒れていた。その人たちを介護している人もいたが、何かブツブツ独り言をいいながら途方にくれて座り込んでいる人もいた。無事だった人たちは、殆どが錯乱状態で何を話し掛けてもまともに返事は返ってこない。みんな自分自身と家族のことが心配なのだろう。月曜日の朝という事もあり、ほとんどの家庭では旦那は会社だし、子供は学校に行っているのだから連絡も取れなので気が気ではないのだ。

同じマンションで室内にいて難を逃れた人たちは子供達の安否を確認する為、必要なものをカバンに詰め込み学校や保育園などへ慌しく出かけて行った。その殆どがドアを開けっ放しにしていたり、カギを掛け忘れたりしていた。ましてや左右違う靴を履いて出かける人や裸足の人もいた。みんな余程慌てているのだろう。その人達の必死な姿を見る限り仮に教えてやったとしてもその言葉が耳に入るとはとても思えなかった。道路にはそんな人たちが大勢走り回っていた。

藤岡は、階段の躍り場の辺りで倒れている人に恐る恐る近づいてみた。しかし、触る事はしなかった。さっき高橋に言われた化学兵器かもしれないという言葉が彼を思いとどまらせていた。肌の色は少し土色になっているが、これと言って異常は見当たらなかった。もちろん、呼吸はしているようで微かに腹部が上下していた。藤岡は至るところで同じような状態で倒れている人たちを見て、高橋が言っていた化学兵器かもという言葉がまんざら間違ってはいないような気がしてきた。 

周りでは何人かが自分の家族や親しい人たちが倒れている所に行き看護している。しかし、看護と言っても殆ど何もできずにいた。大体は体を揺すって声を掛けるだけの事くらいが精一杯であった。

“一体どんな物を使えば、このようなヒドイ事になるのだろうか?”藤岡は思った。

いつの間にか持っていたフキンはどこかに行ってしまったが、多分大丈夫だろうと思った。目の前に繰り広げられている惨劇を見ると、藤岡は自分達がなんて幸運だったのだろうと思った。彼は一度ビルから出て自分のマンション全体を見渡し、それぞれの部屋の窓をチェックして、火災が発生している兆候がない事を確認すると、ホッとしながら部屋に戻る為に階段を駆け上がっていった。

ちょうどその時、道路の方で物凄い叫び声が聞こえた。藤岡は立ち止まり手すり越しにその声のした方向を見た。そこでは無事だった人が倒れた人を看病していた所だった。最初は倒れた人が気付いただけなのかと思った。しかし、違った。なんと彼が目にしたのは今まで倒れていた人が、看護していた人の首に噛み付いている所だった。

藤岡は、一瞬自分の目を疑った。だが、その横でも全く同じ光景が再現されていた。周りを見渡すと次々と倒れていた人たちが起き上がり、看護していた人や近くにいた人達に襲いかかろうとしている。そして辺りは恐ろしい叫び声が渦巻いていたのだった。藤岡は暫く何が起こっているか理解できずその場に立ち尽くしていた。

藤岡は、ふと気が付くと両側からゆっくりとこちらに向かってくる人影がいるのがわかった。動きはゆっくりだが着実にこちらに近づいてくる。彼は危険を感じ慌てて階段を一気に駆け上がった。そして、藤岡が3階にあがる踊り場で一度止まり、通路の様子を確認しようとして見回したその時である。突然左手の手すりの陰から腕を捕まれ、恐ろしい形相をした者が腕に噛み付こうと顔を寄せてきたのだった。藤岡は咄嗟に左腕を引き抜き、間一髪の所でそれをかわす事が出来た。

しかし、なお執拗に向かってくるのを見て藤岡は恐怖を覚え、思わずそいつのむなぐらを掴み、背負い投げで踊り場の下に投げ飛ばした。そいつは倒れた拍子に首を折ったらしく不自然な角度に頭をかしげながら、なおも立ち上がり階段を上がろうとしていた。藤岡は驚いた。“何故だ?!首が折れているはずなのに。どうなっているんだ?!”藤岡は、あまりの恐ろしさにそのまま一目散に部屋に飛び込みカギを掛けたのだった。

その話を聞いて高橋は耳を疑った。“まさかそんな事が…”ただでさえ多くの人たちが倒れてしまっている事だけでも現実離れしているのに、まさか今度はその人たちが起き上がって人を襲うなんて。その横では美里も信じられないというような感じで、ただ呆然としていた。

高橋は、この状態は日本国中で起こっている事と電話が不通の事やテレビ、ラジオは今の時点では沈黙してしまった事を藤岡に伝えた。高橋は窓から外を見て藤岡の言っていた事が本当に繰り広げられているのを目の当たりにしてショックをうけた。外では今まで看護していた人や家族を心配して外に出ていた大勢の人を、今まで倒れていた人たちが追いまわし襲い掛かっていた。子供までもが…。そして辺りには夥しい程の悲鳴が響き渡り、まるで地獄絵図の様相を呈していた。高橋はそれを見て恐怖を覚え、このままでは自分達はどうなるのだろうと不安になった。

高橋は暫らく窓から外を眺めていたが、目の前に展開されているあまりにも悲惨な状況を何も出来ずに見ているのが辛くなり、藤岡と美里が並んで座っているソファーの方に行って対面に座った。二人ともかなり憔悴しているらしく無言でテーブルを眺めていた。藤岡の方は、まださっき起こった事がショックだったらしく視線を変えもしない。

高橋はこれからどうするべきか考える事にした。いずれにしてもこのままずっとこの部屋にいる訳にはいかないからだ。食料には限界がある。

玄関の所にも奴らがいるらしくドアを開けようとしてはいるが、カギさえ掛けていたら中には入ってこられない様だ。ドアを破る程の力は無いのだろう。

さっきまではドアノブの音や外の悲鳴が聞こえるたびに美里は怯えていたが、今では全く関知しないようだった。

藤岡の話では、奴らの移動するスピードは歩く程度の早さらしいが、噛み付く時は結構素早いようだ。ここには食料はある程度の蓄えがあるので暫くはいいが、それでも3日がせいぜいだと言う。そうなるとその後は外に出て食料を確保しに行かなければならなくなるだろう。問題は、すんなり奴らの間を通り抜ける事が出来るかだ。走れば何とかなりそうだが外に何人奴らがいるかわからないし、いつまでも走ったままで逃げ切る事が出来るとは思えなかった。

見たところ奴らは、一度噛み付いたら死んでしまうようだ。至る所に人間の死体が散乱している。しかし、噛み付かれた人は30分もしないうちに起き上がって奴らと同じように徘徊するのだった。多分ウイルスのような物が伝染するのであろう。噛まれない限り伝染しないという事は多少なりとも救われる。そうでなかったら藤岡は今頃外の奴らのようになっており自分達も奴らの仲間にされてしまっていたことだろう。

30分ほど前からテレビが復活していた。しかし、新しい情報や具体的な打開策は無いようだった。しきりに室内から出ないようにと言っていた。

藤岡の家にはナイフが何本か置いてあった。彼はアウトドアスポーツが好きなのでボウイナイフやサバイバルナイフが4本あった。それを今では高橋と藤岡とで2本ずつ腰にぶら下げている。果たしてこれが役に立つかどうかは定かではないが、ある程度気休めにはなるだろう。

奴らはちょっとやそっとでは死なないみたいだった。藤岡は首が折れても向かってきたと言った。普通の人間なら死んでしまうのに、奴らは不死身なのか?しかし、どこかに弱点はあるはずだ。それがわかれば何とかなるかもしれない。

高橋は皆が沈黙している間にいろいろと考えてはみたが、なかなか解決策は見出せない。それは他の二人も同じようだ。

それより美里が心配だった。今のところ藤岡の肩に体を預けてソファーに座っており、ある程度落ちついてはいるが、視線が定まっていないようだ。

彼女は、家族の事が心配で何度も電話を掛けているが全くつながらない。当然携帯電話も同じ状態だ。高橋も同じで、さっきやってみたがやはり繋がらなかった。みんなが挙って電話に殺到して回線がパンクしているのだろう。テレビでも非常事態なので電話回線を空けるように言ってはいるが、そんな事を誰も聞くと思えなかった。

さっきは十数回目の電話も繋がらなかったので、彼女はヒステリー状態になり、電話機を壁に投げつけて泣き叫んでいたが藤岡が抱き寄せて宥めたら静かになった。 

高橋もお袋と妹の事が心配だった。お袋は家にいるとは思うが、妹は仕事に行っているはずだし、もし、お袋が妹を心配して出かけていたとしたら今頃はどうなっているだろう。それを思うと居ても立ってもいられなくなっていた。


日本 滋賀と福井の県境山中 C―130ハーキュリーズ輸送機機内


 墜落から数十分が経過して、生き残った隊員達は落ち着きを取り戻した。動ける者は負傷した隊員達の応急処置をしていた。マクミラン少尉は操縦室でロックウッド少佐の怪我の具合を見ていた。マクミラン少尉は努めて平静を装っていた。彼は士官学校を出てほぼ3年になる。一年半前イラクへ派遣され実際に小隊を指揮した。一年間現地で作戦に従事したが部下を亡くした事はなかった。もちろん負傷者は大勢いたのだが…。同僚には運が良かっただけだと言われた。自分でもそう思っていた。しかし、運がいいだけだろうが何だろうがどうでもよかった。ただ、部下が死ぬ所は見たくはなかったのだ。ガードナー曹長はすっと彼の補佐をしていた。士官学校を出たばかり彼に実際の戦いのノウハウを教えてくれたのはガードナー曹長だった。他の部下が戦死しなかったのはガードナー曹長のアドバイスのお陰だと思っていた。彼は、まるで兄貴のような存在だった。折角、無事に戦地から戻ってきたというのに。リンドン伍長まで、こんな事になるなんて…。マクミラン少尉はロックウッド少佐の額の怪我を覆っている包帯を取り替えると溜息をついた。

「少佐、この後はどうしましょうか?」マクミラン少尉が言った。

「問題は外界がどうなっているかだ。ここで起きた事が他でも起こっているとなると救助隊が来る可能性は少ない。それを調べる必要がある」ロックウッド少佐が言った。

「私もそう思います。しかし少佐、あなたは動かない方がいい。この怪我ではこの山の中を歩くのは無理です。我々にしても負傷者がこれだけいてはここから出るのは危険です。もう暫らくして救助隊が来ないようなら私が斥候に出ます。カンボジアの山奥とは違って所詮ここは日本ですから20キロも歩けば民家につくでしょう。私はそういう類の任務は慣れていますから」

「そうしてくれるか?君がいてくれて助かった」

「お安い御用ですよ。私はだいたいこんな狭い所に閉じこもっているより森の中にいた方がずっと気がまぎれますから」

「ありがとう。とにかく、クルー達が気付いてくれれば問題ないんだが…」

「そうですね。少し様子を見るしかありませんね。まあ、これだけ食料があれば暫く何とかなるでしょう」マクミラン少尉はそう言うと非常用食料の箱に目配せした。

C―130輸送機の後部貨物室でオーウェン中尉の様子を見ていたスマイソン曹長は今まで気を失っていた5名のクルーの内、一番初めに倒れたライトマン伍長の一指がピクリと動くのに気が付いた。

「ライトマン伍長、気が付いたのか?」スマイソン曹長は慌ててライトマン伍長に近寄った。その声を聞いてオーウェン中尉も体を起こした。

「スマイソン曹長、ライトマン伍長が気が付いたのか?」オーウェン中尉が尋ねた。

「気のせいですかね。腕が動いたような気がしたんですけど」スマイソン曹長はそう言いながらライトマン伍長の様子を伺った。顔色が多少悪そうだが、それ以外はこれと言って異常はなさそうだった。これなら、いつ気がついてもおかしくはなさそうだ。スマイソン曹長はライトマン伍長の肩を揺すって反応を見た。その騒ぎを聞いて操縦室にいたマクミラン少尉が2階から身を乗り出した。

「どうした?」マクミラン少尉はそう言うと手すりから覗き込んだ。

「伍長が気付いたようだ」オーウェン中尉が言った。

「伍長、しっかりしろ」スマイソン曹長はそう言うと顔を近づけた。するとライトマン伍長が急に目を覚ました。スマイソン曹長は驚いて体を起こした。しかし、それよりもライトマン伍長のほうが一瞬早かった。彼はすばやい動きで体を起こすとスマイソン曹長の首に噛み付いた。恐ろしい悲鳴があたりに響き渡った。オーウェン中尉は一部始終をみて唖然とした。彼は慌てて立ち上がると二人のところに行きライトマン伍長を力いっぱい引っ張りスマイソン曹長から引き離そうとした。

「ライトマン、何をするんだ!離すんだ!」オーウェン中尉が叫んだ。スマイソン曹長は首をかまれたまま叫び続けていた。その首からは大量の血が噴出していた。

「助けてくれ!」スマイソン曹長が唸った。オーウェン中尉は渾身の力を込めてライトマン伍長を引き剥がした。引き剥がしたというよりライトマン伍長がスマイソン曹長の首の肉を食い千切ったと言ったほうが正しいかもしれなかった。スマイソン曹長は首を押さえたままひっくり返ってしまった。その押さえた手から大量の血が流れ出した。オーウェン中尉は引き剥がしたライトマン伍長の顔を見た。口の周りにスマイソン曹長の血と肉片でどす黒くなっている。その上、あまりにも恐ろしい形相をしているのだ。ライトマン伍長は、今度はオーウェン中尉の喉に向かって飛び掛ってきた。オーウェン中尉は慌てて体を交わした。間一髪だった。それを見ていたマクミラン少尉が慌てて階段を下りていった。

「ライトマン伍長、何をやっているんだ?!」マクミラン少尉が言った。彼が階段の中ほどにさしかかったとき他のクルーも次々と動きだした。マクミラン少尉は足を止めた。ノートン大尉が立ち上がったのだ。

「ノートン大尉、大丈夫ですか?」マクミラン少尉が恐る恐る尋ねた。ノートン大尉は返事をするわけでもなくマクミラン少尉に向かって歩いてきた。更に他の隊員もマクミラン少尉とオーウェン中尉に向かって歩き出した。

「中尉、彼らはみんなおかしいです!」マクミラン少尉はそう言ったがオーウェン中尉はそれどころではなかった。ライトマン伍長と格闘していたのだ。その騒ぎを聞きつけて痛い左足を引きずりながら手すりまで這いずってきたロックウッド少佐はその光景を見て何がなんだか分からなかった。とにかく、襲われている隊員を何とかしないといけなかった。

「マクミラン少尉、拳銃は持っているか?」ロックウッド少佐が怒鳴った。

「はい、持っています!」マクミラン少尉はそう言うとピストルベルトからM-9自動拳銃を抜いた。そして安全装置を外すとスライドを引き薬室に初弾を挿入した。

「警告して、止まらなければ撃て!」

「しかし、上官を撃つなんて!」マクミラン少尉は後ろに下がりながら言った。

「いいから撃つんだ!これは命令だ!」

「分かりました。ノートン大尉!止まってください!」マクミラン少尉はそうと拳銃の狙いを付けた。しかし、ノートン大尉は全く怯む様子もなく襲い掛かろうとしていた。それを見てロックウッド少佐は叫んだ。

「少尉、撃て!」ロックウッド少佐が言った。

「ノートン大尉、お願いです。止まってください!」マクミラン少尉はそう言ったがノートン大尉は全く動じず距離を詰めてきた。やむ終えず足を狙って拳銃を発射した。機内に大きな発砲音が鳴り響いた。拳銃弾は右足太ももに命中した。ところがノートン大尉は全く意識していないようで、そのまま普通に歩いてくる。マクミラン少尉は頭が混乱した。“どうなっているんだ?!”

その時、ライトマン伍長と格闘していたオーウェン中尉の叫び声が聞こえた。

「ぎゃー!」オーウェン中尉の断末魔だった。マクミラン少尉はその断末魔の声の主を見るとフェリス少尉とライトマン伍長の二人に噛み付かれているところだったのだ。マクミラン少尉はその光景を見てあまりに恐ろしくなりノートン大尉のもう片方の足に銃弾を撃ち込んだ。しかし、ノートン大尉は拳銃弾を両足に撃ち込まれて大量に出血しているのだがまるで意に介していないように歩いてきた。ロックウッド少佐はこのままではマズイと思い決断した。

「少尉、頭を撃て!やむ終えん撃つんだ!」ロックウッド少佐が怒鳴った。今となってはさっきまでスマイソン曹長とオーウェン中尉を襲っていた二人も一緒になってマクミラン少尉に向かって歩いてきていた。

「大尉!」マクミラン少尉はそう叫ぶとノートン大尉の額を狙って銃弾を発射した。間一髪だった。ノートン大尉が襲いかかろうとしたその瞬間、彼の額に小さな穴が開いた。ノートン大尉はマクミラン少尉に倒れ掛かってきた。マクミラン少尉は慌ててあとずさりすると一気に階段を駆け上がった。そして、ロックウッド少佐を肩に担ぎ上げると操縦室に飛び込んだ。マクミラン少尉は痛がるロックウッド少佐を床に放り投げると操縦室のドアに鍵をかけた。外ではフェリス少尉、オリバー曹長、ゴーディ伍長、そしてライトマン伍長が操縦席の扉を開けようとドアを叩いていた。

「少佐?!どうなっているんですか?!」マクミラン少尉は声を振るわせながら言った。

「私にもわからん!」ロックウッド少佐が怒鳴った。

「自分は上官を射殺してしまいました!なんて事をしてしまったんだ!」マクミラン少尉は完全に動転してしまっていた。

「少尉、君のせいじゃない。私が命令したんだ。気に病むな」ロックウッド少佐が言った。

「しかし、両足を撃っても平気だったんですよ。あんなことがあるんですか?!」マクミラン少尉が震えながら言った。

「落ち着くんだ!とにかく今はここでじっとしていよう。中には入って来られないようだし…」ロックウッド少佐も頭が混乱して自分が何を言っているのか分からないくらいだった。今まで忠実な部下であり友人だった人間が自分たちを襲おうと扉の前で待ち構えているのだ。自分自身気が狂ったのではないかと思った。

「オーウェン中尉とスマイソン曹長はどうなったんでしょうか?」

「たぶんダメだろう。二人とも首をかまれていたからな。いずれにしても今助けにいくことは出来ない。暫く様子を見よう」ロックウッド少佐が言った。

「こんなことがあっていいのか?信じられん…」マクミラン少尉がブツブツと独り言を呟いた。ロックウッド少佐は自分自身もかなり動揺していることに気が付いた。

“どういうことなのだ?彼らは一体どうしたのだ?意識を失っていたと思ったら今度は襲い掛かってきた。ロシアの秘密兵器か?考えられることといえば化学兵器しかない。前に本で読んだことがある。神経ガスかなにかでそれを吸うと凶暴になり仲間を殺すというやつだ。しかし、それなら自分たちがなんともないのは何故だ?!”ロックウッド少佐は答えのない迷路に迷い込んだような気分だった。“とにかく冷静に考えるしかない。落ち着け、落ち着け…”ロックウッド少佐は自分に言い聞かせた。


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