第一章

三週間前


地球の周回軌道をまわる人工衛星は、現在活動している物や既に任務を終え、いずれは地球の引力に対抗しきれず落下し、大気圏で燃え尽きるのを待つだけのものを含めて数百基あった。その中に他には例を見ないほどの大きさの人工衛星があった。

それは、旧ソビエト連邦が打ち上げた軍事偵察衛星で、巨大な太陽電池パネルを除く本体部分だけでも全長5メートルあり、低出力ながら100キログラムのプルトニュウムの核分裂を燃料とする原子炉を一基搭載していた。

通常、人工衛星は地球を回る軌道に打ち上げられたあと、殆どは太陽電池パネルを開きその発電機によって電気をおこし高感度カメラや観測装置などの精密な電子機器を動かすようになっている。中には軌道修正するためにスラスターを持っているものはあったが、人工衛星を軌道上に打ち上げる事でさえ大金が掛かるのに、打ち上げ重量が増えるごとに倍数的にコストがかかる事を思えば、たいがいの気象衛星や通信衛星などの商業的なものは、それほど大きな物にはなりえなかった。

しかし、軍事的なものはコストなど一切関係なく、この衛星も他の軍事衛星と違わず、目的とそれに必要な機能を最大限に発揮させる為、大金をつぎ込み打ち上げられたのだった。    

特にこの衛星は、旧ソ連時代の冷戦中に製造されており、軌道上からアメリカ合衆国本土にある軍事基地の偵察だけではなく、有事の時には、今でさえ最先端技術である電磁パルス(EMP)を発生させ、通信装置や航空機の電子機器に機能障害を起こさせる装置を搭載して、地上に対しての攻撃ができるように設計されていた。これを作動させるには莫大な電力が必要であり太陽電池だけでは供給する事が不可能なために原子炉が搭載されたのだった。

しかし、この衛星は打ち上げられてから既に20年以上経過しており、電子機器の大半は作動不良を起こして役に立たなくなっていた。そもそも、今では既に東西の冷戦も終了し、ソビエト連邦自体消滅してしまっている以上、この衛星に与えられた究極の任務は必要とされていなかった。今となると、これを管理しているロシア政府は、いずれこの人工衛星の軌道が下がり地表に落下する時、この大きな衛星本体と一緒に、原子炉も大気圏で燃え尽きてくれるのを祈っているだけであった。

ところが、太陽系の彼方から、この衛星の軌道に向けて飛行する小さな不思議な物体があった。それは地球から数百キロの位置を高速で飛行しており、衛星に衝突するまでにあと数十秒の位置でしかなかった。

その物体は、見た目には小さな隕石にしか見えず、直径10ミリメートルほどの小さなもので、鉄とニッケルを基本組成にしてはいるが、青白く輝いており、秒速10キロメートルのスピードで飛んでいた。いずれにしてもこの大きさの物体では地上から観測する事ができるわけも無く、通常なら大気圏に突入すれば、ほんの数秒の間で燃え尽きてしまう筈であった。ましてや、この広大な宇宙空間で人工衛星とこの飛行物体が衝突する確率など何千万分の一でしかなく、誰しも可能性はあるとは思っていても、まさかこんなに大惨事になるとは知るよしもなかった。

衝突した瞬間、通常ならこの物体は、やわらかければ分解して宇宙空間に飛散するだろうし、固ければ衛星を貫通して、そのままどこかに飛んでいってしまうか、もしくは大気圏に突入し空気との摩擦熱の中で燃え尽きてしまっていたことだろう。しかし、どうした事か衝突した角度と相対速度との微妙な取り合わせにより、人工衛星を貫通するまでは至らなかった。悪い事にその物体は、衛星の外部パネルと電子機器のプリント基板を通り抜けたあと、特別頑丈にできた原子炉収納容器に当たりその外郭を貫通したのみで炉心内部に留まってしまった。

そして衝突の衝撃で人工衛星は、今まで回っていた高度50万メートルと120万メートルの長楕円軌道から外れ、徐々に地表に向けて高度を落としていった。最初は僅かずつだったが、高度が徐々に下がるにつれ地球の引力に対抗しきれず大気圏に突入する軌道に入っていった。

最初、原子炉内に侵入した物体は、高温高圧で放射線の充満した炉心で溶けて無くなるかと思われた。

しかし、溶けたのは表面の鉄、ニッケルなどの重金属だけで、その内部にあった核は溶ける事は無かった。それは主に炭素・珪素からなっており、単純な塩基配列を持つアミノ酸の欠片を取りまくように構成されていた。あたかも、この弱い核を覆う鎧のように重金属で包み込まれていた卵は、炉心内に充満する高レベルの中性子やα線、γ線などの放射線を浴びて孵化し、原子炉の燃料であったプルトニュウムを栄養素として異常なほど急激に増えていった。


ロシア共和国アルハンゲリスク州プレセーツク 人工衛星管制センター


クリコフはディスプレーがずらりと並んだコンソールボックスに座り、いつものように退屈な任務についていた。今日は1週間の長かった勤務が明ける日だ。

「あと、1時間か」クリコフは管制室正面の巨大ディスプレーに取り付けてあるデジタル時計を見て、うんざりしたように呟いた。その画面には世界各国の標準時間の他に何十基もの人工衛星の地球周回軌道が表示されていた。

RSA(ロシア宇宙庁)の管制センターに勤務する、ロシア宇宙軍所属クリコフ・ウラジミーロフ大尉は旧ソ連時代から延々と打ち上げ続けられた多数の人工衛星の軌道をチェックするのが仕事だった。

彼は変わった経歴の持ち主で短期間だがロシア特殊部隊スペッツナズに所属していた事もあった。しかし、今では一日中薄暗い管制センターに閉じこもっているので顔色も青白くなってしまっているうえ、ディスプレーの見過ぎで視力が落ちてメガネを掛ける羽目になり、まるでゲームオタクのような風体になってしまっていた。もちろん、体格だけは未だにガッシリしていたが…。しかし、そんな彼を見る限りではスペッツナズにいたとは全く思いもつかない事で、誰がどう説明したところで信じてもらう事は出来ないだろう。

もともと彼は、モスクワ大学、物理学部を卒業して博士号を持つエリートであった。彼の両親が共産党の幹部だった為、生活も裕福で政府から色々と優遇されていたのだ。大学卒業後は軍に入り暫らくの間モスクワにある陸軍研究センターでマイクロ波の研究をしていた。しかし、両親が突然の飛行機事故で死んでしまった途端全てが暗転した。クリコフは幹部用住宅から狭く薄汚れたアパート暮らしになってしまったうえ研究センターまでも追い出されてしまったのだ。おまけに彼の転属先はタジキスタン駐留の第201自動車化狙撃師団の工兵隊であり、橋を掛けたり地雷原を作ったりする事くらいが関の山で、到底そこで彼の技術を生かすことができるとは思えなかった。そこで、彼はやむなく亡き父のコネを使い辛うじて本部付き技術士官としてスペッツナズに入る事が出来た。そこは一般の師団とは異なり部隊内で赤外線暗視装置、レーザー測量器や衛星通信システムなどを多用しており、少なからずクリコフの技術が重宝された。もちろん修理とかが殆どだったが…。

スペッツナズはロシア軍の中でも最前線部隊であり、技術士官の彼自身も当然ながらアフガニスタン、チェチェンなどに派遣され実戦を何度も経験した。その殆どはゲリラ戦であり、正規軍が民兵に襲われロシア軍部隊に多大な犠牲者がでていた。クリコフが所属するスペッツナズもその例に漏れず、その戦いの中で多くの戦友を亡くした。そんな頃は生き抜くことだけで精一杯で、もはや自分の技術の事などどうでも良くなっていた。クリコフはいずれどこかの砂漠かジャングルで死ぬのが関の山だと殆ど諦めていたのだ。

ところが数年前リビアへ軍事顧問団の一員として派遣されていた時、突然モスクワに呼び出されロシア宇宙軍に引き抜かれる事になった。それは宇宙軍組織改変と新システム導入の為のスタッフ集めで、物理学博士であり、マイクロ波についての高度な知識を持っているクリコフに白羽の矢が立ったのだ。その時クリコフはロシア軍の中でも最先端をゆくエリート部隊へ配属になった事を大喜びしたものだった。

しかし、ここに赴任してみると当初クリコフが思い描いていた仕事内容とは雲泥の差があった。何がどうなっているのか、マイクロ波など殆ど関係ないと思える管制オペレーターの仕事を押しつけられてしまったのだった。結局、軍隊ではどこでも一緒なのだ。おまけに、ここ人工衛星管制センターでは全ての衛星はコンピューターがチェックをしており、彼の仕事はシステムが異常なく作動しているかどうかを見ている事くらいしかなく、それはあまりにも退屈極まりない仕事であった。もちろん、スペッツナズにいた時と比べれば銃弾が飛び交う中に身を置く事もないし、目の前にいる敵と命のやり取りをする必要もないので、それから思えばここはまるで天国のようなものだった。しかし、今のクリコフにとって退屈というものはある意味、敵の銃弾よりも厄介な物に思えるようになっていた。

確かに新しい衛星を打ち上げた時などは寝る暇もないほど忙しい。殺人的な忙しさといっても過言ではないだろう。しかし、今となっては軍事予算が大幅に削減された事もあり、新たに衛星が打ち上げられるのは1年に一度あるかないかという程度になってしまっていた。最後に打ち上げられたのは10ヶ月以上前のことで、毎日退屈な日々を送るクリコフにとっては一昔前のような感覚であった。結局、クリコフが普段する事と言えば、衛星の軌道が表示されているディスプレーの画面を眺めるほかには目の前に並ぶ古ぼけたコンピューターが、たまに故障したり作動不良を起こしたりした時に直す事くらいが関の山で、今では専門の修理屋より余程手際よく直せるのではないのだろうかと思えるくらいだ。彼はついさっきもプリンターの紙詰まりを直したばかりだった。

「まったく話にならない。軍事衛星を管理している所がこんなポンコツコンピューターを使っていると知ったら、みんな驚くだろうな」クリコフはさっき直したばかりのプリンターが、印刷された紙を順調に排出しているのを見つめながら呟いた。クリコフはこれまでに何度となくコンピューターや周辺機器を新しい物にするよう上司に申請したのだが、そのたびに予算削減を理由に却下されていた。

「まあいいさ。俺がこんな事しているのもあと3ヶ月の事だ。そのあと、どうなろうと知ったことじゃないしな」クリコフはそう呟くと今日の勤務日誌を書き込むためにキーボードに向かった。

クリコフは韓国の企業から誘いがありサムソン・モスクワ支社に就職する事が決まっていたのだ。クリコフは恵まれていると思った。旧ソビエト連邦が崩壊した今となっては、いくら軍に所属していても、まともに給料はもらえない。官給品の武器弾薬や物資をマフィアに横流しして小遣いを稼ぐ事が出来る司令官クラスは良いのだが、ただの兵隊にとって収入の当ては、数ヶ月遅れで出る僅かばかりの給料以外に無いのだ。その上、軍備縮小の為、今後3年間で10万人の人員削減をするという通達が来ては、オチオチ仕事などしてはいられないだろう。ましてや、潰しの利かない軍人には他に就職口など見つかる筈も無かった。マフィアの用心棒にでもなれれば上等な方だ。いや、そんな仕事でもありつくことが出来れば幸運ではないだろうか。殆どの連中は、首になった途端、路頭に迷う事は目に見えていた。

クリコフは軍人であっても技術者だったのが幸いした。彼は、数年前モスクワで開かれた国際展示会に軍がマイクロ波計測装置を出展した際、エンジニアとして暫らく出向したことがあった。その時、近くのブースで出展していた韓国人実業家と親しくなり、そのコネを通じて新しい仕事を見つける事が出来たのだった。そこでは、彼本来の専門であったマイクロ波を使った通信システムの研究をする事になっていたのだ。

「キーシンのやつを見返してやる。あの野郎は大した仕事もしないくせに、いつも怒鳴ってばかりで本当に嫌なやつだ。何たって今度の仕事ではやつの半年分の給料を1ヶ月でもらえるんだからな。それに支払いだって一日足りと遅れることもない」クリコフは嬉しそうに呟くと管制指揮官のキーシン・ロゾイエフ中佐に報告する為の業務日誌を書き終えた。

“今年の夏には妻のイリーナにもやっと楽をさせてやることができる。誕生日には美しい彼女にピッタリなイブニングドレスをプレゼントしてあげよう”クリコフはそう思うと笑みがこぼれた。彼はロシア宇宙軍に配属されて暫らくしてから知り合ったイリーナと結婚していた。二人に子供はいなかったがそれでも生活は厳しかった。彼女は生活費の足しにする為、僅かばかりの賃金を得るため夜遅くまで内職していたのだった。ところが、そこまでしても闇市で豊富に並ぶ品物を買う事も出来ず、彼女は凍えそうに寒い中、何時間も行列に並んで配給品のパンやミルクを手に入れるしかなかったのだ。

クリコフは結婚してから彼女に一枚もドレスを買ってやることが出来なかった事が一番辛かった。しかし、やっとこの生活から抜け出す事ができるのだ。クリコフはそう思っただけで幸せな気分になった。そして、イリーナが綺麗なドレスを身にまとって踊っている姿を想像すると再び笑みが浮かんだ。

「おい、クリコフ。何をニヤついているんだ?どうせ美人な女房の事でも考えていたんだろう?そろそろ勤務が明ける時間だ。とっとと片付けて帰ろうぜ。あとは帰ってからのお楽しみだ」少し離れた通信用コンソールに座っていた同僚のセルゲイ・ゴロフコ大尉がからかい半分に言った。

「やかましい!そんな事言っているとお前にイリーナの友達を紹介するのは無しだぞ!」クリコフは照れ隠しをするために怒鳴った。

「クリコフ、そりゃ無いぜ。頼むよ同志。謝るからさぁ」

「わかればいいさ。セルゲイ、その友達もなかなかの美人らしいぜ。イリーナに負けず劣らずらしいから期待して待っているんだな」

「ありがとうございます。同志クリコフ!」セルゲイは嬉しそうに敬礼した。

「いい気なもんだ。それじゃ仕事を片付けるか」クリコフはそう言うと勤務を次の当直に引継ぎする為、システムの最終チェックを始めた。あらかたチェックが終わろうとした時、突然アラームが鳴り出した。

「何なんだ?!」クリコフはそう唸るとアラームが鳴っている衛星追跡システムのディスプレーに向かいキーボードを慌しく操作した。画面には軌道を逸脱した衛星の番号と本来の軌道、新しい軌道が同時に表示されていた。

「人工衛星の軌道逸脱?何てこった。ついてないな。もうすぐ勤務が終わるというのに。いったいどいつだ?!クソッタレめ!」クリコフは吐き捨てるように言った。

「おい、クリコフ。どうかしたのか?」セルゲイがアラームに気づいて心配そうに言った。

「衛星が軌道を外れたらしい。セルゲイ、モスクワのツープ管制センターに連絡して軌道が外れた衛星が無いか調べてもらってくれ」

「わかった」

「衛星識別番号USR1002?えらく古い衛星だな。前回はシステムエラーのお陰でキーシン中佐に思いきりどやされたからな。今回もそうかもしれん。もう一度チェックしておいたほうがいいな」クリコフはそう呟くと衛星追跡システムに異常が無いか再チェックをした。

「くそっ!今回はシステムの異常じゃないな。こりゃ、長引くぞ。キーシンの奴も機嫌が悪くなるだろうな。何てついてないんだ!」クリコフはそう言うと内線でキーシン中佐に報告する事にした。


キーシン・ロゾイエフ中佐のコンソールは管制管理室の中にあった。そこは管制室を全て見渡せるように一段高い所に設けられており、強化ガラスで隔てられていた。

キーシンは机の上に積み上げられた夥しいほどの書類の山からファイルを一冊無造作に手に取ると座り慣れた椅子に深々と腰掛けた。彼はこの山全部の書類に目を通すのに、いったいどれだけの時間が掛かるのだろうと思うとうんざりした。おまけに今、手にしたのは部下からの報告書だ。これこそが問題の代物でこの書類の山の中で一番退屈であり一番厄介な物だった。なにせ毎回全く同じ内容なのだ。それでもキーシンは全部に目を通す必要がある。ましてや、いつもと同じ報告内容であればいいのだが、もし前回と違いがあった場合それこそ大問題になる可能性があるからだった。

キーシンは金髪のクールカットで、どこからどう見てもロシア軍人の典型といった感じであった。その切れ長の目の奥に光るブルーの瞳に睨まれるとそこらの兵隊の殆どはビビってしまう。

彼の家系は代々軍人で、たまに帰ってくる父親からは先祖の輝かしい功績を小さいころから寝物語の替わりに聞かされていた。祖祖父は陸軍、祖父は海軍、父親は潜水艦の艦長。キーシンも最初のころは父親が語る先祖の話に目を輝かせながら聞いていたこともあった。しかし、大きくなるにつれ、そんな話はうざったくなってしまった。ひとつの話が終わるたびに“お前も立派な軍人になれ。ロゾイエフの名前に泥を塗るな。祖国のために命を賭して働け。そして、英雄として死ぬのだ”と父親から言われ続けて嫌気が差したといったほうが正しいだろう。とは言え、彼の将来に他の選択肢があるわけでもなく、キーシンはやむなく父親の意向通りに軍に入ることにした。もちろん嫌々ながらだが…。しかし、キーシンは息子に海軍へ入って欲しかった父親へのささやかな反抗として、彼がもっとも嫌っていた宇宙軍に入ってやった。

父親はかねてから“宇宙軍なんてものは軍と名前は付いてはいるが、あそこにいる連中はただの技術屋の集まりだ。そこらにある電気屋と何が違う?軍人とは身を挺して国を守ってこそ始めて軍人と言えるのだ。椅子に座ってコンピューターをいじくりまわしているだけのやつらと一緒の軍服を着ていると思うだけでムシズがはしる”と言っていた。その宇宙軍に息子が入隊すると知った時の父親の顔はとてもこの世のものとは思えなかった。暫くは絶縁状態になったほどだ。

もちろん、キーシンが宇宙軍に入るためには彼自身、相当の努力が必要だった。海軍へ入っていれば父親のコネもあり、何の努力をする事も無く恐らく今頃は、少なくとも駆逐艦の艦長くらいにはなれていただろう。だが、彼は父親への無言の抗議をする為に、昼夜違わず勉強をして遂にはモスクワ大学へ行き宇宙物理学を修得して宇宙軍に入ったのだった。もちろん、ロゾイエフと言う名前があったからモスクワ大学にもロシア宇宙軍にも入ることが出来たことは彼自身理解していた。

その後、父親との仲はある程度は回復して2、3年に一度くらいは家族揃って食事をするようにはなった。しかし、何故かしらその度にお互い険悪なムードになってしまうのが常だった。つい先日会った時には“まだ、管制指揮官などしているのか?海軍に入っていれば今頃は…”といやみを言われたばかりだった。キーシンは彼の言葉をいつも聞き流していた。すでに海軍を退役した父親に対してムキになっても始まらない。彼はそもそも息子がロシア宇宙軍でいったい何をしているのかも知らないだろうし、知りたくもなさそうだった。彼はただ単に、嫌いな宇宙軍とはいえ現役で軍人をしているキーシンが羨ましいのだ。

しかし、キーシンにはその気持ちはわからなかった。彼にとって軍隊とは、あくまで生活をするために必要な収入を得るための単なる仕事であり、出来る事ならこんなきつい仕事などやめて、もっと家族と一緒にいられる仕事に変わりたいくらいだった。もちろん、そんなことが出来るわけはないのだが…。

ましてや、一人息子のユーリを軍人にはしたくなかった。妻のアンナも同じことを思っているはずだった。昔とは違い、今では自由経済とやらのお陰で、能力さえあればいろいろな仕事にありつくことが出来る。ロゾイエフの名前さえあれば、キーシンと同じようにモスクワ大学に行く事も出来るだろう。そこで専門知識を習得すれば、ユーリには数え切れないほどの世界が開けるはずだ。ただ、それはユーリ自身が自分で決めればいいだけの事であり、大学に行きたくないのであればそれはそれで良かった。いずれにしても、彼は父親が自分にしたように軍隊をユーリに押し付けることは絶対にしないと心に誓ったのだ。

キーシンは机の上の写真に目をやった。そこには妻アンナと今年5歳になる息子ユーリが笑っていた。彼もそれを見て微笑んだ。キーシンのその笑顔はこの管制センターにいるスタッフの誰も見たことがないだろう。彼は部下の前では努めて厳しい表情を作っていたのだ。それはロシア宇宙軍中佐としてのキーシン・ロゾイエフだった。しかし、この写真を見ている時だけはただのキーシン・ロゾイエフに戻るのだ。父親としてのキーシン。夫としてのキーシン。同じ写真が自室のベッドの脇にも置いてある。この無機質で殺伐とした管制センターの中で彼が安らげるのはこの写真を見ているときだけだった。

キーシンは再び椅子に深々と座りなおすと軍人としての表情に戻り、座りなれたイスに腰掛け、まずいコーヒーを一口飲みながら各部署からの報告書に目を通し始めた。

その時突然、ブザーと共に目の前にあるインターコムの赤いランプが点滅し始めた。管制室から内線が掛かってきているのだ。キーシンはチッと舌打ちをした。こんな時間に連絡がある時は大体ろくな事は無い。彼はインターコムのスイッチを入れると、ぶっきらぼうに返事をした。

「どうかしたのか?」 

「キーシン中佐ですか?クリコフ大尉です。衛星が軌道を逸脱しました。すぐ来て下さい」

「軌道の逸脱だと?!また衛星追跡システムの故障じゃないのか?」キーシンは胡散臭そうに言った。

「いいえ、故障ではありません。衛星追跡システムを2度チェックしました」

「わかった。すぐ行く」キーシンはそう言うと管制室を覗き込んでクリコフのいるあたりを睨みつけた。

クリコフは内線のボタンから手を離すとため息を漏らした。

「キーシンの奴はもう怒っていやがる。何てこった。ついてない」クリコフはそう言うと何度も口癖の“ついてない”をくり返した。

 キーシンは管制室に勢いよく入ってくるとクリコフのコンソールボックスにやってきた。彼はクリコフを押しのけるとムッとした表情をしながらキーボードを乱雑に扱ってシステム異常が無いか再びチェックした。

「システムには異常ないようだな。前回はシステムのエラーだったが、どうやら今回は違うようだ。クリコフ大尉、ISS(国際宇宙ステーション)の軌道をディスプレーに映し出してみてくれ」キーシンは言った。クリコフは頷くとキーボードを操作して画面にISS国際宇宙ステーションの軌道を表示させた。

「ISSの軌道は正常に表示されています。やはりエラーではないようです。念のためゴロフコ大尉がツープ管制センターに問い合わせをしています」

「ゴロフコ大尉、向こうは何といっている」キーシンが尋ねた。

「少しお待ちください。現在調査中です。間もなく返事が来ると思います」セルゲイ・ゴロフコ大尉はそう言うとヘッドセットを介してツープ管制センターと連絡をとった。

「キーシン中佐。返事がきました。やはり向こうも同じ答えです。衛星1基が軌道を逸脱しているのを確認したそうです。ツープ管制センターはこのまま追跡を続行するそうです」セルゲイ・ゴロフコ大尉が言った。

「そうか、わかった。しかし、衛星が軌道を逸脱するとは一体どういう事だ?」キーシンはイライラしながら言った。

「誰かが勝手に軌道を変えたんじゃないでしょうか?」

「そんなバカな事があるか!軌道を変えるなら俺に連絡があるはずだ。大体、この管制センター以外に衛星を操作出来る所なんか無いんだぞ!」

「アメリカの攻撃とか」

「そんな事をしてアメリカに何のメリットがある?!」

「それじゃ、中国とか日本かも?」クリコフはキーシンの人をバカにしたような言い方に嫌気が差して思いついた事を適当に言った。

「クリコフ大尉、そもそも衛星が攻撃された兆候でもあるのか?他の衛星が接近してきたとか、ミサイルらしき物が近づいたとか」キーシンは呆れたように言った。

「いえ、それはありません。他国の商業衛星を含めて、この数時間で一番接近した物でも3000キロ離れています」

「それなら攻撃とは考えられん!クリコフ大尉、衛星自体は壊れていないんだな?」

「衛星から送られてくるデータでは異常無しです。ただ、かなり旧式で衛星のシステムもあちこち作動不良を起こしているようです。しかし、破壊されているわけではないようです」 

「何かが衝突したのかもしれない。隕石の類は探知されなかったのか?」

「はい、何も。しかし、うんと小さなものだったら探知は不可能だと思いますが?」

「そうだな。クリコフ大尉、どこが壊れているのか調べるんだ」

「わかりました。中佐、アクセスコードをお願いします。衛星の自己診断システムにアクセスしてみます」

「わかった、そうしてくれ」キーシンはそう言うとキーボードにアクセスコードを入力した。クリコフは衛星の自己診断システムにアクセスして故障個所を調べた。

「こちらからスラスターを作動させる事は出来るのか?」キーシンは尋ねた。

「壊れていなければ基本的には出来ると思いますが、問題は衛星が反応するかどうかです」クリコフが答えた。

「厄介だな。いずれにしてもコゾレフ少将の許可がいる。新しい軌道はどうなっている?」

「コースの変化は僅かですが問題は高度が徐々に下がっているのです。いずれこの衛星は大気圏突入コースに入ると思われますが若干角度が浅いようです。このままですと部品が燃え残り、地表に落下する可能性があります」 

「おおごとになりそうだな。私は、この衛星の仕様を調べる。衛星識別番号を俺のコンソールに送ってくれ。クリコフ大尉、念のため管制センターの全員に警戒態勢を取らせるんだ。それと交代要員も召集しておいてくれ。交代時間も近いから、あらかたここに集まっているだろう」キーシンはそう言うと自分のコンソールに走っていった。

「わかりました」クリコフはそう言うと内線で管制室の全員に通達した。

キーシンは管制管理室にある自分のコンソールボックスに戻り、キーボードの前に座るとアクセスコードを入力して衛星の仕様ファイルにアクセスした。これは最高機密に属する内容なので少佐以上のアクセスコードを知っている者でないとアクセスはできなかったのだ。キーシンは画面に表示されたデータを見て唖然とした。

「何てこった!こいつは原子炉を積んでいやがる。こんなのが落ちてきたら大変な事になるぞ!チェルノブイリなんて物の数じゃない」キーシンはそう唸ると慌てて基地指令官のコゾレフ・ヴォロストフ少将に連絡する為、受話器を取った。


コゾレフは自室のベッドで深い眠りについていた。毛布の上からでも三段腹になっているのがよくわかる。恐らく今、新兵の基礎訓練をやったとしたら10分もしないうちに心臓発作を起こすに違いない。しかし、少将になった彼には今さら銃を持って走り回ることもないだろうし、ましてやちょっとしたミスを犯したからと言って腕立て伏せを強要するような上官もいない。だから、こんな体格でも職務を果たす上で何ら問題はなかった。ただ、司令官としては基地内で一大事が発生した時には部下の誰かに罪をなすりつけることが出来ない場合は自らの命で代償を払うしかない。自分の命と引き換えなのであれば、退役する前に基地の備品を売りさばいて闇でしか手に入らない高価な牛肉や高級ワインを調達して散々贅沢でもしないと割りが合わないと思っていた。その付けが回って今より数倍の醜い肉布団を体に巻きつけることになったとしても彼自身はまったく後悔はしていなかった。

それどころか、彼の最大の関心事はスイスの匿名口座の預金高が50万ドルまでにあと少しであることだ。今では目標達成の為に直属の部下に多少の小遣いを渡して組織的にマフィアへ武器弾薬を横流ししている。この調子ならあと半年もすれば目標額に達するだろう。あと数年、何も問題が起きずに無事退役することが出来たらフランスにでも別荘を買って、そこで老後はゆっくり過ごすことにしよう。そんな夢を思い浮かべながらコゾレフは夕べも分厚いサーロインステーキ2枚と山ほどのキャビア、それにフォアグラのソテーをペロリと平らげ、ウォッカを丸っと一本空けたあと、この数時間というものまったく身動きせずに眠っていた。

ベッドの脇に置いてある電話が急に鳴り出すと、彼はもぞもぞとシーツの中で寝返りを打った。そして、片目を無理やり開けると枕元にある時計に目をやった。コゾレフは、うんざりしたように顔をしかめると、ゆっくり起き上がり、鳴り続けている電話の受話器を取った。

「どうしたね、キーシン君。こんな時間に」コゾレフは眠そうに言った。

「閣下、お休みの所申しわけありません。実は大変な事になりました…」


アメリカ合衆国コロラド州 ピーターソン空軍基地


ピーターソン空軍基地・航空宇宙防衛センターにあるアメリカ統合宇宙軍司令部は、自国の人工衛星だけではなく地球を回っている世界各国の人工衛星や宇宙のゴミ(ロケットの残骸)など数千に及ぶ物体の軌道を監視するシステムを持っていた。特に他国の軍事衛星については注意深く監視しており、その情報はリアルタイムでアメリカ国防総省ペンタゴンに送られていた。

統合宇宙軍司令部の管制センターで人工衛星の軌道監視システムをモニターしていたリサ・ベンジャミン中尉はロシアの人工衛星の軌道が微妙に変化した事に気付いた。

「あら?この衛星おかしいわね。ねえビル、ちょっとこれ見てもらえないかしら?」リサは隣に座っていた同僚のビル・マッケイ中尉に言った。

「どれ?」ビルはそう言うとリサの目の前にあるディスプレーに近づいて覗き込んだ。リサは持っていたボールペンで軌道が変化した衛星を差した。

「衛星識別番号1981 ― 76A。この人工衛星の軌道が変わっているのよ。ほんの少しだけね」

「どこの衛星なんだ?」

「ロシアのよ」

「ロシアか。厄介だな。調べてみよう。リサ、こいつの正確な軌道を算出してくれ」

「わかったわ」

二人はそれぞれのコンソールに向かい慌しくキーボードを操作した。

「ヤバイな。こいつは軍事衛星だ。こんな旧式の衛星であいつ等が何かしでかすとは思えないが、とにかくマードック中佐に報告したほうがいいな」

「そうね」リサはそう言うと管制指揮官に連絡した。

リサから報告を受けた管制指揮官のスティーブ・マードック中佐は軌道逸脱したロシアの衛星のデータを調べた。統合宇宙軍のデータベースには各国の衛星のデータ、とりわけ東側と言われていたロシア(旧ソ連)などが過去数十年間にわたって打ち上げられた殆どの軍事衛星の仕様や性能が保存されていた。もちろんロシアが自国の軍事衛星のデータを公表するわけもなく、これらの情報は、CIA(アメリカ中央情報局)やNSA(アメリカ国家安全保障局)、それにアメリカ合衆国と同盟関係にある各国の諜報機関が秘密裏に調べ上げた極秘データだった。スティーブ・マードック中佐はそのデータベースからこの問題の軍事衛星が電磁パルス発生装置と原子炉を搭載している事を知ると急遽、アメリカ統合宇宙軍司令官のジョン・クランシー准将に報告した。彼はその報告を受け取ると、その問題の衛星の詳細と軌道のデータをペンタゴンに送り、ウェズリー・シェーファー統合作戦本部長に緊急連絡した。

ジョンとウェズリーは湾岸戦争で一緒に戦った仲だった。当時中将だったウェズリーが空軍参謀をしていた時、ジョンがその補佐として仕えていたのだ。コロラド州デンバー出身のウェズリーは黒人で初の空軍参謀になってニュースウイークの表紙になったこともある。若い時はベトナム戦争で黒人では珍しくパイロットとしてF4ファントムで北爆にも参加。北ベトナム軍のミグを5機撃墜して、ニガー(黒人)のエースと呼ばれていた。

司令部に抜擢された時は、参謀本部内でも黒人蔑視の風潮からか風当たりも強く、馬鹿にされたくないという気持ちから攻撃的な発言が多かった。暫くしてジョン・クランシーが補佐になったのだが、当時二人は全く反対の性格ということもあり何度かもめることもあった。

その内、熱血派ウェズリーの意表をつくようなアイデアと冷静沈着であるジョンの慎重な計画性をミックスすることによって、すばらしい作戦を幾つか編み出すようになり、それからはまるで黒人、白人の枠を取り去り一心同体とでもいうようにお互いの家族共々コミュニケーションをとるようになった。今ではウェズリーも年と共に穏やかになり、ジョンに負けず劣らずの冷静さを保てるようになった。この数年は中東でのごたごたが続き、お互い忙しいこともあって、なかなか会うこともなかったのだが、一昨年ウェズリーが統合作戦本部長になった時、ちょうど空きがあったアメリカ統合宇宙軍司令官にジョンを推挙したのだった。

「やあジョン。久しぶりだな。どうかしたのか?」ペンタゴンの統合作戦本部長ウェズリー・シェーファー大将が言った。

「お久しぶりです閣下。実はロシアの衛星が数分前、突然軌道を変えたのです。旧式の軍事衛星で打ち上げから20年以上たっていますが」

「軌道の変化はどれ位かね?」

「ほんの僅かです。北方向に1度、降下角度も1度です。現在この衛星は大気圏突入軌道に入りつつあります。今、詳細をそちらに送っています」

「ちょっと待ってくれ」ウェズリー大将はそう言うと、目の前にあるコンピューターのキーボードを叩き統合宇宙軍司令部から送られてきたデータを画面に表示させた。

「これだな。うむ。君はどう思うね。ロシアが意図的に軌道を変えたと思うのかね?」

「はい、閣下。私の推測では恐らく故障ではないかと思います。彼らが何かするつもりならこんな旧式な衛星を使うとは思えません。さらに、軌道の変化もあまりにも小さく意図があるとは考えにくいのです。これですと今までアメリカ北西部上空を飛ぶ軌道だったのに対して今の軌道ではアラスカ州の一部を飛ぶ事しか出来ないのです。ただ、これから再び軌道を変える可能性もありますので油断はできませんが…」

「君がわざわざ連絡して来たとなると、そいつは唯の偵察衛星ではないんだろう?その衛星の特別仕様は?」

「電磁パルス発生装置搭載衛星です」

「電磁パルスか。軍事行動だとすると、狙いはアラスカの大陸間弾道弾捕捉レーダーか?」

「はい、閣下。軍事行動だとすればそうだと思います。ただ、故障だとすると問題が…」

「何かね?」

「添付してある衛星の詳細を見ていただければわかると思いますが、この軍事衛星には原子炉が積まれているのです」

「原子炉だって?いずれにしても厄介な事になりそうだな」

「はい、閣下。とにかく我々はこの衛星の軌道を監視して変化があったらすぐにお知らせします。こちらは既に警戒態勢に入っています」

「わかった、ジョン。頼んだぞ。私は大統領にお知らせしてくる。何かあったらホワイトハウスに連絡してくれ」

「わかりました」

ウェズリーは受話器を置くと統合宇宙軍管制センターから送られてきた衛星の詳細を持ってホワイトハウスに向かった。


ロシア共和国アルハンゲリスク州プレセーツク 人工衛星管制センター


クリコフは忙しかった。衛星からのデータの収集。軌道の再計算。衛星とのアクセスチェック。故障個所の究明。管制室の全員で手分けしてやっているのだが、あまりにも膨大な量だったため一向に捗らなかった。おまけにコゾレフ少将まで管制室に現われ、あれやこれやと引っ掻き回して作業遅延に一層拍車をかけた。そのお陰で室内には怒号が飛び交い、まるで戦場のようなありさまだ。今では交代要員も狩り出され管制室内は通常の倍以上のスタッフが犇いており、通路にも人が溢れていてぶつかるたびに怒鳴り声が聞こえてくる。額に汗をにじませながらコンピューターの画面を見つめているクリコフの隣ではこの後勤務につくはずだったヤコブ・ニジンスキー大尉がクリコフの補佐をしていた。彼は、背は高いが痩せて筋肉もなくどう見ても軍人らしからぬ体格をしている。彼こそオタクと言っても大げさではないくらいだ。現に彼の趣味はテレビゲームなのだ。勤務が終わると自室に閉じこもって自作テレビゲームのプログラムを組んでいる。この仕事も趣味と実益を兼ねているのではないかと思われるくらいだ。今も、キーボードの前に座っているヤコブは黒ぶちのメガネを人差し指で少し押し上げると、とても人間技とは思えないくらいの速さでキーボードを叩いていた。クリコフはそれを見て信じられないというように首をすくめると自分のキーボードに向かった。

「この衛星が壊れるのがあと1時間遅ければ今頃俺は家で暖かいシャワーを浴びて女房とヨロシクやっていたはずなのに。ついてないな」クリコフはブツブツ言いながら懸命にキーボードと格闘した。

「いや、どっちみちキーシン中佐に呼び出されていたさ」ヤコブ・ニジンスキー大尉が言った。

「やっぱりそうかな。居留守使ってもダメか?」

「無理な事は知っているだろう。立てこもったところで憲兵隊に半殺しにされて引きずり出されるのが落ちさ。まあ、君なら憲兵をやっつける事もできるだろうが、射殺されて“はい、さようなら”だな」

「そうだろうな。なんてついていないんだ」

「お前達、黙ってやれないのか!」後ろからキーシンの怒鳴り声が聞こえた。その声に二人は首をすくめると姿勢を正して再びキーボードに向かった。

キーシン中佐はカリカリしていた。通常ならこの衛星が大気圏突入軌道に入った場合、原子炉が地表に落下する危険を回避する為、自動的にロケットブースターを使って宇宙空間に原子炉を放棄するはずだった。ところが事もあろうにそのシステムまで壊れてしまっていたのだった。何重もの安全システムが一瞬にして崩壊してしまった。状況は最悪だった。キーシン中佐のイライラは最高潮に達していた。そこに追い討ちをかけるかのごとく基地指令官のコゾレフ少将にどやされたばかりだったのだ。

コゾレフ少将は管制管理室でクレムリンのヴィクトル・クーリツィン大統領と電話でずっと話していた。ヴィクトル・クーリツィンは統一ロシア党でロシア首脳としては珍しく一切軍部(KGBも含む)とは繋がりのない民間出身の大統領だった。もちろん、聖人君主ではない。ロシア議会の中でも横着な部類に入るだろう。そうでなければとっくの昔にこの世から消されていたかもしれない。交渉術は恐らくロシア国内で最も長けているとまで噂された。交渉をまとめる為なら、どんな嘘だろうが平気でつくことが出来るのだ。それも顔色ひとつ変えず。そして裏工作の巧みさも誰にも引けは取らないだろう。大統領になれたのもその能力のお陰だった。

クーリツィンは髪だけはフサフサしてはいるが今では腹の肉がでっぷりとしており、あまり見てくれは良くはない。しかし、昔の写真を見る限りそこそこいい男のようだった。今でも数人の愛人を囲っているくらいだ。大統領に出馬する気になったのも愛人からそそのかされたという噂もあった。彼自身、もともと大統領になることには興味はあった。祖国ロシアを立て直して歴史に名を残すという大偉業を成し遂げる為には、やはり一番上にのぼりつめる必要があったからだ。とにかく、このロシアを立て直すには政治経済から軍を遮断する必要があるというのがクーリツィンの持論だった。ただ単に軍部が嫌いだということもあるのだが、彼に言わせれば今まで軍部が好き勝手に国家予算をいじくりまわしてきた付けが、今のロシア経済の疲弊につながっているということだった。しかし、彼がどうあがいたところで結局はロシア政府を運営する上で軍部との関係を無くしては決して成り立つことはなかった。

彼は就任して1年で既にロシア共和国大統領になったことを後悔していた。チェチェンなどの旧ソ連邦各国との問題。ロシア国内でのテロの頻発。政府部内における旧ソ連体制派との対立、軍部の横領、冷戦時代の置き土産。いつも問題の原点は軍がらみばかりだ。“いったいこの国はどうなっているんだ?これじゃまともな国になるまでにあと1世紀は掛かる”今ではこの言葉がクーリツィンの口癖になっていた。今回も全く同じだ。冷戦の遺児が目を覚ましたのだ。

「よりにもよって、原子炉搭載衛星が落ちてくるとは。一体、軍は何をやっているんだ」クーリツィン大統領が言った。

「申しわけありません。我々も、まさかこんな事態になるとは思いもしませんでした。以前からこの衛星を意図的に大気圏に突入させ消滅させる事も考えていました。しかし、莫大な費用が掛かる為順延していたのです。当初の推測では、この衛星が自然に大気圏突入軌道へ降下するのは数十年先になると思われましたので…」

「しかし、現実に今落下しようとしているではないか」

「確かにそうです。ですが、これは不可抗力です。先ほど申しました通り、何かが衛星に衝突して軌道を変えてしまったのです」

「そんな言い訳は聞きたくない。いずれにしても、これは軍の手落ちだ。そもそも原子炉分離システムまで壊れてしまっているということ自体、軍の危機管理と安全対策がずさんだった事を証明しているようなものだ。君達軍人は無能の集団なのかね?年間500億ルーブルもつぎ込んでこの始末とは…。後日、責任の所在をはっきりさせる為、厳重に調査される事になるだろう。この結果如何では、その責任者にはそれ相当の罰が与えられる。よく肝に銘じておくことだな」クーリツィン大統領は強い口調で言った。

「はい、わかりました」コゾレフは平静を装ってそう言ったが、心の中では今まで築いてきた目論見が一瞬にして音を立てて崩れていくのを実感した。そして、今後自分の身に起こるだろう事を考えると背筋が寒くなった。

「それで、どうなんだ?衛星の軌道を変える事は出来そうなのか?この衛星はアメリカの上空を飛んでいるのだろう?」

「はい、現在はアラスカ上空を飛ぶコースです。しかし、どの軌道に変えたところでアメリカをかすめる事になります。ですから、この衛星が燃え尽きるように大気圏突入角度を変えるしかありません」

「出来るんだろうな」

「現在、スタッフを総動員して対処しております。しかし、衛星のシステムが不調の為、もう少し時間が掛かると思われます」

「とにかく、今はアメリカともめる事はしたくないのだ。万が一にも衛星の一部がアメリカやその同盟国の都市にでも落ちてみろ。何を言われるかわかったものじゃない。ましてや、この衛星に原子炉が搭載されているのは極秘事項なのだ。それが連中の頭の上に放射性物質を撒き散らしたとなったら、今後アメリカやEUからの援助は全くなくなってしまう。それどころか、その被害によっては損害賠償や経済制裁などで、ただでさえ疲弊しているわが国の経済が破綻してしまう可能性があるのだ。とは言え、わが国に落としてロシア国民に犠牲者を出すわけにもいかん。とにかくこの衛星を何としても大気圏で燃やし尽くすのだ。必ずだ。わかったな。まもなくアメリカのジャクソン大統領との電話会談がある。彼には衛星は燃え尽きてしまうと言っておく。それに、連中はこの衛星に原子炉が搭載されている事を薄々気付いている筈だ。だが、私はそんな事は無いと言い切るつもりだ。コゾレフ将軍、わかっていると思うが決して私の顔に泥を塗る事の無いように」

「わかりました。全力を尽くします」コゾレフはそう言うと微かに震える手で受話器を置いた。そして、額に浮き出した冷汗をハンカチで拭った。大統領には安受けあいしたものの壊れた衛星なんてものはそう簡単に何とかなるものではない。少なくとも最悪の場合はキーシンに責任を押し付けるしかないだろう。仮に上手くいった場合でも政府の監査が入るのは間違いない。そうなると今までしてきた横領が発覚する恐れがある。運が悪いとしか言いようがない。どこの基地でもやっていることなのだ。何もなければバレる筈は無いのに…。

問題は備品の在庫の辻褄あわせだ。その為には裏工作が必要だった。買収していた補給担当の部下は早速どこか僻地の部隊へ転属させて、発覚した場合はそいつのせいにすればいい。その時は当局に捕まる前にマフィアに頼んで殺ってしまえばいいだろう。千ドルも渡せばその日のうちに実行してくれるはずだ。不正行為自体は突然の監査があってもバレないように二重帳簿にしてあるが、念のためにすべて廃棄しよう。とにかく今は自分の保身が第一だ。ヤバくなりそうだったら海外に亡命する準備もしておいた方がいいかもしれない。衛星のことは部下に任せておけばいい。彼は管制室を眺め回してキーシン中佐を見つけると再び怒鳴りつけた。

「キーシン中佐。技術者は集まったのか?時間がないんだぞ」

「はい、閣下。殆ど集まりました。まだ到着していない者には憲兵を彼らの自宅に向かわせています。基本的には今いる技術者で何とかなると思います」

「思いますではいかん!何とかするのだ!」コゾレフはそう言うと管制室を出て行った。

「わかりました」キーシンはそう言ったものの、どう考えてもそんなに簡単に行くとは思えなかった。すでにクリコフたち技術者が何度も衛星にアクセスしてスラスターを作動させようとしているのだが全く動かないのだ。何とかできるものなら自分自身が行って何が何でも動かしているだろう。宇宙空間に行けるものなら…。コゾレフ少将の怒鳴り声にはもうウンザリだった。

「クリコフ大尉、どうだ?衛星から反応はないか?」

「どうやら装置の一部が完全に破損しているようです。衛星のメインシステムはこちらのアクセスに対して動いてはいるのですが、スラスター自体が作動しないのです」

「何ともならんのか?」

「何度も衛星の自己診断システムにアクセスして故障個所を特定しようとしていますが、旧式な為ハッキリしないのです。しかし、今までにわかった事を総合するとスラスター自体は壊れていなようです。問題は指令がスラスターに伝わっていないのではないかと思うのですが?」

「どういう事だ?」

「メインコンピューターは確かに動いているのです。こちらの指令もちゃんと受け取っているのです。スラスターも壊れていない。となると、その間のシステムに異常があるんじゃないでしょうか?」

「という事は、異常のある個所を迂回させればいいのか?」

「この衛星のシステム自体、何世代も前のタイプなのではっきりはわかりませんが…。仕様書を見る限りでは何となくそう思います」

「何となくか。クリコフ大尉、そうすればこちらからの指令を実行させる事は可能なのか?」

「難しいとは思いますが基本的には可能です。その為には衛星のプログラムを若干書き直す必要がありますが…」

「とにかく出来るんだな?」

「ええ、まあ…」

「よし、まずスタッフを総動員して異常の個所を見つけ出す。その後プログラムを書き直して異常のあるところを迂回させスラスターを作動させるんだ」

「中佐、ちょっと待ってください。プログラムを書き直すとなると物凄い時間がかかります。それに、簡単に書き直すと言っても衛星は宇宙空間にあるのです。ですから新しいプログラムを衛星に送信する事自体にも色々問題がありますし、更にそのプログラムをきちんとアップロードできるかどうかも怪しいです。仮にそれが出来たとしても、再起動出来ないと衛星は全く応答しなくなります」

「そんな事はわかっている。だが、このままでは結果は同じだ。とにかく故障個所がわかり次第、チームを2つに分ける。クリコフ大尉、お前はプログラマーと一緒にプログラムの書き直しとその送信方法を検討してくれ。ヤコブは今までと同じように現状のシステムでアクセスを続けるんだ。最後の手段としてクリコフ大尉の方法を試す事にする。いいな、チェルノブイリを再び起こさせるな。お前達ならできる。頼むぞ」

「わかりました」クリコフはそう言うと衛星の故障個所の特定を急いだ。


アメリカ合衆国ワシントンDC ホワイトハウス


ホワイトハウスの大統領執務室でダニエル・ジャクソン大統領と国家安全保障問題担当大統領補佐官ベン・グッドリー、国防長官ジョン・ベルモント、国務長官ウィル・デンバー、統合作戦本部長ウェズリー・シェーファー大将の5人が年代物のオーク材で作られた黒光りする机を囲んで話をしていた。

ダニエル・ジャクソン大統領は椅子に座り書類に目を通しながらベン・グッドリー補佐官の話を聞いていた。合衆国大統領ダニエル・ジャクソンは今年52歳で、その年の割にはガッシリして若々しい感じだ。それもそのはずで大学時代はアメリカン・フットボールのクウォーターバックをやっており、州大会で優勝したこともあるほどだ。大統領に就任したときにはワシントン・ポストにその時の写真が掲載されて話題になったこともある。その中で“大統領以外でなりたいものは何ですか?”という記者の質問に“プロフットボールの選手ですね”と答えていたくらいだ。

彼はミズーリ州共和党選出で、大統領選挙の時はタカ派で次期大統領間違いなしとまで言われた対抗馬のウイリアム・コージー候補を破り大統領になった。これほどの逆転劇は今までにお目にかかったことはないくらいだった。当時は中東派兵による米兵犠牲者が増加しておりアメリカ国民も他国で大勢のアメリカ人青年たちが血を流していることにうんざりしていた。劣勢だったジャクソン候補が当選したのもコージー候補が大統領になると中東への派兵を活性化させ再び多くの若者が死んでいくかもしれないという危惧からであり、僅差で降したのはそういった背景があったからだった。

しかし、アメリカ合衆国政府自体、ハト派体質ではうけが悪く、このままでは続けて大統領になるのは難しいだろう。それを補っているのが国家安全保障問題担当大統領補佐官ベン・グッドリーだった。彼は大統領選挙のときからジャクソンを補佐し、ベン・グッドリーが提唱したコージーの弱みに付け込んで徹底的に叩くという強気の戦略を展開して選挙戦を戦い抜いたのだった。劣勢の選挙戦を勝ち抜くことが出来たのは彼のお陰かもしれない。

ダニエル・ジャクソンも自分の不足な部分を良く分かっており、それを補う為にはベン・グッドリーは必要不可欠であると認識していた。そこで大統領に就任した時、重要ポストである国家安全保障問題担当大統領補佐官に彼を任命したのだった。国防長官、国務長官には共和党での長年の盟友であり信頼のおけるジョン・ベルモント、ウィル・デンバーの二人に託した。この二人はどちらも穏健派であり、強硬派のベン・グッドリーと度々もめたが今のところ上手い具合にいっている様だった。

ベン・グッドリーは持っていた金のボールペンを額に押し当てながら眉間に皺を寄せていた。これは彼の癖だった。細身で長身。190センチメートルはあるだろうか。高級なブランドスーツに身を固め、洒落たメガネを掛けたその姿は、いかにも気が強そうに見える。彼自身、好戦的な性格だと認識していた。軟弱な他のスタッフの意向を強行に排除し、彼の唱えた選挙戦略に変更しなければ大統領選挙の劣勢を覆すことなど出来なかっただろう。ダニエル・ジャクソンを大統領に据えることが出来たのは自分の力が多分に貢献していると自負していた。その反面、ジャクソン政権を運営する上で国家安全保障問題担当補佐官として大統領に対して適切なアドバイスをすべく、情報収集や他陣営との交渉などの努力を怠らなかった。今回の非常事態も出来るだけ早急に、かつ最善の方法で解決するために必死に頭脳を回転させていた。

「大統領、とにかくデフコンレベル(防衛態勢)のランクを上げることをお勧めします」ベン・グッドリー補佐官が言った。

「やっぱり必要だと思うかね」

「少なくともロシアの軍事衛星が軌道を変えたのです。ただ事ではありません。仮に故障だとしても準備だけはしておいた方がいいと思います」

「しかし、大統領。たかが旧式の人工衛星一基が軌道を変えたくらいで少し大袈裟過ぎなのではないでしょうか?軍事衛星が軌道を変えるなんて事は日常茶飯事じゃないですか」ウィル・デンバー国務長官が言った。彼はベン・グッドリーとは全くの正反対の性格だ。穏健派で人情深い。見てくれもふくよかで胴回りの上着は、はち切れそうになっていた。デブとまではいかないのだがスーツと体格がマッチしていないのだ。そういう点は全く無頓着な性格なのだが、対ベン・グッドリーとの議論になると途端に豹変することがあった。基本的に性格が全く合わないのだろう。しかし、個人的な意見で物を言う人物ではなかった。

「今回は特別です。これは、ただの偵察衛星ではないのです。電磁パルス発生装置を搭載しているのですよ。もし、これが作動したとしたら北米全体が一瞬にして真っ暗闇になってしまう可能性があるのです。軍事的にも数十分から数時間にわたり完全に盲目状態になり、敵弾道ミサイルや爆撃機の探知や迎撃が出来なくなるでしょう」ベン・グットリー補佐官が言った。

「そんな事は君に教えてもらわなくてもわかっている。確かに攻撃を受けた場合、わが国は防衛上ゆゆしき事態に陥る事は避けられない思います。しかし、それは考えすぎだと思います。そもそもロシアが今さらそんな事をして何の得があるんでしょうか?これは衛星の故障か何かだと思いますね」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「ジョンはどう思う」ジャクソン大統領は傍らで書類に目を通しているジョン・ベルモント国防長官に尋ねた。ジョン・ベルモントはゆっくり顔を上げると片方の眉をピクリと動かした。ジョン・ベルモントはベン・グッドリーとウィル・デンバーを足して2で割ったような人物だ。体形も中肉中背。根っからの政治家っぽいタイプだった。押すときは押す、引くときは引く。強弱を付けながら戦略を組み立てる。国防長官にはもってこいだろう。

「そうですね。ロシア軍の動きは平常と全く変わりありませんし、CIA極東支部からもそれらしい情報は入ってきていません。私は彼らが戦争を始めようとしているとは思いませんね。ですが、念のためロシアのクーリツィン大統領の話を聞くまでは軍事行動の可能性も考慮に入れて対応した方が賢明でしょう。デフコン4に上げるくらいはいいのではないでしょうか?」ジョン・ベルモント国防長官が言った。

「わかった。ウェズリー将軍、デフコン5からデフコン4にランクをあげてくれ」

「わかりました。デフコン5をデフコン4にあげます」ウェズリー大将はそう言うと電話で統合作戦本部に連絡した。

ジャクソン大統領はウェズリー大将が受話器を置くのを待って話を進めた。

「ウェズリー将軍、君は衛星の故障だと思っているんだね」

「はい、大統領閣下。とにかく、このロシアの衛星の軌道変更を軍事行動だとすると辻褄が合わないのです。本当にそのつもりならもっと新型の軍事衛星を使う筈です。ロシアは今問題になっている衛星よりも高性能な軍事衛星を何基か打ち上げています。今さらこんな古ぼけた、いつ故障するかもわからない代物を使う意味がありません。確かにこの衛星が本来の性能を発揮すれば十分脅威です。しかし、当時の旧ソ連の技術力を考えると、とても作動するとは思えません。それに、衛星監視システムでモニターされているのがわかっているのに軍事衛星の軌道を変えるのはあまりに軽率すぎます。今から軍事行動を起こすぞと言っているようなものですからね。それに、ロシア軍の動きも平常通りなのです。偵察衛星の赤外線写真から判断する限りではウラジオストックに繋留されている攻撃型原子力潜水艦及び戦略ミサイル原子力潜水艦も原子炉を作動させている素振りはありませんし、現在出航中のデルタ級、タイフーン級の各戦略ミサイル原子力潜水艦についても、我々は全ての艦の位置を掴んでおりますが、通常の哨戒コース上に位置しており不審な行動には出ていません。その上、戦略ロケット軍と陸軍に至ってはまるで眠っているようなありさまです。あの壊れかけの衛星一つで何ができるというのでしょう。もし、これが何かをする為の陽動作戦だとしたら大したものです」

「私もそう思います。今のロシアがわが国に戦争を仕掛けるというのはとても考えられません。彼等は戦争よりも自国の財政の立て直しと市場経済を推し進めるのに必死ですからね。おまけに国内紛争も抱えて軍も疲弊していますし、どちらかと言うと今の段階で我々とは余りもめたくないと思っているんじゃないでしょうか」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「大統領閣下。実はこの衛星が故障していたとしたらそれはそれで問題なのです」ウェズリー大将が言った。

「原子炉かね」

「そうです」

「それも厄介な話だな。以前にも原子炉を積んだコスモス衛星の落下で大騒ぎになった事もある。その衛星は本当に原子炉を搭載しているのか?」

「まず間違いないでしょう」

「いずれにしても、連中に尋ねた所で原子炉なんか搭載していないと言い張るでしょうね」ジョン・ベルモント国防長官が言った。

「そうだろうな。我々はこの衛星が原子炉を積んでいると仮定して対処した方が無難だろうな」

「そう思います。しかし、問題はそれだけではないのです。この衛星の軌道が変わった理由がもし故障だとしたら彼らは衛星を制御出来ていないということになります。最新のデータではこのまま高度が下がり続けると大気圏に突入する事になります。しかし、問題はその突入角度が浅すぎるのです」

「角度が浅い?という事は衛星の原子炉が燃え尽きずに落ちてくると言う事か」

「はい。この衛星が軌道を変えてから既に4時間が経過しています。もし彼らがこの衛星を制御できているのなら軌道を元に戻すか、戻すのが無理であれば危険が無いよう突入角度を深め衛星が完全に燃え尽きるようにする筈です。それが未だに変化はありません。もちろん、あの衛星は大気圏突入用に作られてはいないのです。これらの事柄から推察すると完全に制御不能になっていると考えるしかありません。更に今までの状況からして恐らく安全対策用の原子炉廃棄システムも故障しているものと思われます」

「何故、そう言い切れるんだ?」

「既に高度が下がりすぎているのです。問題の衛星は図体が馬鹿デカイ上に、やたら重い原子炉を積んでいます。一度軌道から外れれば一気に降下し始めます。そうなればちょっとやそっとで元に戻すことは出来ないでしょう。ましてや重量のある原子炉を今の高度で分離したとしても地球の引力圏から離脱させるのは至難の業だと思われます。安全を重視するのであれば2時間前には分離させるべきなのです。それなのに未だに重い原子炉を積んだまま降下し続けているということは衛星の原子炉分離システムが故障しているか、もしくは指揮官が稀に見る大間抜けだとしか考えられません」

「どっちにしても非常に危険な状態だと言うことか」

「はい」

「彼等は故障を口実に、その衛星をアラスカのレーダー基地に落とすつもりなんじゃないのか」ベン・グッドリー補佐官が言った。

「衛星の原子炉をレーダー基地に落として放射能まみれにするのか」ジョン・ベルモント国防長官が言った。

「まさか」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「あくまで可能性ですよ」ベン・グッドリー補佐官が言った。

「そんな事は可能なのか?」ジャクソン大統領はウェズリー大将に尋ねた。

「不可能ではありません。ですが難しいですね。その為にはかなり正確な軌道計算と衛星の制御が必要になります。特に大気圏内では空気の抵抗や気流の影響がある為、思い通りのところに落とすのは非常に困難です。衛星には翼がありませんからね」

「なるほど。仮に故障だとして、その衛星を彼らが制御できずにいたとしよう。もし、今のまま大気圏に突入したとしたら被害はどうなるのかね」

「この衛星には特別あつらえの大型熱核反応炉が搭載されており、その炉心内部には100キログラムのプルトニュウムがあると思われます。これは以前問題になったコスモス衛星に搭載されているTOPAZ原子炉に比べると数十倍の放射性物質の量です。そして、今の軌道ではこの衛星は人口密集地域を通過する事になります。インド、東南アジア各国、台湾、中国、朝鮮半島、ロシア、日本。そしてわが国のアラスカ。原子炉がいつ壊れて、どこで放射性物質をばら撒くかが問題ですが、最悪の場合、数十万単位の放射線障害の患者が出ることになるでしょう」ウェズリー大将は言った。

「この衛星が大気圏に突っ込むのはいつ頃なんだ?」

「このままですとあと1週間ほどで突入する事になります」

「スペースシャトルで回収する事は出来ないのか?」ジャクソン大統領が言った。

「昨年のエンデバー号爆発事故の為、今ある機体は全てオーバーホール中です。とても衛星の落下までにスペースシャトルを打ち上げるのは無理です」

「宇宙空間で破壊する事は無理なのかね。迎撃ミサイルか何かで」

「不可能ではありません。現在我々は空中発射弾道弾迎撃ミサイルを開発中です。これは大気圏外において衛星を攻撃する事も視野に入れております。このミサイルをF15ストライクイーグルで高高度から発射するのです。しかし、このミサイルはまだテスト段階で発射試験を終了したばかりです。今は慣性誘導システムのテスト中で、ほぼ合格点は取っていますが実戦で使えるかと言われると疑問です。現在、プロトタイプの完成品ミサイルが1基ありますが、今の状況では1基だけでこの衛星を撃墜できる可能性は少ないと思われます。この段階で実戦に使うとなると少なくとも予備を含め4基は必要です」

「そうか、難しいか。わかった。とにかくクーリツィン大統領と話をしてみよう。向こうがどう出るかだ」ジャクソン大統領はそう言うと、クレムリンに繋がるホットラインの受話器を取った。


ロシア共和国アルハンゲリスク州プレセーツク 人工衛星管制センター


クリコフは頭がボンヤリしてきた。勤務が始まってから20時間以上も経過していた。それ以来ずっとディスプレーとにらめっこをしているのだ。おまけにキーボードの叩きすぎで腕のあちこちが腱鞘炎になる一歩手前のようだった。

数分前、彼らは辛うじて衛星の異常個所を見つける事が出来た。とは言っても半分は推測の域を出ないが…。しかし、時間もないうえ宇宙空間を飛んでいる半分壊れた人工衛星の情報を得る方法が限られているとなると、これ以上考えても無駄な事もわかっていた。とにかく、これが失敗すれば大勢の人たちが放射線障害におかされることになるのだ。最善を尽くすしかない。

クリコフはキーシン中佐にその内容を報告した。

「キーシン中佐。この人工衛星の故障個所が特定できました。恐らく、太陽電池パネルのコントロールシステムの異常です。これを迂回してスラスターに指令を送るようにプログラムを変える事は可能です」クリコフが言った。

「恐らくか。だが、これ以上時間をかけるわけにもいかないな。やむおえん。それでいくか」

「はい、私もそう思います。私達も考えられる事は全て検討しました。その結果ですから私は信じています」

「よし、クリコフ大尉。それでやってくれ。プログラムを作り直すのにどれ位掛かる?」

「48時間ください。それで何とかします」

「48時間か。データ送信と書き換えの時間を踏まえるとギリギリだな。それを過ぎると、とてもスラスターで軌道を変える事は出来なくなる。よし頼む」

「わかりました」クリコフは頷くと再び別の部屋へ数人のプログラマーと共に閉じこもった。

「ヤコブ大尉、あと48時間だ。時間内に何十回でも何百回でもアクセスをやりつづけろ」キーシンは怒鳴った。


アメリカ合衆国ワシントンDC ホワイトハウス


「何度もくり返すようで申しわけありませんが、クーリツィン大統領。故障なのは間違いないのですね」ジャクソン大統領が受話器越しに言った。

「もちろんです。我々が軍事行動を起こすわけが無いじゃないですか。それは、我々の基地の動きを見てもらえればわかるでしょう?ジャクソン大統領」クーリツィン大統領は意味ありげにそう言った。

「確かにその通りですね。では、故障した衛星について話しましょう。その衛星の今の状態はどうなっているのですか?我々の知る限りでは今の突入角度では大気圏で燃え尽きる事は不可能のように思われるのですが。ロシア政府はその衛星を制御出来ているのですか?」

「もちろん制御しています。衛星は何かの物体に衝突して軌道を逸脱したようです。現在、RSAのスタッフが安全な大気圏突入軌道に修正するよう全力をあげています。わが国のスタッフは優秀ですから大丈夫です。今は技術上の問題で遅れてはいますが、これはすぐ解決します。何もご心配なさるようなことはありません」

「そうですか。ある情報ではその衛星には原子炉が搭載されているとか」

「どこからの情報でしょうか?この衛星は、ただの気象観測衛星で原子炉など搭載してはいませんよ」

「確かな情報なのですがね」

「情報とはよく錯綜するものです。いずれにせよ。大統領にお手間を取らせることは無いと思います。高みの見物でもしていてください」

「原子炉が搭載されているとしたら我々にも大いに係わり合いがあると思うのですがね。ですが、あなたがそうおっしゃるのならそういう事にしておきましょう。ただ、クーリツィン大統領。あなたから要請があればこちらはスタッフの派遣を含めていつでも協力させていただく準備がありますので遠慮なくそう言って下さい」

「ありがとうございます。ご協力のお申し出感謝いたします。ですがジャクソン大統領。先ほどから言っている通り、何も問題はありません。全て順調に進んでおります。まあ、無いとは思いますが、もし、万が一ゆゆしき問題が発生した時はこちらからお願いします」

「そうですか。わかりました。それでは何かありましたらご一報を」

「わかりました。それではごきげんよう」クーリツィン大統領はそう言うと電話を切った。

「あのタヌキ親父め」ジャクソン大統領はそう呟くと受話器を置いた。彼は全員が大統領の前にやってくるのを待って話し始めた。

「やはり、衛星の故障だそうだ。軍事行動でないことを証明するため今後衛星が落下するまでの間、軍用機の飛行は控えるそうだ。海軍も新たに大型海上艦船及び潜水艦は出航させないし、陸軍も現在の展開地域から移動させないとも言ってきた。やむおえず移動する場合はこちらに連絡をするそうだ」

「それならまず間違いないでしょう。しかし、えらく譲歩したものですね。今までの彼らとはまるで別人のようだ。逆に気味が悪いくらいですね」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「あの調子だと、かなり切羽詰っているようだな。こちらにしおらしい所を見せておこうとでも思っているんだろう」ジャクソン大統領が言った。

「万が一大惨事になった時、非難されたくないんでしょう」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「衛星の事についてはどうでしたか?」ベン・グッドリー補佐官が言った。

「案の定、クーリツィンは原子炉の事は否定したよ。自分達は衛星を制御しているとも言っていた」

「やっぱりね。負け惜しみですよ。自分達に出来ないとは口が裂けても言えないのでしょう」ベン・グッドリー補佐官が言った。

「そうなると、当然こちらの協力の件も断ってきたのですね」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「ああ、そうだ。高みの見物をしていてくれとさ」

「相変わらず強がりばかり言っていますね。本当に彼等にできるんでしょうね。実際にとばっちりが来るのは我々なのですから」ジョン・ベルモント国防長官が言った。

「とにかく、我々にもあの衛星を撃墜できないとなると彼らにまかせるしかないな。それと、デフコンは5に戻そう」ジャクソン大統領は言った。

「衛星の事が解決するまではこのままの方がいいのではないですか?どさくさに紛れて彼らが何かするかもしれない」ベン・グッドリー補佐官が言った。

「いや、それはないだろう。それに、こちらが臨戦態勢だと彼らもおちおち問題も解決できないかもしれないからな。ウェズリー将軍、デフコン5に戻してくれないか。だが、念のため統合宇宙軍だけは警戒態勢を続けてくれ。それと、さっき君が言っていた弾道弾迎撃ミサイルも準備しておいてくれないか。最悪の場合、無理は承知で使うかもしれない」ジャクソン大統領は言った。

「わかりました。デフコン5に変更。それと迎撃ミサイルを準備しておきます。大統領閣下、念のためアラスカのパトリオット部隊に迎撃態勢をとらせます。さらにハワイの太平洋艦隊をアリューシャン列島近海と日本近海に展開させます。それと、日本と韓国の駐留アメリカ軍は警戒態勢にしたいのですが」ウェズリー大将が言った。

「ああ、いいだろう」

「NATOと日本、韓国の政府には伝えますか」ウィル・デンバー国務長官が尋ねた。

「NATOには全て伝えるんだ。極秘扱で。日本と韓国にも衛星の落下の事は伝えた方がいいだろう。だが、原子炉の事は伏せておいてくれないか」

「どうせ彼らは煩く質問してくるだけで何も出来ないですからね」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「ああ、そうだ。あとはロシアに下駄を預けるしかないな」ジャクソン大統領が言った。

「上手くいく事を祈るだけですね」ウィル・デンバー国務長官がそう言うと全員が頷いた。


日本東京 首相官邸


武田勇首相は首相官邸の執務室にある椅子に苦虫を噛み潰したような顔をして腰掛けていた。目の前には目を通さなければならない書類が積んであるが知らん顔をしていた。それは、ついさっき自由党幹事長の山下貞治からの電話を受けたからだ。“連立している公生党から厄介な話が持ち上がった。このままでは、この政権が崩壊する恐れがあるので公生党幹事長と会って話を付けて欲しい。しかし、我が党の方針は決して譲らないように…”ということだった。また難題を押し付けてきたのだ。しかし、山下幹事長は武田の師であり、NOなど言えるわけがなかった。“こっちが譲らなくて、どうやって話をつけろと言うのだ?駄々をこねる子供でさえ飴をやらなければ大人しくならないのに…”武田は呆れかえった。

彼は本来、首相になどなりたくなかった。それにもかかわらず連立政権の不安定で軟弱な基盤の上で、誰もがやりたがらない首相を押し付けられて矢面に立たされることになってしまった。しかし、彼は責任感だけは人一倍強く、嫌々ながら引き受けた首相の責務を全うしようと一生懸命取り組んでいた。昔から人の尻拭いばかりさせられていたので慣れっこになってしまったのかもしれない。

サラリーマンから議員秘書を経て政治家に転向して30年、2度の閣僚を経験したのだが結局、頭の下げ続けだった。首相になった今でも党幹事長の意向を政治に反映させる為の道具になっているようなものだ。だが、彼はそれでも一生懸命責任を果たすため努力を惜しまないのだった。その努力を知ってか知らずか、色々な人が彼を慕って集まって来る。それも党派を超えて様々な人たちがだ。それだけ人間として魅力があるのだろう。首相の女房役とでも言える官房長官の安藤悟もその一人だった。安藤はもう10年以上前から武田と協力して議員同士の勉強会や選挙の応援、さらには党内の雑務までも一緒にこなしてきた。武田としても今では安藤がいなければとてもこんな首相などやってはいけそうもないと思っていた。

武田はため息を一つつくと目の前の書類を取ろうと椅子から重い腰を上げようとした。そのときドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」武田首相はそう言うと安藤官房長官が入ってきた。

「首相。アメリカの国務省からうちの外務省経由で来た連絡です」安藤官房長官はそう言うと持っていた書類を武田勇首相に渡した。

「たったこれだけか?」武田勇首相は首相官邸の執務室のイスに座ったまま呆れた声でそう言った。

「ええ、そうです。アメリカも日本をばかにしたものですね」

「ロシアの衛星が軌道逸脱。大気圏突入コースに入るも、部品が燃え残る可能性あり。現在の軌道の場合、日本上空を通過する模様。注意されたし」武田首相は報告書を読んだ。彼は読み終わった原稿を机に放り出すと話を続けた。「そんな事くらい我々にだってわかっている。聞きたいのは軍事的意図があるかどうか、故障ならその原因と対策だ」

「日本はどうせ何も出来ないのだから大雑把に連絡だけしておけばいいとでも思っているのでしょう」安藤官房長官が言った。

「確かにな。連絡してもらっただけありがたく思えとでも言うことだろう。とにかく、わが国でも監視体制を整えてくれ。それと内閣対策協議会を設立する。人員選択は君に任せる。ただ、防衛大臣と統合幕僚監部の将官をメンバーに入れておいてくれないか」

「そんなに大袈裟にしなくてもいいように思いますが…」

「軌道を逸脱したロシアの軍事衛星が日本の上空を通過するんだ。下手をすれば燃え残った部品が頭に降り注ぐ可能性もあるのだろう?何かあってからでは遅いからな。大体、何につけても対策が遅いと野党から言われ続けられているしな」

「わかりました。その旨伝えます。この忙しい時にやっかいですね。遊説のスケジュールも決めないといけないというのに。今度の選挙は厳しいですよ。党の幹事長も煩く言ってきていますからね。余程腰を据えてやらないと党内からのブーイングは避けられない」

「そうだな。それが連立政権の弱みだ。議席数一つで右往左往している。どいつもこいつも弱腰で自分達が何とかしようと思わないんだよ。人のやる事なすこと文句ばかり言っている。おまけにこの人工衛星落下騒ぎだ。たまらんよ。まあ、何事もこっちの事情にあわせてはくれないという事か。いずれにせよ、何もない事を祈るしかないな」

「そうですね。それではさっそく対策協議会の人員選択でもしてきます」安藤はそう言うと執務室から出て行った。

「ああ、たのむ」武田は安藤の後ろ姿にそう言うとイスから立ち上がり窓から外を眺めた。

「しかし、次から次といろいろ起きるもんだな」武田はそう呟いた。


ロシア共和国アルハンゲリスク州プレセーツク 人工衛星管制センター


「ヤコブ大尉。どうだ?」キーシンが腕時計を見ながらそう言った。管制センター内はフルパワーでエアコンをきかせてあるのだが彼の額には汗がにじんでいた。

「同じです。全く反応がありません」

「そうか」キーシンはそう言うと内線のボタンを押した。

「クリコフ大尉、こっちはやはりダメだ。相変わらず衛星は全く反応しない。お前が最後の頼みの綱だ。新しいプログラムは完成したのか?」

「はい、なんとか完成しました。あとは送信する為の技術的な問題だけです。これも何とかなりそうです」

「よし、よくやった。早速準備を始めてくれ」

クリコフは他のスタッフ達と共に管制室に戻ってきた。そして、スタッフ達が大急ぎでプログラムを送信する準備に掛かった。

「中佐、このプログラムを送ったら、もうあとには引けませんよ」クリコフが不安そうに言った。

「なあ、クリコフ大尉。お前のプログラムが失敗したとしても、何も出来ずにこのまま大気圏に突入したとしても、この忌々しいクソッタレ衛星が放射性物質を撒き散らせば俺達はシベリアの軍刑務所に死ぬまで放り込まれるんだ。やってみた方がいいとは思わんか」キーシンは苦笑いしながら言った。

クリコフはキーシンの顔を見てゾッとした。そんな事は考えてもみなかった。確かにそうだ。終身刑なら良いほうだろう。事が事だけに最悪の場合は銃殺刑になったとしてもおかしくは無いのだ。

“何てこった。あと少しでこの忌々しい軍隊から離れられる筈だったのに。俺達が打ち上げたわけでもないポンコツ衛星のお陰で、安穏で快適な生活が待っているはずが、今では自分の命も風前の灯火だ。何としても上手くいってもらわないと”クリコフは思った。

「そうですね。やってみましょう」クリコフは覚悟した。

スタッフ達は衛星に新しいプログラムを送るように管制室全てのシステムを設定しなおした。特に送信用パラボラアンテナの調整はかなり大掛かりな作業だった。

「ゴロフコ大尉、アンテナの準備はどうだ?」キーシンはセルゲイに尋ねた。

「キーシン中佐、データ送信用パラボラアンテナ準備完了しました。衛星の軌道に同調しています」セルゲイが言った。

「わかった。クリコフ大尉、衛星との交信は?」キーシンが尋ねた。

「衛星は交信可能範囲に入っています。いつでも送信できます」クリコフが言った。

「よし、送信開始」キーシンが言った。

クリコフは隣に座っているヤコブと顔を見合わせるとお互い頷いた。

「送信開始します」クリコフはそう言うとキーボードのエンターキーを押した。

「現在プログラム送信中。10%。20%。30%…」クリコフはディスプレーに表示されている数字を読み上げた。暫らくすると画面が100%の数字を表示した。

「送信完了。プログラムアップロード。現在書き換え中。10%。20%…」

数分が経過した。

「書き換え完了。メインシステム再起動します。現在システム再起動中」クリコフはそう言いながらキーボードを操作した。ディスプレーにはシステムの起動画面が表示されていた。

「衛星のメインシステムが再起動しました」クリコフはスタート画面が正しく表示されたのを見てホッとした。とにかくここまでは上手く行っている。あとはスラスターが動くかどうかだった。

「よし、これからが正念場だ。スラスター作動準備」キーシンが大きなため息をつきながら言った。

「はい、スラスター作動準備。自動シークエンス。データ送信。10%。20%。30%…」

「データ送信完了。スラスター作動準備完了」

「よし、やるぞ。カウントダウン。10秒。9秒…ゼロ。スラスター作動!」キーシンが怒鳴った。

「スラスター作動!」クリコフはそう言ってスイッチを押した。

暫らく時間が止まったようだった。あたりは静かになった。5秒、10秒…。何も起こらない。

「スラスター作動しません」クリコフは絶望的な声を出した。辺りにたくさんのため息が漏れた。

「くそっ!もう一度だ」キーシンが言った。

「了解。スラスター作動」クリコフは言った。

数十秒が経過した。やはり何も起きない。失敗なのだろうか?あたりにざわめきが起きた。

「ダメです!中佐、反応しません」クリコフは叫んだ。

「クリコフ、落ち着け!」キーシンはクリコフをさとした。

「いいか、クリコフ大尉。今度はマニュアルでやるんだ」キーシンはゆっくりと言い聞かせるように話した。

「マニュアルですか?スラスターの噴射時間やタイミングがかなり大雑把なことになります。大丈夫でしょうか?」

「やむおえん。他に方法は無いんだ。クリコフ大尉、やるんだ」

「わかりました。マニュアルでやってみます。マニュアルシークエンス。データ送信。10%。20%。30%…」

「データ送信完了。作動準備完了」

「いいか、クリコフ大尉。衛星は58秒に一回の自転をしながら落下している。画面に表示される数字に注意しろ。この範囲内でスラスターを噴射し続けるんだ。安全な軌道にするには、あと4度、突入角度を深めなければならない。その為には最低10秒間の噴射が必要だ。だが、この数値を越してはいかん。いいな?!」キーシンは画面に表示されている数字を指で差しながら言った。

「わかりました」クリコフは頷きながら言った。そして、スラスターのマニュアルスイッチに指を置いた。あたりは再び静かになった。

「用意」キーシンは画面を見ながらそう言った。

「今だ!」キーシンは怒鳴った。クリコフはその言葉に反応してスイッチを押した。暫らく何も起きなかった。クリコフはまたダメなのかと思った。

その時、画面にスラスターが作動したことを告げるアラームが表示された。

「中佐!作動しました。やりましたよ!現在スラスター噴射中!」クリコフはあまりの嬉しさにスイッチから指が離れそうになった。彼は慌てて力一杯押し付けた。辺りに歓声が起きた。

「静かに!」キーシンが怒鳴った。その声に管制室内のざわめきが静かになった。「まだだ!あと10秒噴射しなければいけない!」

「8秒、7秒…」クリコフはカウントダウンした。

しかし、あと3秒という時に突然、噴射のアラームが途絶えた。クリコフは何度も何度もスイッチを押してみたのだが再び作動する気配は無かった。

「スラスターが停止しました!残り3秒で作動停止!現在衛星は全く反応しません!中佐?!」クリコフはそう言うと自分の顔面から血が引いていくのが感じられた。再び管制室内が騒然となった。

「クリコフ!急いで軌道計算をしろ!7秒間は噴射したんだ。少なくとも3度は変わっているはずだ。うまくすればそれ以上変わっている可能性もある」キーシンが言った。

「ちょっと待ってください。すぐ計算します」クリコフは大急ぎで軌道の再計算をした。“たった4度だ。たった4度でいいから変わっていてくれれば…”クリコフはそう思いながらキーボードを叩いた。レーダーではあまり変化したようには見えない。これで大丈夫なのだろうか?スラスターを再び作動させるのは、どう考えても不可能に思えた。今ではこのポンコツ衛星は何から何まで全く反応しなくなってしまったのだ。もし、軌道が安全圏に入っていなかったら自分達は終わりだ。“神様お願いします!”クリコフはそう祈った。5分が経過した。その間スタッフは固唾を飲んで見守った。

「どうだ?どれだけ変わった?!」キーシンが催促した。

「もうすぐ計算できます」

暫らくすると、それまで必死に軌道計算をしていたクリコフの顔に笑みが浮かんだ。

「中佐。大丈夫です!ギリギリですが安全圏に軌道が変わりました!」クリコフは立ち上がるとガッツポーズをした。それを見て管制室の全員が歓声を上げた。スタッフ達は抱き合ったり、肩を叩き合ったりして喜びを表現していた。

「よくやった。クリコフ大尉」キーシンはそう言うとクリコフに右手を差し出した。クリコフも同じく右手を出してガッチリと握手をした。

「私はコゾレフ少将に報告してくるよ。クリコフ大尉、ゆっくり休んでくれ。ありがとう」キーシンはそう言うと基地司令官の所にあるいて行った。

「キーシン中佐。お疲れ様です」クリコフはこの基地に赴任してから初めて心の底からキーシン中佐にそう言った。キーシンは背を向けながらも右手を上げて合図した。


アメリカ合衆国コロラド州 ピーターソン空軍基地


「衛星がまた軌道変更したわ」リサはそう呟くとキーボードを慌しく操作した。そして、衛星の新しい軌道を正面の大型ディスプレーに表示させた。

「准将。衛星の軌道が変わりました!」リサは叫んだ。

その声にジョン・クランシー准将は飲みかけのコーヒーをもう少しでこぼすところだった。彼は慌ててコーヒーカップをテーブルの上に置くと大急ぎで軌道監視モニターの方へ向かった。

「どう変わったんだ、中尉?」

「4度、大気圏突入角度が深まりました。コース自体は殆ど変化無しです」

「その角度で衛星は燃え尽きるのか?」

「少しお待ちください」リサはそう言うとキーボードに新しいデータを打ち込んだ。

「はい、これなら大丈夫です」

「ロシアの奴らとうとうやってくれたか」

「これで一安心ですね。准将」リサが言った。

「ああ、とりあえずね。ご苦労だが中尉、突入するまではこのまま監視を続けてくれ」

「わかりました」

「とにかく、私はホワイトハウスに連絡してくる」そう言うとジョンは管制室を出て行った。


アメリカ合衆国ワシントンDC ホワイトハウス


ホワイトハウスに篭っていた統合作戦本部長ウェズリー・シェーファー大将は大統領執務室で統合宇宙軍司令官ジョン・クランシー准将からの報告を電話で聞いていた。

「そうかわかった。ジョン、ご苦労だった。引き続き監視を頼む」ウェズリー大将はそう言うと受話器を下ろした。

「大統領閣下。ロシアの衛星の大気圏突入角度が安全圏になったそうです」

「そうか。それはよかった」

「これで、落ちついて寝る事が出来ますね」ウィル・デンバー国務長官が言った。

「取りあえずは一件落着だな。ウェズリー将軍、申し訳ないが極東地域だけは衛星の消滅が確認できるまで引き続き警戒態勢をとっていてくれないか?万が一のために」

「わかっております。統合宇宙軍と極東駐留軍、それに太平洋艦隊は引き続き警戒態勢を取らせます」

「将軍、迎撃ミサイルを使ってみたかったんじゃないのかね?絶好のテストのチャンスだったのにな」ベン・グッドリー国家安全保障問題担当大統領補佐官が言った。

「いいえ、補佐官。我々は試験段階の兵器を実戦に使うのには抵抗があるのです。失敗すれば軍の威信に関わるだけではなく、それに携わる兵士達の命が危険にさらされるからです。もちろん、それが兵隊の役割だと言われればそれまでです。彼らは命令されれば命を賭して任務をやり遂げようとするでしょう。しかし、役に立つかどうかわからないものに命を掛けろとはできる事なら言いたくないのです」

「ウェズリー将軍、今回は無理を言った。私も君が言わんとする事はよくわかっているつもりだ。私も海兵隊にいたからな。しかし、国民を守る為にはやむおえないこともある。無理を承知でやらざるおえないという事もな。幸いにもそのような事がなくて本当によかったよ」ジャクソン大統領が言った。

「大統領閣下。よくわかっております。お気づかいありがとうございます」

「すまんが、将軍。正確な突入時刻と軌道を調べて報告してくれないか?」

「はい、大統領閣下。至急調べて報告します」

「うむ。ウィル、将軍から報告がきしだい衛星の軌道上の各国に連絡を頼む」

「はい、わかりました」

「とにかく、みんなご苦労だった。ゆっくり休んでくれ。今夜からぐっすり眠れそうだ」


日本東京 首相官邸


「首相。ロシア政府からの連絡です。軌道を逸脱した衛星は大気圏で燃え尽きるとのことです。ただ、日本上空が衛星の軌道上になっているので念のために連絡してくれたそうです。衛星は5月11日午前10時頃に日本上空を通過予定だそうです。アメリカからも同様の報告がきています」安藤官房長官が言った。

「まあ、これで一件落着だな。対策協議会は衛星の落下確認後解散させてくれ」

「はい、わかりました。ところで首相。一部の情報では衛星には原子炉が搭載されていたようですよ」

「原子炉だと?それはどこからの情報かね」

「アメリカのメディアです。もちろんオフレコですけれど。教えてくれた私の知り合いに裏を取ってくれるように頼んでありますが恐らく間違いないでしょう」

「そんな報告はロシアとアメリカからは来ていないのか?」

「ええ、全く」

「何てこった。そんな大事な事は全く音沙汰なしか。いつもの事だが日本をばかにするにも程がある。日本に原子炉が墜落するかもしれなかったんだぞ。一歩間違えれば大惨事じゃないか」

「いつもいつも、これじゃたまりませんね。どうします?裏が取れたら政府見解の発表でそこらあたりも盛り込みますか?」

「いや、やめておこう。アメリカに喧嘩を売ったところで勝てる見込みはないからな。事がハッキリしたらロシア政府にはクレームを入れるぐらいでいいだろう。日本政府は全く知らなかった事にしておこう。お望み通りバカな振りをしておいてやるさ。こっちはこれから選挙で忙しいんだ。終わった事で振り回されるのはごめんだ」

「確かにそうですね。政府発表ではロシアとアメリカの報告を読み上げるだけにしておきましょう。原子炉の事は知らぬ存ぜぬで通します。都合が悪くなったらアメリカさんに振っておきますよ。連絡不足って事で」

「ああ、それで頼むよ。安藤君」

「わかりました」


その数時間後、どこから情報がリークされたのかは不明だが、CNNなどのメディアでは旧ソ連が宇宙空間に原子炉搭載衛星を打ち上げた事を非難し、もう少しで大惨事が起こるところだった事を指摘する報道が流されていた。

日本政府はロシアとアメリカからの情報をそのまま報じただけで大きく取り上げる事は無かった。結局、日本時間の5月11日の午前10時頃に日本上空を衛星が通過するという事だけを発表した。それを受けてワイドショーなどでは毎日のように衛星について放送されていたが、それが大気圏に突入した時、上空を見上げていれば流れ星のように輝いて通過する所を観測できるのではないかと、まるでお祭りのように騒いでいただけだった。

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