第2章 怪異と人間

第27話 大黒埠頭ぶらり旅〈前編〉

 誰かの歌声が、聞こえる。

 ことばの意味は、分からない。その旋律にも、聞き馴染みが無い。

 それでも、広大無辺の闇に身を委ねながら、そっと耳をすませてみる。

 ゴポリ。

 小さな気泡が、音を立てる。 

『――――』

 異国の言葉で紡がれる素朴で暖かな歌が、虚ろな心を満たしていく。 

「あなたは、だあれ?」

 声の主が知りたくて、思わず問いかけてしまう。

『――』

 歌声が、ピタリと止んだ。

 痛いほどの静寂が下りる。

 問わなければ良かったと、ひどく哀しい気持ちになってしまう。

 だから、まずは謝ろうと思ったのだ。

「……あの、ごめんなさ」

『ワタサナイ!!』

 激しい敵意と憎悪が、巨大な水塊となって叩きつけてきた。

 穏やかな歌声からは想像もつかない、浅い海の底に溜まったヘドロのようなドス黒い感情が、四方八方から呑み込まんと襲いかかってくる。

『ワタサナイ! ワタサナイ! ワタサナイ、ワタサナイワタサナイワタサナイワタサナイワタサナイワタサナイワタサナイワタサナイワタ』

 ゴボゴボと海水が泡立つ。

 ひどく冷たかった海水が、急速に熱くなっていく。

「っ!」

 バシンッと、身体が弾き出された。

 何かを感じる間もなく、どんどん声から遠ざかってしまう。

 視界いっぱいの漆黒が、透き通るような青色へと変わっていく。

 目にも鮮やかな網目模様の海面が近づいてくる。

 ――狂い続ける少女の叫び声は、さざ波の彼方へと消えていった。




 薄いカーテンの隙間から、陽光が優しく投げかけられている。

 朝霧まりかは、いつの間にか開いていた目を、パチリパチリとゆっくりしばたいた。

「あさ……」

 寝ぼけまなこにはやや眩しい朝の光を片手で遮ぎって、ゆっくりと上半身を起こす。

(うーん、なんだか)

 顔にかかった髪を掻き上げながら、さっきまで見ていたはずの夢の内容を、ボンヤリと思い返してみる。

(ホラー映画みたいなノリだった気もするけど)

 朝霧まりかは生憎と、寝ている間に見た夢の内容をほとんど忘れてしまう性質たちだった。

(もしかして、7番目のチャクラを制限しているせいなのかも)

 そっと頭頂部に手を当てながら、自らの師匠である龍神・蘇芳すおうの顔を思い浮かべる。

 普段、まりかたちが暮らすこの現世うつしよと重なるように存在する幽世かくりよや、現世とも幽世とも違う別の場所に存在するとされる、霊的次元。夢の世界は時に、幽世や霊的次元の姿を垣間映し出すことがあるのだと、かつて蘇芳は幼いまりかに語ったことがある。しかし。

(蘇芳様、霊的次元についてはほとんど教えてくれなかったからなあ)

 霊的次元。神仏やその御使いが住まうとされる、霊的エネルギーで満たされた空間。龍神という立場ゆえに明かせない事情も多いのだろうと、以前のまりかはごく単純に捉えていた。しかし、この数ヶ月で経験した数々の出会いによって、その認識に疑問を抱き始めている。

あきらなら、霊的次元について何か知ってるかも。海異対には魔術師の人もいるって言ってたし)

 時間ができた時に聞いてみようと決心して、ひとまずはこの問題を脇に置いておくことにした。

「あら、散歩かしら」

 ベッドの隣に目を落としたまりかは、同居人の不在に気がついて小さく眉を上げた。

 薄い敷布団とタオルケット、それに小さな蕎麦殻の枕。あの特別暑がりな人魚にとっては、例え真冬の時期であっても、この三点セットだけで充分だという。

「畳んでって、いつも言ってるのに」

 ぶつぶつ呟きながら手早く寝具を畳んで壁際に寄せてしまうと、パジャマから部屋着に着替えて寝室を出る。

 洗面を済ませてキッチンに向かうも、案の定、あの人魚の姿は無かった。まりかは椅子に座ってテレビをつけながら、数ヶ月前に同居人となった、カナという名の人魚の最近の様子について振り返ってみる。

(少しずつだけど、人間の街に馴染んできているみたいね)

 約1ヶ月前、犬吠埼灯台を目的地とした長距離列車の旅を敢行したことにより、人間社会で活動することについての自信がついたらしい。それまで、まりかの同伴無しには一切外出しようとしなかった彼女が、早朝限定ではあるものの、独りでこの近辺を散策するようになったのだ。

 近日中にでも最寄りのコンビニへ「はじめてのおつかい」を頼んでみようかと、まりかは密かに企んでいたりする。 

「……ふうん、明け方に地震があったんだ」

 四国や中国地方を中心とする地震の情報を伝えるニュースを眺めながら、今度は早苗という名の親友に思いを馳せてみる。検察官を目指す彼女は現在、司法修習生として広島の地で多忙な日々を送っている。数日前にメッセージをやり取りした時は、裁判所で実務修習を受けていると言っていた。今のところ、検察官を目指す気持ちに全く揺らぎは無いらしい。

 ニュースが天気予報に移ったところで、まりかは椅子から立ち上がってお湯を沸かし始めた。快晴を伝えるアナウンサーの声を聞き流しながら、ドリップバッグのコーヒーを淹れて、その場で立ったまま熱いコーヒーを啜る。

(カナが戻ってくる前に、あの子の様子を見ておこうかな)

 まりかは、友人の海上保安官・菊池明が連れてきた式神の少女のあどけない笑顔を思い浮かべた。

 昨夜、少女の主である菊池明が去った後、まりかはカナと金魚の精霊たちと共に応接用ローテーブルを囲み、少女の歓迎会を開いた。ありあわせのお菓子とジュースを飲食するだけでは少々寂しいため、トランプやオセロゲームを小1時間ほど楽しんだ後、生まれて1日と経っていない少女を休ませてあげるために、まりかとカナは早々に事務所から引き上げたのだった。

(飲み明かすとか言い出した時はどうしようかと思ったけど、意外とすんなり引いてくれて良かったわ)

 同居を始めて、はや数ヶ月。人間社会で暮らした経験が皆無だったらしいカナであるが、その順応性には目を見張るものがあった。最初の数週間こそ苦労したものの、ここ最近は突拍子もない言動や無理難題でまりかを困らせるようなこともほとんど無くなってきている。

 昨夜の歓迎会でも、率先して後片付けを手伝ってくれたくらいだ。それはもう、普段の自堕落な生活態度からは想像もできぬほど気前良く……

「……本当に?」

 まりかは、コーヒーがまだ半分以上残ったマグカップをゆっくりとキッチンに置いた。急速に湧き上がってきた疑念に背中を押されるようにして玄関に向かうと、バッグの中からカードキーを取り出し、階段を駆け下りて、事務所の警備システムを解除する。

 事務所の扉の前で大きく深呼吸をして覚悟を決めると、思い切ってドアを開け放った。

「や、やられた……!」

 惨憺たる光景に、まりかは扉にもたれかかって脱力する。

「グー……」

 散歩をしていると思われていた例の人魚は、彼女専用の帆布の椅子の上で爆睡していた。

 しかも、全裸で。

「スピー……」

 褐色の肌に、軽くウェーブがかかった白いロングヘア。緩やかな曲線を描く青色の入れ墨が全身を覆い、顔には青い横線の入れ墨が両頬に1本ずつ。その下半身は本来はクジラの形態をとっているが、普段は人間の脚に変化へんげさせて日常生活を送っていた。

「完全に出し抜かれたわね……」

 大股を広げたあられもない姿で健やかな寝息を立てる同居人の、心底幸せそうなこの寝顔。いやがおうにも、己の敗北を悟らざるを得ない。

 まりかは事務所内に足を踏み入れると、被害状況をつぶさに確認し始めた。

 一旦は片付けたはずのトランプやオセロに加え、ジェンガや知恵の輪、万華鏡、動物のイラストが描かれた子供向けの将棋セットなど、まりかがカナに買い与えたゲームや玩具類のほぼ全てが、応接用ローテーブルやソファ、そして一部は床の上にまで散乱している。また、大量の紙コップやお菓子のパッケージも、あちらこちらにとっ散らかったままとなっている。

「でも、仕事関係のものは無事みたいね」

 パソコンやコピー機、書類などに汚損が見られないことを真っ先に確認して、まりかは胸を撫で下ろした。人間にとっての仕事というものの重要性を、彼女なりに多少なりとも理解してくれているらしい。

 ひと通り室内を確認してから、まりかは音を立てないように、そっとソファに近づいた。

「スー……」

 ソファの上では、あの式神の少女がスヤスヤと眠っている。そして少女の身体の上では、事務所の水槽に住んでいる金魚の精霊、キヌ、タマ、トネが、穏やかに寝息を立てていた。

 その微笑ましい光景に思わず頬を緩ませつつ、まりかは改めて式神の少女を観察してみる。青みがかった銀色の肌に、焦げ茶色のメッシュが入った白いショートヘア。腰と顔の左右には魚のヒレ、腕は焦げ茶色の翼となっており、ソファの上で丸まったような姿勢をとっている。

(やっぱり、海鳥としての習性が強く出てるみたい)

 昨夜、明から画像付きのメッセージが送られてきたのだが、鳥類図鑑のとあるページを写したその画像には、「オオミズナギドリ」という名の海鳥の解説とイラストが示されていた。

『これが あの子の前身の海鳥

 良かったら教えてやってほしい』

 絵文字も使わず、必要最低限の内容のみの明のメッセージ。文面だけ見れば素っ気ないが、その裏には彼なりの優しさが込められていることが十分に察せられた。

 まりかは、式神の少女の柔らかな髪をそっと撫でると、今度は金魚たちの頬を人差し指でフニフニと優しくつついた。

「3人とも、おはよう」

「……んん」

 最初に目を覚ましたのは、青文魚のトネだった。水かきのついた手で目をこすりながら身体を起こすと、まりかの存在に気がついてバツの悪そうな表情を浮かべる。

「まりか様。これは、その」

「いいの、気にしないで。カナの誘いを断るなんて、無理に決まってるわよ」

「面目ありません……」

 トネの説明によると、「今夜は『ぱーりない』じゃ!」とか何とか叫びながら、大量のお菓子とジュース、ゲーム類を抱えたカナが事務所内にし、歓迎会の続きを強行したとのことだった。結局、どんちゃん騒ぎはそのまま明け方まで続いたらしい。

「ふみゃあ」

「おはようございますう」

 トネが話している間に、琉金のキヌとキャリコ琉金のタマも目を覚ました。トネの話を補足するように、「ぱーりない」がいかに楽しかったかを代わる代わる熱烈に説明する。

「この子、凄いんです。あっという間にゲームのルールとか覚えちゃって」

 キヌが、気持ち良さそうに少女の翼に顔を埋めた。同じくタマも、ふわふわの羽根が生え揃った翼を至福の表情でパフパフしている。

「こうしてくっついてると、この子の霊力が染み込んでくるんです」

「この心地良い翼と良質な霊力に、どうしても抗いきれず……」

 トネがはにかむような表情を浮かべつつ、少女の翼をワサワサと撫でている。そんな金魚たちの様子に心を和ませながらも、まりかは3人に対して水槽に戻るようにと促した。

「この子の霊力が護ってくれてたみたいだけど、念の為に今日はずっと水の中で休んでて。今日は臨時休業にしたし、後片付けは私とカナで全部やるから」

 こうして、小さな精霊たちは名残惜しさを見せつつも、水槽内に戻って本来の金魚の姿で悠々と泳ぎ始めたのだった。

(まさか、金魚たちに新しい友達ができるなんてね)

 金魚たちと式神の少女が、自分の知らぬところで親交を深めていたという事実は全く思いがけないものではあったが、同時に心暖まる事実でもあった。しかし、それはそれとして、この事務所の惨状について、朝霧海事法務事務所の所長として看過するわけにはいかない。

「さてと」

 まりかは気持ちを切り替えると、もう一度事務所内を見渡した。散乱した玩具やゲーム、お菓子の包装紙、空のペットボトルに紙コップ。よく見ると、食べカスやジュースをこぼしたような跡も所々に残っている。

「この際だから、掃除の仕方をキッチリ覚えてもらおうかしら」

 まりかは未だに爆睡中のカナの正面に立つと、金魚たちにしたよりも少し強めの力で、すべすべの頬をプニプニとつつき始めた。

 プニプニ、プニプニプニプニ。

 プニプニプニプニプニプニ。

 繰り返すこと、およそ1分。

 カナの白い睫毛が小さく震えて、ゆっくりと瞼が持ち上がった。

 金色こんじきの瞳が、朝の陽光を受けてキラキラと輝いている。

「ほげ……?」

 カナはボンヤリとした頭で、何故まりかが自分の前に立って顔を覗き込んでいるのだろうと考える。

 そしてすぐに、自らの盛大なやらかしの全てを思い出した。

「っ!!」

「グッモーニン、カナさん?」

 まりかがニコニコ笑顔でカナを見つめている。その不自然なまでの朗らかな声色に、カナは何もかもを観念した。

「うぐ……すまぬ……」

「ムニャムニャ……」

 そんな緊張感漂う2人のやり取りなど露ほども知らず、式神の少女は、優しい夢の中で暖かなかいなに抱かれながらスヤスヤと眠り続けていた。




 それから数時間後。まりかとカナ、そして式神の少女の3人は、レンタカーに乗って横浜ベイブリッジの上を走っていた。

「ふむ。ただ通り過ぎるだけにしては、ちともったいない気もするのう」

 助手席でジュニアシートに座ったカナが、初めて渡る巨大な橋を興味深そうに眺めている。ちなみに今日は、スズメの顔や模様がプリントされたブラウンのパーカーを身につけている。

「それなら、次は歩いて渡ってみる? 私もちょっと興味があるし」

 まりかはハンドルを握りながら、橋の上からの横浜港の眺めにチラリと目を向けた。

「タイミングが合えば、豪華客船の離岸や着岸の様子がここから観察できるらしいの」

「ふうん」

 耳たぶから下がるチェーンのピアスを指で弄りながら、カナが気のない返事をした。船についての知識が少ないカナにとって、船の離岸や着岸に対してどのような楽しみを見い出せば良いかなど、皆目見当もつかない。

「どうせなら、明――あなたの主と4人で来るのも良いかもしれないわね」

 まりかは後部座席に座る式神の少女を、ミラー越しに確認する。少女はシートベルト未着用だが、実体を持たない式神であるため普通の人間の目には見えないし、仮に霊力の強い警察官に見つかったとしても、式神であることを説明すれば、咎められることはまずありえない。

「我があるじと……そうですね……」

 少女が、気もそぞろに相槌を打つ。

 どことなく落ち着かない様子の少女に、まりかはそっと訊ねてみる。

「やっぱり、明のことが気になるわよね」

「っ! いえ、その!」

 少女が、あたふたと翼を動かした。どうやら図星だったらしい。そのいたいけな仕草に、まりかはついつい笑みをこぼしてしまう。

「大丈夫よ。式神であるあなたが、自分の主のことを気にするのは当然のことだから」

「うぅ」

 安心させるために声をかけるも、少女は恥ずかしげに翼で顔を覆ってしまった。

「かように懐かれるとは、いやはや、あやつもとんだ果報者じゃて」

 飴玉を口の中で転がしながら、カナが少々呆れた様子で後部座席の少女を見やった。

「んまあ、わしとしては、あやつが自らの従者の前で醜態を晒すことになりはせんか、それはもう心配で心配でたまらんがのう」

 大して興味無さげな顔でそう言うと、ドロップ缶から次の飴玉を出して口の中に放り込む。

「カナさん! 我が主にかぎって、そのような事はありませんよ!」

 カナの言葉に、少女が翼から顔を出して反論した。強めの口調ながらも、意外にも怒った様子は見られない。

「ほいほい、そうじゃと良いのう」

 対するカナも、少女の強気な態度に気を悪くした風でもなく、フンフンと頷いて軽く受け流している。金魚たちのみならず、カナと少女のふたりも、昨夜のどんちゃん騒ぎですっかり打ち解けたらしい。

(明と出会わなければ、この子と出会うことも無かったのよね)

 前方を注視してハンドルを傾けつつ、出会いが出会いを引き寄せる、怪異や人間たちの不思議な因果について、まりかは思いを巡らせる。

 そんなこんなで、いつしか一行はベイブリッジを降り、トラックが行き交う広い一本道を走っていた。

「おい、まりか。『大黒埠頭だいこくふとう』と言うたな。このような辺鄙な場所に、本当に公園があるのというのか」

 カナが、ひたすら工場が建ち並ぶ殺風景な道路沿いを疑わしそうに眺めている。

「確かに、結構な穴場ということで有名みたいだから。私も子供の頃に家族で来たことがあるから、知ってただけだし」

「そもそも、公園とは何をするところなのでしょうか」

 少女が、物珍しそうに窓の外を眺めながら訊ねてきた。

 つい昨日生まれたばかりなのだ。むしろ、知らない事の方が多いくらいだろう。

(これからたくさん、楽しい事を教えてあげなくちゃね)

 まりかは、目的地で待ち受ける、ほのかな甘さを含んだ潮風の香りを思い出しながら、元気良くカナと少女に返事をした。

「とにかく、行けば分かるわ!」

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