第26話 海難0527〈エピローグ〉
5月27日、夕刻。開港波止場と象の鼻桟橋を臨むビルの3階で、朝霧まりかは友人である菊池
「――というわけで、俺がこの子を引き受けることになったんだ」
「……えっと、まずはお疲れ様。救難の現場にも出動するなんて、海異対も大変なのね」
まりかは、明の隣にも気を配りつつ、まずは
明もまた、自身の隣にチラチラと視線を向けながら、とりあえずはグラスに入ったアイスティーを一口飲む。
「まあ、今回は結構レアケースだと思う。行方不明者の捜索には一切手を貸さないことになってるし、基本的に救助活動には関わらねえよ。あと、捜査にも関与しないことになってるんだけど、これについては文句を言う人もいるみたいでさ」
「そうなんだ。なんだか、別の意味でも大変そうね」
小さく眉をひそめながらも、感心したように頷くまりか。気楽な自営業の彼女にとっては、完全に別世界の話である。
「なんせ、組織だからな。色々あるよ、うん……」
「ええい! まどろっこしい!」
まりかのすぐ横、ソファ越しに覗き込むようにして話を聞いていたカナが、痺れを切らして2人の会話に割って入った。今日はワニのデザインのパーカーを着て、長い白髪はお団子のツインテールにしている。そして、その顔には何故か赤縁の眼鏡をかけていた。多分、伊達眼鏡だろう。
「貴様は、くだを巻きに来たんか!? 違うじゃろ! さっさと本題に移れい!」
「わ、分かったよ」
カナから伊達眼鏡越しに睨まれた明は首を縮こまらせると、居住まいを正して軽く咳払いをした。
それから、明の隣に座っている、あの海鳥と魚の少女に目を向ける。
「朝霧。友人として、頼みがある。急な話で本当に申し訳ないんだけど、何日かこの子を預かって欲しいんだ」
「むむう?」
カナが、顔を顰めて眼鏡をかけ直した。一方のまりかには、さほど驚いた様子はない。事前に電話で、ある程度の事情と「相談がある」旨を明から聞いていたため、なんとなく予想はついていたのだ。
「いくら式神だからって、何の準備もなしに女の子を独り暮らしの部屋に連れて帰るのもどうかと思うし。それと、そうだな。やっぱり、心の準備というのも欲しいというか、うん……」
明は、まりかと少女を交互に見ながら、気まずそうに説明をする。もちろん少女にも事前に話をしてはいるが、目の前で自分を預ける相談をされて愉快なはずが無いだろう。
「……」
少女は何も言わず、神妙な面持ちで明の隣に控えるのみである。
まりかは、応接ソファから腰を浮かして少女の正面に座り直すと、安心させるように優しく微笑みかけた。
「私は、朝霧まりか。よろしくね。あなたのお名前は?」
少女は、つぶらな瞳でじっとまりかを見つめると、少しだけ表情を緩めた。
「こちらこそよろしくお願いします、まりかさん。私は一介の式神に過ぎぬゆえ、名前はありません」
「あら、そうなの……」
まりかは、チラと明を見た。
明が、意味ありげな目つきで小さく頷く。
(良かった、ちゃんと考えてるみたい)
明の意図を察したまりかは安心すると、すかさず別の話題を持ち出した。
「ところで、明たちは
「それなんだけどさ、この子はあくまで式神だって言うんだよ」
「はい!
少女が、どことなく誇らしげな様子でキッパリと主張する。
(海鳥としての記憶が残ってるのかしら。かなり明に懐いてるみたいね)
微笑ましい思いで少女を眺めていると、いつの間にかソファの背後から出てきたカナが、海鳥と魚の少女に急接近した。
「ふうむ」
伊達眼鏡を外して、吐息がかかりそうな距離まで顔を近づける。
「……うぅ」
底知れぬ力を秘めた人魚の視線の圧力に、少女は思わず肩を縮こまらせる。
しばらくして、カナは小さく唸りながら少女から顔を離すと、元通り伊達眼鏡をかけ直した。よっぽど気に入っているらしい。
「確かに、こやつからは神仏との繋がりが何ら感じられぬのう。恐らく、その毘沙門天とやらが、こやつを手放したのじゃろうて」
「手放した? どうして」
「理由は知らん」
思わず腰を浮かした明に対し、カナは素っ気なく言い捨てた。
と思いきや、つかつかと明の正面に移動すると、ローテーブルの上にどっかと腰かけて、いかにも偉そうに華奢な腕と足を組む。
「え、何」
「そうじゃなあ、むしろ」
不思議な魅力を湛えた
「お前さんとの間に、一段と強い繋がりを感じるわい」
「……ああ、それは」
明は、小さくため息をついた。
「多分、この子を創造する時に、俺の血を使ったからだと思う」
明は、船倉での
(さては榊原さん、最初からそのつもりだったな)
「あかとき丸」では少々の動揺が見られたため心配していたのだが、忘れた頃に発揮される彼女の計算高さは、あれしきのことで損なわれるようなものでは無かったらしい。
(俺ごときがあの人を心配するなんて、おこがましいってことだな)
「いずれにせよ」
カナが再び話し出したため、明は脱線しかけた思考を目の前の現実に戻した。
「お前さんを除いては、こやつは寄る辺ない身の上ということじゃ」
カナが、スっと目を細めて声を低くする。
「心せよ、小僧。一度こやつを引き受けたからには、最後の最後まで責任を持つことじゃ。それこそ、お前さんの命に替えても」
探るように明を見つめる美しい金色の瞳に、ほんの一瞬だけ闇が差す。
幼い顔に似合わぬ剣呑な目つきに、明は何故か、龍神・蘇芳から直刀を授けられた時のことを思い出した。
「――ああ、そのつもりだよ」
明は、龍神をも連想させる金色の瞳に対して、真っ直ぐ突き刺すような口調で言い返した。
「むう」
明の強気の態度が予想外だったのか、カナが意表を突かれたような顔をする。そして、ツンとそっぽを向くと、何事も無かったかのように少女に話しかけた。
「ようし! そうと決まれば、今夜は歓迎会じゃな! あやつらと共に、飲み明かそうではないか!」
カナが、事務所に置いてある水槽をバシッと指さした。
そこでは、3人の金魚の精霊、キヌとタマ、そしてトネが、水槽の縁からひょっこりと顔を出して、こちらの様子を伺っている。
「ねえねえ、あの子って鳥なの? 魚なの?」
「トビウオって、本当に空を飛ぶの?」
「……」
3人とも、海鳥と魚の少女に興味津々らしい。
「ちょっと、決めるのは家主である私だってば! というか、早く机から降りなさいよ!」
「いちいち、うるさいんじゃあ」
呆れ顔のまりかにせっつかれて、カナがブツブツ言いながらローテーブルからぴょこんと降りる。
「全く」
まりかは軽くため息をつくと、すぐに少女に向き直って笑いかけた。
「でも、確かにカナの言う通りよ。もうとっくに決めてるもの。あなたの主の準備が整うまで、好きなだけここで過ごしてちょうだいね」
「っ! ありがとうございます!」
歓迎の意に、少女はサッと立ち上がってお辞儀をした。それから、チラと水槽の方に視線を向ける。彼女も同様に、金魚たちに興味があるらしい。
(飲み明かすなんて論外だけど、歓迎会自体は良いアイデアね)
金魚たちと少女を見比べながら、まりかは早速、この後の段取りを立て始める。
「すぐに連れ帰ってやれなくて、ゴメンな。なるべく早く迎えに来てやるから」
「心配ご無用です、我が主よ!」
申し訳なさそうな顔をする明に対し、元気良く返事をする式神の少女。自分の主が確実に迎えに来ることを、微塵も疑っていないらしい。
(同じ女の子に囲まれて暮らす方が、楽しいかなって気もしたけど……)
明は、一瞬でもそんな考えを抱いたことを後悔する。
「ああ。待っててくれ」
そう言ってから、明はおもむろに少女に手を伸ばした。
明の大きな手が、少女の細く柔らかい髪を優しく撫でる。
海鳥と魚の少女は驚き、それから、はにかんだように笑った。
「はい! お待ちしています!」
――ここは、国際港湾都市・横浜。この日、開港波止場と象の鼻桟橋を正面に臨む
海事代理士・朝霧まりか。
幼子の姿をした正体不明の人魚・カナ。
海上保安官・菊池明。
そして、まだ名前を持たない、海鳥と魚の姿をした式神の少女。
4人の出会いが、この大海にもたらすものとは。
それを
* * *
映像が消えると同時に、男はVRゴーグルを無造作に取り外した。そのまま、苛立った様子で背後に投げ捨ててしまう。
VRゴーグルが床に落ちる乾いた音が、機械のランプが点在する暗い部屋の中に響いて、消えた。
(せっかく、《神》が力を与えて下さったというのに)
男は、鈍い頭痛を感じて額を押さえながらも、
「海洋怪異対策室か。案外、侮れんようだな」
噛み締めるように小さく呟くと、額に当てた手を左眼に移す。
そっと、左の眼窩に入れた義眼の表面を撫でて、すぐに手を離した。
「……忌々しい」
小さく吐き出した苛立ちと
運命の毒牙から滴り落ちる、最初の一滴。それはとうの昔に、この大海に溶け込んでいた。
その毒牙の味を朝霧まりかと菊池明が知ることになるのは、もうしばらく先の話。
(第1章 完)
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