第9話 妖コンサートin横浜大さん橋〈四〉

 ビアンカの雰囲気が一変した。さっきまでの高飛車な態度は影を潜め、その佇まいからは荘厳さすら感じることができる。

 それに呼応するかのように、ほのかに揺らいでいた8つの鬼火が完全に動きを止めた。辺りは、耳が痛くなるくらいの張り詰めた静寂に支配される。

 ビアンカが優雅に顎を上げた。その青く鋭い目

は、遠い夜空に投げかけられる。

 細く青白い喉が上下に動くと、艶めいた赤い唇から、飴細工を想わせる繊細で美しい歌声が滑り出てきた。


 星空映す 凪の海

 静かな世界に 船がひとつ

 あのの顔を 思い浮かべて

 今夜もあなたは 舵を取る


 甘酸っぱいラブストーリーを想わせる出だしだが、それをセイレーンが歌うことにより、そこはかとない不吉さを漂わせている。


 あなたに歌を 贈りましょう

 健気なあなたに プレゼント

 あたしの歌を 聴いたのならば

 ほうら あなたは岩礁の上 


 水飴のようにとろりと甘いビアンカの声が、耳穴じけつから頭蓋の中へ触手を伸ばすように侵入し、脳の表面をずるずると這い回る。


 星空映した あなたのまなこ

 今や虚ろな ガラス玉

 赤い月が あなたを照らして

 あなたの血潮が 海を染める


 ビアンカが恍惚とした表情で両翼を広げた。雨あられと降る血飛沫を一身に受けようとするかのようなその姿に、まりかは正真正銘の魔性を見出す。


 なんて素敵なのかしら

 天にも昇る この気持ち

 あなたの破滅が あたしの幸い

 あの娘の涙が あたしの甘露


(う、上手い!)

 ビアンカのあまりにも高い歌唱力に、まりかは思わず息を呑む。彼女に太刀打ちできる人間の歌手など、数えるほどしか存在しないに違いない。

 加えて、ビアンカは自らの歌声に妖力を上乗せしている。聴く者を魅了する効果が込められたそれは、元々の美声や純粋な歌唱力の高さと相まって、何倍もの効力を発揮していた。

 その証拠に、猩々や人魚、海河童などの小さな妖たちは、軒並みビアンカの歌に聞き惚れている。冷静に聴けばあまりにも悪辣な内容であることに気が付きそうなものだが、やっかいなことにビアンカは妖力もそれなりに強い。それゆえ、力の弱い妖たちは簡単に魅了の効果と歌の美しさに惑わされてしまうのだろう。

 ビアンカはその後も、血みどろの情景と自己陶酔のことばを、飽くことなく執拗に繰り返した。

 そして、悪女の独白モノローグは、酷く薄情な詞で締めくくられる。


 波間に揺れる されこうべ

 サヨナラ あたしのお慰み


 こうして、凄惨で美しいセイレーンの歌は幕を閉じた。

 ビアンカが歌い終わっても、誰ひとりとして言葉を発さない。誰も彼もが、夢見心地に歌の余韻に浸っている。

 最初に沈黙を破ったのは、ビアンカだった。

「まあ、ざっとこんなもんね」

 事も無げにそう言い放ち、呆けたように突っ立っている聴衆を満足げに眺め渡す。

「やっぱり、ビアンカ様のお歌は素敵だわ」

 ユウナが、うっとりと呟いた。

「本当に、お歌は素晴らしいわね」

 ネモフィラが、感慨深げに頷いて同意する。

 従者ふたりの言葉にますます自尊心を満たしたのだろう、ビアンカは豊かな胸を大きく膨らませると、あざけりながらまりかを見下ろした。

「さあ、次はあんたの番よ。もっとも、不戦敗ということにしてあげても良いけど?」

「いいえ。当初の予定通り、フルートを演奏させていただきます」

 まりかはニッコリと笑って、きっぱりと宣言する。

「あっそう。好きにすれば? どうせ、このあたしには及ばないでしょうけど」

 ビアンカが鼻白はなじろんだ表情で吐き捨てた。大方、まりかが歌に魅了されなかったことを、つまらなく感じているのだろう。

「それでは、準備がありますので少々お待ちください」

 まりかはあくまで慇懃な態度でビアンカに断りを入れると、さっさととんびコートを脱ぎ、ざっくりと折りたたんでデッキ上に置いてから、ハードケースを開いてフルートを組み立て始めた。

 ジョイント部をクロスでそっと拭って、キイの向きに気をつけながら、主管と足部管、それから頭部管と主管という順番で、ゆっくりと丁寧に組み立てていく。時間稼ぎをしている訳ではなく、まりかにとっては、いつも通りの手順を踏んでいるというだけのことだ。ビアンカたちもこの作業を邪魔するつもりは無いらしく、むしろ興味深そうにフルートが組み立てられる様子を観察している。

 それはそれとして、まりかは平静を装いつつも、ビアンカに確実に勝利するための策を見出すため、その頭脳をフル回転させていた。

 演奏する曲は、既に決めている。悪辣極まりない悪女の歌には、新たな世界への夢と希望に満ち溢れた恋人たちの、輝かしい純愛の調べで対抗するのがふさわしい。

『A Whole New World』――今更説明するまでもない、人類の名曲である。これを、この性悪なセイレーンにぶつける。

(でも、普通に演奏しただけでは、まず負ける)

 勝つためには、ビアンカがしたのと同じように、フルートの音色に霊力を上乗せしながら演奏する必要がある。

 問題は、これまでただの一度も、霊力を乗せての演奏をしたことが無いことだった。理由は単純で、する必要が無かったからである。それはつまり、自分の霊力を乗せた演奏が、聴く者に対してどのような影響を与えるのかが未知数であるということを意味する。

 何が起こるか分からない高リスクな手段など取りたくないというのが、まりかの本音だ。しかし、このリスクを取らなければ、間違いなくビアンカに敗北する。

(だったら、やるしかない)

 まりかの心は決まった。組み立て終わったフルートを両手で持って、自然体でビアンカに向き合う。

(まずは、体内を霊力で満たさないと)

 軽く目を瞑って深呼吸をすると、正中線に沿って存在する7つのチャクラを知覚し、車輪を回すようなイメージで順番に回転させていく。

 基底部から始まり、丹田、みぞおち、心臓、喉、そして眉間。頭頂部を除く6つのチャクラをフル回転させることにより、幽世かくりよともまた違う存在である「霊的次元」から霊力を取り込み、身体の隅々まで満たしていく。

 まりかはもう一度、今度は肺に霊力を満たすようなイメージで深く息を吸い込み、フルートを構えてリッププレートに下唇を当てた。

 ほんのりと暖かい呼気が、今か今かと唇の間でたゆたうのを感じる。

(これなら、いけそうね)

 まりかがフルートに息を吹き込もうとした、その時だった。

「待てい」

 これまで一切の口出しをしてこなかったカナが、袂を強く引っ張って演奏を阻止した。

「きゃ!?」

 全く予想だにしなかったカナの行動に、まりかは危うくフルートを落としそうになる。

「い、いきなり何を」

「この勝負、わしも乗らせてもらうぞ」

「なっ!?」

 続くカナの発言に、まりかは目を白黒させる。そんなまりかを尻目に、カナはビアンカとの交渉を勝手に進める。

「ビアンカというたか。ここ50年で1、2を争うくらいの見事な歌であったぞ」

「あらあ。お褒めいただき光栄よ、小さな人魚さん」

「というわけでな。ひとつ、わしにも歌わせてはくれぬかの」

 カナの申し出に、ビアンカが不機嫌そうに眉を寄せる。

「あなた、いきなりしゃしゃり出てきたかと思えば、何様のつもりかしら? あたしは、そこの小娘と勝負してるんだけど」

「こやつのフルートじゃが、はっきり言ってお前さんの歌より格段に劣るぞ」

 カナがとんでもないことを言い出した。当然、まりかは異議を挟もうとする。

「ちょっと! 何を勝手に」

「まあ待て」

 カナは小声でまりかを制すと、再びビアンカに向き合う。

「そこでじゃ。こやつの演奏に、わしの歌声を添えてはどうかと考えてな。なかなかいい勝負になると思うんじゃが」

「それ、あたしには何のメリットも無いと思うんだけど」

 ビアンカが、イラついた様子で指摘した。

 それに対して、カナが挑発するように笑いかける。

「なるほど。わしに負けるのが怖いときたか。やたら威勢が良いかと思えば、所詮は虚仮威しじゃったか。残念、残念」

「なんですって」

 ビアンカが額に青筋を浮かべた。

 ネモフィラとユウナが、そっと後ずさりしてビアンカから距離を置く。

「雑魚の人魚が、随分と言ってくれるじゃなあい?」

「わしが本当に雑魚かどうか、その曇った目と耳で確かめれば良かろう」

「――っ!」

 ビアンカが、頬を引き攣らせ、刺さんばかりの殺気をカナに向ける。怒り心頭のあまり言葉も出ないらしい。こうなってしまうと下手に手出しをする訳にもいかず、まりかは固唾を呑んで見守るしかない。

「分かったわ」

 しばらくして、ビアンカが怒りを収めた。代わりに、何やら悪巧みをするかのような嫌らしい笑みを浮かべる。

人魚マーメイドごときが愚かにもセイレーンに挑んだこと、後悔させてあげる。せいぜい悪あがきをすることね」

 ビアンカにしてみれば、人魚の歌などセイレーンの足元にも及ばないという認識だった。人間界でいうところのプロとアマ以上の隔絶があり、自身の敗北など有り得ないと確信している。

(確かに、あまり見ない感じの人魚だけど。まあ、この勝負には関係ないわね)

 それでも、確かに感じてはいたのだ。

 目の前の人魚の、金色こんじきに輝く瞳の奥に、異質な何かが潜むことを。

 しかし、ビアンカはその違和感を無視した。この人魚の正体がなんであれ、何としてでも自分を侮辱したことへの制裁を下してやりたいという執念に駆られていたからだ。そして彼女には、自身の高い実力に対する、致命的なまでの慢心があった。

「うむ! 決まりじゃな」

 カナは元気良く返事をすると、やっとのことでまりかに目を向けた。

「というわけじゃ、まりか」

「というわけじゃ、じゃないでしょ! こんなの、上手くいくはずがないじゃない!」

 まりかは片手を額に当てて天を仰いだ。カナの歌に合わせてフルートを吹いた経験が無いのはもちろん、そもそもカナの歌を聴いたことすらないのだ。

 ぶっつけ本番にも程があると、まりかは絶望的な気持ちになる。

「そもそも、あなたがどんな歌を知っているのかさえ、私は知らないというのに!」

「まりかよ。昼間、最後に演奏していた曲を吹け」

「へっ?」

「ほれ、お前さんが作曲したというあれじゃ。あれを吹くんじゃ」

「は?」

 まりかの頭の中が、疑問符でいっぱいになる。

「えっと、カナさん? そもそもあれは、歌詞が無いんですけど」

「歌詞なら、さっき考えたわい。もう、いつでも歌えるぞ」

「はあ!?」

 あまりにも想像を超えるカナの回答に、まりかの思考回路がパンク寸前まで追い詰められる。

 カナが、動揺するまりかを気遣うように華奢な腕を伸ばし、紅葉のような小さな手でまりかの肩を軽く叩いた。

「わしを信じろ。お前さんは、下手な小細工は何もせず、いつもと同じように演奏すれば良い。あとは、わしが何とかする」

 まりかを見つめるその顔に浮かぶのは、幼子のような見た目にそぐわない、包み込むような暖かさに溢れた柔らかな笑み。その顔を見ていると、突拍子もないカナの作戦が本当に成功するかのように思えてきてしまう。

 まりかの思考回路は、ついに弾け飛んだ。

(もう、どうにでもなりなさい) 

 そして、普段のまりかなら絶対にしないことだが、ここに来て完全に思考を放棄する。まりかは、達観した笑みを浮かべて再び天を仰いだ。

「ちょっとお、やるなら早くやりなさいよ!」

 痺れを切らしたビアンカが、大声でまりかとカナを急き立ててくる。

 まりかは正面を向いて、表情を引き締めた。

「負けたら、あなたも一緒に下僕になりなさいよ」

 フルートを構えながら、小声でカナに話しかける。

「無論じゃ。もっとも、わしとお主が負けるなど、有り得ぬことじゃがの」

 頭の後ろで腕を組んで、呑気に答えるカナ。

「だといいけど」

 まりかはそれだけ言い捨てると、下唇をリッププレートに当てて、躊躇いなくその息吹を吹き込んだ。




 静まり返った送迎デッキに、鈴の音のようなフルートの、しんしんとした哀しみを感じさせる旋律が流れる。

 真夜中の浜辺を想わせるその序奏が終わると同時に、カナが秘めやかな声で歌い出した。


 星辰の煌めきに

 数多の巡る生命いのちを想う

 我は生々流転のことわりの外

 不変なるはこの天空そらのみ


 たおやかで、それでいてしっかりとした芯のある歌声が、優美なフルートの音色と交わり、溶けて、ゆるやかに拡散していく。

 まりかの演奏技術もさることながら、何よりもカナの卓越した歌唱力がフルートの音色を引き立て、同時に、自身の歌声をフルートの調べで装飾し、更なる技巧の高みへと引き上げている。

 この時点で、ビアンカは自身の失策を悟った。

 

 誰も我を顧みない

 誰も我を抱き締めない


 内なる激情を抑えようとするかのように震える歌声が、激しさを増すフルートの曲調と相まって聴衆の脳髄を揺さぶり、そして浸透していく。

 

 今日も明日も明後日も

 この蒼海に我は独り


 束の間、カナの歌声が途切れて、フルートの独奏が流れる。

 切なさと苦しさに溢れたフルートの旋律が、幽世のもったりとした大気を振動させて、8つの鬼火を仄かに揺らす。

 そして。

「っ!?」

 突然、空が弾け飛んだ。

 鬼火は全て消し飛び、薄らぼんやりとしていた幽世の夜空が、あっという間に黄金色をしたオーロラのような光に支配される。

 同時に、躍動感溢れるフルートの旋律に乗せた朗々とした歌声が、暴力的なまでの圧力でもってビアンカの顔面を叩いた。


 カンカン照りの青海原

 その明朗なるは傍若無人


 小さな身体から出ているとは思えない程の圧倒的な声量でもって、海の青く美しいことを高らかに歌い上げる。


 見渡す限りの水天一碧すいてんいっぺき

 我が暗澹たるは跡形もなし


 カナの顔が、歓喜に溢れる。

 ふたりの演奏に合わせて、オーロラがその色を海の青に変化させた。うっすらと網目模様が入ったそれを見て、真夏の光を受けた海面のようだとビアンカは思う。

 唖然と上空を見上げる一同をよそに、演奏は2番へと突入する。


 幾星霜の想い出が

 我がはらわたを食い散らかす

 我の生命いのちは無尽蔵

 永遠とわの責め苦に耐え忍ぶ


 僅かに怒りが滲む、胸を締め付けるような歌声が、紫色に変化したオーロラをぐにゃぐにゃと歪ませる。


 誰も我を愛さない

 誰も彼もが我を忘れる

 今日も明日も明後日も

 この絶海に我は独り


 ビアンカはなんとかオーロラから目を離すと、必死の思いでカナから流れ出る妖力の流れを観察した。莫大な量の妖力が全身から迸り、上空へと伸びてオーロラのような光を形成している。そして、まりかの身体からも、オーロラに誘引されるかのように霊力が漏出している。

 人魚の妖力と人間の霊力が混じり合ったそれは、曲調の転換と同時に再び弾けて、眩いばかりの蒼海を空に映し出した。


 クジラは飛び跳ねクラゲはたゆたう

 珊瑚はわななきジュゴンは眠る

 汲めども尽きぬ生命いのちの営み

 久遠に続く来世を想う


 カナが、ビアンカを見た。

 そこにあるのは、嫌味でもなく嘲りでもない、純粋な喜びに満ちた笑顔。

 ふいに、ビアンカは悟った。これは、ビアンカの歌への返答なのだと。

 悪辣なセイレーンですら、その偉大な愛を受けるに値する存在なのだと。

(な、何様のつもりよ!)

 カナの笑顔に耐えきれず、再び上空を見上げたビアンカは、オーロラを目にして戦慄する。


 我は数多を愛すのみ

 我は幾多を胸に抱く

 今日も明日も明後日も

 我が孤高はとこしえに


 オーロラが渦を巻き、巨大な人影のような虹色の像を形成する。しかし、それはすぐさま解けて、元通りの美しい海色のオーロラへと戻ってしまう。

 まだ不完全なのだと、ビアンカは直感する。

 そして、確かそれは正しかったのだ。もしも、まりかとカナが入念に練習を重ねた上で勝負に挑んでいたのならば、ふたりの妖力と霊力は完璧に同調し、この程度では済まなかっただろう。

 それでも、このままここに居てはいけないと、ビアンカの自己防衛本能が警鐘を鳴らした。最後まで聞きたいという誘惑をなんとか振り払い、ふたりの従者に向かって必死に叫ぶ。

「ネモフィラ! ユウナ! 撤退するわよ!」

「し、しかし」

「つべこべ言わずに命令通りになさい!」

「は、はいっ!」

 ユウナとネモフィラが後ろ髪を引かれるようにオーロラを振り返りつつも、主人の命令に従い鳥たちを指揮して、速やかに大さん橋から飛び去っていった。


 見よ 我が心の晴朗なるを

 我を汚濁で染めようと

 肉を引き裂き焦がそうと

 我は何度も蘇る

 お前たちを送るため

 かの深淵に送るため


「ひいっ」

「うわあ」

 ビアンカたちが逃走するのを見て、我に返った小さな妖たちも、次から次へと送迎デッキの欄干から海に飛び込んでいく。

 そして、妖たちがすっかり退散した頃、ふたりの演奏はしめやかに終局を迎える。


 夕焼け映す凪の海

 緑閃残して宵に沈む

 潮風そよぐ椰子の入り江

 我の心は満ち足りたり


 カナの歌声が途切れ、まりかの穏やかな終奏が流れると、次第にオーロラも薄くなり、曲が終わると共に完全に消滅した。

 まりかはリッププレートから唇を離すと、夢の余韻から抜け出るときのように、ゆっくりと目を見開く。

「あれ?」

 ここで初めて、ビアンカや妖たちが送迎デッキからいなくなっていることに気がついた。いつの間にか鬼火も消えて、辺りは完全に闇に沈んでいる。

 まりかは、少し離れたところに「おじさん」が立っているのを見つけると、そっと小さく声をかけた。

「みんな、どうしちゃったの?」

 まりかの質問に、「おじさん」は小さく首を振った。

「恐れをなして、逃げてしもうたわい」

 それっきり、黙りこくってしまう。

 まりかはそれ以上は追求せず、今度はカナの姿を探した。

「カナさん?」

 カナは、ウッドデッキの上で仰向けになっていた。両腕と尾ひれを投げ出して、暗い夜空を眺めている。

「まあ、ざっとこんなもんじゃな」

 上を向いたまま、カナが満ち足りた顔で呟いた。




 真夜中の大さん橋の送迎デッキで、まりかは欄干に寄りかかって横浜港の夜景を眺めている。「おじさん」も引き揚げ、辺りは既に幽世から現世うつしよへと戻っていたが、どうにもこのまま帰る気にはなれず、この場所でぼんやりと物思いにふけっている。

 まりかは、先ほどの自分とカナの演奏を思い返した。

 熱に浮かされたような高揚感と、かつて無いほどの曲への没入感。演奏中に何か異常事態が起きていたらしいことは、それとなく感じていた。しかし、あの高飛車なセイレーンまでもが退散したとなると、一体全体、自分たちは何を引き起こしたのだろうかと、空恐ろしくなってしまう。

 まりかはブンブンと首を振って、背筋を伝う寒気を振り払った。

 (ひとまず、このことについて考えるのは止めよう)

 考えを進めれば、必然的にカナの正体を追求することとなる。しかし、あの煮ても焼いても食えそうにない人魚に質問をぶつけたところで、煙に巻かれるのがオチだ。

 答えが出ないと分かっていることを、あれこれ考えても仕方がない。

 そこでまりかは、自身の胸に疼くモヤモヤした感情をどう処理すべきかについて考えることとする。

(私の作った曲に、あんな歌詞をつけるなんて)

 幻想的にライトアップされたベイブリッジの輪郭を視線でなぞりながら、カナが高らかに歌い上げたことばの数々を思い返す。

「……」

 ふと、横方向に気配を感じた。

 顔を向けると、デッキで寝そべっていたはずのカナが、小さな身体をだらりと欄干に預けて、同じく夜景を眺めていた。

 緩くウェーブのかかった白い髪が、潮風にそよいでカナの頬を優しく撫でている。先ほどの演奏について、彼女なりに思うところがあるのだろう。思いのほか真剣な表情で、蒼く光るベイブリッジを見つめている。

 まりかは、そのまま視線をベイブリッジに戻した。そして、目を閉じてゆっくりと自分自身を振り返ってみる。

 初めてなのに大成功だった、カナとの演奏。

 カナの歌の内容。

 昼間、フルートの手入れ中に言われた曲についての感想。

 伊豆大島での約束。

 そして、自分の過去。

 伊豆大島でカナと出会った時から抱いていた、 くらい想い。

 一体、自分は何者なのか。

(ああ、そうか)

 まりかは、そっと目を開いた。

(自分の悩みを、この押しかけ人魚に勝手に投影して、都合良く厄介者扱いしていただけだったんだ)

 とすれば、こんなわだかまりは、さっさと解消しておくに限る。

 そう決心した途端に、まりかの口からあっけないほどに、するりと重大な事実が押し出されていた。 

「私ね、赤ちゃんポストに捨てられてたの」

「……」

 カナが横目でまりかを見る。「赤ちゃんポスト」なる言葉は初めて耳にするものの、それがどういう物なのかは、大体見当がついた。

 カナは何も言わずに、まりかの話の続きを待つ。

 再び、沈黙が訪れた。時間差で、まりかの顔面がカッと熱くなる。

(どうして、何の考えもなしに話し始めちゃったのかしら)

 まりかは、散り散りになった思考や感情をどうにかまとめると、自身の出生について、たどたどしくカナに語り始めた。

風の乙女シルフィードのお母さんとはもちろん、人間のお父さんとも血の繋がりが無い、養子だってこと自体はね、物心ついた時からちゃんと教えてもらってたのよ」

 話しながら、腕を前に伸ばして手を広げてみる。

 まりかの手の形は、父と母、どちらのものとも似ていない。

「でも、私を引き取るまでの経緯とか、そういう細かい事情を教えてもらったのは、16歳の誕生日をしばらく過ぎた頃だったの。今思い返すと、お父さんもお母さんも、私のためにものすごく考えてくれたんだなってことが、とてもよく分かるわ」

 そう言って、まりかは切ない笑みを浮かべる。

「私はね、カナ。16歳になったら生みの親のことを教えてもらえるんだって、ずっと信じて疑わなかったのよ。生みのお母さんやお父さんは、今どこで何をしているのかなとか、できるなら会って、話して、一緒にご飯を食べたいなとか、そんなことをよく考えてたなあ」

 まりかの瞳に、ふっと陰が差した。

「まさか、何も分からないだなんて、思ってもみなかった。どうして、生みの親が分かるだなんてこと、ああまで信じ込めたのかしらね。おめでたいにも程があるわ」

 そう吐き捨てるように言ってから、子供時代の自分自身を嘲笑うような感情がまだ残っていたことに驚く。

 そしてカナは、そんなまりかを笑うでもなく、かといって同情を示すでもなく、ただただじっと耳を澄ましている。

「まあ、そういうわけで、当時の私は結構、というか、相当ショックを受けちゃって。月並みな表現だけど、足元が覚束無いというか、とにかく精神的に不安定な感じになってたなあ」

 そう、今となっては懐かしい思い出とばかりに、あっけらかんと語ってみせる。

「でも、その後色々あって、どうにかこうにか立ち直ることができたの。そのきっかけのひとつが、あの曲よ」

「ふむ、そういうことじゃったか」

 一拍置いて、得心したというようにカナが頷いた。

「お前さんの憤りや悲しみ、孤独感。そして、そこからの起死回生の物語を、あの曲で表現したというわけじゃな」

「そういうこと」

 まりかは、寂しげにクスリと笑った。10代の少女の、単純で青臭い感情が詰まった曲を読み解くことなど、この老獪な人魚にとっては児戯にも等しいのだろう。

 そんなまりかを、カナが怪訝そうに見つめる。

「まあ、曲の成り立ちについては分かったわい。しかし、そもそも何故にそのような話をしようという気になったんじゃ」

「そ、それは、その」

 まりかは言葉を詰まらせ、しばらく逡巡した後、躊躇いがちに説明した。

「あの曲は要するに、ちっぽけな人間の個人的な感情を叫んだだけのものでしょ。そこに、あんな壮大な歌詞を付けるだなんて。不釣り合いにも程があると思って」

 雄大な大自然の営みに比べれば、ひとりの人間の存在など塵芥も同然ではないか。あまりのアンバランスさに、まりかは羞恥すら感じる。

 しかし、まりかの回答に、カナはますます訝しんだ。

「そうか? わしは、不釣り合いなどとは思わんぞ。本当に不釣り合いならば、即興で歌詞を作るなど、わざわざするはずがなかろう」

「え? そ、そう。それなら、いいけど」

 具体的にどこがどう釣り合っているのかを聞いてみようかと一瞬だけ考え、やはり止めることにする。この人魚に過去の自分の作品を分析させるなど、どう考えても赤面するだけでは済まなくなる。

「ちなみに、曲の題名はなんというのじゃ」

「へっ?」

 カナの質問に、まりかの身体がピキっと固まる。

「題名じゃよ。呼び名が無いと不便であろう」

「そ、それもそうね」

 しばしの沈黙。

 そして、まりかが小声でそれを告げた。

「『運命の覇者』」

「……」

 答えたのに、何故かカナは何も言わない。

 まりかは慌てて説明を付け加える。

「あ、あのときはまだ10代だったし。あの時期特有の勢いというか、『波に乗るみたいにこの運命を乗りこなしてみせるぞ!』っていうよく分からない威勢の良さを発揮しちゃって、その」

 まりかの声が途中で途切れた。

 カナが、ポカンとした表情でまりかを見ている。

 しまったと思ったが、時すでに遅し。次の瞬間、カナがニタリと笑った。

「ほーん、そうかそうか。なるほどのう」

 カナが、愉快そうに何度も何度も頷く。

「若さゆえの勢いに乗った言動を、成長した後に振り返って羞恥に悶えるという習性が人間にはあるのか。いやあ、これは良いことを聞いたわい」

「そ、それ以上は言わないでっ!」

 たまらず、赤面したまりかが叫んだ。そして、頭を抱えて顔を伏せる。

(完全に、墓穴を掘った)

 どうやら自分は、この人魚の前では調子が狂ってしまうらしい。そして、きっとこの先も、こうして振り回され続けるのだろう。

 それでも、共に楽の音を奏で、そして自身の秘密をひとつ明かした今、カナの存在は、最早ただの乱入者ではなくなった。

 カナは、まりかの生活の一部になりつつある。

 そして、その事実が案外嫌ではないのだと、そっと心の片隅で、まりかは認めたのだった。




 横浜大さん橋の妖コンサートから数日後。

「やっと届いた!」

 まりかは、宅配便で届いたダンボールの中から喜び勇んで子供サイズの服を取り出すと、カナに向けてバッと広げて見せた。

「むう?」

 対するカナは、相変わらずの腰布1枚だけの姿で、胡散臭そうにその服をじろじろと眺める。

「あなたのために買った服よ。パーカーっていうの」

「ぱーかー?」

「騙されたと思って、ちょっと着てみてくれない?」

「むう」

 カナが、眉間の皺をますます深める。

「そう言われてものう。首の後ろに変な袋が付いとるし、いかにも暑そうなんじゃが」

「そこを、なんとか!」

「むむう」

「1回着てみれば、分かるはずだから!」

 ギュッとパーカーを握り締めて、熱烈な視線をカナに注ぐ。その視線の圧に耐えきれず、カナは深くため息をつくと、手を上げて降参の意を示した。 

「分かった、分かった。そうまで言うのならば、少しくらい付き合ってやるわい」

 言ってから、直前のまりかの発言に引っ掛かりを覚える。

(着てみれば分かる、だと? まるで、このわしが服を気に入るかのような言いっぷりじゃな)

 そのような事は天地がひっくりかえっても起こるはずがないのにと、まりかの涙ぐましい努力を心の中で密かに哀れむ。

 カナは、まりかからパーカーを受け取ると、先日のダウンコートの時と同じように、ぐるぐる回して全体をくまなく観察した。そして、これまた先日と同様に、自分にこの服を着せるように要求する。

「どれ、とくと体験させてもらうとするかの」

「はいはい」

 まりかは、カナの偉そうな態度を軽く受け流すと、手際良くパーカーをカナに被せて、片方ずつ丁寧に袖を通してやった。

 少し離れて、パーカーを着たカナの全身を眺めてみる。

「うん、サイズは問題ないみたいね。カナ、着心地はどう?」

「……」

 カナは、まりかの問いを無視し、うつむき加減でパーカーの袖に覆われた自分の腕を凝視している。

「カナ?」

 もしかして肌に合わなかったのだろうかと不安になり、そうっとカナの顔を覗き込む。

「ふ」

「ふ?」

 ふいに、カナの全身が震えた。

「ふ、服が」

 そして、ちぎれんばかりの勢いで首を振って顔を上げると、愕然とした表情で叫んだ。

「服がっ! 気持ち良いだとっ!?」

(ず、随分と大袈裟ね)

 まるで雷に打たれたかのようなカナの反応に、まりかは若干たじろいでしまう。

 今回、まりかがカナに与えたのは、膝上までの長さがあるワンピース型の黒いパーカーである。それだけならば何の変哲もない子供服だが、このパーカーには普通の服とは決定的に違う点があった。

 まりかは気を取り直して、服の着心地の良さに呆然自失中のカナに、この特別製パーカーについての解説をする。

「人間の中にもね、あなたみたいに肌がとても敏感で、服を着ると痛みや痒みを感じてしまう体質の人が存在するの」

 いわゆる感覚過敏などど呼ばれる症状だが、このパーカーには、その症状を最大限緩和させるための様々な工夫が施されている。

「肌に当たらないように縫い目は外側で、もちろんタグも無し。生地そのものも、肌への負担が少ない素材と加工方法が採用されているの」

 ちなみに外側に出た縫い目は、橙色のパイピングで飾られている。まりかは、カナを姿見の前に導くと、その頭にフードを被せてやった。

「これは、耳か?」

「ええ、猫の耳よ」

 カナは、姿見に写った自分と睨めっこしながら、フードに付いている三角形の布を、ひょこひょこと触って確かめる。ちなみに背中の下側の位置には、猫の尻尾のイラストが白色でプリントされている。生地の黒色と橙色のパイピング、そして白色の尻尾で三毛猫を表現しているらしい。

「まりかよ。わしは完敗した」

 カナは猫耳から手を離すと、腕を組んでまりかと向き合った。

「このわしの永劫ともいえる生において、服を着て心地良いと感じる日が訪れるとは、想像だにしていなかったわい」

「そ、そう。それは良かったわ」

 一体、今までどんな被服経験をしてきたのだろうかと、まりかは訝しむ。もしかしたら、単純に質の良い服を着たことが無かっただけなのかもしれない。

 ともあれ、気に入って貰えたのなら何よりである。まりかは、ホッと胸を撫で下ろす。

 そこへ、カナがいかにも残念そうな様子で首を横に振った。

「じゃがな、図々しいようではあるが、ひとつだけ言わせてもらうぞ。わしは、猫はあまり好かん」

 カナの言葉に、まりかはすかさず商品カタログを差し出す。

「それなら、他のデザインもあるわよ」

「ぬおっ!?」

 案の定、カナが勢いよく食いついた。

 カタログには、猫型以外にも様々なデザインのパーカーが掲載されていた。虎にカエル、ペンギン、犬、ウサギ、インコ、などなど。なかなか豊富なラインナップである。

「どう? あと2、3着くらいなら買ってあげられるけど」

 食い入るようにパンフレットを見つめるカナの姿に、まりかは作戦成功とほくそ笑む。

 まりかとしては、カナが猫型のパーカーに文句をつけるだろうことは想定済みだった。そこへ、選べる自由があることを提示するという、落として上げる大作戦。

 しかし、ここでカナがとんでもないことを言い出した。

「まりかよ、ここにあるもの全部買え」

「えっ」

 予想だにしなかったカナの要求に、まりかの全身が固まる。同時に、このくらい想定すべきだったと、詰めの甘さについて自分自身に叱咤する。

「ぜ、全部はちょっと。これ、結構高くって」

「まりかよ」

 往生際悪く拒否の意を示そうとするまりかを、カナがビシッと指さした。

「お主のワードローブには、多種多様な衣服が存在するではないか! しかも! あの簪の数々! わしそっちのけでお主だけが被服において贅を尽くそうなどとは、食客たるわしをあまりにも軽んじる行為であると言えるのではないか!?」

「そ、それは」

 簪のことを言われてしまうと、ぐうの音も出ない。

 とはいえ、このまま一方的にカナの要求を受け入れるのも癪なので、交換条件を提示することとする。

「そこまで言うなら、もう二度と腰布1枚の姿で外出しないと誓ってちょうだい。外出する時は、必ず服を着ること。良いわね?」

「無論じゃ」

 カナがあっさりと了承した。

「本当に?」

 まりかが疑り深く念押しする。

「本当じゃとも。支配者たるもの、約定を違えるようなことは絶対にせん」

 カナが、挑むような目をまりかに向ける。

「そういうお主こそ、たかが衣服に大枚はたく覚悟はあるのか?」

「ええ、もちろんよ!」

「うむ! これにて、交渉成立じゃな!」

 かくして、まりかとカナの間に横たわっていた最大の問題は無事に解決した。

 まりかは晴れ晴れとした気持ちで、カナに向かって右手を差し出す。

「それじゃあ、握手をしましょう」

「あくしゅ?」

 カナが首を傾げて、まりかの右手を見る。

「人間同士の挨拶のひとつよ。喜びや親愛の気持ちを通わせるという意味もあるの」

「ふうん」

 まりかの説明を不思議そうに聞くカナだったが、すぐに元通りの不敵な笑みを浮かべると、力強くまりかの手を握った。

「まりかよ。これより先、このわしをガッカリさせるようなことはあってはならぬぞ」

「ちょっと、こういうときは『よろしく』って言うのよ」

 訂正しつつも、いかにもこの人魚らしいと微笑ましく思う。

「むう、そうか。では、改めて。よろしくじゃ、まりか」

「ええ、これからよろしくね、カナ」

 まりかは、カナの金色の瞳をまっすぐに見つめると、紅葉のような小さな手をしっかりと握り返した。

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