愛 嬌

 玄関でたたずんでいたのは、石沢翼だった。

 驚いた真美まみが叫び出そうとしたのを、唇に指をあててとどめたのは、翼だった。

 声を立てず、真美まみあやを手招くと、鉄製の格子扉を音が出ないように押し開き、ふたりをそっと中に入れた。 

 石段がある。

 ちょうど道路に面している部分に車庫があり、二階層が住居のドアになる。 

 鍵をあけるのにもつばさは、音を立てないように気を使っている。

 建物自体は大きくなく、こじんまりとしているが、庭は広かった。長年手入れしていないらしく、雑草が生い茂っていて、地植えの南天なんてんカエデも茂るがままになっていた。

(ああ、そうだった……)

 真美まみはいまになって思い当たった。つばさの父親は、かれが小さい頃に病死した……と聴いていた。母親が一人で育ててくれたらしいのだが、それなのに今は絶縁状態というのはどういうことなのだろう……と、真美は不思議におもった。

 ……高い塀に囲まれた家屋は、経年変化のさまがみてとれたぐらいで、雨どいの汚れやコンクリートの黒ずみまでもが、澄んだ空気のなかに凛として浮かび上がっているように真美まみにはおもえた。近くに高速道路らしい橋梁が、山と山の間に流れる空中の川のように揺らいでいた。

 翼は、真美まみあやの二人をキッチンに通して、そこから続く廊下のドアをそっと開けた。

 居間へ続く短い廊下をつたっていくと、縁側の大きな開閉窓のそばで、古いとうり椅子に腰をかけて、コードレスフォンを膝に置いたまま、眠っている婦人の姿が見えた。

 おそらく翼の母親なのだろう。

 すると、翼は携帯電話を取り出し、電話をかけた。

 いきなり婦人の膝元のコードレスフォンが鳴った。なんと翼は実家の固定電話回線にかけたのだ。


《もし、もし、石沢様? 覚えておられますでしょうか? 私です、私、でございます!》


 翼がそんなことを言い出したのを聴いて、真美まみは驚いた。あやは唇を噛み締めて聞き耳を立てている。

 どういうわけなのか、翼は“タナベ”という人物に成りすましているらしかった……。


「ひゃあ、田辺さん? あら、どうしていらしたの? 昨日はお電話くださらなかったのに……」


《……はい、ごめんなさい。昨日は所用がありまして……》

「あ、そうそう、あなた、二十四だって、この前おっしゃってらしたわね。うちにも息子がいるのよ。ええ、同じ二十四歳……もう六、七年会っていないの……わたしが悪いの……あの子を怒らしてしまって……」

《……なるほど……いろんなことがございますからね。ちょっした行き違いで……》

「そ、そうなんです……でも、わたし、前にも言いましたでしょ? 最近、急に物忘れすることが多くなって……病院でてもらったら、若年性アルツハイマーなんですって」

《ええ、お聴きしました……だから、先月、ヘルパーさんも手配させていただきました》

「はいはい、よくしてくださって、助かってます……ありがとうございます」

《と、とんでもございません……》と、翼は話を合わせている。

 まだ情況がわからず真美まみあやの顔を見た。すると目で合図をしたあやに誘われるまま、二人で縁側からそっと外に出た。

 ふたりは裸足のままだった。

「ね、これ、どういうこと? タナベさんて、誰?」

 真美まみが言った。声は落としている。

「うーん、タナベさんのことは、あたしも誰なのか知らない……たぶん、翼クンのお母さんの初恋のひとか、イケメンの教え子かも」

「ええっ? そ、そうなの?」

「ま、ではないことは確かだけど」

「・・・・・・?」

「ほら、あたしが聴いた、翼クンが歳上のひととコソコソ話していたのは、こういうことだったわけ」

「え? でも、親子なんだから、直接、話せば済むことでしょ!」

「あたしも同感……でも、いろいろ、あるんでしょ、他人からみたら、そこまでしなくてもいいのに……とおもうようなことでも、本人たちには、すんなりといかないこと、いっぱいあるのかも。ま、あとで、翼クンに教えてもらったらいいじゃない……お母さんとの間で、一体、なにがあったのか……これからどうしたいのか……互いに話し合う時間はいっぱいあるのにさ。……その時間がない人もいるんだから、ねッ」


 あっけらかんとした表情で、あやは言った。まだベッドの上で夢の続きを見ているような気分で真美まみは吐息をついた。


「あ、は元気にしてた?」

「あれ、マミン……が結婚したの知らなかった?」

「ほんと、それ?」

「年内には……子ども産まれるみたい」

「ひゃあ……みんな、立ち直るの早いわ」

「ま、ひとによるけど、ね」

「アヤン、あ、り、が、と」

「ま、翼クンとうまく行かなくっても、ま、ほら、あたしがいるし、ね」

「あら、中村さんとの結婚、来月だよね」

「うふっ……それはそれ、これはこれ」


 なにか言い返そうと慌てた真美まみは、急に足の裏がむずがゆくなってきた。ヤブ蚊がたかってくるのを避けながら、二人は急いで玄関口に向かい、靴をいた。

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