一章 7.接点

景子の勤める会社の業務課は、週明けの月曜日から忙しくなる。

特に、月初めは、メーカの営業担当者が、営業実績の資料収集のため、業務課に殺到する。その対応に忙殺されることになる。

まだ処理していない入金伝票を金庫室に片付けて、少し早いが六時に会社を出た。

通勤時間は、自動車で片道、三十分程度。そんなに遠くはないのに、時間だけは随分とかかる。

景子は、帰宅途中、スーパーに寄った。


「玉子、まだあったの?」

スーパーの売場で、知らない年配の婦人が、話し掛けてきた。

「えっ?」景子は、戸惑った。

確かに、玉子売場の前を通って、農産、海産売場レーンの角にいた。

「今日、玉子の特売でしょ?千円以上で八十八円になる玉子、まだあったの?」

「いや。分かりません」景子は、玉子を見ていない。

「朝、おっさんと買物に来たんやけど、チラシを見ていたのに、買い忘れてフウ」

この年配の女性と立ち話いや、一方的に年配の女性が、景子に向かって喋り掛けている。

もう耐えられないと思った時に、その年配の女性は、思い出したように、「そうや、早う行かんと、無くなったら大変や」そう云うと、玉子売場の方へ向かって行った。

内容は、よく分からないが、どうやら、おっさんとは、旦那さんのことだと分かった。

朝、旦那さんと買物に来た。旦那さんがチラシを見落として、買いそびれた物がいくつかあるらしい。どうも、旦那さんに対する不満を景子に、いや、誰でもよかったのかもしれないが、ただ、ぶちまけたかっただけのようだ。

やっと解放された。


一旦、買物をマンションの部屋まで運び込むと、月極駐車場に自動車を停めた。

マンションに駐車場はあるのだが、もう一台、マンションの近くに駐車場を借りている。

普段、景子は、マンションの駐車場に車を停めている。

金曜日の夜から日曜日の朝まで、景子は月極駐車場に自家用車を停めている。

月極駐車場から眉山市の欅町駅の方へ歩いて行った。


「んんっ」景子は、思い出せない。

先程のスーパーで、鰹節を買うのを忘れた。

鰹節の小分けパックにするか、大袋入りにするか、ぼんやり考えていたはずだ。

年配の婦人に話し掛けられた時、景子は、確かに乾物売場に向かっていた。

しかし、鰹節のことをすっかり忘れて、別の売場へ向かっていたのを思い出した。

年配の婦人に話し掛けられたからだろうか。

あの年配の婦人のおっさんと同じように買い忘れてしまった。

つい、苦笑いをしていた。


マンションから欅町駅までは歩いて十数分。本線の主要駅前とは比べ物にならないが、欅町駅前にも何軒かの飲食店が並んでいる。

駅の裏通りにも、何軒かの居酒屋や小料理屋、スナックが軒を並べている。

駅から待ち合わせの居酒屋まで夜道を歩いていった。


景子は、「漁火」の個室で人を待っていた。

「漁火」とは、住んでいるマンションの近くにある居酒屋だ。

掘り炬燵になっているテーブルの上には、小さなグラスと大き目の杯、瀬戸物の箸置きに割り箸が二組向かい合わせに用意されている。

夜の七時半に待ち合わせをしていたのだが、待ち人はまだ来ない。

先程、携帯電話に少し遅れるとのメールがあった。

必ず、金曜日の夜は外食になるのだった。


引き戸が開くと同時に「ごめんねぇ。待った。遅くなったわね」女性の声がした。

景子が待っていた女性が部屋に入ってきた。

「はい。少し待ちました。もしかしたら、今週は帰って来ないのかもしれない、と思いました。冴子さんは時間に遅れることがないから」

景子の待ち人は、寺井冴子だった。

「ほんとにごめんね。何か食べましょう。何がいいかな」

冴子さんは、何か隠している。

「それより、先にお話があります」どうしても確かめたい事がある。

「お家に帰ってからじゃだめなの?」

冴子さんは、テーブルのベルを鳴らして食事をオーダーした。

飲み物はワインを頼んだ。


「マンションに帰ると、冴子さんは、話を聞いてくれないじゃないですか。それに」

冴子さんは、景子に目で合図して、言葉を遮った。ワイングラスと赤ワインを店員が運んで来たのだ。

冴子さんも、景子も料理が運ばれて来るまで、四角い小鉢に盛られたつき出しを頬張ってワインを飲んでいた。

その間二人が言葉を交わすことはなかった。

向かい合って、暫くすると、料理が次々に運ばれて来るが、お茶漬けだけは最後に運んでもらうようにしていた。

二人は飲み始めた。


冴子さんは、アスパラと人参と胡瓜のスティックを束ねて、ニンニクと洋山葵を混ぜたソースを絡めて齧った。

ステーキに添えられたニンニクをナイフの先で潰し、盛られた洋山葵と混ぜて肉に乗せて食べた。

口の端に湧いたステーキの肉汁の泡を薬指の先で掬って舐めている。

「あの人の事です」景子は食べ始めたお茶漬けを置いて冴子に云った。

冴子さんは、追加でオーダーした小海老のカクテルをつまみにワインを飲んでいた。

まだステーキもサラダも少しずつ残っていて、時折、ワインのつまみにしている。

お茶漬けをキャンセルして、鰤のしゃぶしゃぶを肴に、日本酒を飲んだ。


「横山さんのことです」もう一度、景子は云った。「横山さんから突然、会社に電話があったんです」

「それでサクラで会っていたのね」

冴子さんが、「サクラ」と云った。

「今度はこちらへ転勤になったそうで、今日は、銀行を早退して私に会いに来たというのです。懐かしそうでした」冴子さんの言葉に、疑いを持ったが、黙っていた。

「じゃあ、サクラで会ったのは、今日、初めてなのね。何度も逢っているんじゃないのね」

冴子さんは、何かを疑っている。

「サクラ」というのは、冴子さんと時々一緒に行く喫茶店のことだ。


「ええ、そうです。でも、ちょっと待ってください、何故、サクラで会ったことを知っているんですか?私が、横山さんと会ったのは、四時くらいだったのですけど、その時には、こちらに帰っていたのですか?どうして連絡してくださらなかったのですか」

景子は、冴子さんに横山と会っていたことを詰られるより、冴子さんが、夕方には帰って来ていたことに驚いていた。

そして、何故、黙っているのか疑問に思った。


「それで、十年前のことを聞きました」景子と別れることになった経緯を横山さんが、喋ったのだった。

「そう」

冴子さんは、あまり関心がなさそうだ。

「どうしてその事を教えてくれなかったんですか」景子は、不満だった。「それに、冴子さんは今日、横山さんと会っていたんですね」

「それは、また景子が横山と縁りを戻すんじゃないかと思ったからよ」

冴子さんは、云い難い事を思い切って云ったようだ。

「まさかとは思うけど、用心してね。やけぼっくりに、なんとかってことになりかねないからね」


居酒屋から帰った後も、景子は、横山の話しを冴子さんに持ちかけた。

冴子さんは、毎週、金曜日にマンションへ帰ってくる。

いつも帰ってくるのは、早くても夕方の六時くらいになる。

たまに昼過ぎに帰ってくることもあるのだが、その時は必ず連絡があった。

今日のように、早く帰って来て、全く連絡が無かったのは初めてだ。


「それは、景子が、横山と会っているところを見てしまったから、連絡できなかったのよ」云いながら、冴子さんは、ベッドへ倒れ込むように横になった。


「そんなことは絶対にないです」いくら否定しても、冴子さんの反応が無い。

少し困ってしまった。

景子の話を聞いてはいないようだ。


冴子さんは、十二年前、大学を卒業してすぐに、徳島で会社を設立したそうだ。

十年前、景子は冴子さんの会社に勤めるようになった。


求人募集をしてから、何人も優秀な人の応募があった。

しかし、養母は、なかなか採用に賛成しなかったそうだ。

景子の見習い期間に、冴子さんは、ずっと指導することになった。

まず、営業見習いとして、景子を指導することになった。

そうするように、養母から助言されたそうだ。

冴子さんは、営業見習いの研修というよりも、景子を秘書のように、片時も離さなかった。


普段、冴子さんは、市内の得意先を訪問している。

車で移動中に、いろいろとプライベートな事も話すようになっていた。

二十分足らずで、次の得意先に到着する。

話の内容は途切れ途切れになったり話の順序が前後したりしてしまう。

細切れのような会話だが、断片的に景子の私生活を知る事になった。

「分かったわ。ごめんなさいね。飲み直しましょ」

冴子さんが、グラスを持ってリビングへやって来た。

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