一章 5.派遣

食事はいつもおかあさんが作ってくれます。でも、きちんと月々の生活費はおかあさんに受取ってもらっています。


弥生が、初めて派遣社員として派遣先の企業で勤務した時のことです。

地元のパソコンのソフト開発会社でのことです。


今でこそ、派遣社員はごく普通ですが、地元ではようやく派遣社員が定着しようとしている頃でした。


そのソフト会社では、学校の教室のような部屋で、三十人くらいの派遣社員がパソコンに入力作業をしています。

いろんな派遣会社からの派遣社員がいました。

たぶん、顧客の名簿を作成する作業のようなのですが、実際のところは分りません。

社員さんから云われた通りに住所と氏名を入力しています。

分らない漢字があると、課長に確認して入力します。

ただ、それだけの作業でした。


弥生が、課長に住所の読み方を聞きに行った時でした。

「課長。この字は、何て読むんですか?セン?サキ?町?」

「ポント町やなあ」

そこには、先斗町と書かれていました。


弥生が、席に戻ろうとした時でした。

手に持ったボールペンに何かがぶら下がっていました。

ボールペンは、手板のバインダーに括り付けられた組み紐に繋がっていました。

弥生も驚きましたが、課長も驚いていました。

「天原さんやったんやな」

以来、弥生が、課長の席に行くと、ボールペンをじっと見詰めています。


作業を終えるのが午前二時になることも頻繁にありました。

朝から夜中まで、唯ひたすらパソコンに向かって入力作業でした。

作業を終えて、派遣社員仲間と一緒に飲みに行くことがよくありました。

そんな時には、お祖父さんがといっても、お祖父さんは、すでに亡くなって、今はお母さんの名義になっている市内のマンションに泊ります。

翌日はそのマンションから出勤します。


ある日、派遣社員の一人が、「ぴぃーちゃん。ぴぃーちゃん」と云って作業室から出て、事務所を彷徨い始めました。

その派遣社員は、病欠のまま契約解除になりました。


えぇっと。あと、地元では、大手、とまではいきませんが、そこそこの住宅建築会社に派遣された時もあります。

業務は、と云うと、これは、どこの会社へ行っても同じなのですが、清掃、お茶汲みなど雑用が付いて回ります。


「ヤイちゃん。テープの位置をもう少し右にずらして」

田中部長は弥生のことを「ヤイちゃん」と呼んでいます。

気軽に打ち解けた雰囲気をつくろうとしているのか、弥生が派遣されたときから「ヤイちゃん」と呼んでいます。


もう五十歳近いと思うのですが、落ち着きのない、いつも、コマゴマとしたことをセカセカとしていて、いったい何に気を使っているのか分かりません。

仕事にしても、業務の何に、重きを置いているのか分らない人です。

営業会議用の資料を製本している時でした。

コピー用紙二十二枚の営業資料をホッチキスで止めます。

左側に黒の製本テープを貼って、予備も含めて、四十部製本します。

内容を確認するのではなく、製本テープの貼付位置に、細心の注意を払っています。


ええっと、何の話をしているのか分からなくああっ、そうそう、景子の事でした。

弥生の登録した派遣会社の社長は、営業もするし、マネージャーもする。というような地元の小さな派遣会社でした。

弥生はその派遣会社に登録して十年になります。

バブルが弾けて、不況の時代に突入しても、途切れることなく仕事に就けています。

派遣社員の仕事は弥生にぴったりでした。


どんな大企業でも、弥生のように学歴がなくても、勤めることができることに魅力を感じたからです。

それに、なんといっても、どんなに厭なことがあっても、契約期間までの辛抱で良いのです。


弥生は、去年十月、派遣先との契約期間が終わる時期に、ふと思ったのでした。

いや、今考えると、ふと魔が差したのかもしれません。


派遣会社の社長さんとも長い付き合いなので、何でも気軽に相談できます。

そこで、弥生は、社長に次の派遣先について、要望を云いました。

「社長。私、経理のお仕事をしてみたいです」まじめに交渉したのです。

「ああ、あるよ。丁度、頼まれているところがあるんだよ」

あっと云う間に派遣先が決まって、ちょっと拍子抜けしました。


弥生は地元の商業高校を卒業したのですが、一度も経理業務に就いたことがありませんでした。

あまり自慢にもならないそうですが、簿記検定の二級も持っています。

でも、徐々に不安にもなりました。確かに商業高校を卒業したけど、簿記検定の二級も持っているけど、ぜんぜん実務をしたことがない。

大丈夫だろうか?


そして、初出勤から帰宅した夜。

弥生のおかあさんが、聞きました。

「どうだったの、弥生。経理のお仕事、あなたできそうなの?」

心配そうです。

「それより、吃驚したことがあるんよ」そう。真っ先に話さないと。

「景子が、木島薬品にいたんよ」会社で、会った時、信じられませんでした。

「景子って、誰?」

おかあさんは、まったく、覚えていません。

「景子よ。ほら、前に来たでしょ。同じ高校を卒業して、二度目の会社に一緒に見習い採用になった景子よ」何故か縁のある景子なのに、覚えていません。

「ああ。景子さんか。一度、家に遊びに来た人ね」

やっと、思い出したようです。

「そうなんよ。また、同じ職場で一緒に働くことになったんよ。もっとも、景子は正社員。わたしは派遣社員やけどね」

「景子さんとは、縁があるのかね」

母親は、何の屈託もなく、嬉しそうに勝手なお喋りをしている弥生を見ていた。


「それで、お仕事の方は、どんなんえ?」

そう。それが、肝心です。

「なんとなく解る。今日、営業本部長さんから仕事の内容を説明されたんよ」

今日、出勤すると営業本部長から業務担当者を紹介され、事務の説明を受けました。

業務は振替伝票の会計端末への入力と銀行預金補助簿の照合でした。預金口座の動きは毎月二十五日前後から多くなるということでした。それと請求書の封筒詰めも、社長は別だけど、営業本部長以下、内勤部署の全員で作業するとのことでした。


「営業本部長って、ヤイちゃん。あなた営業なの?」

おかあさんは、弥生が、営業職で採用されたのかと勘違いしました。

「違うわよ」


販売会社にとって営業は要です。

営業本部長というのは相当できる人物でないと務まりません。

大抵の場合、役員が兼務するようなポジションです。

小さな会社でも、やはり営業本部長を務める人物は、かなり優秀な人物が務めています。

ただ、小さな会社では、仕事のできる人材は少ないのです。

自ずと、営業本部長という人に、色んな仕事が集中することになります。

弥生の派遣先も小さな会社で、その営業本部長に、本当は、業務部や総務部の処理するような業務も付随しているという状況なのです。

弥生は両親に簡単に小さな派遣先の状況を説明したのでした。それが、両親に伝わったのか、理解されたのかどうかは分りません。

「あとは、受付とお掃除やな」

受付の担当者が不在の場合は、お客様を訪問部署まで案内すること。

弥生の掃除担当は、玄関ロビー、ロビーから続く階段、それと事務所の机でした。


弥生のおかあさんはもっと心配そうに聞きました。

「ええっ。弥生。お掃除、大丈夫なの。あなたは、お掃除やお片付けが、一番苦手なのにね」「おかあさんもお掃除手伝おうか?」

弥生のおとうさんも一緒になって云いました。

「とうさんも、経理は解らんけど、お掃除や整理整頓なら、弥生よりも上手いと思うけどな」


「ああ、また、何の話をしていたのか分らなくなったわ」弥生の家族は、話が弾むと、すぐに、脱線する。「そうそう、それでね。よく解らないところを景子に聞いていたの」

「そしたら、受付の中村さんが景子を呼びにきたのよ。突然、男の人が面会に来たのよ」

景子に男性が、訪ねて来たのです。

「景子さんの恋人なのかねえ」

おかあさんも、興味津々です。

「分らないわ。後で聞くと、なんでも以前勤めていた、銀行の先輩らしいの」弥生も知らなかった。「でね。景子はちょっと慌てて、その男の人と外出したの。なんだか怪しいわよね」弥生は、自分の事でもないのに、嬉々として喋っている。

「考えてみれば、唯の先輩が血相変えて」弥生が、云い始めると「血相を変えていたの?」

「血相を変えてたかどうか分からないけど、会社にまで面会に来る事はないわよね」

その後も、景子の恋人、かもしれない男性の話で、家族は盛り上がっていた。

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