一章 2.業界

秋山は、別の事を考えていた。

「有」の字が現れた。


その日、秋山は、朝礼が終わると、電算課へ向かった。

合併後の業務システムを確認していた。

もう、この後に及んで、ジタバタしても始まらないのは、分かっている。

しかし、どうしても心配になってしまう。


電算課の課長が調べている間、部屋の窓から外を見ていた。

秋山は新会社の社名の事を漠然と考えていた。

新社名は、「有己輝S」、ウコキスと云う。

なんとも古風な社名にSだ。

なんで、こんな社名にしのか。

秋山は、実際に聞いていない。

己に輝き有と云う意味だと誰かが、誰かに聞いたという事だったが、真偽は分からない。


秋山の梅鉢薬品の社長は、梅本昭輝と云う。「輝」の字が付いている。

イヨヤクの社長は、西条輝美だったか輝実だったか、そんな感じだった。

新会社の会長の名前を知らないというのも、ちょっと拙いから後で覚えておこう。

「輝」の字が付いている。

最後のSは、輝美?輝実?と昭輝の輝の複数形だろうか。

龍河堂の社長は、中沢浩で、眉山薬品の社長は鈴岡恵一だ。

「輝」の付く社長はいるが、「有」と「己」の付く社長はいない。

社長の名前の一文字を採った訳ではなさそうだが、なんとなく怪しい。


電算課の戸が小さく滑車音を立てて開いた。

吉本部長が、部屋の隅にある電算課長席の方を見ている。

秋山に向かって部屋から出て来るように手招きをした。

秋山が、頷いたのを確認すると、電算課の部屋から出た。


電算課の部屋を出ると、吉本部長は部屋の前で待っていた。

吉本部長に付いて行くと、経理部のすぐ脇にある第三応接室のドアの前で立ち止まった。

部屋に入るのかと思うと、引き返した。電算課の部屋も通り過ぎてしまった。

吉本部長は、一階へ降りて行った。食堂の前で立ち止まった。

煙草を喫いたかったのだと分かった。

この時間に仕事をサボって、食堂へ来る社員はあまりいない。煙草の喫える所は食堂の入口横の喫煙所だけだ。

秋山は、話が長くなりそうな気がした。


吉本部長が、食堂の入口から中を覗いた。

メーカの営業はいない。従業員は何人かいた。

女性事務員が二人と、男性の営業担当者が一人、物流課員が一人。

女性事務員は入ってすぐ左手にあるカップ飲料の自動販売機前で、丸椅子に腰かけてお喋りをしている。

奥の窓際には、営業担当者が物流課の社員に、何か小言を言っているようだ。

この時間になっても食堂に人が居るんだと思った。


「決算の準備はでっきょんか?」

決算の用意はできているのかと、吉本部長が尋ねた。

「はい。順調です」秋山は答えた。

決算日の翌日以降でないと、数字は固まらない。

吉本部長もそんな事は分かっている。

つまり、経理部の、この時期に交わされる挨拶みたいなものだ。

「そうか。それやったら、時間は空いとるんやな」

二人が食堂に入ると、自動販売機前にいた女性事務員二人は、すぐに出て行った。

「そうですねぇ」ただし、実際に合併後の事はわからない。


この四月一日に合併する四社は、四国四県にそれぞれ本社がある。

各社の業績の規模は、同じ程度だ。

監査法人の算定した合併比率も大きな差は無い。


愛媛県に本社のあるイヨヤクを合併存続会社として合併する。

会長ひとり、社長ひとり、副社長二人というように、トップ人事は決定した。

従業員の、特に内勤部門の関心事はトップ人事ではなく、本部長クラスの人事だった。

それは直接、自らの業務に関わってくる。

当然のことだが、営業は販売会社の要だ。

業務システムは、販売システムに引き摺られて、自動的に決定する。

業務システムが決定すると、内勤部門の人事も決定する。

つまり営業本部長の人事が決定すると、この業界の組織は自然と確定する。


二社で、営業担当地域の重なった営業担当者は、どちらかの営業担当者が、異動することになる。

あるいは、担当地域自体の変更があるかもしれない。

しかし、もともと営業担当者は、三、四年程度で営業担当地域を異動する。

営業担当者は、営業担当地域を転属することについて、ごく当たり前に思っている。

外勤部門から内勤部門に異動する以外、特にストレスを感じることはない。


しかし、内勤部門の従業員は、別の内勤業務や、物流部門、営業部門に異動することに、少なからずストレスを感じる。

理由の一つに、営業担当者は、毎週、薬剤に関する研修会が実施される。

内勤部門に、その研修会はない。

つまり、薬剤に関する知識は無い。


今回の場合、皆、自身の配属について、かなり不安を抱えていた。

本社機能には、各社の呼称は別にして、同様部門に、四人の同様役職者が存在する。

経理課にしても、イヨヤクには、関谷経理課長、眉山薬品には倉本経理課長、龍河堂には岬経理課長、そして、梅鉢薬品には、秋山経理課長と四人の経理課長がいる。


本社はイヨヤクの本社に、イヨヤクの専務が営業本部長に決定した。

ホストコンピュータも販売管理システムも、イヨヤクの仕組を採用することになった。

当然、業務システムもイヨヤクのシステムを引き継ぐことになる。

経理課長も、イヨヤクの関谷課長に決定したが、経理部長は梅鉢薬品の吉本部長に決定した。

ちょっと不自然に思う。

吉本部長は、梅鉢薬品に途中入社したのだ。

営業担当を三年くらい経験した後、経理課長として異動し、現在は、経理部長になっている。

吉本部長は、すぐに経理業務を理解した。

実務は苦手だが、業務に関する知識は豊富だったし、判断は的確だ。

役員にも、ずけずけと物を云うし、社長からも信頼されているように思う。

お酒と煙草が大好きで、ちょっとスケベだが、誰からも憎まれていない。

研修とか出張とか、外出するのが苦手のようだ。

目立つ事が嫌いで、重要なプロジェクトに参加するのも大嫌いだ。

とにかく、面倒な事に関わらないようにしている。

本心は、分からないが、本人もそう云っている。

不器用な手つきで現金を数えたり、人差し指だけで電卓を叩いたり、努めて目立たないように日常業務をこなしている。

熟練した実務家の多い経理では、逆に目立ってしまうのだが。


「えっ。今、なんて言うたんですか?」秋山は、聞き間違えたのかと思った。

男性の若いセールスは怒った口調で、中年の物流課員に「次にまた、こんなことがあったら、許さんぞっ」

そう云うと、ゆっくりと食堂から出て行った。


「聞いとらんのか。すぐに、次の合併に入るそうや」

もう一度、吉本部長が、云った。

「これからトガにも言うけど、三人一緒やったら目立つしな」

吉本部長は、難しそうな顔をして云った。

「なんで?ですか?」秋山は、嫌な予感がした。

「アッきゃんが、関係者やし」

もう察しただろうという表情で、吉本部長が云った。

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