一章 1.通夜
よかった。
沖田は、葬儀場の入口の傍らにある灰皿の横で、煙草を喫っていた。
「そやなあ。よかったなぁ」応えるように声がした。
驚いて隣を見ると、総務部の浜田次長がいた。
声には出していないつもりだった。
浜田次長が、総務課員の二人と話をしていたのだった。
今朝から天気予報では、雨ということだった。
晴れはしなかったが、雨は降らなかったようだ。
沖田が、関谷の通夜に来たのは、午後十一時頃だった。
通夜に残っているのは、会社関係の親しかった人と、親戚の人だけになっている。
関谷は、愛媛県の医薬品卸会社、イヨヤクの経理課長だった。
経理部、総務部と経営企画部で、仕事関係の人達が、遅くまで残っていた。
総務部の人達が葬儀場を手配した。葬儀場の駐車場で、帰り際の立ち話をしている。
挨拶を交わして、車に乗り込む人もいる。
葬儀場に残っているのは、関谷の奥さんと子供二人。それと、三人に寄り添っている、五十代半ばの太った婦人と、その主人だろう。痩せた初老の男性だけだった。
関谷の奥さんもイヨヤクに勤めていた。奥さんは、関谷と同期入社で、社内結婚だった。
関谷に子供は、男の子と女の子の二人いる。
これからのことが大変だろうと思った。
沖田は、地元の高校を卒業して、第一志望ではなかったが、地元の大学へ進学した。
特に希望する就職先も無かったし、地元の有名企業へ就職することも難しかった。
イヨヤクから採用通知が届いて、すぐに就職を決めた。後日、有名企業から不採用の通知があった。イヨヤクに就職を決めていて良かったと思った。
沖田は、関谷と同じ時期に結婚した。子供は女の子一人だった。
妻とは、中学時代の同級生だった。地元の成人式で再会して、交際を始めた。
妻は、もう一人子供を欲しがっている。一人っ子は良くないと思い込んでいるようだ。
子供は女の子一人で、この四月で小学校二年生になる。
妻は仕事をしていない。
貯蓄はできないが、贅沢さえしなければ生計を維持できると思っている。
沖田は、住宅ローンを抱えていた。給与の四分の一が、住宅ローンの支払いに消える。
さらに、子供の習い事は、算盤と習字だ。
先日も、子供の事で、ちょっとした意見の衝突があった。
「来月から、塾、始まるんよ。なんとかしてよ」また、妻が金の工面をしろと云っている。
「えっ?塾?」沖田は、驚いて聞き返した。
ずっと以前に聞いたような気がするが、来月からとは、知らなかった。
その時は、まだ、ずっと先だと思っていた。
「なんでぇや?まだ二年生やで?」何度も繰り返す問答を今日も繰り返す。
「遅いくらいよ。みんな、塾、行きよんよ。うちだけ勉強遅れたらどうするん?」
「それは、困るなあ」
「テニスも始めるけんね。体力を今のうちに付けとかんといかんのよ」
学習塾とテニススクールを始めるようだ。
そうなると、今後、子供に掛かる費用は嵩んでくる。
「だから、パパのお小遣、半分にするからね」妻は当然のように云い放った。
「ええ。ちょと、それは」実行されると困ったことになる。
沖田は、妻に仕事するように促していた。
しかし、子供の面倒を見ていると、仕事はできないと云う。少し強く云うと、喧嘩になってしまう。
それはそれで、仕方が無いのかもしれない。
実際にお金が掛るようになったら、妻も考えが変わるだろうと思っていた。
その時には遅いかもしれないけど。
実を云うと、妻に働くように促している訳は、カードローンのためだ。
妻には、内緒だが、二百万円くらいある。月々の小遣から返済している。
小遣を減らされたら、かなり厳しい状況になる。
何とか、まとまった金を捻出しないとやっていけないかもしれない。
「おう、ソウシ。遅いのう」呼びかけてきたのは、秋山だった。
ソウシとは沖田のことだ。
沖田と云えば、新撰組、沖田総司が思い浮かんだのだろう。秋山は、沖田のことをソウシと呼んでいる。
秋山は、香川県の医薬品卸会社、梅鉢薬品で経理課長をしている。
「ああ、アッきゃん。来とったんか」沖田は咄嗟に応えた。
アッきゃん、とは秋山のことだ。
どこかで煙草を喫いながら、誰かと無駄話をしていたのだろう。沖田が来た時に、姿は見えなかった。
「クラちゃん来んかったなぁ」秋山が云った。
クラちゃんとは、倉本のことだ。
倉本は、徳島県の医薬品卸会社の眉山薬品で経理課長をしている。
「トガは、来ないって言うとったけど来とるわ」秋山が沖田に云った。
「お疲れさまです」富樫が挨拶をしながら近づいて来た。
富樫は、秋山と同じ、梅鉢薬品で、経営企画課長をしている。
「あれ。用は済んだんですか?」沖田は、富樫に聞いた。
富樫は、何か用事があって通夜には参列できないと云っていたのを思い出した。
「いや。まだや」富樫は曖昧に言葉を濁した。
「どうしたんですか?」沖田は、富樫が、関谷の通夜に参列しようがしまいが、関心はなかった。
もちろん、富樫の用事の内容も聞きたい訳ではない。
成り行きで聞くことになっただけだった。
「アッきゃんが、ハヤブサに傘を忘れとったけん、持ってきたんや」
ハヤブサとは、日本屈指の大手製薬会社だ。
富樫は、入口脇の傘立てを見ていた。
沖田は、富樫が見ていた傘立てを覗いた。
一目で安物と分かる、白く透けたビニール傘だった。
「ソウシ。遅かったやんか」秋山は詰るように云った。
「うん。友達と会うとったし」沖田は友達とは会っていなかった。
沖田は、真面目な普通のサラリーマンだ。
なんとか、地元の企業に就職できた。それはそれで嬉しかった。
亡くなった関谷とは、同期入社で仲が良かった。
関谷は、物静かで、嫌味のない気配りのできる奴だった。
先に課長になったのは、沖田だった。
どちらかと云うと、沖田は積極的で、上司の受けも良く、目立つ存在だった。
経理部には、現在、経理課しかない。
経理部の経理課の係長は、関谷で、経理部の財務課の係長が沖田だった。
財務課が、経理部から経営企画部に組織変更した時に、沖田が、財務課長になった。
「やったやんか。沖田に先越されてしもたな」関谷は、本当に悔しそうに云った。
「ああ」不愛想に答えた。沖田は、どう答えて良いのか分からなかった。
その翌年、関谷が経理課長になった。
その時、沖田は、何も云わなかった。
関谷に対する気持ちは、自分でもよく分からない。
「明日の葬儀に参列するんか?」秋山が沖田に聞いた。
「おお。アッきゃんは?」不思議だが、秋山には、気取らずに喋ることができる。
「明日は、来られんのや。ミサキちゃんは、来るうって言うとった」秋山が答えた。
ミサキちゃんとは、高知県の龍河堂という医薬品卸売会社で経理課長をしている岬課長のことだ。
「何か用事があるんか?」あまり興味もなさそうに、沖田は聞いた。
「うん。実家に用事があるんや」秋山は明日の葬儀に参列しないそうだ。
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