第4話
翌日、体には多少のだるさを抱えながら布団から這い出た。風邪はとうに治っていた、どうにも体が重いのはきっと心理的な理由で。
顔を洗って朝食をとる。朱里は心配性だから、少しぐらいは自分のメンテナンスをしてやらないと朱里に世話を焼かせるはめになってしまう。彼女からお小言をもらうのは避けたい。
時刻は七時半そろそろ学校に向かわねば間に合わない。ケータイのトーク画面を開き朱里に「風邪は治った」と質素な文言を張り付けておく。これ以外に何を言えば分からなくて、かといって会ったからといって何かが変わるわけではない。学校に行くまでに朱里に会いませんようにと、変な気まずさを抱えながら学校へ向かった。
結局、教室に入るまで会うことはなかった。朱里はいつも早く家を出ているのだからそれも当然か。真面目で融通が利かなくて、そのくせおせっかい。もう少しだけ、もうちょっとだけでもずるくあったならもっと生きやすいはずなのに、朱里の悩み事なんて無いも同然のはずなのに。
授業は終わり、あっという間に放課後に変わった。手元には何とか黒板を写したノート。授業の内容なんかは覚えてやしない。
かばんをひっさげ教室を出て行く。桜木のもとへ向かわねばならない。今日もあの教室にいる保証はないけれど、可能性が高いのはおそらくあそこだろう。音楽科の教室に行ってもいいが、それは最後の手段だ。
件の教室、誰にも覚えられていないような教室には、今日もピアノの音が響き渡っていた。今日もいてよかったとも思うが、同時に足が重くなる。どんな顔すればいいのか、悪かったということぐらいしかできないだろうけど。
やけに重く感じる扉を開け教室に入る。入った途端にピアノの音は止み、桜木と視線が合った。
「あ、今日は来た。出会ったばかりで約束破るとかどうかなって思うよ」
「それは、悪かった」
「謝罪よりも償いの方が欲しい感じかな」
「償いって?」
「ピアノ、弾いてよ」
こちらを突き刺すような声色で桜木は告げた。表情はうっすらと笑みを浮かべているがどうにも冗談で済みそうではない。
「分かった」
そう告げるのが精一杯でどうにも口が回らない。もともと口上手というわけではないが、今はピアノを弾く以外の道はなさそうだ。
ピアノのもとに歩いていき、桜木に椅子を譲ってもらう。
「高さは好きにいじってね」
「ああ」
そうはいっても椅子の高さを合わせたのなんて何年も前のことだ。その頃よりは身長が伸びていて、過去の習慣は使えそうにはない。桜木との身長差を考慮して少しだけあげておくことにする。
桜木がオレに何を期待しているのか知らないが、ピアノを弾くなんてことは、土台無理な話だ。もう何年もまともに触っていないのだから。
桜木はといえば地面にぺたりと座り込み、いまかいまかと待ち望んでいる。
たった一人の傍聴人とはいえ、緊張を感じる。傍聴人が天才だからという理由ではなく、もっと他の理由だが。
顔の表情のこわばりを感じ、指先がどんどん冷たくなっていく。冷たさは固さに変わり、やがて震えに達した。手をこすり合わせ、少しでも冷たさを取り去ろうとする。でも、できない。いつまでも手は冷たいままだ。
「あはは!」
桜木は急に笑い声をあげ始めた。何があったのかとそちらを見やると、おかしそうに桜木は笑っていた。
「ごめんね。あまりにも美琴が真剣だったからさ、ちょっとからかった。実は約束を破った件は起こってなかったりするんだよ」
「名前で呼ぶなよ。で、なんだよそれは」
「昨日、美琴が来なかったから呼びに行こうと思ったの。そうしたら廊下で会った子に美琴は風邪で休んでるよって言われてさ。だったらしょうがないよね」
「その話した奴はどんな奴だ?」
「前に美琴を美琴って呼んでた子」
朱里だろうな。昨日の申し訳なさそうな態度も合点がいく。
どうやら、ピアノは弾かなくてもいいらしい。少しだけ緊張が解ける。
「美琴」
「何だよ」
「そんな顔、しちゃダメだよ」
ほほに手をあて、少しつまんでみる。筋肉が筋張っていてひどい顔をしていたのは疑いようもない。
「そんなひどい顔してたか?」
「うん、がちがちにこわばって、弾かなくていいって分かった時に安心してた。それじゃあダメだよ。そんな人間はピアノを弾くべきじゃない」
「だろうな、だから前から言ってるだろ。もっと他にいいやつがいるって」
「うん、聞いた。でも私が聞きたいのは美琴のピアノだよ」
「なんでまた」
「美琴なら分かってると思うけど」
「いいや、わからない」
本当に分からない。こんなものをいいと思うやつがずっとわからなかった。
桜木も朱里もなぜこんなものをいいというのかが分からない。
「美琴はピアニストじゃないんだ」
失望させてしまったようだ。でも、オレを見誤っていたのは桜木の方で、期待を裏切ったのは申し訳ないとは思うけれど、勝手な期待を寄せられても困ってしまう。
期待とは少し違うのかもしれない。おそらく、できて当然というようなある種の傲慢さのようなものだ。私がそうなんだからお前もそうなんだろう、というような。
桜木はオレに何を求めているのだろう。それが分からない。
だから、彼女が求めるピアニストとは何なのか、それを知るべく問う。
「君は、ピアニストか?」
「そうだよ。聴衆が望んだように、望まれるがままに弾くんだ。それがピアニストだ」
「君は、強いな」
「そうかな、それしかなかっただけだよ」
その言い方が気に食わない。それは決して溺れる者がつかんでいいものじゃない。でも、それをオレがどうこう言う権利はない。
「けど、気が向いたら弾いてくれるんでしょ」
「いつかはそうかもな」
「じゃあ、それでいいよ。できるだけ早くが嬉しいけど」
クスッと笑うとこちらへ向かってくる。場所を変わろうと席を立ち、椅子を桜木に譲る。
椅子の高さを直した後、ピアノを弾き始めた。
「美琴は、ピアノは好き?」
手を動かしたまま桜木は聞いてくる。
「好きだったことはなかったな」
「ほんとに?」
こちらの内心まで見つめられそうなぐらいにじっと見つめられる。どれだけ考えてもピアノは苦しかった思い出しかない。それしかなかったのだからしょうがない。少なくともオレが望んで始めたわけじゃないから、けどそんなものはクソの役にも立たない言い訳だ。
でも、そうだ。あの時は嬉しかったな。好きとは少し違うけれど。
「君は初めてコンクールに出た時を覚えているか?」
「ずいぶん昔で覚えてないや」
「そっか、オレは覚えていたよ。あの時ぐらいだ、よかったって思えたのは」
何を言っても笑みすら浮かべなかったあの人が、うっすらと笑ったのだ。それだけ、たったそれだけでも十分に過ぎた。
「それだけかあ、少し寂しいな」
「そういう君はどうなんだよ」
「私?そりゃあ楽しいよ。苦しいことも多いけれど、楽しいこともそれなりにあるかな。私のピアノを聞いていればわかるでしょ?」
良くも悪くも傲慢な言い方だ。自分のことがよくわかっている。音はのびやかで、指は跳ねるように軽やか。見るだけで、聞くだけでわかる。言葉なんて必要ない。
「けど、コンクールの君のピアノははちっとも楽しそうじゃなかったな」
ただお気楽に弾いているだけなら何も思わなかった。こんな楽しそうな音を鳴らす人間からあんなに冷たい音が出るなんて信じられなかったから。でなければ桜木に興味を持つことなんてなかったはずで。
「動画見たんだ。えっち」
「どこがだ」
少しだけ表情を引き締めたかと思うと桜木は口を開いた。
「先生がそうしなさいっていうんだ」
桜木の表情からは本意は読み取れない。不満に思っているわけではなさそうだ。
やはりあの弾き方は彼女本来のものではない。それでもあの冷たい音は紛れもなく彼女が鳴らした音だ。諦めにも似た冷たい感情だ。だから彼女はひどく不安定に映る。
「曲の解釈も、その曲に対する私の感じ方も年を経れば変わってしまう。けど、譜面は変わらない。絶対がある。だからさ、これでもかってぐらいに技術を見せつけるの」
「薄っぺらい言葉だな」
「分かる?先生が言ってたことだからね」
相貌を崩しふふっと笑う。面倒なことを考えるのは彼女には似合わない、それよりも好き勝手弾いているほうが彼女らしい、気がする。
嫌いだな、その言葉は。あの人を思い出すから。
「美琴もピアノが好きになれば弾いてくれる?」
「いや、弾かないだろうな」
「そっか。残念」
桜木は次の曲に移った。彼女のピアノをBGMにして会話を続けていく。なんとも豪華なもんだ。
「美琴はさ、なんでピアノやめちゃったの?」
「さっきも見ただろ、人前でピアノを弾こうとすると手が震えて使い物にならなくなる」
「それはどうして?」
「昔、コンクールでひどい失敗をしたんだ。なにやら偉い先生が来ているとかであの人はひどく気が立っていた」
「あの人?」
「オレの…ピアノの先生だよ」
オレにとってはただそれだけの人。それ以外の姿は知ることがなかった。
「で、失敗は許されない舞台で失敗してしまったんだよ。あんなに怒鳴られたのは初めてだな。幸いなのは何言っていたのか聞き取れなかったことか」
「それだけ?」
「それだけだよ。あの時を機に先生は俺の指導をやめてしまったからな。ピアノを弾かなくなったオレはずっと弾けないまま」
最後に人前で弾いたのはそりゃもう散々で、それがずっと頭に残っているのだから嫌がおうにも指が震える。いや、最後は桜木の前か。誰かがいるとは思わなかったから、かろうじてだけど。
「じゃあ、人前で弾けるように練習したら弾けるようになる?」
「かもしれない。けどピアノはもうやめてしまったんだ」
もうすでに弾かねばならない理由は無くなってしまって、新たに弾くべきではない理由ができてしまった。とてもじゃないけどもう弾きたいとは思えない。
「そのわりに美琴は不思議。私に関わるなんて本来いやなことなはずなのに」
「それは…」
「まあ、別にどうだっていいけどね。この教室さ、自由に使っていいって言われたけど一人で使うのは何だか味気ないんだよ」
「そりゃそうだ、学校は個人で使うことを想定して作られてない」
「だから、美琴が来てくれると嬉しいよ。それに張り合いがあるしね」
「張り合い?」
「美琴が思わずピアノを弾きたくなってしまうようなピアノを弾くの」
微笑みを湛えて桜木は口にする。ピアノがあればなんだってできるというような傲慢さで、でもそれはきっと嘘ではないのだろう。
「ねえ、美琴。喉が渇いたなあ」
「飲み物買ってこいって?いやだよ」
「美琴はさ、私のピアノ聞いてるよね。しかもこの距離で。チケットだったら万はくだらないよ」
「マジ?」
「まじ」
はあ、と一つ溜息をつく。
「何がいいんだ?」
「あったかいのなら何でも!」
「分かったよ」
かばんから財布を取り出して教室から出て行く。
旧校舎には自販機はないので、新校舎と旧校舎を繋ぐ連絡通路まで行くことになる。階段を二つ下りると近くの教室では何やら声がしていた。放課後の教室なんてのはきっと騒がしい方が似合っている。たった一人でピアノの音だけが流れているのは違う気がした。
連絡通路を曲がったところに校舎で唯一の自販機がある。硬貨を何枚か入れ、自販機に仕事をさせる。温かいものは種類が少なく一列しかない。何でもといったのだから、自分が好きなものを買っていくのがいいだろう。
何にしようか。どうもココアだのカフェオレだのは牛乳が口の中に残って好きになれない。そうなると温かいお茶とブラックコーヒーとホットレモンぐらいしか選択肢は無くなる。桜木がブラックコーヒーを好むとは思えないので残り二つを買っていくのがベターか。
戻ろうとしたとき、旧校舎側に向かっていく人影が見えた。どうやら教師らしい。別に話しかけることもないので、黙ってついていく。
てっきり一階に用があると思っていたが、階段を登っていくので用があるのは桜木だろう。であれば、前を歩く教師は音楽科の教師と考えるのが妥当か。
どうにも音楽をやっている奴は好きにはなれない。気難しくて、肥大化したプライドがうっとうしい。それは自分自身にも言えることだけれど。
想像した通りに教師は桜木のいる教室に入っていく。どうにもそのままオレも教室に入るのは憚られて、教師が出て行くのを待つ。以前この教室に来た時には教師が来ることはなかったし、桜木の話しぶりからしても教師の存在を想定してはいないようだった。だから教師はすぐに出て行くのだろう。少し待って出て行かないようなら、飲み物だけ渡して帰ることにしよう。
そんな杞憂もつかの間、教師は教室に入ったかと思うとすぐに教室から出てきた。隠れていたわけじゃないので当然教師と対峙することになる。
「どうも」
会釈を交わして教師の横を通ろうとする。しかし、教師に呼び止められた。
「ちょっといいでしょうか」
放課後の廊下はよく声が響く。人がいないからだろう。
「何か」
「あなたは桜木さんの友達でしょうか?」
「いや、違いますよ」
友達といってしまうにはお互い知らないことが多すぎる。それに彼女に対する感情が好意的でないものが多いのも確かだ。
「まあ、別になんだっていいです。彼女と仲良くしてくれるならそれで」
「別に仲いいわけじゃないですよ」
「あなたは普通科の生徒ですか?」
「そうですが、何か」
「いや、そうだろうなと思っただけです。音楽科の生徒なら彼女に関わろうなんて思いません」
なんとも癪に障る言い方だ。桜木を思って憤る必要なんてないはずなのに。
「あなたは才能って何だと思います?」
「生まれついて持っているものでしょうか」
「ええ、おおむね正しい。親の能力、財産、人種、国籍、生まれついて持っているものはすべて才能だと言い換えても問題ないでしょう。ゲームなら気に入らなければキャラメイクからリセットしなければならないものです。ただ、こと能力にいたっては難しい。いつ成長するか、早熟なのか晩成なのか、最大値はどうなのか、やってみるまで分からない。しかも最大値はやってみてもはっきりとは分からない。愚直に努力し続けるしかないんです」
「何が言いたいんですか?」
「分かりませんか。桜木奏、彼女は何らかのバグですよ。いやこういう言い方はよくありませんね。製作者すら予期していない数値、ある種の特異点。そういう人間が周りに与える影響は甚大だ。世界は彼女のためにあるわけではない。あんなものを見てしまったら努力すら笑われている気にもなりましょう」
「だから、桜木を隅の教室に押しやっているんですか」
「もちろんそれだけじゃありません。檻は出ないようにするためでなく、周りから入って来られないようにするものでもあります」
「桜木を守っていると?」
「ええ、彼女が周りから得られるものなんてほとんどありませんから。人に関わらなければ人間関係で悩むこともない」
そうだとしてもそれは違う気がする。人間、隣の芝生は青いものだ。自分が特別扱いされているのが分かっていようと、そこら辺にある当たり前が欲しくなるのは当然じゃないのか。ピアノしかないと寂しく笑った彼女は現状に満足しているものだったのか。それは、否だ。
目の前にいる教師には何とも言えない嫌悪感がある。桜木のことを特別扱いという体で腫れ物に触るように扱っているのがひどく気に入らない。彼女の同級生ならまだしも教師の立場ならなおさらだ。
それでも彼女の存在が毒だというのもわかってしまうのにも腹が立つ。そうするしかないということが分かってしまうのにも、やるせない思いになる。
「教師の指導は必要ないんですか」
「もちろん、年齢も何も関係ないから異常なんですよ。私たちに求められているのはその異常性を保ち続けることですから」
異常だのバグだの好き勝手言ってくれる。
分からないものには名前を付ける。分からないことは怖いからだ。名前を付けることはどこか理解した気になれる。ただ、ほとんどは本質からずれているのだ。
「オレが彼女に関わるのはいいんですか」
「構いませんよ。あなたが凡人なら彼女から離れたくなる。そうしたら彼女は自分の異常性に意識せざるを得ない。あなたが何か音楽をやっていたのならなおさらです。彼女といられるのは他のネジの外れた人間だけです。異常者は異常者としかいられない」
「ひどい言い方ですね」
「事実ですよ。だから、あなたが彼女に危害を加えなければ交友はどうぞご自由に」
「ええ、好きにさせてもらいますよ」
教師のどこか嫌味のある笑顔が嫌に頭に残った。
教師の横を通り過ぎ教室に入る。
「お、やっと来た」
「どっちがいい」
お茶とホットレモンを櫻木に見せる。
「甘い方!」
「はいよ」
「ん、なんかこれぬるくない?」
「入れたばっかだったんだろ」
「ふーん」
この教室の扉が防音でよかったと心底思った。
八十八の言の葉 進藤歩 @kumaguma16
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