第3話
「美琴、美琴ってば。」
聞こえてくるのは優しい声。綺麗なソプラノが部屋の中に響いていく。
「早く起きなさい。ねえってば」
まず最初に感じたのは床の硬さだった。目をあけるとこは地下室で、どうやら昨日掃除をした後、そのまま倒れて寝てしまったらしい。体のだるさと、全身のこわばりを感じる。あまり快眠とはいかなかったようだ。
体を起こすと朱里がオレを見下ろしていた。
「やっと起きた」
「なんで朱里がいるんだ?」
「一緒に学校に行こうと思って連絡したのに返事がないんだもの。美琴の家まで来たの。鍵空いてたわよ、不用心ね」
朱里は優等生然とした制服の着こなしでいて、駄目ねなんてあきれてみせる。
「今何時?」
「七時半過ぎ」
「やっべ、寝すぎた。朱里だけでも遅刻しないように先に」
行ってくれ、そう言おうとして立ち上がろうとするも、視界がぐわりと揺れた。何だか体が重くて、言うことを聞いてくれない。どうやらこの体の重さは、布団を敷いていないことが理由ではなかったらしい。
「ちょっと美琴⁉」
重力に叩きつけられそうになるも、朱里が体を支えてくれ、すんでのところで事なきを得る。ああ、ひどく情けない。
「ちょっと、大丈夫?」
心配そうな朱里の声。大丈夫と返そうとするも、上手く声が出ない。無理に体を起こしたのが良くなかったか。
「おでこ触るわよ」
そういって朱里は前髪をかき分け、手のひらで額に触れてくる。さっきまで外にいたであろう手は、冷たくて気持ちがいい。
「熱いわね、今日は休んだ方がいいわ。とりあえずご飯が食べれるなら食べて、食べれないなら横にならないとだめね。大丈夫?立てる?」
「悪い、手を貸してくれると助かる。またふらついたら堪らない」
「お安い御用よ」
朱里の手を取って立ち上がる。俺よりも小さくてやわらかい手。彼女にまた助けられた、借りを何度も返そうとするも、彼女は借りなんて思ってないし、第一に借りだなんて思っていないのだからどうすることも出来やしない。
「歩ける?」
「大丈夫、そんな心配するなよ」
「顔色も悪いし心配ぐらいするわよ。そういうのは元気になってから言いなさい」
呆れと心配が混じった顔でこちらを見つめる。朱里にはもっと笑っている顔が似合うはずなのだけれど、どうにも上手くいかない。
一階へとつながる階段を隔てる扉に手をかける。防音のため重く分厚い仕様になっており、よわった体には堪える。やっとの思いで開けると、冷たい風が入ってきた。
寒いのは嫌いだ。誰もそばにいない感じがするから。
心配そうにこちらを見てくる朱里と一緒に階段をあがる。階段に手すりがあってよかった。
一階に上がっても部屋は冷たいままだった。窓を開けているわけでも、断熱材に問題があるわけでもないと思うが、きっと問題があるのはこの無駄に広い部屋に自分一人しか住んでいないことなんだろうな。
「温かいカッコして寝ていないとダメね。ご飯は食べられそう?作るからちょっと待ってなさい」
「いや、朱里は早く学校行けよ。遅刻するぞ」
「いいけど、病人を一人にしておくわけにはいかないでしょ」
「だからってさ」
「ごはんを作ったら学校に行くわよ。私が嫌っていうなら、ママを呼ぶだけだけど。そうしたら、美琴は我が家に強制送還されるわね」
「朱里がいいです…」
「よろしい」
ふふんと朱里は笑ってみせた。相変わらず朱里には敵わないし、朱里はオレに甘すぎる。
「冷蔵庫開けていい?」
「ああ、好きに使ってくれ。オレは自分の部屋で横になっているから」
ナメクジが這うようにゆっくりと歩みを進める。無理をしないように、また倒れてしまったら今度は有無を言わさず朱里の家に連れて行かれるだろうから。ありがたいことだけれど、自分の子供でもないのにそれは迷惑というものだ。
それに転ぶのはひどく怖い。これもきっとしみついてしまった癖だ。
何とか部屋につくと転がり込むように布団に潜り込む。冷たい部屋の布団はちっとも暖かくはなく、外気に触れないぐらいの効力しか発揮しない。それでもじっとしていれば温かくなるのだろう。
ドアがノックされる音がした。扉越しに朱里の声がする。
「美琴、ちょっとコンビニに行ってくる。何か欲しいものはある?」
「ないよ」
「そう、わかった。熱っぽい以外に調子が悪いところはある?のどが痛いとか?」
「そういうのも特にはないかな」
「わかったわ、早く戻ってくるから」
そういった後、玄関から出て行く音がした。
ああ、そういえば今日も櫻木のところにいく約束をしていたっけ。申し訳ないと思うが、怒られるしかないのだろう。朱里に言付けを頼むにも、きっとあの二人は相性が悪い。本音を言えば、朱里にまた悲しい思いをさせてしまうのを避けたい。
だからといって櫻木に不義理をするのが許されるわけではなくて、その許しを得る方法をこの長い時間を使って考えようか。
先ほどまで寝ていたのもあってどうにも寝付けず、櫻木へのお詫びを考えていると玄関から朱里が帰ってきた音がする。家の中に誰かがいるというのは久しぶりだ。何だか家の中が寒くないのは約37度の熱源が増えたからだけではないのだろう。
ほどなくしてまた部屋がノックされる。
「美琴、入っていい?」
どうぞと返答をすると、お盆に何やらいろいろ乗っけた朱里が入ってくる。
「おかゆなら食べれるかと思って」
鼻腔をくすぐるのは梅干しの食欲を促す香り。唾液がじわっとしみだしてくるのを感じる。
「食べさせてあげようか?」
「勘弁してくれ、さすがに恥ずかしい」
「そう、残念ね」
朱里から茶碗とスプーンを受け取り、少しだけ口にする。梅干しの酸味が心地いい。
「おいしい?」
「旨い」
「それなら嬉しいわね」
十分に咀嚼し、嚥下する。朱里に見られているのは気恥ずかしく、スプーンと茶碗を交互に見つめた。数回繰り返すと茶碗の中は空になった。そういえば昨日の夜は何も食べていなかったっけ。
「食べられるなら大丈夫そうね」
「ありがとう、もう大丈夫だから早く学校に行けよ」
「そうね、二限目からは間に合いそうかな。これ、さっき買ってきた解熱剤」
お盆の上からコップに注がれた水と包装された薬を手渡される。
「じゃあ、私はもう行くけどちゃんと休んでいなさいよ。学校が終わったらまた寄るから何が欲しいものがあったら連絡よこしなさい」
「分かってるよ、行ってらっしゃい」
「ん、行ってきます」
朱里はカバンを手に取り、部屋を出て行く。廊下を歩く音、玄関を出て行く音が聞こえたあとは何も音がしない。あるのは自分の息づかいだけで、一瞬にして家の中が寒くなったような気がする。
朱里から手渡された薬をあける。最悪なことに粉薬で少しだけ憂鬱な気分になる。粉薬は喉に張り付いてしまうから嫌いだ、それに変に味が付いているのも。
口に薬を流しいれるとひどく甘い味がする。人工的な甘さで舌に残る感じがした。それをかきけすように水を飲んでもやはり喉の奥に張り付いてしまう。最初は嫌になるぐらいの甘さだったのに、次第にせき込んでしまうぐらいの苦みに変わっていた。
「もう大丈夫そうね」
手渡した体温計を見ながら朱里はつぶやいた。
37.2℃。十分すぎるほどに熱は下がっていた。きっと明日には治っていることだろう。
「朱里は心配し過ぎなんだよ。風邪をひくなんてよくあることだろ」
「よくあっちゃ困るけど、美琴一人しかいないんだから心配ぐらいもするわよ」
時間は四時半。学校が終わってから急いできたのだろう。風にあおられてか髪が少し乱れている。身だしなみにうるさい朱里らしくもない。
「冷蔵庫にゼリーとかプリンとか入れておいたから、食べたくなったら食べて」
「何からなにまで悪い。ちょっと待ってて財布取ってくるから」
「いいわよそんなの」
「ダメだろ、こういうのはちゃんとしないと」
ベッドから這い出し、カバンの中から財布を引っ張り出す。風邪薬なんかは安くない出費だし、高校生ならなおさらだ。
「いくらだった?」
「だからいいわよ」
「つべこべ言わず受け取れよ」
無理矢理に紙幣をに押し付ける。拒否していた朱里も勝てないことを悟ったのかしぶしぶ受け取った。頑固さではこちらに分がある。
「本当にいいのに」
朱里が小さな声でつぶやく。それに聞こえなかった振りをした。
「ねえ、美琴」
「なに?」
「なんで昨日、あの部屋にいたの?」
距離感をはかるように、ゆっくりと朱里の口から発せられた。こちらをそっと見つめたまま、俺の様子を窺うように。
「それは……この前凌雅と教室の掃除をさせられただろ。それであの部屋のことを思い出したんだ。掃除しないままでいるのは何だか気持ち悪いだろ?」
「私はあの部屋が嫌い。時計も窓もなくて監獄みたいじゃない。使わない部屋なら汚れたままでもいいでしょ」
「まあ、ただの気まぐれだよ。それで風邪をひいてたら世話ないけどさ」
そう笑って見せる。けれど朱里の表情はこわばったままで、うっすらと唇がわなないているのが見えた。そんな顔をさせたいわけじゃないのに、いつもうまくいかない。
「美琴は」
「うん」
「美琴はやっぱりピアノを、弾きたいんじゃないの?」
こちらの様子を盗み見るようにおずおずと問うてくる。しかし、それに対する答えはずっと前から決めていた。
「違う、オレはもうピアノはやめてしまったから」
「でも、この前ピアノを弾いてたそうじゃない」
「それは、凌雅を待っていてやることが無かったから。オレは昔ピアノを弾いていて、たまたま部屋にピアノがあった。弾いたのだってきらきら星で、そんなの別におかしなことじゃないだろ」
「そうね、たまたま弾いていただけかもしれない。でも、私は美琴にピアノをやめさせた」
「それも違う」
これに対する答えも決まっている。頑固には自信があるつもりだけど、朱里はちっとも譲ろうとしない。
「オレがピアノを辞めた理由に、もし仮に朱里に責任があったとしてもそれは要素の一つですべてじゃない」
「でも、もし私が最後の一押しを押してしまったならそれはきっと私の責任よ」
「違うだろ……そんなの」
いつだって話は平行線。頑固者と頑固者がぶつかり合ってもお互いに削れるだけ。けど、どうにか答えを出さない限り終わらせることはできない。
オレがピアノを辞めたことはオレ自身が抱えなければいけない問題で、そんなことは当然のはずなのに。
「櫻木さんが美琴にピアノを弾いてほしいってせがむのもわかる気がする。私は音楽のことはよくわからないけど、美琴のピアノが一番好きだったから。それでも苦しそうな美琴は見たくなかった」
そうだよ、ピアノなんか好きじゃなかったんだ。弾くしかなくて、弾く以外に自分を証明する方法なんかなかったんだから。
望んでそうなったわけじゃない、ただそう望まれてしまったから。だから望まれた自分をやめることぐらいは自分で望まなければならない。
「朱里のせいなんかじゃない」
「美琴は優しいからそういうことを言うのよ」
朱里はふふっと相貌を崩す。
違う、そうじゃない。オレは卑怯者だ。そんなことを口にしたところで何も変わりはしない。
「そろそろ帰るわ、病人に無理をさせちゃいけないもの。冷蔵庫に食べられそうなものを入れておいたから、夕ご飯か朝ごはんにでも食べてちょうだい」
荷物をまとめ、上着を羽織ると部屋から出て行こうとする。見送りに出ようと布団から出ようとすると、そのままでいいわと止められてしまった。
「美琴、ごめんなさいね」
朱里は申し訳なさそうに、悲しそうに必要のない言葉を言い残して出て行った。
「なんで……謝るんだよ」
どうしようもない思いを壁に叩きつけようとするも、振り上げた手を壁に向かって振り下ろすことはできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます