第2話


 部活動に所属していないと、放課後というのは思っているよりも長いことに驚く。もっとなんだってできるような気がしていたけれど、夏休みと同じで特に何かを成し遂げるようなことはできていない。怠惰で代り映えのしない退屈な日常が過ぎていく。

 三人で帰るのは凌雅の部活がない時だけ。簡単に言えば週に一度。それ以外の日は駅前をぶらついたり、学校で思い立ったかのように教科書を開いてみたり、グラウンドを眺めていたりと特に有用なことはできていない。

それでも音のないあの家に帰るよりかはいくらかましだった。音がないと自分がどこにいるか分からないような感じがする、許されるのであるなら隅にうずくまって泣いてしまいたいと思うほどに。

 だからというわけではないが、いつの間にかあの旧校舎の隅の教室に足が向けられていた。あそこは少し寂しい感じがするけれど、居心地は悪くなかった。窓の外からは様々な音が聞こえてくるし、何よりピアノがあった。まあ、弾く予定はないのだけれど。職員室で忘れ物をしたんだと適当な言い訳をして鍵を借り、鍵をもて遊びながら廊下を進んでいく。

 グラウンドの方の声が聞こえてくるが、旧校舎の中は静かなものだった。ただそれも目的の教室に着くまで。近づくにつれ、ピアノの音が大きくなっていった。どうやら先客がいるらしい。

 優しく、楽しいピアノの音色だった。思わず笑ってしまうような、そばで笑いかけてくれるような優しさがあった。ただそこにはどこか悲しみがあるような気がした。優しさは、悲しみから遠ざけたいと願うものであるから。

 目の前に扉があるが、あけるのを躊躇してしまう。果たして開けてもいいものなのか、ただそれでも隔てるものが無い状態で聞きたいと思った。

 きしんだ音をたてながら扉を開く。ピアノを弾いているのは先週会った変な女、櫻木奏だったか。彼女はうっすらと微笑みを浮かべながら、音を紡いでいた。

 彼女はオレが部屋に入ってきていることに気付いていないようで、こちらに目もくれずピアノを弾き続ける。彼女がピアノを弾いている姿はどこか神秘的で、宗教画のような不思議な魅力があった。

よどみなく動き続ける指先にどうしようもなく目が行ってしまう。白魚のような細くて、たおやかな指。しかしそれは、見るためのものではない。力強さを感じさせるピアニストの指だった。

ようやくピアノを弾くのを辞めたところで彼女に声をかけた。


「こういう時は、ブラバーというのが正しいんだっけ?」

「うわ、びっくりした。あなたはこの前ピアノ弾いてた人?奇遇だ」


 彼女は少しばかり驚いた表情を浮かべたが、こちらが誰だかわかると表情を緩めた。


「そう。とてもよかったよ、ピアノ」

「ありがと。調律し終わったばかりだから、きっといい音が鳴ってる。けど、今度はあなたが私のピアノを聞くんだ。この前と逆だ、ふふ、おもしろ」


 口元に手をあて、くすくすと笑った。


「ええと、きみの名前を教えてもらってもいい?私は櫻木奏、名前ぐらいは知っているかもしれない」

「最近知ったところだよ。オレは……高野、高野美琴」

「漢字は?」

「え?」

「漢字はどう書くの?」

「高い低いの高いに野原の野。それで……美しい琴で美琴」


 オレが名乗ると、櫻木は「みこと、美琴」と口に出し始めた。知り合ったばかりの相手に下の名前で呼ばれるのはひどく気恥ずかしい。ただ、オレの中で渦巻くのは気恥ずかしさだけではなかった。


「美琴、すごくいい名前だ。ねえ、今度は美琴がなんか弾いてみてよ。好きな曲でいいからさ」

「なあ、名前で呼ぶのはやめてくれないか」

「なんで、嫌だった?馴れ馴れしすぎた?」

「それも少しはあるけど、名前で呼ばれるのは、すごく苦手なんだ」


 正確に言えば、響きではなく字面が。名前というのは呪いだ。櫻木奏、目の前にいる少女にも同種の呪いがかけられていると思うと少しばかり同情的な気分にもなる。


「ふーん、そうなんだ。ねえ美琴」

「だからやめろって」

「いい名前だと思うよ。ほんとに」

「そう」

「そうだよ。美琴、この部屋前よりも綺麗になっていると思うんだけど、何か知ってたりする?」

「だから名前で呼ぶな。オレともう一人の男が掃除したんだよ」

「何か使う予定だった?それならまずいことしちゃったかな」

「遅刻の罰だったから何も問題ないはず」

「そう良かった。一人でピアノ弾けるところってここぐらいにしかなくてさ。先生に言ったらここの鍵を渡されたから」


 職員室にここの鍵があったのは、櫻木に専用の鍵を与えたからだろうか。彼女の才覚とやらを鑑みてみれば、平等に扱うことすら差別してしまうようなものなのかもしれない。能力に優劣を付けるのであれば、待遇も同様に扱われるのは当然で。


「美琴もこの教室使っていいよ。ピアノを弾くなら私がいるときにしてくれると嬉しいな」

「使わないよ。それにピアノは弾かない」

「別にへたっぴでも構わないよ」

「もう、ピアノはやめたから」


 だから、弾かない。簡単な答え。

 理由なんてそれだけで十分で、それ以上は必要ないはずで。


「この前は弾いてたじゃん」

「魔が差しただけだよ」

「なら、今度があるかもしれない」

「ないかもしれない」


 ピアノを戯れにひくことはあるかもしれない。でも、人の前で弾くことはないだろう。この前が偶然だったのだ。


「なんで君はそんなオレにこだわる?」

「なんでって、美琴のピアノがいいなって思ったから。それだけ」

「じゃあ、他の音楽科の連中でも、プロの演奏家でも当たってくれ」


 努めて突き放した声色を出す。才能は正しく使われるものだ。オレにかまっているのは当然、時間の無駄になるわけで。

 なぜ彼女に話しかけてしまったのか、そのまま扉から出て行けばよかったじゃないか。扉を開けることもしなくてよかったはずだ。失敗はいっぱいあって、今日は何から何まで間違っているようなそんな気がする。


「邪魔して悪かった、じゃあ」


 櫻木に背を向け、教室から出て行く。何かしゃべっているようだったが、ドアの向こうの声は正しく俺に伝わることはなかった。

 翌朝、朱里が一緒に学校に行こうというので、少しばかり早起きして彼女の家に向かった。玄関の前で髪をいじりながら待っており、「おはよう」と声をかけると「おはよ」とほほ笑んだ。

 以前一緒に帰った時は少しだけぎくしゃくしてしまったので、朱里が声をかけてくれたのは素直に嬉しかった。朱里いわく、仲直りのコツは早く謝ってしまうことらしい。ただこれには問題があって、簡単に謝ってはいけないことも許してはいけないことも人間関係においては非常に大事なものになるらしい。なぜならそれが人の根幹をなす場合が多いから。それを伝えずなあなあで付き合っていくのは少し寂しいことかもしれない。今回に限っては、オレが悪いのだけど。

 学校への道すがら話題はもうすぐ始まる学園祭に移っていた。


「美琴のクラスでは、何やるか決まった?」

「なんか屋台を出すとか。飲食系は色々と準備がめんどそうだ」

「いいじゃない、学園祭っぽくて」

「朱里のとこは?」

「焼きそばかクレープでもめてる。焼きそばなら男子が調理、女子が店員。クレープならその逆って感じ」

「店員は逆の方がいいんじゃないか?」

「私はどっちでもいいし、早く決めて欲しいかな」


 少し疲れたように朱里はため息をこぼした。まあ、こういうクラスでなにか決めることは、上手く決まらないというのが様式美ではあるのだけれど。

 話しているうちに学校に近づいており、ジャージ姿の体育教師に適当にあいさつを交わして学校の門をくぐった。


「あ、美琴だ」


 何やら声が聞こえたが、オレのことを名前で呼ぶのは朱里と凌雅をおいて他にはいないはずで、だからこれは何かの幻聴のはずだ。


「おーい、無視すんなー」

「美琴、なんか呼ばれてない?」

「いや、そんなはずは」

「美琴、おはよ」


 眼前にいるはわが校きっての有名人、櫻木奏がふわりとほほ笑んだ。。


「なんでここにいるんだ、君は」

「なぜってここの生徒だから?ねえ、美琴。一限目まで時間あるでしょ?何か弾いてよ」

「だから、ピアノは弾かないって。あと名前で呼ぶな」

「そう、それは残念」


 口ではそういったものの、口元にはどこか笑みが浮かべられていて、なにやら不気味ではあった。


「ちょっと、美琴。あの子なに?」

「なにって言われても名前ぐらいしか分からない」

「それぐらい私にもわかるわよ。櫻木奏、プロに混じって演奏までしている天才ピアニストがなんであんたに馴れ馴れしくしてんの?」


 わかんないんだよな、これが。分かったら苦労してない。音楽科なら、もっと居丈高で鼻持ちならない奴でいて欲しい。朱里にはかぶりを振るのが精一杯で、刺激しないように努める。


「この子も美琴って呼んでるじゃん。私も呼んでもよくない?」

「朱里と君とじゃ関係性が違うだろう?」

「美琴、どういうことか説明しなさい」

「ねえ、美琴。何か弾いてよ」

「いや、彼女が出来たならそう言ってくれたらさ、付き合いだって考えるのに。そりゃそうよね。彼女がいるのに他の女の家でご飯を食べるなんてできないものね。別に誤魔化さなくてもいいのに」

「朱里!君は確実に良くない勘違いをしている!」

「ねえ美琴、美琴ってば」

「悪いけど君は少し黙っててくれないかなあ!」


 ああもう、ほんと、なんなんだ。


 朱里に経緯というか、何が起こっているか分からないなりに状況を伝えている間に、櫻木はどこかに行ってしまったようだった。罰として掃除をする前にピアノを弾いていたら櫻木に出会ったこと、ピアノの音に誘われるがまま教室に入ると櫻木がいたこと、なぜか懐かれピアノを弾くようにせがまれていること、隠すことなく朱里に話した。


「ふーん、そうだったの」

「だから、別に付き合っているわけじゃないって。オレもなんで櫻木に気に入られているのかわからないんだから」

「美琴のピアノが良かったからじゃないの」

「冗談言うなよ。きっと違う」

「そうかな」

「何だよ、にやにやして」

「そろそろばれちゃったかと思って」

「なにが?」

「言わない」


 朱里は意味ありげにクスッと笑った。気になるけれど、深くは追及しない、言わないことにはきっと意味があるはずだから。


「さっきは早とちりしちゃったけど、少しうれしくもあったの。美琴の助けになってくれる人がいるのはとってもいいことだもの」

「櫻木は助けてくれるって感じじゃないけどな」

「うん、そうかもしれないわね」


 そういって少しだけ寂しさが感じられる声音で笑った。

 教室に着くとクラスメイトと適当にあいさつを交わした。そのあとはホームルームがあり、授業へと移っていく。

一限目、二限目、三限目と終わっていき、四限目。これが終われば昼食だと気合を入れたもののどうやら教師の体調不良による自習のようで、気合が空回りした。そこまで勉強が好きというわけではないので構わないのだけれど。

 自習用と与えられた課題は大して多くはなく、十分ほどで片が付いた。おそらく急のことで教師も十分に対応が出来ていなかったのだろう。

 手持無沙汰を解消するようにスマートフォンを取り出す。若者のスマホ依存が騒がれているのであれば、きっといじっているほうが正しい。

 画面に映し出だされているのは検索サイト。そこに櫻木奏と打ち込んでいく。サジェストには美少女だとか天才だとか、なかなかご機嫌そうなものが現れた。ひとまず名前だけで検索をかけると数百万のヒットがある。

 そこにはインタビュー記事や大会の結果、うちの高校のホームページなどが表示された。ただどれも彼女のことを覗き見しているような気がして見る気がしなかった。

 ただそれでも彼女のピアノを聞くことぐらいは許されるだろうと、彼女の演奏動画を検索する。幸いにして大会の公式アカウントが彼女の演奏をアップしていた。

 イヤホンを取り出し一応授業中なのを加味しこっそりと聞く。そこにいた彼女は、教室で弾いていた時とは違い口は真一文字に閉じられ、真剣に、それこそ苦しそうに弾いていた。音は固く、冷たくて、それこそあの時とは全くの逆だった。つまらないと思う暇もないぐらい上手くて、さながら技術の暴力で、オレが審査員なら一番を付ける以外はできないぐらいで。でも、それでもこのピアノが好きにはなれなかった。


 周りの生徒がめいめい立ち上がり、弁当を広げていくのを見て授業が終わったことを理解する。イヤホンを外し、カバンからコンビニ袋を取り出す。おにぎりと野菜ジュース。種類があっという間に増えていき驚くばかりだ。


「美琴っている?」


 そこそこ騒がしいはずなのに自分の名前ははっきりと聞こえる。カクテルパーティー効果が感じられた。名前を呼んでいるのは朝と同じように櫻木奏で、教室の扉からひょっこりと顔を出していた。

 扉の近くにいた生徒がオレを呼ぶ。櫻木は有名人のようでオレに視線が集められる

のが感じられた。さっきまで騒がしかった教室は少しだけ静かになる。


「何の用?」

「なんか、朝に友達怒らせちゃったみたいで。謝ろうと思って、ごめんね」

 櫻木は申し訳なさそうに頭を下げた。伏せられたまつげが庇護欲を誘う。

「そう、別に朱里も怒っていたわけじゃない。気にしないでいい」


 これで用件は終わっただろうと彼女に背を向けると、服を引っ張られている感触があった。思わず体をよじって顔を彼女の方に向ける。


「何だよ」

「ピアノ弾いてくれないかなって」

「だから弾かないって」


 視線を正面に戻せばクラス中の関心を集めていたようで、顔が赤くなっていくのを感じる。どうにも人の視線は嫌いだ。

 諦めるように、大きくため息を一つ吐いた。


「わかったから、せめて場所を移してくれないか。ここだと目立って仕方がない」

「うん、わかった」


 櫻木はオレの服を引っ張るようにして、場所の移動をはかる。


「逃げたりしないから、手を放してくれ」


 手を放された後、彼女の後ろ、二歩分の距離を保ち彼女についていくことにする。櫻木はオレに気にすることなく、淡々と歩みを進めていく。曲がり角で簡単にまいてしまえそうではあったが、きっとまた教室に来るんだろうと思うと実行する気にはなれなかった。


「そういえば、オレのクラスは誰かから聞いたのか?」

「違うよ、一つ一つ見て回った。美琴、音楽科じゃないから手間どっちゃった」


 ということは、一々オレがいないかと聞いて回ったのか。まったく何なんだと、こめかみを押さえた。


「美琴?」

「名前で呼ぶなって。だから言っただろ、ピアノはやめたんだって」

「うん、聞いた」


 それがどうしたといわんばかりに、返答する。意に帰さず、まるで関係ないと。


「入って」


 櫻木が招いたのは、旧校舎のあの教室。以前は強く感じられたほこりっぽさも、寂しさもとても薄れていた。きっと櫻木が使っているからだろう。

 人は滅多に来ないので、内緒話をするには都合がいい。やや遠いのが難点だけど。

 櫻木はピアノ前にある椅子に腰かけ、オレは地べたに座り込んだ。


「ここは鍵がいるんじゃなかったのか?」

「大事なものは無いし、ピアノも動かしようもないから別にいいって」

「そうか。じゃあ、本題に入ろう」

「ピアノ弾いてくれるんじゃないの?」

「弾かないよ。何度も言ってる。どうしたら付きまとうのをやめてくれるか教えて欲しいんだ」

「美琴がピアノを弾いてくれたら?」

「それ以外」

「ないかも」


 櫻木はくすっと笑って、オレはまたため息をこぼした。


「音楽科にも上手いやつがいるだろう?」

「いないよ、ほとんどが下手くそで、ほんの少しだけちょっぴり下手くそがいるぐらい」

「そりゃ君と比べればそうだろう」

「かもね、それに私はあの人たちにあまりよく思われていないみたいだから」


 櫻木は少しだけ遠い目で寂しそうに言った。

 嫉妬、かな。オレが思いつくのはそれぐらいで、でもはっきりとイメージすることができた。櫻木からしてみれば、他の人が下手くそなのは純然たる事実で、別に馬鹿にしているわけではない。それでも他の人間からしてみればいい気はしないのは当然だ。

 けれど一番は目の上のたんこぶの存在を認識させられ続けるのが一番つらいのだろう。音楽科の連中もそれなりに腕を鳴らしてきたはずで、それなのに常に二番以下に甘んじさせられる。たとえ一番であったとしても、それは櫻木がいないからだなんて注釈が付く。たとえ他の楽器であったとしても、この学校においては櫻木の添え物扱いは避けようがなく、自らの輝きを放つためには櫻木と並び立つことが最低条件だ。それはきっとひどく酷なことだ。


「私には、ピアノしかないから。よく、わかんないや」


 ぽつりとそんな言葉が櫻木の口からこぼれていた。

 何でそんな寂しそうな、申し訳なさそうな顔をするんだよ。違うだろ、君のピアノはもっと自信をもって誇るべきものだろ。さっき聞いたばかりのオレにだってわかる、ピアノしかなんてそんな風に言っていいものじゃない。

 けれどなんでそのような物言いをしたのかもわかってしまう。

 人と繋がる術はピアノしかなくて、けれどピアノを弾けば弾くほど人が離れてしまう。そんな寂しさがあることは嫌でもわかってしまう。

 一人は寂しい。そんなことは自明のはずなのに、寂しいことが分かっていないのはひどく痛々しくて悲しいことで。

 同情なんかじゃなくて、それはきっと櫻木を貶める行為で。だからこれはオレの独善的な独りよがり。与えられたものがあるのなら、それは誰かに返さねばならないという責任があるはずで。


「君は放課後何してるんだ?」


 言葉を推敲する前に思わず口をついてしまった。ならばもう行くところまで行くまでだ。


「ん?放課後ならここでピアノを弾いているけど」

「じゃあ、放課後ここに来るよ」

「なに?弾いてくれるの⁉」

「いや、弾かない。けど、弾いている君を見ていたらピアノを弾きたくなってしまうかもしれない」

「ふふ、なにそれ」

「オレにピアノを弾かせたいならきっとそれが一番だと思う」

「じゃあ、それで許したげる」

「なんで君が偉そうなんだよ」


 そう言って苦笑する。

 話は終わりとばかりに昼休み終了のチャイムが鳴った。早くいかないと午後の授業に間に合わなくなる。

 あーあ、昼食食べ損ねてしまったな。


 放課後になった。カバンを背負い、旧校舎の方に向かう。

 陽光は穏やかだが、少しだけ風が冷たい。冬の訪れを感じる。

 寒いのは嫌いだ。かじかんで手が上手く動かないから。なんて、もう言い訳にもならないはずなのだけれど、嫌いということだけが残っている。

 教室の扉を開ける。櫻木が言ったように教室にはほとんどのものが無くなっていた。この教室を開放するため、あるのはピアノと一人だと少し大きいぐらいのイスが一つ。机や椅子は他の教室に移動させられたらしい。


「お、ちゃんと来た」


 ピアノ前に位置どっている櫻木はこちらに向き直り笑顔を向けてくる。


「ああ、だから教室まで来るのは勘弁してくれ。目立つのはあんまり得意じゃないんだ」

「うん、わかった。約束はできないけど」

「おい」

「けど、善処する」


 それで許してと言わんばかりにニヤッとほほをゆるめた。


「じゃあ、美琴がいるから張り切っちゃおうかな」

「だから、名前で呼ぶなって」


 オレの言葉が届いたかは分からない。それほどまでに彼女の集中力はすさまじいものだった。深い水中に潜りこんでいるようで、呼吸の音をたてるのですら憚られる。

ああ、これはつらいなと思った。自分と全くの別の人種が隣にいるのは辛いことだ。なぜ彼女にできて自分にできないのか、そんな自問自答を繰り返す。負けを認めてしまったら、もう一度立ち上がることは極めて困難だ。

 だから、抗う。自分を嫌いにならないために。土台彼女と仲良くするなんて無理な事だろう。それは負けを認めてしまうことと同義であるのだから。

 まだ、敵対されているぶんマシか。彼女からしてみれば堪ったものではないだろうけど、天才だとか才能だとかそんな陳腐なものでコーティングされるよりましなはずだ。自分の手から離れた何かのせいにされて、決して自分を見られることはない。それは自分を見ていないことと同じで、彼らの世界には自分はいないことになってしまう。ならば、存在証明を自分一人でしなければならない。それは辛く苦しいことだ。

 櫻木が弾いていたのはシューベルトの「さすらい人幻想曲」。プロの演奏家だって困難といわれる曲の一つだ。指の動きが困難なのはもちろんのこと高い表現力を求められる。作曲者のシューベルトでさえうまく弾くことが出来ず、「こんな曲は悪魔にでも弾かせてしまえ」と切れたという逸話があるくらいで、この曲を弾ける高校生が世に何人いることだろうか。

 演奏は途切れることなく、約二十分続いた。その間オレは息をひそめて、音の響きに身を任せていた。


「どうだ!」


 櫻木はしたり顔でこちらに振り返った。


「上手いとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった」

「でしょ?じゃあもっと弾いちゃおうかな」


 そこから一時間ほど彼女の演奏は続いた。独り占めするのが申し訳ないほどに贅沢な演奏会だった。

 日が短くなっていくのは何だか寂しいもので、例外に漏れず今年も夜が長くなってきていた。櫻木の演奏が終わった時には辺りは群青色に染まっており、旧校舎の中はこの部屋を除いて非常灯が唯一の明かりに変わっていた。


「どう、美琴。弾きたくなった?」

「名前で呼ぶなよ。やっぱり、ピアノは聞いているほうが好きだな」

「ダメじゃん」

「まあ、弾くとは言ってないからノーカンだろ」

「ひょっとして私、騙されてる?」

「君が勝手に勘違いしているだけだ。オレは君に付きまとわれない、君はオレのピアノが聞けるかもしれない。ウィンウィンだ」

「……そうかな?そうかも?」


 バカだこいつ。けど、バカで助かった。


「そろそろ帰る?もう暗いし」

「そうしようかな」


 教室の電気を消すと火災警報とか非常扉の明かりぐらいしかなくなってしまって一瞬にして真っ暗になる。暗い教室は何だか不気味だ。明るい時しか知らないのが普通だから、そのギャップなのかなと思ったり。あと廊下がやけに音が響くのがいけない。


「なんか怖くない?」

「君は暗いところは嫌いか?」

「好きな人はいないんじゃない?美琴は?」

「暗いのは嫌いだな」


 誰もいない家を思い出すから。家に誰かがいて欲しいわけではないけど、誰かがいたという残り香は少しだけ恋しい。


「美琴の家はどっちのほう?」

「正門から出て、山あいの方に真っすぐ。30分ぐらいかな」

「じゃあ、私と逆方向だ」


 人のいない静かな廊下をひたひたと歩いていく。まったく何も見えないというわけではないけど、階段は少しだけ慎重になる。

 連れ立って歩いてはいるものの、朱里と歩くのと違ってどうにも勝手が悪い。彼女のことは何も知らないから、歩幅など知る由もない。


「ねえ美琴」

「何だ」

「明日も来る?」

「教室まで呼びに来られたら敵わないからな」

「そっか、それなら嬉しいな」


 そういって笑う櫻木は何だかひどく痛々しかった。


 それから旧校舎を出たところで櫻木とは別れた。 

 ピアノは一人で弾くものだけれど、一人で弾いているのは意味がないとは誰の言葉だっけ。ああ、あの人か。本当にくそったれだ。

 運動部も部活が終わったようで、そこそこ人の行きかいが見られる。音楽科が有名なうちの学校だけれど、体育系の部活動も力が入っている。甲子園常連校の吹奏楽部が大抵有名なのと同じ理屈か。そのおかげか、うちの学校は全国から志望者が多く集まっている。


「美琴、今帰りか」

「凌雅」


 凌雅は「ちょっと待ってくれ」と二ッと笑うと、こちらへ向かってきた。


「今日は遅かったんだな」

「まあ、用事があってね」

「そうか」

「なあ、凌雅。質問があるんだけど」

「いいぜ、何でも言えよ」

「優れた能力を持つ人間がいたとして、それに対する嫉妬なんかはどうしたら防げると思う?」

「櫻木奏か?」


 フッと凌雅が笑う。


「わかる?」

「まあ、うちの学校での嫉妬の対象といえば櫻木だろ。ネタばらしをすれば、櫻木が美琴を探しに俺のクラスまで来たからな。きっとなんかあったんだろうなって」

「全く。まあ、ひとまず話を戻そうか」

「そうだな。簡単なのは与えることだ。上達のコツなんかを上手いこと教えてやる。人間、優しくされた相手は邪険には扱えないもんよ」

「じゃあ、それが与えることのできないものはどうしたらいいだろう。そうだな、あまり好きな言い方ではないけど、才能とか」

「じゃあ、身内になるか、手が届かないぐらい離れるかの二択だろうな」

「つまり?」

「俺は美琴がどんなに才能に満ち溢れていて、どんな成功を収めようが羨んだりせずに喜べる。近いからこそ、自分と美琴は違うということを知っているからな。もう一つはプロの人たちを思い浮かべればいい。馬鹿みたいな年俸をもらっている野球選手には嫉妬のしようがないだろ?日本人が成し遂げたことのないことを世界の舞台で成し遂げたなんて物語性があるとなおいいな。人間、生まれが同じだけで親近感を覚えるし、誰だって自分はすごい、自分たちはすごいって思いたいものだろ」


 凌雅の言いたいことは理解できる。そんな難しいことじゃあない。けれど、櫻木には当てはまりそうではない。この学校で最も櫻木に近いのは櫻木に嫉妬している生徒で、関係性を良好にするのは今からでは難しいだろう。なまじっか距離が近いぶん新たに距離を取るのは困難だ。


「嫉妬をしないっていうのはきっと無理な事なんだ。それはきっと諦めと同義であるから。自分と相手は違うことを認めてしまうことだから」

「美琴?」

「多分、嫉妬がどうとかじゃないんだ。矜持とか誇りとかそういうものを守るためな

んだ」

「勝手に納得するなよ」


 あきれ顔で凌雅は言う。よくない癖だ、人に聞いておきながら勝手に納得してしまうのは。


「嫉妬も勝手にすればいい。けど櫻木にピアノしかないなんて言わせるのが気に食わない」


 うまく言葉にならない。言いたいのは、出る杭は打たれるなんてニヒルに気取って見せるなんてことじゃなくて。それは当然気に入らないことで、でもコンプレックスを刺激されたままでは生きていくのも辛くて。

 ああ、コンプレックスか。櫻木、彼女を見ているとひどくコンプレックスを刺激される。やたらピアノが上手いのも、一人で孤立していることも、ピアノが好きでたまらないというようなところも、そのすべてが見ていて苦しい。


「櫻木を見ているとひどく苛立つ」

「お、恋か?」

「バカ言えよ。そんなんじゃない。そんなんじゃない、けど」

「けど?」

「なぜ誰も彼女に寄り添わなかったんだと後になって言うぐらいなら、いま関わっておかなければ誰にもその権利はないんだよ」

「やっぱ恋だろ」


 バカと鼻で笑いながら、凌雅の肩にパンチをくれてやる。

 本当はなぜ櫻木を見ていると腹立つのかはわかっていた。ダブっていたからだ、過去の自分と。

 その後、凌雅と別れて家に帰った。家には誰もいない。熱源も光源も何一つない。電気をつけてようやく一息をついた。

荷物を下ろし、洗面所に向かう。かじかんだ手を溶かすようにゆっくりとお湯で温めていく。ゆっくりと丁寧に、寒いのは嫌いだから。

 

 食事もそこそこに、地下にある部屋に向かう。地下にあるだけあって部屋の中の温度はそこまで低くない。防音室というのもあって気密性が高いのも影響しているのだろう。

 鼻につくのはほこりの匂い。鼻の奥の方がムズムズするような感じがひどく不快にさせる。

 この部屋に来るのは4年ぶりぐらいか。掃除も父さんに任せてしまっていたから本当に久しぶり。掃除といったって年末の掃除ぐらいなもんだから、ずいぶんとほこりが溜まっている。


 部屋の中は記憶の頃と変わらず殺風景なままだった。地下にあるため窓はなく、時計だってかかってやしない。それだけに中央に位置しているグランドピアノが視線をいやでも集める。

 ピアノのまわりはやけに綺麗なままだった。父さんがこまめにやっているのだろう。さすがに部屋全てをやる気力はないようだけど。

 ちゃんと整えてやらないと可哀そうだろう?それが調律師の父さんの口癖だった。父さんがピアノの調律をするのをよく眺めていた。それもいつしか見ないようになってしまったけれど。


「最近は掃除をしてばっかりだ」


なんて、そんな言葉が思わずこぼれ出た。誰もいない部屋ではやけに音が響いた。

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